夫婦東大人気作家の小谷野敦先生のご著書
「文章読本X」を読んでいろいろ考えさせられたが、
いい文章とは人を動かす、人に行動させる、人を変化させる文章なのではないか。
詳細は書けないが、この定義が正しいならば、
わたしにもいくばくかの文章力はあると思われる。
言葉しかないと追い詰められたことならある。人を殺すのも救うのも言葉。
言葉、言葉、言葉。世界は言葉で分節化されている。
人生でなんの努力もしていないが、そういえば言葉だけには執着してきた。
作家の村上春樹氏と村上龍氏はどちらも2000年まではほぼ全作品読んでいる。
二大巨匠と呼ぶべき存在だろう。
どちらが好きかと聞かれたらどちらも好きだったが、それは過去形で、
いまお金を払ってまで両巨匠のご作品を読む気はしない。
春樹は太田和彦で龍は吉田類のような気がする。
春樹さんはお上品で読者をうっとりさせる文章を書ける。
龍さんは身もふたもないことを言えば、野卑な大衆娯楽人気作家なのだが、そこがいい。
村上龍の「愛と幻想のファシズム」は娯楽大作だが、
本物を見破る目がある瀬戸内寂聴さんに
「あんなのはバタイユのパクリ」と蹴っ飛ばされている。
ご作品はダブル村上に比べてほとんど読んでいないが、
寂聴さんは村上作家よりもはるかに文学的に(村の)上流にいるように思う。
天台宗僧侶の瀬戸内寂聴さんは村上さんたちよりもはるかになまなましく本物っぽい。
酒場コメンテーターとして知られる二大巨匠は太田和彦氏と吉田類氏である。
文章は比較にならないくらい太田先生のほうがうまい。
ジェイコムのよさに気づき、ご両人の映像を見比べたら放浪の吉田氏のほうが数段上。
太田和彦さんは居酒屋で先生口調なので、バカヤロウと思う。
太田さんは偉そうなところがある。
吉田類さんは文章からかんがみると、さほどの人物ではないと見受けられたが、
ジェイコムの酒場放浪記を見ると、比類ないとてもいい味を出している。よかった。
あれは金を取れる芸だ。庶民と触れ合っているのもいい。
太田和彦さんの文章のうまさは身震いするほどだが(あれは天才です)、
それゆえか孤高のため大衆にうまくとけこめない。
先生と呼ばれる商売がいかに人をダメにするのかわからなくもない。
太田和彦さんの文章はうまかった。好きだった。
いまでは吉田類も太田和彦も先人として尊敬している。

*太田さんのどもりっぷりは聞きしに勝るほどで非常に敬意を増した。
最近、加齢にともない健常者の常識が戻ってきたのか、
一度書いたブログ記事を消すことがものすごく多い。
こんなことを書いたら危険人物に思われるのではないか。世間体が悪いのではないか。
自己認識の問題もある。
いまのわたしは自分の無価値を常識人のように理解しようと努めているところがある。
そうなると、わたくしごときの思いなんて書く気がなくなるのである。
わたしが川越美和を好きだって、そんなことはみなさまにはどうでもいでしょう。
しかし、少数ながらうちのブログにも愛読者がいるようで、
ふつうは実名で書けないことを能天気に書くところを気に入ってもらったような気もする。
損得を換算するとブログは明らかにプラスになっているのだ。

けれども、当方にも世間なみの常識が戻ってきたようで、これは削除したほうがいいかと。
華厳経の理論だと、
たとえアクセス数は微々たるものでもだれかがなにかの発言をすれば、
それは世界に一打を与えているわけで、全体に影響をおよぼす。
こういう信念からブログ更新をしているところがある。
ブログ記事をお読みくださったひとりはほんのわずかでも影響を受ける。
それは読者さまの行動や発言にも塵芥レベルではあるが影響をもたらすだろう。
結果としてそれは世界全体をめぐりまわって自分に返ってくるという信仰である。

