「憂愁平野」

「憂愁平野」(井上靖/新潮文庫)絶版

→母の墓参りへ行く日に、電車のなかで読んだ本。
昭和36年に連載された新聞小説である。
思うのね。井上靖、いいじゃないか。きれいで美しいものを読みたいじゃないか。
精神的にきつい日がある。そんな日には井上靖の中間小説を読むにかぎる。
文学的には取るに足らないものなのかもしれない。
けれども、それで励まされる人間がいる。
この読者を愚民と見くだすインテリとは生涯縁を切りたいと思っている。

井上靖はもてない男をえがくのがうまい。正確を期すと、もてないではない。
井上靖は、たとえば小谷野敦のようなゆがんだ小物(こもの)を描写したりはしない。
ふられた男である。ふられた男をえがく筆致が冴えわたる。
この「憂愁平野」では彫刻家である。かれは遠縁にあたる娘をずっと想っていた。
大いなる片想いである。そうとは知らぬ娘が兄のように慕う彫刻家のもとへ相談に来る。
娘は妻のある男性に恋をしている。告白をしたという。
女房もちの男へ愛を告白してきたというのである。
じぶんを長いこと愛している彫刻家へ向かって、こんな残酷な報告をする。
彫刻家は待てという。

「待て。――ウイスキーを飲みながら聞く」(P469)

酒でものみながらでなければ、好きな娘の恋愛相談などのれるはずがない。
女にはこういう残酷なところがある。しかしこれは短所ではない。女の魅力だ。
邪推しすぎの感もあるが、これが井上靖の女性観ではあるまいか。
娘は彫刻家の気持を逆なでするように、みずからの愛を披露する。
妻のある年長の男性に愛を告白した。

「ずっと前から、何年も何年も前から、
わたしひとりだけで考えていたことを、みんな話しちゃいました」(P471)


彫刻家は叫ぶ。「ばか……」

「口に出さないで仕舞っておけばいいんだ。
それを口に出したとあっては、もう駄目だ。救えん。
泥沼に落ちるだけの話だ。また薄汚いことをしたもんだ」
「薄汚いでしょうか」
「薄汚いに決っている。
愛だの恋だのというものは、死んでも口に出すもんじゃないんだ。
映画を見て、自分も一つあんなことをしてみようと思ったんだろう」(P472)


のちに彫刻家は娘が恋敵と関係を持ったことを知るにいたる――。

いいね。片想いはよろしい。片想いにこそ純粋で誠実なものがある。
恋愛は相手がいることだから、ひとりではどうにもならない。
向こうが好いてくれないと恋愛は成立しない。
けれども片想いなら、相手がどう思おうが一向にかまわない。
相手に配偶者がいようが恋人がいようが片想いならば迷惑をかけない。
片想いをしたいと思った。
墓参りの日はたいがい雨なのだが、この日はめずらしく晴れた。
墓のまえで寿司を食べた。酒をのんだ。

(参考)「大きな片想い」
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/ookina_kataomoi.htm

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