「群盗」

「群盗」(シラー/久保栄訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。
世界演劇巡礼もそろそろ終着地が見えてきたような感がある。
シラーは最後の山脈といったおもむき。
かんたんなシラーの情報を記すと、かれはシェイクスピアの影響のもと劇作を開始。
後年、ロシアの文豪、ドストエフスキーに多大な影響を及ぼす。
私事を書くが、海外文学へ分け入るきっかけはドストエフスキーであった。
そして、戯曲に分け入る契機となったのはシェイクスピア劇。
ブログ「分け入つても分け入つても本の山」も、
ひと区切りをつけるときが来たのかもしれない。

「群盗」はシラー18歳時に執筆を始めた、この劇作家の処女作である。
シェイクスピアの手のひらのうえで繰り広げられる芝居といってもよい。
シラーこそ、シェイクスピアの嫡流である。
この作家ほどシェイクスピアの影響を受けた劇作家はいまい。
「群盗」はシェイクスピア四大悲劇をつぎはぎすることで書かれている。
順に「リア王」「オセロー」「ハムレット」「マクベス」である。

まずは「リア王」から劇の端緒を借りてくる。
兄弟の不仲。というよりも、弟の兄への嫉妬である。
これは「リア王」におけるエドマンドのエドガーへの仕打ちを連想させる。
父親は領主である。この領地を継ぐのは兄のカアル。
兄は容貌性格どの面においてもすぐれている。弟のフランツは兄へ嫉妬する。
フランツは父親に讒言(ざんげん)する。
ありもしない兄、カアルの不品行を告げ口するのだ。
こうしてまんまと領地をだましとる。
フランツの欲望はまだ満足しない。つぎは女である。兄の婚約者であるアマリア。
フランツは「オセロー」のイアーゴーのごとく姦計(かんけい)を用いる。
イアーゴーのように腹心の部下を利用して、アマリアに兄は死んだと思わせる。

さて、追放された兄のカアルは盗賊団の首領になる。
カアルはあたかもハムレットである。憂鬱でたえず内省している。
このままでいいのか常に思い悩んでいる男としてカアルは描かれている。
行きがかり上、群盗のボスにはなったが、
カアルは結局のところじぶんがなにをしたらいいかわからないのである。
自殺も考える。ピストルを頭におしつける。
わずかに指を動かせば終わりである。だのに、なぜ生きている必要がある。
かりに生きるならば、なにゆえに、なにをめざして生きろというのか。
ハムレットを悩ませたものとおなじ問いにカアルは直面しているのである。
生き迷うカアルは原点へ戻る。追放された故郷の地へ戻る。もちろん変装はしている。
カアルは弟、フランツの悪だくみを知るにいたる。
愛する父親は城から追いやられ、暗い洞窟に閉じ込められていた。
父の復讐を誓うカアルは、ハムレットの生き写しのごとくである。

弟のフランツも兄が帰郷したことを知る。
気づけば、まわりは敵ばかりである。城内のだれもが兄の味方についた。
フランツは追い詰められる。カアルの軍勢は城を取り囲んでいる。
ここでフランツはマクベスになる。マクベス最後の絶望を味わう。
野心をいだいた。悪と知りながら犯罪行為を実行した。結果、頂点に立ったのである。
だが、それもつかの間であった。眼前に敗北が見えている。この人生というのはなにか。
こんなものか。こんなものだったのか。これしきのものか。
フランツは縊死(いし)を選択する。首をつるわけだ。

悲劇とは人間が死ぬものだとシラーはシェイクスピアから学んだのか。
父親は自慢の息子であったカアルが、
いまは盗賊であることを知り絶望しながら死んでゆく。
閉幕寸前、カアルのまえに立ちふさがるのは、この劇のヒロイン、アマリアである。
カアルは選択を迫られる。ふたつにひとつである。愛情か、友情か。
アマリアへの愛情を取るか、群盗たる仲間との友情を選ぶか。
友情を取りそうな婚約者へアマリアは絶叫する。行くなら私を殺してからにして!
カアルは愛ゆえにアマリアを殺害する――。

