運が悪いきみたちのことは知らないが、
僕はどうしかて困ったときにお姉さんキャラがさっと現われ、
さらっと無言で助けてくれ、礼も求めずに去っていく。
小中高、大学、いやいやする仕事場、
どこでもかならずお姉さんキャラの女の子が登場して僕を助けてくれる。
これはほとんど絶対法則と言っていい。
早稲田の一文女子なんて僕のお姉さんばかりだし、
香港の子もさっとお姉さんになってくれたし、
ベトナムっ子ばかりの職場で働きはじめたときも、いく人もベトナムお姉さんがいたし、
中国人お姉さんも、独身お姉さんも、人妻お姉さんもいて、
僕のダメだなあという愚かさを姉らしく、どこか愛おしみながら気遣いのチラ見をしてくれ、
この子はあたしがついていないとダメだという言葉にならない真理に気づき、
国籍世代さまざまのお姉さまたちはどうしてか僕なんかを守ってくれた。
男の上司は僕のそういうところが怖かっただろうし、あこがれたであろうし、
反面、こいつを男性暴力的に消したいという思いにもかられたことだろう。
どうして僕はいつも弟キャラになり、どんな年下の美少女であっても、
あの子はあたしが守ってあげなきゃというお姉さんキャラにさせるのかは、
自分でもわからないし、そういう宿命めいたものを文芸作品として表現したい。
女が腐ったような女々しい僕の弟キャラも神レベルだし、
どこのグループでも、この子はあたしが守らなきゃダメと、
女性をお姉さんキャラにして、
自分はいい気に計らずもぬくぬくしてしまう特技は僕の天賦の才能。
そんなにダメな子ではないと思うが、姉キャラからしたらそうではないのだろう。
これまで幾人の姉キャラ女性から守られたかは、ばれたら殺されそうだから秘密。
お姉さんって優しいし、ミスも許してくれるし、あったかいもので守ってくれるし、
天性の弟キャラをおのれの内部に有していると申し訳ないがおいしい。
いろいろな女社会を経てきたが、逐一述べていこう。
小学校は区立だったが、女の子は概して僕に対して優しかった。
なんか8、9歳のころの僕はとてもかわいかったらしく(醜形恐怖症で確認できないが)、
あるかわいい女の子にストーカーのようなことをされ(いやではない)。
いつもその子がくっついてきて、なんで僕ばかりこんないい思いをするのか怖かった。
その子は裸になるのが好きなのかと疑ったくらい、
プールの着替えのときわざわざ僕のまえで自分を隠さず、
女子の下のほうにある裂け目を意識したのもこのときがはじめてだ。
見ちゃいけないと思って見ないようにしていたら、
席が横だったのだが話しかけてきて、
思わず見てしまったら「エッチ」
と悪戯っぽく笑われたがタオルで違法な輝きを隠そうとはしなかった。
うちなんかに来てくれたこともあって、
押し入れで少女の深淵に手を強引に導かれ、沼のうるおいを教わった。
母の発病、家庭環境の悪化により、僕はその後に急速に醜くなったら、
少女は口をきいてくれないようになり、これは最後の中学卒業まで続いた。
小学生のときは、なんだこの子は? と怖かったが、
15歳の中学生は美少女になっており、なんでこうなったのかと運命を恨んだ。
いま思えば小学生のころの美少女はみんな家がお金持だった。
医者を目指している少女は人気が高く、男子のだれもが初恋の相手にしていた。
美少女はみんな中学は私立に行き、区立中学に進学した僕は縁が切れた。

区立中学のよさは、女子の育ちが悪い子ばかりだったことである。
美男子には親切にして、そうではないものにはいじめともおぼしき行為を平気でした。
いま思い返せば、そういうところが中学女子のよさでありました。
僕は14歳で勉強に覚醒して以降成績の急上昇は止まらなかったのだが、
たしかに同級生女子の見る目は多少は変わったが、
小学生のときに受けたような厚遇はついぞ味わえなかった。
高校のことを書けとコメント欄で言われたが、あまりおもしろい女の子はいなかった。
まじめなクラスの雰囲気から完全に浮いた美少女がふたりいたのだが
(ひとりはいつも危険なミニスカ)、1年のうちに中退したようだが、
高校で友人はひとりもいなかったので詳細はよくわからない。
そうそう、おなじように孤独な僕をあわれんでか、その美少女ふたりが、
なにかの発表でひとりも友だちがいない僕に同情してくれおなじグループになり、
美人女子高生二人とグループ学習をするという恩恵を受けたが、
クラスメートは僕のことを羨ましがるというより蔑んでいただろう。
繰り返しになるが、ふたりは1年で退学した。
うちの都立高校は3年間おなじクラスなのだが、
1年からひとりも友人がいなかった僕にはなかなか辛い制度であった。
今日これを書く機会がなかったら思い出さなかっただろうが、
どうしてあの中退した美少女ふたりは僕なんかに優しくしてくれたのかわからない。
都立的なかわいさではなく、そのままお水で通用するようなかわいいふたりだった。
大学に入ってからのことはまだ書けない。

