FC2ブログ

「男たちの旅路」

新宿ツタヤでDVDを借りて視聴。山田太一ドラマ。全14話。昭和51~54年。

むかしからテレビドラマとはありきたりな日常を描くもので、
それならばとあまりにもありきたりなことを言わせていただくと、
悩みのない人間なんてどこを探したっていないわけである。
だれもがあこがれる金持や有名人にも悩みはある。
とるにたらない凡庸な人間にも、そのひとだけの特別な悩みがある。
人間だれしも欲望をもつ。あーしたい、こーしたい。あれがほしい、これがほしい。
みなの欲望がかなうはずもない。
だれかがいい目を見る裏側で多くのひとが苦汁をなめなければならない。
いったんは欲望を充足したものも、翌日からは新たな欲望のとりこになる。
脱線するが、だから仏教では執着を捨てろというのである。
根本の欲望を捨ててしまえば、もう悩み苦しむことがなくなるという理屈だ。
けれども、テレビドラマの登場人物がどんどん出家してしまったらドラマにならない。
(出家先の寺院での闘争を描くことは可能かもしれないが)
出家できない我われとおなじようにテレビドラマのなかの俳優陣も悩み苦しむ。

仕事の最中に困っているひとを見かけたら仕事をなげうってでも助けるべきか。
父親は家出した娘を殴るべきか抱きしめるべきか。
むかし話の好きな老人の饒舌にどこまで耐えるべきか。
ほんとうにうたいたい歌をうたわせてもらえない人気歌手は引退すべきか。
親子ほど年の離れた若い娘から求愛された中年男はどうすべきか。
愛するものに死なれたものは、
酒びたりで死ぬのを待つのが誠実か、それとも心機一転やりなおすべきなのか。
会社のためだったら、ばれないとわかっていたら、
まして他人に迷惑をかけるものでなければ、そうと知りつつ法規を犯してもいいのか。
そもそも、じぶんのために他人へ迷惑をかけてもいいのか。
以上、「男たちの旅路」からいくつか苦悩を抜粋してみた。

哲学上の深刻な苦悶はどこにもない。
とるにたらない悩みだと哲学青年なら一笑にふすものばかりであろう。
しかし、だれもが卑賤ともいうべき悩みをかかえて生きているのも現実なのだ。
たとえば、引越会社の営業がいる。
むかむかする顧客におべっかをつかってようやく契約をとった。
ところが、電話一本でかんたんに契約をくつがえされてしまう。
それもたかだか2千円安いというだけで。こんな理不尽なことがあってたまるかと思う。
客を怒鳴りつけてやりたくなる。人間として、おかしかないか。
だが、じぶんは営業マン。こんなものだ。世の中、こんなもんじゃないか。
いちいちカッカしてもはじまらない。けれども、あの客だけは許せない。
ふざけるなと怒るか。こんなものだとあきらめるか。
(以上は先日、加害者の立場で経験したこと。営業さん、ごめんなさい……)

実のところ、どの問いにも答えはないのである。絶対的に正しい答えはない。
この地点から山田太一はドラマを書き始める。
答えがわからないからドラマを書く。
あるいは、絶対的に正しい答えがないことをわかっているからドラマを書く。
風呂あがりでくつろいでいる視聴者に、あなたならどうしますかと問いかける。
ときにはヤクザのように切っ先を突きつける。おい、あんたならどうするんだい?
「男たちの旅路」はとくに反響があったようである。
テレビ局へ視聴者からの手紙が集中したという。
テレビが熱かった時代の話である。山田太一ドラマならではともいえよう。
何度か山田太一の講演会へ行ったことがあるが、氏はとにかく断言をさける。
持ってまわった言いかたをする。条件をつけながら、話をすすめていく。
もしこうであるならばこうだが、べつの場合はそうとも言えないわけで……。
安っぽい教訓など口が裂けても言わないぞという意気込みを感じたものである。
人生に答えなどないことを知り尽くしたドラマ作家という印象を受けた。
言いかたをかえれば、答えがないからドラマを書くのである。
答えがわかっているのなら評論にでも書いたらいいのだ。
売れた芸能人が好んで出版するような人生論エッセイにしてもいい。

