女子プロレスのいじめの話をしよう。
ブログ読者さまのひとりも意味がわからないかもしれない。
僕は悪い女の子フェチという病気があって、
女子プロレスでだれがいちばん悪かったのか興味がある。
井上貴子選手が、
自分よりもはるかにかわいい府川唯未選手をいじめていたというのは常識伝説。
府川唯未選手はいじめられすぎて根性が若木のようにまっすぐ(?)曲がり、
長じては自分も後輩いじめをするようになったとか。
(以下、めんどうくさいので「選手」づけをやめる)
豊田真奈美やチャパリータASARIはいじめもしないし、いじめられないキャラと見た。
ダンプ松本やアジャ・コングはあたまがおかしくなるほどいじめられただろうが、
そのぶん、自分はいじめをしないキャラ。
山田敏代はあれは愛されキャラで男からも女からももてたのではないか。
ブル中野さんはガチンコで怖い。
大向美智子もいまならわかるが本気で怖い。
タバコの煙をスパーっと顔に吐き出されたら土下座しかねない。

政治家の神取しのぶさんは、おそらく女子プロレス史上最強で、
天龍源一郎も認めたくらいの男の中の女である。
工藤めぐみの旦那さんがおなじレスラーの非道なのは闇の深さを感じる。
若いころのキューティー鈴木はもっとも完全な美少女レスラーだったのではないか。
かわいい子は性格がゆがまないのが一般社会だが、
女子プロレスではかわいい子ほどこれでもかと先輩からいじめられ、
どこまでも根性が悪くなるらしいのでまったくおもしろい世界だ。頼もしい。
むかしの全女とかすごかったんでしょう?
入場シーンでは水着のわきからおっぱいを触ってこようとする男客が大勢いて、
新人の役目はそいつらを引っ張りだし裏で腕立てとか屈伸とか泣くまでやらせる。
いまでは信じられない世界がむかしの全日本女子プロレスにはあったのだろう。
大勝利作家の宮本輝氏は40を過ぎたら
選民は骨董がわかるようになると成金的なことを仰せになっていたが、
真似をして、しかし俗っぽいことを言うと40を過ぎるとプロレスがわかる。
どこがガチでどこかヤオかなんて、30年以上のキャリアで見破ることができる。
情けないバックドロップで死んだ三沢さんとラーメン屋の川田さんはガチ。
前田とアンドレとかいま見たら一発でわかり、
アンドレはお仕事をしようとしているのに前田が被害妄想でプロレスをしなかった。
結局はタッパ(でかさ)の世界で、
アンドレがガチンコで襲いかかったら前田の首の骨なんてたやすく折れただろう。
要は上から乗っかっちゃえばいいんだから。押しつぶせばいいんだから。
しかし、前田の何倍もギャラをもらっていたアンドレは、
そんな士農工商以下のようなことはできなかっただろう。
いまだにわからないしプロレス界の謎とされているのが、
どうしてドームで猪木が天龍相手に寝て(負けて)、天龍は星を返さなかったか。
あの試合はなまでも見ていたし動画でも繰り返し見たが、
どこがガチでどこがヤオだかわからない。ふたりともいい役者だったということだ。
天龍源一郎は大仁田厚と石川 孝志と渕正信が大嫌いなそうだが、
川田利明と渕が三沢さんのノアに誘われなかった理由は、
川田はガチで大嫌いで、渕は名前を見たらわかるが、おそらく宗教関係。
わたしは三沢さんが嫌いで川田利明が大好きなのだが、
なぜなら三沢さんはくだらないエルボー合戦の創始者だからだ。
いまはどこのリングでも手が空くとレスラーはエルボー合戦をやるよね。
あれは大嫌い。新日本なんか手が空いたらエルボーが始まる。
鈴木みのるのエルボーなんて体重が乗っていないから痛いはずがないのに、
みんな先輩に敬意を表して大げさに痛がる。
だれか鈴木みのるをガチンコでやっちゃえよと思うが、
できそうな顔が見当たらない。
創価くさいと最近気づいた吉田豪ライターが
全女こと全日本女子プロレスはガチンコ(なま)だったのではないか、
ということを書いているのを読んで、
たしかに全女はガチだったのかもしれないと思った。
いじめが大好きな佐々木健介、そのご夫人が元全女の北斗晶だが、
かの女がプロレスで受けた技、
首の頸椎を痛め下半身不随になるかもしれないと医者から言われたという、
雪崩式ツームストンパイルドライバーとか本当に相手を嫌いでなかったらできない。
男子プロレスはヤオ(八百長)だが、女子プロレスの真相はどこまでもわからない。
老人ぶって言うと、いまのプロレスはガチが見えないからつまらない。
男子も女子も。ツームストンはじつはなにより危険な技なのだが、
いまのレスラーは相手のあたまを少しもリングにつけずに寝ころばすじゃないですか。
それってどこが痛いのという見せ技の程度があまりにもひどすぎる。
全女は初代会長の万年東一氏もガチだし(ご興味のある方はご検索を)、
経営者の松永兄弟の死に方もガチだし、
中学を卒業したばかりの女の子をだまくらかしてひと儲けしようという思考法も、
それが実際に成功した時期もあったというヤバい世界。
創価くさい吉田豪ライターの言うように、全女はどこかでガチだったのだろうし、
どこまでガチか知りたいが、いまさら本まで読んで知りたいとは思わない。
ちなみに全女は一度も行ったことはない。
女子プロレスをなまで見たのはWARのおまけについてきたLLPWだけである。
女子は男子にはできないガチンコをやるのでおもしろい。
僕の時代は鈴木メソッドと言っていた気がするが、いまはスズキ・メソードらしい。
バイオリン教室である。
両親への感謝をなにか言えと美少女から命令されたらスズキ・メソード。
3歳からやっていたから、いまでも音楽を聞くと、すべて左手で変換できる。
音感がいいのだ。騒音に敏感だとも。
文学も基本は言葉で、
言葉とはなにかといえば音で、左手で本を読んでいるところがある。
山田太一ドラマのなにがいいかと言ったらセリフで、それは言葉で音である。
山田先生のドラマは音がいいのである。
音ができていない文章を読む気がしない。そういえば小谷野敦さんも音がいい。
あいどん師匠のドラマ・ファン掲示板でいちばん感謝しているのは、
急きょ山田太一ドラマ「輝きたいの」の放送決定を教えてくれた女性である。
シナリオで読んでいるからずっと未視聴だったが、ようやく見た。
「輝きたいの」は女子プロレスをテーマにした1987年のドラマで、
いつ見るか、見ないままで終わるのか、わからなかった。
山田太一ドラマはシナリオのほうが映像に勝っているケースが多いが、
さすがに「輝きたいの」は若いぴちぴちした女の子が登場するぶん、
これは映像のほうが「上」だろう。
山田太一さんは全女こと全日本女子プロレスを取材してこのドラマを書いた。
いいドラマだった。

関係ない話をすると、女のいじめ、全女のいじめって凄まじい。
かわいい子をいじめる。
むかしFという美少女レスラーがいたが、デビュー後、ひどいいじめに遭った。
女子レスラーだから水着でするわけだが、股当てに工夫が必要らしく、
それをいじめられっ子の美少女レスラーFは先輩から教えてもらえず、
前座の試合でハミマンをよくしていて、それを目当てのおっさんもいたとか。
女子プロレスってエロ目線以外で見る人の気持がわからないが、
クラッシュギャルズの時代は女性のファンのほうが多かった。
当時の長与千種選手はいま見ても神々しい輝きがある。
かの女が食った橋本も冬木も死んでいるのが禍々しい、いや神々しい。
納見佳容選手は僕と同い年で好きだった。強くて生意気でかわいい子はいい。
人はいじめられて強くなる。
3歳のころから鈴木メソッドで10年近くバイオリンを習わせてもらったが、
N先生という男のとても神経質な
肉体労働なんて絶対にできないタイプの人に教わっていた。
僕は練習なんかしなかったからN先生からしたら、
お金をもらっているからいやいやしている指導だったのだと思う。
生意気で奇跡のようにかわいい美少女、
龍円愛梨さんもやっていたのが鈴木メソッド。
N先生はいつもピリピリしていて神経が細くて会ったことのない大人だった。
どこかで舐めていたが、あれはクリスマス会だったか。
N先生が弾くバイオリンをはじめて耳にして、ぞっとした。
いままで耳にしたバイオリンで、こんな情感の乗ったうまいものはない。
ああ、この人は本当に先生だったのだと子供心に気がついた。
N先生の冷たさがすべてバイオリンで春のように溶けていた。
できる人は、怖い。
大人になってからシナリオ・センターという三流学校に通い、
学校の古株でプロになんか一度もなれなかった上原正志講師を当てられた。
2回目か3回目の時点で言っているわけである。
勝負しましょうよ。どっちがシナリオがうまいか。書いてみろよ。おまえは先生か?
なにも知らない無学な彼は激怒して上に言いつけて僕を強制退学処分にした。
才能がないやつは徹底的にいじめてやる。才能がある人はただただもう怖い。
でもさ、バイオリンって女の子がしたほうが映えるよね♪
バイオリンをやっている女性の冷たい美しさはいい。
ちょっと人を寄せつけないピリピリした感じで、怖い子というものがいる。
そろばんとかおそうじとかできないが、その音楽部分だけ特化している。
孤独なヒリヒリした才能があるバイオリン女。
冷たい張りつめた厳しい孤独なさみしい才能。
会ったことはないし、会っても僕には養えない。
バイオリンのドッペルって本当に奇跡みたいに冷たくて、そのゆえに美しい。
春よ来るな。

先日ふと素面に返り、こんなことを書いてはいかんのではないかと
今年に入ってから書いた記事を50、60レベルで削除した。
純真な文学中年と思われたいという邪(よこしま)な助平心が緊急発動。
そのくせ、こういうことをまた書いて、どうせまた消すのだが、
高貴な家柄のいいお金持のお嬢さまも好きだが、
きたない女の子を偏愛するところもある。
酒井法子は事件以前まったく興味がなかったが以後きたなさに惚れた。
あの子ってヤクザの娘なんでしょう?
モーニング娘の吉澤ひとみも、ごめん、事件まえは名前さえ知らなかったが、
よごれたいまはあんな聖女はいないと思っている。
悪い女の子、きたない女の子、ずるい女の子、みんな大好き。
でも、飯島愛は嫌い。なにあいつ。さいてい。
いまさらながら白状するが山田太一ドラマが大好きなのである。
こころも身体もボロボロになったような錯覚をしたいま、
最後にすがるのは山田太一ドラマ。
これはたしか5年まえにジェイコムで再放送された昭和50年放送のTBS作品。
戦争未亡人の勤続30年近い女性数学教師が、がまんしてがまんして、
あげく、女性という理由で(おそらく)
学校を辞めさせられた「終りの一日」を描いた1時間ドラマ。
シナリオで二度読んでいたので、長らく映像を見る気にならなかった。
ストーリーなんかほとんど覚えているわけですから。よかった。ないた。
なんで僕はこんなに山田太一ドラマが好きなのだろう。
いまジェイコムで再放送されている「時にはいっしょに」も、
ああ、山田太一さんの味だと思う。
言っちゃあ悪いけれど、いまから見れば(当時は違うだろう)
シナリオが勝っているドラマだが、南野陽子とその弟は本当にいい、
山田太一さんが好きすぎる。正確には、山田太一作品が好きすぎる。
作者に会いたいかと問われたら、相手のご迷惑を考えてしまう。
日本で山田太一ドラマにここまで感動できるのは
僕以外にいようかという変なおごりがあって困るが、そうとしか言いようがない。
山田太一ドラマが好きで好きでどうしようもない。

(関連記事)
「終りの一日」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)
「井上靖全集 第23巻 エッセイ1」(新潮社)

→10年まえ師匠ぶった老女から「謙虚になれ」と怒鳴られたことがあるが、
ここは謙虚になって文豪の井上靖の言葉を拝聴してみようではないか。
井上靖はあるとき、20歳くらいとおぼしき思い詰めた少女から、
講演会終了後に「あたしはもう文学をするしかないんです」と相談を受けたという。
井上靖は文学少女に嫌悪感はさらさら感じず、むしろ好ましいものを感じたという。
微笑ましく思った。しかし――。

「文学するということは何らかの意味で自分をぎりぎりの立場に立たせることである。
人生へのスタートを切った許(ばか)りの
年若い少年や少女にそうした立場が与えられようとは思わない。
彼等はまずそうしたセットに自分の周囲に築かねばならないのである。
私を訪ねて来た少女は何年かして本物の絶望に対(む)かい立つかも知れない。
結婚し、子供を産み、いろいろな人生体験を持って、ふと文学以外
この世に為すべき仕事はないと思うような瞬間が見舞ってくるかも知れない。
そしてその時、なお彼女が文学する気持を失っていなかったならば、
彼女は初めてその時文学する立場に立ち得るわけである。
その時はそれ以外に実際にどうすることもできないからである。
私には、その少女の、映画のセットのように造り上げられた人生への絶望が、
必しも他の場合の嘘のように不快には感じられなかった」(P535)


口調こそ優しいが、書き写すとけっこう辛らつなことを言っているような気もする。
若くてかわいい金持の女の子が文学するなんて言うもんじゃないぜ、とも聞こえる。
井上靖いわく――。
「彼等はまずそうしたセットに自分の周囲に築かねばならないのである」
これはおのずから不幸の獣道(けものみち)に入って行けと言っているに近い。
よく知らないが、いま文学をするというのは、
大学院へ入って小説を書けない評論家の教授からセクハラされることなんでしょう?
批評理論とか構造とか、わたしもよく知らないので書けないのだが。
井上靖は少年のころから文学への志を持っていたという。
そのことを厳しい伯父に言うと男は優しく励ましてくれたらしい。

「お前は文学が好きらしいから文学をやるつもりかも知れんが、
まずめしは食えんと思わねばならぬ。(……)
――文学もいいだろう。医者になって貰えなくて両親は嘆くだろうが、
まあ、それもいいだろう。人に理解されず、一文(もん)にもならぬ
しち面倒臭いことを書くのも面白いかも知れぬ。やんなさい」(P48)


井上靖の文学への目覚めは中学時代に国語の授業で
谷崎潤一郎の「母を恋うる記」、芥川龍之介の「トロッコ」を読んだことだという。
どちらもまるで「自分のことが書かれてるのではないかと思った」。
「自分の分身」を発見したような気になった。
繰り返すが、「自分の分身」を発見したことで文学のおもしろさに井上靖は気づいた。
井上は高校時代は柔道に夢中になり、
そこで出会ったTという先輩に努力量が諸部を決める寝技の柔道をやろうと誘われた。
井上靖はそれに賛同し寝技ばかりやったが、そこで現実を知る。なぜなら――。

