fc2ブログ

「池田大作の素顔」

「池田大作の素顔」(藤原行正/講談社)絶版

→元側近(というか弟分)による池田大作暴露本。実に読みごたえがあった。
笑いがとまらなかった箇所も多い。池田大作という男は、まことおもしろい。傑物である。
かえってこの暴露本を読んで、かの池田先生に親しみを抱いた。
どうして学会関連本は、どれもつまらないのだろうとつねづね不満だったのである。
聖人君子・池田大作を描くことは、逆にわたしのような人間を遠ざけることになる。
おそらくこの書籍で暴露されていることは、ほんとうなのだろう。
池田の影響力から考えたらわかることである。
あれだけ多くの信者をとりこにする人間が、つまらぬ聖人君子などであってたまるか。
よく効く薬は、反面、強い毒性を持っているものなのである。
いいではないか。池田先生の奔放な下半身。英雄色を好むという。
いいではないか。池田先生の虚言癖。人間は事実より嘘を好む。
作りあげられた虚像「池田大作」に救われるものがいるのなら、どうして悪いもんか。
この書籍で詳述されている池田の陰湿な人間性もたまらない。ぞくぞくする。
こういう男を大物というのである。マイナス即プラスである。
マイナスが大きい人間ほどプラス面も光り輝くのだ。
恨みを決して忘れずねちねち復讐する池田の人間くささはあっぱれというほかない。
悪口を書かれたら、なんとしても潰そうとする異常な攻撃性はカリスマならではである。
日本を牛耳ろうとまで思う青年・池田大作の野望には恐れ入った。
しかも、現実に日本制覇の寸前まで行ったのだからたいしたものだ。

すべては池田青年が創価学会と出会ったことからスタートしたのである。
藤原行正は池田と学会の邂逅をシニカルな筆致で描いている。
著者が学会へ入信したのは池田大作より遅れることわずか2年。
おそらく描かれている出会いは事実であろう。
悪意みなぎるすばらしい文章をお読みください。

「池田の創価学会入信は昭和二十二年夏。
からだをこわして、西新橋の印刷屋を一年ほどでやめて、
しばらく自宅でブラブラしていた時期である。その時、池田は十九歳、
たいした学歴もなく、からだも弱く、カネもなく、夢らしい夢もない。
孤独でうら寂しい青春を送っていた。
十九歳の池田が密かに想いを寄せる幼馴染みの女性がいた。
近所に住んでいた四人姉妹で二番目のAさん。
ある日、Aさんから学会の集まりへ誘われ、
喜んだ大作少年は一も二もなくついて行く。
その会合には気易く語り合える仲間がいた。
平凡な入信パターンだが、これが池田大作と創価学会の出会いである」(P32)


なんのことはない、女の子目当てにふらふらついていったのである。
これが池田大作の回想になると、たいそう立派なものに変容する。
池田大作著(といってもゴーストライターの書いたものらしいが)「私の履歴書」より。
(「池田大作 行動と軌跡」より孫引き)

「二回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏のある夜である。
小学校時代の友だちが訪ねてきて
『生命哲学について』の会があるからこないかという。
生命の内的自発性を強調したベルクソンの『生の哲学』のことかと、
一瞬思って、尋ねてみたが『そうではない』という。
私は興味を持った。約束の八月十四日、読書グループの二人の友人と連れ立って、
その『生命哲学』なるものを聞きに向かった」


これが宗教の実際なのだと思う。
女の子に誘われほいほいついて行くのが、「生命哲学」に入れ替わる。
なぜなら信者は「生命哲学」に関心を寄せる青年を好むからである。
断じて批判しているわけではない。宗教とはこういうものなのである。
本書は以後、延々とこの手の虚構あばきを繰り返す。
そして、わたしはベルクソンなんたらとこまっしゃくれたことを言う神童・池田よりも、
好きな女の子に誘われたからとにやにやつきしたがう人間・池田に親しみを覚える。
人間とは、そういうものだと思うからである。

したがって、強大な私怨で書かれたこの書物は、
わたしにとってはまったく逆の効果を及ぼしたことになる。
計り知れぬ聖性と俗物根性を持ち合わせる池田大作という傑物に強い関心を持った。
その意味で、実に楽しい読み物であった。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/1596-a09a36bd