どこまで書いていいのかわからなくなっている。
業界大手の株式会社シナリオ・センターの記事は山ほどご批判を受けたが、
わたしなんかをおもしろいと思ってくれる人はあの非常識な部分をご支持くださる。
とはいえ、世間的に賢い行為は大手多数派のシナセンに降伏、平伏することはたしか。
でも、やっぱりあれはわたしの非もあったが、
業界大手の殿様商売ファミリー会社のシナセンにもずるいところがあったといまだに思う。
匿名コメントにあれこれ粘着されるとブログをやめたくなる。
該当人物だって、このブログをストーキングするのが生きる楽しみなのだろうから、
「本の山」が更新を終了したらいちばん困るのはだれかわからないのだろうか。
高校生の川越美和のかわいさを知ったのは
テレビラマ「1970ぼくたちの青春」だった。
日本映画放送チャンネルのいまの社長はあの人なんだから再放送してよ、杉田さん。
そのためにジェイコムに加入したようなところがあるのに、いまだ再放送されない。
本当の美少女というのは川越美和しかいないのではないか。
あの繊細で、しかし傲慢で意地悪なくっきりとした神々しいまでの刹那の透明感。
老いたすがたを見せないで早死にしたのもよかった。アルコール依存で死んだ。
夢のまま美しいままに死んだ。
「二十歳前後で月に200万稼いだらもうほかの仕事はできない」
そんなことを言ったとか言わないとかされている。
死んでいいケースもある。長生きだけが能ではない。死んで栄える美もあるさ。
知らない人はわからない話を書くと、
プロレスの冬木や橋本はいまのわたしとおなじくらいの年齢で死んでいる。
で、冬木と橋本にはおなじ女神がついていて、
その女性は近年、詐欺で逮捕(起訴?)されたとか、プロレス的すぎておもしろい。
一説には、クラッシュギャルズの長与選手の処女は冬木が食ったと言われ、
橋本も同女体をお腹いっぱい、ぽんぽこりんにご馳走になられたらしい。
若いころの長与選手は神がかっていて、オーラがあり、かわいい。
そのうえに性的に奔放なんて長与選手はどれだけ人生の愉楽を味わったのだろう。
プロレスとは、かつてはそういうものでございました。
希望を語らなければならない。希望はある。
最近加齢により性的理解度が上がったような気がする。
むかしは同性愛がさっぱりわからなかった。
しかし、名作映画「ベニスに死す」を見た功徳か、ああ、そういうことかと。
同性愛はわからないが、少年愛はほほうとね。ほほう。
「ベニスに死す」は美少年のペニスにフォーカスしすぎていて、
あれに性的嗜好を感じないものは鈍い。
要は壇蜜のような人が少年をお風呂に入れてあげると誘いペニスを刺激して、
ダメじゃない、こんなに大きくしちゃって、
というところに少年愛の基本のキはあるのではないか。
壇蜜というのはロボットのようにうまくできていて、
ああいう人が、あたしは初めての人に調教されて、人間が変わったの、えへっ。
そういう話を聞いたらエロエロだよ、ダイナマイトだ。
とはいえ、まだ同性愛は理解できない。
おっさん同士の同性愛とかなにをしているのか。今後の課題である。
加齢が待たれる。そうではなくて――。
議論が待たれよう……って書くと新聞っぽくなるんでしょう?
偏差値をはかる試験問題は偏差値50をつくるために作成されている。
偏差値70にしか解けない試験問題では不正解95%で偏差値50が測定できない。
偏差値30でも解ける試験問題は正答率95%で全体がわからない。
いい試験問題はグラフの真ん中が山になっているものである。
言い方をかえれば偏差値50があるおかげで70も30も測定することが可能になる。
こういう数学的真理から考えると、いちばん偉いのは偏差値50なのではないか。
世の中は偏差値50を主役や中心として回転している。
偏差値が嫌いなものは、健康診断を嫌う人たちのような振る舞いをするしかない。
試験を受けなければ偏差値は測定できない。あるいは試験問題を白紙で出す。
人の話を盗み聞くのは大好きで、
さきごろ女子高生が顔面偏差値という言葉をリアルで使っていたので驚いた。
というのも、顔面偏差値なんておっさんのネットスラングだと思っていたからだ。
顔面偏差値はあまりに高くても低くても苦労や苦悩が絶えない気がする。
結局、幸福というのは万事、偏差値50あたりにあるのではないだろうか。
だって、偏差値50は上を妬み、下を愚弄できるじゃないですか。
そのうえ偏差値50は仲間がいっぱいいるから群れやすい。孤独ではない。
これからは偏差値を上げる教育だけではなく下げる教育も必要になるのではないか。
意識が高い連中をあざ笑える偏差値50こそ幸福な人たちではないかと思う。
最近、ブログ記事の自主規制が厳しい。批判コメントが燃え上がるからかもしれない。
思ったことはいえない。たたかれるし、実名ブログだし、当面電話番号も公開している。
「偏差値50の正義」は以前に1回書いて、これはやばいと思い即刻削除した。

正義とはなにか? 多数派から支持される行為、信条、思想である。
正義は多数決で決まる。
数学的真理は別として、
ほかのあらゆる正義や真理は多数派が賛同しているという根拠しか持ちえない。
神がいたのも多数派の支持により、いなくなったのも多数派の意向による。

確率統計をかじった人ならわかるでしょうが、多数派というのは偏差値50。
ちょうどグラフで真ん中が盛り上がる、あそこがいちばん多いのである。
だから、視聴率というのはよくできていて、
うまく偏差値50の関心をひいたものが勝者となる。
売れるというのは、偏差値50のメンバーにどう喜んでいただくか、と考えたらどうだろう。