「T自身、三年間猛練習したのに拘(かかわ)らず、
彼は三年の時の一番大切な試合に中堅級の選手として出場して敗(ま)け、
彼が敗けたことが全体の敗因を作ってしまった。
試合に敗れた時のTの顔を、私はいまも思い出すことができる。
彼はその時何も言わなかったが、その時のTの顔からも亦(また)、
私は大きいものを貰っている。人間はいくら努力しても、
敗れる時は敗れるのだということをTは身を以て経験したわけで、
それはそのことに対する怒りと絶望の顔であった。
この時、Tの若い者としての夢は破れ、
現実の冷たさが彼の眼に白い牙(きば)をむいたのである。
人生というものがどううものか、その時Tも知ったであろうし、
また私もTに依って、そのことを知らされたのであった。
私の若い友達の中で、最も懐しい友の一人である。
彼が生きていて、当時のことを話し合えたらと思うことが屡々ある」(P61)


「人間はいくら努力しても、敗れる時は敗れる」――。
そういう冷たい現実にどう向き合ったらいいのか。
井上靖の好きな言葉はまえにも紹介したが「養之如春(ようしじょしゅん)」である。
之を養うや春の如し。

「私はこの「養之如春」を自分流に勝手に解釈して何事にも当てはめている。
また何事に当てはめても、そのまま通用する言葉である。
春の光が万物を育てるように、凡(およ)そ人生の事柄というものは
気長にのんびりとやるべきである。
一朝一夕にそれを育て上げる態度をとるべきではない。
愛情を育てるにも、子供を養育するにも、病気を直すにも仕事をするにも、
宜(よろ)しく春の光が万物を育てるが如くすべきである。
私は温室栽培も、促成栽培も嫌いである。
春の光に依って、徐々に、昨日よりは今日、今日よりは明日と、
次第に大きく育って行ったものが好きであるし、
自分がものを育てる場合も、そうした態度が好きである」(P586)


のんびりしている「とりとめもない」ときに創作のアイディアは生まれるという。

「……小説を書く上に、ものを考える時間が一番大切であるからである。
暇な時間ができたから、さあ、ものを考えようといった、そういう考え方ではなく、
自然に向こうからやって来る思いを、ごく自然に受けとめて、
その中にはいって行くことができるようなそんな時間が欲しいのである」(P443)


ファンだから記録しておくと煙草は1日に50本。
朝食も昼食もほとんど取らず、夕食に1日の栄養をすべて取るという。
酒は日本酒を1本か2本で銘柄は白鹿。外食時はそうではない。

「私は酒を飲み出すと、出てくる料理を片っぱしから平らげる。
酒を飲み出すと、何でも美味く食べられるが、美味いものが沢山出た方がいい。
その点甚だ野暮ったい酒飲みである。
だから肴のない酒もりなど、私には意味がないし、味気ない。
大体料理を食べ終って、もう料理はたくさんという頃になると、
日本酒を洋酒にきり替える。ブランデーでも、ウイスキーでも、
料理など見向きもしなくなってから、うまく飲めるし、気持ちよく酔える。
よくしたもので、オードブルは日本酒は日本風の、
洋酒は洋風のものがいい。洋酒は生(き)で飲む。
水やソーダで割ったのは飛行機の中だけ」(P638)


満腹になってから酒なんか飲んだってうまくはないと思うが、人それぞれか。
「沢山」と「たくさん」の同時表記は原文のママ。
原文は「酒」とかいう出版社もわからぬ雑誌に掲載されたもので、
こういうものは新潮社さまの校正者は統一したくならないのだろうか。
いや、しなくても別に構わないのだが、ちょっと気になった。
このあと24巻、25巻と続きます。

いまさらながら師匠を求めたほうがいいのだろうか?
しかし、わたしの年齢だとすでに師匠として大家になっているものも多いし、
30歳くらいでもコーチングやなんかで怪しげな師匠になっているものもいる。
仏教の師匠はひろさちや氏だが、
あの人は師匠とか弟子とか、そういうウェットな関係は嫌うのね。
ひろさちやさん自身も仏教の師匠はいない。
河合隼雄はもう死んじゃったし、教わるというかあれは治療関係だろう?
河合心理学は隼雄がいちばん嫌った家元制度になり息子が組長をしている。
中島義道は授業料は安いのだろうが、西洋哲学に毛ほども関心がない。
小谷野敦はあっちもおなじことを思っているだろうが、
なにをされるかわからないので怖い。
高いご本を送ってくださった精神科の春日武彦医師は医療サービス関係になる。

没後弟子という在り方もよく、わたしは河合隼雄の没後弟子(あくまでも自称)だし、
仏教でいえば踊り念仏の一遍がいちばん親しみを感じるが、
親鸞とは異なりカルト狂騒的で、厳格な師匠というイメージではない。
宮本輝は目下のものを奴隷のようにあつかう創価根性の持ち主だ。
山田太一さんは心の師匠で、いつもこんなとき、
山田太一だったらどうするだろうと考えるくせがついている。
いまでも過去の講演会の記録を読み返すことがある。
しかし、山田太一関連にはあいどん師匠という古株の大物がいて、
わたしのように彼に嫌われると教団の末端にも存在を許されず破門される。
あいどん師匠は山田太一が死んだあとに、かならずや大物ぶる筈である。
「死人に口なし」でじつは自分は山田さんからこういうことを聞いた。
山田さんからいちばんの弟子はおまえと言われたとか口にしかねない。
ちなみに池田大作は戸田城聖相手にこれをやっている。三代目はきみだよ。
池田の弟子の宮本輝も(とっくに死んだ)井上靖相手に
これをやって大物感を出している。
基本的に山田太一さんは、創作なんか教えられるもんかよ、という立場だから。
自分の世界を深めてくださいくらいが山田太一の創作論になろう。

仏門に入るという選択肢もなくはないのだろうが、
どの坊さんにお金を払えばいいのか。いまさら仏教大学なんか入れませんよ。
そういう試験を通過する自信がない。
偏差値40の大学にも落ちるというおかしな自信がある。
で、大学でいまさらサンスクリット語を学んだって、ねえ?
いかがわしい国のいんちき教祖と酒を酌み交わしマブダチになって
(わたしはそういうのが意外とうまい)、伝道師みたいになるのがいいのかなあ。
上納金もぶっちゃけ後進国は安そうだしね。
むかし弘法大師の空海がやったことである。
去年、原一男教授にあなたは映画観も芸術観も人生観も
すべて間違えているとご指導いただき、自称弟子のつもりだったが破門された。
我われは仏のように世界をそのまま(諸法実相、眼横鼻直)
自然に見ることができず、常に二分法で考えるくせがついている。
なぜならそれは人間は言葉を持っており、
言葉は世界を分ける機能がついてるからである。
混沌としたいわば闇のような世界から光のような言葉が生まれたとき、
すでに「闇/光」という二分法が始まっている。
そもそも闇の存在は単体では証明できず、光という対立概念を出すことで、
闇の正体がまざまざとわかるようになっている。
「あ」という言葉の意味は、「い~ん」ではないことである。
「A」は「B~Z」ではないことで「A」の意味を帯びる。
ならば、世界=私は「あ~ん」「A~Z」の組み合わせである。
しかし、そんな複雑なことを考えるより話をはっきりさせることを人は好む。

たとえば、善悪や損得や美醜だ。
とくに善悪ほど我われを悩ませる対立概念はなく、
いつもあいつが悪いとか、自分が悪かった、家族が悪い、会社が悪い。
そんな感じで善悪の問題にばかりとらわれている。
このため、悟りは「善悪不二」と
説明されることもある(善悪は二つならず/善悪はおなじ/善も悪もない)。
ほかには要するに善悪という言葉にこだわっているわけで、
「不立文字」(ふりゅうもんじ/言葉以前の世界に立ち返る)と
禅ではいわゆる悟りのことを説明することがある、
南無阿弥陀仏の世界は、阿弥陀仏は原語の音訳で、
意味で訳すと無量寿仏 無量光仏になる。
これは計り知れない大きな光の仏ということで、
この阿弥陀仏の大光、大輝に照らされたら、
言葉の意味(善悪)なんて消えてしまい、そこに在家の庶民の救いがあった。
南無妙法蓮華経の悟りはよくわからず、大金を稼ぎ異性と健康な家族を維持し、
絶対善の自分が絶対悪の仏敵を打ち倒すドラマ性にあるのかもしれない。

いまわたしはどのくらいの仏教レベルですか?
しかし、そんなのをいったいだれが判断できるのだろう?
母は僕の目のまえで計画的に自殺してめんどうな血だらけの死体処理をさせた。
そのうえ家族や血族への悪口日記もまったく処分せずそのまま残した。
そんなに自分をぜんぶ放り投げるなよと19年経過したいまでも思う。
されたほうの思いを考えろよ。どれだけ辛いかわかってんのかよ。
母親は子どもをコントロール(支配)したがるというが、
母はそれを完全な形やってのけたのである。でも、それをしちゃいけないだろう?
父も母も好き勝手に生きたし、母はまさしく言葉そのまま好きなように
息子をいちばん苦しませる形で死んだし(それも永久に生きているかぎり)、
父も好きなように生きて好きなように死ぬつもりなので(永久に死なないと言っている)、
もう僕も血の流れのままに好きなように生きてもいいのではないか?
それをやっちゃダメなんだよ、いつも偉そうだったお母さん。
もう泣きたい。というか、いまもう泣いている。
なんで僕がおまえらの子なわけ? なんで、どうして? ま、そこが仏教の入口。
僕の父は心底からの仕事人間でいつも忙しい、忙しいを繰り返し、人を急かし急かし、
急げ急げと大声で騒ぎまくり、いつなんどきも仕事で、だれが死んでも仕事で、
まともに話したことなんかないが、結局最後はどうなるんだろう?
従業員のことをファミリーと呼び、家族よりもたいせつにしていたが最後はどうなるの?
先日さみしくて孤独感が増し、どうしようもなくなり、最後の砦である父に電話したが、
最後はなんとかなるんじゃないかなあ、とまるで僕そのままなので、血は恐ろしい。
あとは野となれ山となれ。あとのことは知らねえよ。
そんな生き方はずるいだろうと思うが、
思えば僕もそんな感じで生きているわけで血は争えない。最後はどうなるんだろう?
父は自分がいつまでも死なないと信じている。
かたくなに信じている。自分は死なない。男は仕事だ。仕事よりたいせつなものはない。
おれは間違っちゃいないね。いまでも鼻息が荒く、昭和の男、仕事人間はただもう怖い。
うちのブログの男女比がむかしから書いてきているが知りたい。
こんなブログを読む女なんかいないと思ういっぽうで、え? あれ? と思うこともある。
僕は「土屋さんって女の子みたい」とかつて女の子から言われたくらいの女子脳。
本当のキラーは女だって聞くし、そこらへんどうなのだろう。
僕としては(読者の)男から好かれることも
(読者の)女から好かれることもブログには書いていないし、
いったいだれがお読みくださっているのか興味が尽きない。
女性でも男性でもこころを言葉でレイプしたいという不純な動機がないわけではない。
人って本当に言葉に生かされも殺されもする。映像なんか目じゃない。
言葉は相手の脳神経の機能そのままを攻撃も保護もします。
おもしろい仕事なんかないっしょ? 仕事が趣味なんて精神科に行ってください。
いままでやった仕事でいちばんおもしろかったのはシナリオ仕事だなあ。
宮本輝と林真理子の、あれはなんだったかなあ?
シナリオにしてくださいと言われ、好きなように書いていいと言われ、
本当に好き放題に好きなように書き換えたら、
注文主はここまで好きにするとは思っておらず、解任の運びとなった。
ギャラは10万円だった。
いっぱい書き直して最後の映像化まで行けば100万もらえたらしい。
どうしてみんな脚本家なんかにあこがれるんだろう?
書き直し、書き直し、それでも最後の書き直しで、
とことんまで自分を壊される作業で、ギャラもよろしくない。
「あたし、一応ライターやってます」とか女仲間に自慢したいのだろうか?
しかしまあ、いちばんおもしろかったのはシナリオ仕事で、いきなり突然切られたが、
ああ、現実はそういうものなのかという勉強になった。
おもしろかったといえば時給850円の書籍倉庫もいろいろネタをいただきました。
思えば人生、好きなことしかしてこなかったなあ。いろんな人に助けられた。
むかしから損得ばかり考えてきたし、いまもってその傾向は変わらないが、
そして損得を配分するのは神とか仏というやつらになっているが、
あいつら本当にデタラメで、たぶんこっちのことなんかまったく考えていないぜ。
神に祈っても仏に祈っても損得の配分は変わらないし、
逆に神仏を好きな子ほど悪さを仕掛けてくるような底意地の悪さがやつらにはある。
あいつらはマジキチ。僕はあいつらがいることを実体験として知っているがマジキチ。
だから、こうして悪口を言ってもいいや、という結論になるわけである。
あいつらは人間の行為とはまったく関係なく、大金や難病を我われに与えたもう。
貧困も健康もあいつらしだいで、しかし、あいつらはまったく我われの声を聞かない。
政治家なんてものじゃないほどあいつらはデタラメでマジキチ。
そこの学会員、勤行なんかしても仏は声を聞いてくれないが、
好きなら好きなだけしてくれ。
仏教とか文学とか気が狂ったようにおもしろいが、
にもかかわらず一時期はそれを忘れかけていて、
もう適当に死ぬまで適当に生きればいいじゃんと思っていたのだが、
そんないいかげんな自分を変えたのは他者(←ふるくさっ)で、
じゃあ、なんでそういう人と会ったのかというと運と考えるしかなく、
そうであるならば、もてる努力やもてる工夫、もてたいという欲望なんか
神仏からしたらすべて意味がないのではないかと、いま悟ったふりをしたのだが、
本当のことはなにもかもわからず、本当の自分さえわからず、
本当の他者を知ろうなんてそれこそ甘い考えで、
でもでも僕僕、本当のことを知りたいし、
本当のことは女性が知っているという気がしてならない。
読む人が読めばわかるはずだが、
今年に入ってから文章が小説文体になっていませんか?
まえは短文ばかりだったが(自分は息の長い文章を書けないと思っていた)、
いまはなんとなく書けちゃう。むろん、むかしのほうがよかったというお声もあろう。
アクセス数は減るばかりなので、いまが「正しい」のかはわからない。
むかしのほうが仏教の熱い記事を書いていたのは僕も認める。
中性的な「わたし」という一人称を避け、
男男した坊ちゃんぶった「僕」を最近は使うことが多い。
師匠もいないなかで、
これだけ仏教と文学を独学するなんて僕はあたまがおかしいのではないか?
コメント欄で金持になれば女にもてると書かれ、
そうとも言えないだろうと現実を知っている僕は、
才能に惚れられたいなんてバカなことを考えるのである。
しかし、いままでの自他の経験からしても、
人の才能に惚れることはあるんじゃないかなあ。
僕も人の才能に惚れたことはあるし、惚れられたことがあるなんて、
そんなことは口が裂けても言えない。
映画監督のH教授は才能を惚れられるのがお上手で、奥さまのK教授は、
夫をいわば略奪愛したのだが、
いま思うのはK教授の新潟の実家はかなりのお金持だったのではないか?
というのも、H教授は若いころ働いていた形跡がないし、
あの人は僕のように嫌いなことはやらない主義だし、そうなるとそうなると……。
H教授はKさんの家の養子に入っていることから考えても、おそらくおそらく。
しかし、H教授は奥さまをしっかり客員とはいえ教授まで引き上げたわけで、
下半身の問題はいろいろあるにしろ、きちんと仕事をしたとも言える。

