久しぶりに郵便ポストをのぞいたら精神科医で作家の春日武彦先生のご新刊、
「猫と偶然」が入っていた。ありがとうございます。生きていてよかったです。
エッセイだか小説だかわからない意欲作のようで読むのが楽しみ。
いただいたご本は絶対に批判したり悪口を書いたりしません。
100%ほめます。人としての常識。
そろそろ小学生のように汚い字でまたハガキの礼状を書いたほうがいいのかしら。
郵便局に行ってハガキを買ってその場で書くという荒業。
それにしても春日先生はよく働きながら、あんなに本を書けるよなあ。
出版界も慰労の意味も込めて、そろそろなにか賞をプレゼントすべきです。
でも、作品社の本だと難しいのかもしれません。
早く読者の反響を知りたいでしょうから、予定を変えて最速で読み感想を書きます。
それでも最低1日は寝かせますが、そうしないと書き手への礼儀に反します。
生きているといいこともあるんだなあ。
春日先生、大好き。好かれても困るのはわかります。
アイ・ノウ・ユウ。バット・アイ・ドント・アンダスタンド・ユウ。イーチ・アザー。

日本文藝家協会から「文学碑講演会のご案内」も来ていた。
井上ひさしの元奥さんのお話をうかがうという文化活動らしい。
井上ひさしは戯曲を10くらい読んだことがあるだけで、小説はほとんど読んでいない。
5千円という金額もいまのふところ事情からすると厳しい。
銀行振込なのだが、
わたしは人生で一度もそれをしたことがないので、やり方がわからない。
行ったら行ったで元文学少女の老女とかいらしておもしろいのかもしれないけれど。
「戦闘、開始」(「斜陽」)なんて思うリアル文学少女は来ないでしょうね。
最近思うのは若いころは花を求めるものだが、じつは花よりも実を取ったほうがいいこと。
このまえ北赤羽の盆踊りを観覧しに行ったが、太鼓も踊り手も本当によかった。
なにかを超えた美しさのようなものがあってべそをかいた。
公明党の太田あきひろが挨拶に来ていて、
この程度の規模のイベントにも顔を出すのかと驚いた。
太田あきひろっていえば、そっちの世界では大物でしょう?
北赤羽には創価学会の会館があるし、地盤が強いのかもしれない。
このまえの参院選の投票率は5割も行かなかったとか。
そりゃあ創価学会、公明党が勝ちますよ。
北赤羽の盆踊りには自民党の高木けいも来て挨拶していた。
公明党も自民党も、どちらの衆議院議員も挨拶が本当に短く、そこがよかった。
太田あきひろさんっていい人そうじゃん、見かけ。
「書き下ろし官能小説アンソロジー 初体験」(睦月影郎ほか/双葉文庫)

→むかしスーパーフリー大学の文芸専修の花形教授だった三田誠広が、
小説作法書でこんなことを言っている。
書くことがなかったら女性は処女喪失、初体験を書いてください。
男は初めてのインポを書けと。
わたしもセクハラになるから聞けないが、女性の初体験話は興味がある。

どうして官能小説、ポルノ小説を読んだのかというと、
おもしろい小説とはいかなるものかわけがわからなくなってしまったからである。
いちばん好きなのは深草潤一の「見つめられて」。
まじめなOLが露出に目覚める話。
会社でむっつり助平な部長が自分の胸の谷間や足を凝視するのに興奮してしまう。
しだいに露出願望は高まり、胸のかたちが丸わかりのノーブラで銀座を歩くまでになる。
そこを女性上司に見られ、スマホで撮影されてしまい、
こんな恥ずかしい格好をして、といじめられる。
わたしならここから違う展開にするが、著者はレズ落ちさせる。レズ初体験。
わたしはレズは興味がないのでがっかりした。

黒沢美貴の夜叉は時代物で江戸時代。
未亡人の女店主が勇気を出して男娼を買いに行く話。
男に身体をもてあそばれ快感にもだえ、
「ぽかぽかしてる、ここも」といわれるシーンで爆笑した。ぽかぽかしてる、ここも(笑)。
あれ? うん? 読者を笑わせるために書かれたのか、この小説は。
ポルノというのは、笑いと紙一重なところがある。
葉山れいの「制服とシンデレラ」はバスガイドとのバカバカしい初体験。
柚木郁人の「オニヰンギョウ」は文学臭があり、
著者がポルノ作家になりきれていないのがいいのか悪いのか。
川奈まり子の「あなたの玩具にしてほしい」は、
日々自慰にふける図書館勤務の三十路処女が初体験を迎えるまで。
ポルノ小説の大家、睦月影郎の「その朝お前は」は古臭い青春小説ならぬ性春小説。
著者の願望がよく描かれている。

橘真児「助手席の人妻」は笑えた。
コンビニでバイトする若者が先輩の若い人妻に性の手ほどきを受ける。
カーセックスでところどころ車の縁語を使っているのが、
どこまで本気なのかと笑っていいのか迷う。
引用してみようか。
大学生の孝輔が28歳人妻の志津江を助手席に乗せて高速を運転中という設定である。

「フェラチオを始めたときから、そうするつもりだったのだろう。
ここはお言葉に、いや、お口に甘えて欲望を解き放つことにする。
「あ、あああ、出ます」
蕩(とろ)ける歓喜に包まれて、孝輔は腰を揺すり上げた。
それでもハンドルだけはしっかり握り、道路から飛び出さぬよう注意する。
「あ、いく……出る」
目の奥で火花が散ったと思うなり、
熱いトロミが屹立(きつりつ)の中心を駆け抜けた。
びゅくッ、どくっ、びゅくんッ!
いく度にも分けてほとばしった牡の精は、
すべて麗しの人妻によって嚥下(えんか)された。
これはもう悠長にドライブを愉しんでいる場合ではない。
さっさとラブホテルにしけ込み、車ではなく志津江に乗らなければ」(P25)


おまえら事故るなよッ! あんまり格好いい死に方じゃないぞ、それは。
「びゅくッ、どくっ、びゅくんッ!」は、
どうして真ん中の「どくっ」だけ平仮名の「っ」なのだろう? 
深い文学的意図があるのだろうか?
どんな顔をして作者は「びゅくッ、どくっ、びゅくんッ!」とか書いているのだろう?
結局、志津江は旦那とよりを戻してしまう。
男になった孝輔の結論は――。

「ま、女も車と同じで、中古よりは新車がいいに決まってるからな」(P26)

ある種、文学の最先端を突っ走る忘れがたい作品である。

「谷崎潤一郎マゾヒズム小説集」(集英社文庫)

→性欲というのは意外と創作の源なのかもしれない。
本書の解説によると、永井荷風が谷崎の初期小説「少年」を読んで、
こう述懐しているという。
「私はもうつかれきった私自身の空想だけでは
とてもあの若い新進作家の書いた『少年』のような、
強い力の籠った製作を仕上る事ができない」

みなさまとおなじようにわたしにもサドの部分もマゾの部分もあるが、
谷崎潤一郎のマゾヒズムとこちらのそれはいささか異なり、
性的嗜好というのは難しいものである。
わたしの理想(性的夢想/桃色浄土)は、
気位の高い勝気な多少浮気性なところもある悪戯っぽい女性に恋をして、
1日中その人のことを考えているくらい夢中になり、
しかし、その思いは成就することなく無下に拒絶され、
そしてその女は自分なんかより身分の高い裕福なイケメンの情婦になるのだが、
女はコケティッシュでストレス発散のために自分に恋するわたしを呼びつけ、
彼女はミニスカートとか露出過剰な格好をしていて、そのうえさらに、
わざといじめるために夜の話をするものの指一本触らせてくれないというもの。
悔しがるわたしを意地悪く笑いながら女に見てほしい。
……七面倒臭いやつだな、わたし。
かくして性的嗜好が合致せぬゆえ、
「谷崎潤一郎マゾヒズム小説集」に名作と感じるものはなかった。
いちばん好きなのは「幇間」。
以下の部分が、ちょっとだけ谷崎と性的合意が見られる。
三平は幇間(男芸者)。梅吉は女芸者。

「誰いうとなく、三平さんは梅ちゃんに惚れているのだという噂が立ちました。
それでなければああ易々(やすやす)と
催眠術にかけられるはずはないというのです。
全くのところ三平は梅吉のようなお転婆な、
男を男とも思わぬような勝気な女が好きなのでした。
始めて催眠術にかけられて、散々な目に会わされた晩から、
彼はすっかり梅吉の気象に惚れ込んでしまい、機(おり)があったらどうかしてと、
ちょいちょいほのめかして見るのですが、
先方ではまるで馬鹿にし切って、てんで相手にしてくれません。
機嫌の好い時を窺って、二た言三言からかいかけると、
すぐに梅吉は腕白盛りの子供のような眼つきをして、
「そんな事をいうと、またかけてあげるよ。」
と、睨みつけます。睨まれれば、
大事な口説きはそっち除(の)にして早速ぐにゃりと打ち倒れます」(P85)


「NHK人間大学 太宰治への旅」(長部日出雄)

→直木賞作家で一遍ファンの著者は「人間失格」ではなく、
「お伽草紙」から太宰文学に入ったという。
「カチカチ山」のおもしろさにしびれ酔い痴れ、
中学校に持って行き国語の時間に先生にお願いして朗読させてもらった。
こういうのは神がかった運の世界で、わたしは「人間失格」から入ってしまったため、
長らく太宰が嫌いだった。「お伽草紙」から入っていたら違っていたかもしれない。

