「聊斎志異の怪」(蒲松齢/志村有弘訳/角川ソフィア文庫)

→半年まえくらいに読んだ江戸時代の中国の短編小説集(小話を集めたもの)。
芥川や太宰がここに書かれている物語をモデルにして小説にしたことで知られている。
角川文庫版はその「聊齋志異(りょうさいしい)」原文も、
芥川や太宰の改変版も載せられていてお得だが、
おもしろいかと問われたら意見がわかれるところだろう。
「聊齋志異」は殺人(他殺)や自殺、幽霊、強姦(レイプ)の話でモリモリだが、
どの人物も懲りていないところが中国らしいというか、前近代的というか。
ふつう人を殺したりしたらちょっとくらい罪悪感をおぼえるだろうがそれがない。
自殺しても、へえ、あの人死んだのくらい話。
レイプされても、まあ、減るもんじゃないしとまったく悩まない。
いざ死んでも幽霊として化けて出てやるからな、という世界観。
男が美女を犯したがるのは自然だし、男が金のために人を殺すのも自然で、
そういうことにいちいち罪悪感をおぼえないナチュラルな人たちが多く登場する。

さいわいとは美女に愛されることだし、
大金を稼ぐことだという価値観がまったくぶれていないのが新鮮とも、
いまの常識感覚したら粗悪だとも、どちらとも言える。
またまた問題のあることを言うと、レイプやストーカーをできる男は英雄で、
どうしてそんなに欲望が強いのか、自分のことしか考えられないのか不思議だが、
それが中国の庶民的かつ現実的な強さで、
そういうシナ大陸の野蛮な健康に西洋インテリぶりたがる、
世間をまったく知らないがしかし、学識はある若年の芥川や太宰は完全降伏して、
そういう日本古来の大陸的男根女陰のパワーをモデルに
近代文学を構築しようとねらった短編が本書に掲載されているが、おもしろくない。
若くして出世した芥川や太宰の世間知らずの弱さがわかる1冊である。

「真理のための闘争 中島義道の哲学課外授業」(中島義道/河出書房新社)

→中島義道が朝日カルチャーセンターとトラブったときのことを書いた本。
中島はこれでおれも有名文化人の仲間入りかなあ、
なんてほくそ笑みながらやたらギャラが安い朝日カルチャーセンターで
ステータスシンボルのようなものを求めて講師を長年やっていたら、
あるときぶち切れておのれの正義、真理を表明するために出した本。
なんかさ、ひとコマ90分でも120分でもギャラが変わらないらしく、
いつからかそうなったかは忘れたが、
講師にはそれを選択する権利があるのにもかかわらず、
それを職員が教えてくれなかったのを恨み、
おれの30分は高いんだぞと怒った中島が、
最初は軽い行き違いで終わりそうだったものを、
わざわざ哲学的真理を持ち出してきて、糸をもつれさせ、
細い人たちを脅えさせ、おおきな毛玉(の問題)のようにしてしまったという話。
中島義道は本当に世間というものを知らない。世の中、そんなもんよ。
朝日カルチャーセンターと自意識と自尊心だけが高い中島の
どちらの格が上か考えてみろよ。権威を比較してみろってこと。
中島だって朝日の権威にひれ伏して安いギャラで講師になったんだろう?
だったら、その権威に屈従して、なあなあにやって、
次回からは120分の講義を90分にしてもらいミニボーナスでもいただいて、
手打ちにすればよかったじゃないか。
それが(学問の世界ならぬ)世間ってもんよ。

しかし、中島義道の気持もわからなくはない。
10年もまえの話だが、
わたしもシナリオ・センター相手におなじようなトラブルを起こしている。
数十年まえに3分のアニメを一度しか書いたことがないという、
上原正志という講師とトラブルになったのだが、
ある日突然、狭い事務所で社長や所長、職員に取り囲まれ、
だれも責任を取らず「あんたが責任を取れ」と大声で何度も責められ、
シナリオ・センターを強制退学させられた。
そこには上原正志は一度も顔を出さず、
かといって社長や所長が責任を取るわけではなく、
「あんたが悪い」と一方的に3時間以上難詰され辞めさせられた。
これにはお金の問題があって、
わたしは所長のすすめで基礎科から研修科に行ったのだから、
せめてその進学料金くらい返してくれとお願いしたら、
「冗談じゃないわよ」と怒鳴られ、それで終わりである。
中島義道は問題が起きたときまず弁護士に相談して法的処置を考えたそうだが、
そこが東大あがりの学者と三流私大をお情けで出してもらった当方との相違か。
わたしは何度も上原正志をやっちゃおうかと思った。
あれは上原正志とわたしの問題だったのに本人は隠れて出て来ず、
わたしの退学後はゼミコマ数も増やしてもらい組織で出世したという。
彼は読んだこともないアリストテレスを講義する無学な先生だったが、
道端で待ち伏せして、「おい、ちょっと待てよ」と肩をつかむくらいしてもいいだろう。
そんな危ないことをしきりに考えたものである。
中島のように弁護士の知り合いなんていないし法的処置は考えたこともなかった。