おれの才能に惚れろよ! なんて言える年齢なのかどうかもうわからない。
「僕って何」は三田誠広の芥川賞小説だが、僕っていったいなんなのだろう?
匿名の悪口とか批判コメントがやたら来るのだが、もう最近は消すようにしているが、
本当になにかおっしゃりたいのならばメールや電話をしてくればいいじゃないか?
複雑な本当のことは公然の場では言えないに決まっているじゃないか?
しかし、いくら卑怯なことをしても罰は当たらない。
だから、やってもいいし、自分の満足、快感のためにそれをやるのは正しい行為だ。
ばれなかったらなにを言ってもいいし、
人がひとり自殺したって自分の歯痛ほども気にする問題ではない。
人を苦しめたって、自分は痛くもかゆくもない。
ばれなければなにをしてもいい。
匿名の悪口や批判がきつすぎてやめてと思うが、
相手はそれを楽しいからやっているのでやむことはないだろう。
そういう面では僕も人のお役に立っているのだろう。
僕なんかこのブログもそうだが、
絶対に読んでくださったお客に損をさせたくないと思っている。
学問なんてどうでもよく、ただただ読者のみなさまにおもしろかったと思ってほしい。
不幸ネタなんかもぶっちゃけそんな感じで、人の不幸っておもしろいでしょう?
それでも書いてはいけないことは書いていないし、それは関係者ならわかるだろう。
あのネタも、あのネタも墓場まで持って行く。
原一男教授はあまりにも調子に乗りすぎていたからガチを仕掛けたら、
あの人は結局は自分は大学教授だ、おまえよりも偉いと返してきたが、
まあ、人間なんてそんなものだろう。
じつはそうとも言えず、小さな映画会場に入るまえの原一男教授を見たら、
本当にまわりにだれもいない淋しい孤独な絶望的な顔をしていて、
原さんはやっぱりおもしろい尊敬に値する人だと思った。
奥さまの小林教授も僕のことを覚えていてくれたのだろう。
足が悪いなか1階まで来てくれて、いまだから白状するがその厚情が胸にしみた。
優しい人たちだと思いました。ありがとうございました。
創価学会の教学試験を受けろと言われたことがいままでに二度ある。
あんなもんマークシートで人のなにが測れるのかって気がするね。
それにいまの僕の記憶力は全盛期から比べたらかなり落ちていて、
教学試験の最低問題でも回答できる自信がないし、
そもそも興味がないものを勉強できないし、
それは余命がどのくらいあるかわからないからだ。
創価大学の校歌は大好きだし、あれを作曲した人は天才だと思う。
今度、八王子に創価桜を見に行きたいと思っているくらいだ。
念仏も題目もおなじという新興宗教をできないかと年上の女友達に話したら、
できるんじゃない、やっちゃえ、やっちゃえと言われたが、弟子がいない。
正直、僕なんかそのくらいの相手だと理解しているが、
いっしょにいるときにスマホをいっときも欠かさず見られるとしんどい。
それは経済効率的にはそのほうが「正しい」のだろう。
見るななんて経済効率の低い僕にはとても言えない。
関係ない話をすると、仏教や文学は読んだ書籍の量ではなく、
どのくらい自分のあたまで考えたかだ。
僕は「歎異抄」も「一遍上人語録」も100回以上読んだが、
なにかを理解するとはそういうことではないか?
量ではなく質ではないのではないか?

たとえばバイオリン。
あんなものは才能の世界でいくら練習を繰り返しても、
音楽のこころをわかっていないやつは言っちゃあ悪いが人を感動させることはできない。
しかし、芸術は経済効率ではないと気づくとなにをしたらいいかわからなくなり、
それは「遊ぶ」ことが必要だったりするが、
なにが「遊び」かは人それぞれで、
本当に身体全体で「遊び」の世界に溺れ入ることのできる人は非常に少ない。
結局、僕のしたいことは仏教と文学で、もうこんな年齢だし、
どのみち引き返す道はないし、
だったら文学と仏教を本気でやってやろうと思っている。
仏教とか文学とか本当の真実の不幸を身体で体験しないとわからない。
僕は踊り念仏の一遍がいちばん好きで、
なぜならあいつはカルトの元祖と言ってもよく、
若い尼さんにミニスカートの着物をまとわせ、女陰をあたまのようにつるつるにさせ、
それを見世物にすることで金を稼いだからだ。
一遍はその意思はなく、おそらく時宗二代目の他阿真教の企画だろう。
他阿真教の偉さは一遍のカリスマ的カルト的な才能をいちばんはじめに気づいたこと。
一遍時宗集団がどうやって生きていたなんて、
念仏札を配って、お布施をいただいていたとしか思えないが、
それを、それをだ、「宗教は金になる」と気づいた他阿真教はえれえやつだ。
いま生活とか将来の不安とかどうでもよくなり、ひたすら文学と仏教にのめりこみたい。
一生をかけるに値する仕事が(個人では金にならない)文学と仏教ではないかと思う。
佳子さまが天皇陛下になって、(高みから)ダメじゃない? 国民、ぜんぜんダメじゃん。
つらたんはわかるが、もう国民、燃えたんしかないぽ。燃ゆす、燃えぱん、燃えたんたん♪
こんなことを言うしかないほど国力は下がっているのではないか。
佳子さまが天皇になったら、仕方ないか税金でも払うかという気持にみんななるのでは?
佳子たん、かわゆす、つらたん消えす、佳子さま佳子さまアイシーユー。
国際基督教大学。英語ぺらぺ~ら。緊急提言。
現代の立正安国論として安倍首相に物申すが、佳子さまを日本の最高元首にしろ!
そうしないとこの国は亡ぶ。外国が攻めてくる。国難は広がるばかりである。
だから、佳子さまはかわいいのである。
昨日、お土産でもらった沖縄のハブ酒とかいうわけわからないものを、
せっかくだから早く感想を言ったほうがいいのかなあ(このへん世間知らずゆえわからん)、
とロックで飲んでみたのだが、瓶に本当のハブが入っているのが頼もしいとも怖いとも。
味は高級ウイスキーに近く、決してつまみが食べられない、それだけでしか飲めない酒。
食前酒か食後酒にしかならない。滋養がたっぷりの味がする。
命を感じさせる味で、男として命として女を求めてしまいたくなる味。
一気には飲めない怖い味。やるかやられるかの味がしたアルコール度35度。
正直、いま女への関心が下がっているのだが、命の味に気づいたかなって感じがする。
僕、インテリだからなあ(どの顔をして言うか! ばかやろう!)。
やっぱり女体にむしゃぶりつきたいなんて性犯罪的なことを考えた。
やはり興味の関心は「なんぼやの?」にあるわけで(お礼の問題もある)、
金額を調べたらなまのハブ入り800mlで1万円のものとしか思えない。
僕さ、最高の売価の高い飲んだ酒って4千円くらいだよ。
価格を調べないで飲んだから、純粋だったのかもしれない。知っちゃうと怖すぎる。
僕は基本的にどの人の話も、その人が生きている物語として拝聴するが、
彼の自称収入でこれはないだろう。
昨日、僕は彼の期待に答えられたという自信がまったくない。
バックがいそうだなというのは最初のときから察知したが、
それは踊り念仏の寺だったから創価学会ではないだろう。
2回目は原一男教授との再会であんなメイクドラマをできるのは、
よほどのブログのファンだろう。
若い彼にできないとは言えないが、あれはもっとおとなのバックがかならずやいる。
そんなもん創価学会しかないのだが、最初が念仏のお寺だからそうではないだろう。
わかんないよな、この人生。そこがおもしろい。
「「酒」と作家たち」(浦西和彦:編/中公文庫)

→信濃町の博文堂書店で買ったあそこならではの良書である。
ディスプレイこそ本屋の才能やで。
昨日さ、なんかさ、「本の山」の大ファンだという若者に誘われ飲んだが、
その後に創価学会の信濃町に行こうという話になり、まじか冗談かわからないままに、
お土産屋に到着し、彼は「必勝」の三色鉢巻を買った。
もうここからはパワハラだよね。つけろって言ったもん。いまここでつけろ。
走らなくてもいいがこころは必勝で疾走体制でだれにも負けるなよ。
そして、彼はやってくれたのだが、絵画的にちょーおもしろい。
その三色鉢巻を信濃町でつけたら通報も報道もできない本当の極道。
なによりも悪い行為。
僕もさ、彼とはちょっと違いを出したくて「常勝」の鉢巻95円を購入。
信濃町でこのくらい酔っぱらっていたらつけてもいいかと自己判断してつけてみたら、
周囲の自分を見る目がまったく異なる。
あの人は池田先生かってレベルでみんな僕を見てくれる。
学会の上のほうの幹部でも三色鉢巻をつけて町を歩ける人はいないでしょう?

なにが言いたいのかって酒の薬ぶり毒ぶりはひどいなあ。
ノーベル賞作家の川端康成はまったく酒を飲めない下戸だったが、
ゴーゴーバーに行き、
ミニスカートの若い女の子の生命そのものといった生足を見るのを晩年まで愛したらしい。
尾崎士郎は朝から酒を飲んだ。サラリーマンと作家は異なるとかたくなに信じるがゆえ。
「晩菊」林扶美子は本当に「晩菊」だったようだ。
高見順は演技過剰なおもしろいやつ。
「例えば太宰治は、酒を飲む人だったが、飲んでいないときの彼は、
醒めすぎるほど醒めていた、と思う」と青山光二は言っている。
亀井勝一郎は太宰治に酒の味を教わった。
いつも朝から書斎に引きこもったが、机のわきにはいつもウイスキーの角瓶があった。
.中上健次の酒がひどかったことは「文芸首都」の保高みさ子が証言している。

「昭和四十五年新年に「終刊記念号」を出し皆様にお贈りしたが、
その打ち上げ会を自宅でやった時、
一同、悲愴、かつ感傷の思いにかられ盛大に飲みまくった。
中でも若い中上健次は強力無双、体力絶倫、
K[柄谷じゃねえの?]という細い同人に
掴みかかり雨戸もどとも庭に投げ飛ばしたり、
キスをさせろと私を家中追いかけ廻し、私は夫の病室に避難したりした。
彼の妻君の紀和鏡は怖れをなしてトイレに閉じこもり
私に百十番に電話してくれと頼む。
ようやく皆で暴れる中上健次をなだめすかし帰る方向につれ出したが、
近所の人は何事かと遠まきに見送り、
私は彼の払いのけようとした手で、
したたかに石垣に頭をぶつけ、大きなコブを作った。
酒に於ける最後の修羅場である」(P111)


関係者から聞くと、いまは本当に酒が売れないらしい。
いまの若い子は酒を飲まない。飲んでも家でコンビニエンスに済ます。
むかしながらの居酒屋なんかほとんど赤字で商売にはなっていないだろう。
だから、お酒のちょっといい話か、かなり悪い話か。
晩年の山本周五郎はアル中が進行してひどかったらしい。

「死の間際には物を食べず、ウイスキーだけをのんでいたようだ。
本当に彼はものを食わなかった。
横浜の花街の小さな料亭に、いつも四、五人の芸妓を集めて、
沢山の料理をご馳走して、彼女たちが食うのを楽しそうに眺め、
自分では何も食わなかった。
「皆いい子だよ、この妓たちも淋しいんだよ」
とさながら娘たちをみる父親のような顔をして私に語ったことがある。
この芸者たちに親切にしてやっている間に、
彼女らは、自然に自分たちのたどって来た道、
日常の身辺雑記を語ってきかせるようになったらしい。
彼の小説の女がそこにあった。
彼は彼女たちから庶民生活の実態を吸い上げていたに違いない」(P208)


昨日の晩、酔っぱらって長年の周五郎ファンの女友達に総武線から電話して、
相手はかなりの迷惑だっただろうが、それこそ文学かもしれない。
日本で公衆の面前で昼から酒を飲めるのは花見の時期しかないが、
だれか花見に誘ってよという結論でまとめるが、文句なんてございますでありましょうか?

