「あした来る人」

「あした来る人」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖の小説のテーマは一貫している。
「生と死」「幸福と不幸」である。これは物語の根幹をなすものでもある。
ままならぬ生と死にはさまれた人間は、それでも幸福になりたいと思う。
けれども、ひとりの人間が幸福になるためには
他の人間を不幸にしなければならぬときがある。そのときどうしたらいいか。
この小説における最大の葛藤はヒロインが妻のいる男性を愛してしまうことだ。
ふたりが結ばれたら男性の妻は傷つくであろう。
なにゆえこのような葛藤が生まれるのか。
「持って生まれた」もののためである。
この「持って生まれた」は井上靖の小説で頻出する言葉だ。
先に、人間はままならぬ生と死にはさまれていると書いた。
この始点たる誕生の不自由を井上靖は「持って生まれた」と言っているのである。
結局、ヒロインは妻のいる男性のまえからすがたを消す。
これをもって保守的でいかんなどと批判するのは筋違いである。
井上靖は小説で道徳を説くつもりはなかった。
かの文豪は、定かならぬ生死に翻弄され、それでも幸福をめざす人間を愛した。
それだけなのだと思う。
一般的に物語作家の実人生は波乱万丈と無縁なことが多いように思う。
統計もなにもない。ただわたしの好きな物語作家がそうであるというだけの話だ。
かれらにとって波乱万丈は物語で書くもので、そのただ中を生きるものではない。
おのれが波乱万丈に生きることでどれだけの人間が傷つくのか。
本来的にモラリストである物語作家は、現実の波乱万丈には尻込みするのかもしれない。

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