昨日、お土産でもらった沖縄のハブ酒とかいうわけわからないものを、
せっかくだから早く感想を言ったほうがいいのかなあ(このへん世間知らずゆえわからん)、
とロックで飲んでみたのだが、瓶に本当のハブが入っているのが頼もしいとも怖いとも。
味は高級ウイスキーに近く、決してつまみが食べられない、それだけでしか飲めない酒。
食前酒か食後酒にしかならない。滋養がたっぷりの味がする。
命を感じさせる味で、男として命として女を求めてしまいたくなる味。
一気には飲めない怖い味。やるかやられるかの味がしたアルコール度35度。
正直、いま女への関心が下がっているのだが、命の味に気づいたかなって感じがする。
僕、インテリだからなあ(どの顔をして言うか! ばかやろう!)。
やっぱり女体にむしゃぶりつきたいなんて性犯罪的なことを考えた。
やはり興味の関心は「なんぼやの?」にあるわけで(お礼の問題もある)、
金額を調べたらなまのハブ入り800mlで1万円のものとしか思えない。
僕さ、最高の売価の高い飲んだ酒って4千円くらいだよ。
価格を調べないで飲んだから、純粋だったのかもしれない。知っちゃうと怖すぎる。
僕は基本的にどの人の話も、その人が生きている物語として拝聴するが、
彼の自称収入でこれはないだろう。
昨日、僕は彼の期待に答えられたという自信がまったくない。
バックがいそうだなというのは最初のときから察知したが、
それは踊り念仏の寺だったから創価学会ではないだろう。
2回目は原一男教授との再会であんなメイクドラマをできるのは、
よほどのブログのファンだろう。
若い彼にできないとは言えないが、あれはもっとおとなのバックがかならずやいる。
そんなもん創価学会しかないのだが、最初が念仏のお寺だからそうではないだろう。
わかんないよな、この人生。そこがおもしろい。
「「酒」と作家たち」(浦西和彦:編/中公文庫)

→信濃町の博文堂書店で買ったあそこならではの良書である。
ディスプレイこそ本屋の才能やで。
昨日さ、なんかさ、「本の山」の大ファンだという若者に誘われ飲んだが、
その後に創価学会の信濃町に行こうという話になり、まじか冗談かわからないままに、
お土産屋に到着し、彼は「必勝」の三色鉢巻を買った。
もうここからはパワハラだよね。つけろって言ったもん。いまここでつけろ。
走らなくてもいいがこころは必勝で疾走体制でだれにも負けるなよ。
そして、彼はやってくれたのだが、絵画的にちょーおもしろい。
その三色鉢巻を信濃町でつけたら通報も報道もできない本当の極道。
なによりも悪い行為。
僕もさ、彼とはちょっと違いを出したくて「常勝」の鉢巻95円を購入。
信濃町でこのくらい酔っぱらっていたらつけてもいいかと自己判断してつけてみたら、
周囲の自分を見る目がまったく異なる。
あの人は池田先生かってレベルでみんな僕を見てくれる。
学会の上のほうの幹部でも三色鉢巻をつけて町を歩ける人はいないでしょう?

なにが言いたいのかって酒の薬ぶり毒ぶりはひどいなあ。
ノーベル賞作家の川端康成はまったく酒を飲めない下戸だったが、
ゴーゴーバーに行き、
ミニスカートの若い女の子の生命そのものといった生足を見るのを晩年まで愛したらしい。
尾崎士郎は朝から酒を飲んだ。サラリーマンと作家は異なるとかたくなに信じるがゆえ。
「晩菊」林扶美子は本当に「晩菊」だったようだ。
高見順は演技過剰なおもしろいやつ。
「例えば太宰治は、酒を飲む人だったが、飲んでいないときの彼は、
醒めすぎるほど醒めていた、と思う」と青山光二は言っている。
亀井勝一郎は太宰治に酒の味を教わった。
いつも朝から書斎に引きこもったが、机のわきにはいつもウイスキーの角瓶があった。
.中上健次の酒がひどかったことは「文芸首都」の保高みさ子が証言している。

「昭和四十五年新年に「終刊記念号」を出し皆様にお贈りしたが、
その打ち上げ会を自宅でやった時、
一同、悲愴、かつ感傷の思いにかられ盛大に飲みまくった。
中でも若い中上健次は強力無双、体力絶倫、
K[柄谷じゃねえの?]という細い同人に
掴みかかり雨戸もどとも庭に投げ飛ばしたり、
キスをさせろと私を家中追いかけ廻し、私は夫の病室に避難したりした。
彼の妻君の紀和鏡は怖れをなしてトイレに閉じこもり
私に百十番に電話してくれと頼む。
ようやく皆で暴れる中上健次をなだめすかし帰る方向につれ出したが、
近所の人は何事かと遠まきに見送り、
私は彼の払いのけようとした手で、
したたかに石垣に頭をぶつけ、大きなコブを作った。
酒に於ける最後の修羅場である」(P111)


