「援助者必携 はじめての精神科 第3版」(春日武彦/医学書院)

→作家の春日武彦氏の一般書ではなく、
どこまでも精神科医の春日先生によるわかりやすいが重たい医療ガイド本。
作家としての春日さんはうまいなあ、と感心することしきりだったが、
精神科医としての春日先生はどこか舐めていたところがある。
時間をかけて本書をじっくり読んで思いを改める。
春日さんは精神科医としても一流である。
精神科医ってここまで考えないとやれない仕事なのかと職業に敬意を覚えた。
(なかにはいいかげんな人も、そりゃあ、いるだろうけれど)

いつも春日さんの本を読むときは、おもしろいなあと笑いながら読むのだが、
本書は読みながら気鬱が増すばかりで希死念慮さえ生まれ、
もう読みたくないよと胃腸が痛くなるほど重い「本当のこと」が書かれていた。
精神科医としての春日先生のおそらく代表作になるのだろう。
精神科領域の援助者にはとても役に立つ本かと思われる。
どちらかと言えば患者サイドのこちらが読むと絶望感にとらわれる。
春日さんから耳元で小声で何度も何度もささやかれた気がした。
「おまえ、典型的な境界性パーソナリティ障害だからな。
王様くらいのレベルだよ。
手の内を明かすと、おれが本をプレゼントするのは、
クレーマーになりやすいおまえを「プチ特別扱い」しているだけだから。
オープンエンドの実践だ。精神科っていう選択肢もあるからな」

そして、こういう声が聞こえてくるのが境界性パーソナリティ障害の特徴である。
正直、春日武彦さんがなんでわたしなんかに本を送ってくださるのかわからない。
むろん、善意という面もあろうが、クレーマー対策のようなところもあるのだろう。
どちらとは断定できず、どちらも正しい。どちらの面もあると思う。
たしかにわたしには境界性パーソナリティ障害の典型のようなところがある。

「つまり失望や絶望に向かって一直線に走らなければいられないような、
あたかも呪われたようなところがある」(P187)


強い空虚感も衝動性も有す問題行動を起こしがちなトラブルメーカーだ。
「見捨てられ不安」はそんなにないような気がするが、
春日先生はそうは思っていないから、こうして本を送ってくださるのだろう。
むかし冗談で「春日さんから新刊が来なかったよ~」とブログで嘆いたら、
矢のような速さで3冊も本が送られてきて驚いた。
どうしてかというと、
春日先生がこんなブログのあんな記事をお読みくださっているとは、
まるっきり思っていなかったからである。
ある時期まで脚本家の山田太一さんの本で、
自分を執拗なまでに教育していたところがある。
「他人は自分なんかに関心を持たない」
なんか災難があっても「世の中なんて、そんなもの」「人間なんて、そんなもの」。
むかしは友人にブログを読んでほしかったが、
いまはそういう欲求は消えて、
実際に読まなくなった友人もいるが気にしていない。
読んでくださっているという友人にも、
「仏教の長い記事は読まなくていいですよ」と繰り返しお願いしている。
つまらないでしょう、って(笑)。
とはいえ、いまいる数人の友人に見捨てられるのはいやだ。

春日さんは「おまえだれにも必要とされていない人間だ」と繰り返すほどの
イジメはなく、それをしたら人を自殺に追い込めると思っているそうだが、
それは春日さんがその傾向が強いというだけで、
なかにはわたしのようにそれほど当てはまらない人もいないわけではない。
「本が売れなくなったらどうしよう。執筆依頼が来なくなったらどうしよう」
そういう「必要とされたい願望」、いわゆる「見捨てられ不安」が強いから、
春日さんには境界性パーソナリティ障害のおなじ不安がよく見えるという面が
もしかしたらあるのかもしれないし、まさか臨床経験豊富な春日医師が、
そんな軽はずみな自己投影を患者にするはずがないとも思う。

さて、「おまえは典型的な境界性パーソナリティ障害」と小声で耳元で
ささやかれてしまった(幻聴かもしれない)わたしはどうしたらいいのか?
境界性パーソナリティ障害は性格の偏り歪みだから治らないのである。
1.加齢によるエネルギー減少を待つ。
2.失敗体験から謙虚に学び少しずつ生き方を修正していく。
3.目標は非常に困難をともなうが、苦笑しながら淡々と生きることを目指す。

春日医師は境界性パーソナリティ障害は大嫌いなそうだが、
医者は患者は選べないため診るほかない。
どんな治療をしているのか本書を参考にして想像してみた。
患者「世の中、間違っている」
医師「なるほど。そうかもしれないし、世の中はそういうものかもよ」
患者「あいつが許せない」
医師「なるほど。それは大変だねえ。人ってそんなものかもしれないな」
患者「どうして人生うまくいかないのか」
医師「なるほど。それは辛いねえ。みんな人生そんなものかもねえ」
患者「俺を舐めているのか!」
医師「○○さんはわたしに舐められていると感じたんですね」
患者「……はい」
医師「淡々と生きましょうよ。
わたしだってうんざりげんなりしながら、こうして淡々と生きています」
患者「境界性パーソナリティ障害だから、それができないんですよ……」
医師「なるほど。もう少し様子を見ましょう。次回の予約はどうしますか?」

春日武彦さんのぼそぼそした声が耳元で聞こえてくる。
「おまえさ、境界性パーソナリティ障害だよ」

「まことに馬鹿げた話ですが、「死とダンスを踊る人」
というアイデンティティに夢中になってしまう人々がたしかに存在する。
けれども、そのアイデンティティと交換できるような
アイデンティティを彼らに示すのは困難でしょう。
わたしとしては、調子に乗りすぎないように気をつけてくださいね
と小声で伝えるのが関の山です」(P268)


ラジャー! 調子に乗りすぎないように気をつけますドクター!
しかし、境界性パーソナリティ障害は性格の偏りだからいかんともしがたい。
そうしたほうがいいのはわかるし、そうしたいのも山々だが、
結局は境界性パーソナリティ障害なんだろうなあ。
淡々と生きたくないという気持がくすぶっている。春日さんだって、そうでしょ?
しかし、落としどころはここしかない。

「わたしが思いますに、精神を病みやすい人たちの共通項は
「中途半端な状態に耐えられない」といった性向です。
なるほど考えようによっては、「中途半端な状態を我慢できる」精神は
鈍感さや無神経さに似た部分を持つかもしれないけれど、
やはりもっと別なものと見るべきでしょう。
困ったことにわたしたちの日常生活は、メリハリに欠け、
とりとめのない事象を延々と相手にしているようなところがある。
達成感や充実感を覚えられるなんてことは稀であり、
自分なりにがんばりはしたけれど成果となるといまひとつ手ごたえを欠く
――そんな生煮えだか生殺しみたいな日々の連続ではないですか。
波乱万丈とか痛快で満足な気分とかは、リアルな日常とは縁が薄い。
でもそんな地味で退屈な毎日のなかにささやかな喜びやひそやかな意外性、
ちょっとしたすばらしさを発見して心を潤わせられる態度が、
わたしたちには必要です。
たぶん実人生の幸・不幸はそういったあたりに分岐点がある」(P84)


春日さんはお嫌いかもしれないけれど山田太一ドラマの世界である。
春日医師は宗教にも言及する。精神科に来る患者は――。

「彼らはよい意味での「いい加減さ」や楽天性を欠き、
的外れな厳格さにとらわれています。
中途半端で宙ぶらりんな状態と、どうにか折り合いをつけつつ
じっくりと結果を待つことができません(私見ですが、
そこを補うためのひとつの工夫ないしは発明が、
すなわち宗教というものではないでしょうか)」(P85)


仏壇に拝んだりお経を読んだりしていると、
どうにもならないどうしようもない(死後を含めた)未来に対して、
なにかアクションをしているというささやかな満足感どころか、
ほのかな「希望の香り」がただよってくることさえある。
そんなくだらないマジナイめいたことをしながら、淡々と生きる――。
春日武彦さんも淡々と生きたいとは思いながら、
内心は不満でいっぱいで占い師に向かって大人げないことを吐き出す。
人間味があっていいなあ。

「努力のわりに報われないオレの人生に納得がいかない。
このまま日が当たらない一生なんでしょうかね」(P306)


著書多数であの名門、松沢病院に
外様として入り部長にまでなった春日先生がなに言っているんですか!
春日さんが日が当たらないというなら、
わたしの人生はなんなのだよと号泣したくなる。
春日医師は健康にも留意しているだろうし、人生100年時代。
いまは人生は70歳からですよ。
まだまだ日が当たることもあるかもしれませんよ。

「漠然とした不安と自己嫌悪に満ちた毎日から抜け出す方策を教えてくださいよ」(P306)

