「こころに届く授業」(河合隼雄・谷川俊太郎)

→職場で日蓮正宗の人からまた折伏させてくれ。
どうせ日曜日は暇でしょう? 
と言われたけれど、あれはお金をもらってもいや。
なにがいやかというと言葉以前に声であり音が不快なのである。
必死で暗記したと思しきことを間違わないように
棒読みで早口、小さな声で話すのである。聞いていてあたまがおかしくなる。
ときおり「わかる? わかる?」
とこっちを小馬鹿にしたような接続詞的なものが入る。
そういうのを聞いているともう身体的に異常を起こして吐き気がするくらい。
むかしYouTubeで顕正会の女子部のスピーチを見たことがあるけれど、
意味以前に抑揚があって音としてうまいのである。
ちゃんとしたリズムがあるわけ。
みんながヒソヒソになる日蓮正宗から派生した、
特殊学会の「庶民の王者」「永遠の師匠」の名誉会長もスピーチがうまいのよ。
意味よりも、音として心地がいいところがなくもない。
それはなにかいえば、日本人は結局、七五調になってしまう。
谷川俊太郎が小学生相手の授業でやったことだが、
斉唱(みんなで唱えること)をすると、
どうしても七五調的なリズムになってしまう。
それが意味たる言葉以前の音でありリズムであると詩人の谷川は言う。

「言葉というのは、
どんな地域の言葉でも初めは文字がなかったんですね。
最初は声だったわけ、音だったわけね。
音だけだと、すぐ消えちゃってなんか不便だということだと思うんだけど、
それでだんだん文字というのが生まれてきて、
日本でも文字ができた。
だから、言葉は、まず初めは声だった、音だった、
ということがすごく大事だと思うんですね。
そう考えてみると、私たちが普段しゃべったりなんかしているということも、
文字で表現できないような、いろんな大切なことを声や音は
表現できるからだというふうに思うんですね」(P66)


腸に穴が開いて入院中、うさんくさいクリスマス演奏会で、
バイオリンが奏でる演歌を大勢の患者やナースと聞いて
実際に目をうるませたわたしだから音の大切さはよくわかる。

職場ア○ゾンの唱和で好きだったのは「腰を曲げない捻(ひね)らない」。
しゃがんでもなにをしても物理上、
腰を曲げないと一番下のA棚の商品は取れないのだが、
あえて「腰を曲げない捻らない」と唱和するところが
社会の矛盾を生きているような屈折した快楽があったのである。
それをみんなで唱和するところに
社会の虚構のただなかを「仲間」と生きているという連帯感があった。
前回はなくなっていたが、明日復活するかどうか。
おなじスポットがA棚を蹴飛ばしているのを一度見たことがあるが、
気持わかるなあ、と肩を組みたくなったものである。
わたしも一度だけA棚を蹴って閉めたことがあって、
それが最初のストーのトレーニング中というのだから。
唖然とするトレーナーに「うっかり本性が」と言ったら、
見なかったことにしてくれた。あの人には逆らえない。
監視カメラを見てくれたらおわかりになるはずだが、その一度だけである。

倉庫内に音楽を流している会社も多い。
昭和歌謡曲を流していたのがセ○ンイレブン。
妙に宗教がかったヒーリング音を流していたところもあった。
ちなみにア○ゾンは無音。
「通ります」「はい」「通ります」「どうぞ」「ありがとうございます」が音楽。
長年、ア○ゾンで働いていると
スーパーとか公衆の場で「通ります」と言っちゃわ(は?)ないだろうか。
谷川俊太郎は詩人だが、
ア○ゾンの倉庫からも詩のようなものを感じ取れるのが
本物の詩人かもしれない。
べつに谷川俊太郎が偽物と言っているわけではない。
そもそもわたしは詩がまったくわからない。

「読む力・聴く力」(河合隼雄・立花隆・谷川俊太郎/岩波商店)

