うちのブログの男女比がむかしから書いてきているが知りたい。
こんなブログを読む女なんかいないと思ういっぽうで、え? あれ? と思うこともある。
僕は「土屋さんって女の子みたい」とかつて女の子から言われたくらいの女子脳。
本当のキラーは女だって聞くし、そこらへんどうなのだろう。
僕としては(読者の)男から好かれることも
(読者の)女から好かれることもブログには書いていないし、
いったいだれがお読みくださっているのか興味が尽きない。
女性でも男性でもこころを言葉でレイプしたいという不純な動機がないわけではない。
人って本当に言葉に生かされも殺されもする。映像なんか目じゃない。
言葉は相手の脳神経の機能そのままを攻撃も保護もします。
おもしろい仕事なんかないっしょ? 仕事が趣味なんて精神科に行ってください。
いままでやった仕事でいちばんおもしろかったのはシナリオ仕事だなあ。
宮本輝と林真理子の、あれはなんだったかなあ?
シナリオにしてくださいと言われ、好きなように書いていいと言われ、
本当に好き放題に好きなように書き換えたら、
注文主はここまで好きにするとは思っておらず、解任の運びとなった。
ギャラは10万円だった。
いっぱい書き直して最後の映像化まで行けば100万もらえたらしい。
どうしてみんな脚本家なんかにあこがれるんだろう?
書き直し、書き直し、それでも最後の書き直しで、
とことんまで自分を壊される作業で、ギャラもよろしくない。
「あたし、一応ライターやってます」とか女仲間に自慢したいのだろうか?
しかしまあ、いちばんおもしろかったのはシナリオ仕事で、いきなり突然切られたが、
ああ、現実はそういうものなのかという勉強になった。
おもしろかったといえば時給850円の書籍倉庫もいろいろネタをいただきました。
思えば人生、好きなことしかしてこなかったなあ。いろんな人に助けられた。
むかしから損得ばかり考えてきたし、いまもってその傾向は変わらないが、
そして損得を配分するのは神とか仏というやつらになっているが、
あいつら本当にデタラメで、たぶんこっちのことなんかまったく考えていないぜ。
神に祈っても仏に祈っても損得の配分は変わらないし、
逆に神仏を好きな子ほど悪さを仕掛けてくるような底意地の悪さがやつらにはある。
あいつらはマジキチ。僕はあいつらがいることを実体験として知っているがマジキチ。
だから、こうして悪口を言ってもいいや、という結論になるわけである。
あいつらは人間の行為とはまったく関係なく、大金や難病を我われに与えたもう。
貧困も健康もあいつらしだいで、しかし、あいつらはまったく我われの声を聞かない。
政治家なんてものじゃないほどあいつらはデタラメでマジキチ。
そこの学会員、勤行なんかしても仏は声を聞いてくれないが、
好きなら好きなだけしてくれ。
仏教とか文学とか気が狂ったようにおもしろいが、
にもかかわらず一時期はそれを忘れかけていて、
もう適当に死ぬまで適当に生きればいいじゃんと思っていたのだが、
そんないいかげんな自分を変えたのは他者(←ふるくさっ)で、
じゃあ、なんでそういう人と会ったのかというと運と考えるしかなく、
そうであるならば、もてる努力やもてる工夫、もてたいという欲望なんか
神仏からしたらすべて意味がないのではないかと、いま悟ったふりをしたのだが、
本当のことはなにもかもわからず、本当の自分さえわからず、
本当の他者を知ろうなんてそれこそ甘い考えで、
でもでも僕僕、本当のことを知りたいし、
本当のことは女性が知っているという気がしてならない。
読む人が読めばわかるはずだが、
今年に入ってから文章が小説文体になっていませんか?
まえは短文ばかりだったが(自分は息の長い文章を書けないと思っていた)、
いまはなんとなく書けちゃう。むろん、むかしのほうがよかったというお声もあろう。
アクセス数は減るばかりなので、いまが「正しい」のかはわからない。
むかしのほうが仏教の熱い記事を書いていたのは僕も認める。
中性的な「わたし」という一人称を避け、
男男した坊ちゃんぶった「僕」を最近は使うことが多い。
師匠もいないなかで、
これだけ仏教と文学を独学するなんて僕はあたまがおかしいのではないか?
コメント欄で金持になれば女にもてると書かれ、
そうとも言えないだろうと現実を知っている僕は、
才能に惚れられたいなんてバカなことを考えるのである。
しかし、いままでの自他の経験からしても、
人の才能に惚れることはあるんじゃないかなあ。
僕も人の才能に惚れたことはあるし、惚れられたことがあるなんて、
そんなことは口が裂けても言えない。
映画監督のH教授は才能を惚れられるのがお上手で、奥さまのK教授は、
夫をいわば略奪愛したのだが、
いま思うのはK教授の新潟の実家はかなりのお金持だったのではないか?