上から目線とか、尊大とかお叱りを受けそうだが、
いま当方の偏差値はへたをしたら35近くまで落ちている。
偏差値50が正義なら、どうにかして50まで自分を高めたい。
釈迦が偉い理由だって、多くの人が尊敬しているからとしかいいようがない。
東大が偉い根本も高偏差値で、それゆえ偏差値50が崇拝しているからともいえよう。

正義は偏差値50にあり。
40歳を過ぎて、こんなくだらないことに気づき喜んでいる当方の偏差値は?
ネズミ以下ではないかと自分では思っている。
正義は偏差値50と考えて世の中の事象を見てみたら――、
なんて尊大なことを申し上げてしまうのも低偏差値ゆえ、どうかご勘弁ください。
まえに一度逢ったことがある統合失調症の学会青年から、
また3時間近くかけて自分の家まで来てくれないかと言われたことから多くを学んだ。
わたしは千葉の田舎までまた3時間近くかけて彼に逢いに行くことはできない。
彼は統合失調症のため電車に乗れないという。
わたしもどちらかといえば電車は好きではないが、まあ気にせず平気で乗れる。
心のどこかで思ってしまう。どうして電車に乗れないんだろう。

長らく吃音持ちである。
ふつうの人は、どうして話すことくらいできないのかわからない。
見た目はふつうなのに。努力が足らないんじゃないか。訓練しろよ。
トレーニングでたまたまうまくいく場合もあるが、そうではないケースも多い。
健常者は努力が足らないんじゃないかと思う。

仕事ができる、勉強ができる、もおなじ。
できる人はできない人がどうしてこんなことができないのかわからない。
自分でもできるんだから、おまえもできるだろう? ちゃうか?
問題を克服したものは、ことさら居丈高になる。
禁煙に成功した人は、できない人をことさらバカにするでしょう。
とはいえ、禁煙できない人が勉強ができない人のことを異常に見下したりするのだが。

できる人はできない人の気持がわからない。
なんでそんなことができないの?
10歳以上年下の創価学会の統合失調症患者さんからいわれた。
「土屋さんには池田先生の本はまだまだ難しいでしょう」
彼はできる人と自分のことを思っている。

わたしは3時間かけて池田マスターに逢いに千葉へ行くことができない。
できる人もいるのだろうが、わたしはできない。
組織に入ったら上のいうことには盲目的にしたがうのが常識だろう。
「土屋さんには池田先生の本はまだまだ難しいでしょう」
目覚めよ同志 悪を見つけ スクラム組んで やっつけろ
正義の栄光 パトロール スクラム組んで やっつけろ
今日も元気で 威風堂々 スクラム組んで やっつけろ
庶民を舐めるな バッカヤロ スクラム組んで やっつけろ
友のため 君も行くか 我も行く スクラム組んで やっつけろ
悪を許すな マークせよ スクラム組んで やっつけろ
恩師の遺言 胸にあり 燃える同志よ スクラム組んで やっつけろ
インテリ エリート 庶民を舐めるな スクラム組んで やっつけろ
感謝の気持 恩師のために スクラム組んで やっつけろ
友の涙を 笑顔に変えよ 恩師を胸に スクラム組んで やっつけろ
友の汗を 無駄にするな 正義を示せ スクラム組んで やっつけろ
戦闘開始 目指せ平和の パトロール スクラム組んで やっつけろ
勇気凛々 燃える心の 大行進 スクラム組んで やっつけろ
ご存じのかたは少ないでしょうけれども、プロレスにハヤブサという選手がいた。
過去形なのは、若くして(47歳)死んでしまったから。
最後はアル中みたいになっていたようだ。
ハヤブサは2001年にリング上の事故で、あれは頸椎を損傷したのだったかな。
とにかく車椅子の生活になってしまった。
プロレスどころか日常生活をひとりで送ることさえ困難をともなう。
怪我をした直後から、「またプロレスラーとしてリングに復帰する」と言っていた。
周囲の人間もプロレス仲間もファンも「がんばれ。応援している」と応じるしかない。
本人と周囲のどっちが先に夢物語を口にしはじめたのかはわからない。
おそらく現実的に見たらハヤブサに希望はなかった。
どう考えてもレスラー人生のみならず、人間としての人生も終わっていた。
しかし、本人も周囲もそれでは辛すぎるから、そんな残酷な現実は見たくないから、
「プロレス復帰をする」という夢にすがりついたのだろう。