著者は太宰文学の魅力をわかりやすくふたつにまとめている。
1.口承文芸の影響(七五調、体言止め、語り口調)
2.再話(むかしからある元の話をどう料理するか)

「弘前高校に入った年の夏、
崇拝する作家芥川龍之介の自殺に強い衝撃をうけた太宰は、
突然なにかに取り憑かれたように、義太夫に熱中します。
近代以降の文学は、活字の黙読が主流となりましたが、
それとは比べものにならないほど長いあいだ、
まだ文字が大衆のものとなる以前は、
口で語られて聞く者の耳に入る神話、伝説、昔噺から、
平家物語、浄瑠璃(=義太夫)、説経、祭文等の語り物まで
広範囲にわたる口承文芸が、
数において比較にならないくらい多くの享受者を楽しませ、感動させ、
涙を流させて、カタルシスを味わわせてきました。
文字で読むものだけが文学となってから、それらの口承文芸は、
一段低い芸能の分野に入れられて、高級な文学史とは切り離されてしまいましたが、
しかし、そのような知識人の分類とは関係なく、
気が遠くなるくらい長い時代にわたって、
数えきれないほどたくさんの人人の心を動かしてきた、もうひとつの文学の流れが、
叔母きゑの昔噺や、元芸妓(げいぎ)の女師匠に習う義太夫を通じて、
太宰の体に流れこみ、滲みこんでいたのです。
それはひとつの生理と化していたのかもしれません」(P77)


著者は太宰の小説がいまも若者の心をとらえるのは、
この口承文芸性ゆえではないかと指摘しているが卓見である。
太宰の短編の「駈込み訴へ」は口述筆記で、わずか2日で完成したという。
酒を飲みながら、あの通りに一字一句よどみなく、口にしたものを妻が書き取った。
横道にそれるが、太宰の名作とされる「津軽」。
あの最高の名場面は、
むかし世話になった女中のタケと30年ぶりに再会するシーンだが、
あれは嘘で実際の太宰はタケも運動会もそっちのけで、
中学時代の後輩とがぶがぶ酒を酌み交わしていたという。ひでえやつだが、いい。
「太宰治アンソロジー 泣ける太宰 笑える太宰」(宝泉薫編/彩流社)

→38歳で死んだ太宰の小説を43歳のわたしが、
こりゃ、おもしろいとべそをかきながら読むのも、なんだかなあ。
こいを、しちゃったんだから。

おもしろい、としか言えない。
言葉のテンポがよくて、独特の語感が心地よく、真似したくなるが決してできない。
「お伽草紙・カチカチ山」とか、語り口調が見事な芸になっている。
恥ずかしながら「トカトントン」を読むのは初めてだったのだが、
「トカトントン(虚無感)」が聞こえてくるのは男で、あれは女には聞こえてこない。
さらに恥ずかしいことを書いちゃうと、
「トカトントン」は43歳のわたしにも聞こえてくる。
死ぬ直前にエッセイ「如是我聞」で、
自作をけなした「小説の神様」志賀直哉を激烈批判しているのだが、
まるで現代のネット匿名掲示板に書かれたもののような子どもっぽさがあり、
38歳になって実名でこういうことを先輩作家に向けて書く幼児性に恐れ入る。
いや、そういう破綻した部分が傑作を書かせたのだろう。
40歳まで生きるのを神が許さぬ作家であった。
神様が、太宰に、こいを、しちゃったんだから。かなしくて、べそをかいちゃう。

「……トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、
こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、
伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、
も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、
もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、
自殺を考え、トカトントン。
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」
と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。
「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」
案外の名答だと思いました。そうして、ふっと私は、闇屋になろうかしらと思いました。
しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、
すぐトカトントンが聞えて来ました、
教えて下さい。この音は、なんでしょう。
そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう」


金持になっても勲章をもらっても女にモテても有名になっても、トカトントン。

「女詞 太宰治アンソロジー」(吉田和明・ 新田準編/凱風社)

→著作権フリーの太宰治の女性告白文体小説を集めたもの。
何度読んでも「恥」はすばらしく、今回読んだなかでは「葉桜と魔笛」が群を抜いていた。
「葉桜と魔笛」は小説の教科書と言いたいくらいである。
私的な意見だが、小説は「嘘と本当」の関係に尽きると思う。

短い小説ではあるが、物語を要約する。
中年女性の回想という物語形式である。
清らかな娘時代に妹がいた。病身で寝床におり、余命いくばくと言われている。
姉は妹宛ての手紙を盗み読んでしまう。
それは妹の女友達のていを装った恋文であった。
手紙を見ているうちに姉は知ってしまう。
いま病に伏せている妹が乙女ではなく、もう男性を知っていることを。
自分も経験していない男性を妹の身体は知っている。
最後は、病気のため、いわば捨てられたようなかたちで終わっている。
姉は妹への嫉妬やいろいろな思いを味わうが、
余命わずかの病身の妹が不憫でならない。
そこで恋文の筆跡を真似て手紙を書いてやる。
まだあなたを愛していると。
その証拠に夕暮れ、あなたの家のそばで口笛を吹きましょう。
これは思いやりから出た「嘘」ですよね。
寝床の妹から姉は呼ばれる。
姉が書いた手紙を見せられる。
姉が書いていたことがばれていたのである。どういうことか?
妹は言う。あの手紙は自分で自分に出したの。
「本当」は恋愛なんて一度も経験していないし、このまま長くないだろうし、
それではあんまりだ。なんの青春もなかった。さみしい。
だから自分宛ての恋文を書いたの。
これもまた「嘘」ですよね。
黄昏どきのそのとき、外でだれかが軍艦マーチの口笛を吹いているのが聞こえる。
姉妹のあいだに厳粛な沈黙が生まれる。姉は神がいるのではないかと思う。
どういうことかというと、姉の書いた「嘘」が「本当」になったわけである。

ネットで感想をちらほら見たが、だれもわたしと似た解釈をしているものはいなかった。
妹の告白が一世一代の「嘘」であったとも解釈できるのである。
妹の恋人は「本当」に存在していたとも読める。
そういう視点から見ると小説世界が一変する。
口笛は元恋人あるいは知り合いに頼んだ妹のお芝居だったのかもしれない。
こういういろいろな解釈ができる小説がいいのである。
そして、小説に正解はない。正しい解釈というものはない。

*青空文庫「葉桜と魔笛」
*青空文庫「恥」

身内の不幸があってから20代、30代前半と幸福そうな人たちを見ると腹が立った。
こいつらみんな不幸になれとまで危ないことを考えたものである。
しかし、この変化はどうだ。
いまは若いカップルとか見ると本当に微笑ましくて、いいなあと思う。
不器用そうな夫婦が寄り添って歩いているのを見ると、ときに涙ぐんでしまいそうになる。
むかしは子どもが嫌いだったけれど、いまはその輝きにうっとりする。
赤ちゃんを抱いた若い母親は嫌いだったが、最近それすらいいなあと。
菩薩みたいになっちゃって、これがいいのか悪いのかわからない。
隣駅の北赤羽で盆踊りがあるらしいから、いまから散歩がてら行ってみようか。
しかし、京都の火災の被害者遺族に20年待てとは言えない。
いまでもわが眼前で自死した親族の夢を見て、もういいやと思うことはある。
ワインがわからない。ワインとご縁がなかったからだろう。
むかしはワインをのむと頭痛がしたが、いまはそんなことはない。
おそらくいろいろなワインを鯨飲しているほうが、ワインをわかるのだろう。
しかし、ワインをわかるのと味わうのではまた異なる。
ワインをテイスティングして当てられるのは一種の能力だが、
それは味わっているわけではない。
ワインを分析的にわかる人よりも、ワインの味を深く味わえる人のほうが幸福だろう。
ワインの銘柄を当てて喜ぶのと、ワインの深味を堪能するのとどちらがいいか。
わたしはワインはまったくわからないから、
このワインは正しいだの間違いだの言う気はない。
サイゼリヤのワインは安くて酔っぱらえるのでいいよねえ、としか言えない。
しかし、カレーは大好きで本場インドやタイ、東南アジアでも食べまくったので
下品な一家言はなくもない。レトルトカレーは大好きである。
好きだからこそ批評できる。
アニメはワイン同様、
まったくの無知だから味わいもわからないし、校正したいとも思わない。
ただしおそらく小説同様、「正しい」アニメなんてないだろうことはわかる。
好き嫌いはあるだろう。好き嫌いしかない。
数学は苦手で大嫌いだけれど、
確率統計だけは大好きで、そういう本はかなり読んでいる。
結局、確率を数学的に突き詰めると確率の嘘に行き着いちゃうわけ。
優秀な数学者はたぶん確率の嘘に気づくし、それを教えてもらったのは確率本からだ。
何度も書いてきたが、成功率90%の手術があったとする。
確率的に考えたらみんな手術をしてもらうでしょう? 
けれど、10%に当たって
手術後死んでしまった患者の遺族にとって確率とはなんなのか?
手術しなければ生きていたわけだから。
要するに確率は統計から導き出された「みんな」の話で、
「あなた」や「わたし」には適合しないかもしれない。
確率を生み出す統計は、
何回も試行したらそうなるというだけで一回勝負ではあてにならない。