「ほんとうの親鸞」(島田裕巳/講談社現代新書)

→創価ウォッチャー島田裕巳ライターの本はまったく勉強になる。
やはり大学から在野のライターに落ちると才能の化学変化がいい意味で起きるのだろう。
著者は創価学会をよく知っているから本物と偽物の相違に敏感である。
本物なんか金と人脈でいくらでも創価創造できることを、
創価ウォッチャーの島田裕巳ライターはよく知っている。
明治時代まで親鸞不在説(本当はいなかった)があったらしく、
それをくつがえしたのは本願寺から発見された
たくさんいた妻のひとりだったとされる恵信尼の書状らしいが、
それが偽造ではないかとわたしはまず疑うし、
おそらく本書には書いていないが島田ライターもおなじようなことを思ったことだろう。
浄土真宗といえば天皇家とも婚姻関係があるし、経済界とも通じている。
手紙を偽造するなんて鼻くそをほじるほど楽な行為だっただろう。

わたしは著者の言うように親鸞は3代目の覚如が自分を権威化するために
創価創造した虚像だったと思うし、親鸞は法然の末弟でもなく、
法然の顔をごくたまに拝謁できる下も下の小坊主だったと思う。
親鸞の主著とされる「教行信証」も後世の捏造(創価創造)で、
その証拠は、あの本は経典の引用だらけで、親鸞の考えのようなものはなく、
後世の複数の仏教学者が創価創造したという疑惑があるからである。
優秀な島田ライターの調査によると「教行信証」には師匠とされる法然の
「選択本願念仏集」からの引用は、
あれだけ大量の引用のなかで、わずか一箇所しかないないらしい。
絶対他力を説く親鸞が自力でくそ長い「教行信証」を書くのがそもそもおかしい。
親鸞が法然の「選択本願念仏集」を軽視したのは、
そんなことをしたら浄土真宗は浄土宗の子分になってしまうからで、
そう考えると「教行信証」が後世の捏造(創価創造)という説への信憑性も高まる。
親鸞が流罪になったのも嘘ではないかと島田ライターは書いており、
たしかにそうで、
流罪にされたというといかにも法然の高弟だったように思わせることができる。
親鸞が流罪にされたという越後に流罪されたものはいなかったという。
つまり、流罪にするにも値しないほどの毛坊主ではなかったか。
流罪にも値しない毛坊主だったから京都にすぐに戻る必要もない。
親鸞の家が貴族だったというのも
後世の捏造(創価創造)ではなかったかと島田ライターは指摘している。
皇室と血縁関係にある大谷家がどん百姓出身ではしまりが悪いのである。
息子の善鸞への義絶状(絶縁状)も偽造(創価創造)だろうとライターは言い放っている。

わたしはむかしは親鸞を好きだったが、
三代目の覚如の本を読んで彼らの血の汚さにうんざりして、
「歎異抄」を読み返すたびに本当の天才は唯円だったような気がしてならず、
浄土真宗なんて「悪いことをしてもいいよ」「女をいくらでも抱け「肉でも魚でも食え」
の死ぬほどイージーな教義のため、
坊さんも信徒も増えたのではないかといまでは思っている。
いま大活躍している創価ウォッチャー島田裕巳ライターの言葉を聞け。

「要するに、親鸞にかんしては、その人物も、その生涯も、
そしてその思想もひどく曖昧なのである。
逆に、曖昧であるがゆえに、後世の人間は、それぞれが勝手に
独自の親鸞像を作り上げることがことができたとも言える。
実像が明らかでない分、虚像を作り上げることが容易なのである。
『伝絵』を作った覚如は、そうした状況を利用し、
自分にとって好ましい親鸞像を作り上げていった。
覚如は、親鸞の血を引いており、親鸞を偉大な人物として描き出すことで、
自らの立場を権威づけようとしたのだ。
親鸞は公然と妻帯し、その信仰は、
親鸞の血を受け継いだ者たちによって継承されていった。
それは、日本の仏教宗派のなかでも、浄土真宗だけに起こったことで、
他の宗派では見られない事態だった。
本願寺は現在二つに分かれているが、
その頂点に位置する法主には、どちらも親鸞の血を受け継ぐ人間が就任している」(P19)


(関連記事)
「執持鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)
「口伝鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)
「改邪鈔」(覚如/石田瑞麿訳/平凡社東洋文庫)
「歎異抄」(唯円)←長文です

「医者の逆説」(里見清一/新潮新書)

→著者は日本赤十字社医療センター化学療法科部長(2018年)。
感銘を受けるばかりの本だったのでひたすら内容を箇条書きにする。

・「延命治療に年齢制限」は政治家がみな言いたいことだが、
それを言ったら「選挙にならない(勝てない)」。
・末期ガン患者が最後に頼るのは民間療法。真実は自分の言ってほしいこと(治る)。
・治っても治らなくてもおなじ料金というのはおかしいという説もある。
・患者に「がんばれ」というのは自己責任論の強要のようでむごい。
・高齢患者に「もういいじゃないか」は思っていてもだれも言えない。
・医療選択肢として希望があるとダメだったときに絶望は以前よりも深まる。
・新薬治験はよいデータがほしいので状況が悪い患者には使えない。
・高額新治療は死ぬまでやり続けるしかない。
・介護が地獄なのはいつ終わるかわからないから。
・奇跡的医療は患者や家族の「いつ死ぬか」という思いをつぶす。
・医学論文は一部コピペをするのが常識。先人の知恵ありきの論文。
・週刊現代の「薬を飲むなキャンペーン」号は売れた。
・科学的な百に一つの当たり(新発見)を目指せは九十九の外れを大目に見ろってこと。
・激戦区の高校球児は鳥取島根、青森福島といった田舎高校に留学する。
・そういう本当のことを朝日新聞は書かない、書けない。
・高校野球部の喫煙、飲酒、暴力事件はよくあるが新参校ほど密告される田舎の陰湿。
・選挙の出口調査は待てばいいだけなのに実行するのは意味不明。金の無駄遣い。
・結果は待つしかないのに、その結果を待てずになにかしたがるのは異常。
・人間は中腰で待てず、イチかバチかの戦法を取りたがり大敗戦する。惨事を招く。
・末期ガン患者は大金をかけ大博打に出るよりも、いまの平穏状態を満喫しよう。
・数字データだけが医療の勝負か。
・85歳の寝たきりの意識不明の老人を
86歳まで生きさせることになんの意味があるんだよ。
・万民を脳内ハッピーにする薬を開発してそれを散布したら人は幸福になるか?
・患者に本当のことを言うのは絶対的な正義と果たしてそこまで断言していいのか?
・ガン放置理論はとんでもない事態になることも少なからずある。
・手術をして延命には成功しても、
これで生きているといえるかという状態になることもある。
・大金をかけ手術して延命しても「死んだほうがよかった」と思う患者やその家族はいる。
・大金がかかる先端医療は限りなく存在するが、それを選ぶのは果たしていいことか?
・どうして人間ってそこまで長生きしたがるの?
・成功率10%の高額医療に賭けるよりも90%の成功率の穏やかな死をなぜ選ばない?

さすがに要約だけでは著者に失礼なので、なまの言葉を引く。

「そして聞いたところでは、かなりの高齢者が日本の将来について、
「自分たちは逃げ切れるが、これからの人は大変だね」
と「同情」しているのだそうだ。我々の周囲に広がるのは、
どこまでも「他人事」の感覚が支配する無限の荒野のようである」(P82)


(関連記事)
「偽善の医療」(里見清一/新潮新書)

「占いの謎」(板橋作美/文春新書)

→読書ブログがそれを言っちゃあおしまいなのだが、
これはもう読んでくださいとしか言えない。
去年読んだ本の中でいちばんおもしろかったし内容もちょっと驚くほど深い。
3日間感想を書こうとやきもきしたが、
自分の無学のためか、この小著の全体を把握できない。
しかし、ここには間違いなく、
ある意味で、これからの指針となる真実が書かれている気がする。
わたしは人に本をすすめるのが嫌いだが、
この本だけはおのれの無力の証明としてお手に取ってくださいと願うばかりである。
本書で紹介されている「聖書占い」というのが興味深かった。
あるとき聖書をめくる。その行為はまったく偶然でしょう?
しかし、聖書のそのページにそのときの真実が書かれているというのは本当くさい。
なぜなら偶然だからである。
むかしあった日本の占いに偶然性が強いものがあるという。
まずおみくじを客ではなく神官が引く。
そこにはこう書いてある。次に第一門をはじめに通った客に問いを聴けば答えが出る。
こういう占いはある種の世界の本質を説いているように思えてならない。
世界はまったくしごくの純度100%の偶然で、
それに対するにはこちらも偶然をもってするしかないという企図が占いだろう。
そこには偶然へ誠実な真剣なる信心めいたものがある。
著者はわかりやすく先学者の発見を説明する。これだけでも教師として100点満点。

「九鬼周造という哲学者が、
偶然性について紹介している(『九鬼周造全集』第二巻、岩波書店、一九八〇年)。
彼は、偶然を三つに分けた。
一つは四つ葉のクローバーがその例で、四つ葉であることはクローバーにとって
非本質的なことであり、例外的な、偶然的なことである(定言的偶然という)。
二番目は二つの別の因果系列が出会うという偶然である。
屋根から落ちたかわらが、
道をころがっている風船に当たって風船が割れたときの偶然である(仮説的偶然)。
三つめは、あとで言うおみくじにあらわれる偶然で、AでもBでもなんでもよかったのに、
たまたまAが生じた、というようなときの偶然である(離接的偶然)」(P105)


1.定言的偶然(歴然とした偶然=四つ葉のクローバー)
2.仮説的偶然(因縁的な偶然=交通事故や競馬大当たり)
3.離接的偶然(自由な偶然=宝くじに当たる)


だれかが1万円札を落とすのは偶然だが、
それを拾ってしまう偶然には偶然性が加増されている。
去年、ミャンマーで思ったのはまったくの偶然にまかせてみよう。
行く道もすべて偶然で決め、会う人の言うことを聞こう。
そうしたら千ドルの詐欺に遭ったわけだが、それこそ仏意で、
彼は本当に勉学のために千ドルを必要していたかもしれず、
わたしから奪った千ドルで10年後、20年後のミャンマー人の命が
百人レベルで救われるかもしれない。
あれが失敗か成功かはいまでもわからないが、その二分法的思考が問題なのだと思う。
ただ千ドル盗まれたという事実だけがあり、それが「失敗」か「成功」かわからないのに、
人間はその現実を分別(二者択一)したがる。
言語というのは二者択一から始まる。
暗闇しかなかったらなにも生じず、そこから光が生まれることから世界は誕生する。
しかし、光は闇の対(つい)となる概念で、そもそも闇がなければ光は現われようがない。
本当の裏の世界は闇で、対の観念としての光(言葉)が世界を創造した。
言葉とはなにかというと二者択一が言語の原理としてある。
闇は光をもってしか証明できない。男であることは女ではないということ。
黒をいくら言葉で説明してもわからず白を持ってきて黒の意味がはじめてわかる。

言葉は世界を二分化する。言葉こそが二者択一の構造を世界にもたらす。
美醜、損得、賢愚――。
美とは証明できず醜いでは「ない」ことによってしか証明できない。
損もおなじでなにか損かを説明するのは難しく、それはお得ではないとしか言えない。
賢い人は愚かな人がたくさんいるおかげで目立つようなもの。
善悪なんかもそうで、みんな善を欲して悪を創造しているようなところもなくなない。
健康なんか本当はどこにもなく、病気を発見することで健康の意味がわかる。
ここから先は少し難しくなるが、
必然(因果的)は実のところ偶然(共時的)に支えられている。
電車が定時に運行するという必然は、まったく偶然的な事故が「ない」ことの証である。。
平凡なありふれた日常は、その裏側にある奇跡によって強い保証を得ている。
ここまで書いてきたらおわかりになるはずだが、
無常有限の生というものは死(浄土、天国、地獄、完全無)を
意識してはじめて味わいが増す。
占いとは世界の裏(この世の境界)からものを見ることだというのが著者の説だが、
われわれの生(必然)は死(偶然)によって強く守られているのである。

いまものすごいおもいろいことを書いてきているが、ついてきてくれている読者は幾人か?

「予兆や占いが対句表現、二項対立を多用するのには理由があると考えられる、
それは、予兆や占いが、対象とする事物をある見方でとらえるからだが、
それについては次章で述べる、
もう一つ、それ以前の理由として、そもそも、
われわれが求める答えが、二者択一的だからだ。
豊作か凶作か、晴か雨か、あるいは、待ち人は来るか来ないか、
失せものは見つかるか見つからないか、学業はなるかならないか、
生まれる子は男か女かなどを知りたいのだ。
求められる答えが吉か凶かなのだから、
何らかの類似性と相違性を同時に持っている二つの事物をとりあげ、
その対と吉凶の相同関係を作りあげればいい。
一見複雑な形を取っている答えでも、分解すれば、
二者択一の答えの組みあわせにすぎないことが多い。
たとえば血液型占いなら、A型は何々、B型は何々と、
第一章で言ったように類型として複数の特徴がセットになっているが、
一つ一つは、たとえば積極的か消極的か、
社交的か内気かなど、二者択一的な答えである。
そのように答えが二者択一的だか、占いは原則として確率二分の一で当たる。
半分が当たるのだ。しかも、当たっていないと思えば、別の占いをすればよい、
二つの占いがともに当たらない確率は四分の一でしかない。
さらに三つめの占いをすれば、当たらない確率は八分の一にさがる。
当たっていると思われる占いでやめればよい」(P138)


世界の構成要素は二つである。人間は世界を二分する。九鬼周造に従うならば――。

1.常識と異常
2.客観と主観
3.必然と偶然


占いとはなにをどう見るかである。
たとえばある芸術家の絵画に髭(ひげ)の生えたモナ・リザというものがあったらしい。
その絵画を見たあとではお客は
「正しい」モナ・リザを髭を生えてい「ない」モナ・リザとしか見えなくなる。
間違って社員旅行の温泉で全裸を見てしまった同僚女子は、
以降まえとおなじような目では見られないだろう。
革命家を自称するような映画監督が、ケチくさく専門学校の教え子に手を出そうとして、
その場所に選んだのが妻を出張に出したあとの汚い事務所と聞けば、
その大学教授先生の芸術作品の評価も変わろう。

AがAであることはだれも証明できない。
Aは非Aと比較されてはじめてAの輪郭を保てる。
Aは絶対的なものではない。
A子がアダルトビデオに出ていたという噂が流れればA子の価値は下がる。
A子の旦那が選挙に立候補して当選したと聞けばA子の価値は上がる。
A子なんかどこにもいない。Aを決めているのは周辺のB氏 C氏、D氏である。
Aは二者択一的にBではないことで存在が証明しうる。

「前章で見た対句形式も、以上と正常の関係と同じように考えることができるだろう。
右と左、男と女などの二項対立は、正常と異常と同じように、
相互規定的な反照関係と言える、
相互否定的であると同時に相互肯定的な関係である。
相手の否定が自分であり、同時に相手の肯定なくして自分もない関係、
たがいに相手を照らしあう関係、そういう関係である」(P157)


1.異常が見えなければ正常(常識)が見えない。
2.自分(主観)が見えなければ他人(客観)が見えない。
3.偶然(共時的現象)が見えなければ必然(因果的事象)が見えない。


おそらく本当はなにもないのだが、そこをうまくごまかすのが生きるということだ。
言葉を使うということだ。読み書きを学ばねばならぬ理由はたぶんそこにあるはずである。
言葉はあなたに「絶望」を教えてくれるが「希望」という言葉もある。
世界はカオス(混沌)で真っ暗だが、
二分法の言葉を使い、少しは照らすこともできるのではないか?
占いは嘘だが、しかし真っ黒い裏の世界の境界を、言葉で仕切るプロでもある。

「われわれ人間は、世界を混沌ではなく、秩序づけられたものとして、
カオスとしてではなく、コスモスとしてとらえようとしていると考えられる。
世界の秩序づけは、人間が言語を使用すること自体から発生する。
E・リーチが、人間は連続体である世界を部分に分離、区分し、
それぞれに名称をあたえるのであり、
区分されたものの隙間および区分されたカテゴリーの重複部分に
タブーが発生するとしたことはよく知られている。
佐藤信夫は、「名づけ以前のこの世界は、区切れ目のはっきりしない、
茫漠たる世界であり、それを記号によって適当に切り分け、命名することによって、
一種の記号的秩序を成立させ、
そうして私たちは現実を、多少とも秩序立てた形で認識すると言っている」(P208)


