「神と私」(遠藤周作・山崎哲雄監修/海竜社) *再読

→遠藤周作名言集。大学生のころ大好きだったのは遠藤周作で、
いま読み返すとさっぱり魅力がわからないので人間は変わるものである。
チャペルで祈っている女子大生ってかわゆすエロすというだけの話。
あんな一度も働いたことがない慶應の遠藤でも、
処女作「アデンまで」を読むと白人処女を食ったという自慢話なので悩ましい。
決めのセリフというものがあって、僕はもう怖いもの知らずだからそれを書いちゃうと、
いちばん相手のこころを捕えるのは、
「(悪戯っぽく)あたしのことを好きなんでしょう?」
「(高圧的に)俺のことを好きでたまらないくせに、違うか?」である。
人間は言語に支配されているため、言葉がいちばん強い凶器になりうる。
「あたしのことを好きなんでしょう?」と問われると、
否定の「おまえなんか好きではない」が出てきてしまう。
そうすると男なんか悪戯な美少女に降参である。
「好き」という言葉が「嫌い」という言葉の反対観念である以上、
異性から好かれたら「好き」になる「嫌い」になるしかない。二者択一に追い込まれる。
善があるから悪があるし、天国があるから地獄があるし、男がいるから女がいる。
原始仏教は禁止の決まりばかりの(宗教ではなく)道徳だが、
あれはダメだとカトリックの遠藤周作は仏教を鼻で笑う。
しかし、踊り念仏の一遍は評価しているので、こちらも評価を返したい。

「心より心を得んと心得て 心に迷ふ心なりけり(一遍)
この歌を思い出すたびに作家、一遍という人が、
どれだけ人間の心の複雑さや、
心の扱いにくさや矛盾を知っていたかをしみじみ感じる。
周知のようにこれは一遍にある僧が「形よりも心が大事ではないか」
と言った時にたしなめた歌である。
一遍は人が善きことをなそうとする時、
その善きことが彼の心逆に慢心さすことを見ぬいていた。
人は正しいことをなそうとする時、
その正しきことがかえって彼の心を傲(おご)らせることを承知していた。
修業すれば修業するほど、泥沼の深みに入ることを知っていた。
人間の心はたんに「善」「正」「修業」
などを志すだけでは律しきれない矛盾があるのだ。
この一遍の歌は私にあのユダヤ教の戒律から
飛躍しようとしたポーロの心をも連想させる。
ユダヤ教の戒律――つまり戒律を守ろうと身をつつしめばつつしむほど、
逆に律儀に捉われふりまわされて逆に自信を持てなくなったのが
若い頃のポーロである。
おそらく彼なら一遍の歌に膝をたたいてうなずいただろう」(P221)


しちゃいけないと言われるとしたくなるのが人間の矛盾したこころ。
わかっている。この文章を読んでいるきみは僕が好きでたまらないんだろう?