だから悪い女の子に人生をめちゃくちゃにされて死んでいきたい。
「キューポラのある街」の倉庫で、
髪の毛がまっきんきんで、とんがっていて、
おれさまさまが怖いなあ、と思う女の子のそばに寄ったら、
逆に怖がられるおれってどんなきちがいオーラを出しているんだよ。
ふつうあの子のほうが怖いだろ。
ああいう、あたまの悪そうな礼儀知らずの、
生意気な女の子と交際してみたいんデス。そうなのでありマス。
飽き飽きしているんだよ。
海外でも行けばって話だが、43歳にもなるとめんどうくさい。
ビザを取ったり、現地で料金交渉をしたり。
結局、ほしいものが悪評高いナウなア○ゾンで働いてみたいだったりするわけ。
ぜんぜん世評と実際のア○ゾンは違うじゃん。
しかし、飽きる。
飽きたってなんだって、おまえぶん殴るぞの世界だが、飽きた。
つまらないんだよ。刺激がほしいんだよ。
ホリデーのア○ゾンは「やべえ」ってくらい刺激があった。
板中への入院も海外旅行以上におもしろかった。
かかってこいよ、バッカヤロ♪
もう何年もまえから書いているが、
「ほしいものはほしいもの」――。
ほしいものがないのである。
お金はほしいが、お金で買えるほしいものはない。
称賛や受賞もからきし興味がなくなった。
そりゃあ、エミ―に恩返しをしたいけれど、
お金や物品で返すのはあっちも困ると思う。
もう飽きたよ。
「死にたい」ではなく「死んでもいい」というか、飽きた。
飽き飽きした。本当に飽きた。
ア○ゾン川口倉庫の2階、EFエリアは大きくて重い商品が多いんだ。
最後のころはそこに行かされるのが定番になっていて、
高い時給をもらっているんだから、それに男だしウフフンだったのである。
最終日にようやく真実、本当のことに気づく。
このEFエリアのものをわたしはピッキングしているだけだが、
この商品の山はだれがどのように積んでいるのか?
機械とか人工知能ではなく、
人間が手づかみでEFエリアの山を積み上げていたのである。
険しい顔をした、
しかし、顔のつくりは非常にいい、体格のよく絞れた青年だった。
時給1050円で、あれをさせられたら厳しい顔になるし、
もしわたしだったら時給1350円のスポットを見たら、
顔をグーで殴りたくなるだろう。だからグーで。
帰りのバス乗り場で見たら、
お若い彼氏はかわいい彼女とおなじ川口倉庫で働いているみたい。
ここで出会ったのかな。
おふたりに幸あれと願ったものである。
人生、そんなもの。
朝7時に「キューポラのある街」で密林行のバスに乗るのも本日が最後。
同時性、共時性、キューポラのある街。
うしろの席のレギュラーさんが、
まるでわたしに訴えかけたいように「本当のこと」を話している。
「キューポラのある街」の密林にも「早帰り」はふつうにある。
ストーなんか昼に仕事がないからと帰されることもある。
最悪の場合、朝来て朝にそのまま帰ってくれも。
だって、「キューポラのある街」だもの。
自分だけいい思いをしたのではないかという罪悪感にまみれながら、
それでもしかし「キューポラのある街」だもの。
わたしたち一部スポット組は時給1350円、
10時間完済でフィニッシュしたから、そんな現実は知りたくなかった。
聞かなかったことにしたい。
いやなら辞めればいいじゃないという物流倉庫の常識は知っている。
どこもみんなやっていることだから。
そうしないと数字(生産性)が出ない。すべてはお客さまのために。
女に対して好奇心はあるが、それはあくまでも悪戯な好奇心。
愛とか恋とか人生を賭けるということはまったくなく、悪戯っぽい好奇心。
相手に旦那、主人、夫、彼氏、恋人がいたほうがよく、だから好奇心。
火の用心の火遊び燃えた遊技場。
119鳴らしてぼくの救急車。
きみの笑顔に参ったしたいギブアップまで待てないよ。
きみのことを彼女と呼ぶ彼氏にわくわく好奇心。
不正と書いて歪(いびつ)と読むが、ぼくはふしだらなきみが好き。
生まれてはじめてポエムを書いたのはきみのおかげさゲッチュー。
「悦楽王 鬼プロ繁盛記」(団鬼六/講談社文庫)

→病院で日給クラスの高額料金を支払い、
心霊写真のようなCT画像を見せられて、
「僕は素人なんで、そんなことを言われてもチンプンカンプンです」
と2歳年下の外科医に物申し損をした気分でお会計をして、
あとどのくらい打てるのか出玉いくざんと銀行に寄ったら、
残金が微量ながら増えており、そういえば働いていたっけ?
と過去を振り返り、お金、お金と鼻歌を歌いながら、
すっかり気分をよくした僕は赤羽の立ち飲み屋「いこい」に行き、
今冬最初となる「あんきも」「白子」(200円!)を注文しながら、
吃音症のため同様に好物の「なめろう」は頼めず、
しかしながらひさびさの酒を愛するつまみと満喫したのであります。

