FC2ブログ

「大海のほとり」

「大海のほとり」(ストリントベルク/斎藤晌訳/岩波文庫)品切れ

→とある孤島に配属された漁業検察官のボルクがなにものかに亡ぼされる物語である。
ボルクは博学でなおかつ頭脳明晰の極めて優秀な30歳の男。
ただし飛びぬけた知力をもつこの男は、少年時代からだれにも理解されなかった。
むしろ、嫉妬され迫害されてきたといったほうがよい。
このため、かれのような賢人が辺鄙な片田舎に派遣されるにいたったわけである。
漁業検察官の仕事は、現地で環境を調査をして漁獲高を増加させること。
ボルクは赴任直後に自分が地元の漁民・農民から敵視されていることを知る。
無知蒙昧な田舎の人間は、このように考える。

「(ボルクのような人間は)白痴(こけ)で人民の敵だあ、
彼奴等は分別のある漁夫より物が分ると思つてやがる!
長椅子に横になつて本を読んでゐて二千クローネンも金をとつている野郎共が!
洟垂れ小僧の癖に親爺に物を教へようつて太え了見でえ!」(P84)


これは現代の日本でも見られる現象である。
みなさまもテレビでいかにも学のなさそうな赤ら顔の第一次産業従事者が、
得意気に政治(=公務員、政治家)を批判しているのをご覧になったことがあると思う。
秀才のボルクはむろん無学な田舎者たちの反応は予想していたものの、
こうまで冷遇されるとは思っていなかった。
書物でえた知識をもとにボルクは漁民や農民に助言をする。
ボルクの言うようにすればかならず収益は上がるのである。
けれども、無知蒙昧な民衆は現場を知らないインテリを嘲笑し、
まったくボルクの提言を聞き入れようとはしない。
ボルクにしてみれば、まるで敵に全方位から包囲されているようなものである。
このへんの被害妄想的な描写は、この作品を執筆した数年後、
作者ストリンドベリが精神分裂病を発症したことを考えると興味深い。
漁業検察官ボルクは、ある結論に到達する。

「賤民は威嚇しなければならない!」(P85)

漁業検察官と賤民との対立の構図が明らかになったのである。
インテリと下層階級は断じて理解しあうことがない。
それどころか、両者は戦争状態に置かれている。
どちらかが勝ち、ということは、どちらかが亡ぼされなければならない。
孤独者ボルクの頼みの綱は国家権力のみである。
双方のパワーバランスが崩れる瞬間が到来する。
というのも、愚かな漁民たちが禁止されている網を使用したからである。
この網を用いて漁業を継続していると、かならず近い将来に資源は枯渇する。
このため使用禁止になった。
ところが、目先の利益しか考えられない愚民にはこれがわからぬ。
現場に居あわせたボルクは網の没収を命ずるも、漁民は言うことを聞かない。
あきれたボルクが警察を呼ぼうとしたそのときである。
ボルクの手を取る「若い女」が現われる。マリア嬢である。
この離島には母と静養に来ている。ボルクと知り合ったのは数日前。
マリアは漁業検察官に懇願するのである。
自分に免じて、かわいそうな漁師さんを警察に引き渡すのはやめてほしい。

「アクセス・ボルクは振放さうとした。
そして女の大きい眼から脇を向いた。あの眼付には耐へられない。
しかし自分の手がだんだんときつく握りしめられて、
結局には柔らかい胸へ推しつけられるのを感じた。
悩ましげな調子の声を聞いた。
彼はすつかり征服されて、美人に向かつて囁いた。
『放して下さい、私は事件を打切りませう。』」(P106)


ここに漁業検察官ボルクの敗北が決定したわけである。
このやりとりは多数の賤民に目撃されてしまった。
美人のひと言で前言をひるがえす役人の権威など地に落ちたも同然である。
では、ボルクはなにに負けたのか。引用文をよくご覧ください。
智者ボルクはマリアの「柔らかい胸」に負けたのである。
いっぽうで勝利したマリアは以後、賤民どもから女神のようにあがめられる。
これからの物語は、ボルクとマリアの戦争が中心となる。
ストリンドベリは美しい恋愛など決して描かない。
男女間のあらゆる交流は支配するか支配されるかの闘争である。
少し長いがボルクの女性観を引用する。
これは女性嫌悪者として名高いストリンドベリその人の思想でもあろうから。