ふたつにひとつを描くのが、ドラマなのである。
山田太一の好む二者択一に、たとえばつぎのようなものがある。
世慣れた世間知と、青臭い正論の対立である。
「世の中なんてこんなもんだ」と、「そんな安っぽいことを言うなよ」の葛藤。
ときとして山田ドラマが「野暮ったい」「クサイ」と批難されるゆえんである。
極端なことを言うと、山田ドラマは赤信号をわたるなと注意する老人をイメージさせる。
それも車の往来がない道路の横断歩道で、むやみに口うるさい老人である。
山田ドラマの特徴は、赤信号をわたる若者の描きかたにある。
この若者は老人を無視しない。
「すみません」などとへらへら笑いながら逃げたりはしない。
お茶を濁したりはしないのだ。うるさいと怒鳴りかえす。横断歩道を引きかえす。
どうして車の通っていない横断歩道をわたってはいけないのかと逆に問いつめる。
そう、ここからドラマがスタートするのである。
あなたなら赤信号をわたりますか?

ドラマ「影の領域」から(「男たちの旅路」第4部第2話)。
新入社員がいる。上司の不正を発見する。上司からは言いくるめられる。
世の中、こんなもんだ。みんなやっていることじゃないか。
私腹を肥やしているわけでもない。すべては会社のためなんだ。
業者からも嘆願、いや、哀願される。

「商売ってものは、そういうもんですよ。
向うが汚い手をつかってくるなら、こっちも、それ相応の手を考えなきゃ、
つぶされちまうんです」(P176)


上司は部下の新入社員を懐柔しようとする。

「(君は)世の中知ってる、と踏んだんだ。
バレても、君なら、分ってくれるだろうと思った」(P178)


新入社員はじぶんも大人になろうと思う。
けれども、どうしても納得がいかない。
社長のもとへ進言しに行く。社長はすでに知っているという。
ほめられると思ったら逆に叱り飛ばされる。
忘れろと大声で怒鳴られる。いい子ぶるんじゃないと突き放される。
新入社員はがっかりする。世の中、こんなもんか。
そこに現われるのが「男たちの旅路」のヒーロー、鶴田浩二である。

「こういうことを、うやむやにしてはいけない。
大人だかなんだか知らないが、世の中分ったような顔をして、
こういうことを許しちゃいかん。(……)
汚いことは汚いことだ。悪事は悪事だ。
それを曖昧にして、結局はうまく立ち回った奴が勝ちというようなことが多すぎる。
悪い事だ、と、言いにいった君が、世間知らずのようになってしまう。
そんなことで、いい筈がない」
「でも――」
「でも、なんだ?」
「裏表っていうのは、やっぱりあるんじゃないんですか?
悪いから悪いって、なんでもかんでも、
あばけばいいってもんじゃないんじゃないですか?」
「そんなことで、どうする?
お前が一生かかって、あばいたって、まだ裏はあるんだ。
はじめから、世の中こんなもんだ、と決めてどうするんだ?」
「そりゃあ、そうだけど――
悪いことをした奴にも、無理もないところや、
人情として許せるっていうところとか、そういうところがあると思うんだよね」
「悪いことを憎めない人間に、そんなことを言う資格はない」
「現実には、そうするしかないっていうことだってあるんじゃないですか」
「だから、なにもかも曖昧にして許せと言うのか?
ギリギリのところでなければ、そんなことを言ってはいけない」
「じゃ、どうするんですか?」(P186)


