「嵐が丘」

「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ/鴻巣友季子)

→憎しみの物語である。
名作「嵐が丘」のヒーロー、ヒースクリフ氏からわたしは以下のことを学んだ。
他人を断じて許してはならぬこと、裏切りは決して忘れぬこと、運命を呪い続けること。
人生は勝つか負けるかしかないのである。とはいえ、みんなが勝つわけにはゆかぬ。
勝つためには他人を打ち負かさなければならない。
人生には引分も和解も握手もない。勝つか負けるかのみ。
したがって人間は勝つためにどんなことをしてもかまわないのである。勝てば官軍だ。

幸福は不幸によってあがなわれる。
結婚は幸福である。が、その裏に失恋者の苦悶がないといえようか。
金持は幸福である。が、その裏にいる金品を巻き上げられたものをなぜ見ようとしない。
幸福になりたいと願うのは、他人を不幸にしたい、苦しめたいということにほかならぬ。
人生における幸福と不幸の配分の仕組みである。
人間は他人を苦しめるために生まれてくる。
ああ、人生のなんと楽しいことか! 憎きかたきを踏みつけて高笑いするひと時よ!
他人を見下すあの快さよ! 他人をざっくり傷つけるあのすがすがしさよ!

おまえは不幸だ。なぜならおまえよりも幸福な人間がいるからである。
許してはならぬ。恨め。憎め。仕返しだ。復讐だ。
他人の幸福を奪い取ってはじめて不幸な人間は幸福になれるのである。
かつて高みから自分を見下ろしていた人間を引きずりおろす爽快感のいかほどか。
今度は逆にこちらが見下す番である。
苦しみながら呻いている人間を、なお足蹴にする。もてあそぶ。
これを幸せといわずしてなんというか。
人間は幸福にならなければならない。そのためには他人を不幸にすることだ。
諸人(もろびと)よ、覚醒せよ! 汝らは不幸なり。これは幸福なものがいるがためなり。

満足するな。苦しめ。苦しめる相手を憎め。復讐せよ。これが生きるということだ。
人間はなんのために生まれてくるか。幸福になるためである。
では、幸福とはなんだ。愛されるのは幸福だ。金が儲かるのは幸福だ。
突きつめれば、他人を支配するのが人間の幸福である。
おまえは愛されているか? おまえはいくら金を持っている?
愚かなものよ! おまえの何倍も愛されているものがいる。金持もわんさかいる。
だから、おまえは不幸だ。負け犬だ。弱者ども、泣け、喚け、苦しめ!
さて、きみはこれで終わりかい? 恨んでみないか。憎もうじゃないか。
世界古典文学の珠玉「嵐が丘」に登場するヒースクリフ氏の思想である。
行動をともなわぬ思想ではない。
生きるための思想、すなわちヒースクリフ氏の生きかたである。行動の指針だ。

かなりの読者が「ヒースクリフはわたしだ」と思うはずである。
だが、それは違う。あなたもわたしもヒースクリフ氏ではない。
なぜならあたまで思っているだけで、決して行動には移せないからである。
いや、かの思想を実行するものもいよう。
しかし、良心の呵責とまではいわずとも、どこかにやましさが残りはしないか。
それが人間というものである。
エミリー・ブロンテは「嵐が丘」のヒースクリフを通して人間の限界を追及した。

「それにあれ(=ヒースクリフ)はまったく極悪非道な男でね。
自分の憎む相手がほんのちょっとでもすきを見せようものなら、
嬉々として嫌がらせをしてつぶしにかかるようなやつなんだ」(P460)


長大な物語の端緒は男女の三角関係である。
このもつれがきっかけとなって物語が進んでいく。
ヒースクリフは捨て子。アーンショウ家のご主人に拾われて嵐が丘の屋敷に居ついた。
屋敷にはふたりの子どもがいる。娘のほうはキャサリンという名だ。
名家の令嬢キャサリンと浮浪児ヒースクリフは幼少時より心を通わせあった。
ヒースクリフにライバルが現われる。近所のリントン家の若主人エドガーである。
ヒースクリフは召使いのネリーにこぼす。