これを10年後のいまどう考えているか?
まあ、どっちもどっちだよなあ。わたしも世間を知らなかった。
「あたしは新井一の娘よ」といつも高そうな服を着た(シナリオを書いたこともない)
女社長から怒鳴られたが、世の中って結局そういうものなんだよなあ。
しかし、いまでも中島義道とおなじであのときのわたしは「正しい」と、
どこかで思っているのもまた事実なのだからぜんぜん成長していないのかもしれない。
たぶんこの本はまったく売れていないはずだが、
「だれもおまえの正義なんかに興味はない」という常識は理解する年齢になった。
有名哲学者の売れっ子作家だから、こういうどうでもいい本を出せるのである。
わたしがシナセンを批判したって、だれも聞く耳なんか持っちゃくれない。
ファンも多い有名なカント哲学者の言葉のほうがまだ拙文よりも価値があろう。
いまのわたしは唯一の絶対真理など存在しないのではないかという立場だが、
それでも唯一真理教の狂信者のように思える中島義道の次の言葉は考えさせられる。
中島はウソを嫌ったことで知られる西洋哲学者のカントへの信心を持っている。
果たして唯一絶対の真理は存在するのか? みんなじつはウソではないか?

「日常生活において、一方で、みなウソをつき、他人のウソにも寛大で、
「ウソも方便」と涼しい顔をしている場合もあるが、
他方、自分にまともに被害が及ぶと、ウソに対して猛烈な怒りをぶつける。
とくに政治家や企業のウソに対しては、みんな敏感だね。
さらに、ぼくはいつも思うが、身内を悲惨な事件や事故で失った者は、
それを知ってもさらに痛めつけられることがわかっていても
「ほんとうのこと」を知りたがる。
自分の子供がどうやって殺されたか、自分のほんとうの親は誰か、
自分はどういう人間なのか、人間誰でもギリギリの状況に置かれると、
たとえそれを知ることがいかに辛くても、
本当のことを知りたがるのではないだろうか?
その理由は何だろう。
やはり、それがウソだから、真実じゃないからではないかな?」(P129)


もはや持ちネタのようになっていると思われる方もおられるかもしれないが、
わたしは19年まえ母親から目のまえで飛び降り自殺をされ、
女はその場で血を流しながら絶命した。
精神病の診断を受けていたが、本人はうつ病だと言っていた。
本当のことが知りたくて、最初に入院した病院の先生にまで話を聞きに行った。
なんであのとき忙しいあの人があんなに親切にしてくれたのかわからず、
いまから思い返すと胸に熱いものが込み上げてくる。
母は年下のひとりの精神科医に10年近くかかっていた。
信用していたのだろう。御すのが容易かったのかもしれない。
あるときは「先生はケンジ(僕)のことを精神病だと言っているわよ」
と勝ち誇っていたものだった。
自殺直後、話を聞きに行ったがいやそうで(いやな理由はいまではわかる)、
30分くらいで退去をうながされ、人がひとり死んでいるのにそれはないだろうと思った。
いまから考えたら、待合室には患者があふれかえっていたから
医者が迷惑に感じたのはわかりすぎるほどわかる。
よくお薬を出す先生でこのため人気があり(商売上手で)、
「あの先生はベンツに乗っているのよ」となぜか母が自慢げにおしえてくれたものだ。

いったい本当のことはなんなのか?
わたしは何度もそのクリニックの周辺を歩いてまわり、
乗り込んでいきたいという気持とどう向き合えばいいかわからなかった。
本当のことを知りたい。
いまの知性で考えれば、精神科なんて3分診療が当り前で、
医者なんて患者が死んでも家族に説明する必要はないし、
お客がひとり減ったくらいが常識感覚なのだと、
ファンである精神科の春日武彦医師の本を読んで思う。
しかし、いまでも本当のことを知りたいし、死ぬまで本当のことにこだわるだろう。
それはわたしの今後の人生に現われるので死ぬまで死ねない。
仏教はウソだが、なにか真理を語っているようで興味が尽きない。

