「占いの謎」(板橋作美/文春新書)

→読書ブログがそれを言っちゃあおしまいなのだが、
これはもう読んでくださいとしか言えない。
去年読んだ本の中でいちばんおもしろかったし内容もちょっと驚くほど深い。
3日間感想を書こうとやきもきしたが、
自分の無学のためか、この小著の全体を把握できない。
しかし、ここには間違いなく、
ある意味で、これからの指針となる真実が書かれている気がする。
わたしは人に本をすすめるのが嫌いだが、
この本だけはおのれの無力の証明としてお手に取ってくださいと願うばかりである。
本書で紹介されている「聖書占い」というのが興味深かった。
あるとき聖書をめくる。その行為はまったく偶然でしょう?
しかし、聖書のそのページにそのときの真実が書かれているというのは本当くさい。
なぜなら偶然だからである。
むかしあった日本の占いに偶然性が強いものがあるという。
まずおみくじを客ではなく神官が引く。
そこにはこう書いてある。次に第一門をはじめに通った客に問いを聴けば答えが出る。
こういう占いはある種の世界の本質を説いているように思えてならない。
世界はまったくしごくの純度100%の偶然で、
それに対するにはこちらも偶然をもってするしかないという企図が占いだろう。
そこには偶然へ誠実な真剣なる信心めいたものがある。
著者はわかりやすく先学者の発見を説明する。これだけでも教師として100点満点。

「九鬼周造という哲学者が、
偶然性について紹介している(『九鬼周造全集』第二巻、岩波書店、一九八〇年)。
彼は、偶然を三つに分けた。
一つは四つ葉のクローバーがその例で、四つ葉であることはクローバーにとって
非本質的なことであり、例外的な、偶然的なことである(定言的偶然という)。
二番目は二つの別の因果系列が出会うという偶然である。
屋根から落ちたかわらが、
道をころがっている風船に当たって風船が割れたときの偶然である(仮説的偶然)。
三つめは、あとで言うおみくじにあらわれる偶然で、AでもBでもなんでもよかったのに、
たまたまAが生じた、というようなときの偶然である(離接的偶然)」(P105)


1.定言的偶然(歴然とした偶然=四つ葉のクローバー)
2.仮説的偶然(因縁的な偶然=交通事故や競馬大当たり)
3.離接的偶然(自由な偶然=宝くじに当たる)


だれかが1万円札を落とすのは偶然だが、
それを拾ってしまう偶然には偶然性が加増されている。
去年、ミャンマーで思ったのはまったくの偶然にまかせてみよう。
行く道もすべて偶然で決め、会う人の言うことを聞こう。
そうしたら千ドルの詐欺に遭ったわけだが、それこそ仏意で、
彼は本当に勉学のために千ドルを必要していたかもしれず、
わたしから奪った千ドルで10年後、20年後のミャンマー人の命が
百人レベルで救われるかもしれない。
あれが失敗か成功かはいまでもわからないが、その二分法的思考が問題なのだと思う。
ただ千ドル盗まれたという事実だけがあり、それが「失敗」か「成功」かわからないのに、
人間はその現実を分別(二者択一)したがる。
言語というのは二者択一から始まる。
暗闇しかなかったらなにも生じず、そこから光が生まれることから世界は誕生する。
しかし、光は闇の対(つい)となる概念で、そもそも闇がなければ光は現われようがない。
本当の裏の世界は闇で、対の観念としての光(言葉)が世界を創造した。
言葉とはなにかというと二者択一が言語の原理としてある。
闇は光をもってしか証明できない。男であることは女ではないということ。
黒をいくら言葉で説明してもわからず白を持ってきて黒の意味がはじめてわかる。

