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「蜘蛛の巣 ユージーン・オニール一幕劇集」(山吉張・須賀昭代:監訳/京都修学社)

→ユージン・オニールの一幕劇がすべて収録されている。
オニールはアメリカ演劇の父にして、ノーベル賞作家だが、最近は忘れられて久しい。
テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーを
はるかに凌駕する力量を持った劇作家なのに残念でならない。
この著作は奇蹟といってもよい。というのも、去年の3月に出版された新刊なのだ。
甲南女子大学大学院の秀才が集い10年ものときをかけて出版にこぎつけた大作である。
定価は7140円だが完売しても採算などまったく取れないと思う。
このような書物は昨今濫造されるベストセラーとは段違いの価値を持つ。
読みながら甲南女子大学大学院の研究者への感謝で胸があふれた。
原文で読めやしないくせに、生意気にも
わたしは日本でいちばんのユージン・オニール愛好者だと思っているのだ。
「本の山」のカテゴリー「ユージン・オニール」は、
この劇作家の根源に迫りえているという自負がある。
ひまがあればぜひともお読みいただきたい。
自身も今回かつての記事を再読してあらためてこの劇作家への思慕を募らせた。

オニールの初期の劇作は海洋を舞台にしたものが多い。
これはこの劇作家自身の経験による。
オニールは青年時代、船乗りをしながら世界各地を放浪していた。
いまの時代のような安全な航海ではない。つねに危険のつきまとうものであった。
青年オニールは、航海に劇的なるものを発見したと思われる。
航海とは、過程である。出航してから目的地にたどり着くまでが航海。
船夫はたえず海と向き合っていなければならない。海が荒れれば船は沈没してしまう。
いつなんどきでも死と隣り合わせというこの極限状況は、
まさしくオニール劇の特徴である。
人間が生まれ死ぬのはあたかも航海のようだと青年オニールは思ったのかもしれぬ。

オニール劇は死を背景とした生の横溢(おういつ)である。
横溢であって、断じて生の賛歌などではない。
ならば、オニールにとって生とはなにか? 苦しみである。
人間はおよそ自由意志とは無縁なところで、望みもしない環境に誕生させられる。
人間である限り、だれもが欲望を持つ。だが、この欲望がかなえられることは少ない。
なぜならば、他者がいるからである。自分以外にも、欲望の主体たる人間がいるからだ。
人間が欲望に従い行動すると、かならず他者の欲望と衝突する。
したがって、かれの欲望は満足することが少ない。思うがままにならぬ。
この状態を「苦」と定義したのが仏教の開祖ゴーダマ・ブッダであったが、
キリスト教徒のユージン・オニールはこの「苦」を劇として描くのである。
ブッダは「苦」を消滅させるためには、
煩悩(ぼんのう)という名の欲望を断つことだと説いた。
いっぽうでユージン・オニールは欲望という炎(ほむら)にガソリンをそそぐ。
人間の「苦」を描くことが劇であるという信念に基づく。
人間はままならぬ。だが、欲望は壁を突き破らんとする。
壁の向こう側にいるのはもうひとりの人間である。
欲望と欲望の衝突こそ人間苦の最たるものであり、またこれ以外に劇などあるものか。
オニールの鋭い眼光は「人間・この劇的なるもの」の本質を看破している。
この劇作家の強い人間不信、異常なまでの悲観論的世界観を忌むものも少なくない。
だが、わたしにとっては、とても懐かしいものに思われる。

20編収録されている一幕劇のなかから「蜘蛛の巣」に注目したい。
これはユージン・オニールの処女作と目されるもの。
子持ちの娼婦、ローズは肺を病んでいる。
いくら売春をして稼いでもヒモのスティーブにカネを巻き上げられてしまう。
ローズの唯一の生きがいは、赤ん坊である。
だが、赤子のいる部屋で春をひさぐわけにはいかない。
ヒモのスティーブは赤子を取り上げて孤児院へ送り込もうとする。
ここに描かれているのは、どうしようもない陰鬱な絶望である。
娼婦のローズはもはや真っ当な仕事につくことはできない。
何度か女中の職を求めたこともあったが、決まって娼婦の過去がばれてクビになった。
いまは赤子もおり、できることといったら売春しかない。
ところが、いくら体も売ってもカネは貯まらない。スティーブに持っていかれてしまう。
これを拒むことができない理由がある。
街娼をしているローズが検挙されないのは、
スティーブが警察にワイロを支払っているためなのである。
ローズはもうにっちもさっちも行かない。
この日も赤子の処遇をめぐってローズはスティーブから殴られていた。

