いまさらながら師匠を求めたほうがいいのだろうか?
しかし、わたしの年齢だとすでに師匠として大家になっているものも多いし、
30歳くらいでもコーチングやなんかで怪しげな師匠になっているものもいる。
仏教の師匠はひろさちや氏だが、
あの人は師匠とか弟子とか、そういうウェットな関係は嫌うのね。
ひろさちやさん自身も仏教の師匠はいない。
河合隼雄はもう死んじゃったし、教わるというかあれは治療関係だろう?
河合心理学は隼雄がいちばん嫌った家元制度になり息子が組長をしている。
中島義道は授業料は安いのだろうが、西洋哲学に毛ほども関心がない。
小谷野敦はあっちもおなじことを思っているだろうが、
なにをされるかわからないので怖い。
高いご本を送ってくださった精神科の春日武彦医師は医療サービス関係になる。

没後弟子という在り方もよく、わたしは河合隼雄の没後弟子(あくまでも自称)だし、
仏教でいえば踊り念仏の一遍がいちばん親しみを感じるが、
親鸞とは異なりカルト狂騒的で、厳格な師匠というイメージではない。
宮本輝は目下のものを奴隷のようにあつかう創価根性の持ち主だ。
山田太一さんは心の師匠で、いつもこんなとき、
山田太一だったらどうするだろうと考えるくせがついている。
いまでも過去の講演会の記録を読み返すことがある。
しかし、山田太一関連にはあいどん師匠という古株の大物がいて、
わたしのように彼に嫌われると教団の末端にも存在を許されず破門される。
あいどん師匠は山田太一が死んだあとに、かならずや大物ぶる筈である。
「死人に口なし」でじつは自分は山田さんからこういうことを聞いた。
山田さんからいちばんの弟子はおまえと言われたとか口にしかねない。
ちなみに池田大作は戸田城聖相手にこれをやっている。三代目はきみだよ。
池田の弟子の宮本輝も(とっくに死んだ)井上靖相手に
これをやって大物感を出している。
基本的に山田太一さんは、創作なんか教えられるもんかよ、という立場だから。
自分の世界を深めてくださいくらいが山田太一の創作論になろう。

仏門に入るという選択肢もなくはないのだろうが、
どの坊さんにお金を払えばいいのか。いまさら仏教大学なんか入れませんよ。
そういう試験を通過する自信がない。
偏差値40の大学にも落ちるというおかしな自信がある。
で、大学でいまさらサンスクリット語を学んだって、ねえ?
いかがわしい国のいんちき教祖と酒を酌み交わしマブダチになって
(わたしはそういうのが意外とうまい)、伝道師みたいになるのがいいのかなあ。
上納金もぶっちゃけ後進国は安そうだしね。
むかし弘法大師の空海がやったことである。
去年、原一男教授にあなたは映画観も芸術観も人生観も
すべて間違えているとご指導いただき、自称弟子のつもりだったが破門された。
我われは仏のように世界をそのまま(諸法実相、眼横鼻直)
自然に見ることができず、常に二分法で考えるくせがついている。
なぜならそれは人間は言葉を持っており、
言葉は世界を分ける機能がついてるからである。
混沌としたいわば闇のような世界から光のような言葉が生まれたとき、
すでに「闇/光」という二分法が始まっている。
そもそも闇の存在は単体では証明できず、光という対立概念を出すことで、
闇の正体がまざまざとわかるようになっている。
「あ」という言葉の意味は、「い~ん」ではないことである。
「A」は「B~Z」ではないことで「A」の意味を帯びる。
ならば、世界=私は「あ~ん」「A~Z」の組み合わせである。
しかし、そんな複雑なことを考えるより話をはっきりさせることを人は好む。

たとえば、善悪や損得や美醜だ。
とくに善悪ほど我われを悩ませる対立概念はなく、
いつもあいつが悪いとか、自分が悪かった、家族が悪い、会社が悪い。
そんな感じで善悪の問題にばかりとらわれている。
このため、悟りは「善悪不二」と
説明されることもある(善悪は二つならず/善悪はおなじ/善も悪もない)。
ほかには要するに善悪という言葉にこだわっているわけで、
「不立文字」(ふりゅうもんじ/言葉以前の世界に立ち返る)と
禅ではいわゆる悟りのことを説明することがある、
南無阿弥陀仏の世界は、阿弥陀仏は原語の音訳で、
意味で訳すと無量寿仏 無量光仏になる。
これは計り知れない大きな光の仏ということで、
この阿弥陀仏の大光、大輝に照らされたら、
言葉の意味(善悪)なんて消えてしまい、そこに在家の庶民の救いがあった。
南無妙法蓮華経の悟りはよくわからず、大金を稼ぎ異性と健康な家族を維持し、
絶対善の自分が絶対悪の仏敵を打ち倒すドラマ性にあるのかもしれない。

いまわたしはどのくらいの仏教レベルですか?
しかし、そんなのをいったいだれが判断できるのだろう?
母は僕の目のまえで計画的に自殺してめんどうな血だらけの死体処理をさせた。
そのうえ家族や血族への悪口日記もまったく処分せずそのまま残した。
そんなに自分をぜんぶ放り投げるなよと19年経過したいまでも思う。
されたほうの思いを考えろよ。どれだけ辛いかわかってんのかよ。
母親は子どもをコントロール(支配)したがるというが、
母はそれを完全な形やってのけたのである。でも、それをしちゃいけないだろう?
父も母も好き勝手に生きたし、母はまさしく言葉そのまま好きなように
息子をいちばん苦しませる形で死んだし(それも永久に生きているかぎり)、
父も好きなように生きて好きなように死ぬつもりなので(永久に死なないと言っている)、
もう僕も血の流れのままに好きなように生きてもいいのではないか?
それをやっちゃダメなんだよ、いつも偉そうだったお母さん。
もう泣きたい。というか、いまもう泣いている。
なんで僕がおまえらの子なわけ? なんで、どうして? ま、そこが仏教の入口。
僕の父は心底からの仕事人間でいつも忙しい、忙しいを繰り返し、人を急かし急かし、
急げ急げと大声で騒ぎまくり、いつなんどきも仕事で、だれが死んでも仕事で、
まともに話したことなんかないが、結局最後はどうなるんだろう?
従業員のことをファミリーと呼び、家族よりもたいせつにしていたが最後はどうなるの?
先日さみしくて孤独感が増し、どうしようもなくなり、最後の砦である父に電話したが、
最後はなんとかなるんじゃないかなあ、とまるで僕そのままなので、血は恐ろしい。
あとは野となれ山となれ。あとのことは知らねえよ。
そんな生き方はずるいだろうと思うが、
思えば僕もそんな感じで生きているわけで血は争えない。最後はどうなるんだろう?
父は自分がいつまでも死なないと信じている。
かたくなに信じている。自分は死なない。男は仕事だ。仕事よりたいせつなものはない。
おれは間違っちゃいないね。いまでも鼻息が荒く、昭和の男、仕事人間はただもう怖い。