神はいるかどうかという議論があるけれど、あれはパスカルだったかな。
確率的に神を信じたほうが得だという結論を導き出している。
神がいるのかどうかはわからないが、信じたほうが確率的に数学上プラスになる。
どういうことかというと、神がいなかった場合を「0」とする。
神がいる確率をたとえば「0.00000000000000001」とする。
ある事象をどの数字にしても、掛け算をしてください。
「3×0」は「0」だけれども、「3×0.00000000000000001」はまだなにかが残る。
しかるがゆえに神を信じるのは確率的に正しい。
確率の発想を生み出したのはギャンブル。賭ける。信じる。
新規ビジネスの最難関は顧客に「はじめの一歩」をどう踏み出させるか。
人間って、なかなか新しい行動をしないものみたい。
1年前はネットスーパーなんて信じられなかったけれど、
千円の割引クーポンに目がくらんで(くらむな!)楽天西友で買ってみたら大当たり。
若かったころは駅前のスーパーとうちを往復するなんて、なんでもなかったけれど、
いまは重いものを長時間運ぶのはしんどい。
ネットスーパーだったら超市価格で、
5500円以上買えば家まで重いアクエリアスでもなんでも持ってきてくれる。
西友のプライベートブランド「みなさまのお墨付き」シリーズって、あれ安くておいしいよ。
レアなレトルトカレーをあれだけ安価に豊富に出せるのはすごい。

瓶詰の穂先メンマってあるじゃないですか。
「みなさまのお墨付き」の穂先メンマを食べたらうまくてさ。
実験実見実味と本家の桃屋のと食べ比べたら西友のほうがうまいときた。
そのくせ西友のほうが百円安い。
つくっている会社を見たらマイナー会社だったけれど、
西友のブランドで売れるし、食べてみたら本家の桃屋よりもうまいとわかる。
西友の「みなさまのお墨付き」シリーズって、西友に行かないと買えないところもいい。
でもさ、アハ、ネットスーパーって赤字らしいね。
そりゃそうで、そもそもスーパーは薄利多売で商品自体の利益率は低いのに、
そのうえピッキング(注文商品を取る)人件費と値上がりした配送コスト。
けれども、一度始めちゃったらやめられない。どうするんだろう?

いまネットにつながっていないと損をするのはたしか。
愛用しているカミソリの替え刃がさ、近年薬局では値上がりして2200円とかするの。
ネット検索したら1200円。送料無料。翌日配達。
ヨドバシ・ドットコムなんて知らなかったけれども、
「はじめの一歩」を踏み出したら本当に翌日に激安価格で郵便ポストに入っていた。
ユニクロから届いた390円のTシャツが
思っていた以上に着心地がよくてマインドフルネス。
僕はものにもこころがあると信じているところがあるから、
いままでお世話になった着古したTシャツはきちんと洗濯してから、
いままでありがとうと捨てる、出逢いと別れのマインドフルネス。
ちょっといま体調が悪く百円の中華御粥(おかゆ)を買って、
しかし元気をつけなきゃとも思い、
半熟卵をふたつ入れて、でも味が薄くなっちゃうなあ、
ととっさの機転でナンプラーを入れたら、
これがどんぴしゃり大正解で美味なるかなマインドフルネス。
百円ショップで買った電子レンジで半熟卵ができるあれ、優秀すぎるマインドフルネス。
外は暑いのにいまエアコンで涼しいマインドフルネス。
医者に行けばアメリカとは異なり3割負担で薬をもらえるマインドフルネス。
そういえば最近、怒ったことがないなあ、というマインドフルネス。
ようやく勉強目的ではない好きな本をゆっくり読めるマインドフルネス。
いまだけかもしれないが、いまもいまのマインドフルネス。
うちには壊れたテレビしかないので京都であんなひどい火災が起きていたなんて、
教えていただくまでほとんど知らなかった。それどころではなかったこともあり。
そういえば、むかしあるところに住んでいたとき、法定業者から言われたことがある。
このくらいの高さだったら、いざのときにはベランダから飛び降りたほうが助かりますよ。
ここだけの話ですからねって。そうベテランさんは言っていた。
言えない本当はいろいろあるが、それは言えない。
あれやばいよって話はみなさんもご存じでしょう? 大丈夫。なんとかなります。
そう思うしかない。
「<神>の証明 なぜ宗教は成り立つか」(落合仁司/講談社現代新書)

→同志社大学の経済学部教授の書いたキリスト教寄りの宗教論。
経済学にもキリスト教にも(著者が仏教に詳しくないよう)
縁がないのでわからない部分が多かった。

わたしの言葉でわかりやすく説明すると、基本的に宗教は3パターンなんですよ。
1.「人間←神仏」(救済)
2.「人間→神仏」(修業)
3.「人間=神仏」(覚醒)
・神仏のほうから人間を救ってくれたり、見守ってくれる(=1)。
・人間が努力して神仏に近づいていく(=2)。
・人間がそのまま神仏であることに気づく(=3)。

仏教とは縁がない著者はこう定義している気がする(違うかもしれない)。
1.「人間←神仏」=(西方)キリスト教
2.「人間→神仏」=仏教
3.「人間=神仏」=ギリシア正教(東方キリスト教)

しかし、仏教だっていろいろあって、
そんな簡単にひとくくりにできるかという批判はあってもいいはずである。
1.「人間←神仏」=浄土宗、浄土真宗
2.「人間→神仏」=禅宗、日蓮宗
3.「人間=神仏」=密教、真言宗
わたしが経済学やキリスト教に無知なように、
著者は仏教をあまり勉強していないのだろう。

以下は、著者が宗教を1と2であると学者言葉で説明しているところだ。

「一つは、この世界の他者の方からこの世界に関わって来る。
たとえば神が人間と成ってこの世界に現れたり、
神が自らの言葉を人間に預けたりする類型、
この世界の他者がこの世界に内在して来る類型である。
二つは、この世界に生きる人間の方からこの世界の他者に関わろうとする。
たとえば人間が仏と成ってこの世界の他者と合一したり、
人間が自らも光と化して神の光と一致したりする類型、
この世界に生きる自己がこの世界を超越する類型である」(P24)


書き写してみると著者は2と3を一緒くたにしている気配もある。
これに対して経済学者の著者は文学的とも詩的とも言える疑問を提出する。

「神が人に成り、人が神に成らずして何の宗教か。
宗教はこの明らかな論理的な矛盾をどのように背負い込むのか」(P26)


無宗教だが仏教ファンで日本人のわたしはこれがわからない。
どこに論理的な矛盾があるのだろうか?
人が神になんてなれるはずがないだろう? 矛盾していません。
こういう態度を著者は世俗的であると指摘(批判?)する。
信仰の世俗化とは――。

「……人間が神や仏と関わる可能性を完全に否定することである。
神は存在するかも知れない、しかし神は活動せずこの世界に関わらない。
神は在る、しかし生きていないのである」(P148)


経済学者の著者はロマンティストのようで以下のような理想郷があるようだ。

「神は光であり、人間もまた光と成ることによって神と一つに成る」(P67)

この光というのが無限数であり、人間が「1」であり(「他者」がn+1?)、
なにやら数式が書かれているが、数学が苦手だったわたしにはわからない。
おそらく「1」が無限数であることをいろいろと証明しているのだろう。

ネットでちらほら感想を見ると、経済学者が神学に首を突っ込むな。
文系が理系にものを言うな。数式が間違っているぞ。
などと批判を受けている。仏教ファンのわたしも著者の仏教理解には首をかしげる。
だがしかし、著者の境界を飛び越えようというパイオニア精神は評価したい。
ひとつ庶民的指摘を最後にしておけば、
日本人の多くは仏教に興味がないし、
さらにその百分の一ほどにもキリスト教に関心はないし、
ましてやギリシア正教(東方キリスト教)などどうでもいいと思っていることである。

(関連記事)
「日本人・いのちの風光 梅原猛vs.ひろさちや対談集」(主婦の友社)

学問書、学術書はそもそも読む人がかぎられているからそういうことはない。
しかし、小説や映画はある種の不思議がある。
小説なんて年に数冊も読まない人。学生時代にちょっと小説を読んだことのある人。
そういう人が若い人の小説にひどい悪罵を投げかけるのを、
アマゾンレビューなどでよく見かける。あれは老人ではないかと思う。
自分が国語教師になったようなつもりで「日本語がおかしい」とか言っちゃう。
「日本語が違う」とか。主語の使い方が間違えている。
侮蔑に近い感じで書き直してやるという勢いまである人がいる。
さぞかしすごいご見識をお持ちなのだろう。

わたしも例外ではなく去年人に誘われて、
原一男という大学教授の新作映画を見に行った。
映画は有名なものもほとんど見ておらず、
ほとんど無知なのに「つまらない」とかブログに書いちゃったから。
しかし、現実はその映画は賞をいっぱい取っており、
作者は大学教授なこともあり、監督自身がおっしゃっていたように、
「この映画をおもしろいと思わないのはおかしい」のかもしれない。
映画はわからないからジェイコムで見ても感想を書いていないものがいくらでもある。

