「井上靖全集 第23巻 エッセイ1」(新潮社)

→10年まえ師匠ぶった老女から「謙虚になれ」と怒鳴られたことがあるが、
ここは謙虚になって文豪の井上靖の言葉を拝聴してみようではないか。
井上靖はあるとき、20歳くらいとおぼしき思い詰めた少女から、
講演会終了後に「あたしはもう文学をするしかないんです」と相談を受けたという。
井上靖は文学少女に嫌悪感はさらさら感じず、むしろ好ましいものを感じたという。
微笑ましく思った。しかし――。

「文学するということは何らかの意味で自分をぎりぎりの立場に立たせることである。
人生へのスタートを切った許(ばか)りの
年若い少年や少女にそうした立場が与えられようとは思わない。
彼等はまずそうしたセットに自分の周囲に築かねばならないのである。
私を訪ねて来た少女は何年かして本物の絶望に対(む)かい立つかも知れない。
結婚し、子供を産み、いろいろな人生体験を持って、ふと文学以外
この世に為すべき仕事はないと思うような瞬間が見舞ってくるかも知れない。
そしてその時、なお彼女が文学する気持を失っていなかったならば、
彼女は初めてその時文学する立場に立ち得るわけである。
その時はそれ以外に実際にどうすることもできないからである。
私には、その少女の、映画のセットのように造り上げられた人生への絶望が、
必しも他の場合の嘘のように不快には感じられなかった」(P535)


口調こそ優しいが、書き写すとけっこう辛らつなことを言っているような気もする。
若くてかわいい金持の女の子が文学するなんて言うもんじゃないぜ、とも聞こえる。
井上靖いわく――。
「彼等はまずそうしたセットに自分の周囲に築かねばならないのである」
これはおのずから不幸の獣道(けものみち)に入って行けと言っているに近い。
よく知らないが、いま文学をするというのは、
大学院へ入って小説を書けない評論家の教授からセクハラされることなんでしょう?
批評理論とか構造とか、わたしもよく知らないので書けないのだが。
井上靖は少年のころから文学への志を持っていたという。
そのことを厳しい伯父に言うと男は優しく励ましてくれたらしい。

「お前は文学が好きらしいから文学をやるつもりかも知れんが、
まずめしは食えんと思わねばならぬ。(……)
――文学もいいだろう。医者になって貰えなくて両親は嘆くだろうが、
まあ、それもいいだろう。人に理解されず、一文(もん)にもならぬ
しち面倒臭いことを書くのも面白いかも知れぬ。やんなさい」(P48)


井上靖の文学への目覚めは中学時代に国語の授業で
谷崎潤一郎の「母を恋うる記」、芥川龍之介の「トロッコ」を読んだことだという。
どちらもまるで「自分のことが書かれてるのではないかと思った」。
「自分の分身」を発見したような気になった。
繰り返すが、「自分の分身」を発見したことで文学のおもしろさに井上靖は気づいた。
井上は高校時代は柔道に夢中になり、
そこで出会ったTという先輩に努力量が諸部を決める寝技の柔道をやろうと誘われた。
井上靖はそれに賛同し寝技ばかりやったが、そこで現実を知る。なぜなら――。

「T自身、三年間猛練習したのに拘(かかわ)らず、
彼は三年の時の一番大切な試合に中堅級の選手として出場して敗(ま)け、
彼が敗けたことが全体の敗因を作ってしまった。
試合に敗れた時のTの顔を、私はいまも思い出すことができる。
彼はその時何も言わなかったが、その時のTの顔からも亦(また)、
私は大きいものを貰っている。人間はいくら努力しても、
敗れる時は敗れるのだということをTは身を以て経験したわけで、
それはそのことに対する怒りと絶望の顔であった。
この時、Tの若い者としての夢は破れ、
現実の冷たさが彼の眼に白い牙(きば)をむいたのである。
人生というものがどううものか、その時Tも知ったであろうし、
また私もTに依って、そのことを知らされたのであった。
私の若い友達の中で、最も懐しい友の一人である。
彼が生きていて、当時のことを話し合えたらと思うことが屡々ある」(P61)


「人間はいくら努力しても、敗れる時は敗れる」――。
そういう冷たい現実にどう向き合ったらいいのか。
井上靖の好きな言葉はまえにも紹介したが「養之如春(ようしじょしゅん)」である。
之を養うや春の如し。

「私はこの「養之如春」を自分流に勝手に解釈して何事にも当てはめている。
また何事に当てはめても、そのまま通用する言葉である。
春の光が万物を育てるように、凡(およ)そ人生の事柄というものは
気長にのんびりとやるべきである。
一朝一夕にそれを育て上げる態度をとるべきではない。
愛情を育てるにも、子供を養育するにも、病気を直すにも仕事をするにも、
宜(よろ)しく春の光が万物を育てるが如くすべきである。
私は温室栽培も、促成栽培も嫌いである。
春の光に依って、徐々に、昨日よりは今日、今日よりは明日と、
次第に大きく育って行ったものが好きであるし、
自分がものを育てる場合も、そうした態度が好きである」(P586)


のんびりしている「とりとめもない」ときに創作のアイディアは生まれるという。

「……小説を書く上に、ものを考える時間が一番大切であるからである。
暇な時間ができたから、さあ、ものを考えようといった、そういう考え方ではなく、
自然に向こうからやって来る思いを、ごく自然に受けとめて、
その中にはいって行くことができるようなそんな時間が欲しいのである」(P443)


ファンだから記録しておくと煙草は1日に50本。
朝食も昼食もほとんど取らず、夕食に1日の栄養をすべて取るという。
酒は日本酒を1本か2本で銘柄は白鹿。外食時はそうではない。

「私は酒を飲み出すと、出てくる料理を片っぱしから平らげる。
酒を飲み出すと、何でも美味く食べられるが、美味いものが沢山出た方がいい。
その点甚だ野暮ったい酒飲みである。
だから肴のない酒もりなど、私には意味がないし、味気ない。
大体料理を食べ終って、もう料理はたくさんという頃になると、
日本酒を洋酒にきり替える。ブランデーでも、ウイスキーでも、
料理など見向きもしなくなってから、うまく飲めるし、気持ちよく酔える。
よくしたもので、オードブルは日本酒は日本風の、
洋酒は洋風のものがいい。洋酒は生(き)で飲む。
水やソーダで割ったのは飛行機の中だけ」(P638)


満腹になってから酒なんか飲んだってうまくはないと思うが、人それぞれか。
「沢山」と「たくさん」の同時表記は原文のママ。
原文は「酒」とかいう出版社もわからぬ雑誌に掲載されたもので、
こういうものは新潮社さまの校正者は統一したくならないのだろうか。
いや、しなくても別に構わないのだが、ちょっと気になった。
このあと24巻、25巻と続きます。