→15年まえはインターネット社会の到来で、
バラ色の未来が訪れるような幻想があったんだなあ。
少なくとも立花隆と谷川俊太郎はそう思っている。
立花隆はとくに集合知のインターネットに愚かな希望を見ていた。
ネットなんてバラ色でもなんでもないけれど、もう引き返せない。
駅のなかをみんなスマホを見ながら、
イヤホンして歩いてる日本を3人のうちだれが想像したか。
グーグルで調べて、ア○ゾンで買って、ツイッターやラインでつながる。
立花隆の脳内お花畑状態は、いまから見ると笑える。
ネットで世界がいい方向に変わると無邪気に信じている。
根拠は要するにインターネットは無限の書庫みたいなものだろうということ。
河合隼雄だけはネットにあまり肯定的ではない。
なにかをネットで検索したら
バーッと結果が出てくることに狂喜する立花隆に対して河合隼雄は――。

「そのときにバーッと出てくるよりも、
自分がどこかで出会うほうが面白いということはないのですか。
(立花隆「それはないではないです。
プライベートな生活では、個人的に出会うのが面白いでしょうね」)
僕はそれで十分にいっているから、何も要らないと思っています。
僕はホームページがないのでホームレスと言っています。
そういうのがなしでも結構面白いと思っているのですが、
やたらあまり出てきて、結局選ぶのだったら、
僕が勝手に人生の中で選んでいるほうが
面白いのではないかというやり方をやっています」(P164)


タイトルは「読む力・聴く力」である。
河合隼雄は「読む力」にも懐疑的だ。あえて「読まない力」を説く。
なにを読むかといえば、文字になった言葉である。
しかし、ケルトのような無文字社会もある。
ケルトは、意図的に文字を持たなかったのではないか。

「なぜかというと、文字ができるということは
便利な代わりに心の働きを限定するところがあるのです。
たとえば山という字ができると、山がわかったように思ってしまう。
この山も、あの山も同じ山だという概念が成立する。
人間の進歩ではあるけれど、そのために感性は衰えるわけです。
一つひとつの山を見て感じとることができなくなってきます。
ケルトはそちらのほうを発展させたのではないか。
だから文字がないのではないかという考え方は面白いと思いました。
アメリカの先住民も文字を持っていないです。
文字によらない感覚はものすごい洗練されていて、
ちょっと見てもそこに何か通った跡があるというのがわかったり、
僕らと全然違う感性を磨く。
それは文字を持たなかったからだ」(P178)


インターネットどころか出版(活字)文化さえ否定している。
いまはすたれた出版文化も全体の歴史から見たら最近のものなのである。
科学文明が紙に文字を大量印刷することを可能にした。
その本も売れない。インターネットだ。
では、さかのぼって見て、本のまえはなんだったかというと、
「話す」「聴く」である。言葉は文字以前は「話す」「聴く」であった。
果たして「聴く力」は、
耳とテープ(ふるっ)に録音するのとどちらがすぐれているのか。
これは「見る力」は、
目とビデオカメラ(ふるっ)のどちらがすぐれているかにも通じる。
河合隼雄は心理屋のボス猿で、
多くのカウンセラーの相談に乗るということをしている。
その役割をスーパーバイザーという。

「僕のところにスーパーバイズを受けに来る人もいますが、
僕がいろいろ言うわけだから
テープレコーダーを持ってくる人は絶対に断ります。
テープレコーダーに覚えてもらうような気持ちなら来るなと言います。
自分で覚えて、自分で忘れて、残るやつがいいのであって、
テープレコーダーは忘れませんからね。本当ですよ。
全部入っているというのはナンセンスです。
僕がいっぱい言った中の、何かがその人にヒットすればいいわけでしょう。
だからそういうときに僕は絶対に使わせないです」(P139)