どうして人間は自分をそこまで「正しい」と思うのだろう?
一方で、どうして人間は権威や教祖を「正しい」と思うのだろう?
いや、それは問いを発するものではなく、そういうものなのだろう。
もう43歳だからむかしのシナリオのときのように自作絶対というかたくなさはない。
スポンサー様からのご批判、ご指摘は被害妄想的にならずに受けとめているつもり。
あきらかな誤字や誤記は発見してくださったことに感謝する。
ここが「わからない」というご指摘にも素直にしたがっている。
あまりこだわりを見せていない。
「どっちでもいい」ケースというものもあるのである。どっちでも文意は通じる。
その場合はなるべく先方の意に順じたと思う。
先方が自分を「正しい」と思っている以上、それは変わらないのだから。
そもそも処女小説のテーマのひとつは「どっちでもいい」である。
そこは変えたくないと思ったところは、そのように書いた意図を説明して、
どうしてもお気に召さないなら相手にしたがうと書いた。
言うまでもなくスポンサー様のご寛容に支えられているところも大きくあるだろう。
こういう態度を学んだのは脚本家の山田太一さんからで、
氏は作曲家の小室等さんから自作批判に対する態度を学んだという。
「誰かへの手紙のように」(山田太一/マガジンハウス)から引用する。

「小室等さんのことも忘れられない。
ある連続ドラマの音楽を小室さんにお願いしたのである。
私はその仕上りが気にくわなかった。演出家にそういうと、
しばらくして小室さんがそっちに向っています、という電話である。
「どこが気にくわないのか聞いてくる」といって出たというのである。
喧嘩をしに来たな、と身構えた。
まったくそうではなかった。実に軽く明るく生真面目に率直に、
どこが気に入らないかを聞いてくれた。
高圧的でも卑屈でもなく、見事にほどよくストレートだった。
今でも私は、自分を批判する人と向き合う時の手本だと思っている」(P56)


(関連記事)
「誰かへの手紙のように」(山田太一/マガジンハウス)
そういえば二作目は踊り念仏の一遍を書いてよ、と言われた記憶もあるけれど、
いままで一遍を書いた小説はたぶんぜんぶ読んでいる。
瀬戸内寂聴さんが死んでいないので大きな声で言えないので、
こっそり言うとどれもおもしくないんだよね。おもしろくならない。
聖人というのは善の究極みたいなもんで、そんなものはおもしろいかって話で。
そういうお話があったからか、
処女作で一遍をモデルにしたいかがわしい遊行の坊主を出したらご不興。
ちょっとまえ法然を読み込んだけれど、
あいつ「自分は絶対に正しい」といういやなやつだよ。
日蓮が排他的というのなら法然も親鸞もおなじ。
なんでか禁欲者を聖人とあがめる傾向にあるのかもわからない。
善よりも悪、聖よりも俗に惹かれる。
というか、そういう二相(相対)を超えたら悪も俗もまた美しい。
お布施を多くもらったら「やったぜ!」と笑う僧のほうがいいじゃない。
これも御仏(みほとけ)のおかげ、なんて合掌する坊主よりさ。
それが一休なんだけれど、水上勉の「一休」は文壇政治で賞を取ったが、
選考委員もぜんぶ読んでいないんじゃないかとね。
宮本輝は水上勉を慕っていたが、おい、白状しろ。
「一休」を最後まで読んでいないだろ!
「教え」をくれる人なんかより「お金」をくれる人のほうがよほどいいわけでさ。
ひと口にわからないといっても、いろいろなわからないがある。

1.相手の書き方が下手だからわからない。
2.自分の知識が足りないからわからない。
3.自分が体験していないことだからわからない。
4.年齢的な問題でわからない。
5.男女差、あるいは性同一障害とか、そういうのでわからない。
6.国(故郷もふくむ)が異なるからわからない。
7.わかりたくないからわからない。
8.それが嫌いだからわかりたくもない。わかろうとしない。
9.その日は気分が悪いのでわからない。
10.わからないことで威張りたいからわからない。

自分がいちばん正しいと思っている人は、1か10だと思う。
むかしのわたしはそんなふうだったが、
いまは知り合いの作品に関してはやさしさからわかったふりをする。
せめてわかったいいところをほめる。
実際、わたしバカみたいでさ、
昨日もユニクロに注文方法がわからなくて電話しちゃった。
ネットの仕様が変わっていたんだよ。
おねえさんがやさしく教えてくれた。
そういえば最近、コールセンターの女性としか話していない。
どの人も親切で、マニュアルのレベルが上がったのか、
日本人女性の質が上昇したのか、それはわからない。
クレカを持っていない人は、どれほどの不便をこうむっているのだろう。
いっとき大企業系列でアルバイトしたとき、クレカをつくっておいて本当によかった。
大学生のころは外見を気にして、ぜんぜん似合わぬブランド服を買ったこともある。
いまはユニクロ・オンリー。
いま無地のTシャツとトランクスが格安でセールされていて本当に助かる。
近所の散歩なんて無地のTシャツとジーンズで十分だろう。
しかし、この価格でこの製品を売るためにどれだけの人が泣いているのだろう?
下請けは何回も何回も、これではダメだと責任者に製品を作り直しを命じられるだろう。
いくらダメだししても料金は変わらないのだから、
下請けをいっぱい使ったほうがお得だとか、発注元はそういう思考法に走る。
ときには打ち切りをにおわせて下請けを震えさせる。
資金繰りがまわらなくなったら、従業員への給料も遅配となる。
給料が振り込まれなかったら、借金するしかない。
転職しようとしても時間がかかるし、次の給料が入って来るまで時間がある。

父によると、むかしの居酒屋チェーンは給料の遅配、未払いなど当たり前だったという。
うちは一度も給料の遅配をしていないという、毎回おなじような手柄話をしていた。
複雑な関係にある父だが、その点は偉いと思う。
わたしは運がいいのかドタキャンは何度もあるが、
給料の遅配、未払いは経験したことがない。
大した額ではないが、おまけとして交通費を多めに入れてもらったことまである。
新しいユニクロのTシャツの着心地って本当にいいんだよな。
あんなのがどうして1枚390円で買えるのかわからない。
山田太一さんも言っていたけれど、
小説やドラマは見た人がいろいろなことを思えばよいのであって、
学術論文ではないのだから、
あまり主張を押しつけないほうがいいのではないか。
あるドラマを見て、いろんな人が多様な感想を持つのがいいのではないか。
山田太一も井上靖も小説で人物描写をほとんどやらない。
美人って書けば読者のあたまのなかに美人がイメージされるだろうし、
それがいちばんの美人ではないかとも言えるわけで。
風景描写にもそれなりに味があるのだろうが「大河が流れていた」で、
それぞれのあたまに故郷や外国旅行で見た大河が思い浮かぶ。
それでいいのではないかと。

いまのテレビドラマはとにかく「わかりやすくしろ」と言われる。
小説もそうだけれど、
あんまりわかりやすいとものすごいスピードで読めてしまい心に残るものがない。
むかしの小説に読みにくいものがあるけれど、
そういうのは疲れるが、読後いろいろ考える。
どちらの小説があってもいい。
意味をあまり一義的に限定してしまうと、ふくらみのない小説になってしまう。
ああも、こうも解釈できる小説のおもしろさもあると思う。
読者は小説を一様には読まない。
レイプ被害者の小説を読んで、3年ひきこもった女性に対して、
減るもんじゃないし理解できないという男性読者もいれば、
3年で社会復帰できるなんておかしいと思う実際のレイプ被害体験者もいるだろう。
お経なんていろいろ解釈できるから、いいようなところもあるのではないか。
正しい政治。正しい行動。正しい文章。いったい正しいとはなにか?
わたしが処女作で書いたのは、
不幸の連続で精神的苦痛のあまり片目片足になった王様が
ある日「本当のこと」に気づくのだが、正義とは多数決で、
彼は精神病あつかいされる。たしかに精神病的妄想と常識では考えるだろう。
本当が嘘になるのである。
しかし、さすがに「本当のこと」を知っている当事者は気まずい。
かといって、「本当のこと」をばらしたら自分の立場が危うい。
この葛藤がなんとなく自然に解決されるところに仏教味を出したつもり。
正義も実行されないし、悪も成敗されない。
なんとなく海外にはない「水に流す」という日本流の作法である。
最後はみんなで盆踊り、除夜の鐘、今年も丸く収まりました。
真理や真実を追求するのはやめましょうや。
あるいはすべて未知かもしれないし、仏さまのご意図かもしれないし、それはわからない。

という稚拙な物語を20年まえと8年まえに1回読んだ夫婦がいる。
内容のことで喧嘩をする。真理、真実とはなにか?
妻はいつも自分は絶対に正しいと主張する新興宗教会員である。
その原本が出てきて夫が20年ぶりに読んでみたら、正しいのは自分であった。
しかし、そんな「本当のこと」を主張して離婚するのが正義か?
夫は「やさしさ(あるいは愛)」から、
相手の正しさを認め(嘘をつき)夫婦関係は良好になる。
いったい真理や真実、正義ってなんだろうね。
というある種の人たちをヒステリックに怒らせる駄作。
小説が書けなくて何度も旧友の年上女性に泣きついたのだが、
テーマは「本当と嘘」とそれは一定していた。
それにスポンサー様の「仏教しばり」。
真理があると思っている人や、真理を追究している人、
真理体現者を自認する人にはひたすら不快な小説かもしれない。