最後に派遣職場のことを書くと、あれは区立中学に戻ったようであった。
女性職場だったのだが福笑いの顔をつけ間違えたような女子派遣に意地悪された。
スケバンかなにかの話ではないが、「あたしをにらんでくるんじゃねえ」と言ってくる。
ガンをつけるなの世界で、とはいえ僕もそのころは大人で、
自分がぜんぜん悪くないことをわかっていても就業後に謝罪するくらい
なにかにあきらめていた。めんどくさいなあと。
女というのは上に告げ口をするのを好むのだともその作業系女性職場で学んだ。
何度も何度もくだんの女性は自分をにらみつけてくんなと言ってくるのである。
自意識過剰じゃないかなあ。僕、あなたに興味ありません、とは本人には言えない。
がしかし、その女性は僕の悪評を上や同僚に広めるのだから、
これは女子本国の味かとおいしかった。
どうやら女性は好きなベテラン中年男がいて、
彼と僕が表面上、仲が良くなかったから、あいつをやっつけてやれ、と思ったようだ。
しかし、実はそれはプロレスで、
彼女が好きな男と僕は、どちらも仲間がいない孤独同士、
休憩時間におなじ喫煙所でぼんやりしていたのである。
そんなところでも、どんなところでも僕はかならず優しいお姉さんキャラの女性に出会う。
もうこれは才能だろう。
いつも僕が困っているとそっと寄ってきて助けてくれる若いお姉さんがいて、
この引き寄せ能力はなにかと怖かった。
半年ぶりくらいに再会したら結婚しており、僕のことをまるで覚えていなかったが、
そのときも彼女は僕のことを助けてくれ、天然の弟オーラがあるのかもしれないと思った。

僕に優しくしてくれた多くの女たちに幸あれ。
さっき今年はじめての読書感想文を書いたが、
あんなもん、だれも最後まで読んでくれないでしょう?
読書感想文なんか骨を折々書いてもだれも読んでくれないが、
早稲田の暴露ネタとかエロ記事を酔っぱらって書き飛ばしたら、
アクセスは増えるし、批判的なものばかりだが反響(コメント)がある。
なぜそうなるかという答えは、
みなさん忙しいし娯楽に飢えているし学問なんてどうでもいいから。
本当は仏教の感想文の長文記事を書きたくて、
そういう対象の本は山のように積まれているのだが、どうにも元気が出ない。
だって、みなさん、そんなもん読みたいかよって話で。
早稲女は意地悪だが本当はお姉さんのかたまりで優しい、とか、
そういう酔っぱらって書いたルポめいたもののほうがせめて読んで退屈しないでしょう?
ある高卒の映画監督が大学教授ぶっていたが、
早稲田の高偏差値女子連中は
彼のことを完全に舐めきって幼稚園児あつかいしていたとか、
そういう本当のことがおもしろいのではありませんか?
俺だってそういう記事は眠りながらでも書けるし、自分で読み返しても笑える。
人間は低劣、愚劣、愚昧という事実を自分をかえりみてわからない人が逆に怖いくらいさ。
人間のあたまのなかってお金と女の裸と自分の評判しかないのではありませんか?
42年ながながと自分のあたまの中身を見つづけた真実はそこにある。
金、女、評判――男はこれよこれよ、これしかない。
否定する男は嘘つきだからチンコを切り取っていい。
「ブックガイド心理療法」(河合隼雄/日本評論社)

→ユングはほとんど新興宗教なのに学問ぶっており、
このためユング派の河合隼雄と新興宗教の創価学会が、
がっちり握手するのは極めて自然な流れであった。
創価学会は中国天台宗の一念三千の教学を重んじている。
人間の一念(一瞬の思い)のなかにあらゆるもの(三千)が眠っているというのが
創価学会のいう一念三千で、これは本来の中国天台宗では、
とても難しい座禅(ものの観方の変容形式)の実践論理として創られたところの、
ひどく難解な(高僧しかできない)修業方法のひとつだったのだが、
われらが日蓮大聖人はあんな座禅マニュアルは「理の一念三千」
だと生意気にもオリジナルの創案者を批判して、
ひたすら南無妙法蓮華経と叫ぶのが末法の世にふさわしい「事の一念三千」
であると主張、布教、強制したわけである。
一念三千というのはファンタジーの類だが、ユング心理学程度には学問性がある。

