「タルチュフ」

「タルチュフ」(モリエール/鈴木力衛訳/岩波文庫)

→戯曲。フランス産。
傑作古典戯曲は、劇とはなにかを考えるうえで好都合である。
劇とは、人間が生まれ持った性質から生じるものである。
ひと言でいえば、人間は無知なのである。対置されるは神の全知。
人間と神の関係、無知と全知の関係が、いわば劇の構造である。
無知たる人間が、全知の神へいどむのが劇だ。

我われ人間はおのが無知をそう意識することもなく生活している。
むろん全知には及ばないが、そこそこは世界を知ったつもりでいる。
なにか行動するときは、以前から蓄積している知識を参考にして決定する。
かつての経験から未来を予測し、選択肢のひとつを選び行為にいたる。
たいがいの人間の生きかたである。

「タルチュフ」――。
無一文の詐欺師であるタルチュフが、ある一家へもたらす騒動を描いている。
家主のオルゴンはなかなかの資産家。タルチュフを宗教的偉人だと尊敬してやまない。
実のところ、このタルチュフはいかがわしいペテン師で、この家の財産が目当て。
のみならずタルチュフはオルゴンの妻のエルミールへ横恋慕している。
オルゴン以外の家族はみな、
このタルチュフがとんでもない詐欺師であることを見破っている。
だまされているのは家長のオルゴンのみである。
ついにはオルゴンは、ほかに恋人のいる娘をタルチュフへと嫁がせようとする。
そのうえ全財産をタルチュフへ贈与することも計画している。

劇とは、かならず観客の存在を前提にしている。
観客はタルチュフがいかさま師に過ぎぬことを知っているわけだ。
すなわち、オルゴンの無知に比して、観客たる我われは全知の立場にいるといえよう。
このためタルチュフにだまされつづけているオルゴンをこっけいに感じる。
この喜劇のメインは演劇における無知と全知の関係を象徴している。
エルミールが夫のオルガンへ言うのである。タルチュフは詐欺師。
これからそのことを証明してみせるから、このテーブルの下に隠れていなさい。
オルガンが盗み聞きしていることを知らずにタルチュフが登場する。
タルチュフはいつものように恩人の妻であるエルミールを口説きはじめる。
そのうち無一文の自分を救ってくれたオルゴンの悪口まで言う始末。
観客は、ここで大笑いするはずである。
なぜなら観客はすべてを知っているからである。
テーブルの下にオルゴンがひそんでいること。タルチュフが詐欺師であること。
ひとり知らないのはオルゴンである。
無知のオルゴンは、この場面でようやくにしてタルチュフが自分を裏切っていたことを知る。

このあと多少のてんやわんやがあって、最後は国王からの使者の取りはからいで、
すべては丸くおさまる。勧善懲悪がなされる。
だが、重要なのはハッピーエンドよりも、むしろ終幕まえのクライマックスである。
オルゴンがようやく観客の知へ追いついた瞬間である。
これを快感に思うのが芝居の観客なのである。笑わざるをえない。
我われとて、いつオルゴンになるとも知らぬ存在ではないか。
人間はおのが無知を忘れて、あたかもオルゴンのようにふるまっているが、
いつ我われにあのテーブルの場面がやってくるかわからないのである。
この無知と全知の関係が、劇的なるものの本質である。
「人間・この劇的なるもの」のありかたは、全知をまえにした無知者のおそれだ。
人間は決して全知にはなりえぬ。どんな人間も神ではないのだから無知である。
ならば、どうして我われがあの愚かなオルゴンにならないと言い切れるものか。
観客から大笑いされる喜劇役者になる恐怖だ。
役者なら覚悟があるからまだよろしい。
しかし、我われ一般人が突然舞台でオルゴンの役をあてがわれたら――。

ギリシア悲劇「オイディプス王」を思い返してください。
国王オイディプスは、はなはだ傲慢な人間である。おのが知を誇っている。
というのも、かつてスフィンクスのだす難問を解いた経験があるため。
その業績が評価されて国王の座に着いたのが、ほかならぬオイディプスそのひと。
国王はおのれの知でもって解決できぬ問題はないとおごっている。
ところが、またもやテーバイの町へ不幸がおとずれる。飢饉、災厄である。
この国土の荒廃をなんとかしようとオイディプスが原因究明に乗り出すところで、
この悲劇は幕を開ける。
閉幕直前、明らかになるのは、すべての原因がオイディプスにあったこと。
父を殺し、母と寝たがために、テーバイの国土は呪われたのである。
オイディプスはおのが無知を悟る。全知を誇っていた過去を恥じる。
この(人間の)目は、なにも見通すことができないではないか!
オイディプスが両目をつぶすゆえんである。
なにも見えない目なら、役に立たない目なら、いっそのことつぶしてやる。
全盲の闇のなかで、しかしオイディプスはかつてよりは全知に近づいているのだ。
全知の存在があることを知っているからである。
人間がどうしようもなく無知であることを知るにいたったからである。

オルゴンならまだ笑って済ませられるが、オイディプスになるとそうはいかぬ。
喜劇と悲劇の相違だ。
しかし、本質的な部分では喜劇も悲劇もおなじであることをご理解いただけたと思う。
またもや定式化する。

「劇」=「人間(無知) vs 神(全知)」

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/1098-bd7f71fb