おそらく根本的な春日さんの問題は、
青年期にアートなほうへの関心も高かったのに、
世間の代表たる親の期待に沿って自分を殺して
医者になったところにあるように思います。
そのうえ精神科医は患者を世間に通用するよう心の故障を修理する役割で、
春日さんの根深いアート精神を毎日殺しているとも言える。
ものすごい春日さんは世間からの評判を気にする人だと思う。
見栄っ張りなところがあり、人を服装で判断する。
わたしなんかよれよれのユニクロしか持っていないから、
たとえ春日さんが1回だけの受診をOKしてくれても着ていく服がない。
そこで判断されるなあ、と憂鬱になる。
しかし、人を服装で判断するのは正しく、それが世間の常識というものである。
春日さんを批判しているわけではなく、改めて有能な精神科医だと思う。

最後に明るい話題を書く。
本書で春日さんが「希望の香り」の効用について巧みに著述している。
むかし介護保険もなかった時代、
春日医師は認知症の痴呆老人で困っている家を訪問するという仕事をしていた。
いざ春日さんが家に行ってみると、
かなりの割合で事前調査よりも認知症の症状が軽いのである。
これはどういうことかと春日医師は考える。そうか、そういうことか!
精神科医を含めた医療チームが近々来るというので、
ピリピリ閉塞したにっちもさっちも行かない悪循環状態の家族に
「希望の香り」がただよい、このためそれぞれに精神的余裕が生まれ、
結果として緊張状態が解け、それを察知した老人の認知症も軽くなる。
キーワードは「希望の香り」と「精神的余裕」である。
精神的余裕を持つことで、
意外な偶然が生じて(余裕があるからそれを発見できる)
それが突破口になったことはいくらでもあったという。

以上で春日武彦さんからいただいた「はじめての精神科」の感想を終える。
淡々と生きていたら、こんな情熱的な長い記事は書けない。
素朴な疑問だが、いまの若いナースはこの本を最後まで読めるのだろうか。
必要に迫られたら、かなりのことができるのかもしれない。
わたしにとって春日武彦さんがたまに送ってくださるご本は、
味気ない生活の潤いであり「希望の香り」である。
わたしのなかで春日さんの評価はかなり高いので、
そんな雲の上の人から本をいただけると思うと自尊心も満たされ、
精神的余裕が生まれ、生きるうえでの張り合いになる。
クレーマー対策のプチ特別扱いでもいいので、
できたらこれからもよろしくお願いします。
「手のひら返し」のようなことはせず、かならず肯定的な感想文を書きますので。
とはいえ人気作家と愛読者の関係で医療関係ではないので、
春日さんがめんどうくさくなったらそこまで(考えてみたら不思議な関係)。
医療関係ではないから「見捨てられ不安」はそこまで感じないと思いますが、
なにしろ精神科医のほとんどが嫌う境界性パーソナリティ障害だからなあ。
いまのメンタルクリニックの医者なんてわたしより年下が多いはず。
そこにわたしが現われて「境界性パーソナリティ障害みたいなんですよ」
と言ったら、ギョッとされるのではないか。
老け顔だし、おまえ、その年齢、性別で境界性パーソナリティ障害かよって。
今回は久しぶりに汚い字でハガキの礼状を出しましたが、
ウェットな関係を嫌っているのは存じ上げております。
変な長文メールとか送りつけたりしませんからご安心ください。
さて、苦笑しながら淡々と生きたいが――。

「宗教に生きる 精神科医が見た求道者の人格」(小西輝夫/同朋舎)

→88年刊。精神科医だが、
ほとんど臨床(診察)をやっていなかったと思われる、
のちになぜか佛教大学の教授になったといういかがわしい経歴の著者。
まだ存命だし、子孫に権力者が大勢いそうで、松下ともコネがあるので怖い。

空海は循環気質(そううつ気質)。
最澄は分裂気質(内閉性性格、統失気質)。
空海に引きこもりの時期があったのは、
そのとき、そううつ病ののうつ期だったからと断言する。
根拠は顔である。
現在のこっている似顔絵から精神科医は宗教家を歴史的に診断する。
法然は循環気質で、明恵は分裂気質らしい。これも画像からの診断。
明恵は嫌っていた法然を夢で師匠としてあつかっているから、
両価的態度を持ち、まさに分裂的であるって、時代だなあ。
分裂病の人は別に分裂しているわけじゃないから、
病名が統合失調症に変わったのだが、
臨床をろくにやったことのない精神科の老博士さまは安易に診断する。
踊り念仏の一遍はわけがわからなかったのか病名がついていない。

私見では、精神病者には宗教のトップはやれない。
池田大作さんだって、計算高い人情家ぶった政治屋の情熱的親分でしょう?
踊り念仏の一遍も「聖絵」を見ると、本人は覚めきっていて、
弟子たちが老若男女問わず狂ったように踊っている。
宗教家のトップになるために必要なのは、
著者の指摘するように本人がいかに狂っているか(精神病質であるか)ではなく、
どれほどうまく周囲を狂わせられるかではないか?
大衆、庶民、下層民はチープに狂っているものを見てもあざ笑うだけであろう。
彼(女)らは自分たちが恥ずかしげもなく、
笑われることも恐れずエレガントに狂いたいのである。
そのためには教祖みずからが、
ちょっと狂った真似をできなければいけない面もあろう。
真似ではなく真に狂いながら、その狂気を制御できる理性が必要とされる。
逆に言うと、真の狂気がなければ弟子から舐められる。

パフォーマンスとプロデュースの両方が求められる。
空海と日蓮はひとりでふたつの役をこなした。
最澄はプロデュースはまるで下手だった。
法然は(子孫の悪だくみで)親鸞のプロデューサーをする羽目になった。
踊り念仏の一遍はパフォーマーで、プロデュースは他阿真教がやっていた。
勃興期のAKB48は宗教的だったが、裏にプロデューサーがいたでしょう?
ひとりふた役できるのは池田大作さんくらいの天才である。
天龍源一郎のプロデューサーは奥さまのまき代夫人がやっていた。
いま新宗教の教祖に惹かれている。

「たとえば、天理教々祖・中山みき(一七七六-一八八七)は、
彼女が四十一歳のとき、
長男の足の病いの加持祈祷に巫女の代理役をつとめていて
”神がかり”をおこし、それは死ぬまで断続的に繰り返されたが、
精神医学的には彼女が祈祷精神病(もしくは非定型精神病)
であったことはまず間違いないと思われる。(……)
また大本教開祖の出口ナオ(一八三六-一九一六)も、
極度の貧困と打ちつづく家庭的不幸のなかで、
五十三歳のときはげしい”神がかり”を示しているが、
これまた人間学的な発狂といえる。
しかし、彼女の長男は自殺未遂ののち蒸発しているし、
三女は産後に発狂(いわゆる産褥精神病と思われる)、
長女もいわゆる”狐つき”の錯乱状態に陥っている。
母子ともども精神病理的負担の濃厚な家系であったともいわざるを得ない。
戦後では、囲碁の名人、呉清源を大蔵大臣とし、
名横綱の双葉山を厚生大臣とする璽宇(じう)内閣を組織して
世間を騒がせた璽宇教々祖・長岡良子(ながこ)(一九〇三-)の精神分裂病、
踊る宗教として一世を風靡した
天照皇大宮教々祖・北村サヨ(一九〇〇-一九六七)のそううつ病
(――といわれているが、非定型精神病の疑いのほうが濃いように思う)
が有名であるが、これら教祖の異常性は、
教祖をより超越的・神秘的存在とするのに役立ったことであろう」(P175)


おそらく全員に優秀な男性プロデューサーがいたと思われる。
さて、蒼井優の前世だと一部でいわれる、
踊る宗教の北村サヨにはときめきを禁じ得ない。
去年、八王子の人に依頼された仏教小説を書いたが、
最初に会ったときは、わたしごときをまるで高僧のようなあつかいだった。
そのうち正体がばれたのか、だんだんぞんざいな対応をするようになり、
最後はドタキャンをしても詫びることさえなく、
末期に至っては酒を飲みながら目をランランと凶暴的正義心から光らせ、
壊さんばかりにテーブルをばんばん叩きつつ
「おまえは世間知らずだ」と店中に響き渡る大声で怒鳴られた。
「いいか、俺が四国を救ってみせる」
あの人は金勘定にも相当に聡いようだったし(経済学部出身)、
もしかしたら四国に村内教が広まってしまうかもしれない。
最初は寺の堂守になってくれませんかと言われたわたしは、
最後は正体を見破られたのか、
「おまえなんか刑事告訴して刑務所にぶち込んでやるからな」――。
じつに仏教的で過激な八王子らしい稀有な求道者であった。
あの人はおそらく常識人で、
わたしがブログや面会を通して1年かけて狂わせたのである。
苦しいと同時に楽しかったんじゃないかなあ。
宗教において、受難と歓喜はコインの裏表である。

「日本売春史」(小谷野敦/新潮選書)

→若いころから世に認められた著者が書いている。
若かりしころはフェミニストや中産階級女性に褒められたいから
売春撲滅を訴えていたそうだ。
しかし、いまは偽善を廃して事実を書くぞというトーン。
だが、売春の歴史の事実なるものは未来永劫わからない。
明治大正なら売春を描いた小説も少数あるものの、
(著者はそう思っていないようだが)小説が事実そのままであるものか。