創価学会の教えはご本尊と呼ばれるカラーコピーに
南無妙法蓮華経と多く唱えれば唱えるほど、
その結果として「祈りがかなう」「夢がかなう」「現世利益がある」
という詐欺と紙一重のものだ。
学会は祈念と功徳を因果関係と説明するからインチキくささが倍増するのであって、、
しかし無学な庶民は「AをすればBになる」式の単純思想しか脳内で許容できず。
だからそれは誤りと指摘したいのではなく、
題目を唱えたことを因として功徳という果がかならず出てくるはずはないが、
題目を唱えたら一念三千の論理で因果的にではなく共時的に、
功徳だが仏罰だかわからなぬ不思議なことが
シンクロニシティックに同時生起する可能性はあるいはあんがい高いのではないか、
とも絶対言えないわけでもないので、
あれだけ創価の嘘を知ったわたしなんかもたまに熱心に勤行をやったりするのである。
南無妙法蓮華経と因果的に功徳が絶対発生することはまあないだろうが、
共時性、共時的ということを考えてみると、
一念三千の世界観がもし真理ならば、
題目を唱えることは理不尽な偶然だらけの世界に対する軽いグーパンチくらいにはなる。

人間は変に悟ったら食えなくなって大損するが、
しかしいくら稼いでも稼ぐほど人生の空虚、無意味、
人間の打算、さもしさに気づきやりきれなくなる。
いくら出世しようと金を稼ごうと、そうすればそうなるほどわかるのが人生の空しさで、
そうかといってい持っている栄誉や財産をぜんぶ捨てるのもそれはやりすぎだとわかる。
表層意識はどこまでも損得や高貴、美醜や貧富の絶対性を説くが、
反面、あるのかないのかわからぬ深層意識は、
すべてがくだらないじゃないかというメッセージを奥のほうから突き上げてくる。

「表層意識と深層意識とをこのように区別したとき、
人間が生きてゆくためには、
その両方についてよく知るべきだと思われる。
この点を井筒[俊彦]は次のような「老子」の言葉を引用してうまく述べている。

   常に無欲 以てその妙を観
   常に有欲 以てその徼(きょう)を観る

常に無欲とは、まったく執着するところがない真相の意識であり、
ここでは、いろいろなものの区別がなくなって、
絶対無分節の[二分法の言葉では言えない]「妙」の世界になる。
これに対して、「欲」はものに執着するこころの在り方で、
そこには「徼(きょう)」が見える。徼は、
「明確な輪郭線[二分法を基準とする言葉]で区切られた、
はっきり目に見える形に分節された『存在』のありかたを意味する。」
「老子」によれば、この両方を同時に見ることが必要ということになろうか。
考えてみると、われわれ心理療法家は、
たとえばクライエントが「死にたい」と言ったとき、
それはどの程度実際に実行するつもりで言っているのか、
なにか他のことを訴えたいためなのか、
治療者に向けての攻撃なのか、などという点で、
できるだけ分節して把握し、「徼」を見ることが必要だが。
一方では「生きることも死ぬことも、それほど変りがない」
とも言える[二分法の言葉ではない]「妙」の世界を見ることも必要である」(P28)


創価学会の婦人部さんに信濃町の会館に連れて行ってもらい題目を唱えたとき、
こころのなか、というか、そうおへその上のあたりに
「妙」という字をイメージしてするのがいいのよ、と教えてもらい、
そのとき以来そのようにしているが、
当時僕は願いも祈りもギラギラした欲望も健康不安も
なにもないまっさらな状態だったから、
あまり学会っぽくないことを指導してくれたのかもしれない。
ここで言われている「妙」の世界は無量光(計測できないもの)、
無量寿(数字にならない単位)の無言語世界、阿弥陀仏にも通じ、
法華経も阿弥陀仏もおなじだろうと僕なんかは思うが、
それを言ったら学会婦人部さんは怖い顔をしそうなので言わない。
信濃町のえらく豪華なビルで教わったのは、念仏は絶対言っちゃダメだとか。

「妙」――言語化(二分化)できない世界を、
損得だらけこの世はバックにたしかなものとして持っている。
それが南無阿弥陀仏であり南無妙法蓮華経であり、
不立文字(ふりゅうもんじ)の禅の世界である。
河合隼雄は長らく禅と詩がわからないとたくさんのところで言っている。
しかし、本書では禅と詩に対する河合のめずらしい、
そして卓越した禅思想、詩解釈が述べられているので大ファンとしては紹介したい。
最初にあらましを書いておくと、河合は
「無言語世界→純な感動(驚き→発見→喜び)→言語化(詩作)→陳腐化」
という禅と詩作にまつわるどうしようもない意識の流れを言葉で説明している。

「著者[上田閑照=有名な禅学者]はリルケの自作慕名碑を借りて、
禅における言葉の問題を説明する。
著者自身の訳によると、それは次のような詩である。

   薔薇(ばら)、おお! 純粋な矛盾、
   幾重にも重ねた瞼(まぶた)の下
   誰のでもない眠りである楽(よろこび)