父の語る正義。母の語る正義。善悪とはなにか? 自殺は善か悪か?
精神病とはなにか? 偽物が本物になるということ。本当が嘘になること。
そういう長年のテーマを処女作に託したつもりだが、
そもそも売れないし、上げても読まれないし、
読まれても評価されることの少ない(あるいは皆無の)駄作なのかもしれない。
こういうふうに自作解説をできるのは、どうしようもなく山田太一さんの影響だろう。
前日に翌日の物語がわからないという博打的作法。
もちろん箱(コンスト/構想)らしきものはあったがすべて崩れた。
妻を新興宗教の会員にすることを思いついたのは、提出前々日であった。
キャンセルされるのがいやというよりも、
子どものころからドタキャンは当たり前だったから(父親!)、
むしろキャンセル耐性があるというのか「またか」と鼻で笑うだけである。
わたしは自分の低価値をよく知っているからドタキャンされても怒らない(?)。
むかし医師とプライベートで逢ったとき、奈良の鉄道員に嘘を教えられ、
遅刻したら怒っちゃって、今日はもう逢わないという感じであった。
逢ってみたらこちらの悪意のなさが通じたのかお話を楽しむことができたのだが。
キャンセルしたときの怒り方で相手のプライドがある程度推し量られる。
商売人は相手がキャンセルや遅刻をしたら、それを勝ち点と計算するようだ。
山田太一ドラマ「想い出づくり」にそういう商売人が実にうまく描かれている。
わたしはドタキャンされたり遅刻されることの多い人生でおのれの価値を学んだ。
恒例、ブックオフオンライン。

「「神」の証明 なぜ宗教は成り立つか」(落合仁司/講談社現代新書) 108円

このたびのスポンサー様が強く影響を受けたという本で、悪口を書けない本である。
媚びを売っていると思われても仕方がない。
21日にお逢いする約束だったがキャンセルになり、
26日に(これもキャンセルの可能性ありとのこと)。お忙しい方なのだろう。
お逢いするのが怖い。
いきなり真っ赤に添削された拙作を出され、全面改変を要求されるのだろうか?
いっときは一期一会の一蓮托生を誓った間柄だが、
人は豹変することを経験から知っている。
ユニクロ1万円スーツを着ていき、待ち合わせ場所で土下座しようか。
「ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
義兄と姉相手にこれをやったら、うろたえていたから(義兄のみ)効果はあるか。
しかし、逆効果になるやもしれぬ。

ほしかったのはこれだけで、あとは1500円郵送料無料にするためのおまけ。

「ショーペンハウアー 大切な教え」(友田葉子訳/イースト・プレス) 198円

ショーペンハウエルって女嫌いだったらしいね。
わたしも女嫌いだが、男も嫌いで、要は人間嫌いで、男よりは女が好き。
男ってすぐ「あいつをやっつけてやる」とかいう思考法になるよね。
「こてんぱにしてやる」とか「鼻をへし折ってやる」とか「まずはガツンとたたく」とか。
陰湿だが、女のほうがまだ平和。女の子がやさしくするのは金持、イケメン、有名人。

「ラブ&ピース 鴨志田穣が見たアジア」(寿郎社) 348円

気がついたらアル中で死んだサイバラ元夫、カモちゃんの享年42歳を超えていた。
カモはうまくサイバラに取り入ったよなあ。
ヒモはよほどの才能がないとできない難業。
きっと生存時はいっぱしの作家やカメラマンぶっていたのだろう。好きよ彼。

「一度も愛してくれなかった母へ、一度も愛せなかった男たち」(遠野なぎこ/新潮文庫) 108円

アルコール依存症という病識がないボーダーでもある女優の自伝。
ぱらぱら見たら男の悪口がすごい書かれている。デートで割り勘にする男は死ねとか。
野島伸司ドラマ「未成年」でのスカートめくりをされるシーンの記憶しかない。
酒井法子もそうだが、野島伸司と関わるとみんなおかしくなるよね。
おかしいから引き寄せられるのか、おかしいから引き寄せられていくのか。
このへんの専門は「SPA!」専属精神科医の春日武彦院長であろう。

「山頭火 濁れる水の流れつつ澄む」(朝枝善照/春秋社) 348円

生きているあいだはルンペン(乞食)だったが、
死後価値は高まるばかりで文豪になったのが自由律俳人の山頭火。
山頭火の揮毫(きごう/書)とか、いまけっこうな値段がつくのではないか?
わたしだって死後に価値が暴騰することがまったくないとは言えないだろう。
小学生みたいなへたくそな字しか書けないので履歴書を書くのは大嫌い。
もしかしたら50年後に、
わが処女作のサイン本が貴重なものになっているかもしれない(笑)。
鏡を見るのとおなじくらい字を書くのが嫌いである。

「書物との対話」(河合隼雄/潮出版社) 198円

創価学会系の潮出版社から出された河合隼雄のエッセイ集。
読んだかどうか記憶にない。
というのも、おなじ本を別タイトルで読んでいるかもしれないからである。
河合隼雄に騙されて(信じて)うっかり長生きしてしまったことよ。
河合隼雄は理系出身なのである。専門は数学。
にもかかわらず、文系領域にもいわゆる川を越えてやってきて活躍した。
本当の理系のプライドがあったから、これ見よがしに理系を誇るようなことはなかった。
ユングを権威のように持ち上げることもなく、創価学会とも日本共産党とも握手をする。
聖人ぶることもなく、お金や女性、そのうえ悪の魅力まで知っていた。
人間のよろこび、かなしみ、さみしさをよく知る泣き虫であった。

「日本の短篇(下)」(文藝春秋) 198円

上巻がない、いわゆる片輪本である。
収録作品を見てみたら、かなり既読のものがある。
思えば、この1年名作短編と呼ばれるものをあたまがおかしくなるほど山ほど読んだ。
手弁当で自己投資の孤独な勉強であり愉楽であった。
そのうえで書いた処女作は最初の読者さまからご好評を得られなかった。
もしかしたら作家志望者は過去の名作など読まなくてもいいのかもしれない。
女性なら若いうちに、うまく編集者や権力者に取り入れ。
もてない男ほどコントロール願望が強く、逆にいえばコントロールしやすい。
作品の感想なんて相手との関係性でいくらでも変わることを忘れるなかれ文学少女。
スポンサー様にいただいた原稿料は昨年中早々と使い果たし、
しかしせめて一作だけでも自分の小説を書きたいと狂い身で捨て生き、
身体はボロボロで老人よりも早く歩けないし、
立っているだけでも支えを必要とし、ときおり嘔吐の症状が出るがこらえ、
階段では横転する危険があるので常に手すりにつかまる無収入敗北孤独老人43歳。
板橋区役所の国民年金課に年金免除の申請におもむく。
「もう長くないんで年金を払っても」という小生のどもり声に、
「またまたあ(冗談を)」と返してくる妙齢の女性、美しきこと限りなし。
「来年も会えますかねえ」と芝居がかったことを言うと、
「元気出してくださいよ」との励ましに流涕(りゅうてい)こがれて泣き出す始末。
「どうしたんですか?」と心配されて、さらに流涕こがれて泣き入る孤独中年。
あわれなり、あわれなり、畜生界からも落ち地獄世界のおのれよ、あわれなり。
近所の父に何年ぶりか電話するが、用があって対面はかなわぬとのこと。
もう会うことはないかもしれぬ。先立つ不孝をお許しくださいとふらふらしながら思う。
父の造った大嫌いな誤記墓石のある霊園へ歩く元気もなくバスで向かう。
「お母上、僕はようやく、生まれて初めて自分の仕事といえるものをしましたよ」と報告。
しかし、それは当方の非力ゆえ、
スポンサー様のご不興を買っており本にならないかもしれぬ。
あわれなり、あわれなり、この世の無常、いとあわれなり。
初夏、帰途エアコンの効いた「バーミヤン」の
ハッピーアワーの200円ビールで喉をうるおす。
ありがたや、ありがたや、酒あるこの世に生まれて43年、ありがたや。
酔眼にいままで出会い別れた人の顔が幽霊のように見える。
「あうたり わかれたり さみだるる」という山頭火の句が思い出され、
またもや流涕こがれて泣き伏すのであった。
編集者さまとお仕事をした経験はないが、いまはひどいらしいね。
直木賞作家の角田光代さんのエッセイで読んだが、
いきなり編集者から電話が来るらしい。
で、言われるのは「タイトルをこう変えてくれ。結末をこう変えてくれ」。
相談ではなく指示、命令。
タイトルと結末を人に言われて変えたら、それはその人の作品じゃないじゃん。
むろん、これは直木賞を取るまえの話で、いまはさすがにそういうことはないだろう。
こういうパワハラに耐えてわれら恥ずかしき文芸専修の星、
角田光代さんはいまの地位を手に入れられたのである。
先日、アンソロジーでご作品を拝読したが(「100万分の1回目のねこ」)、
収録作品のなかで角田さんのものがいちばんおもしろかった。