本当のことは人を地獄に落しかねないが、ウソは人を救うことがままある。
真理はしょせんオナニーで、ウソこそ愛あふれた男女のプレイではないか?
真理や本当のことは自尊心、虚栄心で、
ウソやインチキが愛であり文化であり芸術であり、
生きている喜びや悲しみのたいせつな深い源であるような気がしてならないが、
日本人なのにカントを愛する取り巻きに囲まれた中島義道はカントの口真似をする。

「平気で嘘をつくこと、しかも、あくまでもそれを表面的節度を保ちながら
つき通すこと、その背後には、
ただ「ソン・トク計算」だけが黒々ととした影を作っていること、
これは私にとって吐き気がするほどイヤな人間の側面であり(以下略)」(P93)


わたしは中島義道と本当の真理の喧嘩をしたら負ける気がしない。
男のファンクラブ、私塾に行ったら多数決とカントの権威に負けるのだろうが、
一対一の飲み屋で喧嘩したら、
そのリングのレフリーはカントでもないし、哲学でもないので、
言葉の世界においてもわたしは彼を打ち負かすが
男は哲学世界での負けは認めないだろう。いざとなったらわたしは手を出す。
ひと目見たらそういうことができない損得世界を生きる温厚な人物だとばれてしまうが、
それでも本当のガチを仕掛けられたら、
なにも守るものがないわたしは、法律的敗北など恐れず男の目を割り箸で貫くだろう。
なぜそれをできるかといったら、
こちらが哲学者の先生よりもなまの不幸を知っているからである。
本当の真理はカントにはなく、ヤクザにあるかもしれず、
なぜなら中島は弱い相手にしか喧嘩を仕掛けないし、
喧嘩を仕掛ける相手はその段階でカントの土俵に乗っているからである。
本当のガチ(真理)を知っているものほど、
天龍源一郎のようにプロレス(ウソ)がうまい。
わたしも本当の真理を知っているのかはまったく自信がなく、
いままでふつうの人しか知らないようなところがあり、
ガチの性格の悪い女が本気で騙そうとしてきたら、
泣きながら何度も何度もタップ(ギブアップ)するだろう。

以上、ブログというリングだから言いたいことを言ったが、
新聞とか雑誌でまさかないとは思うが中島義道と対談したら、
わたしはすぐに尻尾を振るだろう。
なぜならそのリングでは相手のほうが圧倒的に強く、闘う意味がないからである。
わたしが読んでいる哲学者なんて中島義道くらいで、
ご本人はすぐにご理解くださるだろうが、わたしは彼を好きなのである。
けれども、弟子になりたいとかはなく、しかし、いいことを書くなあと感心する。
そういえば、山田太一は自分の指導に従順な弟子のようなやつは嫌いだと言った。
若き山田太一はサルトルの講演会に行き、
それを老人になって回想して、そのときのことはなにも覚えていないが、
ひとつだけ突き刺さった言葉は「普遍的な真実のようなものを信じてはならない」
だったと講演かなにかで耳にした。
最後は中島義道さんのちょっといい話でしめよう。

「これまでは、漠然と普遍的真実があることを前提にしていた。
それにそってカントやベルクソンンの考えを紹介してきた。
だが、そうではないかもしれないじゃないか?
普遍的真実などないじゃないかもしれないじゃないか?
サルトルは、そう疑う哲学者の代表格だろう。
「神は死んだ」。よっていかなる絶対的価値もない。
善悪の基準はない」(P169)


たしかに西洋の神は死んだのだが、日本の仏はまだ生きているということを、
西洋劣等複合哲学者の中島義道は知らないし、もう年齢的に勉強できないだろう。
善悪はないかもしれない。
なんでもいいのかもしれない。なにもかもわからないのかもしれない。
仏さまだけがなにかを知っていて、それをわれわれは知りえないならば――。
大学生のころの中島義道青年はあるカウンセラーから教わったという。
わたしはこのカウンセラーの優秀は認めるが、
中島は自分のこころの声を聴いたのではないかと思う。
おそらくカウンセラーは傾聴しただけで、
なにも迷いの盛りの中島に指導していないはずである。