1.Aは非Aによってしか証明されない。
2.その非AをBと呼ぶことにする。
3.ここにAとBの二者択一が存在する。
4.AもBも実体としては存在しなく相互依存的である。
5.占いとはAとBのどちらを選んだらいいか。


ここで発生するのが占いで、占いとはなにを見るのか?
Aを個別に見るのもBを単独で見るのも占いではない。
A~Zまでのいわば星座群(言語群)を限りなく満遍なく見まわしたうえで、
相手にとってのAとBの主観的意味を探るのが優秀な占い師で、
それはもう河合隼雄レベルのカウンセラーである。
AとBだけを見るのではなくAからZまで見よう。それが言葉の世界だ。
わたしはこの学者さんは偉いと尊敬しているが、著者は思い切った仮説を打ち立てている。

もっとも庶民的な占いのおみくじには詩歌が書かれていることが多いという。

「では、なぜおみくじに詩歌がよく使われるのだろうか。
その理由としてレトリック(比喩)の問題が考えられるのだが、
それについてはのちにとりあげることにして、
ここでは「韻」について指摘したい。
九鬼周造は、『偶然性の問題』のなかで韻について言及しているが、
さらにそれを展開した論文「日本詩の押韻」を著している(『九鬼周造全集』第四巻)。
世界的に見て。頭韻、脚韻など
韻が詩の重要な要素になっていることは言うまでもないだろう。
漢詩もその一つで、上に挙げた絶句でも、きちんと韻がふまれている。
それどころか九鬼に言わせれば、
日本の詩(和歌、俳句、明治以降の詩など)においても、
韻は無視できない要素であったという。
頭韻、脚韻、枕詞、掛詞などの方法によって、万葉の歌から現代の歌まで、
韻が用いられている詩歌がかなり多くあるという。
彼に言わせれば、韻は言葉における偶然性の問題であり、
詩歌はひとつにはそういう韻の採用によってその芸術的深みを獲得するのである。
もちろん、おみくじに書かれている詩歌は芸術をめざしたものではなく、
韻を暗示することによって、おみくじの偶然性が補強されているのではないかと、
私はひそかに考えている」(P115)


本書は去年読んだなかのいちばんの名著、ベスト1で、
もっと紹介したいところがいくらでもある傑作なのだが、
当方の非力ゆえ、このくらいが限界だ。
著者は商業出版はこの1冊でやめ、
学問研究に戻られたようだが(アマゾンにはひどい酷評がならぶ)、
これほどの人を大学にこもらせているだけでは日本文化の喪失である。
久しぶりにこれほどの本を読んだという満足でいっぱいだ。
神保町のワゴンで投げ売りされていた1冊だった。
よろしければぜひぜひお読みください。

*記事中、誤字失礼。

宮本輝はひとりっ子だから作品世界に限界があり、
山田太一はきょうだいもたくさんいたし、
子どもも姉姉弟だからドラマに深みが出るという新説(?)を発表したが、
そうとも言えるのではないか?
きょうだいのちから関係はきょうだいを体験してみないと本だけではわからない。
山田太一の「早春スケッチブック」で兄が義理の妹とベッドの上で喧嘩になり、
お互いがそういう行為の危なさを知ってストップするところはいい。
「想い出づくり」で姉が弟のために、いわば身体を売るシーンもいい。
今日、放送される山田太一「時にはいっしょに」の姉弟関係も変な色気がある。
一転、ピンクな話をするとビッチな妹が女を知らない兄を挑発する話はいいし、
中学生の兄がお風呂で妹の桜肉をたまたま見てしまいどぎまぎするのもいい。
男女関係は、恋愛関係、夫婦関係、友情関係だけではなく
姉弟関係、兄妹関係もあることを忘れてはならない。
きょうだいは両親とともに選べないわけで、その偶然に仏意や神意が現われる。
僕がはじめて会った人に聞くのはきょうだい。
職業とか年齢を聞いちゃうと差別(失礼)になるが、
きょうだいは質問してもいまはまだセーフ。
女のひとりっ子はいいけれど、男のひとりっ子はもうまるっきり世間を知らないね。
まだあるのか知らないが中国のひとりっ子政策はかなり国力を弱めたのではないか。
きょうだいが強いのは親の愛を求める競争と、
しかしきょうだいならではの血の連帯を知ることができるからだろう。
きょうだいでコンビを組んで親に逆らうとかもできる。
同性きょうだいはひとりっ子よりも辛い面があるのではないか?
どうしても勝敗がついてしまうのが兄弟、姉妹。
同性だとおなじ分野で競争して、それがプラスに出る場合もあるが、
マイナスに出たら哀しい。
兄妹、姉弟のきょうだいはいちばん世間的に賢い組み合わせのきょうだい。
兄弟の喧嘩はどこまでも暴力的で、姉妹の喧嘩は陰湿で後を引きそうだが、
兄妹、姉弟のきょうだい喧嘩はどこか悪ふざけのお芝居っぽさがある。
個人的な感想では、兄兄妹の末の女の子なんて、
かわいがられて育ったため性格はいいし、
男のバカさを知っているのでこちらも飾らなくていいし、
機転がきくし、ちょっとドジだし、選べるのなら兄兄妹の女性だろう。
少子化といわれるが、いまはきょうだいが少なくなったのではないか?
ひとつ裏知識を披露すると、創価学会の家の子は、
教義教学がそうなっているわけでもないのに子だくさんが多い。
法華経において、もっとも重要とされる如来寿量品第十六よりも、
諸法実相を説いた方便品第二のほうが好きである。
あれの意味を要約したら「God knows everything」になるだろう。
いま起きていることは仏意であり、
それは起こるべくして起こっているが、人間には意味がわからない。
いまこうなっていることが関係して無常ゆえ、
先々に変化が起こるがそれも人間にはわからない。

カトリック作家の遠藤周作も方便品第二の唯仏与仏を別のかたちで説いている。

「誰にも自分の人生が突如として変る切掛(きっかけ)も、その時期もわかる筈はない。
神のひそかな意志がどのようにひそかに働くのか人間の眼には見えぬからである」


努力しても空振りばかりのときもあるし、
いいかげんにやったことが大当たりを取ることもある。
ただし人間の業(行為)はすべて心の奥深く阿頼耶識(あらやしき)に貯蔵されるという。
無力であるということ。祈るしかないということ。
しかし、大きなものに守られていることを信じられること。
それは自分の心の奥にある世界かもしれず、まず自分を信じることから始めよう。
「神と私」(遠藤周作・山崎哲雄監修/海竜社) *再読

→遠藤周作名言集。大学生のころ大好きだったのは遠藤周作で、
いま読み返すとさっぱり魅力がわからないので人間は変わるものである。
チャペルで祈っている女子大生ってかわゆすエロすというだけの話。
あんな一度も働いたことがない慶應の遠藤でも、
処女作「アデンまで」を読むと白人処女を食ったという自慢話なので悩ましい。
決めのセリフというものがあって、僕はもう怖いもの知らずだからそれを書いちゃうと、
いちばん相手のこころを捕えるのは、
「(悪戯っぽく)あたしのことを好きなんでしょう?」
「(高圧的に)俺のことを好きでたまらないくせに、違うか?」である。
人間は言語に支配されているため、言葉がいちばん強い凶器になりうる。
「あたしのことを好きなんでしょう?」と問われると、
否定の「おまえなんか好きではない」が出てきてしまう。
そうすると男なんか悪戯な美少女に降参である。
「好き」という言葉が「嫌い」という言葉の反対観念である以上、
異性から好かれたら「好き」になる「嫌い」になるしかない。二者択一に追い込まれる。
善があるから悪があるし、天国があるから地獄があるし、男がいるから女がいる。
原始仏教は禁止の決まりばかりの(宗教ではなく)道徳だが、
あれはダメだとカトリックの遠藤周作は仏教を鼻で笑う。
しかし、踊り念仏の一遍は評価しているので、こちらも評価を返したい。

「心より心を得んと心得て 心に迷ふ心なりけり(一遍)
この歌を思い出すたびに作家、一遍という人が、
どれだけ人間の心の複雑さや、
心の扱いにくさや矛盾を知っていたかをしみじみ感じる。
周知のようにこれは一遍にある僧が「形よりも心が大事ではないか」
と言った時にたしなめた歌である。
一遍は人が善きことをなそうとする時、
その善きことが彼の心逆に慢心さすことを見ぬいていた。
人は正しいことをなそうとする時、
その正しきことがかえって彼の心を傲(おご)らせることを承知していた。
修業すれば修業するほど、泥沼の深みに入ることを知っていた。
人間の心はたんに「善」「正」「修業」
などを志すだけでは律しきれない矛盾があるのだ。
この一遍の歌は私にあのユダヤ教の戒律から
飛躍しようとしたポーロの心をも連想させる。
ユダヤ教の戒律――つまり戒律を守ろうと身をつつしめばつつしむほど、
逆に律儀に捉われふりまわされて逆に自信を持てなくなったのが
若い頃のポーロである。
おそらく彼なら一遍の歌に膝をたたいてうなずいただろう」(P221)


しちゃいけないと言われるとしたくなるのが人間の矛盾したこころ。
わかっている。この文章を読んでいるきみは僕が好きでたまらないんだろう?

早稲田の女子部こと第一文学部で4年学んだが、
あそこは若くて賢いお嬢さまばかりで、下品な僕もかの女たちに揉まれ、
かわいがってもらいたくさんのことを勉強させていただいた。
女子大に入った男はいないだろうが、
一文は戸山女子大と呼ばれるくらい女ばかりだった。
しかし、バカ女子校ではなく、みんな偏差値70近くあるのである。
中国語なんてちょっと教わったらすぐに話しちゃう。
それに家が裕福な子が多く、家柄のいいお嬢さまばかり。
こんな高貴な女子たちとディスカッションしたら女性観がゆがんでしまう。
若くて賢いお嬢さまが、女性の標準基準になってしまう。
僕はあるゼミで教授に逆らったが、
そのとき教授サイドについた辻さんという女の子は
いま思えば天女レベルでかわいかった。
細くて典型的な美少女で生意気でそのくせ権威的で、
あの子だけで早稲女はお腹いっぱいというくらいの美少女だった。
あたまがよくて自分の意見をストレートに言える生意気な美少女。
きみは男のきみたちはまだなにも僕のように知らないのではないか?
僕は歴史小説が嫌いで、ああいうものを書くことはないだろうが、
歴史小説の不思議は会話(セリフ)にある。
たとえば時代小説の鎌倉の創作があったとするじゃないですか?
まずその時代劇がかったセリフ(会話)が信じられない。
鎌倉時代の男女がどんな会話を交わしていたか音声データは残っていない。
そこをいいことに「わしは~~じゃ」みないなセリフを使う作家ばかりだが、
それはこころが痛まないか? 
平安、鎌倉、室町の貴族はまだしろ、平民がいったいどんな言葉を使っていたのか?
ただただもうただただ謙虚になれよと思いますですね。
女の子を好きになったら人は変われるというのは実体験的真実。
古家眞といういまは大学教授をしている有名な小学校教師から、
毎日のようにボコボコに殴られ矯正施設に行かされ、
おまえは末は少年刑務所に行くだろうとまで言われた僕が、
まじめに勉強していつしか中学トップの内申点まで行ったのは、
ある少女を好きになったからだもの。
その子は優等生で、こんな僕なんか相手にされないと、
じゃあ、成績ってなんだろうと勉強してみたらまじめな優等生の子に勝ってしまった。
おかっぱで女らしさはまるでない子で、コミュ力もなく、
クラスの女子中心グループからは離れたおとなしい先生から好かれるような子だった。
どうしてその子を好きになったのか。
おなじ部活のイケメンの先輩がいたのだが、かの女はその男子が好きだったようで、
家をつきとめたいからと友人の女子と三人で尾行したのがきっかけ。
そのイケメンの先輩には後日談がある。
大学に入ったとき、おなじ中学校の先輩がいて、
イケメン先輩のことを話したら、あいつはバカで家も貧乏で、
ろくな高校に行けず、いまは落ちぶれていると教わった。
その先輩は銀行への内定が決まった。

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「権力の甘い蜜」
文芸はどこまで嘘の桜を咲かせるかだ。造花を自然の花にいかに見せるか。
おそらくアダルト動画の目標もそこで、
だから女優はあんなにけばい化粧をしているのだろう。
反対のなまを見たいという方向性もあり、逮捕された児ポの動画を見てもつまらない。
まったく教養を感じられないからである。
しかし、それが「正しい」のかもしれず、
いまも性犯罪児ポで逮捕される男の報道をネットで見ると、
こいつらは本当の正直者ではないかと敬意をおぼえる。
なまの本当も嘘のインチキも好きになれない僕はどこに行けばいいのか?
教えて女子部。
こんなむかしから言われてきたことをなにをいまさらだが、女は男の話を聞くと得だぞ。
まあ、それがなかなか難しいのだが。
正月に女子高生が好きとか書いた気がするが、
あれは観念の児ポの、国家禁止の女子高生が好きだという反抗的態度を示しただけで、
たぶん実際の本物の女子高生と会っても、つまらないと思うだけだろう。
話が合わない。相手の無知やバカにあきれるだけ。
キャバ嬢なんかもそうではないか。真剣に話したら、かの女らはつまらない。
そこで男の話をわからずとも聞けだ。
そうしたら男はバカだから女は自分同様にあたまがいいと勘違いしてくれる。
こんなのはキャバ嬢の基本テクニックだろうが、いまさらごめんなさいね。
むかし創価学会のキャバ嬢に池袋でつけ麺をおごってもらったが、
かの女はやむことなく他人の悪口を饒舌に早口で語っていた。
僕はただ聞いていた。
かの女は僕という男の本質をひと目で見破った女商売のプロなのだと思う。
いま俺の師匠、天龍源一郎にこころが盛り上がっていて、
ジェイコム録画に入っていた1985年2月25日の鶴龍対マサ長州を見たが、
ヤクザっぽいおじさんばかりが
リングサイドのお客さんとして大量にいたあの試合はガチだと思った。
試合結果は両者リングアウト、ノーコンテスト。
天龍は相撲で出世した希望レスラー。
ジャンボ鶴田は中央大卒のアマレス最強。
長州はアマレスも強かったが、
権威に反する態度がなにより当時の大衆の支持を受けていた。
マサ斉藤は明大アマレス卒もなにより、
アメリカで大金を稼ぎ金髪美女からもてるあらゆる意味での最強レスラーで、
裏も表も知り尽くした(あの怖いアメリカの)刑務所でさえ
バンを張っていた男の中の男。あいつは絶対に強い。
マサ斉藤の監獄固めはガチで痛い。
そのマサにプロレスを教えられたのが天龍源一郎。