著者[上田閑照]はこの詩を、
①「薔薇(ばら)」、
②「おお!」、
③(a)「純粋な矛盾」、(b)「幾重にも重ねた薔薇の下 誰のでもない眠りである楽」、
に分けて考える。
①は薔薇の現前、
②は薔薇の現前に打たれた驚きが、言語以前の音声として発せられたもの。
③はその驚きが言葉になって開かれたものである。
ところで、これに対する著者の言葉は注目すべきことである。
「できあがった詩としてではなく、
このような詩句が生まれてくる『言葉の出来事』として見る場合、
②の『おお!』を詩句の全体が発せられてくる源
――根源語(Urwort)――と見る。
逆にいえば全詩句をこの『おお!』の分節と見ることができると思う」。
詩における「根源語」を指摘し、全詩句をその分節として見る、
というところに上田閑照の考えの本質が示されている」(P138)


きつい仏道修行をするか精神病にでもならなければ、
人は自分の本当の感動(驚愕)に出逢えないし、
そこからその非二分的言語以前の感動を自分の知っている言葉を用いて、
(自分なんかにさらさら興味をお持ちくださらぬ)他人様に説明するのは至難のわざ。
そんなことをしてもいっさいお金にはならないし、異性にも好かれない。
しかし大なり小なり人は生きていたら「おお!」という感動を持つ。

「この「おお!」に対して彼[上田閑照]は次のように云う。
「それは単に薔薇に対する驚きではない。
薔薇の現前にあって自己を忘れて『おお!』と言う時、
その『おお!』の直下においては薔薇も忘れられている」。
そこに現前しているのは、日常に知られているバラではない。
それは「名づけ得ざるもの、言いえ得ざるものとなって現前している」。
そこでは「真に驚くことと言葉を奪われることは一つの事である」
という[二分化言語化できない]体験が生じているのだ」(P139)


しかし、河合や井筒のような学者たちが知らぬことだが、
本当の下層民、庶民は「おお!」という言葉さえ知らない。
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経があるとき多くの人を救ったのは、
それは「おお!」の代わりになる言葉だったからだろう。
平成の「おお!」はお江戸の近松劇の「南無三宝!」である。
人生の裏側をたまたま見てしまったときに詩作できたら救われようが、
われわれ下層民の多くは「おお!」や「南無三宝!」でさえうまく発声できない。
こういう事情のため踊り念仏は文盲の底辺男女に、
南無阿弥陀仏という最高真理の(「おお!」に相当する)呪術語を伝えることで、
まさしく言葉そのままのちからで多くの人を救ったのではないかと思われる。

「「おお!」と言う時、人間は言葉を失うことによって「自己の死」を体験し、
同時にそれは「言葉を奪われたところに現前している『言い得ざるもの』
が言葉になる最初の音声」を発したという意味で
新しい自己への蘇生の声でもある。
「『おお!』と言う時、そこには人間の絶後再蘇がある」(P139)


一瞬の感動は一瞬で消えることは、その一瞬における浄土も極楽も証明しているわけだ
「おお!」という感動発見はだれでも可能だが、しかしそのありふれた奇跡の「おお!」を
たとえば「南無阿弥陀仏」のような言葉に感情と意味を移行することができず、
結局はざっくりと「ほっこり」なんていう軽い言葉で言い換えてしまい、
彼(女)は人生の深い味を知るチャンスを逃す。
彼(女)は「生死」を味わうことなく無機質に老いる。「おお!」とさえ言えない。
「おお!」でもいいし南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもいい。意味はおなじ。

「「おお!」と言う時、人間は言葉を失うということによって「自己の死」を体験し、
同時にそれは「言葉を奪われたところに現前している『言い得ざるもの』
が言葉になる最初の音声」を発したという意味で
新しい自己への蘇生の言葉でもある。
「『おお!』と言う時、そこには人間の絶後再蘇がある」。
このような根源語[=おお! 念仏や題目! 二分化できない言語以前の驚き!]
がイメージとリズムによって言葉に分節してくると詩になる。
しかし、そこには常に「根源から離れる危険も蔵されている」ことを知らねばならぬ。
既成の言葉を安易に使用することによって、
根源的な体験から離れたものになってしまうのである。
まして、「おお!」の体験をもたないままで、
詩を書いたりすると、それは言葉の遊戯になってしまう。
「『おお!』をほんとうにに発し得るかどうかに禅の第一の問題がある」
と言うのも当然である」(P139)


こういうのを読むとざっくりとした言葉のなかで、
なんの疑いもなく
ほっこりと生きていける人への言葉にならない「ため息」もらすしかない。
今年はじめて読書感想文を書いたが、要約したら言葉を舐めるなよってこと。

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「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