「ヴィルヘルム・テル」

「ヴィルヘルム・テル」(シラー/桜井政隆・桜井国隆訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
この芝居で有名なのは例のあれ。子どもの頭のうえにリンゴをのせて父親が矢で射る。
刑事ドラマの時限爆弾ネタ(切るのは赤の線か青の線か)に通じるものがある。
ここではリンゴの場面を少し詳しく見ていきたい。

なにゆえヴィルヘルム・テルが息子の頭上にあるリンゴを射なければならなかったか。
テルがささいな粗相をお代官様にしたためである。
立腹したお代官様はヴィルヘルム・テルに命じる。以前の恨みもある。
子のリンゴを射よ。さもなくばおまえの首はないと思え。
みごとリンゴを射抜いた場合のみ、おまえの命を助けてやろう。

「――これ、なにをもじもじしている。
死に値する罪を犯したから、殺してもいいやつだが、見ろ、
慈悲をもって一命だけは日ごろ鍛えたお前の腕にまかせてやる。
おのが生死を自由にすることが出来たら、無慙の宣告だなどと嘆きようはあるまい。
百発百中はお前の自慢ではないか。
さあ、射手、今こそお前の腕を見せるべき時だ、
的は上等、褒美は莫大だぞ」(P125)


シラーは人間の自由を追求した劇作家である。
この場面でヴィルヘルム・テルに自由はあるのだろうか。生死の自由である。
まずは最初の二者択一。射るか、射ぬかだ。射なければ即刻、死である。
矢を射る場合においてのみ、つかの間の生が許されている。
だが、このときにも、ふたつにひとつである。
矢がリンゴを射抜くか。はずれるか。前者が生、後者が死を意味する。
矢のはずれた場合さらにリスクがあって、
ややもすると愛する子どもを傷つけてしまうかもしれない。
最悪、死はのがれても、顔に矢のあたる危険性は高い。
みなさまならどうなさるかは知らぬが、テルは何度も代官へ嘆願する。

「あれを射るのは免じてください。代りにここの胸を。(胸をかきひろげる。)
御家来衆を呼んで私を刺し殺させて下さい」(P128)


代官はダメだという。射よ、と命ずるのみ。さあ、どうするか。
射られる子どものせりふも紹介する。

「なぜ目かくしがいるんだ。父ちゃんの射る矢を僕がこわがると思っているな。
僕、じいっと待っている。瞬(またたき)だってしやしない。
――さあ父ちゃん、早く名人の腕を見せておやりよ。
あの人は父ちゃんの腕を疑って、僕たちを殺す考らしい――
あの肝癪もちのつらあてに、早く射あてておくれよ」(P127)


テルの矢はリンゴを射抜くという結果から見たら、これは美談のようにも思えるが、
その実、かなりきわどい場面であることを何度も繰り返して注意をうながしたい。
ヴィルヘルム・テルはどうして矢を放ったのか。
最終的には、自分の腕に自信があったということに尽きる。
とすると、テルは伝説の英雄ではなく、神をもおそれぬ傲岸不遜な人間ではないか。
こころのうちで祈りの言葉を発した可能性は考えられるが、
せりふを見るかぎりテルは神へ依頼をしていない。
「平家物語」の那須与一でさえ神明への嘆願をしているというのにである。
おのが名誉のみが問題の那須与一でさえも、なのだ。
なのに親子ともどもの命がかかっているこの場面で、
ヴィルヘルム・テルの口から神の御名がでてこないのは珍妙である。

たとえばどこかの社長さんが、このエピソードを社員への訓戒に用いるかもしれない。
何ごともやってみなくてはわからない。チャレンジの精神がなによりも大切だ。
我われもヴィルヘルム・テルを見習おうじゃないか。
チャンスにリスクはつきもの。重要なのはチャレンジ、チャレンジ!
こんなふうに社員を叱咤激励するわけだ。
やってできないことはない。がんばればなんでもできるの思想である。
裏返せば、できないのはがんばっていないからということになる。
だれでもヴィルヘルム・テルのようにがんばれば、矢はかならずリンゴを射抜くというのだ。
もちろん、それはちがうわけである。
この芝居だけではなく、世事全般、突き詰めれば、この手のふたつにひとつである。
結果が失敗だったら選択が誤り、結果が成功なら選択が正しい、とかれらは言う。
ヴィルヘルム・テルの矢がリンゴを射抜けば、射手は成功者。
英雄として語り継がれる。
だが、もしだ。テルの矢が子どもの頭を射抜いていたら、世のひとはどういうか。
なんと愚かな人間と、ヴィルヘルム・テルをあざわらうのではないか。
同情はするかもしれぬ。だが、決して英雄にはなりはしない。
この男が自分の力を過信した咎(とが)を責められるのは避けられまい。

忘れてはならない。我われはこのような世界を生きていることを。
「ヴィルヘルム・テル」は、シラー劇ではめずらしいハッピーエンドである。
ヴィルヘルム・テルのリンゴのエピソードに励まされた人民が蜂起し自由を獲得する。
スイスの人民が旧権力を打ち倒すのである。
この芝居を見て(読んで)喝采するのもいいだろう。
だが、決して忘れてはならない。
これはたまたま運がよく矢がリンゴへあたったからこうなったに過ぎぬことを。
はかり間違えば不幸のどん底である。わが手でなにより大切な子を殺害する――。

ふう。これで「フィエスコの叛乱」(岩波文庫)をのぞく、
シラーのすべての劇作に目をとおしたことになる。
自己満足にも似た達成感を満喫しながら、
ふと思い出すのは山本周五郎の人生訓である。
この大衆小説家はブラウニングのある言葉を座右の銘にしていたという。

「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかで決るのではなく、
彼が生きていたとき、なにを為そうとしたか――である」


行為の結果は人間のあずかりしらぬこと。運不運がどうしてもある。
成功者をことさらあがめるのはやめよう。敗残者を必要以上に見下すのもやめよう。
問題は結果ではない。業績ではないのだ。
何を為したか、ではない。何を為そうとしたか、である。
こう考えるなら、よしんばヴィルヘルム・テルがわが子の頭部を矢で射抜いたとしても、
この英雄への評価はなんら変わることはない。
かれは生きようとした。ヴィルヘルム・テルはわが子とともに生きようとしたのである。
成功しようが失敗しようが、ヴィルヘルム・テルは自由を求めたことに変わりはない。
この英雄はみごとリンゴを射抜いたから偉いのではない。
人間の自由の限界を生き抜いたからヴィルヘルム・テルは英雄なのである。

(付記)ちょっとした遊びごころで付言するのをお許し願いたい。
一部のひとにしかわからないネタを使うのはあまり好きではないのだが。
ふふふ。書いちゃおう。
学歴や収入、肩書きで人間を判断するのを好む、
「死んでしまえ」が口癖の某評論家はやはり人間がいやしいと思う。

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