やんなっちゃうな、もう。こんなことあるか、ふつう。
いままで大量の本を買ってきたが、一度もなかったぞ、こんなこと。
積ん読すること10ヶ月、
ようやく意を決して宮本輝の「流転の海 第7部 満月の道」を読もうと思い立つ。
宮本輝の本は読むのも感想を書くのもエネルギーがいるんだ。
よし、読むか、と本を手に取ったらなんだこれ。
カバーは「満月の道」なのだが、中の本が「慈雨の音」なのである。
ちなみに「慈雨の音」は「流転の海 第6部」で既読。
なにかのいやがらせか。創価学会の陰謀かよ(笑)。冗談じゃねえって。
たぶんアマゾンで買ったと思うのだが、最初に思ったのはあきらめよう。
これはものすごくめんどうくさい作業になるような気がする。
とても750円では割に合わないと予想される。
しかし、750円といったらへたをすると交通費を抜いたわたしの派遣時給相当価格。
いま吃音が悪化していて、本当に電話をしたくないのだ。
とはいえ、泣き寝入りするのも悔しいので、なにかを呪いながらアマゾンに電話する。
いまから思えば新潮社のミスなんだから、
あのエリート連中のもとに投げ込んでやればよかったのかもしれない。
アマゾンとの電話チョーめんどくさかった。泣くほどめんどくさっ。
メールアドレスを一字一字口頭で伝えなければならないんだぞ。
わたしは主にふたつのアドレスを使用していて、どちらがアマゾン用かはわからず、
ひとつをまず言ったのだが、ものすごい時間がかかった。
従来の吃音と滑舌の悪さがあいまって、伝わらない伝わらない。
2、3回、修正や復唱を繰り返した。
なんでこんなに苦労しなくちゃならないんだ。
「もう750円ですし、ええか」と何度も電話で言ったが、向こうもそう言われても困るだろう。
で、苦労苦心のあげく、伝えたメールアドレスが違った。
とすると、もうひとつのアドレスをいちから伝えなければならない。
「めんどくせえ」って何度も電話で泣き言を口にしたものである。
なんかさ、おれの「b」の発音が向こうには「d」に聞こえるみたいなんだ。
ものすごい時間をかけて本人確認が終了。
返金と交換のふたつがあるが、購入後1ヶ月以内でないと交換は無理とのこと。
そっちのミスなんだから、新しいのを送ってこいや。
そう言ったあとに気づく。
「これはアマゾンのミスではなく出版社が悪いんですよね」
「はい、おそらくはそうかと思われます」
で、特例で新しく送ってくれると言うが、その失敗本を送り返す必要があるとのこと。
じゃあ、めんどうくさいから返金で言いですと伝えたら、
それでも失敗本をアマゾンに送る必要があるとのこと。
梱包とかチョーめんどくさいじゃないですか?
その手間賃とか梱包代とか、どうなるんですか? 答えは、どうにもなりません。
わかっているよ。あなたはたぶん非正規のような気がするし、
間違いなくあなたは悪くないし、アマゾンも悪くないし、
いちばん悪いのはたぶん新潮社の委託会社なのに、
どうしてわれわれがこうもここで呻吟しなければならないのか。
こういうブックカバーと本体が食い違うケースはどのくらいあるのか質問する。
1万分の1、いや3万分の1でも、多すぎる数字でしょう。
わたしもそう思う。これまで大量の本を購読してきたが、これは初体験。
電話後に返品方法を記したメールが来たが、読むのがめんどうくさい。
返品しないと750円の損になるらしい。
今後は注意するよう関係部署に通達しておきますってメールに書いてあったが、
アマゾン倉庫の人だってブックカバーと本体が異なっているなんて思いも寄らないだろう。
そこまでチェックしていたら時間が持たない。
やはりここは新潮社に爆弾(失敗本)を送りつけるべきだろうか?
わたしは芸術家肌だから(え?)、
こういうことがあると1日のやる気がそがれてしまうのだ。
ネットを見ていたら、「流転の海」シリーズは完結していたのか。
ものはついでと第八部(文庫本)、第九部(単行本)も購入。
ただしアマゾンではなく楽天で。
これはクレームを入れなかったが、アマゾンでちょいまえに購入した本が、
新刊なのに油よごれがついていたんだ。
わたしの人生では、起こりえない奇跡のようなことがよく起こるのである。
今回のようなケースは10万回に1回あるくらいレアなものではないか。
父は神経症(吃音)で母は精神病。
どちらもなる確率は1%だから、0.01×0.01で、これは1万分の1だ。
母親から声をかけられ目のまえで飛び降り自殺をされるのは、
もはやカウントできない数値で、
1千万人にひとりくらいが遭遇する症例ではないかと思われる。
いまでも母のいやな夢をひんぱんに見るし、宝くじに当たったようなものだろう。
しかし、マイナスほどレアケースではないけれど、
プラスの奇跡的なことも起こらなくもないが、それはちょっと書けない。
とにかく確率の低いことがわたしの周辺ではよく起こるのだが、これはなんだろう?