「あんきも」や「白子」「うに」「塩辛」は好みがわかれる。
大衆魚の「さんまの刺身」のようなわかりやすさがない。
刺身の「かつお」がまずいなら「まぐろ」もどうだかって話。
「たこ」は唐揚げにするのがいちばんうまい。
酔いどれ気分で生きてきて、
気づけば余命が推し測られる健康状態になったが、
人生最後に行き着くのは快楽や悦楽である。それが生物学的正解である。
動物の答え。アニマル・アンサー。
ブログの記録を見ると、
先日まで某電脳大手通販会社の倉庫で働いていたようだが、
そのときはおそらくそれが快楽であり悦楽であったのだろう。
「あんきも」「白子」「うに」だった。
倉庫は快適だった。
絶対、こいつ人を殺したことがあるだろうという面相のおっさんが、
仕事もできないのに300円も多く時給を取っているこちらに怒鳴ってこない。
若い女の子が時給1200円のトレーナーで、
いまの地位にそこまで疑問を抱いていない。

ああ、窮屈だ。パーッとやらないか。
パーッとやらないかというのがSM作家の団鬼六である。
パーッとやろうぜ。
尿酸値や肝機能なんて気にせんで、
レバ刺をたらふく口楽しながら、あたまがバカになる酒をしこたま口悦せよ。
ア○ゾン川口喫煙倶楽部では
ちかぢか飲み会が開かれるそうだが、それでいい。
酒でも飲み散らかして不満を言ってパーッとしよう。
倉庫のうえのほうだって、大した給料を取っていないし
(ア○ゾン研究家の大学生のMくんいわく5、6百万)、
あいつらだってエスカレに縛られまくりで、
自分の意思なんか通らない。
だから、わたしのようなクズもうえからのエスカレで働けたのだが、
それはちょっと大きな声では話せないことかもしれない。
ア○ゾン労働は快適だったが、それがいいのか悪いのかわからない。
変なやつがいないのである。
SMのパイオニア、団鬼六はいう。

「奇人変人に興味を惹かれるという事は
それだけ私は真面目人間が嫌いだという事になる。
世の中には性的な変人も多いが。
心理的な変人はさらに多いのである。
しかし、そうした変人の中にこそ豊かな人間性が感じられることがまた多いのだ。
そうしたアブノーマルな部分を掘り下げていくと、
人間とは一体何かという不可解さが生じ、
奇怪な密林地帯に彷徨(さまよ)った感じになるのである」(P26)


大衆、庶民は奇人変人ではないから大衆、庶民なのである。
大衆、庶民が好きなのは「男はつらいよ」の寅さんこと渥美清。
一部では東南アジアへの
ロリ買春悦楽三昧で有名だった変態性欲者(児ポ相手にだけは言ってもいい)、
渥美清とSMポルノ作家の団鬼六は交友があった。
「男はつらいよ」の渥美清は、
よく団鬼六の大豪邸、庭つきの広いお屋敷に来て、
近隣の庶民、いわゆる大衆を呼び集めて説話をしたという。

「渥美清はそうした近所の人々に所望されれば、
寅さん映画撮影中の珍談も語ったが、
近所の人達の生活体験というものを聞きたがった。
寿司屋や酒屋、ソバ屋などの苦労話を聞くのを好み、
また、聞き上手であった。
なる程、わかる、とうなずき、
そして次には面白い合いの手を入れて、一座をわかした。
そうした庶民の生活体験や生活感情が、
彼の芸の肥やしになるのかも知れない。
渥美清は、こうして見知らぬ人々をむしろ歓迎するように集めて、
賑やかに騒ぐのが好きなようで、また一方では、
たえず隔離された寂しさを求めているようなところがあった。
渥美清の喜劇の本質というのは、
そんなところにあるのかも知れない。
だから、『男はつらいよ』の寅さんが、
彼の生涯のはまり役だったともいえるだろう」(P130)


――と、このように団鬼六は渥美清を評しているが、
SM作家のほうは寅さんからなんと言われたか。
渥美清はSMポルノ作家の団鬼六にこう言ったという。

「文学作品とか芸術作品といったものは別にあなたがやらなくたって、
この世にやる人はワンサといますよ。(……)
正直いって、僕だって寅さん映画が売れるから次から次に出演しているんです。
そんな役者でいいのかと自分で疑問を持った事は何度もあります。
自分の可能性を自分が狭(せば)めているんじゃないかと思いました。
しかし、役者とは大衆に支持されるものなら、
どんどん出演すべきだと思います。
大衆に悦ばれ、支持されるものに出演するという事、
これは役者冥利に尽きるものです」(P124)