「いわんや平安朝では、字を書ける者は限られていて、
下層民が自らの買春体験を描いたりしていないし、
貴族とその周辺の者たちだけがものを書き、
価値ありと見なされたものだけが筆写されて残ってきたのだ。
つまり、史料がないから売春がなかったと考えるのは
間違っているということである」(P40)


これはほとんど歴史学を否定しているに等しく、
そしてさらに恐ろしきことに小谷野敦のこの意見は正しい。
「史料がないから○○事件がなかったと考えるのは
間違っているということである」――。
過去の歴史的事実はわからない。
貴族の書いたものだって、結局勝ったほうがその立場で書くわけである。
歴史的事実なんて、みんな広義の意味で嘘だろう?
映像でも撮っておけという話だが、映像は演出でいくらでも嘘がつける。
結局、おもしろいものが歴史としてのこるのではないか?
むかしは娼婦は巫女であり聖女であったという説が
流行った時代があったとのことだが、
そんなことはわれわれ下層民の耳には聞こえてこないし、
常識的に考えたらそれはないだろう。家族に売春婦がいたらいやだもん。
母親が売春婦で子どもを孤児院に捨てて成年後に涙の再会とか、
娯楽ドキュメンタリーとして見るならいいが、現実はやりきれない。
著者は「価値判断をしない」(善悪を言わないということか)という
方針のもと本書を執筆したらしいが、それが退屈の原因か。
小谷野さんの本で、こんなにつまらないものはめずらしい。
あの学者がこう言った、別の学者はこう言っているの反復作業。

明治大正、昭和前期の売春婦は貧困にあえいでいたが、
昭和後期から平成までは逆に大金を稼げる商売になった。
おれさ、ア○ゾンで働いているとき思ったなあ。
けっこう売り物になる若い女の子がいるのに、
どうしてそっちへ行かないのだろうって。
桁違いの金が儲かるし、それはいまだけのチャンスなのにもったいないよ。
過去なんて言わなきゃ、絶対ばれないし、
そんな純愛なんてないのは女がいちばんよく知っているだろう?
若いうちは気がつかないのかな。
過去なんて言わなきゃばれないし、ばれなければそれが真実で通る。
これが歴史学の要諦なのだが、
大学でそういうことを教わらなかったのだろうか?
「史料(証拠)がないから売春婦歴がなかったと考えるのは
間違っているということである」――。
こんなことを考え妻を疑うのは東大卒の小谷野さんくらいで、
わたしをふくめほかの男はみんなバカだから大丈夫。
ばれないって。だませる、だませる。
それは歴史学のインチキ性が証明している。

著者はしきりに「仏教は禁欲的なので」と書いているが、それは釈迦仏教。
あるいは日本に伝来していない小乗仏教の話。
まさか小谷野さんが蓮如の子どもの数を知らないはずはないと思うが、
日本大乗仏教(とくに最大派閥の浄土真宗)は、
ぜんぶOKのゆるゆるにしたから
無学な下層民に人気が出て広まったというのはかなり事実に近いと思う。
本書を読んで、やはり学問には不向きだと再確認する。
娼婦が聖なる性であっても、そうでなくても、どっちでもいい。関係ない。
行かないからいまの売春ビジネスが栄えても滅んでも、どっちでもいい。

「哲学塾 「死」を哲学する」(中島義道/岩波書店)

→わたしにはわかりやすくいい本だったが、
たとえば生活力たっぷりの姉はこの本を10ページも読めないだろうし、
書いてあることの意味もまるでわからないだろう。
大学時代、江中直紀という嫌われ者の教授がいて、
学生の書いた習作小説を「他者がいない」「他者性がない」と、
まるで決まり文句のように使用して批判していたが、
彼は教育者として失格で「他者」や「他者性」を
うまく学生に教えられる能力がなかった。
中島義道が教育者として一流だと思うのは説明がわかりやすいからである。
まさか40を過ぎて「他者」や「他者性」の意味がわかるとは。
わかったところでなんの生活の足しにもならないといういまになって。

「すなわち他人とは次の二重の意味をもつということです。
(一)私にとっての他人(客体としての他人)
(二)その人自身としての他人(主体としての他人=他者)
哲学における他者問題とは”alter ego(他の自我)”の問題であって、
哲学者たちは、(二)の意味の他人=他者について
悪戦苦闘の思索を展開してきました。
私は身振りや表情から他人Fを観察し、
Fが――機械や人形とは異なり――私と同類の人間として
「存在している」ことを知っていますが、
それは(一)の意味での他人であって、
他人の意味はそれだけに吸収されるものではない。
私は、これにぴったり重ね合わせて、
F自身が私を他人とみなす主体であることを知っているのです。
こうした主体が(二)の意味の他人です。
そして、(一)と(二)が独特の意味で「同一」であることを私は知っている」(P76)


他者ってそういう意味――(二)の他人――だったのか。
それを説明しないで、あらゆる学生の習作を
「他者がいない」と見下していた江中直紀は、自分が小説を書いたらすごいぞ、
と常に言いながら結局1本も書けずに早死にして、いまや思い出す者も少ない。
中島義道に言わせたら、言葉が自分と他人を「同一」にしてしまうから、
もしこの解釈が正しければ、
小説に他者を求めること自体がおかしいのかもしれない。
患者が「痛い」と訴えたときナースは「痛い」という言葉を知っているから、
たとえば患部を撫でたりする。
ナースは患者の「痛み」は感じないが、「痛い」という言葉は理解できる。
患者の「痛み」は本人にしかわからない代替不能の絶対孤独的感覚である。
いうなれば言葉にならない「ナマの体験」だが、
それは「痛い」としか表現できない。
これを言い換えると――。

「言語習得以前のナマの体験などありません。
むしろ、われわれは言語を習得することによってはじめて、
それによっては表現できないナマの体験があることに気づくのです。
言語を習得しているわれわれは、
そのかぎり自他の区別のない言語世界(象徴界)に生きている。
そして、そうした自他の区別のない世界に生きているただなかで、
各人は言語以前の自分固有の体験を発見し、
同時にその対極に他人固有の体験を発見するのです」(P69)


わかりやすく言うと、自分の痛みや生きづらさはわかってもらえない。
人と人はわかりあえない、相互に絶対孤独の状況にあるが、
そこを言葉の力(家族、同僚、仲間、友人等)でどうにかごまかしている。
だから、言葉(小説)のうえでの
「他者」や「他者性」など言葉の馴れ合いに過ぎない。

「死」について哲学する。
「他人」とおなじように「死」にもふたつの「死」がある。
(一)私にとっての死(客体としての死)
(二)その人自身としての死(主体としての死)
要するに「自分の死」と「他人の死」である。
「死ぬのはいつも他人ばかり」というのは、他人の死は認識できるが、
自分の死はよくわからないからである。
中島義道は、自分の死を、眠りにつき永遠に目覚めない状態と定義する。
眠りならば朝起きてそれまでを回顧できるが、死は永遠に目覚めない。
中島は、これを「無」という言葉を用いて同義語とする。
すなわち、死は「無」であると。
いっぽうで他人の死は永遠の「不在」である。
「他人の死」が不在であるいっぽうで「自分の死」は「無」でふたつは異なる。
しかし、「無」とはなにか?
「無」など「有」の相対概念であるところの結局は「言葉」だろう?
「痛い」が自分の本当の痛みを表現していないように、
「無」という言葉も、言葉であるかぎり本当の無を言い表してはいまい。
ならば、「無=死」は、
「自分の死」を「自分の痛み」同様に表現していないのではないか。
ここにどうやら中島義道は、
「死」についての「救い」のようなものを見出していると思われる。
へたくそな図示をするとこうなる。

(「自分の死」←→「他人の死」=不在、不気味)=言語世界
    ↓
   「X(エックス)」=無言語世界


なお、中島義道は人は死んだら無になると信じているようだが、
わたしは来世を信じているので立場が異なる。
ファンである踊り念仏の一遍は「生きながら死ね」と言った人である。
それはこういう状態であろう。

「例えば、われわれが無我夢中で何かをしているとき、
まさに「われを忘れて」読書をしていたり、
芝居を観ていたり、ピアノを弾いていたり、サッカーをしているときです。
そのとき、普通の意味で「私」は登場してこない。
「私」は、あとでそれを想起するときになってはじめて登場してくる。
まさに「われにかえった」ときに登場してくるのです。
この現象にサルトルは注目し(「自我の超越」)、
ここからデカルト批判を展開する。
すなわち、絶対確実な知としてコギト(われ思う)から出発するのは
間違いであって、
まずは「われ」の登場してこない意識から出発しなければならない。
バスにもうちょっとのところで乗り遅れ、
私が必死になって追いかけている場合、
すでに意識は登場しているのですが、「私」は登場してこず、
ただ「走り行くバス」が登場しているだけです。
しかし、バスに追いつき乗り込み、
やれやれという思いで額の汗をぬぐいながら、
はじめて私は「私がバスを追いかけていた」ことを想起するのです」(P110)


