大連のニッポン

瀋陽、長春とかつて満州といわれた地域をめぐりこのたび大連へいたるにあたって、
いよいよわたしのなかで日本の存在感が増していった。
いつしか日本を思う旅になっていた。
旧満州地方に先の戦争関連の観光地は少なくない。
瀋陽では9・18博物館、長春では偽満皇宮博物院、偽満州国務院を参観した。
忌わしき日中戦争の記憶を風化させじという、
いうなれば戦争絶対反対の平和思想は少なくともわたしには感じ取れなかった。
罪を憎んでひとを憎まずと日本人が原爆を落としたアメリカ人を歓迎したのとは対照的に、
中国は日本の罪も国民も決して許さないぞと強くアピールしているのが印象的だった。
左翼思想も右翼思想も理解できないこの愚人は、
ただもう資料館のニッポンがなつかしかった。
中国共産党が人非人と弾劾する日本人兵士の写真、資料も、
無知な旅行者には故国を偲ばせるものでしかなかった。
日本を離れて3ヶ月が経過していたのである。

大連はこれまで訪問した中国の都市のなかでもとりわけニッポンを感じさせた。
繁華街を歩くと、マクドナルド、ケンタッキー、吉野家、おまけに餃子の王将まであった。
餃子の王将は大学時代にサークルのコンパで利用したものである。
そこには二店舗、日本資本と思われる中華料理屋が並んでいた。
右に餃子の王将。左横には味千ラーメンである。日本語でラーメンと書いてある。
このようないわば日本料理店は高いことを知らないわけではなかったが、
もう我慢できなかったのである。どちらに入ろうか迷う。
味千ラーメンというのは聞いたことがないから、こちらに入ろうかと左へ身を向けると、
餃子の王将から従業員が出てきて、どうしてわたしが日本人とわかったのか、
いかにも中国人らしい発音でそれも笑顔で「いらっしゃいませ」というのである。
餃子の王将に大学卒業以来、ひさかたぶりに入ることになった。

定番の焼き餃子7元を注文する。
のみものは生ビール。アサヒスーパードライ10元(150円)を勇気をだしてたのむ。
そこらへんの中国メシ屋ではビールは3元なのである。
それが餃子の王将で、それも日本製の生ビールとなると3倍の値段になる。
理不尽だという思いはぬぐえなかったがニッポンが恋しかった。
スーパードライをのみたかったのである。
ひと口のんで震えがとまらなくなる。ビールとはこうまでうまいものだったのかと驚いた。
ふくよかな麦の味が繊細で、口内のここかしこにやさしくしみこむのである。
これならつまみはいらないと思った。
このビールならつまみなどなくても、何杯でもビールだけでたのしめる。
焼き餃子が登場する。中国人は餃子を焼いて食べる習慣がない。
したがってこれは日本料理といってもよい。酢、醤油。ラー油をたっぷり。
餃子を口に入れる。中国でこれほどうまいものは食べたことがないと感動した。
どうにもこうにも日本人なのである。
エビチリ28元(420)円を注文したかったが、これは明日にしよう。
生野菜のサラダが食べたい。スモークサーモンの乗ったサラダをオーダーする。
味比べをしようと、中国製の北京ビール6元にのみものを変更。
大瓶だから先ほどのスーパードライよりはるかに分量はある。
しかし、スーパードライをのんだあとでは、こんなものはビールではない。
よくもまあ中国で毎日こんな小便くさいビールをのんでいたものだとあきれてしまう。
それからもう一杯アサヒスーパードライをのむ。
けちくさい話だが日本円で考えたら生ビールの150円は、それでもなお安いのである。

気持よく酔っぱらって店をあとにする。
思えば、これまでアジア各地でひたすら酔うためにだけ酒をのんできたなと反省する。
酒は味わうもの、そしてうまいものなのだと、
日本ではB級グルメに属するであろう餃子の王将に教えられる。
中国人とおぼしきひとり客がカウンターに大勢いたが、
そういえばだれひとりとして北京ビールなど注文していなかった。
全員、アサヒスーパードライである。それはそうだよな。
ひとたび日本のビールをのんでしまったら最後、中国のビールはとてものめやしない。
しあわせなほろ酔いのただなかでホテルへ戻りシャワーを浴びる。
こうなるともうすることがないので、ふたたび夜の大連へ繰り出す。
もうビールはたくさんだから中国でしかのめない白酒をいただこうという計画だった。

ホテルを出ると中国人女性が近寄ってくる。
わたしは高級ホテルの一室を偶然から格安で利用していた。
ホテルの服務員が、経営陣から夜勤や仮眠のときのためにあてがわれている部屋を、
こっそり内緒でまた貸しをする。そういう一室になぜかわたしは送り込まれた。
ある夫婦の客引きにつかまったのがきっかけである。
ツアー料金とセットで徴収された合計金額は、およそ信じられない安さであった。
こういう事情で、彼女はわたしを裕福な日本人旅行者と思ったものらしい。
だが、これではわたしが日本人であることを嗅ぎつけた理由にはなっていない。
おそらく彼女の長年の商売における勘が、
一見だけでは区別のつかない日中の相違を、判定させたのであろう。