言葉は世界を二分化する。言葉こそが二者択一の構造を世界にもたらす。
美醜、損得、賢愚――。
美とは証明できず醜いでは「ない」ことによってしか証明できない。
損もおなじでなにか損かを説明するのは難しく、それはお得ではないとしか言えない。
賢い人は愚かな人がたくさんいるおかげで目立つようなもの。
善悪なんかもそうで、みんな善を欲して悪を創造しているようなところもなくなない。
健康なんか本当はどこにもなく、病気を発見することで健康の意味がわかる。
ここから先は少し難しくなるが、
必然(因果的)は実のところ偶然(共時的)に支えられている。
電車が定時に運行するという必然は、まったく偶然的な事故が「ない」ことの証である。。
平凡なありふれた日常は、その裏側にある奇跡によって強い保証を得ている。
ここまで書いてきたらおわかりになるはずだが、
無常有限の生というものは死(浄土、天国、地獄、完全無)を
意識してはじめて味わいが増す。
占いとは世界の裏(この世の境界)からものを見ることだというのが著者の説だが、
われわれの生(必然)は死(偶然)によって強く守られているのである。

いまものすごいおもいろいことを書いてきているが、ついてきてくれている読者は幾人か?

「予兆や占いが対句表現、二項対立を多用するのには理由があると考えられる、
それは、予兆や占いが、対象とする事物をある見方でとらえるからだが、
それについては次章で述べる、
もう一つ、それ以前の理由として、そもそも、
われわれが求める答えが、二者択一的だからだ。
豊作か凶作か、晴か雨か、あるいは、待ち人は来るか来ないか、
失せものは見つかるか見つからないか、学業はなるかならないか、
生まれる子は男か女かなどを知りたいのだ。
求められる答えが吉か凶かなのだから、
何らかの類似性と相違性を同時に持っている二つの事物をとりあげ、
その対と吉凶の相同関係を作りあげればいい。
一見複雑な形を取っている答えでも、分解すれば、
二者択一の答えの組みあわせにすぎないことが多い。
たとえば血液型占いなら、A型は何々、B型は何々と、
第一章で言ったように類型として複数の特徴がセットになっているが、
一つ一つは、たとえば積極的か消極的か、
社交的か内気かなど、二者択一的な答えである。
そのように答えが二者択一的だか、占いは原則として確率二分の一で当たる。
半分が当たるのだ。しかも、当たっていないと思えば、別の占いをすればよい、
二つの占いがともに当たらない確率は四分の一でしかない。
さらに三つめの占いをすれば、当たらない確率は八分の一にさがる。
当たっていると思われる占いでやめればよい」(P138)


世界の構成要素は二つである。人間は世界を二分する。九鬼周造に従うならば――。

1.常識と異常
2.客観と主観
3.必然と偶然


占いとはなにをどう見るかである。
たとえばある芸術家の絵画に髭(ひげ)の生えたモナ・リザというものがあったらしい。
その絵画を見たあとではお客は
「正しい」モナ・リザを髭を生えてい「ない」モナ・リザとしか見えなくなる。
間違って社員旅行の温泉で全裸を見てしまった同僚女子は、
以降まえとおなじような目では見られないだろう。
革命家を自称するような映画監督が、ケチくさく専門学校の教え子に手を出そうとして、
その場所に選んだのが妻を出張に出したあとの汚い事務所と聞けば、
その大学教授先生の芸術作品の評価も変わろう。

AがAであることはだれも証明できない。
Aは非Aと比較されてはじめてAの輪郭を保てる。
Aは絶対的なものではない。
A子がアダルトビデオに出ていたという噂が流れればA子の価値は下がる。
A子の旦那が選挙に立候補して当選したと聞けばA子の価値は上がる。
A子なんかどこにもいない。Aを決めているのは周辺のB氏 C氏、D氏である。
Aは二者択一的にBではないことで存在が証明しうる。

「前章で見た対句形式も、異常と正常の関係と同じように考えることができるだろう。
右と左、男と女などの二項対立は、正常と異常と同じように、
相互規定的な反照関係と言える、
相互否定的であると同時に相互肯定的な関係である。
相手の否定が自分であり、同時に相手の肯定なくして自分もない関係、
たがいに相手を照らしあう関係、そういう関係である」(P157)


1.異常が見えなければ正常(常識)が見えない。
2.自分(主観)が見えなければ他人(客観)が見えない。
3.偶然(共時的現象)が見えなければ必然(因果的事象)が見えない。