わかんないって?
考える暇なんかあったら、馬車馬のように働き続けろってことだよ。
趣味に没頭するものもいい。乱暴に言い放つと「死」とはそういうことだから。
走り続けろ「ランナー」(「爆風スランプ」)たちよ。
ときには立ち止まって生きていることを確認しろよな。

春日武彦先生、「援助者必携 はじめての精神科 第3版」(医学書院)、
昨日19日ポストで発見しました。本当にありがとうございます。
毎日郵便受けを見ていないので、いつ届いたかはわかりません。
第2版よりも版型が小さくなったのではありませんか?
第2版は新宿の紀伊国屋書店、
医療書コーナーで部分部分失礼ではありますが、
立ち読みしたことがございます。
第3版は以前に比べて読みやすくなったような気が致します。
早速、明日拝読しておのれのくだらぬ人生と照らし合わせたいです。
筆圧強めの「人生の迷い」にいまもいまとらわれておりますので、
先生のご本が現実的な指針として左右することと思います。
「淡々と生きる」と「好きに生きる」の迷いでございます。

これで運気が変わるかもしれません。
先々月「8:2で大腸がん」と宣告されてしまい、それが検査1ヶ月まえのこと。
どんな気持で検査まで過ごせっていうんですかね?
3歳年下の外科医の考えはよくわかりません。
最悪の事態を考えるのが常ですから、もう大腸がんだとあきらめていました。
こんなもんかよ人生はと思っていたら、そうではなく、
かといって再生したかのように人生の新鮮な美しさやすばらしさに
目覚めるようなこともありませんでした。
かと思えば約束していた短期派遣仕事をドタキャンされて、
やっぱり人は信用できないという虚脱感からいまだ抜けきれておりません。
来週月曜日に郵便局でハガキを買って、その場で礼状を送ります。
土屋はやっぱり字が汚いなあ、これじゃ履歴書も落ちるよ、
と憐れんでくだされば嬉しく、
そんなハガキはそのままゴミ箱にポイでお願いします。
ハガキで礼状を書くのは失礼かもしれませんが、
世間知らずなのでどうかお許しください。

春日武彦先生、ご著作、本当にありがとうございます。
いま生活が荒んでいましたが、この幸運を弾みにして、
立て直す方向に向かいたいと思う所存であります。
生きていたらいいこともあるんだなあ。
被害妄想だろう。
みんなはもっと多いのかもしれない。男性社会はそういうものとも言えよう。
年上男性から怒鳴られることが多いような気がするのである。
あんがい数量的には少ないのかもしれないし、
被害妄想から、そればかり記憶しているのかもしれない。
怒鳴られたとき、どういうスタンスを取ったらいいのだろう。
理想は、顔を下に向けて無言でいることなのかもしれない。
わたしはついつい場を収めようと、まあまあ、落ち着いて、とやってしまう。
そもそも相手に大声で怒鳴る猛々しい神経、
雄々しい精神がよくわからない下卑た女々しいところがある。
去年、八王子で村内家具に居酒屋で机をばんばん叩かれながら
「土屋さんは世間を知らない」
と怒鳴られたときのわたしの態度は間違っていたのかもしれない。
「まあまあ」「落ち着いてください」「ほかのお客さんもいますから」
と生意気にもなだめようとした。
あれが失敗だったのか。
シュンとうなだれていたほうがかわいげがあったのかもしれない。
おそらく、そうだろう。相手はそれを期待していた可能性が高い。
こうしてわたしは八王子大菩薩からいただいた最後のチャンスを逃した。
最後にシナリオ・コンクール応募をしたのは7、8年まえじゃないかなあ。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をシナリオ化せよ。
それを蜷川幸雄が監督で映画にするっていうんだよ。主催は角川だったか。
賞金は300万。300万あったら少なくとも1年は遊べるぞ。
文学は主戦場。よし、ここでデビューしてやるか、と決めた。
そろそろ世に出なければいけない。
宮沢賢治の本を複数読んで評論まで目を通して書き上げたものを応募。
結果は落選以前の話で、一次通過の発表もなかった。
おそらく話(企画)自体が流れてしまったのだろう。
大勢の人間が夢を目指して寝る間を惜しんで、
シナリオを書いて応募したわけでしょう? それが企画終了ってなに?
なんなの、このいいかげんな世界?
かと思えば、ご存じのように蜷川幸雄の娘は、
父親の人的財産を生かしてキラキラピカピカしている。くそったれが!
あれ以来、公募には出していない。
高給取りの出版社やテレビ局はライターの夢や情熱を舐めるにもほどがある。
まあ、そんなものだけど。
少しでも上の会社に行ったほうが勝ち。
そんなものだと知るためのコンクールかもね。
いまの時代風潮として怖い人がいなくなった。
わたしもむかしは原一男や宮本輝が怖かったが、いまはぜんぜんまったく。
池田大作さんほど怖そうな人を知らないが、
あの方がお隠れになった時期くらいからではないか。
いま文学や宗教、演劇の世界で怖い人っている?
暴力団が反社になったのは、埼玉が「さいたま」になり骨抜きにされたようなもの。
田中角栄くらいは迫力があったが、そのあとの政治家では、
いや政治には無知だから。
それでも野中広務には暗い怖さがあったが、いまの橋下徹はバラエティー。
中上健次が怖かったのは実際に暴力をふるうお部落のお育ちだったからで。
難解本の読書量自慢をしていたが、ただページをめくったってだけなのは、
もうそろそろだれかがばらしてもいい時期だろうが、だれもやらない。
三島由紀夫は怖いよ。なに考えてんだよ、あの死に方。
そうだから、いまの作家で怖いのはだれか。
幻冬舎社長の見城徹さんは完全独裁者気質で怖そう。すぐ大声を出しそう。
とはいえ、いまの編集者全般、コンプライアンス主義で、
いやらしいめんどうくさいやつは多そうだが、怖い人はいないと思う。
「おまえを業界で食えなくさせてやる」くらいは言いそうだが、
それは人によっては鬼より怖いが、正しくは陰湿な嫌がらせだろう。
瀬戸内寂聴は怖いがもうすぐ死ぬ。
村上龍が怖いなんて思っているのは虚像で、
若くしてデビューしたあの人は老人になっても世間知らずの若者ぶりっ子。
ああ、小谷野敦は怖いよね。
あいつ、命令形の2、3文だけをメールで送ってきたことがある。
原一男さんの思い出はいっぱいあるのだが、
あの人は100歳まで死なない健康食品オタクの大学教授なので、
早めに書いておこう。おもしろい人だったなあ。
当時、演習クラスで合宿するなんていう風潮はなかったが、
原さんがお嬢さまだらけの女子大生に
まさに頼み込む感じで温泉旅行が実現。
僕は集団行動は苦手だから行かないって言っていたら「来いよ」と原スマイル。
行ったら行ったで駅のホームでふてくされている僕に原さんはひと言「いじけだな」。
この人は僕のことをわかっているんじゃないか、と、うるっとしたもの。
創価学会の池田先生と弟子もこんな感じなんじゃなかったのかな。
言っちゃ悪いけれど、原さんは学がないんだ。教養がない。
もっと言えば、最低限の本も読んでいない。
だから、文章が左翼定型的な感傷めいたものになる。
授業内容は実体験の話をするしかないわけで、えらくおもしろかったなあ。
お嬢さま女子大生しかいない数十人のクラスで、
自分が若いころ助監督としてやったポルノおまんこ撮影の話を1時間とかする。
当時の女子大生はどんな顔をして聞いていたのだろう。
出席率は異常なほどよかった。
大学の助成金も獲得しながら手弁当で映画を撮影しようという演習クラス。
その撮影現場で、当時尊敬していた原さんがなにかを一生懸命に見ている。
なにを見ているんだろうとその先を見たら、
道にM字で腰かけた教え子の女子大生の白いパンツ。
「原先生」と声をかけていいのか迷った。