これに対抗するには、権力者の後ろ盾があるといい。
芥川賞作家の柳美里さんは演出家の東由多加(故人)というバックがいたわけである。
もっと詳しく書けば、柳美里さんは東由多加と男と女の関係だった。
こういう後援者がいると、編集者の支配願望から逃れられる。
それに柳美里さんは関係者(権力者)とよく「寝た」って聞く。本人も書いている。
そうすると改変命令も来ないし、出版社からも積極的に売り出してもらえる。
柳美里さんが世間を知っているなと思うのは、
彼女はよく編集者に高額プレゼントをしていたのである。大人の関係である。
なにより柳美里さんは、意見は分かれるだろうが、外見が美しかった。

だから、もったいないのは去年の早稲田セクハラ騒動。
悪口を言うだけの文芸評論家で早稲田の教授だった渡部直己。
色ボケしたのかかのセクハラ教授はある学生にご執心なされた。
きっときれいな人だったのだろう。
被害女性は渡部直己の性的勧誘を拒絶、告発したが、
うまくくわえこんで、転がしていたら被害女性も人気作家になれたのかもしれない。
カウンセラーは顧客の長所を探し信じつづける難しい仕事だが、
編集者にもそういう態度の持ち主が少なくないと信じたい。
思えば父はけっこう人の長所を見る人で、母は短所ばかり指摘する人であった。
母のそれは精神病の症状かもしれず、性格的欠陥とまでは言えないのかもしれない。
人生で何回か経験したのは――。
1.好きなように書いていいよ。
2.完成後に作品を全否定。いちから自分の言う通りに書け。
こんなことする人いないってふつうの人は思うでしょうけれど、
なぜかそういう人を引きつける。
今回はどっちかなあ。
コメント欄で教えてもらったけれど、
なんとかの法則って言うのがあって(スタージョンの法則?)、
どのジャンルでも名作は1割なんでしょう。
わたしもこのたび名作短編アンソロジーを山読みしたが、
名作と言われているものでもおもしろかったのは1割。
自分がつまらないと思うものが名作となっている不思議が文学、映画、その他芸術。
今回、3回チャンスを上げるよといちおう口約束ではおっしゃっていただいています。
法則にしたがうならば、10回チャンスがあれば当たる可能性も高まるが3回。

拙作の1回目をスポンサー様はあまりお気に召されていないようで、
いつものように全否定と
「自分の言ったように最初から書き直してください」が発動するかもしれない。
1回目は失敗作でもいいとお許しくださるかもしれない(そういう話だったのですが)。
今回はスポンサー様に高級な和食をだいぶご馳走になっている。
人間って自分が金をかけた対象を信じたがるもの。
だから、女はデートでわざと遅刻するしプレゼントを求める。
なぜなら人間は創価するものだからである。
自分がいいと思ったものを人を好む。
人生で一回くらいうまくいきませんかね。いつものように全否定され終了か。
製本化の時期をうかがったらお答えはなく拙作へのご批判だったから、
過去の悪い記憶がよみがえる。南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華経。
あはっ、いひっ、処女作の冒頭は妻と離婚するのかと悩んでいる「私」なんだけれど、
僕はもちろん結婚経験なんかないし両親の夫婦喧嘩や知り合いの話しか知らない。
でも、けっこう書けちゃうという。妻とのあつれきとか。
わずかな体験と知識から、自分のいもしない妻をつくったのはおもしろかった。
あれはプロフィールを隠したら妻帯者が書いたものだと読者さまは思うのではないか。
嘘をつくっておもしろいよなあ。
最初の読者さまから主語がわからないというご指摘を受けた。
それはわたしの書いたのが古臭い「多カメラ小説」だからだと思う。
いまの小説は「ワンカメラ小説」が多い。
主人公という一点のカメラから世界が描写される。
けれど、戦前とか戦後直後にはけっこう「多カメラ小説」があるのね。
Aはこう思った。そう書いて次に、しかしB子はこう思っていた。
坂口安吾がよくやっている。
くだらぬ小説を書きながら、どんどん坂口安吾文体になっている自分に気づいた。
坂口安吾はアルコール依存症で睡眠薬中毒の無頼派作家。
最初は山田太一の文体だったのだが、いきなり登場人物が動きはじめ、
こいつらの生命っていいな、とそれまで書いた山田太一文体40枚を断腸の思いで削除。
あれは死ぬかと思ったが、結果的にはそれで自分としてはうまくいったと思う。
登場人物が作者に話しかけてくるのよ。おまえの構想なんかぶっ壊してやると、
出版されるかもわからない、されてもだれにも読まれないだろう、
ある売れない仏教小説の作者の感じたこと。
次作は「お茶目なお釈迦さま」もいいかな。釈迦って絶対に人間のクズだろう、
若いころから贅沢三昧のボンボンで美食、美少女なんでも味わった。
で、そういうのも味気ない、退屈だと感じて、妻子や公務(仕事)を捨て家出。
たった6年の修業で、悟ったとか笑わせんなよ。
釈迦の教えとされる「中道」って快楽も飽きるし、苦行は辛すぎるという意味だろう。
おまえ、どれだけいいかげんなんだよ。
処女作でこれを書こうかと思ったこともあるが、
さすがにスポンサー様が怒るだろうという常識はある。二作目だったらいいかな。
おれ、釈迦は絶対、人間のクズだと思っているから。
そのクズのクズぶりがあまりにも極道だったので、
みんな自分の心から仏の声とやらを聴いたのが仏教史。
お金やばいし、次はさらっとしたユーモア作品でいいのかもしれない。
スポンサー様を代表してその背後の世界にも感謝したいのは、
たしかに退屈かもしれないが、
僕は43歳の自死遺族の僕の本当に書きたい小説を書けたから。
こんな果報者はめったにいないよ。
大学3年生のとき、原一男先生のゼミの課題は「私の表現したいこと」。
僕はこれを未提出でずっとそのことを思い悩んでいた。
退屈だろうが土着的だろうが、僕は本当に表現したいことを小説に書いた。
原先生との20年にわたる約束を(向こうは覚えていないだろうが)果たした。
つまらないかもしれない。仏教理解が浅いのかもしれない。まず売れないだろう、
しかし、僕は僕の一作を仕上げた。
僕は生きた。センチメンタルかもしれないが、僕は僕を生きた。
一作だけ本当に書きたいものを書いたから(かなしくもご依頼者からは支持されず)、
次は一転して軽くして
「妙子さんが仏教の一段一段の階段を昇っていく」みたいのを書こうか。
いちおう釈迦仏教から密教まで、よくもまあ、というくらい勉強したから。
女子高生の妙子ちゃんが釈迦(道徳)から大乗仏教(創価学会)を経て、
ラストはもちろん密教(初体験セックス)。
スマホとかラインは年下の友人に聞けば1日でわかるだろう。
いいなあ。未来部の妙子さんが仏教を学びながら、最後はロストバージン。
若者言葉がんがんで10年後読んだら、
だれも意味がわからない土着性の低い仏教小説。
女子高生を書きたいんだよね。太宰治の女子告白文体小説は大好きだから。
そのためには女子高生と知り合いにならないといけないから(取材!)、まずはスマホか。
次作は「念仏 vs 題目 令和大戦争」を書こうかな。
うまくやれば今月中に書ける。
わたし、浄土宗系も日蓮系もダブルで勉強しているから。
Aは南無妙法蓮華経と唱えた。
雨が降り始めた。
Aの仲間は「大勝利」と騒いだ。
Bは南無阿弥陀仏と唱えた。なにも起こらなかった。
Bの仲間はこれが親鸞さまの言う他力の証明だと歓喜した。
Aが突然、心臓発作で死んだ。
仏罰ではないかとAの仲間は恐れた。
Bの仲間は南無阿弥陀仏を唱えた。
Aは浄土にいまいるとBの仲間は言う。Aは救われた。
Aの家族はBグループに入った。
AグループはAの家族への嫌がらせを開始。
Aの家族は交通事故に遭い仏罰が当たったと大笑いされた。
この筋なら1週間で書ける。
あんがい、こういうものをご依頼者や読者は求めているのかもしれない。
まあ、数少ない友人には絶対に読まれないような対策を打つが。
口約束だと今月また次作のご入金をいただける。
今回で小説の書き方はわかったから、いくらでもいいかげんに書けますよ。
主人公Aは坊さん。若僧さん。ライバルのBの坊さんを出す。
で、AとBには幼馴染の少女Cがいて、どっちの坊さんが出世できるかを見守っている。
会話を増やすと楽。「……」とか連発すれば行数は稼げる。
ABCの葛藤を会話で表現する。短い会話ほど行数を稼げる。
師匠Dをときおり混ぜる。
最後に師匠Dの仏敵Eを登場させる。ABDが強敵Eと対決する。
葛藤(仏教対決/仏法勝負)のすえチームAはEに大勝利する。
しかし、師匠Dは死んでしまう。
主人公AとライバルBは仲直りする。ヒロイン少女CとAは結ばれる。
これはシナセン方式だが、これなら会話を増やせば1週間で書ける。
しかし、口約束では出版が決定している処女作だけは、
自分の作品と言えるものを本気で書きたかった。結果、ご満足をいただけなかった。
次はシナセン方式で書いちゃおうかな。そうしたらけっこう割のいい副業になる。
考えてみたら、だれも読まない小説に本気で1年費やして(150万近く自腹を切って)、
ご依頼者に酷評され傷つくなんて世間知らずのバカ。
次作は楽勝のゆる~いやつを書いてみてもいい。
まさか自分なんかに小説の執筆依頼が来るとは思わなかったし、
たくさんご馳走してもらったし、
書いてくださいというお願い形式だったが、
死花を咲かせようと150万円持ち出しで(ほとんど働かず)、
いざ1年経過してまさかもう書けないと思っていた小説が
締切りのおかげで10日程度で書けてしまい(締切り3日破りました)、
翌日ご依頼者さまからのメールを見たら、けっこうな酷評で、
でもポテンシャルはあるって。
この先、どうなるんだろう? 神さま、仏さま、好きにして!
いちおう3回という口約束を交わしましたが、持ち出し150万×3は450万。
素人の小説は(プロの小説も)いまは売れない。
わたしは労働レベルが低く、働くといったら単純肉体労働しかなく、
1日そういうことをしたら本も読めないし、小説を書くなどもってのほか。
周囲はパチンコ、タバコの大音響怒号世界ゆえ(馴れたし、さして嫌いではない)。
老人の特徴は教導願望かもしれない。わかりやすくいえば、説教くさくなる。
僕のいいところ、教導願望ゼロ。
今年になってからかな、去年からかな、10歳以上年下の、
平成生まれの青年になぜか慕われて、恥も外聞もなく、
天龍トークイベント、六本木ディスコ、酒井法子ディナーショーとゴチになっているが、
彼を教導したいとか、説教したいとか、まるでないもん。
話は聞くが答えはいつも「大丈夫。好きにしたほうがいい。スーパーフリーでゴー」
「(踊り念仏の)一遍を読んだほうがいいですか?」
の問いには、あんな古文、働いていたら読めません、無理無理の回答。
ふざけて「土屋先生」とか言ってくるたびに先生だけはやめてと答え、
しかし相手がどこかこちらをバカにしての先生呼ばわりなのが楽しい。
食いっぱぐれのない専門職だし、去年若い子と結婚したっていうし、あちら格上。
どうして僕なんかと交流を持ちたがるのか不思議。
「酒井法子さんと握手したら女運が上がりました」とか若者かわゆす。
手汗がひどい僕も相手の迷惑を考えず酒井法子と握手しとけばよかったや。
老人になると若者を育てたいとか考えるのだろうか?
きみはポテンシャルがあるとか?
僕はその青年をいまそのままで僕より上だと思うし、教導したいとかそういう願望はない。
作家はみんな経験しているのでしょうが、
1年かけて書いたものを翌日に教導されるのは、ほほう、ああいう感触なのか。
僕、ポテンシャルなんかないっすよ。売れない作家とか本当にきついと思う。
子どものころ、うちの父がさあ「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」が好きでねえ。
あの人、あのころからあたまが腐っていたのではないかと思う。
しかし、勧善懲悪を絶対真理だと思いたい人は大勢いて、
だからのテレビドラマよ創価学会よ。
ものすごいむかつくコメントがブログにつく。しかもけっこうひんぱんに来る。
わたしに対して、
あの屈辱的な退学処分を食らった株式会社シナリオ・センターに謝罪しろって。
そのうえ株式会社シナリオ・センターにお金を収めて短編シナリオを書けって。
商業シナリオ体験もない講師の教えにしたがえって。匿名。
100%シナリオ・センターの受講生だろう。時計を見る。まだやっている。
あのシナリオを書けない社長や所長に電話で文句を言ってやろうか?
おまえんとこの学生が匿名でよく変なことを書いて来るので困る。
もう10年まえの話だぞ。別にあちらから謝罪してほしくもないし、
こっちは金を払ったほうで謝罪とか経済を勉強しろよバカ!