いったいプラスマイナスふくめて、
これからどんなことが起こるのか楽しみと言えなくもない。
べつになにも起こらないまま不遇に死んでも、まあ、それがそれならという達観はある。
客観的にはどうだかわからないけれど、主観的には非常に行き詰っている。
旅に出たいと思ったが、行きたい場所もないし、懐がそう豊かなわけでもない。
某月某日、某派遣会社の仕事に応募した。旅に出られるからである。
早朝業務のため前日はホテルに宿泊させてもらえる。
ホテルに泊まるなんていつ以来だろうとウキウキする。大和第一ホテルに到着。
かつて旧満州の大和ホテルには高額すぎて泊まれなかったが、
こうして人様のお金で別のいわば大和ホテルに行き着いた。
てっきり東横インだと思っていたが、ここでしたか。
おなじ派遣の人を何人も見たが余裕のない、しかし彼らのそつのない行動ぶりに驚く。
ホテルに泊まることをぜんぜん喜びと感じていないことに彼我の相違を感じる。
夜の大和駅周辺を軽くパトロール。
スーパーで半額のうにと弁当を買い、狭いホテルでささやかな孤独酒宴。
テレビをBSのTBS、吉田類の酒場放浪記に合わせる。
その次の番組で日蓮が特集されていて、TBSはそっち系なのかと思う。
まさか42歳まで生きていて、大和のホテルに泊まり、酔眼で日蓮を見るとは。
乞食根性。せっかくホテルに泊まったのだからとバスタブに湯をため、
何年ぶりか湯船につかる。旅の宿で風呂。山頭火気分を出そうとする。
朝4時起床。大和駅から中央林間駅へ。東急線乗降者調査の派遣仕事。
聞きしにまさるほどの楽な業務。これは仕事ではない。
朝6時、7時からスーツ姿で駆け込んでくる乗客を見ると申し訳なさでいっぱい。
山田太一ドラマ「早春スケッチブック」のテーマ音楽が脳内で流れる。
生活とは、こういうものだ。生きるとは、こういうことだ。
制服姿の女学生も目に入るようになる。なぜか男子学生はあまりいなかった。
しかし、それが生きるってことかよ。
教科書を見ながら歩いている子も多い。
勉強していい学校に入り、いい会社に入り、いい結婚をして、郊外に家を買い――。
しかし、それが人生だ。わたしは人生を知らないと青臭いことを中央林間で思う。
つくづく山田太一が好きである。
隣でカウントしていた男子が早稲田商学部の4年生。
もう就活は終わっていまは卒論に取り組んでいるという。
自分は一文で、卒論は創作小説だと言ったら二重に驚いていた。
「こんなことってあるんですね。たまたま来ただけなのに」
小説はあれから18年書けないでいる。
右横のカウント派遣は60過ぎのじいさんで、
おなじ単発派遣なのになぜか偉そうに指示を飛ばしてくる。
こんな楽な作業にどうしてそんな真剣になれるのかは不明だが、
仕事とはそういうものかもしれない。
左の早大生、右の仕事狂、どちらに聞いてもこのへんで観光するなら江ノ島しかないと。
偶然にまかせる。
10時ごろ死ぬほど楽な派遣仕事から解放され、することもないので江ノ島へおもむく。
正直、江ノ島にはまったく期待していなかった。
むかし子どものころ父に数度、
海水浴に連れてきてもらった記憶があるが、あまりいい思い出でもない。
片瀬江ノ島駅に降車した瞬間、空気の違いを感じる。
ここは観光地だと思う。アジアの香りがする。
当初は江ノ島には行かないで、
七里ヶ浜を散歩して長谷寺にもでも再訪するつもりだった。
いちおう仕事明けなので、
江ノ島の浜辺でローソンのチキンを食べながら第三のビールをのんでいたときだ。
まだひと口しか食べていないLチキをトンビにさらわれてしまう。
左手に持っていたチキンを映画かなにかのように鳥に持って行かれた。
前日、太宰治の「竹青」を読んでいたので奇妙な符合に感じ入る。
「竹青」はカラスと恋をする話だ。中国民話をもとにして書かれた小説。
チキンをトンビにさらわれたまさにその瞬間を目撃した江ノ島カップルと目が合う。
左手で、見た? 見た? これ? とアピールする。
江ノ島から歓迎された気がした。ほう、そう来ましたか。ならば、偶然にまかせよう。
江ノ島がよかった。ここまでいいとは思わなかった。
もしかしたら江ノ島は日本最高の観光地ではないか。バタ臭いのがいい。
奈良京都のように澄ましているわけでもなく、浅草のように押し出しが強くもない。
江ノ島はいかにも観光地といったいかがわしさ、うさんくささ満杯なのがいい。
江ノ島に入るところで、高そうなスーツを着た50くらいの日本人男性から声をかけられた。
タブレットで自分たちの写真を撮ってくれというのである。