*原さんがお亡くなりになったときに追悼文として書きたかったが、
あっちのほうが長生きしそうなので早出し。
作家になりたかった若輩の大学生のわたしが恐れたのは、
まず人生およひ世間、他人の現実を知らなかったところである。
それなら働きながら他人の人生を知っちゃえるということで、
ドキュメンタリーのテレビ制作会社に応募しまくった。
当時尊敬していた原一男教授の影響もたぶんにある。
あのへんの会社はすべて応募した。
最終面接まで行ったところもいくつもある。
志望生は東大、早稲田、慶応ごろごろいた。
そういう時代だったのかもしれぬ。
わたしのなかではドキュメンタリー制作会社、テレビのそれで、
当時の最高峰はドキュメンタリージャパンだった。
そこの重役のおばさんから言われたなあ。
「原一男さんみたいなドキュメンタリーを撮りたいのなら自主でおやりなさい。
うちは商業制作です」
あれから20年後に意味が痛いほどわかる。世間を知ったのだろう。
いまは制作会社のADは体力的にできない。
ドキュメンタリーは他人の人生を覗き見したいということ。
YouTubeで見た話。赤羽のお祭り。何年かまえ。
創価学会の若いルネサンスなバーガー(鼓笛隊)の少年少女が行軍。
あそこは現実的だから、いちばん先頭にかなりの美少女を持ってくる。
だけどさ、一度検索してほしいが創価の鼓笛隊の制服は狂的なダサさ。
学会美少女、たぶん親から言われてやっているのだろうが、
見るからにいやそうな不機嫌な顔をして投げやりに、
いますぐでもこの場から逃げ出したいって苦虫顔で、
全身ため息オーラで創価のルネサンスなバーガーをやっているの。
うわっ、かわいいって思ったもの。
いまでも動画はあるだろうがリンクしない。
こういうのは想像したほうが楽しいから。
ルネサンスバーガーを見たらわかるけれど、
創価って本当に旧日本軍の世界。
創価内部のアンチなんていくらでもいるだろう。
わたしだって大学の校歌を覚えていないし、肩を組んで歌うなんて絶対いや。
神風特攻隊は法華経的、宮沢賢治的な自殺他生の日本固有の文化。
確率的、統計的に考えたらあれほど割のいい戦術はない。
たった1機の小型飛行機で相手の母艦をやっつけられる。
船は底に穴が開けば沈むわけだから。
そのうえ神風特攻隊は米軍に本当の狂気(大和魂)を教えたことだろう。
あいつ、死んじゃうのに、飛び込んでくるのって、なにそれクレイジー。
こいつらと戦ったら負ける。
相手の根をつぶす作戦が神風特攻隊だったのか。
言われ尽くしたことを言うと、戦争をするのは男。バカだなあ。バカがいい。
作家で精神科医の春日武彦さんとホラー作家の平山夢明氏が
対談本でおすすめしていた(?)サイコパスなアメリカ映画。
たまたまジェイコムでやっていたので、ああ、これかよって。
どうせつまらないんだろうな、と思っていやいや見たら、なにこれ?
おもしろいなあ。

やばいことに気づいてしまったのだが、人を殺すシーンが好きかもしれない。
女が誘拐されて苦しんでいるところを見てもなんとも思わない。
パトカーのポリスに職質されて、
安易にピストルで相手の脳を撃ち抜くところで「よくやった!」
とか思っちゃったもん。
それを一般人に目撃されたときは、殺しちゃえって思ったもん。
行け行けゴーゴー!
それをすれば、ばれないぞ目下のところ。

人の命は重いというのは嘘なんじゃないかなあ、
と自分が思っていたのがばれてしまうのが、この映画のおもしろさ。
それはまあアメリカの銃社会が前提の話で、
日本は刃物だから何回も刺さないといかずめんどうくさいって、
サイコパスかしら僕。

まぬけでいいかげんなその場しのぎの殺し屋ふたりがおもしろい。
おまえらみんなテキトーだなっていう、その計画性のなさがおもしろいがな。
でもそんなもんで、人なんて殺したって、ま、しゃあないわってリアルがある。
お金のためなら、
そこらへんのパンピーを何人射殺しようが、まあ被害者はあきらめてよ。
そのへんのリアルな感じが嘘っぽくて本当。

完成した映画のストーリーに注文をつけるほど野暮なことはないのだが、
残念だったのは最後。
殺し屋を妊婦の女警察署長がパトカーで運んでいる。
殺(や)っちゃえって思ったもんね僕。
そこでバックから手錠をはめた手で網を壊して女警察官を殺せって。
そうしたら僕にとってパーフェクトな映画であった。

わかんないエピソードがあってよかった。
妊婦の女性警察官のむかしのクラスメートっていう男が会いに来て、
めっちゃくちゃ嘘をかまして女に言い寄り拒否されるところ。
あとであいつは心を病んでいる精神障害者だとばらされるが、
あのエピソードはストーリーにまったく関係しないところが不気味でいい。

春日先生、意外とセンス(眼)いいのね。
「ファーゴ」とおなじく、ご両人おすすめの映画「セブン」は30分で1回消して、
もう30分でもっかい消して、あと分量はどのくらいか。最後まで見たい。
「ファーゴ」はいい映画だった。嫌いな人も大勢いる模様。

おれは3歳から
ズズキメソードでバイオリンをやった天才少年(笑)だから言うが、
学会歌とAKBって音楽のつくりかたがおなじなの。
それが嫌いというのではなく、なんでこんなものを作曲できるのかという畏怖。
AKBの「桜の栞」ってあるじゃないですか?
あれは下手をすると古歌「仰げば尊し」を超えるレベル。
あれをつくった人は大天才で怖すぎる。
英才教育の影響か(笑)、
ものすごい音楽の好き嫌いは激しく、嫌いなものは1分でも聞いていられない。
AKBのヘビロテとか大好きで、こっそり言うと人生を変えたもの。
ビギナーも好き。古典音楽クラッシックは大嫌い(一部例外除く)。


絶対、いやだから。踊らないから。
ディスコでも盆踊りでも、それはね絶対。
でも、荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」もAKB系統も好き。
カラオケも大嫌い。
カラオケで歌うやつなんか自意識がないのかと疑うほど偏屈。
踊っているのを見るのは好きだが、
歌っているのを聞くのもときに嫌いではないが。
踊り念仏の一遍は、踊っていない。
妙に覚めた目をしてタンバリンみたいのを叩いているだけ。
踊らない。踊らせない。自然に踊っている男女のリズムを取っている。
お腹が痛いなあ、と、まず体力を戻さなくちゃなあと。
おのれの創価学会親和性をどうしたらいいのか?
わたしは創価大学校歌も、
本部での面接で女子部の歌と教わった「今日も元気で」も大好き。
ルネサンスなバーガーの「今日も元気で」とかうっかり泣いてしまう。
あれは軍歌調、七五調。
あんなものを好きな自分が恥ずかしいが好きなものは好き。
YouTubeで検索すると威風堂々と踊っている池田先生が出る。
あれって踊り念仏の一遍じゃんと思う。
民衆を救うのはああいうものなのだ。
しかし、創価学会へは入れてもらえない。
わたしも日蓮はどちらかといえば嫌いなのだから仕方がない。
しかし、創価学会はいまの日本にのこる最後の仏教。
お家元制度の浄土真宗なんて滅びろよ。
自分の中の創価学会親和性をいかんともしがたい。
さっき姉に友人からの年賀状を渡してきた。
そして、そこにこの電話番号を書き写してって、ガラケーの電話帳を見せた。
僕の字は汚いから、姉に書き写してほしかった。
「もし僕が死んだら、この人に連絡してね。
10年以上ありがとうって感謝していたと伝えて」
また芝居がかったことをする弟だなあ、と姉はあきれていたことだろう。
でも、実際問題、僕が死んでもそれを周囲に伝える手立てがないのである。
新聞に掲載されるほどの人物でもなし。
もし姉が生前の僕のことを知りたかったら、この連絡先でなんとかなるだろう。
10年以上の関係である。第二の姉みたいな存在だった。
これで安心して死ねる。

というのも、なんだか死期が迫っているような気がするのである。
23日からパチスロ会社でがんがん働こうと思っていたら、
人がいないからエントリーを求めてきた相手企業から意味不明の不採用。
それと前後していままで経験したことのない大きな喘息に苦しんだ。
先々月は板中の3歳年下の外科医から、
なんのエビデンス(根拠)もないのに8:2で大腸がんだと言われた。
がんではなかったが死相が出ていたのかもしれない。
パチスロ企業の派遣会社の人は信用していたのだが、あっさり裏切られた。
なにかがポッキリ折れた気がした。もうこのあたりでいいんじゃないか。
というか、「死」のコンステレーション(布置/星回り)にあるのではないか。
そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。

今日、姉に死後のことを任せて、ひとつの安心を得た。
来る人はいないから葬式は不要。告知もそのハガキの人だけでいい。
直葬。なるべく安い金額で火葬して骨にしてください。墓参り不要。
「まあ、僕の姉に生まれた宿命だな」
と笑って言えるほど僕は姉には強く出られない。怖いもん。
いまでも恨んでいるのは八王子の村内家具。
あいつが無断でメールを送り、姉と僕の関係をギクシャクさせた。
八王子事件もそう。
わたしは八王子さんも村内家具も知らなかった。
八王子さんが会いたいって、自分の地元の八王子に来てくれないかって。
細かいことを言うけれど交通費支給ゼロよ。
で、ご依頼は、「仏教がからんでいたら、なんでもいいから小説を書いてください」。
わたしが八王子さんにお願いしたんじゃないんだよ。
向こうから言ってきた話。
その場で3回にしようとか八王子さんは豪傑ぶった。
1年に1本、3回小説を書いてくれませんか?
基本、お願いされたら断れない性格だから、はい、わかりました。
そうしたら1年後、これは俺が注文したのとは違うって怒鳴られるわけ。
土屋さんは小説の書き方をわかっていない。
で、姉に大量の自分に都合のいいメールを送りつけ刑事告訴するぞって。
八王子さん、あなたがわたしに依頼したんですよ。
「仏教が入っていたらなんでも構わないから、好きなように書いてください」
それが仏教ビジネス商品を依頼したのに、これでは商品にならない。
あいつは生意気だから刑事告訴して刑務所にぶち込んでやるって。
八王子の帝王のやりくちである。

(追記)いまでもわからない。村内家具代表取締役で、
広小路産業株式会社経営者の村内弘道さんはなにをしたかったのだろう?