現実は理不尽にもイケメンのスターレスラーが一夜にして事故で廃人になってしまう。
それでは、あんまりだと思って人間は夢を見る。
ハヤブサは夢をあきらめずに、夢ソングをうたう障害者歌手になった。
「生きる勇気をもらった」と感動した聴衆もいたことだろう。
5年経つ。ハヤブサの夢はかなわない。10年経つ。ハヤブサは車椅子のまま。
だがハヤブサは、
あきらめなければ夢はかならずかなうと歌で世界に希望を与えていた。
このあたりになるとなにが本当だかわからない。
さすがにハヤブサも10年経過して車椅子だったら、
プロレス復帰は無理とわかっていたことだろう。
しかし、本音をもらせる立場ではない。夢ソンガーとして社会で一定の役割を得た。
いまさらあれはウソでしたと言えないし、自分でも認めたくないし、
認めてしまったら夢ソングをうたえなくなる。
アルコール依存で夢にすがりつくハヤブサのもとから妻子は去っていった。
2016年、男は47歳で孤独死した。若死にできたのは神の恩恵だろう。
15年夢を叫びつづけたが夢かなわなかった男は、
人びとに生きる勇気を与えて孤独死した。最後まで現実を見ようとしなかった。

おなじプロレスの高山善廣選手も去年リング上の事故でひどい怪我をした。
こちらはおそらくハヤブサよりもひどいだろう。
首から下がまったく動かないらしい。
高山選手の写真は見てはいけないもののような気がする。
妻も子もいる人気プロレスラーが一夜にしてあんな悲惨なすがたになってしまう。
首から下が動かないで生きているなんて拷問かなにかのようである。
おそらく医学上は奇跡を待つしか希望はないはずである。医学上は治らない。
しかし、治らないと言われると高山選手も家族もプロレス仲間も困ってしまう。
どうしようもないと言われても治療費は出るいっぽうだし、なにかせずにはいられない。
そこでたしか高山選手も周囲もプロレスに復帰するという夢に到達したのではないか。
現実を見たくないから夢を見る。夢を見なかったら現実に押しつぶされてしまう。
夢を見る能力は生きていくための技術のひとつなのかもしれない。

現実を見ろ、と言いたいわけではない。
そもそもなにが現実かは究極的にはわからない。高山選手も治るかもしれない。
むかし統合失調症の青年にお逢いしていただいたことがある。
精神病には興味があって、統合失調症のお辛い人生は少なからず知っている。
自分が統合失調症になったら絶望してしまうと思う。
しかし、青年は学会3世か4世のため希望に満ちあふれているのである。
現実ならぬ夢を見るのが非常にうまい。
聞いた話だと、精神障害をお持ちの青年は「日本の柱」のひとりで、
将来は開業して花形の職業人になり、妻をめとり、子どもも持つらしい。
現在、作業所にさえ通えない状態なのに、どうしてそんな夢を見られるのだろう。
青年の夢を拝聴しながら、現実を見ろ! と叫び出したくなった記憶がある。
繰り返すが、なにが現実だかはわからないのだが。

うちの父は自殺した母と愛し合っていたという物語を持っている。
現実は母の日記に山ほどの悪口、憤懣、鬱積が書きつらねられているのである。
しかし、男は妻と夫婦仲良しだったと信じている。
言い分は、夫婦のことはふたりにしかわからない。
たしかにそれはそうで、父がそういう夢物語を信じていたら、それが現実になる。
息子があんたら夫婦はどう見ても最悪だったよといくら言っても父の現実は変わらない。
わたしは目のまえで自殺した母に人生を台無しにされたと思っているが、
それが現実かはわからない。
しかし、生前母から罵倒され尽くしたことを考えると、そういう現実認識しか持てない。
夢を見る能力に欠如しているのかもしれないが、現実(認識)は変わらない。
理論的にはなにが現実かはわからないのはわかるが、現実(認識)は変わらない。

今年の1月、突如いきなり橈骨神経麻痺になった。左手首が動かないのである。
こうなると日常生活もままならなくなる。
1、2ヶ月経てばよくなると思っていたが、3ヶ月経ってもまったくよくなっていない。
大学病院の専門医に診ていただいても状況は変わらない。
わたしは夢を見たかった。お医者さんに、治りますよね、と聞くが回答は「わからない」。
「ウソでもいいから絶対治ると言ってください」とお願いした。
いまの医者はコンプライアンスかなんだかで、気休めは言えないらしい。
治るかどうかはわかりません。
そもそも橈骨神経麻痺になる人はあまりいないし、ここまで長引く例も少ない。
筋電図の検査をしてもらったら、担当の人におなじことを言われた。
慣れない手つきなのでそのゆえを質問したら、
橈骨神経麻痺で筋電図の検査を受ける人なんて年に何人もいません。
現実はそうとう重症なのかもしれないと障害年金の申請方法を調べてしまったくらいだ。
あれから10ヶ月経ったいまどうなっているかというと99%治っている。
というか、もはや罹患まえの状況を覚えていないから現実はわからない。
現実認識としては限りなく100%に近く治っている。
ならば、いまから考えたらば、麻痺を発症したとき、
かならず治ると夢を見ていてよかったことになる。筋電図検査も受けることはなかった。