「今まで女に対して恋愛や牽引を感じたことは少くない。
しかし女子といへば男子と小児との中間形式であつて
男子はこれに優越すると云ふ彼の定まつた意識があつた。
だからいつもさう云ふ物の見方を隠してゐることは不可能になる。
それで彼の関係は極めて継続の短いものであつた。
彼を強者として仰ぎ見るやうな女に愛せられたかつた。
自分が尊敬せられたかつた。尊敬したくはなかつた。
弱い芽枝が接木される台木たることを欲した。
しかし彼は幸か不幸か女性が伝染的誇大妄想狂に
犯されてゐる精神の疫病時代に生れ合せた。
蓋し群集の投票を要する野呂間政治家や堕落した病的な男共が
その誇大妄想狂を作り出したのだ。それゆゑ、ボルクは独身でゐた。
恋愛に於て男は与へなければならない、
欺されてゐなければならない、と云ふことや、
女に近づく唯一の方法は四つん這いになることであるのを
よつく承知してゐた」(P104)


翌日、ふたりは無人の離れ小島へあいびきにおもむく。戦闘開始だ。
ボルクは女が自分より年上の34歳であること、
幾多の男性遍歴を経ていることを知る。逃げろボルク! である。
しかし美しいマリアはボルクを捕らえんと悪だくみを働かせる。
ストリンドベリは女が悪魔であることをよくよく知っていたと思われる。
悪魔ならではのこうごうしい美しさもまた!
水切りで遊んだのちマリアはとっぴな提案をする。

「『水を浴びませう』と不意に女は叫んだ、
あたかも長らくその考へを抱いてゐて、
もうどうしても云はずにはゐられないと云ふ風に。
ボルクには、それが冗談なのかそれともその申出は真面目なつもりか、
即ち着物をわづか着たままでゐたいとか、
一部分脱ぎたいとか云ふことをそれとは云はずに暗示したのか、
見当がつかなかつた」(P105)


水着も持ってきていないのにこの女はなにを考えているのだろう。
まさかすっぱだかになるとでもいうのか。
美女の裸体を想像するのは男子の常である。
ボルクは紳士らしく、自分はあっちへ行っていると伝える。だから、お浴びなさい。
それでもマリア嬢はいっしょに泳がないかとボルクを誘う。
冷たい水が恐ろしいのかと挑発までする。
ボルクが固辞すると、マリアは衣服を脱ぎにかかりながらこんなことを言う。

「でもそこから、あたしをが見えやしなくつて?」(P129)

女は悪魔である。かよわき人間たるボルクが悪魔にかなうはずはない。
悪魔は人間を支配しようとする。女は男を支配しようとする。
マリアはボルクの漁業検察官としてのプランまで批判するのである。
そのうえで自分は人民の味方であると宣言する。
虐げられた人びとを、漁業検察官から守るとまで主張するのである。
無学な女の安易かつ感傷的な同情心にボルクは辟易するが、
かといってマリア嬢の魅力から逃れることはできない。
馬鹿な女が美しき肉体を武器に浅薄な思想を押売りしてくる! 馬鹿な女め!

「彼は此の瞬間、彼女を憎んだ。彼女から離れたかつた。
再び自分で自分を所有したかつた。が、もう既に遅い!
ねばねばして目にも見えない蜘蛛の網が彼の顔に絹のように軟かく
まとひついて除けることが出来なかつた」(P139)


この日からボルクとマリアによる一進一退の攻防が繰り広げられる。
孤独者ボルクはまったく自分の時間がなくなってしまったことを感じる。
高度な思想をもつ自分が、あの程度の精神性しかもたぬ女に所有されている。
マリア嬢はなんとかしてこの漁業検察官を完全に支配しようと試みる。
おりしも離島にまたひとり新参者がやってくる。
名分は漁業検察官の助手ということである。
二十歳そこそこの長身の男である。まったく独自の思想というものがない。
マリア嬢はさっそくこの助手に色目を使うのである。
もちろん、ボルクに嫉妬を起こさせ、かの男を完全に征服するためである。
筋肉馬鹿のような助手はマリア嬢の幼稚な思想を礼賛する。
その手には乗らないと賢明なボルクはふたりを見て見ぬふりをする。
ある日のことである。ボルクは自室で仕事中である。マリアという女は!