(リンク)広小路産業株式会社
http://hirokouji.info/
もういいけれど、もうどうしようないとあきらめたけれどさ。
パチスロ会社、大都技研の話だって、派遣会社から言ってきた話なのよ。
人がいないってことで旧友のAさんから紹介されて、働かないかって。
向こうからの話だったわけ。スペックスからの話。T課長からの話。
で、大嫌いな履歴書を書いて面接を受けて。
わたしがお願いしたわけではなく、向こうから人がいないから来てくれって。
その結果が1週間前に不採用ですって、それは話が間違っている。
Aさんはしっかり採用されている。
なんかもやもやして、すっきりしない。

(リンク)
大都技研
https://www.daitogiken.com/
スペックス
http://www.specs.co.jp/
「人生、山あり谷あり」というのはけっこう真実じゃないかと思っていて、
わたしは母の事件という谷が低かったから、
そのぶん高い山にいけるとずっと信じていたが、そんなこともないのかな。
このまま谷底で孤独と不安にまみれて絶望しながら死ぬのかもしれない。
それがリアルな人生とも言えよう。
いくら待っても山が来ないんだよ。
かといってうつ病になるほどのどん底にはいかない。
自分なりにはがんばってきたつもりだが、
世間からはまったく評価されない。
もう国内外の有名な戯曲を読み終わってしまった。
名作シナリオをわたしほど勉強したものはいないだろう。
仏教は個人でいける限界まで学んだと思う。
いまさら智顗とか善導は読めない。意味ないもん。あれ嘘だから(笑)。
食べたいものもないし、ほしいものもない。女全般嫌い。
政治信条はないし、昨日朝鮮人が嫌いになったくらい。
なんか世界全体から嫌われている気がする。すわ精神病か!?
仏教がダメだと思うのは、あれは真理を求めるという教義上、
勝敗や上下関係をすぐに作るでしょう。そういうのが大嫌い。
だから、女が来ないんだよ。
八王子さんも最初のほうは謙虚で僕なんかを師匠扱いしていたが、
だんだん「こんなことも知らないのか」と勝ち誇ったように言うようになった。
還暦近いおっさんが、
わざわざ遠い八王子に来てくれている20も下の男にそんなことをやるか。

で、「へえそうなんですか」というとものすごい嬉しそうな顔。
そんなものは付け焼刃の知識なのだが、
八王子さんにとっては僕を仏教知的勝負でやっつけるというのが、
なににも増しての快感だったのだろう。
基本、仏教ってそこにあるから。
相手を弟子にしたいというのが古今東西の仏教の歴史。
最後のほうでは僕を弟子扱いして、
テーブルを威圧的にばんばん叩きながら大声で怒鳴る。
自分が土屋さんを厳しく鍛える使命があるって。
無宗教にはわかりにくい世界でしょう。

10歳年下の作業所にも通えない統合失調症の青年もそれで、
完全な上から目線で
「土屋さんにはまだ(自分のように)池田先生の本はわからないでしょう」
と勝ち誇られたもの。
あそこは八王子よりも遠くて、さすが統合失調症、
いわゆるきちがいだなと感心した。
将来は事業で成功して精神病院で知り合った病気の子と結婚するのが夢。
性欲はすごいんですよと自慢していたが、性犯罪はするなよ。
あのくらいの統合失調症だと精神障害者だからレイプしても無罪。
人生の一度でも若年期にスポットライトを浴びると、
そのときはいいがあとあと困る。
金銭感覚は一回、高くなると戻すのがなかなか難しいと聞く。
かといって、いまさら倉庫、工員、レジ打ちはできない。
僕はスーパフリー大学がピークでスポットライトといわれそうだが、
あれは東大に入れなかった挫折の傷心期だから本人には。
スポットライトなんて浴びたことがないから
わざわざ埼玉で時給850円で働けるし、
1000円が平均、最高額はア○ゾンの1350円。
職種にこだわりがないから便器掃除やゴミ処理もやった。
年下の女性上司にヒステリックに怒鳴られるのはいやだが、
へいこらして問題は起こしていない。
それでもやれないのが介護。
介護って老人を殺しちゃいそうだし、しもの世話はできそうにない。
警備員は人生最後の砦だが、みんな目が死んでいるよね。
人の往来が多い施設警備だったらまだ違うのだろう。
今回落とされたアルバイトはおもしろそうだったのだが、
求人者2人に応募者80人では勝てないか。いけると思ったが。
女子大時代に時給5千円とかもらった子の末路を知りたいが、
あんがいセレブコースに乗っていたりするのが現実ってやつ。
今後変わる可能性はなくはないが(むしろおおきくあるが)、
いまのわたしは本を出したいとか、
書いたシナリオを映像化されたいとかない。
それは5、6百万いただけるのなら別だよう。
でも渾身の一作みたいのを高額の、
ぼられまくりのインチキ自費出版で出して、
まったく売れないのに山のような自作を後生大事に枕元において、
これがあたしの一生の記録みたいな憐憫の結晶のような小冊子。
で、プロフィールには名前よりも大きくその自費出版の本のタイトルを書く。
演劇だって自作を仲間を寄せつめてやって、もちろん大赤字で、
しかし作品歴に鼻高々に記載されている。
映像もそうでどこかのグランプリン佳作賞金5万円のシナリオを、
サークルのコネでつかまえた年下の映像作家と同棲しながら、
練って練って、何度も映画論を戦わせて書き直して、
構想10年の傑作を公民館で無料上映したがだれも見にこない。