先日、統合失調症の学会青年から連絡が来た。また逢いたいという。
正確には逢いたいではなく、また自分の家まで2、3時間かけて逢いに来ないか。
おそらく「日本の柱」である青年は、
自分のことを指導者や救済者とイメージしていたのではないか。
その現実認識が当方の現実認識と適合しなかった。
2、3時間かけて青年の家に行き、また統合失調症の人の夢物語を聞くのは辛い。
しかし、家を出られないほど重度に統合を失調した青年の現実はそうではない。
彼は重い精神病のため電車に乗れないという現実は直視せず、
自分は将来有望な事業家の卵だという現実認識を手放そうとしない。
しかし、彼は才能があるとも言いうる。
統合失調症という重苦しい現実に押しつぶされずに威風堂々と生きている。
現実離れした夢を見ているようにも思えるが、
現実を見たからといって事態が改善するわけでもない。
ハヤブサが一生身体障害者という現実を直視したら耐えられなかったことだろう。
おなじプロレスの高山選手もその家族も現実ではなく夢を見たいのはわかる。
夢も悪いばかりではなく、夢を見ながら少しずつ現実を受け入れていくのだろう。
夢を見ることで夢そのものには到達しないが、現実よりはかなりましになることもあろう。

用心深いのかわたしは低く低く現実を見積もるようなところがある。
しかし、その現実も正確なものではなく、最大公約数的な平均の現実である。
現実的にだれも正しい現実認識はできないのも現実である。
おそらく人間って余命告知をされ死ぬ間際でも、
自分は死なないという夢を見て生きているのかもしれない。
わが人生に悔いなしとか、家族や仲間に感謝するとか、
そういう夢を見ている人もいるだろう。夫婦で愛し合っていたとか。
だが、反対に最悪の現実を見ていても、あんがいそれは現実ではなく夢かもしれない。
現実は夢かもしれないし、夢は現実かもしれない。
メモとして書いておくけれど、これが正しいとか、
そういうことはぜんぜんない。
空海のいう即身成仏とは、もしかしたらこういうことかもしれません。
即身成仏とは「身すなわち仏なり」。
この場合、身というのはわが身であり、仏というのは大日如来(毘盧遮那仏)。
わたしというのは宇宙の一部と気づくことが即身成仏なのかな。
仏教というのは釈迦→小乗仏教→大乗仏教→密教。
これは釈迦個人が、集団になり、もっと大きな世界になり、最後は宇宙になる。

即身成仏は、わが身というのは全体の一部と気づく(思い込む)こと。
個というのは頼りないから、放っておくとどんどん孤独になっちゃう。
しかし、わたしという個は全体に通じているのだから安心だよね。
そう自分を騙すことっていうかさ。
お経というのはむかしからあるけれど、それを声に出してよむことで、
自分がひとりじゃないと思える。
実際、自分というのは連綿と続く人間(生物進化)の一過程なわけだから。
仏教は孤独対策としてもいいかもしれない。
集団でも利用できるし、個人でも使用可能。
効能は、安心できる。もっと具体的にいえば、やっぱり大丈夫かな。
自分をどこかで見てくれている仏さまがいるから大丈夫。安心。
自分をごまかす詐術とまでいっちゃいけないか。

即身成仏は、おれは仏よといっている部分もあるのでしょうが、
わたしなんかも仏世界のワンパート(一部分)を、
僭越ながらになわせていただいているということかもしれません。
法華経は何度よんでも記憶できない。
にじせそんじゅうさんまいあんじょうにきごうしゃりほつ♪
十如是の部分だけは覚えた。
「ベニスに死す」を観て思いのほかよかった。
あれ、ご存じのかたはわかるでしょうが、わたしの大嫌いなタイプの映画。
どういう映画かというと、要はセリフが異常なほど少ないわけ。
言葉で説明してくれないから疲れる。
しかし、観ながらすごい感動したわけである。
大げさだが、生きていてよかった、とかさ。
自分の道筋がわかった、なんて大げさだよね。
「ベニスに死す」のどこがよかったのだろうと血まなこになって言葉を探してしまう。
「あの映画はよかった」で済ましておいたほうが本当はいいのかもしれないけれど。
自分の言葉なんか見つけようとするから孤独になっちゃう。

「ベニスに死す」は山田太一ドラマの原形のようなところがある。
ほら、山田太一ドラマによくあるパターン。
エリートやインテリが庶民のなかに分け入って新たな発見をするという。
それから「ベニスに死す」は福田恆存の演劇論で説明できるね。
基本的にあの映画は「ハムレット」や「マクベス」、「オイディプス王」と同類。
個(=個人とも個性とも)が個を主張しながら全体(=宿命)に到達する。
個が全体に敗れる。花が枯れて自然を形成する。
河合隼雄のいう自己実現の過程と言えなくもない。
ネットで調べたら「ベニスに死す」がわからないって人が多い、多い。
その「わからない」はわかります。
精神病的なところがあって薄気味悪いというのもわかる。
あと3つ山田太一推薦映画がジェイコム録画機に入っていた気がする。
映画を1本観るとかなり消耗するから、やっぱり苦手なのかな。
山田太一先生推薦の1971年公開の洋画をジェイコムで視聴。本当に感動した。
これほど深い男性の孤独を描いた映画を観たことがないような気がする。