おそらく本当はなにもないのだが、そこをうまくごまかすのが生きるということだ。
言葉を使うということだ。読み書きを学ばねばならぬ理由はたぶんそこにあるはずである。
言葉はあなたに「絶望」を教えてくれるが「希望」という言葉もある。
世界はカオス(混沌)で真っ暗だが、
二分法の言葉を使い、少しは照らすこともできるのではないか?
占いは嘘だが、しかし真っ黒い裏の世界の境界を、言葉で仕切るプロでもある。

「われわれ人間は、世界を混沌ではなく、秩序づけられたものとして、
カオスとしてではなく、コスモスとしてとらえようとしていると考えられる。
世界の秩序づけは、人間が言語を使用すること自体から発生する。
E・リーチが、人間は連続体である世界を部分に分離、区分し、
それぞれに名称をあたえるのであり、
区分されたものの隙間および区分されたカテゴリーの重複部分に
タブーが発生するとしたことはよく知られている。
佐藤信夫は、「名づけ以前のこの世界は、区切れ目のはっきりしない、
茫漠たる世界であり、それを記号によって適当に切り分け、命名することによって、
一種の記号的秩序を成立させ、
そうして私たちは現実を、多少とも秩序立てた形で認識すると言っている」(P208)


1.Aは非Aによってしか証明されない。
2.その非AをBと呼ぶことにする。
3.ここにAとBの二者択一が存在する。
4.AもBも実体としては存在しなく相互依存的である。
5.占いとはAとBのどちらを選んだらいいか。


ここで発生するのが占いで、占いとはなにを見るのか?
Aを個別に見るのもBを単独で見るのも占いではない。
A~Zまでのいわば星座群(言語群)を限りなく満遍なく見まわしたうえで、
相手にとってのAとBの主観的意味を探るのが優秀な占い師で、
それはもう河合隼雄レベルのカウンセラーである。
AとBだけを見るのではなくAからZまで見よう。それが言葉の世界だ。
わたしはこの学者さんは偉いと尊敬しているが、著者は思い切った仮説を打ち立てている。

もっとも庶民的な占いのおみくじには詩歌が書かれていることが多いという。

「では、なぜおみくじに詩歌がよく使われるのだろうか。
その理由としてレトリック(比喩)の問題が考えられるのだが、
それについてはのちにとりあげることにして、
ここでは「韻(いん)」について指摘したい。
九鬼周造は、『偶然性の問題』のなかで韻について言及しているが、
さらにそれを展開した論文「日本詩の押韻」を著している(『九鬼周造全集』第四巻)。
世界的に見て、頭韻、脚韻など
韻が詩の重要な要素になっていることは言うまでもないだろう。
漢詩もその一つで、上に挙げた絶句でも、きちんと韻がふまれている。
それどころか九鬼に言わせれば、
日本の詩(和歌、俳句、明治以降の詩など)においても、
韻は無視できない要素であったという。
頭韻、脚韻、枕詞、掛詞などの方法によって、万葉の歌から現代の歌まで、
韻が用いられている詩歌がかなり多くあるという。
彼に言わせれば、韻は言葉における偶然性の問題であり、
詩歌はひとつにはそういう韻の採用によってその芸術的深みを獲得するのである。
もちろん、おみくじに書かれている詩歌は芸術をめざしたものではなく、
韻を暗示することによって、おみくじの偶然性が補強されているのではないかと、
私はひそかに考えている」(P115)


本書は去年読んだなかのいちばんの名著、ベスト1で、
もっと紹介したいところがいくらでもある傑作なのだが、
当方の非力ゆえ、このくらいが限界だ。
著者は商業出版はこの1冊でやめ、
学問研究に戻られたようだが(アマゾンにはひどい酷評がならぶ)、
これほどの人を大学にこもらせているだけでは日本文化の喪失である。
久しぶりにこれほどの本を読んだという満足でいっぱいだ。
神保町のワゴンで投げ売りされていた1冊だった。
よろしければぜひぜひお読みください。

*記事中、誤字失礼。