「こんどは俺の番だ」

「こんどは俺の番だ」(井上靖/文春文庫)絶版

→昭和31年に雑誌連載された中間小説。
嫉妬が物語をすすめる筋立てになっている。
三十路の会社員、雲野八一郎は売れない映画女優の十津川光子に恋をしている。
女優はまだ二十歳(はたち)を超えたばかり。
小説の冒頭、雲野は4階のビルによじのぼる。
光子につきまとっているゴロツキと賭けをしたのである。
もし成功したら光子と今後一切縁を切るという約束だ。
雲野青年は命からがらビル登攀(とうはん)に成功する。

雲野は自分ひとりだけが女優・光子の才能を理解していると思っている。
がために光子と関係のある男に嫉妬するのである。
いや、嫉妬なのだが、本人は嫉妬と気がついていない。
ゴロツキは光子のもとから去った。
ところが、もうひとり光子の心から信頼している男性がいるという。
光子がなかなか男の素性を言おうとしないので雲野はいらだつ。
とうとう光子は口を開いたのだが、とんでもないエピソードまでついてきた。

「言ってしまおうかな」
と(光子は)独り言のように言った。
その表情が雲野には類いなく美しいものに見えた。
「言えよ」
「じゃ、言うわ。あのね、その人とずっと前に一回だけあったの」
「あったって!?」
そう言ってから、その言葉の意味に気付くと、
雲野は急に顔をくしゃくしゃに歪めて、ごくんと生唾を飲んだ。
「それじゃ、なんでもなくはないじゃないか」
思わず大声を出して言った。喉がかさかさに乾いていた」(P58)


相手は四十過ぎの会社社長であった。雲野は三十ちょいの平社員である。
年寄りにだまされて、この若い肉体がもてあそばれたのか!
燃えるような嫉妬に雲野は苦しめられる。
かの主人公がヒロインへの恋愛感情を明確に意識したのはこのときであろう。

「ビア・ホールへ行こう」
雲野は腹を立てて言った。今夜の光子のどの言葉も、雲野には気に入らなかった。
併(しか)し、厄介なことに、今までのいかなる時の光子よりも、
今夜の十津川光子が、彼には魅力的に見えていた」(P62)


雲野は社長のもとを訪問する。もう光子と逢ってくれるなと通告するためである。
どんな悪漢かと思ったら、社長はじつに気持のいい一本気な男だった。
雲野にとっては、運が良いのか悪いのか、社長は会社が倒産して一文なしになっていた。
そのうえ自殺を考えているという。
こちらも負けず人のよい雲野は社長に、自分の姉の嫁ぎ先で静養しないかとすすめる。
とんだ顛末(てんまつ)になったわけである。

これでもう光子のまわりに男はいなくなったのか。雲野は問いただす。
だが、まだ男友達が複数いるという。嫉妬した雲野はその人物に逢いに行く。
そのたびにどうしてか気のいい雲野は恋敵の援助をする羽目におちいってしまう。
立場が入れ替わる瞬間が登場する。
光子の男友達のひとりに妹がいた。
この妹の手助けをなにやかにやと雲野はしてやっていた。
その現場を光子は目撃してしまうのである。
嫉妬した光子が雲野に当たり散らす。
いな、光子は自分が嫉妬していることに気づいていない。
むろん、雲野もおなじこと。どうして光子からこんな理不尽な対応をされるのかわからない。
ふたりは年末に別れてしまう。

両者ともに相手と逢いたくてたまらないが、なんとかこらえようとする。
光子の言い分はこうである。あやまれ! つきあってくださいと低頭せよ!
雲野は冗談じゃないと思う。光子のほうから前非を悔いるべきである。
雲野は金輪際、光子と逢うまいと誓うが、みずからその誓いを破ってしまう。
おのれへ罰をくださなけれなばらないと思った雲野はふたたびビル登攀を企てる。
深夜の危険な冒険である。そこに光子が現われる。
雲野の友人に、またビルに登ろうとしていることを教えられたのである。
光子は雲野の胸に飛び込んでゆく。烈しい力でつかんで離さない。
雲野はこれならビルに登るほうがまだ楽かもしれないと思う――。

好人物しか登場しない井上靖の青春小説の魅力を堪能した。
小旅行の際、持って行くなら井上靖の中間小説に限る。
恋愛不感症のわたしがこんかい井上靖の恋愛小説から学んだこと。
だれかを愛するとは嫉妬することなのだと思う。
そして、いま哀しくも嫉妬を感じるような異性はいない。
いい年をして断わるまでもないが、
女優の誰某(だれそれ)の醜聞を聞いたところでいささかも嫉妬は起きぬ。
ぜひぜひ嫉妬したいと思う。嫉妬したときほど異性が美しく見えるときはないのだから。

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