俺はねいいか、俺はね、天龍がいちばん強いと思うし、
天龍のように大金を稼ぎたいし、天龍のように女からもてたいという、
俗物根性を中学生のころから自由に過激に持っていたから、
いつもお姉さんが現われ僕なんかに優しくしてくれたのではないかと思う。
結局は金と女よ、男の人生。そう教えてくれたのが天龍源一郎。
テンリュー、テンリュー、テンリュー(サンダーストームとともに)♪
俺はね、中卒の天龍源一郎に山ほどいろんなことを教えてもらった男である。
男とはどういうものか。
このやろう、グーパンチして、サッカーボールキックをして、
延髄蹴りをして相手がかがんだらパワーボムだ、ばかやろう。
俺を舐めるな天龍ファンを。天龍源一郎バンザイ♪
おそらく一生の後悔になるのだろうが、
僕は3年まえ天龍源一郎さんがプロレスを廃業したとき、
天龍革命以来の古株ファンなのに両国の引退興行には行かなかった。
僕ほど天龍源一郎を好きな男はいないだろうと自分で思っているにもかかわらず。
僕は天龍さんから書いていただいたサインをいくつも持っているし、
ふたりで撮影された天龍と僕の写真に黄金色のサインをしてもらったこともある。
成功して金を儲けて天龍さんの寿司屋で酒を飲むことが夢な時代が何十年もあった。
俺は天龍になりたいというその一念で生きてきた部分がなくはないだろう。
銀座の女酒場で万札をばらまく天龍源一郎が大好きである。
僕は精神的便秘気質なのか、ためたものをなかなか視聴読書しない。
いまジェイコムでためている3年まえの天龍引退特番を、
関係者しか知らない「天龍カクテル」を自作して、それを無鉄砲に飲みながら、
若いころの天龍を、おれもこうなりたい、おれもこうなってやると夢想しながら見ている。
テンリュー、テンリュー、テンリュー。あんなかっこいい男を俺は知らない。
俺を舐めるなよ、そう思って生きろと、天龍源一郎は言った。
「聊斎志異の怪」(蒲松齢/志村有弘訳/角川ソフィア文庫)

→半年まえくらいに読んだ江戸時代の中国の短編小説集(小話を集めたもの)。
芥川や太宰がここに書かれている物語をモデルにして小説にしたことで知られている。
角川文庫版はその「聊齋志異(りょうさいしい)」原文も、
芥川や太宰の改変版も載せられていてお得だが、
おもしろいかと問われたら意見がわかれるところだろう。
「聊齋志異」は殺人(他殺)や自殺、幽霊、強姦(レイプ)の話でモリモリだが、
どの人物も懲りていないところが中国らしいというか、前近代的というか。
ふつう人を殺したりしたらちょっとくらい罪悪感をおぼえるだろうがそれがない。
自殺しても、へえ、あの人死んだのくらい話。
レイプされても、まあ、減るもんじゃないしとまったく悩まない。
いざ死んでも幽霊として化けて出てやるからな、という世界観。
男が美女を犯したがるのは自然だし、男が金のために人を殺すのも自然で、
そういうことにいちいち罪悪感をおぼえないナチュラルな人たちが多く登場する。

さいわいとは美女に愛されることだし、
大金を稼ぐことだという価値観がまったくぶれていないのが新鮮とも、
いまの常識感覚したら粗悪だとも、どちらとも言える。
またまた問題のあることを言うと、レイプやストーカーをできる男は英雄で、
どうしてそんなに欲望が強いのか、自分のことしか考えられないのか不思議だが、
それが中国の庶民的かつ現実的な強さで、
そういうシナ大陸の野蛮な健康に西洋インテリぶりたがる、
世間をまったく知らないがしかし、学識はある若年の芥川や太宰は完全降伏して、
そういう日本古来の大陸的男根女陰のパワーをモデルに
近代文学を構築しようとねらった短編が本書に掲載されているが、おもしろくない。
若くして出世した芥川や太宰の世間知らずの弱さがわかる1冊である。

「真理のための闘争 中島義道の哲学課外授業」(中島義道/河出書房新社)

→中島義道が朝日カルチャーセンターとトラブったときのことを書いた本。
中島はこれでおれも有名文化人の仲間入りかなあ、
なんてほくそ笑みながらやたらギャラが安い朝日カルチャーセンターで
ステータスシンボルのようなものを求めて講師を長年やっていたら、
あるときぶち切れておのれの正義、真理を表明するために出した本。
なんかさ、ひとコマ90分でも120分でもギャラが変わらないらしく、
いつからかそうなったかは忘れたが、
講師にはそれを選択する権利があるのにもかかわらず、
それを職員が教えてくれなかったのを恨み、
おれの30分は高いんだぞと怒った中島が、
最初は軽い行き違いで終わりそうだったものを、
わざわざ哲学的真理を持ち出してきて、糸をもつれさせ、
細い人たちを脅えさせ、おおきな毛玉(の問題)のようにしてしまったという話。
中島義道は本当に世間というものを知らない。世の中、そんなもんよ。
朝日カルチャーセンターと自意識と自尊心だけが高い中島の
どちらの格が上か考えてみろよ。権威を比較してみろってこと。
中島だって朝日の権威にひれ伏して安いギャラで講師になったんだろう?
だったら、その権威に屈従して、なあなあにやって、
次回からは120分の講義を90分にしてもらいミニボーナスでもいただいて、
手打ちにすればよかったじゃないか。
それが(学問の世界ならぬ)世間ってもんよ。

しかし、中島義道の気持もわからなくはない。
10年もまえの話だが、
わたしもシナリオ・センター相手におなじようなトラブルを起こしている。
数十年まえに3分のアニメを一度しか書いたことがないという、
上原正志という講師とトラブルになったのだが、
ある日突然、狭い事務所で社長や所長、職員に取り囲まれ、
だれも責任を取らず「あんたが責任を取れ」と大声で何度も責められ、
シナリオ・センターを強制退学させられた。
そこには上原正志は一度も顔を出さず、
かといって社長や所長が責任を取るわけではなく、
「あんたが悪い」と一方的に3時間以上難詰され辞めさせられた。
これにはお金の問題があって、
わたしは所長のすすめで基礎科から研修科に行ったのだから、
せめてその進学料金くらい返してくれとお願いしたら、
「冗談じゃないわよ」と怒鳴られ、それで終わりである。
中島義道は問題が起きたときまず弁護士に相談して法的処置を考えたそうだが、
そこが東大あがりの学者と三流私大をお情けで出してもらった当方との相違か。
わたしは何度も上原正志をやっちゃおうかと思った。
あれは上原正志とわたしの問題だったのに本人は隠れて出て来ず、
わたしの退学後はゼミコマ数も増やしてもらい組織で出世したという。
彼は読んだこともないアリストテレスを講義する無学な先生だったが、
道端で待ち伏せして、「おい、ちょっと待てよ」と肩をつかむくらいしてもいいだろう。
そんな危ないことをしきりに考えたものである。
中島のように弁護士の知り合いなんていないし法的処置は考えたこともなかった。

これを10年後のいまどう考えているか?
まあ、どっちもどっちだよなあ。わたしも世間を知らなかった。
「あたしは新井一の娘よ」といつも高そうな服を着た(シナリオを書いたこともない)
女社長から怒鳴られたが、世の中って結局そういうものなんだよなあ。
しかし、いまでも中島義道とおなじであのときのわたしは「正しい」と、
どこかで思っているのもまた事実なのだからぜんぜん成長していないのかもしれない。
たぶんこの本はまったく売れていないはずだが、
「だれもおまえの正義なんかに興味はない」という常識は理解する年齢になった。
有名哲学者の売れっ子作家だから、こういうどうでもいい本を出せるのである。
わたしがシナセンを批判したって、だれも聞く耳なんか持っちゃくれない。
ファンも多い有名なカント哲学者の言葉のほうがまだ拙文よりも価値があろう。
いまのわたしは唯一の絶対真理など存在しないのではないかという立場だが、
それでも唯一真理教の狂信者のように思える中島義道の次の言葉は考えさせられる。
中島はウソを嫌ったことで知られる西洋哲学者のカントへの信心を持っている。
果たして唯一絶対の真理は存在するのか? みんなじつはウソではないか?

「日常生活において、一方で、みなウソをつき、他人のウソにも寛大で、
「ウソも方便」と涼しい顔をしている場合もあるが、
他方、自分にまともに被害が及ぶと、ウソに対して猛烈な怒りをぶつける。
とくに政治家や企業のウソに対しては、みんな敏感だね。
さらに、ぼくはいつも思うが、身内を悲惨な事件や事故で失った者は、
それを知ってもさらに痛めつけられることがわかっていても
「ほんとうのこと」を知りたがる。
自分の子供がどうやって殺されたか、自分のほんとうの親は誰か、
自分はどういう人間なのか、人間誰でもギリギリの状況に置かれると、
たとえそれを知ることがいかに辛くても、
本当のことを知りたがるのではないだろうか?
その理由は何だろう。
やはり、それがウソだから、真実じゃないからではないかな?」(P129)


もはや持ちネタのようになっていると思われる方もおられるかもしれないが、
わたしは19年まえ母親から目のまえで飛び降り自殺をされ、
女はその場で血を流しながら絶命した。
精神病の診断を受けていたが、本人はうつ病だと言っていた。
本当のことが知りたくて、最初に入院した病院の先生にまで話を聞きに行った。
なんであのとき忙しいあの人があんなに親切にしてくれたのかわからず、
いまから思い返すと胸に熱いものが込み上げてくる。
母は年下のひとりの精神科医に10年近くかかっていた。
信用していたのだろう。御すのが容易かったのかもしれない。
あるときは「先生はケンジ(僕)のことを精神病だと言っているわよ」
と勝ち誇っていたものだった。
自殺直後、話を聞きに行ったがいやそうで(いやな理由はいまではわかる)、
30分くらいで退去をうながされ、人がひとり死んでいるのにそれはないだろうと思った。
いまから考えたら、待合室には患者があふれかえっていたから
医者が迷惑に感じたのはわかりすぎるほどわかる。
よくお薬を出す先生でこのため人気があり(商売上手で)、
「あの先生はベンツに乗っているのよ」となぜか母が自慢げにおしえてくれたものだ。

いったい本当のことはなんなのか?
わたしは何度もそのクリニックの周辺を歩いてまわり、
乗り込んでいきたいという気持とどう向き合えばいいかわからなかった。
本当のことを知りたい。
いまの知性で考えれば、精神科なんて3分診療が当り前で、
医者なんて患者が死んでも家族に説明する必要はないし、
お客がひとり減ったくらいが常識感覚なのだと、
ファンである精神科の春日武彦医師の本を読んで思う。
しかし、いまでも本当のことを知りたいし、死ぬまで本当のことにこだわるだろう。
それはわたしの今後の人生に現われるので死ぬまで死ねない。
仏教はウソだが、なにか真理を語っているようで興味が尽きない。

本当のことは人を地獄に落しかねないが、ウソは人を救うことがままある。
真理はしょせんオナニーで、ウソこそ愛あふれた男女のプレイではないか?
真理や本当のことは自尊心、虚栄心で、
ウソやインチキが愛であり文化であり芸術であり、
生きている喜びや悲しみのたいせつな深い源であるような気がしてならないが、
日本人なのにカントを愛する取り巻きに囲まれた中島義道はカントの口真似をする。

「平気で嘘をつくこと、しかも、あくまでもそれを表面的節度を保ちながら
つき通すこと、その背後には、
ただ「ソン・トク計算」だけが黒々ととした影を作っていること、
これは私にとって吐き気がするほどイヤな人間の側面であり(以下略)」(P93)


わたしは中島義道と本当の真理の喧嘩をしたら負ける気がしない。
男のファンクラブ、私塾に行ったら多数決とカントの権威に負けるのだろうが、
一対一の飲み屋で喧嘩したら、
そのリングのレフリーはカントでもないし、哲学でもないので、
言葉の世界においてもわたしは彼を打ち負かすが
男は哲学世界での負けは認めないだろう。いざとなったらわたしは手を出す。
ひと目見たらそういうことができない損得世界を生きる温厚な人物だとばれてしまうが、
それでも本当のガチを仕掛けられたら、
なにも守るものがないわたしは、法律的敗北など恐れず男の目を割り箸で貫くだろう。
なぜそれをできるかといったら、
こちらが哲学者の先生よりもなまの不幸を知っているからである。
本当の真理はカントにはなく、ヤクザにあるかもしれず、
なぜなら中島は弱い相手にしか喧嘩を仕掛けないし、
喧嘩を仕掛ける相手はその段階でカントの土俵に乗っているからである。
本当のガチ(真理)を知っているものほど、
天龍源一郎のようにプロレス(ウソ)がうまい。
わたしも本当の真理を知っているのかはまったく自信がなく、
いままでふつうの人しか知らないようなところがあり、
ガチの性格の悪い女が本気で騙そうとしてきたら、
泣きながら何度も何度もタップ(ギブアップ)するだろう。

以上、ブログというリングだから言いたいことを言ったが、
新聞とか雑誌でまさかないとは思うが中島義道と対談したら、
わたしはすぐに尻尾を振るだろう。
なぜならそのリングでは相手のほうが圧倒的に強く、闘う意味がないからである。
わたしが読んでいる哲学者なんて中島義道くらいで、
ご本人はすぐにご理解くださるだろうが、わたしは彼を好きなのである。
けれども、弟子になりたいとかはなく、しかし、いいことを書くなあと感心する。
そういえば、山田太一は自分の指導に従順な弟子のようなやつは嫌いだと言った。
若き山田太一はサルトルの講演会に行き、
それを老人になって回想して、そのときのことはなにも覚えていないが、
ひとつだけ突き刺さった言葉は「普遍的な真実のようなものを信じてはならない」
だったと講演かなにかで耳にした。
最後は中島義道さんのちょっといい話でしめよう。

「これまでは、漠然と普遍的真実があることを前提にしていた。
それにそってカントやベルクソンンの考えを紹介してきた。
だが、そうではないかもしれないじゃないか?
普遍的真実などないじゃないかもしれないじゃないか?
サルトルは、そう疑う哲学者の代表格だろう。
「神は死んだ」。よっていかなる絶対的価値もない。
善悪の基準はない」(P169)


たしかに西洋の神は死んだのだが、日本の仏はまだ生きているということを、
西洋劣等複合哲学者の中島義道は知らないし、もう年齢的に勉強できないだろう。
善悪はないかもしれない。
なんでもいいのかもしれない。なにもかもわからないのかもしれない。
仏さまだけがなにかを知っていて、それをわれわれは知りえないならば――。
大学生のころの中島義道青年はあるカウンセラーから教わったという。
わたしはこのカウンセラーの優秀は認めるが、
中島は自分のこころの声を聴いたのではないかと思う。
おそらくカウンセラーは傾聴しただけで、
なにも迷いの盛りの中島に指導していないはずである。

