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言葉と苦しみ

山道を駅へ向けてくだっていたときに友人から言われた。
「ブログに書いてたよね」
「なにを?」
「なんだっけな。言葉は苦しみだとか」

違いますとわたしはただした。
言葉は苦しみではない。
苦しみは言葉だ、とわたしは書いたのです。
「へえ、そうなの」とわが親友は気楽なものだった。
芋焼酎で酔っぱらっていたのである。

このとき、わかった! と思ったのだ。
ああ、この偶然よ。今日という日のすばらしさよ!
わたしは苦しみは言葉であるとかつて書いた。
それを友人は、言葉は苦しみだと読み間違えた。

山道を千鳥足でふらつくふたりの泥酔者が発見したことである。
ふたつの考えかたがある。
1)苦しみ=言葉
2)言葉=苦しみ
どちらもおなじことである。一見すると、そうだ。
しかし、違うのである。わたしからしたらまったく違う。
苦しみは言葉に変換可能だが、言葉自体は苦しみでもなんでもない。

主体がどちらにあるかということだ。
主語に当たるのが主体。つまり――。
1)苦しみは言葉だ。
2)言葉は苦しみだ。
苦しみと言葉、どちらが主体かという問題だ。

わたしは苦しみがすべてだと思っている。
人間はどうしようもない事情でやむにやまれぬ苦しみに追い込まれる。
そのとき、かれは言葉を求める。言葉を書く。言葉を読む。
これがかつての文学であった。古いと嘲られるものだ。
苦しみが中心にあり、なんとか芯へいたるべく言葉は円周を描く。
これがかつての文学だった。

いまは反対である。苦しみが言葉なのではない。
言葉が苦しみなのである。
なんの苦しみもない人間が言葉に苦しみを見いだすと言ったら怒られるのか。
もとより現代思想、現代文学はよくわからぬ。
デリダ、ヴィトゲンシュタイン、ベケット、イヨネスコ。
共通しているのは、言葉が苦しみであるという根本姿勢ではないか。

酔っぱらったふたりはいい気分で駅まで歩いた。
そういえばわが親友は最近、ブログに長文を書かなくなった。
苦しみこそ言葉なのだと転向したのかどうか。
頑固なかれのことである。まさかそんなことはあるまい。

COMMENT

ムー大陸 URL @
12/13 00:19
. こほん♪
Yonda? URL @
12/13 22:50
ムー大陸さんへ. 

風邪ですか? よくありませんね。
手洗い、うがいを軽んじてはなりません。
どうかお大事に♪








 

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