これを止めに入ったのが隣室に住むティムである。かれはスティーブをのしてしまう。
ローズの人生にはじめて希望のようなものが生まれたのはこのときである。
ふたりはその場で恋に落ちる。ティムは大金を持っていた。
驚くローズにティムは重大な告白をする。実は金庫破りの常習犯で指名手配されている。
ティムはローズに大金をわたす。いまは逃げるが、いつか再会しようというのである。
このおカネで人生をやり直そう。がんばればかならず人生をやりなおすことができるさ!
社会の最底辺でうごめくふたりの苦悩者があたたかな希望につつまれた瞬間である。
だが、これも長くは続かない。警察の追っ手が迫ってきている。
屋根裏から逃げようとする指名手配犯人のティムを、戻ってきたスティーブが射殺する。
拳銃をその場に打ち捨てスティーブは逃げていく。
ここに警察官が入ってくるのである。ローズは大金を持っている。
そのまえにはティムの死体。ローズはティムを殺害した罪で連行される。
この娼婦は生きがいだった赤子とこうして引き離されたわけである。
なんとも救いのない暗澹(あんたん)たる劇である。

金庫破りのティムのせりふから引用する。
街娼のローズはいままでの悲惨な半生をティムに告白する。
この金庫破りはいたく同情する。じぶんもおなじような人生を送ってきたからである。

「聞いてくれよ! まっとうな暮らしをしようたって、そうはいかないって言ってたね
――実を言うと、俺も同じ目に遭ってるんだ。
子どものころ、盗みを働いたというんで少年院送りになったんだ。
でも本当はやっていない。年上の不良仲間に加わってたんだが、
自分でも何やってるのか分かっちゃいなかった。
奴らは俺を身代わりに仕立てたのさ。
俺は少年院でいっぱしの悪に育っちまった。
シャバに出たときゃ、まっとうな人間になろうと努力もしたし、
仕事だってちゃんと続けようとしたよ。だけど少年院にいたことがばれたとたんに首。
あんたの場合と同じさ。で、また盗みを働いたー―飢え死にしないためにね。
取っ捕まって、今度は五年間の豚箱行きってわけさ。それで諦めた。
所詮無駄だって分かっちまった。
再び出所すると俺は金庫破りの一味に入って、手口を教わった
――それ以来ずっと金庫破りさ。人生の大半は刑務所(ムショ)暮らしだった。
だが、今は自由の身だよ」(P381)


ティムは脱獄したのである。ようやく運命の女とも思えるローズに逢う。
だが、それも束の間、射殺されてしまう。ローズも冤罪で服役である。
このユージン・オニール処女作のタイトルに留意したい。「蜘蛛の巣」である。
たしかに人間は蝶のように美しい。蝶のように自由に大空を飛べると夢想する。
ところが、この人間という蝶は、蝶は蝶でも「蜘蛛の巣」にからめとられているのである。
いくら飛翔を夢見ようが決して飛び立てぬ美しい蝶々たち――。
青年劇作家ユージン・オニールの目に映じた人間のすがたである。

(追記)劇の構造は「ふたつにひとつ」であると何度も指摘してきたが、
この一幕劇集においても具体例を挙げていきたい。
「霧」で漂流者は救助船を呼ぶか呼ばぬかの「ふたつにひとつ」を迫られる。
「鯨油」でキーニー船長は妻への愛か大漁かの「ふたつにひとつ」に直面。
「無謀」でボールドウィン夫人は財産か愛情かの「ふたつにひとつ」に煩悶。
「ドリーミー・キッド」でドリーミーは逃亡か祖母の看病か「ふたつにひとつ」で迷う。
人間は「蜘蛛の巣」にとらえられた蝶のような存在である。
だが、蝶は飛躍せんとする。欲望があるからである。
このとき別の蝶の存在に気がつく。この蝶もまた「蜘蛛の巣」の囚人である。
ある蝶が飛び立つためには別の蝶を踏み台にしなければならないときがかならず生じる。
このとき人間という蝶のまえに「ふたつにひとつ」が現前するのである。
蝶は大空での自由な飛翔を夢見ながらどちらかひとつを選択・実行する――。
これはオニール劇のみならず、劇全般の骨組みともいえよう。

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