「法学部に進む仲間たちから落ちこぼれたくない、
親の期待を裏切りたくない、哲学の才能があるかどうか不安だ、
将来哲学者として身を立てる自信がない……等々をぐだぐだ語ると、
カウンセラーの先生は、微笑みながら最後にただこう言ってくれた。
「自分がいちばんしたいことをしなさい」と。
眼の前からさっと霧が晴れるような気がした。
そうだ、僕は哲学がしたいんだ! 哲学がしたいだけなんだ!
それはもうはっきりしたことなのに、
ぼくはソン・トク計算に余念がなかったんだね」(P131)


(関連記事)
「悪について」(中島義道/岩波新書)
「夕暮れの時間に」(山田太一/河出書房新社)
山田太一講演会(2011年2月26日)

「純文学とは何か?」(小谷野敦/中公新書ラクレ)

→大学生のころとてもきれいで純粋っぽい一文女子に卒論の内容を聞いたら、
「雨月物語」と教えてもらい、
それだけでいんちきな創作小説で卒業しようと思っている自分の汚さに
ウゲッと吐き気が込み上げ、かの女がさらにさらに何倍も輝いて見えたものである。
広い意味で日本文学は物語文芸、芝居演芸、歴史書、仏教書、詩文であろう。
日本に少なくとも室町時代までは哲学思想のようなものはなく、
いちばん哲学に近いのはやたら難しい仏教思想だけではないか。
小谷野さんは自分が仏教に歯が立たないから宗教をバカにして、
プライドを守っているようなところがあり、かわいい。
日本語はかな文字(平仮名)、漢文(中国語)、英語(カタカナ)だが、
むかしの男は平仮名をバカにして公文書はすべて漢文で書いていた。

一休は室町時代の禅僧だが、
あの時代でも男は中国にあこがれ漢詩文を創って粋がっていた。
いま漢字の価値はむかしと比べて大幅に下がり、
中国といえば先進国ではなく、下品な金に汚い国というイメージが定着した。
代わりに英語カタカナが幅を利かすいっぽうで、
よく知らないが人気歌謡曲の歌詞などどこの国の言葉だかわからない。
日本の文学(言葉)はこういう性質を持っている(はず)。
わたしがいちばんだと思うのは説経節だが、理由はあれは、
文盲にも理解することができる物語文芸、芝居演芸、仏教思想だからである。
おそらく小谷野さんは説経節の価値をさらさら認めないだろうが、
本書で著者は文学の価値など、
株価のように変動する実体のないものという説を紹介しているので、
わたしが説教節を評価しているのをことさらバカにしたりはしないだろう。
小谷野さんはよくわかっておられる。

「東アジアでは、漢文・漢詩が教養の中心であり、それは明治期までそうだった。
漢詩は五言、七言の絶句、律詩などの形式をもち、
平仄(ひょうそく)というものがあった。
四六駢儷体(しろくべんれいたい)などの流麗な文章の形式も生まれ、
科挙においては、平仄の合った格調高い漢詩が書けることが条件であった。
日本ではかな文字が発明され、かな文藝が栄えたが、
かなは女が書くもので、そのため紀貫之は女のふりをして
『土佐日記』を書いたのである。日本独自の詩が、和歌である。
歌集の詞書(ことばがき)が発達すると歌物語になるとされるが、
『竹取物語』などは、『古事記』などに
見られる単なる物語が展開したと見ていいだろう。
しかし、『蜻蛉物語』や『源氏物語』は、
和歌を含んでいるからこそ評価されたもので、
のち藤原俊成などが『源氏』を評価したときは、
「源氏見ざる歌詠みは」と言って、その和歌を評価したのである。
『今昔物語集』などの、散文で書かれた物語集は、
その中に描かれた歴史的人物の事件が史料的に見られることはあったが、
古典的文学作品の扱いを受けるようになるのは明治末から大正期で、
芥川龍之介がこれを短編の素材にしたのはまさにその時期のことだった」(P33)


からかって言っているわけではなく、
小谷野さんの学識の高さと教師としての能力の高さがよくわかる平明な文章である。
このご説明からもわかるように日本文学は学問能力の高い男と、
気高い精神を持つ女が連綿と引き継いできたもので、
最前の自分の言葉を引き込めると説経節は文学ではないし、
いまでいえば創価学会の宮本輝は大衆文芸ではあるだろうが純文学ではない。
本当は井上靖も文学ではないのだが、
歴史的知識が学者なみにすごいからみんな誉める、と言ってもいいだろう。
なにを純文学とするかは難しく本書でも結論は出ていなかったが、
難しいもの、一部の大学関係者にしかおもしろくないもの、
もっと身もふたもないことを言えば売れないものが純文学なのではないか。
そうだとしたら村上春樹は……いやいや、わからないわからない。