初老の作曲家はストレスにやられ、ひとり観光地ベニスに静養におもむく。
おのれの芸術に行き詰っている。どうしたらいいかわからない。
ベニスになんか行っても仕方がないと思っている。
あたまでっかちの教授は深刻な孤独に苦しんでおり、
非常に怒りっぽく人を信じることができない。
初老の芸術家は孤独だ。孤立している。断絶している。なにから切れているのか。
全体から、群衆から、自然から、超越から、神仏から切れている。
芸術的であること、個を確立すること、個性的になるということは、
孤独になるということなのか。
言い換えたら個性的であることは、常に孤独に苛まされなければならないのか。
人間嫌いの、人生の傍観者たる初老の芸術家は観光地ベニスである美少年を見かける。
少年はタージオと呼ばれている。

家族や仲間に囲まれた美少年は老醜に悩む孤独な芸術家が喪失したものを、
ほとんどすべてそうとは知らずに有している。
なにより無知や無邪気を身にそなえている。無知は美しいまでの輝きだ。
なにかを知れば知るほど人間は疑い深くなり孤独になる。
まだ思春期(の煩悶)に入っていない少年は邪悪なまでに美しい。
孤独ではない。自然と一体化している。教授の忘れた幼稚な全体性を持っている。
美少年だけではない。ベニスで遊ぶ観光客ファミリーがみなみな、
どれほど孤独な老教授の失ってしまった輝きに満ちあふれていることか。
自然な親密さ、自然な一体感、自然な陶酔のいかほどに美しいことか。
芸術が忌み嫌う群衆的、因襲的、血縁的な和楽は、
そこまで醜悪とばかり断じていいのか。
個性的ではないこと、理知的ではないことは本当に群盲と裁かれることなのか。
無個性で無知蒙昧な群衆は自分の知らぬ連帯の親しみを持っているのではないか。
もう口をつぐんでいることはできない。
言ってしまおう。あっちのほうがいいのではないかと。
無個性なことは、無我、無私、忘我の歓喜をともなっているのではないか。

いや、わたしは間違っていないと老芸術家は思いたい。
愚かな群れてばかりのあいつらと自分は違うのだと思いたい。
あんなに馴れ合ったり、べたべたしたり、近い人間関係には耐えられないと思う。
しかし、ふたたび、あっちのほうが美しいのではないかという、
これまで築き上げてきた堅牢な自我を破滅させんばかりの情熱的な疑問が生じる。
なぜならばベニスで美少年へどうしても目を奪われてしまうからである。
人間嫌いの老人は、少年の真似をして不衛生な物売りのイチゴを口にする。
その瞬間、戦慄が走る。いままで知らなかった。イチゴはこんな味がしたのか。
自分は真実を知らなかったのではないか。
本当のイチゴの味を知らなかったのではないか。
なまの人生というものを知らずに生きてきたのではないか。
時よ止まれ、おまえは美しい、タージオ、おまえはなんと美しいのか!

しかし、少年愛、同性愛は禁じられている。常識ではいけないとされている。
が、だが、くだらないモラルなんか捨ててもいいのではないか。
あやまち、いいではないか。穢(けが)れてなにが悪いもんか。
健全なんてつまらない。恍惚、陶酔、混乱、惑溺、狂乱がどうしていけない?
いや、いや、少年愛、同性愛は禁じられている。
しかし、タージオ、おまえはなんと美しいのか。
自分の気持に素直になれよ! いや、そんなのは動物のすることだ。
違う、人間も自然の一部ではないか。だが、少年愛、同性愛は――。
見ているだけならいいではないか、見ているだけなら!
いや、ダメだ。もう逃げるしかない。
このままでは破滅してしまう。自分が壊れてしまう。ベニスから逃げるしかない。
逃げていいのか。逃げるしかないではないか。
だが、なんと全体は、神仏は巧妙なのか。逃がしてくれなかった。
どういう手違いでかわからないが、教授の荷物は誤送されていた。
これでベニスから離れるわけにはいかなくなった。言い訳ができたぞ。
なるほど、そうきたか。
この偶然はなんだ? この偶然はいったいどのように仕組まれている?
こうなっていたのか。ならば、これでいい。
こうだったのか。自分の人生はこうだったのか。
このとき教授のなかでなにかが死んだのを象徴するかのように、
駅舎で醜い老人が崩れ落ちる。
ふたたび、ホテルに戻った孤独な老教授にベニスの海岸はなんと美しく映るか。
ベニスは、タージオは、自然は光り輝いている。
このシーンでは涙が込み上げてきた。

