「赤い部屋」

「赤い部屋」(ストリンドベルヒ/阿部次郎・絵馬修訳/新潮社)絶版

→よみがえれストリンドベリよ!
かの大巨人の腕(かいな)もて平成のスイーツ(笑)どもを細切れにしてくれよう。
ストリンドベリはイプセンを殺すために生まれてきた。
1879年は宿命の年だった。
イプセン「人形の家」初演。ストリンドベリ「赤い部屋」出版。
小説「赤い部屋」はストリンドベリ30歳が世に知られるきっかけとなる。
イプセンは女性解放の問題を劇作で追及した。
これはただならぬことだと世界でもっとも早く気づいたのがストリンドベリである。
女をつけあがらせてはいけない。
ストリンドベリの生涯は、女(=イプセン的なるもの)との闘争だったといってもよい。
かれは敗れた。いまの日本における知名度からして両者は雲泥の差がある。

ストリンドベリはどんな世界を描いたか。まさしく2ちゃんねるである。
極度の人間不信。異常なまでの孤独。嘲笑合戦 m9(^Д^)プギャー
女性嫌悪。露悪趣味。暴露志向。復讐不忘。電波沸騰。
なんのことはない、ストリンドベリは精神障害者だったのである。
しかし、かれは壮大な宇宙的視野を有する偉大な狂人であった。

「赤い部屋」に描かれているのは「青春の埋葬」(P477)である。
役人だったファルクは職を辞し文士をめざす。
文学青年はさまざまな芸術家志望者と交わる。画家志望、役者志望。
職なし、金なし、名もなき若者たちの青春群像を、ストリンドベリは風刺する。
対照として登場するのがファルクの兄である。
兄は商売で成功を収めている俗物。年の離れた若い妻をもつ。
ここでストリンドベリの描く世界を紹介しよう。
たとえば、この兄嫁。昼近くまでベッドから出てこない。

『何故お前は正午(ひる)近くになるまで女中の取締りもしないで寝てるんだ?』
『私それが面白いから。』
『お前は私(わし)が家事を見る気のない妻と結婚したと思うのかい? え?』
『ええ、さうなのよ! あなたは何故私があなたと結婚したとお思ひになるの!
私は千遍もあなたにお話ししたわ――働かなくてもいいためにですよ』(P63)


なかなか楽しそうな夫婦生活である。
この旦那も人格面では負けていない。
かれもまた、人間の善なるものをいっさい信じていない。
友人ふたりを会食に招待して開口一番こうである。

『飲め、貧乏人ども!』(P90)

友人など自分の財産を狙っているに過ぎぬと冷笑しているのである。
素晴らしきかな、ストリンドベリ・ワールド!
「赤い部屋」では、病的なしつこさをもって、このたぐいの風刺的描写がなされる。
根本にあるストリンドベリの思想はいかなるものか。
文豪は、ある演出家に幸福について語らせている。
演出家が若手女優に説いていわく――。

「僕は君に慰藉(なぐさめ)を与へてあげよう。君も知つてゐるだらう、
君の手に入る凡ての成功はいつでも他人に代価を払わせてやつて来るのだ。
君に一つの役がつけば他の女はそれを失ふ。
さうしてその女は踏まれた虫のように足宛(もが)き廻るのだ。
さうして君はさうする気もなしに悪いことをしたことになるの(だ)から、
幸福そのものも亦毒を含んでゐる」(P325)


この演出家も悪い子ちゃんで、自分に惚れている女優を用いて悪戯をする。
女優に命令するのである。ある無名の俳優を誘惑しろと。
だまされた俳優が女優との愛を真剣に悩んでいるのを見ながら、
この演出家は悪魔的な快感を覚えるのである。バッカじゃねえの m9(^Д^)プギャー

大正5年の翻訳は常軌を逸した読みにくさである。
おそらくいま日本でこの「赤い部屋」を最後まで読めるのは筆者だけだと思う。
こんな思い上がった気持からネタバレをすると、
無職文学青年のファルクは改心して役人の職に戻る。
文士になる夢を見切る。芸術から生活に帰還するのである。
それから芸術家仲間のひとりが無名のまま自殺をする。
仲間の自殺は青春小説の定番だが、
かのストリンドベリも殺人の誘惑にあらがえなかったのだろう。
または「赤い部屋」を書いたことによって、
この文豪の心中でなにかが死んだことの象徴なのかもしれない。
「赤い部屋」を書いたストリンドベリはもはや無名ではなくなったのである。

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