「法学部に進む仲間たちから落ちこぼれたくない、
親の期待を裏切りたくない、哲学の才能があるかどうか不安だ、
将来哲学者として身を立てる自信がない……等々をぐだぐだ語ると、
カウンセラーの先生は、微笑みながら最後にただこう言ってくれた。
「自分がいちばんしたいことをしなさい」と。
眼の前からさっと霧が晴れるような気がした。
そうだ、僕は哲学がしたいんだ! 哲学がしたいだけなんだ!
それはもうはっきりしたことなのに、
ぼくはソン・トク計算に余念がなかったんだね」(P131)


(関連記事)
「悪について」(中島義道/岩波新書)
「夕暮れの時間に」(山田太一/河出書房新社)
山田太一講演会(2011年2月26日)

「純文学とは何か?」(小谷野敦/中公新書ラクレ)

→大学生のころとてもきれいで純粋っぽい一文女子に卒論の内容を聞いたら、
「雨月物語」と教えてもらい、
それだけでいんちきな創作小説で卒業しようと思っている自分の汚さに
ウゲッと吐き気が込み上げ、かの女がさらにさらに何倍も輝いて見えたものである。
広い意味で日本文学は物語文芸、芝居演芸、歴史書、仏教書、詩文であろう。
日本に少なくとも室町時代までは哲学思想のようなものはなく、
いちばん哲学に近いのはやたら難しい仏教思想だけではないか。
小谷野さんは自分が仏教に歯が立たないから宗教をバカにして、
プライドを守っているようなところがあり、かわいい。
日本語はかな文字(平仮名)、漢文(中国語)、英語(カタカナ)だが、
むかしの男は平仮名をバカにして公文書はすべて漢文で書いていた。

一休は室町時代の禅僧だが、
あの時代でも男は中国にあこがれ漢詩文を創って粋がっていた。
いま漢字の価値はむかしと比べて大幅に下がり、
中国といえば先進国ではなく、下品な金に汚い国というイメージが定着した。
代わりに英語カタカナが幅を利かすいっぽうで、
よく知らないが人気歌謡曲の歌詞などどこの国の言葉だかわからない。
日本の文学(言葉)はこういう性質を持っている(はず)。
わたしがいちばんだと思うのは説経節だが、理由はあれは、
文盲にも理解することができる物語文芸、芝居演芸、仏教思想だからである。
おそらく小谷野さんは説経節の価値をさらさら認めないだろうが、
本書で著者は文学の価値など、
株価のように変動する実体のないものという説を紹介しているので、
わたしが説教節を評価しているのをことさらバカにしたりはしないだろう。
小谷野さんはよくわかっておられる。

「東アジアでは、漢文・漢詩が教養の中心であり、それは明治期までそうだった。
漢詩は五言、七言の絶句、律詩などの形式をもち、
平仄(ひょうそく)というものがあった。
四六駢儷体(しろくべんれいたい)などの流麗な文章の形式も生まれ、
科挙においては、平仄の合った格調高い監視が書けることが条件であった。
日本ではかな文字が発明され、かな文藝が栄えたが、
かなは女が書くもので、そのため紀貫之は女のふりをして
『土佐日記』を書いたのである。日本独自の詩が、和歌である。
歌集の詞書(ことばがき)が発達すると歌物語になるとされるが、
『竹取物語』などは、『古事記』などに
見られる単なる物語が展開したと見ていいだろう。
しかし、『蜻蛉物語』や『源氏物語』は、
和歌を含んでいるからこそ評価されたもので、
のち藤原俊成などが『源氏』を評価したときは、
「源氏見ざる歌詠みは」と言って、その和歌を評価したのである。
『今昔物語集』などの、散文で書かれた物語集は、
その中に描かれた歴史的人物の事件が史料的に見られることはあったが、
古典的文学作品の扱いを受けるようになるのは明治末から大正期で、
芥川龍之介がこれを短編の素材にしたのはまさにその時期のことだった」(P33)


からかって言っているわけではなく、
小谷野さんの学識の高さと教師としての能力の高さがよくわかる平明な文章である。
このご説明からもわかるように日本文学は学問能力の高い男と、
気高い精神を持つ女が連綿と引き継いできたもので、
最前の自分の言葉を引き込めると説経節は文学ではないし、
いまでいえば創価学会の宮本輝は大衆文芸ではあるだろうが純文学ではない。
本当は井上靖も文学ではないのだが、
歴史的知識が学者なみにすごいからみんな誉める、と言ってもいいだろう。
なにを純文学とするかは難しく本書でも結論は出ていなかったが、
難しいもの、一部の大学関係者にしかおもしろくないもの、
もっと身もふたもないことを言えば売れないものが純文学なのではないか。
そうだとしたら村上春樹は……いやいや、わからないわからない。

こういう分類方法はどうだろう。注文されてもいないのに書いたものが純文学。
村上春樹が言及したようで一時期ストリンドベリが復活しそうになったが、
あれは絶対にいま再刊しても売れないだろう。
女性差別がひどすぎるのである。
しかし、ストリンドベリのかなりの作品は注文仕事ではなく自発的に誕生している。
とくに「痴人の告白」は長大だが、
作者はそれを少なくとも生前は発表するつもりもなく、
ただただ妻への復讐のために半年もかけて書いたのだから、
これを純文学と言わずしてなにが純文学か。
おそらく小谷野さんは「痴人の告白」を読んでいないはずだが(つまらなくて読めない)、
読んでいない本をさも読んだような顔をして語るのが文学者であると最近気づいたので
男芸者の文学演技に耳を貸そうではないか。

「日本の私小説の火付け役となったのは、
ストリンドベリの『痴人の告白』という自伝だろう。
ストリンドベリはスウェーデンの劇作家だが、自身の妻への呪詛、
ないし自分の生への呪詛を書き連ねた恐ろしい本で、
先の木村荘太が大正初期に翻訳している。
里見弴などはこれに影響されて、震災後に『安城家の兄弟』
のような恐ろしい私小説大作を書いたのである」(P185)


日本でいまストリンドベリが語られるとしたら山本周五郎、山口瞳ラインだろう。
しかし、山本周五郎はストリンドベリを愛読したが、山口瞳は読んでいない。
ここで影響はストップして、山本周五郎に影響を受けた作家は大勢いるだろうが、
周五郎が師としたストリンドベリの孫弟子となったものはいないのではないか。
小谷野さんの名著を読んで感想を書き、
自分のあたまで考えると発見があるのでよろしい。
なにをいまさらと笑われそうだが、日本文学史というのは影響の流れではないか。
どの文学作品に影響を受けて新しい作品が生まれているか。
著者は日本現代演劇を完全にバカにしているが、それはそうで、
いまの演劇人はバイトに忙しくシェイクスピアさえ読んでいないやつがやっている。
かといって近松なんかもっとやつらのあたまでは読めないだろう。

純文学に感動をして大衆小説を書く作家は宮本輝のようにたくさんいるが、
大衆文学に影響を受けて純文学を書き始めるやつはいても少ないのではないか。
日本文学の骨として一本貫かれているのは仏教思想で、
にもかかわらず、文明開化期、敗戦期と海外文学に影響を受ける作家が多くなり、
そうなると日本文学の伝統と根が切れてしまうのである。
本来は仏教を勉強しないと日本文学のこころはわからないのだが、
いまでは海外文学を愛好することが純文学者の証のようなところもなくはない。
敗戦国コンプレックス文学が新しい主流となり、平成の終わりまで来てしまった。
かな文字と漢字が日本文学の母なのだが、残念なことに――。

「日本における外国文学者の中では、英文学者の数が多い。
それは、英語が世界語になったため、
大学において英語教師の口があるからである。
そのため、各作家について学会があったりするが、
それが作家自身の魅力によるのかというと疑わしい。
英文学は、シェイクスピアとアメリカ文学でもっているのではないか」(P137)


外国文学はその国の言葉で読まないとわからないのではないかと思うし、
とはいえ、いくら日本人が現地語を勉強しても、しょせんは日本人で、
知的興味や虚栄心は満たされるだろうが、本当にその作品を味わえるのか疑わしい。
「ノルウェイの森」だって早稲田の文学部キャンパスを知っているほうが味わい深い。
小谷野さんの本はとてもためになるが、直接教えてもらいたいとは思わない。
わからないことがあったら本を読めばいいし、
師匠から以心伝心される文学のこころなんて実際に存在するのだろうか。
会ってみたら想像以上にひどくて、人間はここまで傲慢になれるのかと、
あんがい本物の文学者に近づく一手かもしれないのだが、
奥さまの葵さんには惹かれるが、小谷野先生の弟子になりたいのかはわからない。
いまではぜん息も改善し、そばで喫煙されても大丈夫である。

(関連記事)
「痴人の告白」(ストリンドベリ/山室静訳/「世界文学全集24」講談社)

運が悪いきみたちのことは知らないが、
僕はどうしかて困ったときにお姉さんキャラがさっと現われ、
さらっと無言で助けてくれ、礼も求めずに去っていく。
小中高、大学、いやいやする仕事場、
どこでもかならずお姉さんキャラの女の子が登場して僕を助けてくれる。
これはほとんど絶対法則と言っていい。
早稲田の一文女子なんて僕のお姉さんばかりだし、
香港の子もさっとお姉さんになってくれたし、
ベトナムっ子ばかりの職場で働きはじめたときも、いく人もベトナムお姉さんがいたし、
中国人お姉さんも、独身お姉さんも、人妻お姉さんもいて、
僕のダメだなあという愚かさを姉らしく、どこか愛おしみながら気遣いのチラ見をしてくれ、
この子はあたしがついていないとダメだという言葉にならない真理に気づき、
国籍世代さまざまのお姉さまたちはどうしてか僕なんかを守ってくれた。
男の上司は僕のそういうところが怖かっただろうし、あこがれたであろうし、
反面、こいつを男性暴力的に消したいという思いにもかられたことだろう。
どうして僕はいつも弟キャラになり、どんな年下の美少女であっても、
あの子はあたしが守ってあげなきゃというお姉さんキャラにさせるのかは、
自分でもわからないし、そういう宿命めいたものを文芸作品として表現したい。
女が腐ったような女々しい僕の弟キャラも神レベルだし、
どこのグループでも、この子はあたしが守らなきゃダメと、
女性をお姉さんキャラにして、
自分はいい気に計らずもぬくぬくしてしまう特技は僕の天賦の才能。
そんなにダメな子ではないと思うが、姉キャラからしたらそうではないのだろう。
これまで幾人の姉キャラ女性から守られたかは、ばれたら殺されそうだから秘密。
お姉さんって優しいし、ミスも許してくれるし、あったかいもので守ってくれるし、
天性の弟キャラをおのれの内部に有していると申し訳ないがおいしい。
いろいろな女社会を経てきたが、逐一述べていこう。
小学校は区立だったが、女の子は概して僕に対して優しかった。
なんか8、9歳のころの僕はとてもかわいかったらしく(醜形恐怖症で確認できないが)、
あるかわいい女の子にストーカーのようなことをされ(いやではない)。
いつもその子がくっついてきて、なんで僕ばかりこんないい思いをするのか怖かった。
その子は裸になるのが好きなのかと疑ったくらい、
プールの着替えのときわざわざ僕のまえで自分を隠さず、
女子の下のほうにある裂け目を意識したのもこのときがはじめてだ。
見ちゃいけないと思って見ないようにしていたら、
席が横だったのだが話しかけてきて、
思わず見てしまったら「エッチ」
と悪戯っぽく笑われたがタオルで違法な輝きを隠そうとはしなかった。
うちなんかに来てくれたこともあって、
押し入れで少女の深淵に手を強引に導かれ、沼のうるおいを教わった。
母の発病、家庭環境の悪化により、僕はその後に急速に醜くなったら、
少女は口をきいてくれないようになり、これは最後の中学卒業まで続いた。
小学生のときは、なんだこの子は? と怖かったが、
15歳の中学生は美少女になっており、なんでこうなったのかと運命を恨んだ。
いま思えば小学生のころの美少女はみんな家がお金持だった。
医者を目指している少女は人気が高く、男子のだれもが初恋の相手にしていた。
美少女はみんな中学は私立に行き、区立中学に進学した僕は縁が切れた。

区立中学のよさは、女子の育ちが悪い子ばかりだったことである。
美男子には親切にして、そうではないものにはいじめともおぼしき行為を平気でした。
いま思い返せば、そういうところが中学女子のよさでありました。
僕は14歳で勉強に覚醒して以降成績の急上昇は止まらなかったのだが、
たしかに同級生女子の見る目は多少は変わったが、
小学生のときに受けたような厚遇はついぞ味わえなかった。
高校のことを書けとコメント欄で言われたが、あまりおもしろい女の子はいなかった。
まじめなクラスの雰囲気から完全に浮いた美少女がふたりいたのだが
(ひとりはいつも危険なミニスカ)、1年のうちに中退したようだが、
高校で友人はひとりもいなかったので詳細はよくわからない。
そうそう、おなじように孤独な僕をあわれんでか、その美少女ふたりが、
なにかの発表でひとりも友だちがいない僕に同情してくれおなじグループになり、
美人女子高生二人とグループ学習をするという恩恵を受けたが、
クラスメートは僕のことを羨ましがるというより蔑んでいただろう。
繰り返しになるが、ふたりは1年で退学した。
うちの都立高校は3年間おなじクラスなのだが、
1年からひとりも友人がいなかった僕にはなかなか辛い制度であった。
今日これを書く機会がなかったら思い出さなかっただろうが、
どうしてあの中退した美少女ふたりは僕なんかに優しくしてくれたのかわからない。
都立的なかわいさではなく、そのままお水で通用するようなかわいいふたりだった。
大学に入ってからのことはまだ書けない。