まあ、わたしもわたしで講義内容をぜんぶブログに書き写して、
営業妨害だからやめてくださいと後藤所長から怒鳴られたのはガチンコ。
あそこの創作作法はまず魅力的な「善」をつくれっていうのよ。
で、正反対のアンチとかいう「悪」をつくる。
そうして「善」と「悪」の「葛藤」を激しくするのがドラマだって。
「葛藤」を激しくすればするほど、いいドラマ。
まあバカ向けのドラマを大量生産する作法ではあるが、それは絶対ではない。
シナセン首脳陣に囲まれ追放され10年、
いまでもあの学校の生徒はなにかの信徒のように謝罪しろと匿名で言ってくる。
これはもうあそこに電話して文句を言っていいレベルなのではないか。
電話しても責任者がいないって逃げる会社なんだけれど(経験あり)。
150万円もどこにあったのか借金したのか持ち出しで、このたび処女小説を書いた。
最初の読者さまからは日本語がおかしいと。
それから中盤から退屈になったと。
中盤で登場人物が勝手に動きはじめて、
彼ら彼女らを生かしたいと、いままで書いた40枚を消したもん。
悪女、悪男が生き生きしはじめたら彼らの動きにしたがいたい。
しかし、最初の読者さまからはそこからつまらなくなったというご指摘。
締切りギリギリで最後に頼ったのは、
ジャータカ、ギリシア悲劇、日本霊異記、説経節、近松門左衛門である。
批判的に土着性を言及されているが、むしろそれはほめ言葉。
まあ、どうせ売れなくて読者は百人もいないのでしょうけれど。さみしい。かなしい。
ああ、数少ない友人知人には配りまくりますよ。読んでくれないって思うけれど。
今回わたしが19年ぶりに(ご依頼いただき)書いた仏教小説は勧善懲悪を崩している。
悪がのさばっちゃって善がいわゆる精神病院おくりで、最後は仲良く握手するっていう。
おそらく書きたかったことのひとつは「善も悪もない」。二相(相対思考)の克服。
このため意識的に小説内に3という数字を多く使っている。1でも2でもない3。
1.出版されるか?
2.読者さまに読んでいただけるか?
3.売れるか?
売れないと金が入らないから困るんだよお。売れないことはわかっているのだが。
この小説の創作には1年かけたが、
わたしが開口一番いったのは「いま無名の人の小説なんて売れませんよ」。
それでもいいとおっしゃってくださる奇特な人が世におられるのは宗教的奇跡。
小説や物語を読みなれていない人は、
ストーリーが勧善懲悪になっていないとイラッとする傾向がある。
「これは真理、真実を描いていない」とか。
わたしが今回書いたくだらぬ小説もどきは勧悪懲善だから出版されないかもしれない。
それならそれも宿命よ、宿業よ、というのが書きたかったテーマのひとつかもしれない。
しょせん焼鳥屋の息子だからサービス精神いっぱいでポルノシーンを山ほど入れた。
だって、素人の書いた小説なんて無料でも読みたくないでしょう?
あと真理や真実を書いておくと、男は男の書いたポルノ(妄想)にしか興奮しない。
今回勉強のためポルノ小説も読んだが、女性の書いたものは意味不明だったから。
むかし林真理子の「下流の宴」の映画シナリオを10万円で書いたことがある。
「好きなように書いてくださいよ」と鷹揚に言われたものである。
で、好きなように書き直したら一発アウト。
契約書に書いてあるでしょうって。メール1本でカット。それ以来、会っていない。
高田馬場の人で、聞いてもいないのに自分は家庭の都合で高卒で、
と高卒アピールばかりの映画業界人だった。
若い映画志望の女子大生をただ同然で使っていると自慢する、
ブランドジーンズ好きの低身長の子ネズミみたいな男だった。
おまえは信用できないから、忙しい姉と一緒に来いとか真顔で言ってくる。
人を信用しない人で、いわば同類だったのだろう。
「10万円で好きなように書いてください」
結果、これはおれの考えと違う。ポイ。ポイだから電話しないで。終わり。
業界ってこういう人が多そうだよね。慣れています。
思えばわが人生のドタキャン率はすさまじい。
「自殺したい」と母に何度も言われて、お願いだから自殺しないでと約束した結果が、
目のまえでの飛び降り自殺&悪口日記である。
父は「(自分の)仕事のため」でしようがなかったのはわかるが、
子どものころ約束は1割しか守られなかった。
商売相手との約束はほぼ10割守っているのである。
父に関しては、いまでは5割くらいにあがったから上等である。
言ったことを守れない人だとわかっているから、あきらめモード。
父は経営する自社食堂の従業員をファミリーと呼び、わたしなんぞ奴隷あつかい。
こっちの都合なんてまったく関係なしで命令電話が来て、
したがっても「おまえ使えないな」と言われその場で帰される(プリンター故障とか)。

