「ミンナ・フォン・バルンヘルム」

「ミンナ・フォン・バルンヘルム」(レッシング/小宮曠三/岩波文庫)

→戯曲。ドイツ産。
劇とはなにかということをずっと考えている。いまのテーマである。
ふとこの戯曲からヒントらしきものを見つけたので引用する。

「もつれがもうじきひとりでに、ほぐれないわけじゃあるまいし」(P141)

芝居終盤の令嬢のせりふである。
令嬢は婚約者の軍人を追いかけてこの町までやってきた。
ところが、少佐は愛するがゆえに結婚をとりやめるというのである。
この少佐は、とある行き違いから軍部からとがめを受けている身。
軍籍からもはずされ、財産もとぼしいのが現状。
こんなじぶんがお金持で美しい令嬢と結婚したら、
相手を不幸にしてしまうというのが婚約破棄の理由である。
そこで令嬢は一計を案じる。ウソをつく。
じぶんは家出をしてあなたのところへやってきた。
いわば、勘当されたようなもの。無一文である。
これを聞いた少佐は態度をがらりと変える。
相手がじぶんよりも不幸ならば、この手で幸福にしなければと再び求婚する。
今度は令嬢が逃げる。
男を追いかけてきた女が、策を弄して、逆に男から追われる身になるというストーリー。
かるい恋愛喜劇である。
婚約者に求婚されいい気分の令嬢の口にするのがさきほどのせりふ。

「もつれがもうじきひとりでに、ほぐれないわけじゃあるまいし」(P141)

このせりふは現実化する。
ギリシア劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)のごとく、
令嬢の伯父が舞台に登場し、すべてが丸くおさまる。恋愛成就である。
もつれがほぐれたというわけだ。

整理したい。劇とは、もつれがすっとほぐれるようなものである。
ここで喜劇に限定すべきかはわからない。
わたしは「ハムレット」や「オイディプス王」のような悲劇も、
結末ではもつれがほぐれたような印象を受けるがどうだろうか。
もつれは、おもに人間関係のもつれであろう。
欲望の主体である人間がふたり以上舞台に登場すれば、
どうしても関係はもつれるもの。
そのもつれが、ただほぐれるのではない。「もうじきひとりでに」ほぐれる。
「もうじき」とは時間経過を意味する。「ひとりでに」とは神の介入か。
個人(人間)の意思とは無縁のところで、といった意味合いであろう。
突然のようだがハムレットのせりふを思い出すのである(第五幕第二場)。

「つまり人間が荒削りはしても、最後の仕上げをするのは神なのだ」
(小田島雄志訳)


演劇の起源が神への供物であったことに思いをめぐらす。
酒の神、ディオニュソスへ捧げる狂喜乱舞が演劇の始まりとされている。
劇とは、無力な人間がせりふと動きでもって、神へといたらんとする営為。
劇とは、もつれをほぐさんと人間があたふたするがいかんともしがたく、
ところが時間の経過と共に人間の思いも寄らぬ(神の)手が天より伸び来たりて、
劇開始前に存在したもつれをほぐしてしまうもの。
たとえばこんな定義ができるのかもしれない。
劇とはなにか。引き続き考えていきたい。

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