上品な男性はおなじく品のよい同年齢の女性と連れ立っていた。
お忍びの関係のように見えた。
写真の撮り方を聞いたら、ここを押すだけだという。
まだまだ大丈夫。人から写真撮影を頼まれるくらいだから、外見はまだまだ大丈夫。
しかし、どうしてわたしが日本人だとわかったのだろうか。
そのくらい江ノ島観光客は中国人率が高い。欧米人がいるのも嬉しい。
江ノ島はたとえるならば、中国の観光地、青島(ちんたお)にそっくりだ。
青島ビールで有名なあそこ。
お洒落でなく、泥臭い、しかしなんだか肩のちからが抜ける観光地。
江ノ島はいいよ。
おなじ派遣の早大生から聞いていたように、
たしかに江ノ島に入った瞬間からコンビニがなくなる。
缶ジュースやビール、酒が少しづつ高くなっていく。
どう見てもいかがわしい海産物の焼き串が、その場のノリで高値で売られている。
午前中からビール、酎ハイ、酒がこれ見よがしに売られているのがよかった。
観光地はこうでなくっちゃ。
江ノ島はむかしぶらぶら遊び歩いたアジアのかぐわしき香りをふんだんに漂わせている。
脱力した高齢ファラン(白人)集団のなまくらな観光姿勢も好ましい。
飛行機に乗ってアジアに行かなくても、江ノ島に最高のアジアがある。
海辺の江ノ島だから海産物(しらす)というイージーな発想もよろしい。
しらす丼とかまぐろ丼とか煮魚とか、異常なほど高価で出しているのがうっとりアジア。
江ノ島で魚なんて取れないっしょ(たぶん)。
しかし、そのインチキなところがアジアで、いいよろし。
江ノ島はむかしながらっぽい食堂がたくさんあり、どこも海産物と酒を全面に出しており、
下界と比べて値段は非常に高く、あまりおいしくもなさそうだが、
そこがグー、アッチャー、ハオ。
たぶん江ノ島の本島にはこれがはじめて来たと思う。
日本にもこんなすばらしいアジアがあったのかと深く感動する。
なにより観光客がいい。観光とはこういうものだということがわかる。
耳に入ってくる中国語の音調がなんとこころよく響いてきたことか。
これは第二外国語が中国語だったことや、
かつて2ヶ月近くかの国を旅したことがあってのことだろう。
この偶然感動はなんだろう。
江の島大師。南無大師遍照金剛。
中国人や白人には空海がなにがなんだかわからないと思う。
わたしも空海には無知だったが、
縁あって今年、かの日本人のよりどころの著書に触れた。
南無大師遍照金剛。
江ノ島には日本人の小学生も遠足に来ているのである。
これこそまさにアジアの観光地、人を選ばない、みんなが楽しめる、それが江ノ島。
江ノ島は日本の進化から取り残された孤島のようなところがある。
若者が「おれ、お酒の自販機をはじめて見た」と騒いでいた。
さすがにおっさんのわたしはその存在を知っていたが、
それでも懐旧の感激があった。もしかしたら江ノ島は日本最高の観光地ではないか。
江ノ島は土産屋や食堂の客引きがとてもいい。
これはすごいところに来たのではないかと本気になる。
江ノ島にはなにがあるのか。
よくわからんが、踊り念仏の一遍上人の記念碑があった。
一遍といえばもっとも心酔する念仏者である。
一遍を知らなかったらおもしろくもなんともないが、わたしは深い感動をおぼえる。
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。踊れ。まかせよ偶然に。信じろ人間を、世界を、宿命を。
なんちゃって、えへへ。
ザ・エノシマ。
いいな、この感じはアジアだ。アジアのゆっくりとしたいいかげんな、
そこそこデタラメな感じ。
ゆる~い、てきとうな、ジャンクな、のほほんとした、しかしけっこう計算高いところもある。
エノシマケイブ。
ここが江ノ島観光のクライマックスらしき洞窟に行き着く。
入場料500円とのこと。高い。入らない。
ラオスのルアンパバーンにも似たようなところがあり、
そこはしっかり観光したのに日本だとケチだね。
海を見ながら持ち込みの缶チューハイをのみ昔日の感傷におぼれた。
江ノ島、お腹いっぱい。さて、これからどこに行こう。偶然にまかせる。
流れるように流されるように歩いているとやはり江ノ島はすばらしい。
まるで日本じゃないみたいとも、治外法権だとも、反対にここが日本だとも思う。
妙に田舎くさいお洒落を江ノ島は演出している。
ふたたび、バタ臭い。だが、そこがいい。シャレオツよりもバタ臭いほうがええやん。
いちおうなにかあったときのために文庫本を持参していた。
