「わが一期一会」

「わが一期一会」(井上靖/毎日新聞社)

→だいぶまえに母から買ってもらった本である。
一度も読まないで、いまになってようやくなのだから、まったく恥ずかしい。
おおむかしの中学生のころの話。
高校受験の入試は、当時このエッセイから多く出題されたのだったか。
いや、塾の教材でこの本からの抜粋を読んだのかもしれない。

抽象的なことを書く。井上靖の生きかたについてである。
この文学者は、追い求めることを生きる基本姿勢としているようなところがないか。
なにかを追い求める。手に入らないものを得ようと努力する。
決して入手できないものを、それが得がたいものだからという理由で、
結局はものにできないことをなかば知りながら、あきらめながら、それでも追求する。
たとえば「あすなろ物語」に克己という言葉が出てくる。
己に克つことなのできるはずがない。
だが、この物語のあすなろたちはがむしゃらに克己をめざす。
物語が終わったあとに読者は気づく。
だれひとりとして克己をなしえなかったことをである。

では、なにゆえ克己かなわなかったか。努力が足らなかったからではない。
星回りや運命というほかない大きなものにちっぽけな人間は勝ちようがないのである。
人間はいくら努力しようとできないものがある。哀しいが運命はあるのである。
ひとは思うがままに人生を生きられぬ。運命に左右される。
人間は巨大なものの影響力を偶然といったかたちでしか感知できない。
これを偶然と見るべきではないと井上靖は言いたいのではないか。
たしかに偶然だ。
しかし、それはこちらの気持の持ちようしだいで一期一会になりはしないか。
運命論というものがある。すべて運命に決められているという思想だ。
井上靖は運命論者に限りなく近い。けれども井上靖本人は否定する。

「運命というものに非常に興味を持ちますけどね、わたしは運命論者じゃない。
でも運命というものはおもしろいと思いますね。
歴史を振り返ってみると、人間が運命をつくっている。
乱世における武人の生死など運命的というほかないんですが、
それぞれがその運命を招んでいる」(井上靖「わが文学の軌跡」P86)


わかりやすく稚拙な換言をすると、こういうことではないか。
偶然のひとつひとつを一期一会と見ていくことでかれの運命が完成する。
ささいな出会いや事件への向き合いかたである。
受け流すのではなく一期一会をあたまの片隅にでも置いておく。
といっても、井上靖は説教をしているわけではない。
大会社の社長がにこやかに一期一会を成功の秘訣として語っているのとは訳が違う。
一期一会を重んじることで、
あるいは悲劇としかいいようがない運命が成就されるかもしれぬ。
だが、それもやはり運命だ。それが良かれ悪しかれ人間は運命を欲するものだ。
人間と運命は切り離せぬ。だが、運命はあまりにも巨大である。。
この日が差さぬ暗黒の大山にわけいるには一期一会を灯火(ともしび)にするほかない。

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