「マッサージ、どうですか?」
片言の日本語である。日本語で書かれたカードを見せられる。
何年おなじものを使っているのか薄汚れている。
見ると、若い女性の半裸体が印刷された、いかにもなそれである。
価格は見なかった。「いらないよ」と日本語で断わる。
早足で先を急ぐ。ふと気づくとぴったり彼女に尾行されている。
「ついてくるなよ」
わたしが大声をあげると、彼女の取った行動がおもしろかった。
うえーん、と日本語そのままの発音でいい、
両手を目のところまで持ちあげ泣きまねをするのである。
こんな技術を教えたのはいったいどんな日本人なのかと思わずふきだしてしまう。
これが彼女の作戦だったのか、泣きまねのあとは笑う。
かなわないなと思う。わたしが適当なのみ屋に入るとこの女も図々しくついてくる。
無視してテーブルに座ると、ちゃっかり反対側に腰をおろしている。
白酒をたのむ。コップがふたつだされる。女はニコニコしている。
なんとはなしにふたつのコップに白酒をついでしまう。
どうしてか乾杯している。つまみも女が勝手に注文している。
この展開はなんなのだと戸惑う。すっかり女のペースになっている。
白状すると、少しだけおもしろがっている自分がいた。
出されたつまみはいままでわたしの食べたことがない類のもので、
悔しいけれどもかなり美味だった。金額をたずねると驚くほど安い。
気を許すわけにはいかない。わたしは無言のまま酒をのみ、ものを食う。
暗がりでは気づかなかったが、食堂の照明のしたで直視すると、
この商売女はとてもではないけれどもおねえさんという年齢ではない。
わたしよりも10は年上ではないかと思う。
はじめてこちらから質問をしてしまう。「いくつなの?」
中国語である。女は迷うことなく「22歳」と答える。
いつから時の流れがとまっているんだよ。厚顔無恥にもほどがある。
22歳だって! こらえることができなくて大笑いする。
すると彼女はまた、日本風の泣きまねをする。うえーん、と媚びを売る。
見ているとおかしくて、ついつい酒がすすんでしまう。

ひとり旅のわたしは白酒をこのときはじめて中国人と酌み交わしたが(ビールは経験あり)、
この強い酒はこうしてのむものなんだなと気づく。白酒はひとりでのむ酒ではない。
このへんでこよいも終わるかと会計を済ませるとおかしなことになっている。
女がわたしの横にぴったり寄り添っている。
腕を強引に組んでいるため、女の薄い胸の感触が伝わる。
さあ、行こうといったようなことを女がいうではないか。おかしい。ぜったいにおかしい。
反射的に女を振り切り、わたしは逃げだしていた。駆けだしていた。
だいぶ遠回りをしてホテルへ戻ると、あの女が待ち伏せしている。
あっけなく見つかってしまい、またわたしは逃げる。
あたりを注意して見ると、闇にまぎれてこの手の女があちこちにいるではないか。
宿泊したホテルがいけなかったようである。

近くのいかにも最底辺といった具合ののみ屋へ入りぬるいビールを時間をかけてのむ。
あの女のわたしを見る目には独特のものがあったと思う。
似ていると思ったのである。この日の昼はツアーに参加して大連観光をした。
といっても、払うものを払っていない。中国人グループのツアーにひとりで参加させられた。
聞くと、かれらは社員旅行ということであった。行くところの決定権はまるでこちらにはない。
安いからまあいいかと思っていたら、関東軍の施設跡地に連れていかれた。
反日教育をするための資料館になっているのである。
展示された資料は日本人への無理解、悪意、軽蔑に基づいたひどいものであった。
日本語の説明が申し訳程度についているのだが、ほとんどが誤っている。
正しい日本語からは程遠いのである。だが、怒る気にもならなかった。
中国人のための観光地である。日本人に配慮する仏要などない。
わたしはここでも故国のなつかしいにおいを満喫しようとした。
たとえば日本人兵士の使用したとされる水筒が展示されている。
わたしにはそれがとても愛おしいものに思えた。
この水筒の持ち主であった日本人を想像して、ご苦労さまでしたと心中で声をかけた。
資料館を出てバスに戻ると、
ツアーのアシスタントをしている若僧がにやにや話しかけてくる。
「どうだった?」というのである。むろん、わたしが日本人だと知ってのことだ。
かれはわけもなくほこらしげで無神経で押しつけがましく、
およそ中国人の持っている欠点をすべて集約させたような顔をしていた。
わたしは返答しなかった。
深夜の大連で、ぬるいビールをすすりながら、あの顔を思い出したのである。
似ていると思った。ツアー助手の若僧と売春婦がどうしてか似ている。
もしかしたらあれが中国人の顔なのかもしれないと思う。
一面愛らしくもあるが、べつの角度からながめると憎らしいとしかいいようがない。
物狂おしいほどに酔っぱらいホテルへ戻ると女はいなかった。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/1458-fd303a19

【哲学】についての最新のブログのリンク集  クチコミコミュニケーション  2007/12/26 19:17
哲学 に関する最新ブログ、ユーチューブなどネットからの口コミ情報をまとめてみると…