「ルーヂン」(ツルゲーネフ/中村融訳/岩波文庫)品切れ→ルーヂンはまるでわたしの生き写しのようである。つまり、口だけの男。
なにか大きなことをやりそうな気配に満ちているが、いつまで経っても実行しない。
そのくせ口を開かせると野望に野心、大言壮語がつぎからつぎへという手合いである。
ルーヂンはいつまでも実現不能の夢ばかり見ていて、
ついに無視していた現実から復讐される。
35歳、まだぎりぎり夢が許される年齢の青年ルーヂンは饒舌に語る。
「大体この、否定ということは、それも一から十まで残らず否定するということは
――ほめたことではありませんからね。
あれも駄目、これもいけないとあらゆるものを否定し去ると、造作なく、
あの人はえらいという評判になる。これはよくある手です。
否定する人の方がえらいにきまっている、
と人の好い世間ではすぐそうきめてかかるからです。
が、これは時おり当たらないことがあります。
第一、欠点のないものはないのですし、第二に、筋道が通った話でも、
やはりそれは碌なことになりません、
というのも、否定だけに向いていると頭脳が貧弱になり、涸(か)れてしまうからです。
自尊心ばかり満足させていると、観照の真の悦びを失ってしまいます、
つまり生が――生の本質が――
浅薄で気短かな観察の間からつるりと滑り落ちてしまって、結局、
当人は罵倒をしたり、他人を笑わせることだけで終わってしまうものです。
ですから、非難したり、罵ったりしてもいいのは、愛することも出来る人に限ります」(P57)このルーヂンという男、口ではなかなかもっともなことを言うでしょう。
では、なにをしているのか。なんにもしていないのである。
とある金持の未亡人に気に入られ、居候させてもらっている。
年増の婦人ダーリヤはもしやルーヂンはそうとうの大物かもしれないと、
この素寒貧で官職もない、まったく無名の青年を厚遇している。
ルーヂンのせいでこの屋敷のサロンから追い出されてしまった老人は、
この新参者を以下のように評する。老人はルーヂンの本質を見ていた。
「――あの小才子は俺は好かん、――と彼は口癖のように言っていた
――口のききようが不自然で、まるでロシヤの小説の人物と寸分違わぬ顔つきで、
「私はですね」とやらかす。それから思入れよろしくあって、
また「私は、私はですね……」が始まる。
またいつも実に長ったらしい言葉を使う」(P81)まるでわたしのことではありませんか!
みなさまのまわりにもルーヂンはいませんか?
しかし、ルーヂンとわたしの違うところは、この青年がもてることである。
ルーヂンは未亡人の娘から惚れられる。
大いに笑えるのは、ルーヂンがこの娘っこにとんでもないホラをふく場面である。
自分は「大きな論文」を仕上げると宣言するのである。
それも「人生と芸術における悲劇的なるものについての」(P85)なのだから。
35歳にもなって貧乏で、そのうえなんの肩書きもない青年が
年のはなれた少女に向かって論文の話をかますのである。
さらにルーヂンという男は!
少女に向かってあなたのためにこの論文を執筆するとふかすわけである。
ものを知らない娘は有頂天になってしまう。
ルーヂンさんはとてもすごいひとなのに、どうして世間からは認められないの?
資産家の娘から愛を告白されたルーヂンは有頂天となる。
ところが、ふたりの密会を盗み聞きしていたものがいる。屋敷の執事だ。
かれは女主人ダーリヤにこのことを告げ口する。
ダーリヤもようやく目が覚めるわけである。
考えてみればこのルーヂンという青年は財産もなければなんの業績もない。
そんな男がうちの娘とどうこうなど不届きにもほどがある。
ダーリヤは娘にルーヂンとの交際の禁止を命じる。
だが、恋に燃える娘は監視の目をくぐりぬけルーヂンに逢いにゆく。
さあ、ルーヂンはどうするか。娘と駆け落ちをするのか!
しないのである。母親に反対された結婚なら財産がついてこない。
いま娘と駆け落ちしたら生活苦が待っているだけである。
及び腰になったルーヂンは得意のおしゃべりでごかまし少女を屋敷に帰してしまう。
愛されていなかったことを知った娘は深く傷つく。
この小説でいちばんおもしろいのは最終章である。
この恋愛事件からおよそ5〜10年後のことが描かれている。
身をやつしたルーヂンは大学時代の旧友、レジネフと再会する。
レジネフは裕福な地主となっている。
かたいやルーヂンは目も当てられないほどの零落ぶり。
白髪頭で身なりもみすぼらしい。
レジネフはルーヂンに夕飯をご馳走しながら、かれの来歴を聞く。
ルーヂンはあれからいろんなことをやったが、なにひとつうまくいかなかったという。
夢見がちな青年の末路を描写するツルゲーネフの筆は冴え渡る。
注意したいのはレジネフが堅実な労働をしたから裕福だとは必ずしも言えないところ。
レジネフはもとから財産があったのである。
いっぽうルーヂンは生まれが貧しかった。
だから、夢見るほかなかったのだと分析することも可能である。
哲学者の中島義道がこの「ルーヂン」をとりあげ、
現代日本の夢見る青年に批判的な言及をしている。
「「人間嫌い」のルール」(中島義道/PHP新書)わたしも中島にならって、この古典作品「ルーヂン」を題材に夢について語ってみよう。
いま日本のマスコミは「夢を見よう!」と、うるさいことこのうえない。
「夢は必ずかなう」などとわめきたてている芸能人も多数存在する。
よくよく考えてみれば、
いま夢を追っている若者というのは貧困家庭の出身が多いのではないか。
夢を見るくらいしか人生に希望がないのである。
裕福な家庭に生まれたものは夢など見ずに堅実な生活に入ってゆくと思われる。
では、なぜ夢がこうも持てはやされるのか。
夢でも与えておかないと若年貧困層の不満がたまり犯罪に結びつく可能性がある。
資本家がバイトという形式で安価な労働力を得られるのもかれらが追う夢のおかげ。
こう考えると新たな視点で「ルーヂン」を眺めることが可能になる。
ルーヂンが口舌の徒になったのは、かれが持たざるものだったからではないか。
ルーヂンが夢ばかり見ていたのは、
夢を見るしかかれの環境が許さなかったからではないか。
たとえこの青年がなにかやろうと思ったところで元手になるものがなかったのである。
中島の言うように、いまの日本には青年ルーヂンがあふれている。
かれらが中年になったとき、果たしてどうなるのか。
わたしも平成のルーヂンのひとりとして切実な問題である。
(追記)この古典作品の構成をメモしておく。
小説「ルーヂン」の全体は210ページ。
P36→ルーヂン登場。
P54→1日目終了。2日目開始。
P80→2日目終了。2ヶ月経過。
P168→2年経過。
P186→また数年が過ぎた。