しかしだ。山田太一はこのレベルでとどまる作家ではない。
むろん、ここまででも最上級のドラマ作家であることは疑いえぬ事実である。
だが、山田太一はさらに深い人間のドラマを描こうとする。
ふたつにひとつを書くだけのドラマ作家ではないのである。
赤信号をわたるか、わたらないかだけの作家ではないということだ。
世の中は、ふたつにひとつでまとめられるほどかんたんなものではない。
青信号をわたっていた少年が居眠り運転のトラックにひき殺されてしまうこともある。
トラックのドライバーは、それまで無事故無違反の運転手だった。
ところが息子が重病になる。手術にはカネがいる。
無理な仕事も引き受けなければならない。疲労がたまる。ようやく仕事が終わった。
会社へ戻って、さあ病院へ行こうかというときの事故だった。
ついうっかり気がゆるんでしまったのである。この事故でだれが責められるのか。
ふたつにひとつなどと図式にしようとしても、どだい無理なのである。
どうしようもないわけだ。世の中には、どうしようもないことがある。
打つ手立てがないこともあるのである。
ふたつにひとつの、ふたつという選択肢でさえないこともあるということだ。
このとき人間のなしうるのは泣くことだけである。

最後に「男たちの旅路」で、もっとも有名なシーンを紹介する。
第4部第3話。「車輪の一歩」。
川島敏夫(斉藤洋介)は車椅子の青年。座敷で寝るところである。
その横で枕カバーを替えている母親。
父親は茶の間でテレビを見ながら酒をのんでいる。

川島の声「いま考えると、よくあんな事頼めたもんだと思うけど、
その時はすごくせっぱつまった気持だったし、俺は稼ぎやたら少なかったし、
親父は、厄介者の俺が嫌いで口きかなかったし、
お袋に頼むしかなかったんですよね」

川島「(目をつむっていて)お母ちゃん」
母親「うん?」
川島「俺、一遍でいいから、トルコへ行ってみたいんだ」
母親「トルコって、外国の、あの」
川島「そんな所へ行きたがるわけないじゃないか」
母親「じゃ、あの、なにかい?」
川島「きまってるだろ」
母親「――(見ている。テレビの音、止る)」
川島「俺、女にもてないだろ。嫁さん来ると思う?
一遍だけでいいから、ああいう所でもいいから、女の人と、つき合ってみたいんだよ」
母親「――」
川島「一生、女なんか、縁ないかもしれんもんな」
父親「――(後姿で黙っている)」
母親「――」
川島「(目を閉じている)どうなの? 黙ってるんだね。
俺だって、金がありゃあ、お母ちゃんに、こんな事、頼みやしないよ」
母親「行っといで(とせきこむように言い)いいよ。行っといで。
いくら、ぐらい、あったらいいんだい?」
父親「三万か四万やっとけ」
母親「え?」
川島「(目をあける)」
父親「(後姿で)三万か四万やっとけ。
いいか。ケチるじゃねえぞ。チップははずむんだぞ」
母親「だけど、そんなお金」
父親「バカヤロウ。その位の金、俺が、どうにだってすらあ」
川島「(天井を見ている)」
母親「目を落し、うなずく)」
父親「――どうにだって、すらあ(と小さく言う)」

●トルコ街(夜)

川島、車椅子で行く。
川島の声「翌日の晩、お袋が下から上まで新しいものを着せてくれて、
金は四万五千円も持って、出掛けたんだけどね、車椅子は駄目だって言うんだよ。
何処へ行ってもころんだりして、事故があったとき、責任持てないって断わられて、
結局、ウロウロしただけで、十一時すぎにね、家へ帰って来たんだけど、
断わられたなんて、言いたくなくてね」

●川島家・玄関

川島「(ガラッとあけ)ただいまッ!(と明るく)ハハハ、ハハハハハハ」
母親「お帰り(助けてあげようとして)
やだよ、この子は、ゲラゲラ笑って(と土間へおりる)」
川島「そりゃあそうだよ、やっぱりさ、おかげさまでさ。
ハハハ、フフフ(顔が歪み)行ってよかったよ。よかった(と泣き出してしまう)」
母親「敏夫――」
父親「(現われ)どうした?」
川島「(ワーワー泣いている」(P227)