最後に派遣職場のことを書くと、あれは区立中学に戻ったようであった。
女性職場だったのだが福笑いの顔をつけ間違えたような女子派遣に意地悪された。
スケバンかなにかの話ではないが、「あたしをにらんでくるんじゃねえ」と言ってくる。
ガンをつけるなの世界で、とはいえ僕もそのころは大人で、
自分がぜんぜん悪くないことをわかっていても就業後に謝罪するくらい
なにかにあきらめていた。めんどくさいなあと。
女というのは上に告げ口をするのを好むのだともその作業系女性職場で学んだ。
何度も何度もくだんの女性は自分をにらみつけてくんなと言ってくるのである。
自意識過剰じゃないかなあ。僕、あなたに興味ありません、とは本人には言えない。
がしかし、その女性は僕の悪評を上や同僚に広めるのだから、
これは女子本国の味かとおいしかった。
どうやら女性は好きなベテラン中年男がいて、
彼と僕が表面上、仲が良くなかったから、あいつをやっつけてやれ、と思ったようだ。
しかし、実はそれはプロレスで、
彼女が好きな男と僕は、どちらも仲間がいない孤独同士、
休憩時間におなじ喫煙所でぼんやりしていたのである。
そんなところでも、どんなところでも僕はかならず優しいお姉さんキャラの女性に出会う。
もうこれは才能だろう。
いつも僕が困っているとそっと寄ってきて助けてくれる若いお姉さんがいて、
この引き寄せ能力はなにかと怖かった。
半年ぶりくらいに再会したら結婚しており、僕のことをまるで覚えていなかったが、
そのときも彼女は僕のことを助けてくれ、天然の弟オーラがあるのかもしれないと思った。

僕に優しくしてくれた多くの女たちに幸あれ。
さっき今年はじめての読書感想文を書いたが、
あんなもん、だれも最後まで読んでくれないでしょう?
読書感想文なんか骨を折々書いてもだれも読んでくれないが、
早稲田の暴露ネタとかエロ記事を酔っぱらって書き飛ばしたら、
アクセスは増えるし、批判的なものばかりだが反響(コメント)がある。
なぜそうなるかという答えは、
みなさん忙しいし娯楽に飢えているし学問なんてどうでもいいから。
本当は仏教の感想文の長文記事を書きたくて、
そういう対象の本は山のように積まれているのだが、どうにも元気が出ない。
だって、みなさん、そんなもん読みたいかよって話で。
早稲女は意地悪だが本当はお姉さんのかたまりで優しい、とか、
そういう酔っぱらって書いたルポめいたもののほうがせめて読んで退屈しないでしょう?
ある高卒の映画監督が大学教授ぶっていたが、
早稲田の高偏差値女子連中は
彼のことを完全に舐めきって幼稚園児あつかいしていたとか、
そういう本当のことがおもしろいのではありませんか?
俺だってそういう記事は眠りながらでも書けるし、自分で読み返しても笑える。
人間は低劣、愚劣、愚昧という事実を自分をかえりみてわからない人が逆に怖いくらいさ。
人間のあたまのなかってお金と女の裸と自分の評判しかないのではありませんか?
42年ながながと自分のあたまの中身を見つづけた真実はそこにある。
金、女、評判――男はこれよこれよ、これしかない。
否定する男は嘘つきだからチンコを切り取っていい。
「ブックガイド心理療法」(河合隼雄/日本評論社)

→ユングはほとんど新興宗教なのに学問ぶっており、
このためユング派の河合隼雄と新興宗教の創価学会が、
がっちり握手するのは極めて自然な流れであった。
創価学会は中国天台宗の一念三千の教学を重んじている。
人間の一念(一瞬の思い)のなかにあらゆるもの(三千)が眠っているというのが
創価学会のいう一念三千で、これは本来の中国天台宗では、
とても難しい座禅(ものの観方の変容形式)の実践論理として創られたところの、
ひどく難解な(高僧しかできない)修業方法のひとつだったのだが、
われらが日蓮大聖人はあんな座禅マニュアルは「理の一念三千」
だと生意気にもオリジナルの創案者を批判して、
ひたすら南無妙法蓮華経と叫ぶのが末法の世にふさわしい「事の一念三千」
であると主張、布教、強制したわけである。
一念三千というのはファンタジーの類だが、ユング心理学程度には学問性がある。

創価学会の教えはご本尊と呼ばれるカラーコピーに
南無妙法蓮華経と多く唱えれば唱えるほど、
その結果として「祈りがかなう」「夢がかなう」「現世利益がある」
という詐欺と紙一重のものだ。
学会は祈念と功徳を因果関係と説明するからインチキくささが倍増するのであって、、
しかし無学な庶民は「AをすればBになる」式の単純思想しか脳内で許容できず。
だからそれは誤りと指摘したいのではなく、
題目を唱えたことを因として功徳という果がかならず出てくるはずはないが、
題目を唱えたら一念三千の論理で因果的にではなく共時的に、
功徳だが仏罰だかわからなぬ不思議なことが
シンクロニシティックに同時生起する可能性はあるいはあんがい高いのではないか、
とも絶対言えないわけでもないので、
あれだけ創価の嘘を知ったわたしなんかもたまに熱心に勤行をやったりするのである。
南無妙法蓮華経と因果的に功徳が絶対発生することはまあないだろうが、
共時性、共時的ということを考えてみると、
一念三千の世界観がもし真理ならば、
題目を唱えることは理不尽な偶然だらけの世界に対する軽いグーパンチくらいにはなる。

人間は変に悟ったら食えなくなって大損するが、
しかしいくら稼いでも稼ぐほど人生の空虚、無意味、
人間の打算、さもしさに気づきやりきれなくなる。
いくら出世しようと金を稼ごうと、そうすればそうなるほどわかるのが人生の空しさで、
そうかといってい持っている栄誉や財産をぜんぶ捨てるのもそれはやりすぎだとわかる。
表層意識はどこまでも損得や高貴、美醜や貧富の絶対性を説くが、
反面、あるのかないのかわからぬ深層意識は、
すべてがくだらないじゃないかというメッセージを奥のほうから突き上げてくる。

「表層意識と深層意識とをこのように区別したとき、
人間が生きてゆくためには、
その両方についてよく知るべきだと思われる。
この点を井筒[俊彦]は次のような「老子」の言葉を引用してうまく述べている。

   常に無欲 以てその妙を観
   常に有欲 以てその徼(きょう)を観る

常に無欲とは、まったく執着するところがない真相の意識であり、
ここでは、いろいろなものの区別がなくなって、
絶対無分節の[二分法の言葉では言えない]「妙」の世界になる。
これに対して、「欲」はものに執着するこころの在り方で、
そこには「徼(きょう)」が見える。徼は、
「明確な輪郭線[二分法を基準とする言葉]で区切られた、
はっきり目に見える形に分節された『存在』のありかたを意味する。」
「老子」によれば、この両方を同時に見ることが必要ということになろうか。
考えてみると、われわれ心理療法家は、
たとえばクライエントが「死にたい」と言ったとき、
それはどの程度実際に実行するつもりで言っているのか、
なにか他のことを訴えたいためなのか、
治療者に向けての攻撃なのか、などという点で、
できるだけ分節して把握し、「徼」を見ることが必要だが。
一方では「生きることも死ぬことも、それほど変りがない」
とも言える[二分法の言葉ではない]「妙」の世界を見ることも必要である」(P28)


創価学会の婦人部さんに信濃町の会館に連れて行ってもらい題目を唱えたとき、
こころのなか、というか、そうおへその上のあたりに
「妙」という字をイメージしてするのがいいのよ、と教えてもらい、
そのとき以来そのようにしているが、
当時僕は願いも祈りもギラギラした欲望も健康不安も
なにもないまっさらな状態だったから、
あまり学会っぽくないことを指導してくれたのかもしれない。
ここで言われている「妙」の世界は無量光(計測できないもの)、
無量寿(数字にならない単位)の無言語世界、阿弥陀仏にも通じ、
法華経も阿弥陀仏もおなじだろうと僕なんかは思うが、
それを言ったら学会婦人部さんは怖い顔をしそうなので言わない。
信濃町のえらく豪華なビルで教わったのは、念仏は絶対言っちゃダメだとか。

「妙」――言語化(二分化)できない世界を、
損得だらけこの世はバックにたしかなものとして持っている。
それが南無阿弥陀仏であり南無妙法蓮華経であり、
不立文字(ふりゅうもんじ)の禅の世界である。
河合隼雄は長らく禅と詩がわからないとたくさんのところで言っている。
しかし、本書では禅と詩に対する河合のめずらしい、
そして卓越した禅思想、詩解釈が述べられているので大ファンとしては紹介したい。
最初にあらましを書いておくと、河合は
「無言語世界→純な感動(驚き→発見→喜び)→言語化(詩作)→陳腐化」
という禅と詩作にまつわるどうしようもない意識の流れを言葉で説明している。

「著者[上田閑照=有名な禅学者]はリルケの自作慕名碑を借りて、
禅における言葉の問題を説明する。
著者自身の訳によると、それは次のような詩である。

   薔薇(ばら)、おお! 純粋な矛盾、
   幾重にも重ねた瞼(まぶた)の下
   誰のでもない眠りである楽(よろこび)

著者[上田閑照]はこの詩を、
①「薔薇(ばら)」、
②「おお!」、
③(a)「純粋な矛盾」、(b)「幾重にも重ねた薔薇の下 誰のでもない眠りである楽」、
に分けて考える。
①は薔薇の現前、
②は薔薇の現前に打たれた驚きが、言語以前の音声として発せられたもの。
③はその驚きが言葉になって開かれたものである。
ところで、これに対する著者の言葉は注目すべきことである。
「できあがった詩としてではなく、
このような詩句が生まれてくる『言葉の出来事』として見る場合、
②の『おお!』を詩句の全体が発せられてくる源
――根源語(Urwort)――と見る。
逆にいえば全詩句をこの『おお!』の分節と見ることができると思う」。
詩における「根源語」を指摘し、全詩句をその分節として見る、
というところに上田閑照の考えの本質が示されている」(P138)


きつい仏道修行をするか精神病にでもならなければ、
人は自分の本当の感動(驚愕)に出逢えないし、
そこからその非二分的言語以前の感動を自分の知っている言葉を用いて、
(自分なんかにさらさら興味をお持ちくださらぬ)他人様に説明するのは至難のわざ。
そんなことをしてもいっさいお金にはならないし、異性にも好かれない。
しかし大なり小なり人は生きていたら「おお!」という感動を持つ。

「この「おお!」に対して彼[上田閑照]は次のように云う。
「それは単に薔薇に対する驚きではない。
薔薇の現前にあって自己を忘れて『おお!』と言う時、
その『おお!』の直下においては薔薇も忘れられている」。
そこに現前しているのは、日常に知られているバラではない。
それは「名づけ得ざるもの、言いえ得ざるものとなって現前している」。
そこでは「真に驚くことと言葉を奪われることは一つの事である」
という[二分化言語化できない]体験が生じているのだ」(P139)


しかし、河合や井筒のような学者たちが知らぬことだが、
本当の下層民、庶民は「おお!」という言葉さえ知らない。
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経があるとき多くの人を救ったのは、
それは「おお!」の代わりになる言葉だったからだろう。
平成の「おお!」はお江戸の近松劇の「南無三宝!」である。
人生の裏側をたまたま見てしまったときに詩作できたら救われようが、
われわれ下層民の多くは「おお!」や「南無三宝!」でさえうまく発声できない。
こういう事情のため踊り念仏は文盲の底辺男女に、
南無阿弥陀仏という最高真理の(「おお!」に相当する)呪術語を伝えることで、
まさしく言葉そのままのちからで多くの人を救ったのではないかと思われる。

「「おお!」と言う時、人間は言葉を失うことによって「自己の死」を体験し、
同時にそれは「言葉を奪われたところに現前している『言い得ざるもの』
が言葉になる最初の音声」を発したという意味で
新しい自己への蘇生の声でもある。
「『おお!』と言う時、そこには人間の絶後再蘇がある」(P139)


一瞬の感動は一瞬で消えることは、その一瞬における浄土も極楽も証明しているわけだ
「おお!」という感動発見はだれでも可能だが、しかしそのありふれた奇跡の「おお!」を
たとえば「南無阿弥陀仏」のような言葉に感情と意味を移行することができず、
結局はざっくりと「ほっこり」なんていう軽い言葉で言い換えてしまい、
彼(女)は人生の深い味を知るチャンスを逃す。
彼(女)は「生死」を味わうことなく無機質に老いる。「おお!」とさえ言えない。
「おお!」でもいいし南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもいい。意味はおなじ。

「「おお!」と言う時、人間は言葉を失うということによって「自己の死」を体験し、
同時にそれは「言葉を奪われたところに現前している『言い得ざるもの』
が言葉になる最初の音声」を発したという意味で
新しい自己への蘇生の言葉でもある。
「『おお!』と言う時、そこには人間の絶後再蘇がある」。
このような根源語[=おお! 念仏や題目! 二分化できない言語以前の驚き!]
がイメージとリズムによって言葉に分節してくると詩になる。
しかし、そこには常に「根源から離れる危険も蔵されている」ことを知らねばならぬ。
既成の言葉を安易に使用することによって、
根源的な体験から離れたものになってしまうのである。
まして、「おお!」の体験をもたないままで、
詩を書いたりすると、それは言葉の遊戯になってしまう。
「『おお!』をほんとうにに発し得るかどうかに禅の第一の問題がある」
と言うのも当然である」(P139)


こういうのを読むとざっくりとした言葉のなかで、
なんの疑いもなく
ほっこりと生きていける人への言葉にならない「ため息」もらすしかない。
今年はじめて読書感想文を書いたが、要約したら言葉を舐めるなよってこと。

(関連記事)←ひとりとしてお読みにならないでしょう。
「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣

みんな早稲田の一文女子のかわいさを知らないだろうが、
あいつらは偏差値もプライドも異様なほど高く、
実践や大妻、聖心のように早稲田のインカレのサークルなんか来ないわけだ。
入試問題を見たらわかるが、一文なんか宗教の世界で神がかった子しか入れない。
一文女子は内向的で妄想過剰で男嫌いで、
だからだから、ハァハァハァハァ、最高にかわいいのは早稲田の一文女子。
あれを知っちゃうと、なかなかほかの女を愛せない。
英語や中国語がぺらぺらの若年同学年の
なまなましい女ときみは会ったことがないから僕を批判できるのだ。
ミス東大よりもミス慶應よりも、日本でいちばんかわいいのは早稲田の一文現役女子。
あの子たちはそばに寄っただけでいい匂いがするし、存在がそのまま文学なのである。
悪いが早稲田の一文女子を知らないきみに文学を語られても困る。
あんなエッチで貞淑で恨み深い女の子たちがほかにどこにいるというのだ?
一文の現役早稲女は神世界に飛んでいる天女のようなもの。
あいつらの中国語のできは神の世界、仏の世界、天の世界。
ものすごい地味なちょっとおっぱいが大きいのが目につくだけの都立女子が、
俺さまがあたまがいいと思っている俺さまの
3培、4培中国語ができちゃう世界なわけ。
ぜんぜん派手なところがない一文女子ほど賢かった。
女のすごさは一文女子で証明できるというほどあいつらは怖かった。
文系限定でいうが、あたまのよさは語学に尽きる。
現役一文女子はナチュラルにそのまま中国語を話せて、
それを誇るようなことがまったくなかった。