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「まだそんなに老けてはいない」

本日放送の山田太一ドラマ「まだそんなに老けてはいない」。感想を述べる。

山田ドラマの特徴というのは切実さにある。切実な現実認識。
なるべくなら見ないで済ませたい現実を、さあどうだ! 
と嫌がらせのように視聴者の面前にもちだしてくる。ハッとさせるわけだ。
かといって、ドラマのなかの人間が、現実へ正々堂々と向き合うわけではない。
それは映画の仕事である。でっかいスクリーンのなかにいる人間がやればいいこと。
テレビのやりかたではないと山田太一は考える。
ちいさなテレビ画面にうつしだされるのは、いわば自画像。ちっぽけな我われだ。
このときテレビは鏡となる。

切実な現実に勇敢へ向かっていく英雄を山田太一は決して描かぬ。
このテレビ作家の描くのは、現実に右往左往する小市民。
あたふたしながら現実から敗走する人間を好んで描くのが山田太一である。
といっても、そうそう現実から逃げ切れるものではない。
それが切実なものであればなおさらである。
現実に包囲された人間は、
一瞬こそ映画のような英雄的行動を取ろうとするがうまくいかない。
せめてできるのは頭をかきむしるくらいである。
見ないで済ませたい現実だが、四方八方を現実に囲まれてしまったから、
やむなくかれは現実と対峙する。むろん及び腰。かなうはずがないのはわかっている。
かれは現実のほころびをなんとか探そうとする。
そのためには現実に土下座をも辞さぬ覚悟がある。
いったん現実へつかまった人間は、また現実から逃走するのである。
どこへか。新たなフィクションをめがけてだ。
まとめると、こうなる。
かつてのフィクションは現実のまえにもろくも崩れ去った。
だが、人間は新しいフィクションを作ることでこの現実を乗り越えることができる――。

「まだそんなに老けてはいない」が山田ドラマにしては単調な理由は、
切実な現実がないためだろう。
山田太一は上品なおとなのドラマを志向した。
いつもの泥臭いドラマを意識的に回避した。
このドラマにおける現実とは、せいぜい老後の退屈な生活くらいのもの。
ある世代にとっては切実な問題だろうが、万民の共感するところではない。
消防隊員の中村雅俊は怪我で休職中。2年後に定年を控えている。これが現実だ。
どこへ逃げるかというと、どきどきするような恋である。
といって、山田太一はラブホテルの利用を拒む。
中学生のような恋である。喫茶店でコーヒーを飲むだけ。
あるいは、中学生以下かもしれぬ。
たがいに配偶者がいる中年の男女はキスすらしないのだから。
ときめきである。夢のような一瞬。恋のようなもの。フィクションである。
むろん、ふたりは結ばれることはない。手もにぎりあうことなく別れる。
別れて生きていく。中村雅俊は復職して職場へ戻る。
相方の余貴美子はカナダへ行く。それだけである。
また、ふたりは新たなフィクションを生きるのであろう。
たいしたフィクションではない。いうなれば淡い期待のようなもの。
もしかしたら、なにかあるかもしれない。この程度のフィクションだ。

中村雅俊のこのせりふがよかった。
妻子持ちで定年前の中年男が、人妻と上品な喫茶店でコーヒーを飲む。
キスもしていない。手もにぎっていない。
だのに、中村雅俊はこんなことをいう。

「こんなことが、まさかおれの人生にあるなんて、思ってもいませんでした」

団塊の世代のどれほどが「まだそんなに老けてはいない」を見たのか知らない。
だが、かの世代は思うはずである。
もしかしたら、もしかしたら、自分にも、あんなことが――。
余貴美子みたいな美女が、中村雅俊のような渋い男が。
いや、岸辺一徳レベルでいい。MEGUMIは無理でも原田美枝子くらいなら。
喫茶店でコーヒーを飲むくらいだったら、もしや自分の人生にも――。
フィクションである。気休めとわれながら笑いたくなるようなフィクション。
しかし、老後に絶望して自殺するよりは、
よほどフィクションを生き抜くほうがいいではないか。

ちなみに中村雅俊が怪我をしたのはある出火が原因である。
老人夫婦が絶望して心中。周囲の迷惑なんて知ったことかと自宅に火をつけた。
そこに消火へかけつけたのが中村雅俊演じる消防隊員。
かれはこの火事場で足を怪我したのである。
同時に、この光景がトラウマにもなる。
命を救おうと火災現場へ突入したら、老夫婦は命なんていらないと投げ出していた。
あんなふうになるくらいなら、現実がああなるほかないなら、せめて、せめて。
フィクションのどこが悪いのだろう。現実ってそんなにえらいのかな。
山田太一がテレビドラマで一貫して訴えきたテーマである。

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