そういうのだったら作品歴ゼロであっさり死んだほうが、
かっこういいとわたしは思うが、
それがどう変わるかは自分でもよくわからない。
あの大学へ入れてもらってよかったと思う百のひとつに、
桜蔭の子と話せたことがある。
底辺階級はそもそも桜蔭を知らないだろう。
もてないアピールばかりしているが、
スーパーフリー大学の女子部ネタを書けるのは、
女の子に味方がいたからで、
いちいちあの子の生まれとか出身校を教わったのだから、
あんがいそれほどでもないのかもしれない。
桜蔭のぶんざいで二浪して早稲田の一文とか、
あたまがいいのか悪いのかわからない境界線。
ものすごい性格が悪そうなオタクっぽいしかしかわいい子で、
ちょっとでもかかわったら人生が壊れちゃいそうな土下座したくなる子だった。
桜蔭だものなあ。小石川とはわけがちがう。桜蔭だもの。
誕生日に黒猫にゃん子の小さなかわいいぬいぐるみをプレゼントされて、
それがミニスカートをはいていて、
なかを見たくてスカートをめくろうとして
「見ちゃダメ」って若年の女の子にプンスカされたのは、
淡いきれいなおれさまの青春である。
女の子って真っ黒い子猫ともいえるわけで、
彼女のプレゼントのセンスには恐れ入る。
同時にもらった黒猫にゃん子のマグカップはいまでも使用している。
中学受験を描いた「二月の勝者」を
漫画雑誌「スピリッツ」でおもしろく読んでいる。
なるほどたしかにそうだと感心したのは、
中学受験の偏差値50と高校受験のそれは違う。
なぜなら母集団が中学受験のほうが高いから。
わかりやすく言えば、お受験をしない小学生が大勢いるということ。
大学生のとき時給2500円で家庭教師をしていた小学生が、
日大付属に入って親子ともども喜んでいたのは複雑だった。
だって日大だったら大学受験から入るのがいちばん楽なのだから。
そうでしょう?
中央大だって高校から入るのは、大学から入るよりもはるかに難しい。
中学(あるの?)から入るのは難関だろう。
結局、日大付属に入りたいのはケチな打算という話になる。
だから、いいか、だから僕は桜蔭を出た子にしびれる。
学院、開成は嫌い。
オキメグってオシオにやられたブブカ裸乳首写真で存在を知った。
あの子、女優できないでしょう。セリフがあたまに入らない。
なんか、まずいものを見ちゃったって感じのオキメグのブブカ。
吉田豪ライターによると、あの写真は30万円だったって安すぎる。
吉田豪ライターは公表できないことをいろいろ知っていそう。
ちかぢかご著作を読んでみる。
彼に教わった全女(プロレス)はガチだというほど怖い話はない。
19歳、20歳の女ならガチで相手を壊せるの?
おれなんか悪いが育ちがいいから、
くわえ煙草でパチをできる女性は憧憬対象、つまりアイドルだ。
キャバとかで働ける育ちの悪さも自分にはないもので、
軽くデコピンされたら落ちる。
育ちがいいから女にグーパンチ(DV/家庭内暴力)なんかしない。
朝からパチ屋で夜までそこにいて、
最後に吉牛行って牛皿にビールとか、そういう女性こそあこがれ。
だって、自分にはないものを持っているから。
おれなんかかわいい女の子に説教されたら、
すぐにまじめな社会人になってしまいそうなだらしなさがある。
だらしなさがあるので困る。だらしない。
自死遺族にしかわからない無力感、無念、享楽性というものがあり、
お母さまを自殺で亡くされているゴマキは、その目が強い。
朝からパチンコをやったり、モンハン廃人(ゲーム中毒)になったり、
きれいだから不倫をするのは当たり前だが、
その詳細を裁判所に正直に提出してそれを文春に暴露されたり、
弟が犯罪で刑務所に入った江戸川区のゴマキってまったくかわいい。
あの子、自死遺族特有の投げやりな目をしていて怖くなる。
くわえタバコで朝からパチンコとかゴマキを超えるアイドルは現われまい。
むかしから友人はいなかったが、区立中学、動物園時代。
こんなわたしを相手にしてくれたのは高校中退で終わりそうな男子たち。
彼らが麻雀のルールを覚えているのには驚いた。
僕は創価学会なみの負けじ魂で本を親に買ってもらって、
麻雀のルールを覚えようとしたが、
当時天才少年で学校一の驚異の成績をたたき出していたのに麻雀はダメ。
あの子たちはバカそうだったのに、どうして麻雀のルールを覚えられたのか。
あの子たち、性への関心もないのか女の子の話もなかった。
意味不明な三国志に夢中になっていた。
女の子がひとりも入れない世界を無意識につくっていたのかもしれない。
いちばんいいギャンブルって野島伸司が好きな麻雀なんだよね。
あれは場所代だけで、4人でお金をまわしているだけだから。
競馬や競艇に比べたらパチンコはかなり割がいいらしい。
あれは大負け組をつくって一部のお客に大儲けさせるシステム。
やらないけれど。タバコの煙、好きではないし。
江戸川区の自死遺族、ゴマキは真の庶民派アイドル。
おれでも屈託なく話しかけられるっていうか、そういう下っぽい感じがする。
セリフなんか50字もあたまに入らなそうなところがいい。おれとおなじ。
アルコール依存症やギャンブル依存症は問題視されるが女依存症は?
女に金をつぎこんで、つぎこんで執着するというドンファンの田舎紳士。
ギャンブルは最初に勝つビギナーズラックが問題で、
大学時代に競馬もパチンコもファーストで大負けして、
女にも相手にされない僕は大勝利者。
でも、パチンコ、競馬、酒と比べたら、いちばん害がないのは女だと思う。
安全な女に夢中になりたい。惚れて惚れて舐めまわしたい。この変態が!
最後まで、最後だが、最後だからわからなかったのは、
八王子さんの「土屋さんの小説に朱筆を入れて真っ赤にしたい」発言。
だったら、自分で書けばいいじゃないですか、
って聞いたら、それではダメなんだ。
他人を服従屈服完全降伏させることに意味があるんだ。
土屋さん、きみは、お金をもらった以上、僕の奴隷なんだよ。
そうニヤニヤ笑いながら言われても、それはムリムリ(JKっぽく)。
こころはいつも女子高生。いやなものはいや。
原一男教授にレイプされそうになったというYさんは、
おそらくかなり話を盛っていた。
男性関係でも自由な女っぷりを山盛りにしていたことだろう。
事実ではない。しかし、真実だ。
真実は「人を喜ばせること」。
いまは(非公式な)プライベートではがんがん言っているが、
シナセンの小林社長っていい人よ。
それでは話が盛り上がらないから、
悪いけれど小林さんには、悪いことをしている。
八王子さんだって、あっちは社長だし、常識的にはおそらくあちらが正しい。
しかし、なんかつまらないから話を盛っちゃうという、
その悪さ、意地悪さ、意地汚さ。
小林さんとか村内さんとかいい人に決まっているじゃん。
そうと書き手が知りながらえんえんと恨み節を書いている「本の山」の魅力。
そこがわかって本当の読者なんだなあ。
この人は自我肥大モードに入っていると八王子さんのことを思ったのは、
「小説はこういう書き方をしない」という校正。
みんな校正してやる。一字一句だ。見てろ、おれの色に染めてやる。
八王子さんは自分が正義の神さまになったみたいに
校正、校正と騒いでいた。
校正の「正」はなんのことはない、八王子社長の薄っぺらい自我。
おれが正義だ。おれが徹底的に校正してやる。おまえをやっつける。
いまから思えば苦笑するが、「小説はこういう書き方をしない」という校正。
だってあの人、小説なんて司馬遼太郎しか読んでいないでしょう?
最後のほうは真理体現者、仏教科学者を自称して大声を出していたが、
法華経さえ還暦まで読んでおらず、
その法華経さえ最後まで読めなかった仏教科学者。
ネットのウィキに書いてあることを自慢げに話されたときは、
この人どうしよう? と本気で困惑したものである。
自費出版の本で、日本人なら道元くらい読んでいてほしい、
というのが学習院スタイルなの?
法華経の常不軽菩薩を尊敬していると悟りすました清い顔で言いながら、
テーブルをばんばん叩いて怒鳴るのが八王子の道元なの?
わたしに殺されると最後は姉に泣きついたそうだが、
だからさ、八王子まで行くのがどれだけたいへんか。
1回浮間舟渡まで来てみろよって話なわけで社長さん。
ジェイコムに電話して聞いたら20分くらい待たされたのだが、
いまガラケー、エーユーに払っている金額は月3500円くらいとのこと。
固定電話は1300円。プロバイダ料金は6000円。
ということは、ジェイコム単体には5000円くらいしか払っていないのか。
問題にしたいのは、ガラケーの3500円。
いま楽天がスマホサービスを始めて月2980円って言うじゃない?
ここはもうスマホ処女、スマホ童貞を捨ててもいいのではないか。
エーユーを切るとき違約金があるけれど1万くらいで、
それってポイントでどうにかなるの話ではないか。
しかし、もうワンプッシュほしい。スマホを手取り足取り教えてほしい。
それに楽天に代えるのが底のところでめんどうくさい、かったるい。
生活力が高い女の子にビシバシ指導されたいなあ。
ほんとうはこれが編集者の仕事で、
原稿に赤を入れるなんてあんたらの仕事ではない。
有名作家になって編集者に身の回りの世話をしてもらいたい。
いまでも八王子事件の真相はわからないが、
八王子さんは笑わない人だった。
毎晩、世界真理を追究している自称理系学者の八王子さん。
わたしも嫌いだからそれは好感触だったのだが猥談もなし。
かたくななまじめな人で、
山頭火がよく日記に人の悪口を書いていたと伝えたら、
「それはダメな奴だ」と仰せになっていた。
あの人、笑わないんだよ。
わたしなんか全身がお笑いジョーク的存在だから戸惑った。
で、最後は刑事告訴って、もっと肩の力を抜こうよ。脱力しましょうよ。
最後に会ったとき、目をランランと妖しく光らせ、
拙作に朱筆を入れて真っ赤にしようと思ったと言われる。
ジョークなのかいまいちわからなかった。
八王子さん、シナセンのU講師とそっくりな顔でね。
生き霊じゃない? とか人から言われた。笑わない人は怖い。
作家で精神科医の春日武彦さんもこころから笑ったことはないらしい。
怖い人がいる。
わたしほど名作戯曲、名作脚本を勉強として趣味として
読んだものはいないだろうが(おそらく)、シナリオはものにならなかった。
いまはもうシナリオにあらぬ邪心がない。
自分だったらこうするとか考えず、
「まっさらなこころ」(by原一男)で、ひとりの観客として映画を見(ら)れる。
そうすると意外とおもしろいのである。
ライバルとしてではなく、娯楽として映画を見ると味わいが変わる。
盗もうとか考えなくていいわけだから。
「おもしろい/つまらない」「好き/嫌い」にピュアになれる。
これは戦略として成功しているとか馬鹿な感想を持たずに済む。
そして、ネットで他人の感想を読み、人それぞれなんだなあ、と驚く。
むかしは濃くて鬱陶しい時代だったのだろう。
上司が部下に酒を飲みながらおなじ武勇伝を何度も繰り返す世界。
(わたしは運がよくコカさんという上司にこれを経験させてもらったが……)
嫁姑関係も殺人事件が起きないのが不思議なほど緊張していた。
ウェットなそれがいいわけがなく、
いまのようなドライな時代のほうがよほどいい。
むかしって40を過ぎて嫁がいないと周囲からあらぬお節介を受けたと聞く。
いい時代になったと思う。
ちょっとさみしいくらいは我慢しようと思う。
社員旅行の宴席で形だけの無礼講とか経験してみたかったが、
今生では無理だろう。
映画「百万円と苦虫女」がおもしろかった理由のひとつは、
蒼井優を友達がいない
(ゆえに携帯電話も持たぬ)女の子役にしたことだろう。
えらく新鮮な女性像を見たという気がした。
女があらゆる創造的な世界で男に勝てないのは孤独になれないからだと思う。
ひりひりするようなひんやりとした孤独から女性は逃げるのがうまい。
それはプラス面としたら社交的となり、
マイナス面では創造性、独創性に欠ける。
映画「百万円と苦虫女」を見て、
孤独な友達がいない女の子(蒼井優)がこんなにいいものかと驚いた。
それは女ってすぐ群れるよね、という風潮への反骨があったからだ。
友達がいないと認めちゃうと自由で気楽になれる。
人の目線を気にしなくて済むようになる。人との比較を考えなくなる。
いちばんたいせつな自分としっかり向き合うようになる。
ゴマキといえば、煙草をもくもく吸いながらいいかげんなマスクをして、
下品に大股を広げてパチンコをしている姿がまず思い浮かぶ。パチンコ。
コロナで業界がパチンコ新台をつくるなといったそうだが、
そんなお約束はなんのものという現場金銭情報も入ってきている。
酒を飲んで車を運転したくらいのアル中の吉澤ひとみもモー娘。かよ。
そんなに女性を裁くものではないと思う僕はいやらしい変態中年。
パチンコ営業っておもしろいよね。
酒井法子の世界、夢冒険、射幸性アップアップ。
がんばれパチンコ、パチンカス。
いまはもうめんどうくさくて海外になんて行く気がしないが、
それでも成田とか羽田とか国際空港は大好き。
たとえレストランの物価が異常に高くても大好き。
海外旅行よりも空港のほうが好きなくらい。
あの英語のアナウンス。フォリナーがいっぱいいるところ。厳戒態勢。
あんな胸躍る場所は国際空港以外ない。
自由。旅立ち。大空へ向けて。
アテンション・プリーズ♪
部落を教えちゃうと寝た子を起こすって話があるけれど、
東京の文京区育ちだと同和教育なんてなかった。
あそこは品位が高いから創価学会の存在だって20半ばまで知らなかった。
結局、言葉なんだよねえって話。
児童ポルノだって寝た子を起こすなって。
児童ポルノという言葉を知ってしまうと、
少女をそういう目で見るという視点を獲得してしまう。
法律で禁止されているとなったら、ほっともっと。
高校のとき、同級生女子なんて大嫌いだったが、
JKという言葉を知ってしまうと新たな価値が創出される。
ブルセラ世代だが同級の女子高生とかぜんぜんブルセラじゃなかった。
かわいくなかった。
最高峰は最底辺に通じているというか、いま、おれ、芸能界、大好き。
女子っこすぎる男の子。
おれの理想郷というのは、血がけがれた美少女がいじめられまくって、
性のなぐさみものになりながら芸能界で大成功をするものの、
空しくて自殺するってストーリー。
いまはおれも自主規制をおぼえたから、どういったらいいのか。
旧同和地区の信じられない美少女(元美少女も可)にビンタされたい。
酒井法子、父親がヤクザで血はけがれているが、あの子は部落ではない。
真っ黒な女の子からコテンパにされたい。
それが川越美和だったらすばらしい。
ゴマキって血が悪そうだよね。
ああいう子にミニスカートをはかれると土下座したくなります。
Bは貴重な財産。一遍上人の教えであります。
いまはインドネシアで活躍しているという元アイドルが捨て子カミングアウト。
家なき子、ドンキ、捨て子ハウス出身かよ。
そういうプロレスめいた話は大好物。
いまはコンプライアンスなあれでそういうことはないのだろうが、
捨て子は10歳を超えたら男女で性行為をおっぱじめるとかいう、
都市伝説めいた、その、あれね。
教官から性のなぶりものにされるとかいう、ブブカかよ!
小学生女子が中学生男子の性の上納品にされるとか、そういう捨て子伝説。
おれ、そういう子と一発で息が合う気がするけれどなあ。出会いがない。
数年まえ活動屋さんをしていらっしゃる団塊男根の原一男教授が
売れなさそうな雑誌で、
おれは百歳まで生きて映画業界に権力の目を光らせるからな、
と言っていたのを見てぞっとした。
あの人って、しょせん高卒一発屋でしょう? ほかになにがあるの?
それなのにどうして延々と大学教授でいられるのかは、朝日的構造主義。
取材対象に「先生、先生」と言われながら、
反権力のドキュメンタリー映画を撮る原一男教授。
朝日新聞は反権力っぽいポーズを取っているが、
そもそもいまはもうとっくに朝日新聞が最高権力団体。
金持の子しか入れない。NHKとおなじ。
文化方面を見ると、20年まえからトップは変わりばえしない。
世界のニナガワがオンナに化けて大勝利しているが、それは同じ構造。
ニナガワの娘は現代の象徴。
おれたち団塊ジュニア、氷河期世代って、まったくいい思いをしていない。
90年代後半に青春期をむかえた大勢のメンバーだよ。
決起せよ、と言いたいところだが、
親世代が決起してカネに転んだあれだから。
むかしだったらおれたち40前後が世界でバリバリやっていたんだろう?
いまは60が主役。
青春宗教創価学会もいまだ池田先生が主役。
仕組みをだれも変え(ら)れない。
いまの新人文学賞の選考委員をわたしが知らない時代なのである。
時代だなあ。むかしは雑誌だったんだ~よ。
本棚を整理していたら、90年代の新品「テレビぴあ」が見つかる。
野島伸司ドラマ研究(笑)のために買ったのだと思う。
「ひとつ屋根の下2」と「ふぞろいの林檎たち4」って
おなじクールで放送されていたのか。
おれたちが雑誌の熱さを知っている最後の世代ではないか。
むかしは雑誌が熱かった。やらかしちゃえという熱気があった。
いまはインターネットでチョチョイかよ。
お宝ブームみたいのもあったよね。
大女優や人気アイドルがむかし脱いでいたのを探せ、みたいな変な情熱。
あのころは児ポもなかったスーパーフリー。
結局、宮沢りえって児ポなんですか?
3月4日、今日はなんの日だっけな? なんかの日だったなあ。
忘れちゃいけない日。
広島、長崎みたいな日。起きないことが起きた日。
「人生の履歴書」にはブログになんか書けないことがいっぱい。
夜空に向かって「幸せになれよ」と宇宙ポエム。
僕は先日、有名な映画「ファーゴ」を見たよ。
もうあのころと違ってシナリオへの関心はまったくない。
きみも変わったかい?
以上、むかしの野島伸司ドラマふうの意味不明独白でした。
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昨日の段階でトイレットペーパー2/3ロールを切っており、
玄関から海外旅行のときに持参した残り物を1ロール弱発見したものの、
あわてる、あわてる。
本当に必要なものがなにかわかる。
今朝近所の薬局の開店20分まえ、8:40に到着。
幾人並んでいるかはわからない。
店員は品出しをしているところ。
狙っているエリエールのダブルよ、売れるなかれ。
高いから売れないのではないのかという期待を持つ。