「ボルクはこの会話の始つたとき窓際に腰を下ろして、
マリア嬢と助手が球(ボール)を遊んでゐるのを眺めてゐた。
彼女が相手の球を捕へようと後方(うしろ)に仰向くたびに
彼女の着物の前がまくれ揚がるのも見えた。
ちやうどまた着物がまくれると助手がおどけた様子で俯向いて
身振や顔付で或物(あるもの)が見えるぞと云ふやうな風をするのが目に入つた」(P218)


この時代の西欧婦人のスカートのなかの事情に詳しくないため、
「或物」がなんであったか断定することはできない(つまり下着か女陰か)。
だが、マリア嬢はそうとうな阿魔(あま)である。
この阿魔っこはふたつのことを知っているのである。
「或物」を助手に見られていることを、ふたりをボルクが上から見ていることを。
このときのボルクの心中は察するに余りある。
なんという女に捕まってしまったのか。
そう、この時点で、ボルクとマリアはかりそめの婚約までしていたのである。
ボルクは女への復讐を敢行する。
明らかに嘘とわかる口実でもって婚約の解消を通告したのである。
おまえなんか愛していないんだ! あの小僧と仲良くおやりなさいだ!
マリア嬢は振られたことを知り歯ぎしりする。
よせばいいのにボルクは元婚約者の痛手のほどを調べにマリア宅を訪問する。
ふたたびふたりは壮絶に傷つけあう。傷ついた二匹の野獣は――。

「『いまあたし達も退屈になり始めたのねえ』
マリア嬢はコップを充たしながら彼の言葉を遮つた。
『ぢや何をして気をまぎらしたらいいのかい。』
誤解することの出来ない粗野な微笑を浮べながら恋人は訊いた。
『来て私のそばにお坐り。』
この挑みに伴うた野獣的な口吻や荒々しい身震によつて厭な感じも起さず、
女はさながら或る賞賛の念をこめて男を見上げた、
これまであまり恭々しい挙動のために殆ど軽蔑していた男の方を。
(中略)
そして彼が彼女に対して激しい嵐のやうな恋を告白したとき、
彼女は最高の幸福の憶ひ出によつて彼を縛らうと云ふ希望のうちに
彼に己(おの)が身を与へた」(P245)


女を口説きたいのなら筋の通った道理を言うのは馬鹿げている。
四つん這いになって掴みかからなくてはならない。
3度結婚して3度離婚した多情多恨のストリンドベリによる恋愛指南だ。
こむずかしい理屈を女に言っても無駄である。
「来て私のそばにお坐り」
これでいいのだ。犬を相手にするように男は女を遇すればよろしい。

ふたりは結ばれたわけだが、この濡れ場もストリンドベリの手にかかると、
このような陰惨な情景になってしまう。
女が男に身体を許すのは、よりきつく男を縛らんとするためである。
ストリンドベリの小説にハッピーエンドは似合わない。
ボルクはマリア嬢の奴隷になるのを恐れて婚約を復活させない。
いわゆる食い逃げである。
これでよかったのかと煩悶するボルクのもとにマリアからの手紙が届く。
読まないで放置するが、手紙が気になってなにも手がつかない。
さんざん迷ったあげく、手紙を燃やしてしまう。
こののちなんとか手紙を読もうと燃えかすに目を凝らすボルクは哀れである。
マリアは復讐の意味もこめてであろう。助手と結婚してしまう。
自分で自分を所有せんがために女と絶縁したボルクだが、
このあたりから自分の所有があやしくなる。狂気の兆候が見られ始める。
傷心の漁業検察官を意地悪な賤民どもが見逃すはずがない。
あの手この手を用いて賤民はボルクを辞職に追い込む。
無知蒙昧な人民がインテリを駆逐したのである。
ボルクの高貴な精神は賤しきもののためにすっかり荒廃してしまった。
いまやボルクは狂人を通り越して廃人に近い。
クリスマスの夜、ボルクは憑かれたようにボートで大海原へこぎだす。
星空からヘラクレス座を発見する。
ああ、ヘラクレス! 強かな英雄よ、男のなかの男よ!

「ヘラクレス、希臘(ヘラス=ギリシャ)の道徳的理想、
レルナの百の頭を持てる怪龍(ヒドラ)を殺し
アウギアスの厩屋(うまや)を掃除し、
ヂオメデスの人喰ひ馬共を捕へ、
アマゾン女王の帯を盗み、
冥府から番犬ケルベロスを連れ出した力と智慧の神、
そして最後には一婦人の愚昧によつて倒れた男、
気が狂つて三年の間、女精(ニムフ)オムフアレへ仕へた後、
純粋の愛からして一婦人に毒害せられた……」(P283)


いまもいま、またひとりのヘラクレスが婦人の毒により昇天せんとしている。
ボルクのボートが目指しているのは大海のかなた。いざ行かん!
萬有の母、生産と愛の源泉、生の根本にしてまた生の敵なる――大海を越えて、かなたへ。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/1688-5f002b3c