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「黒旗」(ストリントベルク/大庭米治郎訳/岩波書店)絶版

→ストリンドベリ作品をひと言でまとめるならば、
「せせら嗤(わら)う」になるのではないかと思う。
前提として病的なまでに強い作者の猜疑心がある。
ストリンドベリは現実を疑ってかかるわけである。
その結果、世界はまったく新しい様相を呈してかれのまえに立ち現われる。
世界のこの断面にだれも気づいていないとストリンドベリは思う。
みんなだまされているのである。真実を知るのはおのれのみではないか。
愚かなものどもよとストリンドベリはせせら嗤う。
そののちこれは断固として告発しなければならぬと文豪は筆をとる。
では、ストリンドベリの見たものとはなにか。人生の暗黒面である。
どんなきれいなものでも、かならずマイナス面のともなうのが現実である。
美しい友情が、その実、優越感に裏打ちされていることは少なくない。
純粋な愛情だって、独占欲と紙一重といえなくもないのである。
そこのところを我われは適当に目をつむりながらごまかして生きている。
ところが、ストリンドベリはそれをよしとしない。
あたかもタマネギの皮を一枚一枚むくように、人生から虚偽を取り払っていく。
現われるのは汚らしい我欲ばかりである。
我欲と我欲の火花散る抗争をストリンドベリは嬉々としながら書くのである。
これが真実だ。ものども目を覚ませ。

ストリンドベリは狂奔する! 暴いてやる!
本当のことを言おうではないか。他人の失敗ほど嗤えるものはないよな。
同情するふりなんてやめて声高らかに嗤い飛ばそうぜ。
本当のことを認めないか。みんなが幸福になれるわけがないだろう。
だれかの幸福はだれかの不幸なんだ。
だって、他人の幸福なんて妬(ねた)ましいだけだもんな。
ならば、こうしようぜ。幸福なら喜色満面で自慢してまわるんだ。
口惜しがっている他人のまぬけ面がどれだけおのれの幸福を倍増させてくれるか。
他人の不幸は腹をかかえて嗤おう。
不幸にのたうちまわっている虫けらを見ながら乾杯しようではないか。
これ以上の美酒はなかなかないぞ。
友情なんて青臭いことをいつまで言ってるんだ。
本当のことを白状してしまえ。まわりはみんなバカばかりだろう。
とはいえ、かれが自分の価値を認めてくれるかぎりにおいて、
その何分の一ほどか、自分も相手の価値に同意する用意がないわけではない。
友人なんていっても結局は利用できるか否かではないか。
利用されたぶんはきっちり元を取って相手を利用しなくてはならない。
いい年をして恋愛だのなんだのママゴトみたいなことを言うなって。
あらゆる男女間の関係は支配するか支配されるかの戦争だろう。
支配したほうがより多く相手から搾取できるってことだ。
愛するよりも、愛されるほうがどれだけ楽しいか。
自分が重んじられているという快感に勝るものはないね。
つまり、人生とは闘争なんだ。おまえはなにか。ひとつの我欲に過ぎぬ。
欲望はかならず他人の欲望と衝突する。
このとき勝つものと負けるものにわかれる。人生は勝利と敗北しかない。
人生は戦争である。戦場は地獄である。人生は地獄である。
どうしてこうまで明々白々なことがわからないのかとストリンドベリはせせら嗤う。
わからないなら教えてやろうとストリンドベリは執筆するのである。
おまえらみんな地獄に堕ちろ! いな、ここは地獄だ!

作者最晩年の小説「黒旗」には、ストリンドベリのすべてが凝集されている。
内容は、実体験をもとにした文壇の内実の暴露といったところか。
あさましい我欲にとらわれた品性下劣な男女が繰り広げる地獄絵図である。
ストリンドベリならではの病的に荒廃した人間模様に身震いする。
ところどころで笑いがとまらなかったのもまた事実である。
訳が古いのでいやいや読み始めたのだが、思いのほか満足できる読書となった。
最後に本書からいくつか引用をしたい。
ストリンドベリへのいざないのつもりである。

「ジェニーは続けて、娼婦根性を発揮した」(P58)

ジェニーは娼婦でもなんでもない主婦である。娼婦根性ってなによ! と大笑いした。
ジェニーの夫が作家のツァハリスである。

「ツァハリスは今葉巻を噛み砕いてしまつた、
で、唇は脹れ上り、唾液と煙草のかすで鳶色になつていた。
彼は愉快さうには見えなかった、なぜなら彼は新しい復讐を考へていた、
もう一度此女(こいつ)を孕(はら)ましてやらう」(P58)


ツァハリスは妻ジェニーの美貌が失われることに深い満足を覚えるのであった。

「ツァハリスは、自分の敵の女の一人が悪い扱ひを受けたと聞いた時、
哄笑(わらひ)のあまり泣き出した」(P447)


おまえ最高だよツァハリス!

「それに女といふものは人間の屑ですからね!」(P289)

真実を暴露したストリンドベリ作品が復刊される日は来ないであろう。
ちなみに「黒旗」では男が女を殴る場面がふたつある。そのうちのひとつから。

「淑女の叫声は彼の魂に快感を与へた」(P169)

こざかしい女を殴るのは快いと世界的文豪のストリンドベリが書いている。
もしわたしがこんなことを書いたら八つ裂きに遭うかもしれない。空恐ろしい。

「階級虚偽といふものがある。下層階級は常に、
上層階級は圧制者や過酷者や吸血者から成立すると信じてゐる。
さうして上層階級は常に、下層階級は下劣な不道徳な泥棒根性の嘘吐の
人間から成立してゐると確信する」(P298)


この小説でも終盤、主要人物のひとりが死ぬ。
かれの遺書から引用する。人生とはなんぞや。

「時代の児として、儂(わし)は、
人生といふものを自分の前に横はる戦場のやうに見て来た、
生存といふものを麺飽(パン)、地位、女を獲るための闘争だと考へて来た。
儂は切り進んで往つた。儂が一人の敵をあらゆる許された手段をもつて、
いな、切迫つまつた場合には許されざる手段も辞せずに、打ち倒した時、
儂は自分を正常だと考へた。それが所謂時代精神だつたのだ。
生活は、それ自身が自らの目的であつた。
良心は一種の病的状態で、慈悲は弱さであつた。
儂はさういふ考へをもつて産まれて来たのだと信じた」(P490)


狂人ストリンドベリは「知る」と「信じる」の相違を、
おもしろい具体例で説明しているので紹介したい(P226)。
引用するよりも噛み砕いて説明するほうがわかりやすいと思う。
今日は何曜日かをあなたは知っている。金曜日だ。カレンダーに書いてある。
だが、これは知っているのではなく、信じているだけではないか。
というのも、こんな人物がいたからである。阿片を吸って36時間も寝てしまった。
かれは今日が何曜日だかわからない。
実のところ、カレンダーには今日の日付など記載されていないのである。
みんなが口をそろえて今日は金曜日というから金曜日になるのである。
つまり、どういうことか。
あなたは今日が金曜日だというのを知っているのではなく、信じているだけである。
ほかの事柄にもこれは当てはまるのではないか。
我われは多くのことを知っているつもりになっている。
しかし、それは知っているのではなく、信じているだけではないだろうか。
――いっとき錬金術やオカルトに夢中になった天才ストリンドベリの思想である。

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