関係者から聞くと、いまは本当に酒が売れないらしい。
いまの若い子は酒を飲まない。飲んでも家でコンビニエンスに済ます。
むかしながらの居酒屋なんかほとんど赤字で商売にはなっていないだろう。
だから、お酒のちょっといい話か、かなり悪い話か。
晩年の山本周五郎はアル中が進行してひどかったらしい。

「死の間際には物を食べず、ウイスキーだけをのんでいたようだ。
本当に彼はものを食わなかった。
横浜の花街の小さな料亭に、いつも四、五人の芸妓を集めて、
沢山の料理をご馳走して、彼女たちが食うのを楽しそうに眺め、
自分では何も食わなかった。
「皆いい子だよ、この妓たちも淋しいんだよ」
とさながら娘たちをみる父親のような顔をして私に語ったことがある。
この芸者たちに親切にしてやっている間に、
彼女らは、自然に自分たちのたどって来た道、
日常の身辺雑記を語ってきかせるようになったらしい。
彼の小説の女がそこにあった。
彼は彼女たちから庶民生活の実態を吸い上げていたに違いない」(P208)


昨日の晩、酔っぱらって長年の周五郎ファンの女友達に総武線から電話して、
相手はかなりの迷惑だっただろうが、それこそ文学かもしれない。
日本で公衆の面前で昼から酒を飲めるのは花見の時期しかないが、
だれか花見に誘ってよという結論でまとめるが、文句なんてございますでありましょうか?

「ほんとうの親鸞」(島田裕巳/講談社現代新書)

→創価ウォッチャー島田裕巳ライターの本はまったく勉強になる。
やはり大学から在野のライターに落ちると才能の化学変化がいい意味で起きるのだろう。
著者は創価学会をよく知っているから本物と偽物の相違に敏感である。
本物なんか金と人脈でいくらでも創価創造できることを、
創価ウォッチャーの島田裕巳ライターはよく知っている。
明治時代まで親鸞不在説(本当はいなかった)があったらしく、
それをくつがえしたのは本願寺から発見された
たくさんいた妻のひとりだったとされる恵信尼の書状らしいが、
それが偽造ではないかとわたしはまず疑うし、
おそらく本書には書いていないが島田ライターもおなじようなことを思ったことだろう。
浄土真宗といえば天皇家とも婚姻関係があるし、経済界とも通じている。
手紙を偽造するなんて鼻くそをほじるほど楽な行為だっただろう。

わたしは著者の言うように親鸞は3代目の覚如が自分を権威化するために
創価創造した虚像だったと思うし、親鸞は法然の末弟でもなく、
法然の顔をごくたまに拝謁できる下も下の小坊主だったと思う。
親鸞の主著とされる「教行信証」も後世の捏造(創価創造)で、
その証拠は、あの本は経典の引用だらけで、親鸞の考えのようなものはなく、
後世の複数の仏教学者が創価創造したという疑惑があるからである。
優秀な島田ライターの調査によると「教行信証」には師匠とされる法然の
「選択本願念仏集」からの引用は、
あれだけ大量の引用のなかで、わずか一箇所しかないないらしい。
絶対他力を説く親鸞が自力でくそ長い「教行信証」を書くのがそもそもおかしい。
親鸞が法然の「選択本願念仏集」を軽視したのは、
そんなことをしたら浄土真宗は浄土宗の子分になってしまうからで、
そう考えると「教行信証」が後世の捏造(創価創造)という説への信憑性も高まる。
親鸞が流罪になったのも嘘ではないかと島田ライターは書いており、
たしかにそうで、
流罪にされたというといかにも法然の高弟だったように思わせることができる。
親鸞が流罪にされたという越後に流罪されたものはいなかったという。
つまり、流罪にするにも値しないほどの毛坊主ではなかったか。
流罪にも値しない毛坊主だったから京都にすぐに戻る必要もない。
親鸞の家が貴族だったというのも
後世の捏造(創価創造)ではなかったかと島田ライターは指摘している。
皇室と血縁関係にある大谷家がどん百姓出身ではしまりが悪いのである。
息子の善鸞への義絶状(絶縁状)も偽造(創価創造)だろうとライターは言い放っている。