というのも、H教授は若いころ働いていた形跡がないし、
あの人は僕のように嫌いなことはやらない主義だし、そうなるとそうなると……。
H教授はKさんの家の養子に入っていることから考えても、おそらくおそらく。
しかし、H教授は奥さまをしっかり客員とはいえ教授まで引き上げたわけで、
下半身の問題はいろいろあるにしろ、きちんと仕事をしたとも言える。

おれの才能に惚れろよ! なんて言える年齢なのかどうかもうわからない。
「僕って何」は三田誠広の芥川賞小説だが、僕っていったいなんなのだろう?
匿名の悪口とか批判コメントがやたら来るのだが、もう最近は消すようにしているが、
本当になにかおっしゃりたいのならばメールや電話をしてくればいいじゃないか?
複雑な本当のことは公然の場では言えないに決まっているじゃないか?
しかし、いくら卑怯なことをしても罰は当たらない。
だから、やってもいいし、自分の満足、快感のためにそれをやるのは正しい行為だ。
ばれなかったらなにを言ってもいいし、
人がひとり自殺したって自分の歯痛ほども気にする問題ではない。
人を苦しめたって、自分は痛くもかゆくもない。
ばれなければなにをしてもいい。
匿名の悪口や批判がきつすぎてやめてと思うが、
相手はそれを楽しいからやっているのでやむことはないだろう。
そういう面では僕も人のお役に立っているのだろう。
僕なんかこのブログもそうだが、
絶対に読んでくださったお客に損をさせたくないと思っている。
学問なんてどうでもよく、ただただ読者のみなさまにおもしろかったと思ってほしい。
不幸ネタなんかもぶっちゃけそんな感じで、人の不幸っておもしろいでしょう?
それでも書いてはいけないことは書いていないし、それは関係者ならわかるだろう。
あのネタも、あのネタも墓場まで持って行く。
原一男教授はあまりにも調子に乗りすぎていたからガチを仕掛けたら、
あの人は結局は自分は大学教授だ、おまえよりも偉いと返してきたが、
まあ、人間なんてそんなものだろう。
じつはそうとも言えず、小さな映画会場に入るまえの原一男教授を見たら、
本当にまわりにだれもいない淋しい孤独な絶望的な顔をしていて、
原さんはやっぱりおもしろい尊敬に値する人だと思った。
奥さまの小林教授も僕のことを覚えていてくれたのだろう。
足が悪いなか1階まで来てくれて、いまだから白状するがその厚情が胸にしみた。
優しい人たちだと思いました。ありがとうございました。
創価学会の教学試験を受けろと言われたことがいままでに二度ある。
あんなもんマークシートで人のなにが測れるのかって気がするね。
それにいまの僕の記憶力は全盛期から比べたらかなり落ちていて、
教学試験の最低問題でも回答できる自信がないし、
そもそも興味がないものを勉強できないし、
それは余命がどのくらいあるかわからないからだ。
創価大学の校歌は大好きだし、あれを作曲した人は天才だと思う。
今度、八王子に創価桜を見に行きたいと思っているくらいだ。
念仏も題目もおなじという新興宗教をできないかと年上の女友達に話したら、
できるんじゃない、やっちゃえ、やっちゃえと言われたが、弟子がいない。
正直、僕なんかそのくらいの相手だと理解しているが、
いっしょにいるときにスマホをいっときも欠かさず見られるとしんどい。
それは経済効率的にはそのほうが「正しい」のだろう。
見るななんて経済効率の低い僕にはとても言えない。
関係ない話をすると、仏教や文学は読んだ書籍の量ではなく、
どのくらい自分のあたまで考えたかだ。
僕は「歎異抄」も「一遍上人語録」も100回以上読んだが、
なにかを理解するとはそういうことではないか?
量ではなく質ではないのではないか?

たとえばバイオリン。
あんなものは才能の世界でいくら練習を繰り返しても、
音楽のこころをわかっていないやつは言っちゃあ悪いが人を感動させることはできない。
しかし、芸術は経済効率ではないと気づくとなにをしたらいいかわからなくなり、
それは「遊ぶ」ことが必要だったりするが、
なにが「遊び」かは人それぞれで、
本当に身体全体で「遊び」の世界に溺れ入ることのできる人は非常に少ない。
結局、僕のしたいことは仏教と文学で、もうこんな年齢だし、
どのみち引き返す道はないし、
だったら文学と仏教を本気でやってやろうと思っている。
仏教とか文学とか本当の真実の不幸を身体で体験しないとわからない。
僕は踊り念仏の一遍がいちばん好きで、
なぜならあいつはカルトの元祖と言ってもよく、
若い尼さんにミニスカートの着物をまとわせ、女陰をあたまのようにつるつるにさせ、
それを見世物にすることで金を稼いだからだ。
一遍はその意思はなく、おそらく時宗二代目の他阿真教の企画だろう。
他阿真教の偉さは一遍のカリスマ的カルト的な才能をいちばんはじめに気づいたこと。
一遍時宗集団がどうやって生きていたなんて、
念仏札を配って、お布施をいただいていたとしか思えないが、
それを、それをだ、「宗教は金になる」と気づいた他阿真教はえれえやつだ。
いま生活とか将来の不安とかどうでもよくなり、ひたすら文学と仏教にのめりこみたい。
一生をかけるに値する仕事が(個人では金にならない)文学と仏教ではないかと思う。