基本、被ドタキャン人生ね。
「おまえをかならず正社員まで育ててみせる」
「ツチヤさんは人を信じていないと言うがそれは間違い。俺が治す」
そんなことを熱く創価学会員の上司に言われていたけれど、いざとなったらドタキャン。
会社上層部と肩を組んで、明日から来るなって。失業保険もなし。
女性不信もひどく、たとえ相手にむかしからの本当の恋人がいても、
もてないわたしにとっては会ってくださるだけで大感謝である。
今年、登録した派遣会社も3日連続でドタキャンしてくれた。
契約していたのに前日の晩に明日はキャンセルで、と言われるのである。3回連続。
まあ、わたしがそのレベルの人間だからいまはすべて納得している。
基本的に他人をあまり信じていないし、約束が守られたら奇跡だと思って喜ぶ。
わたしは他人を信じていないところがある。
出版されるかわからないわたしがこのたび書いた小説は、善因善果ではない。
手法としてはよくないのかもしれないが、いわゆる世間法的悪人がめぐまれる。
むしろ善人たちが序盤つづいて自殺していく。
わたしは気合もろとも今回の短編小説で4人を自殺させた。悪人は裁かれない。
悪人は笑うが、それでいいのではないか?
むかし創価学会の会館で婦人部のおばさまから、
善人が努力して報われ幸福になる話を書いてくださいと言われたが、
たとえ売れなくても、そういうものだけは書きたくないと思った。
宗教団体名は書いていないのだが、
創価学会をにおわせるところがあり、
そこが今回のご協力者さまのお気にいらない部分のひとつらしい。
自殺したいという母に、何度も自殺しないでとお願いして約束して、
あっさり破られ、目のまえで飛び降り自殺されたわたしの宿命なのか、
ドタキャンめいたされることが主観的に非常に多い気がするが、
それはわたしの無価値を証明するものなのかもしれない。
優先順位を考えると、非常に低いくらいの自覚はあるから、人生はそういうものかと。
子どものころ自営業だった父は「自分の仕事のため」約束できないと常々言っていた。
実際、かりに約束をしてもほとんど守られなかった。
ただし父は愛するファミリーへの約束は守り給料の遅配などは一回もなかったという。
こういう環境で中年まで死にあぐんだせいで、約束が守られなくても「また来たか!」。
いつものことである。人生なんて、そんなもの。どうせ、どのみち、人は信用できぬ。
約束が守られるほうが奇跡だと思っているくらいである。
母が飛び降り自殺をするまえ、何度もおなじやりとりを繰り返した。
「ケンジ、自殺したい!」
「お願いだから自殺だけはしないで……」
何十回もこういうやりとりを繰り返した結果、せめてひとりで死ねばいいものの、
母はわたしの目のまえで飛び降りて、これ見よがしに血まみれになって死んだ。
そういうものなのである。
いまでは人気ライターとして活躍している旧友の年上女性ライターがいる。
去年、会う約束していた日の前日かそこらに、ドタキャンされた。
理由は仕事のほうが大事だから。もう数年、彼女と顔を合わせていない。
このまえワードの使い方がわからなくて電話しちゃったけれど(笑)。
わたしの勘では、もう一生人気ライターの彼女と会うことはないだろう。
彼女にとって「時間=金・仕事」だから、わたしと会う意味はない。
会っても相手のライター手柄話を拝聴するだけで、むかしのようなゆるやかな自由はない。
それが悪いとも思わないし、そういうものなのだろう。人は変わる。
そんなことを締切りを3日も破ったわたしが言ってみた。
父はとにかく子どもとの約束を守らない人で仕事がいちばんの人であった。
何度も書いてきたことだが、妻や恋人の浮気に怒る男がわからない。
俺は万が一妻や女ができても、彼女の浮気を余裕で許すだろう。
むしろ、そんな高貴なお相手がおられるのに、下男の僕なんかと感謝するタイプ。
下女から、あたしのことを好きなのはわかっているんだからと意地悪な目で挑発されたい。
下女が昨晩、大富豪と経験した快楽の極限を拝聴して、抱きついて拒絶されたい。
まあ、変態ですな。男一匹、アル中、孤独43歳、死ぬな、生きろよ。
人口の半分は女なのだから、これは奇跡的確率だろうが女にもてない。
若者に助言しておくと、人それぞれだが、40歳を過ぎると性欲もすたれどうでもよくなる。
あとは死ぬだけだから。
前世で女にそうとう悪いことをやったんちゃうかと反省モードにすら入れる。
いくらでも、もてないエピソードは書ける。
大学生のころ、高卒の大学教授、原一男先生が権威ある映画塾をなさっていた。
そこの同期生だった年下の団子顔の年下女子大生から話を聞いてほしいと連絡がある。
自称革命家、自称英雄の原一男教授のポリシーは「もっと過激に、もっと自由を」。
その高卒教授の影響を強く受けていたから団子顔の年下女子大生と池袋で会う。
「すごい経験をした」のだという。
聞いてみれば、本屋で裕福そうな中年男性にナンパされホテルまでついていったという。
処女だったが、処女と告白していたのに、
団子顔の女子大生は中年に丸裸にされ、あらゆる変態プレイをされたらしい。代金なし。
「どう? これってすごい体験でしょう? 聞いてよかったでしょう?」
見ると顔は団子顔で会話にも知性はつゆ感じられないが、身体だけはしまっている。
ホテルに行こうと誘ったら、冗談ではないと強く拒絶され、にらまれわかれた。
池袋青春談。
アンポンタンなことを書くと、人は二種類にわかれる。
小説を書いたことがある人と、ない人と――。
わたしは前者で数日まえ129枚の小説を書き上げたから。
こんなに小説を書くのが命を削るものだとは思わなかった。
小説を書けない文芸評論家とか、
シナリオを書けないシナセン講師と手をつないで荒川にでも飛び込めよ。
小説を書くのは血を吐くような行為。実際、1回血を吐いてウゲッて思ったもん。
小説を書けない創作指導教授(元)の、
セクハラ早稲田の渡部さんとか1秒でも早く死んでほしい。
居場所がわかったら……とこれ以上書いたら犯罪予告、ダメ、ゼッタイ。
そして、血を吐いて書いた小説が出版されるかも、
さらに重要なのはおもしろいのかはわからない。おもしろいかどうかは人それぞれ。
今回は「仏教しばり」、仏教にからめて書いてくださいというご要望がございましたから。
私小説禁止。私小説OKだったらシナセンの悪事をすべてばらしていたかも(笑)。
ここ1年くらい死花を咲かせたいと、ある夢を追っていて150万円の持ち出し。
自己投資や夢プライスとあきらめている。
しかし、金がない。日本年金機構から「てめえも年金はらえ」のお手紙が。
すぐさま電話して「無収入の中年ニートなのではらえませんがどうしましょう?」。
電話相手のおねえさんはやさしくて
「板橋区役所の国民年金課に行ってそう言ってください」。
やさしい声だったなあ。声だけで惚れた。
しかし、いま持ち出しの仕事をひとつ終えて、身体が動かない。
救急車レベルで片足がしびれて動けないし、嘔吐下痢は尋常ではない。
しかし、この1年好きなことをやりたいようにやりました。
うちは父母ともに口ぐせは「自分が絶対に正しい」であった。
父は「生長の家」、母はプロテスタントだったか。両者、自分は絶対に正しい――。
言い換えたら、あるひとつの真理や真実が存在する――。
あんたらが別居するのはいいけれど、仲介するわたしの立場はどうなる?
数日まえ、だれにも読んでもらえぬ小説めいたものを書いたが、
「自分は絶対に正しい」から「どっちだっていいじゃん」
への転換点で小説が退屈になっているというご指摘を受けて、そうかあと思う。
あらゆる人があらゆる小説を読んで、
この感想は「自分が絶対に正しい」と思う(もちろん私も含めて)。
そしてそれは極めて正しい。
大半の日本人は英語を聞いたり話せないから、欧米国に行ってもよくわからない。
それは反対もおなじで、白人が日本に来ても、
アジアで日本ほど英語ブロック鎖国をしている国はないだろうから(そこがいい!)、
白人で日本文化を理解できるものは少ないだろう。
事実を書いておくと、日本よりも韓国のほうが英語が通じる。助けられた。
日本カルチャーにも文学村(文壇村)や映画村がある。独特の方言もまた。
村のお言葉をよくも悪くも重視する。
ギリシア悲劇のコーラスを知らぬものに(それが当り前だが)、
ある種の高潔さを出したくてそれを真似てもわからない。
日本古来の味をだしたくて説経節の「りゅうていこがれてなきたもう」を出しても、
それが悪いというわけでは決してなく、
いまを生きるビジネスマンやウーマンにはわからない。
かといって徹底的にわかりやすくしてしまうとAIが書いたもののようになってしまう。
いろつやがなくなる。言葉が記号に堕す。
こんなわかりにくいものを書くなと思うときも、
もっと厚みのある言葉を使えよと作者に思うことができるのは、読者の読書の快楽である。
かなりギリギリなんだけれど、光が見えないこともない。
おお、ここから開けていくのかというね。そんなもん、自分でもわからない。
以前、若者から六本木のディスコをおごってもらったことを書いた。
失礼なことを申すと、みなさま音楽と振りがまったく合っていないが、
手足の動きは創価学会のように一定している。
それはちがうと僕はそのリズムに参加できなかった。
終盤、すごいリズムがわかる人が来たのである。
下品なタコ踊りなのだが、すべてが音階やリズムに調和している。
勝手に「振付師」と命名した。それは正解だった。正しい動きだった。音楽をわかっていた。
夢のような嘘を語るとあれは、ブルーハーツの甲本ヒロトさんだったのではないか。
ちっとも偉そうではなかった。
しかし踊りはめちゃくちゃで、しかし踊りはリズムを完全にとらえていた。
六本木初体験の僕は氏と身体で会話をした。通じたような気がした。
むろん、そんな有名人が僕なんかを相手にしてくれるわけがない。
しかし、あのタコ踊りは狂気のなかでも正しく、僕も踊りたくなった。
何度も何度も感謝ボディーアピールをした。
生きていてよかったと思った。あれはいったいだれだったのか。彼は本物だった。
めたくそに正しいタコ踊りを教えていただいた。