人間にはどうしようもないことがある。
選択肢もなく、ただひとつのみ、いやがおうにも、
受け入れなければならない現実というものがあるのだ。
なしうることはない。なにもできないのである。選択肢がない。
じっとこらえるしかない。許されるのは、せめて泣くことくらい。
繰り返すが、人間のちからではどうにもしようがないことが世の中にはある。
このとき人間はなみだを流す。
さて、このなみだをどうとらえるか。
なにか大きなものに泣かされていると見るか、意識的に泣いていると考えるか。
宿命か自由かの問題である。

(注)「車輪の一歩」は障害者問題を考えるうえで優良な
教育的ドラマという位置づけにあるようだ。
大きな間違えである。このドラマの斬新さをまったく理解していない。
このドラマの凄みは障害者の悪意を描いたことにある。
ネットで検索したが、だれもこの部分に触れていなかったのは残念。
ドラマ冒頭、車椅子の障害者たちが健常者へ復讐しようとする。
かれら障害者の鬱屈した表情がたまらない。のちに車椅子のひとりが述懐する。

「ぼくらは、この人たち(健常者)にとりついて
めちゃくちゃにしてやろうと思ったんです」(P210)


どうして現代のテレビに登場する障害者はみんな明るく健康的なのだろう。
乙武先生しかり。「愛は地球を救う」の障害者軍団もそう。

*引用は「男たちの旅路2 山田太一作品集4」(大和書房)によります。

COMMENT

bk URL @
06/09 18:53
. 旅行でレベルアップしたのかな。
完成しつつありますね。
そろそろどうですか、対価貰って書きませんか。
どこかに応募したらいいのにという意味です。

Yonda? URL @
06/10 17:04
bkさんへ. 

完成ですか。
まだスタート地点にも立っていないという自覚があります。
旅行で認識したのは、己のファラン(白人)ぎらいです。
わかりやすく言うと、
なんだ、シェイクスピアもファランじゃねえか! です。
応募したいですね。おカネほしいです。がんばります。
びん URL @
07/30 06:13
. はじめまして。
障害者団体と関わることが多いのですが、「車輪の一歩」をバイブル的に捉えている人々が非常に多いです。

「いまの私はむしろ、君たちに、迷惑をかけることを恐れるな、と言いたいような気がしている」
私は、むしろ堂々と、胸をはって、迷惑をかける決心をすべきだと思った」

「そんな事が通用するでしょうか」
「通用させるのさ」

障害者(団体)の人たちはこの部分だけを抜き出して語ります。最近の乙武氏の問題等考えてみると、自分たちが都合良く解釈できるところを抜き出してそれを利用する。まぁ障害者云々関係なくそういう面があるわけですが…。現在は障害者の悪意を描くことはほとんどタブーになりつつあるように感じられてなりません。
Yonda? URL @
07/30 22:03
びんさんへ. 

はじめまして。コメント、ありがとうございます。
脚本家の山田太一先生は、時代のいい流れに乗ったようなところがございます。いまは(乙武先生だけかもしれませんが)障害者が健常者よりも威張っているイメージがなきにしもあらずなので驚きます。時代の変化でしょうね。

ここだけの話としてこっそり書きますが、女性問題もそうではないでしょうか。びんさんが女性だったら気まずいのですけれど。3、40年まえは女性も障害者とおなじ弱者あつかいでした。弱者たる女性の気持をよく理解した山田太一ドラマは女性層の圧倒的な支持を受けました。

いまの女性の強さはどうでしょうか。うっかり女性を怒らせる発言をすると社会的制裁を受ける羽目におちいります。盗撮程度で実名報道、社会的抹殺などひどいにもほどがあります。いまテレビ局がもっとも気を使っている対象は若い女性と聞きます。婚活とかも圧倒的に「か弱き」女性が有利なような気がいたします。間違いかもしれませんけれど。

しかし現代、障害者の悪意は完全なタブーですが、女の正体が悪魔(あるいはありがたき菩薩!)であるということはまだ商業レベルでも書けそうなので、女性問題は障害者問題ほどややこしくこじれていないのかもしれません。個人的な意見としては、血縁に障害者がいない健常者ほどきれいごとや自分の正義に酔うので始末が悪いと思います。








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/1201-87ebd0eb