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「文章心得帳」(鶴見俊輔/潮文庫)絶版

→桑原武夫はよい文章の理想を、いわば外向性に見たわけである。
文章が外部へ向けて働きかける。そういった文章を是としている。
鶴見俊輔は文章の内向性に着目する。

「文章を書くことは他人に対して自分が何かを言うという、
ここで始まるものではない。
実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、
文章が自分の考えをつくる。自分の考えを可能にする。
だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、
それがいい文章です」(P23)


みなさまも経験があると思うが、文章は書いているうちにわかってくることがある。
書き始めたときは思いもよらなかった方向に筆が進んでしまう。
言葉が言葉を呼ぶことがある。このことを鶴見俊輔は言っているのだと思う。
日記というものは公開を前提としない。
だから、桑原武夫の言にしたがえば日記が名文になるはずがない。
ところが、日記文学という言葉があるくらいで、日記からも名文が生まれうる。
この理由を鶴見俊輔は説明しているのである。もう少し引いてみよう。

「それでは私にとって、文章がうまいというのはどういうことか。
言葉をたくさん知っていて、むつかしい言葉をたくさん使うからというのではないし、
紋切型を巧みに使うということでもありません。
究極的にいい文章というのは、重大な問題を抱えてあがいているというか、
そのあがきをよく伝えているのが、いい文章なのではないかと思います。
きれいに割り切れているというものは、かならずしもいい文章ではないのです」(P58)


まったく同意見である。わたしも文豪のいかにもな美文は嫌い。
苦しみのなかから答えを求めてうめいている文章を名文だと思う。
柳美里の初期のエッセイはどれだけ美しかったか。
こんな苦しんでいるひとがいるのかと思った。そこが、美しかった。
宮本輝も若いころはあがきにあがいていた。
かの作家の文章がどのくらい多くの読者の琴線に触れたか。

「言語表現法講義」で加藤典洋が指摘していたが、
本書は数ある文章読本のなかで唯一「文間文法」について論じている。
「文間文法」とはひとつの文章から、つぎの文章へどこまで飛べるか、である。
飛躍の距離は、意味の隔たりを意味する。
読み手は、意外なほど意味の飛躍に耐えられる。
それどころかむしろ飛躍は快感にもなりうる。意外性の快楽である。
なんとか実例をあげようとさきほどからあたまをひねっているがろくなアイディアが出ない。
酒でものみはじめるか(←へたくそな飛躍の具体例)。

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