わたしはむかしは親鸞を好きだったが、
三代目の覚如の本を読んで彼らの血の汚さにうんざりして、
「歎異抄」を読み返すたびに本当の天才は唯円だったような気がしてならず、
浄土真宗なんて「悪いことをしてもいいよ」「女をいくらでも抱け「肉でも魚でも食え」
の死ぬほどイージーな教義のため、
坊さんも信徒も増えたのではないかといまでは思っている。
いま大活躍している創価ウォッチャー島田裕巳ライターの言葉を聞け。

「要するに、親鸞にかんしては、その人物も、その生涯も、
そしてその思想もひどく曖昧なのである。
逆に、曖昧であるがゆえに、後世の人間は、それぞれが勝手に
独自の親鸞像を作り上げることがことができたとも言える。
実像が明らかでない分、虚像を作り上げることが容易なのである。
『伝絵』を作った覚如は、そうした状況を利用し、
自分にとって好ましい親鸞像を作り上げていった。
覚如は、親鸞の血を引いており、親鸞を偉大な人物として描き出すことで、
自らの立場を権威づけようとしたのだ。
親鸞は公然と妻帯し、その信仰は、
親鸞の血を受け継いだ者たちによって継承されていった。
それは、日本の仏教宗派のなかでも、浄土真宗だけに起こったことで、
他の宗派では見られない事態だった。
本願寺は現在二つに分かれているが、
その頂点に位置する法主には、どちらも親鸞の血を受け継ぐ人間が就任している」(P19)


(関連記事)
「執持鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)
「口伝鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)
「改邪鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)
「歎異抄」(唯円)←長文です

「医者の逆説」(里見清一/新潮新書)

→著者は日本赤十字社医療センター化学療法科部長(2018年)。
感銘を受けるばかりの本だったのでひたすら内容を箇条書きにする。

・「延命治療に年齢制限」は政治家がみな言いたいことだが、
それを言ったら「選挙にならない(勝てない)」。
・末期ガン患者が最後に頼るのは民間療法。真実は自分の言ってほしいこと(治る)。
・治っても治らなくてもおなじ料金というのはおかしいという説もある。
・患者に「がんばれ」というのは自己責任論の強要のようでむごい。
・高齢患者に「もういいじゃないか」は思っていてもだれも言えない。
・医療選択肢として希望があるとダメだったときに絶望は以前よりも深まる。
・新薬治験はよいデータがほしいので状況が悪い患者には使えない。
・高額新治療は死ぬまでやり続けるしかない。
・介護が地獄なのはいつ終わるかわからないから。
・奇跡的医療は患者や家族の「いつ死ぬか」という思いをつぶす。
・医学論文は一部コピペをするのが常識。先人の知恵ありきの論文。
・週刊現代の「薬を飲むなキャンペーン」号は売れた。
・科学的な百に一つの当たり(新発見)を目指せは九十九の外れを大目に見ろってこと。
・激戦区の高校球児は鳥取島根、青森福島といった田舎高校に留学する。
・そういう本当のことを朝日新聞は書かない、書けない。
・高校野球部の喫煙、飲酒、暴力事件はよくあるが新参校ほど密告される田舎の陰湿。
・選挙の出口調査は待てばいいだけなのに実行するのは意味不明。金の無駄遣い。
・結果は待つしかないのに、その結果を待てずになにかしたがるのは異常。
・人間は中腰で待てず、イチかバチかの戦法を取りたがり大敗戦する。惨事を招く。
・末期ガン患者は大金をかけ大博打に出るよりも、いまの平穏状態を満喫しよう。
・数字データだけが医療の勝負か。
・85歳の寝たきりの意識不明の老人を
86歳まで生きさせることになんの意味があるんだよ。
・万民を脳内ハッピーにする薬を開発してそれを散布したら人は幸福になるか?
・患者に本当のことを言うのは絶対的な正義と果たしてそこまで断言していいのか?
・ガン放置理論はとんでもない事態になることも少なからずある。
・手術をして延命には成功しても、
これで生きているといえるかという状態になることもある。
・大金をかけ手術して延命しても「死んだほうがよかった」と思う患者やその家族はいる。
・大金がかかる先端医療は限りなく存在するが、それを選ぶのは果たしていいことか?
・どうして人間ってそこまで長生きしたがるの?
・成功率10%の高額医療に賭けるよりも90%の成功率の穏やかな死をなぜ選ばない?

さすがに要約だけでは著者に失礼なので、なまの言葉を引く。

「そして聞いたところでは、かなりの高齢者が日本の将来について、
「自分たちは逃げ切れるが、これからの人は大変だね」
と「同情」しているのだそうだ。我々の周囲に広がるのは、
どこまでも「他人事」の感覚が支配する無限の荒野のようである」(P82)


(関連記事)
「偽善の医療」(里見清一/新潮新書)