わたしは観光地に行ってもいっさい写真を撮らない。
そもそもカメラを持って行かない。
旅した海外の光景はほとんど覚えていないが、
現地で聞いたことで覚えていることならある。それでいいのだろう。
現代科学の最先端企業のア○ゾンが倉庫内部を公開したがらないのは、
あまりにも原始的で人力に頼りすぎているのが恥ずかしいからだろう。
入庫をインバウンドと言葉を入れ替えても、
やっていることはほかの倉庫とそう変わらない。
ただし言葉を英語に変えたら、
いまの若い人には受けがいいのかもしれない。
ア○ゾンとそのレビューは古本屋文化と出版業界の一部を消すだろうが、
それはかつて出版文化が無文字社会にやったこととおなじだから、
それゆえ、いいとも悪いともかならずしも断定しがたい。

「下着の社会心理学」(菅原健介+cocoros研究会/朝日新書)

→大学教授がワコールにお金と資料を出してもらって作った本。
決して売れたわけでけではなく無料で配りまくった本ではないか。
教授と下着メーカーのワコールの宣伝になるわけだから。
最初の疑問提起は、女性はなぜ隠すべき下着にこだわるのか?
答えは、高い下着を買う人はポジティブで称賛欲求が高く、
安定を求めているというワコールが望むとおりになっている。
昭和30年ころの女性下着専門家の女性がエッセイで、
女性は下着で美しい身体をアピールして男性に立ち向かおう、
みたいなことを書いているものの引用が新鮮だった。
当時はブラジャーをつける習慣はあまりなかったらしい。

わたしをふくめ男は全般的にガードのゆるい、
いわゆる下着をチラチラ見せてくれる女性が好きだが、
それはおなじ女性から総攻撃を食らうとのこと。
なぜなら社会には規律があるからである。
そういう誘惑をすると不特定の男が特定の女性にひきつけられてしまい、
一夫一妻の安定した社会を壊すので、
その危険信号として羞恥心は存在すると本書には書かれているが、
どうも嘘くさい。
なんでも社会的に説明するのは、社会学者だからだろう。
ああ、いまたしかめたら心理学者だが、似たようなものだろう。

以前はつぎ生まれ変わるなら絶対に女で美女でと思っていたが、
今年になってからは女に生まれるのもめんどうくさそうだなあと。
だって、女として生まれたら夢がないじゃん。
子どもがあこがれるような偉人に女っていない。どこも男社会。
来世は河原の小石に生まれ変わって、美少女に川に投げ込まれたい。
職場でもどこでも「女は」って男相手に言うと、
みんなビクッとして「女性は」って言い変えるよね。
(例)
「(職場の)その部署に女もいました?」
「ええ、女性もいましたよ」
令和のいま女は完全に女性に成り上がったと言うこともできよう。
わたしは女性に生まれて男に勝とうとピリピリなんかしたくない。
繰り返すが、生まれ変わったら河原の小石になりたい。
男とか女にこだわることなく、小川をながめながらじっとしていたい。

「自分だけの1冊 北村薫のアンソロジー教室」(北村薫/新潮新書)

→去年、おととしと自分の小説を書くために
アンソロジー(名作集)を気が狂ったように読んだ、そのまとめがこの本。
アンソロジーは名作を集めたものなのに、
なぜかつまらないものが多い理由を
作家でアンソロジー編集経験も多い著者はこう説明している。

「名作ばかり集めた筈なのに、
実際には感嘆するようなアンソロジーが少ない。
ことに、テーマのあるアンソロジーに、それを感じた。
≪夜≫とか≪猫≫とか、そういうお題のあるものですね。
そうなると、作品を選ぶのが大変になる。
≪つまらなくても、お題にあうものを、間に合わせで入れてるんじゃないか≫
と思いました。
確かに、そういう面もあるでしょう。しかし、そればかりではない。
自分でアンソロジーを作ったときは、
≪これなら文句はないだろうっ≫というものを揃えました。
それでも、全部の読者の賛同は得られないんですよね。
≪小説を読む喜びは、この中にあるだろうっ≫と思うような自信作が、
案外、好評でもなかったりする。
当たり前のことですが、作品を評価する物差しは人によって違うんですね。
だからこそ、様々なタイプのアンソロジーが生まれる。
それからね、『古今』や『新古今』みたいな勅撰集だと配列に工夫する。
つまり、歌集なんかだと、名作ばかり並べてもいけないんです。
超傑作ばかりだと、読者が疲れてしまう。
駄作ではないんだけれど、
≪これはいいな≫程度のものが入っていないと傑作がきらめかない」(P48)