多くの処女作がそうであるように、この「群盗」にも、
のちのシラー劇の萌芽とおぼしき輝きが散見させられる。
いくつか拾ってみたい。
これはシラー劇の特徴というよりも、むしろ劇的なるもののからくりを示す。
シラーが劇の理想をシェイクスピアに見たがためである。
シラー劇(および劇作全般)の本質を、ひと言でいうならば、つぎのせりふである。

「われに自由を与えよ、しからずんば死を!」(P109)

シラー劇をぎりぎりまで要約するならば、このカアルのせりふになるであろう。
シェイクスピアのいくつかの悲劇もそうである。なぜなら人間は――。

「人間は、泥のなかから生れ出て、暫時の間、泥のなかを歩きまわる、
そうして泥(=子供)を拵(こしら)えて、腐れ果てて泥になる、
あげくは子孫の靴の裏に汚なくくっついて廻るのだ。
こいつが歌の結び文句だ――人間の運命は泥より出でて泥へ返るさ」(P144)


人間は、生まれ死ぬ。生も死も自由ではない。
人間は生まれを決められぬ。
王子として生まれるも、貧農の子として生まれるも運命。
死ぬのも自由ではない。
人間はいつどこでどのようにおのれが死ぬのかわからぬ。
起点も終点も自由ではないこの直線上を歩む人間に果たして自由はあるのか。
本人は自由に生きているように思っていても、実のところ、
最初からひかれてある線をなぞっているだけではないのか。
カアルが「われに自由を与えよ」と叫ぶゆえんである。
しかし、自由など、どこにあるか。
なにもかも天上から決められているのではないか。
ぼかすのはやめよう。名指しする。天上にいるのはきさまだ! 神だ!
すべては神によって定められているのではないか。ならば、ならば。
「しからずんば死を!」である。
ハムレットのように独白しながらカアルはピストルを手に取る。

「きさま(=神)は、おれを『無』に返すことは出来るかも知れん――
だが、この自由をおれから奪うことは出来んぞ。(ピストルに装填する。
急にやめて)だが、おれは、苦悩に充ちた人生を恐れて死んでもいいのか?
この逆境に耐えられず、勝をゆずってもいいのか?――
いや! おれは耐え忍ぼう。(ピストルを投げ捨てる。)
艱難よ、おれの誇りのまえに、立ちすくめ! 
おれは、必ずやり遂げてみせるぞ」(P170)


深くかがんだものは、そのぶん高く飛翔することができる。
死を目前に見たものだけが、本来の生を謳歌することができるのである。

「まだ子供の時分に――おれは、よく空想したものだ、
あの太陽のように生きたい、あの太陽のように死にたいとな」(P118)


劇的人物は太陽をめざす。星でもない。月でもない。雲でもない。太陽である。
どのような星回り(星座)であろうと太陽はみずから輝く。
月のように太陽があってはじめて光る惑星はお断りである。
太陽を隠す雲になるなど真っ平ごめん。
太陽になりたい。これが劇的たらんと欲するということだ。シラー劇の生きかただ。
シラーは、舞台のうえの役者に問う。ふたつにひとつ。

「もう一度、胸に手を当てて考えろ。
幸福か、不幸かだ――いいか? 分ったか?
幸福のてっぺんか、不幸のどん底かだ!」(P143)


劇を生きるとは、選ぶことである。ふたつからひとつを選ぶ。これが劇だ。

「われに自由を与えよ、しからずんば死を!」

COMMENT

jjj URL @
04/09 20:58
これ、どうでした?. 『群盗』はいかがでした?ゲーテのファウストとどっちが面白い?
Yonda? URL @
04/09 23:43
jjjさんへ. 
この記事は「群盗」のすばらしさを書いたつもりですが、ご理解いただけず残念です。
- URL @
10/07 06:45
. comment
まだ読んでいないが、とってもすばらしいコメントです
カラマゾフがキッカケです
Yonda? URL @
10/09 06:23
名無しさんへ. 

もう「群盗」をお読みになられましたか?
この日、N大学のM先生の検索でアクセスが集中しました。
もしやあのドイツ文学教授のMさんが「群盗」を課題に出したのでしょうか?
関係がなかったら、ごめんなさい。

ゲーテよりもシラーでっす!
どうして日本ではゲーテばかりヒイキされるのかわかりません。
シラー万歳であります♪








 

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