庶民礼賛

国民をインテリと庶民にわける考えたかがあるが、
この区分に従うならばわたしはだんぜん庶民派である。
じぶんのことを庶民だと思っている。インテリの先生が嫌いだ。
庶民たることを誇りにしているといってよい。
庶民を描いた宮本輝、山本周五郎の大衆小説をどんな純文学よりも尊んでいる。
小説のなかの庶民は美しい。
貧しいながら助け合い健気に生きているのがフィクションにおける庶民である。
庶民過(あやま)たず。
庶民対権力者という牧歌的な対立構図を
いまだに信じているうぶなところがわたしにはある。
貧乏人ほど人間の苦しみや痛みを知っているからひとに優しいという、
歌謡曲や演歌の人間観をいまさならがら支持している。

いっぽうで庶民を一段も二段も見下す考えかたがある。
決してわたしの思想ではないが、
たとえば貧乏人はたちが悪いといったような見かたである。
衣食足りて礼節を知るという言葉が背景として持っている民衆像だ。
衣食の足らぬ貧乏人はなにをするかわからんという庶民蔑視がそこにはある。
けしからぬことだと思う。人間はだれもが平等であるはずである。
周知の通り、美醜貧富で人間を差別するようなことがあってはならない。
したがって最近、わたしの感じていることはおそらく誤りなのだろう。
どこか間違えているところがあるはずである。

数ヶ月前、引越しをしたのである。まえに住んでいたところは金持が多い地域だった。
家賃が高いということである。インテリ比率もかなり高かったのではないか。
ノンフィクション作家の立花隆氏も近所にお住まいでたびたびお見かけした。
そういうところだったのである。このたび引越しした先は対照的な地域。
がいして家賃が安い。わたしの大好きな庶民が大勢住んでいるところである。
これがひどいのだ。いや、わたしは間違えている。間違えているのだ。そうに違いない。
貧乏で無学な人間はみなみな美しくなければならないのだから。
わたしの目が曇っているとしか思えない。
だが、このあたりに住む庶民のマナーの悪さには辟易するほかない。
エレベータで会っても挨拶をしないひとがなんでこれほど多いのだろう。
庶民の子どもはどうしてこうも他人の迷惑を考えずに騒ぎまわるのか。
親も親で子どもがスーパーで駆け回っていても注意ひとつしない。
こちらが注意しようものなら、不審者あつかいされる始末である。
夜間でも自転車は決してライトをつけない。
親子で自転車で走っていて、どちらもなのだからあきれるほかない。
歩きタバコも多い。スーパーのレジで割り込む人間がいる。
スーパーの店員は近所のおばさんのパートタイム。
こういうところにいちばん地域差が現われるのではないか。
この付近のスーパーのパートさんの、なんと乱暴なことか。
会計するとき商品をカゴヘ投げ入れるなど日常茶飯事である。

ため息をつくしかない。わたしの大好きな庶民はどこにいるのだろうか。
庶民とは、ある種の作家の妄想のただなかにしか存在しえぬのか。
宮本輝は庶民派作家を自認しているが、小説を見たら決して庶民などではない。
かれの小説の主人公は歩くのを厭いタクシーに乗車、
高級レストランへ乗りつけ美食の限りを尽くす。こんな人間が庶民であるわけがない。
ふと、思う。
庶民礼賛をしているのは元庶民ばかりではないか。
成り上がった庶民が、おのが出自を持ち上げているに過ぎぬ。
考えてみれば、ほんとうの貧しい庶民が、庶民を絶賛している話など聞いたことがない。
貧乏人はおなじ貧乏人をバカにするものではありませんか。
そうだとすれば、庶民のわたしが庶民を嫌うのは道理である。
まだ庶民を礼賛できる身分ではないのだ。
運よく出世することがあり、庶民を見下ろせるようになったらそのとき、
庶民をここぞとばかり持ち上げて人気取りに励めばいいのである。
言うなれば、庶民は故郷とおなじようなものである。
故郷は遠くにありて想うもの。庶民も遠くにありて想うものだったのである。

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