とはいえ、少年愛、同性愛は背徳である。
この自分のなかの禁じられた情熱は、
教授にとってはベニス全体がコレラ(伝染病)に汚染されているためと認識される。
映画では、事実としてコレラがひそかに蔓延しているのだが、
わたしには孤独な老教授の心象風景のように見えてならなかった。
これまで健全だった教授の同性愛は恐ろしいコレラとして現実化するしかなかった。
美少年を愛する自分が穢れているのではない。世界が汚れているのだ。
教授は新しい自分に気がついたが、しかし愚かな群衆と同化できずに苦しむ。
自分は特別だと思う気持――自意識から逃れることができない。
猥雑な楽団の狂熱的な陽気さにみなのように自然と微笑むことができない。
これはわたしが悪いのではない。世界がコレラに汚染されているに違いない。
少年のタージオは美しく、世界のコレラは醜い。
本当はタージオという少年こそ世界の美醜のシンボルなのだが、それを認められない。
個性(自分)にとどまるか、それとも自然(世界)に返っていくか。
これは選択肢ではない。個は全体に敗れるしかない。自分は自然土に戻るしかない。
勝つのはいつだってタージオであり、美少年であり、自然であり、全体である。
人間は宿命に呑まれるしかないが、その宿した命の美しさは自然であり本物である。
老教授は自然(宿命)の美しさに気づきながら異様な孤独体で「ベニスに死す」――。
ラストシーンでは自然のタージオと大海の美しさが長々と描写される。

☆   ☆   ☆

こんな自己陶酔に満ちたへたくそな文章を、
ここまで読んでくださってありがとうございます。「ベニスに死す」はよかった。
おそらく山田太一先生ご推薦でなければ絶対に観ない種類の映画だと思う。
これほど老教授に思い入れを抱いてしまう自分の孤独感の強さに驚く。
おそらくこの映画を好きな人は山田太一さんもふくめて孤独な人なのだろう。
映画の最初から、わかるなあと思った。
結局、海外をふくめ観光地にひとりで行っても、
そこで感じるのはファミリーやグループのすがたばかりでぜんぜんおもしろくない。
自分にはあんなふうに血縁や仲間となじめないことにかえって絶望するというか。
去年あたりから宗教団体に入りたいと思ったのも孤独が病的に進行したからだろう。
若さである程度孤独は乗り切れるが、老いが迫ってくると逃げられなくなる。
実際、大きな宗教団体の親切な人たちに誘われて集団を見てみたら悪いことはない。
とても一体感があってすばらしいのだが、
そうは言ってもわたしは自分が強すぎてそこに溶け込むことができない。
よけいな知識があるから、メンバーの一員になることはどうしてもできない。
群れるのは格好悪いのではなく、群れる能力に欠如した自分を正当化するために、
そう思い込みたい部分も多々あるのだろう。
群れるよさというのも、十分にあるのだと「ベニスに死す」を観て思った。
無個性というのは、無我であり、無私の美しさがいっぱいあるはずである。
思い上がっていた自分を反省するいい機会になった。
いまわずかながらある関係性(人との関係)を大切にしていきたい。
ツイッターやSNSにもいい面は山ほどあるに違いないと思い直した。
自然(全体)に通じる道というのを考えていくのが、これからの課題だろう。
「ベニスに死す」で老教授は孤独に敗北しているが、
映画全体としては完成(勝利)していることを忘れてはならない。
いままで少年愛、同性愛はわからないと思っていたが、それは間違いだった。
いや、それはわからない。
老人は美少年を愛したのではなく、自分のなかの少年性を発見して、
おのれの美々しい自然性に立ち戻っただけとも思われるからである。



※老教授がなぜか中島義道哲学博士のように見えてしまった(笑)。
山田太一先生推薦の映画をジェイコムで視聴。2005年公開のアメリカ映画。

米国人気作家のカポーティがノンフィクション文学作品「冷血」を書くまで。
カポーティはカンザス州で起こった一家惨殺事件を知り、
これは新しい文学になると思うわけである。新たなカポーティ文学の幕開けだ。
カポーティはおのれの名声をさらに高め、富を増すために取材を開始する。
じきに犯人ふたりは逮捕されるが、彼らはカポーティとおなじ下層民出身だった。
貧乏でまともな教育も受けておらず母親も兄も姉も自殺している。
カポーティはおのれ人生を語ることで主犯のひとりと友だちになることに成功する。
カポーティの母も自殺しているから通じ合う部分があったのかもしれない。
本当はいったいどうなのだろう?
カポーティは本のネタがほしいから殺人者と友だちになったふりをしたのではないか。
凶悪犯罪者だって有名作家と仲良くなれば裁判が有利に運ぶと計算しただろう。