評価は人それぞれなんだよね。
あるものをいいと思う人もいれば、くだらないと思う人もいる。
だからいい、という面もあるだろう。人それぞれ。
八王子の人は自分の感想が絶対正解でみんなもそう思うって言っていたな。
理由は自分が科学者だから(笑)。
評価はさまざまだから、
結局はどのくらい売れたかというのが
安定した評価基準になるのかもしれない。
売上は創価学会の池田先生の本のように自爆営業で伸ばせるとはいえ。
しかし、ア○ゾンのレビューのように評価を先に動かすという手もある。
最初に☆5つをたくさんつけておく。
裏情報を書いておくとア○ゾンの社食はレビュー方式なんだよ。
食べた後、箸やスプーンを5段階評価で入れることになっている。
みんな☆5つに入っているのは、あるいは最初に
そこにたくさん箸を入れているからじゃないかって思っている。
焼き魚のマスを食べたとき、魚が冷たくてパサパサでさ。
なんで社食で刺身でもないのに冷たい焼き魚を出すの?
そう思って、だれも入れていない☆ひとつに箸を入れたことがある。
みんなは390円ならこのくらいと思うのか、☆5つ4つばかりだったが。

☆5つで評価するとなると☆48は出せないわけでしょう?
個人的な思いが、☆に制限を受けてしまう。
さらにつけたすと、そのときは売れなくてもいい小説ってあるのね。
あとから評価されるものもいっぱいあるじゃない。
たくさん売れても、いまでは忘れられているものも数知れない。

北村薫さんは2010年時点で、ネットで本を買わない派らしい。
本どころかネットでものを買わないアンチ・ア○ゾン。
古本屋で探しているものを見つける楽しさを強調している。
それはものすごいわかるが、
わたしが去年古本屋街の神保町に行ったのはもはや1回だけ。
もう探しているものもなくなちゃったし、
新しい作家を発掘するとかも、
ぶっちゃけ、いま知っている作家だけで十分という老齢になってしまった。
北村薫さんとは異なり作家で精神科医の春日武彦さんは、
いまではスマホを所持し、ア○ゾンから小物を買うのが趣味の模様。
小物を買ってくれるお客さんは現場で働く作業員には嬉しい存在。
春日武彦先生、お買い上げ、ありがとうございます。
それと新刊書店にも行かなくなったから、
春日さんの新刊が発売されても愛読者のわたしは気がつかない。
どうかよろしくお願いします。
今度、久しぶりに汚い字で礼状を書きますので(ハガキですが)。

作家で精神科医の春日武彦さんといえば、
ア○ゾンに深く傷つけられた被害者のひとり。
構想から何年もかけた渾身の大著「私家版 精神医学事典」が
ア○ゾンのレビューで☆ひとつをつけられ、
その影響かまったく売れず評判にもならなかったという。
しかし、春日先生の大著は
しっかりとわたしのこころには届いているわけである。
北村薫さんはいう。

「作品というのは、固定されたものとしてそこに≪ある≫わけではない。
読みによって、その姿を変えるわけです。そこに読書の味がある。
別の人が、違う角度から語ってくれるのは、
こちらも聞きたいし、読者の方にも聞いていただきたいわけです」(P119)


「私家版 精神医学事典」も廉価な文庫になったら評判になるかもしれない。
本は読み手によってまったく様相を変えるのである。
その複雑な味わいをたった☆5つで評価するという風潮を
つくった責任の一端はア○ゾンにある。
これは☆5つ、これは☆4つといえば、なにかわかったような錯覚を得る。
ちなみにア○ゾンの社食は食後の箸入れがレビューになっているから、
箸をどこかに入れないわけにはいかない。
もしかしたらあそこにも監視カメラがついているのかもしれない。