15年まえに購入したハイキングコースが多数掲載された文庫本。
むかし何度この本のインチキガイドにだまされて道に迷ったことか。
そこがおもしろかったので、この本はいまでもたいせつである。
またもや記載地図が現実とは異なっているのがいい。
なぜか江ノ電の江ノ島駅に着く。それもまたよし。
ベトナム風サンドイッチのバインミーの看板が目に入る。
思えば、ベトナムこそ江ノ島で、
江ノ島にこうも満足したのはまるでベトナムの観光地のようだったからである。
ベトナムのニャチャン、ダラットを懐かしく思い出す。
500円もするバインミーなんて東京なら決して食べないが、ここは異界の江ノ島。
12年ぶりのバインミーをセブンイレブンで買ったハイボールとともに食す。
あれから12年も経ったのか。けっこうなんとかなるもんだ。
ほろ酔いかげんで、いいかげんにデタラメに歩くと寺がある。
龍口寺? そういえば文庫本にも観光名所として載っていたな。
JRや江ノ電の駅を降りればすぐに案内がありわかると
15年まえのガイドブックには書いてあったが、実際はそうではなかったような気がする。
なにが龍口寺だと半笑いで物見気分で入っていく。やべえと気づく。
龍口寺のタツノクチって、むかし創価学会の教科書で読んだ、「竜の口の法難」のあそこか。
日蓮が処刑されそうになったが奇跡が起きたというのが「竜の口の法難」。
昨夜、ビジネスホテルのテレビでも見たが、この偶然はなんだろう。いや、ただの偶然。
まさかここで日蓮が来るとは。
龍口寺は日蓮宗のお寺。
日蓮宗は主流で、創価学会を生み出した日蓮正宗はどちらかといえば亜流。
江ノ島散歩。空海、一遍に引き続いて今度は日蓮かよ。
日蓮大聖人。
わたしは弘法大師空海、踊り念仏の一遍上人と同様に日蓮大聖人も好きだ。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
寺社に入ると酔っているためだろう。不思議な涙が込み上げてくる。
南無妙法蓮華経とこころのなかで唱えながら、18年まえからのおなじ祈りをする。
きっと祈るというだけで救われているのだろう。
祈る対象がいるというだけで救われている。そのくらい人間は無力、無力、無力。
ふだんなら絶対にそんな散財はしないのだが、
意味のないおまじないに500円支払う。
小さな絵馬に自分の名前を書いて割り、
それを寺社に渡すと厄災から逃れられるというのである。
いまは超常的なものならなんにでもすがりつきたいくらい弱っているので、お願い。
こんなことはバカらしいとあざ笑いながら、
いや、これで宇宙世界にアクセスできたぞと安心しながら料金を支払う。
結局、なにがどうなるかなんて人間にはわからないのである。
おみくじも買う。いま行き詰っているので、念を集中して、出でよ真実と思いながら。
道はけわしい。この先になにがあるのだろう。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
少しは偶然世界にアクセスできているのだろうか。人生は偶然といってよい。
しかし、人間は偶然にアクセスする方法をほとんど持っていない。
だれかが幸福になるのも不幸になるのも、おそらくは偶然。
南無大師遍照金剛。南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華経。以上、歴史の順番。
久しぶりに長谷寺に行こうかと江ノ電に乗車。
長谷に着いたのは4時をかなり過ぎており、駅員さんからもう観光できないと教えてもらう。
鎌倉大仏ならぎりぎりセーフと聞いたが、そこまでして見なくても、もう見るべきことは見つ。
いざ鎌倉。
鎌倉も10年くらいごぶさたしていたが、記憶が弱っているためかむかしとは異なる容貌。
品川駅で人身事故。電車はとまっています。鎌倉駅のサイゼリヤは休店中。
ひとり死んだ。ひとり自殺をした。ぐちゃぐちゃになって死んだ。
昨日まではスーツをまとい意気揚々を装い電車に乗った人が電車に飛び込んだ。
みんなに迷惑をかけないように生きてきた人が最後にみんなに迷惑をかける。
家に帰れるのかよ、とわたしは思った。
帰宅後、龍口寺のおみくじを見直して、また感傷の涙に暮れた。
「今までは心が家に帰らぬように彷徨(さまよ)っていたが、
時期が来て家に戻りくつろぎの場を得るだろう。
心を共にする人もあり、地位も富も増して来て、いろいろなことが叶い、
何事にも吉となって来る。
霊跡本山 龍口寺」南無妙法蓮華経。南無阿弥陀仏。南無大師遍照金剛。