求めるものは快・楽・悦。だから、求めるものは快・楽・悦。
マゾ的な快楽も悦楽も当然あっていい。あってしかるべきである。
朝7時まえから川口駅前で行列するのもある意味、快楽、悦楽である。

「十三歳の実験」(富島健夫/光文社文庫)

→だからなんだと言われても困るが富島健夫と梶山季之は同年代で、
それゆえかつて日本国だった朝鮮で生まれたという共通項がある。
富島健夫は大衆ジュニアポルノ作家で、
食えない芸術よりも実質的な金を取ったことでも両者は共通している。
「十三歳の実験」は富島健夫の遺作となったロリータ小説。
13歳の少女に早稲田の学生が性の手ほどきをするという。
ちなみに富島は、
瀬戸内寂聴に初期作以外はみんなクズと言われた丹羽文雄の門下。
富島健夫も梶山季之も丹羽文雄になろうとしてなれなかったが、
瀬戸内寂聴は女性を味方につけて師匠格の丹羽文雄を軽々と飛び越えた。
富島健夫や梶山季之を読む女はいないだろうが、
瀬戸内寂聴を読む男もいまい。

女は13、4歳がいちばんおもしろいとも言える。
12歳の小学生くらいまでは、身長も体力もほぼ男女差はなく、
かえって女の子のほうが成長が早いこともままあるが、
ご存じのとおり第二次性徴というものがあり、
そこで子どもは男と女に決定的に遮断されるがためである。
まず体力という面で、女は男にかなわなくなる。
女は強い男が怖くなる。おのれが第一種ではなく、
第二種の性だという自覚を余儀なくされる。
第一等ではなく第二等の性別である。
男ではなく女である。
ポルノ老人作家の早稲田一文、
丹羽文雄門下の富島健夫が最後に行き着いたのは、
ふくらみかけのおっぱいと産毛のはえた裂け目だっだということだ。

単純所持禁止の児ポ。富島健夫のゴールは児童ポルノ。
芥川賞候補作家で児ポ作家の富島健夫は男の夢を描き続け、あっさり死んだ。
受賞歴はゼロである。
男の児ポ小説「十三歳の実験」は、
どうしてかドストエフスキーの小説のように読むのに時間がかかった。
部落や朝鮮、創価学会がマイルドになったいま、
最後のホットな聖域はおそらく児ポ。JKでもおばさんあつかいするのが児ポ。
想像するのは自由である。国家権力も取り締まれない。

「女巡拝記」(梶山季之/徳間文庫)

→梶山季之は「男性自身」の山口瞳とマブダチだったことで知られる(?)
昭和の大衆作家だが、いま読み返すものはいないと思われる。
梶山は仕事中毒で酒と女が好きで45歳で死んでいる。
ものすごい金を稼いだそうだが、納税額をまず考え、かわいそうだなあと思う。
「女巡拝記」は短編小説集で、日本男児が
世界各国で女とやりまくるという会話だらけの娯楽小説で悪くはない。
が、女のパターンが昭和だが、しかし、そこがいいとも悪いとも言える。
女は男に尽くせ、みたいな規範を大衆小説はなんの疑いもなくなぞっている。
女って食いものみたいな商品であることが
ちょっとまえまであからさまに社会通念としてあって、
女サイドもそれを了承していたのが、こういうのを読むとよくわかる。
女は男によって金で買われる食べもので、別名は子を産む機械。
新品は高いが、中古品や旬を過ぎると時に買い手がつかなくなるもの。
「女巡拝記」から――。
宣伝会社の中年社員が、タイで妻の年の離れた妹の処女を食う話。
若い女は京子といい男が縁故採用してやったモデル。

「京子は、その点、若いだけに、すべてに溌剌(はつらつ)としていた。
乳房は、姉と違って小さいが、お椀型に盛り上げっている。
採用テストの時に、審査員として視(み)たのであるが、
乳首は桜ん坊のように大きく、しかもピンク色であった。
あの乳房は、将来、楽しみのある乳房である。
腹の筋肉はぐッと締まっているし、腰のあたりも、くびれている。
ふくろはぎの筋肉は、ほどよく盛り上がり、
足首は仔鹿(こじか)のように引き締まって、
見るからに若々しく躍動的だった。
それに、モデルになる位だから、面(めん)がいいのである」(P98)


梶山季之は女性を自分とおなじ人格を持った「人間」としてまったく見ていない。
こういう男がかつてもてたのである。
おそらくいまも建前ではなく本音では、そうだろうと思われる。
そうそうなにか劇的に変化するものではない。
「女のくせに」「男のくせに」は変わらない。