横のおばちゃん、おっちゃんと話し始める。特別、取材ではない。
わたしは意識が低いというのか、行列とかで知らない人と平気で話せる。
これはアジアで覚えた作法か。
いざとなったら口コミなのである。気分はまるで空襲前夜。
異常に盛り上がっている。
退屈な日常についに来た、待ち望んでいたイベントのごとく。
おばちゃんは猫の餌まで買い占めたことを饒舌に語り、
まだだれもそこには気づいていなかったと先見の明を誇る。
うちは猫も家族ひとり換算だから配給は3人分よ。
そこにおっちゃんが口を挟む。
まず人間だ。猫はほっておけ。
いざとなれば新聞紙だって、バキュームカーだってある。
むかしはそうだった。
老男老女の熱弁にいちいちわたしが口をはさみ場を盛り上げる。
周囲はなにごとかといった感じである。
ボス的な店員から「ひとり一品まで」のご通達が入る。

よ~いスタート。どうやらわたしは行列の15番目くらいに位置していたようだ。
ひとり一品までなのにみんな持てるだけ紙製品を持っている。
「ひとり一品までじゃないんですか?」と聞いてもみんな無視。
うしろの青年が「いいんですよ。みんなやってますから」と教えてくれる。
わたしは律儀にエリエールのダブル12ロールだけ持って店内に入ると、
みんな山のように希少物資をかかえているのではないか。
最初は店員もひとり一品を通していたが途中でルールが変わる。
「ひとり一種類までならいくらでもいい」
これでは正直者がバカをみるじゃん、
とわたしは店外に戻りティッシュの箱をひとつ取る。
いま思えばキッチンペーパーも取っておけばよかった。

やはり日本人を甘く見ていたな、
と反省しつつ愛用しているエリエールのダブルが買えて嬉しい。
ちなみに開店時間9時にはまだトイレットペーパー自体はあった。
このあと10時から横のスーパーで販売開催するとの情報を得ているが、
とりあえずいま12ロールあれば、デマが消えるまで持つだろう。
現場からの緊急報告は以上です。
みなさん、物資は足りています。
しかし、朝いちばんに行くことをおすすめします。昼にはどこもないでしょう。

(編集後記)
本当にみんな(わたしも含めて)政府や大企業、
マスコミの公式発表を信じない。
そこまではおなじだったが、
「ひとり一品まで」はさすがに守ると思ったらそうではあらず。
「世間知らず」の甘ちゃんと怒鳴られることがあるのもむべなるかなである。