「歎異抄」

「歎異抄」(金子大栄校注/岩波文庫)

→歎異抄を再読するのは半年ぶり。
この半年で少しは成長したのか。
歎異抄を読むことで、この教えを読み込む度合いで、おのが深浅も鮮明になると思った。
どこまでいまのじぶんは歎異抄の奥へわけいることができるか。

結果。歎異抄は新約聖書よりもひどいと思った。
なにがって、狂っている。あるいは、ひとを狂わせる。
ひとを千人ぶっ殺して、そのくせにたにた笑いながら、
世界中の人間でいちばん救われる可能性があるのは、あっし。
ほら、この返り血を見てください、これがあかしです。
なんでしたら、あと千人ほど殺してきましょうか。
へらへら笑いながら、そんなことを言ってのける豪傑をイメージする。
歎異抄の論調というのは、まごうことなきヤクザの啖呵(たんか)である。
麻原彰晃を千倍、偉大にしたらば親鸞になるのかもしれない。

親鸞が現代を生きていたら麻原彰晃の何倍も残虐な犯罪をやったのではないか。
屁理屈をこねるようだが、こう考えてみたらどうなりますか。
ひとを千人救ったとする。けれども五人の人間を殺してしまった。
これを悪だと断定する勇気がわたしにはない。
だって、人間が生きるというのは、だれかを犠牲にしているわけでしょう。
日本人がいま全体として裕福なのも、アフリカで餓死する子どもがいるからでは。
ある人間がベンチャー企業で大成功をおさめたとする。
果たしてその栄光のうらに何人の町工場の社長が死んでいるか。首を吊っているか。
みんなが幸せになることなど、とうてい無理なのは、
マルクス主義の失敗で明白になりました。
だれかが幸福になるためには、かならずどこかで別のひとが不幸になっている。
だとしたら、そうだとしたら……。

もちろん本気で言っているわけではない。
じぶんが殺されるがわになったらという問いがあるのもわかっている。
愛するものが殺されたらという反論できない問いの存在も知っている。
だが、しかし、それでも、親鸞というひとを考えると、そこらへんの糞坊主ではない。
麻原彰晃と比較してみたくなってしまうのである。
これは親鸞をおとしめているのではない。
だから、親鸞の教えは、人間を救済するちからがあると主張したいのである。

(注)「歎異抄」をはじめてお読みになるかたは、講談社学術文庫がおすすめです。
この岩波文庫の解説は、まったくわかりません。ええ、わたしのテーノーゆえ。

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