「でもさぁ、ネリー、俺が二十回も殴り倒してやったって、
あいつ(=エドガー)がいまより醜男(ぶおとこ)になるわけじゃないし、
俺がいまよりハンサムになるわけでもないだろ。
あーあ、俺にもあんな金髪と白い肌があったらなあ。
あんな服を着て、行儀もよくて、あいつみたいに金持の家に生まれついてたらなあ」(P117)


美少女キャサリンはどちらを選ぶか。ヒースクリフかエドガーか。
ふたつにひとつである。この選択の結果、以降たえまない惨劇が打ち続くのである。
言うなれば、物語は「ふたつにひとつ」によって作りだされる。
「嵐が丘」の物語における中心点は、このときのキャサリンの決断である。
ふたつにひとつ。キャサリンが選んだのはエドガーであった。
召使いのネリーはキャサリンに問う。どうしてエドガーと結婚するのか。

「うーん、そうだなあ、ハンサムだし、いっしょにいて楽しいから。
(……) それに、若くて明るいから。(……) それに、私を愛してるから。
(……) それにね、彼は将来お金持ちになるし、
わたし、このあたりで誰にも負けない女性になりたいの。
あんな旦那様をもったら、きっと鼻が高いもの」(P163)


キャサリンはネリーに秘密を告白をする。ほんとうはエドガーなんて愛していない。
求婚されたからやむなく結婚するようなもの。

「でも、いまヒースクリフと結婚したら、わたし落ちぶれることになるでしょ。
だから、あの子(=ヒースクリフ)には、どんなに愛してるか打ち明けずにおくの。
どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、
あの子がわたし以上にわたしだからよ。
人間の魂がなにで出来ていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの」(P168)


キャサリンはヒースクリフを愛してはいるけれども、
一文無しになるのがいやだからエドガーと結婚するのである。
この会話を盗み聞きしていたヒースクリフであった。かれは屋敷を飛び出し消息を絶つ。
4年後、財をなして舞い戻ってきた悪漢ヒースクリフの復讐劇が開幕する――。
以降は各自本書をお読みになって物語をお楽しみください。

話を移して、物語について述べたい。
わたしは物語を書きたいと思っている。だが、どうしても書くことができない。
この地点から「嵐が丘」を読み、学ぶところが多々あったので報告する。
「嵐が丘」の物語構造はこうである。
裕福かつ有閑の青年がとある田舎の屋敷を別荘として借りる。
田舎ゆえ退屈である。そのうえ風邪を引いて外出もままならぬ。
こんなときに青年は召使いのネリーから「嵐が丘」の出来事を物語られるのである。
これは物語の原形のひとつではないだろうか。ひとは暇をもてあまし物語を欲する。
言ってしまえば「嵐が丘」は「家政婦は見た」である。
では、ネリーの物語りはどうなっているか。
キャサリンやイザベラの物語りをネリーが聞くことで「嵐が丘」は進行している。
「こんなことがあったんだ」「こんなことを思っている」と話者は聞き手たるネリーに物語る。
話される内容は、まさしく物語らなければならないことばかりである。
なぜキャサリン母子やイザベラがネリーへ物語らなければならないのか。
だれかに知ってほしいということがまずある。
つぎに、物語ることですっきりしたい。気分をなだめたい。このために話者は物語る。
切実な感情というものを人間はうちにためておけない。おかしくなってしまうからである。
かくして人間は物語る。話者は聞き手を求める。
「嵐が丘」全編を通じてネリーはとても優秀な聞き手であった。
ネリーは聞いた物語りをまとめてさらにそれをとある青年に物語る。
このときこの青年は我われ読者の代役であるといえよう。
整理してみると、物語とは文字通り「物を語る」ことである。
その際、語られる物とはなにか。語ることによって話者と聞き手になにがもたらされるか。
この二点に着目することが、物語の秘密を解きあかすカギになるように思われる。
「物語とはなにか」の答えはまだ出ていない。かんたんに解明できるものではないだろう。
ただ、このたび「嵐が丘」からひとつのヒントを得たような思いがする。実りの多い読書であった。

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