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「舞台芸術の現在」

「舞台芸術の現在」(渡辺守章/放送大学教育振興会)絶版

→歌舞伎を観にいく前日に予習として読んだ本。
演劇全般に興味がある。劇的行為なるものの本質を見極めたいと思っている。
だが、和洋の演劇を同一視野のもとに論じる書物は少ない。
本書には期待していたけれど、渡辺守章が日本語障害者だったことを忘れていた。
放送大学教材なんだから著者はわかりやすい説明を目指さなければならない。
ところが、これは渡辺守章がナイフで脅されてもやろうとしないことである。
なんのことはない、実のところは、できないに過ぎぬ。
渡辺守章は日本語に障害があって、わかりやすい文章を書けないよう生まれついている。
どんな簡単な事実でも、この男に書かせると意味不明かつ一見難解なものに仕上がる。
才能といえば才能だが、知能障害ともいいうる。
著者は人間において才能(長所)と障害(短所)が紙一重であることを示すいいサンプルである。

演劇はショーかドラマかに大別される。
身体を重んじるショーと物語を必要とするドラマのふたつである。
前者を拡大解釈すると、サーカスのようなものまで演劇の仲間に加えることが可能だ。
たとえば、こんな単純なことを、著者はひどく難解に論述するわけである。
それから渡辺守章のあらすじ紹介の下手ぶりはほとんど神々しい。
書物の性質上、戯曲のあらすじを紹介しなければならない場面がいくつかあるのだが、
まったく説明できていない。日本語の訓練をいっさい積んでこなかったことがよくわかる。
読者になにかを伝えようという意志が渡辺守章にはないのである。
なら、なんのためにこの男は文章を書くのか。ひとりよがるためである。
マスターベーションである。
この年代は少年期に自慰は悪徳だと教えられたはずだが、忘れてしまったのだろうか。
自慰ばかりしてると頭が悪くなるぞ。
いまから渡辺老人のオナニーをみなさまへご覧に入れる。
決して気持のいいものではないから、勇気のないかたはここから先を読まないでください。

渡辺守章は「リア王」上演の説明をしている。

「ところで狂気は、身体のレベルで表象されなければ、演劇的な事件とはならない」(P138)

なにを言いたいのかさっぱりわからないでしょう。
実は極めて簡単なことである。
「精神の狂気は、役者が肉体で演じないと観客には伝わらない」
ふたつの文章を比べてください。
渡辺守章のこけおどしがよくわかると思う。

もっと醜悪な自慰文章をお見せしなければならない。
渡辺老人はオナニーを身体のレベルで表象する。

「いずれにせよ、身体を戦略的な場として開かれた断絶の体験は、
どのような演劇作業であれ、
今やそれを己れのプログラムに組み込まなければならないような、
そうした不可避の要請なのである」(P72)


射精を終えた渡辺守章の満足気な顔が目に浮かぶようである(キモ~い)。
本人は決まったと思っていそうで、たいへん笑える箇所でもある。
わかりやすく言い換えてみよう。
「あらゆる演劇で身体の重要性、つまりショー的要素が見直されなければならない」
戯曲には表われない役者の肉体を重視しようね、ということだ。
「戦略的な場」や「開かれた断絶」といった言葉をかっこいいと思った、
オナニー大好き少年……いや老人の駄文である。
渡辺守章の文章は断じて難解ではない。未熟なだけである。
本書もこうして丁寧に意味を取っていくと、それほどたいしたことを論じているわけではない。

笑えるのは文楽(人形浄瑠璃)についての文章である(P161)。
ロマン・バルトが文楽について論じたものがあるという。
渡辺守章は無批判にロマン・バルトに土下座する。
渡辺老人にとっては、欧米人様が日本について論じたものはすべて正しいのである。
生年を調べたらちょうどギブミーチョコレートで進駐軍からほどこしを受けた世代だ。
渡辺守章はチョコレートをかじりながらオナニー三昧だった少年期が忘れられないのだろう。
自慰少年を身体のレベルで表象する渡辺守章の古びた男根は、
戦略的な場として開かれた断絶に侵入する――。

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