「花壇」(井上靖/角川文庫)絶版
→建築会社の社長、江波棟一郎はオリエント旅行中、ある事件に巻き込まれる。
砂漠の真ん中でタクシーの運転手が病気になったのである。
これでは動きが取れない。偶然、知り合った白人の老紳士が江波に援助を申し出る。
じぶんのタクシーに同乗しないかというのである。
行きたいところがあるからと一度は断わった江波だが、老紳士は申し出を引っ込めない。
ついでだからそこへも行きましょうと言ってくれる。
江波はありがたく好意を受けることにする。
ところが、このタクシーが事故で崖の下に転落する。
たまたま地盤がゆるんでいたのである。
老紳士とタクシー運転手は即死。江波だけが運よく生き残った。
江波は考える。あの日、あの時間にあの場所を通ったから事故に遭遇したのである。
もし老紳士が親切心をださずに日本人を誘わなかったらこの事故は起きなかった。
老紳士はたいへんな人徳者で、この旅も無医村に診療所をつくるための下準備であった。
なぜ老紳士は死んで、じぶんは生き残ったのか。
江波は帰国すると周囲の反対を押し切り会社を辞める――。
江波の感慨を本文から引くとこうである。
「一人の人間が生きて行くということは、大勢の他の人間の運命を変えたり、
他の人間の人生によく働いたり、悪く働いたり、複雑なものなんでしょうね」(P107)
老年の井上靖は、主人公のさりげない会話に物語の真実を埋め込んでいる。
ありきたりな人生観だが、物語のすべてがこのせりふに凝縮されているといえよう。
しつこいがこの平易な文章を整理しながら繰り返すとこうなる。
「一人の人間が生きて行く」→「大勢の他の人間の運命を変える」
「一人の人間が生きて行く」→「他の人間の人生によく働いたり、悪く働いたりする」
上記の図式を「複雑なもの」と形容している。
このほんらい複雑なものを、わかりやすく読者のまえに提示するのが物語である。
少なくとも、井上靖の小説はそうである。複雑なものがわかりやすく書かれてある。
では、この複雑なものの正体とはいかなるものか。
事故直後から江波の内部に老紳士が住まう。
死んだ老紳士の声が江波には聞こえるのである。老紳士はこう話しかけてくる。
「――私も死に、運転手も死ぬ。あなただけが生きる。
私たち二人がなぜ死ぬかも判らないし、あなた一人がなぜ生きるかも判らない。
どういうわけで、そういうことになるのかは、誰にも判らない。
誰にも判らないから、
こういうことを説明するために運命という便利な言葉ができている。
すべてを運命というものに押しつけ、
一切を運命というもので片付けてしまう以外仕方がない」(P110)
複雑なものは運命とよぶほかない――。
井上靖は運命を描く作家なのである。
歴史から運命を見ることは容易だ。
栄枯盛衰という運命の別名を後追いすればいいのだから。
しかし、現代から運命を抽出せんためには、どれほどの視力が必要なのだろうか。
たとえば宮本輝は創価学会という色眼鏡をかけたわけである。
(宮本輝は運命を宿命へと捏造する作家だ)
井上靖に信仰はなかったようである。とすると、もともと超人的な裸眼をもっていたのか。
この視力は通常のものとは異なり、老いとともに冴え渡るもののようにも思える。
老眼にしか見通せぬものが、あるいは運命なのではないか。
「闘牛」で芥川賞を受賞したとき、井上靖は42歳になっていた。
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