こういう分類方法はどうだろう。注文されてもいないのに書いたものが純文学。
村上春樹が言及したようで一時期ストリンドベリが復活しそうになったが、
あれは絶対にいま再刊しても売れないだろう。
女性差別がひどすぎるのである。
しかし、ストリンドベリのかなりの作品は注文仕事ではなく自発的に誕生している。
とくに「痴人の告白」は長大だが、
作者はそれを少なくとも生前は発表するつもりもなく、
ただただ妻への復讐のために半年もかけて書いたのだから、
これを純文学と言わずしてなにが純文学か。
おそらく小谷野さんは「痴人の告白」を読んでいないはずだが(つまらなくて読めない)、
読んでいない本をさも読んだような顔をして語るのが文学者であると最近気づいたので
男芸者の文学演技に耳を貸そうではないか。

「日本の私小説の火付け役となったのは、
ストリンドベリの『痴人の告白』という自伝だろう。
ストリンドベリはスウェーデンの劇作家だが、自身の妻への呪詛、
ないし自分の生への呪詛を書き連ねた恐ろしい本で、
先の木村荘太が大正初期に翻訳している。
里見弴などはこれに影響されて、震災後に『安城家の兄弟』
のような恐ろしい私小説大作を書いたのである」(P185)


日本でいまストリンドベリが語られるとしたら山本周五郎、山口瞳ラインだろう。
しかし、山本周五郎はストリンドベリを愛読したが、山口瞳は読んでいない。
ここで影響はストップして、山本周五郎に影響を受けた作家は大勢いるだろうが、
周五郎が師としたストリンドベリの孫弟子となったものはいないのではないか。
小谷野さんの名著を読んで感想を書き、
自分のあたまで考えると発見があるのでよろしい。
なにをいまさらと笑われそうだが、日本文学史というのは影響の流れではないか。
どの文学作品に影響を受けて新しい作品が生まれているか。
著者は日本現代演劇を完全にバカにしているが、それはそうで、
いまの演劇人はバイトに忙しくシェイクスピアさえ読んでいないやつがやっている。
かといって近松なんかもっとやつらのあたまでは読めないだろう。

純文学に感動をして大衆小説を書く作家は宮本輝のようにたくさんいるが、
大衆文学に影響を受けて純文学を書き始めるやつはいても少ないのではないか。
日本文学の骨として一本貫かれているのは仏教思想で、
にもかかわらず、文明開化期、敗戦期と海外文学に影響を受ける作家が多くなり、
そうなると日本文学の伝統と根が切れてしまうのである。
本来は仏教を勉強しないと日本文学のこころはわからないのだが、
いまでは海外文学を愛好することが純文学者の証のようなところもなくはない。
敗戦国コンプレックス文学が新しい主流となり、平成の終わりまで来てしまった。
かな文字と漢字が日本文学の母なのだが、残念なことに――。

「日本における外国文学者の中では、英文学者の数が多い。
それは、英語が世界語になったため、
大学において英語教師の口があるからである。
そのため、各作家について学会があったりするが、
それが作家自身の魅力によるのかというと疑わしい。
英文学は、シェイクスピアとアメリカ文学でもっているのではないか」(P137)


外国文学はその国の言葉で読まないとわからないのではないかと思うし、
とはいえ、いくら日本人が現地語を勉強しても、しょせんは日本人で、
知的興味や虚栄心は満たされるだろうが、本当にその作品を味わえるのか疑わしい。
「ノルウェイの森」だって早稲田の文学部キャンパスを知っているほうが味わい深い。
小谷野さんの本はとてもためになるが、直接教えてもらいたいとは思わない。
わからないことがあったら本を読めばいいし、
師匠から以心伝心される文学のこころなんて実際に存在するのだろうか。
会ってみたら想像以上にひどくて、人間はここまで傲慢になれるのかと、
あんがい本物の文学者に近づく一手かもしれないのだが、
奥さまの葵さんには惹かれるが、小谷野先生の弟子になりたいのかはわからない。
いまではぜん息も改善し、そばで喫煙されても大丈夫である。

(関連記事)
「痴人の告白」(ストリンドベリ/山室静訳/「世界文学全集24」講談社)