法廷の裁きは死刑である。
カポーティはまだ彼らの話を十分に聞いていないからという理由で、
優秀な弁護士を紹介してあげて死刑執行を遅らせる。
しかし、カポーティはあくまでも自身の文学作品のために友情を誓っているのである。
現実は、カポーティは人もうらやむ成功者で独房の孤独な友とは立場が違う。
カポーティは勢いに乗って本を書き進める。タイトルは「冷血」にした。
なんの関係もない農民一家四人のあたまをライフルで撃ち抜くなんて冷血極まりない。
果たしてカポーティが死刑囚から聞いた話を忠実に書いていたのかも疑わしい。
文学をおもしろくするためにカポーティが話をふくらませたところもあったのではないか。
カポーティは監獄の友から書いたぶんを見せてくれと頼まれるが断る。
タイトルの「冷血」を知った友からそれを詰(なじ)られると、
自分がつけたわけではないとごまかす。
映画のなかのカポーティは彼らは金脈に過ぎないとまで言い切る。
じつのところカポーティは自分が彼らを利用しているのか、愛しているのかわからない。
自分でも自分のことがわからない。
孤独な死刑囚から、「最愛の友へ」といった手紙が届くと戸惑ってしまう。

カポーティは文学の取材のためか友のためか、
死刑囚の(自殺しないでひとり生きている)姉にも会いにいく。
姉は弟を嫌い、恐れており、あんなやつとは二度と顔を合わせたくないと言い放ち、
子どものころの写真はいらないからすべて持って行ってくれとカポーティに差し出す。
作家は獄中の友へ、姉はあなたに会いたがっていたよと嘘をつき写真を渡す。
これを友情の証と思った死刑囚はさらにカポーティと親密になったと錯覚し、
いままでよりもさらに心を開き事件のことを話すようになる。

困ったことが起こる。控訴が繰り返され、死刑がなかなか執行されないのである。
彼らが死刑にならないと本を出版できないのだ。
理由はふたつ。
出版社としては死刑執行のタイミングでセンセーショナルに売り出したい。
もうひとつカポーティ側の事情もあって、
「死人に口なし」にならないとノンフィクション文学にならないのである。
実際はカポーティの「冷血」はノンフィクションではなくフィクションなのかもしれない。
そもそも真実の意味でのノンフィクションは存在しえないから、
カポーティは早く金脈の友の死刑を執行してもらわねば困るのである。
監獄の友から「会いたい」と手紙が来ても逃げ出してしまうノンフィクション作家だ。
朗報か、悲報か。とうとう殺人犯ふたりの死刑が決定する。
カポーティは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、睡眠薬を酒であおるしかない。
死刑寸前の友だちから「最後に会いたい」と電報が来る。

カポーティは酒と睡眠薬でふらふらの状態で死刑囚に会いに行く。
作家が対面するのは金脈か、それとも親友なのか。
いままでカポーティは親友のふりをして男からいろいろ聞き出してきたのだ。
囚人は死刑にも立ち会ってほしいという。
死刑の寸前、男が発した言葉は「このなかに家族はいるか?」であった。
いないと刑務官から言われ、死刑囚はカポーティの嘘になにを感じただろう。
やっと「死人に口なし」になったことで「冷血」は刊行され大ベストセラーとなる。
下層の生まれだったカポーティの評価はアメリカ最大の文学者にまで上昇した。
しかし、この後、カポーティは酒と睡眠薬におぼれ小説を書けなくなってしまった。
晩年のカポーティは取り巻きからも見放され、
かつての栄光との落差と孤独に苦しみながら静かに息を引き取ったという。
死因は長年のアルコール依存と薬物依存によってもたらされた心筋梗塞。
さすが山田太一さんご推薦の映画だけあって、いろいろ考えさせられた。

以下は余談だが、
日本のドキュメンタリー映画監督の原一男さんは罪悪感がないのだろうか?
あの人もカポーティのようなことをしているのに、まったく自責の念がないようだ。
「ゆきゆきて、神軍」だって、
自分たちの名声と成功のために奥崎謙三を利用したわけでしょう。
奥崎さんに奇行をしてもらい、映画をおもしろくしたいと思っていたら、
想像以上で殺人未遂まで起こしてくれて、映画が大ヒットした。
「全身小説家」も作家の井上光晴の死を商売に使ったわけだ。
最後なんか家族は病身の作家のもとに映画撮影に来てほしくない。
しかし、原さん一行はカメラのまえで死んでくれないかなあ、とか、
危ないことを考えながら芸術家ぶって澄ました顔をしている。
いまでもピンピンしていて、
もっと人の不幸を撮影して映画賞を取れないかとねらっているのではないか。
自分の映画を評価しない観客はバカだと思って「帰れ」と口にすることもある。
「全身小説家」も「死人に口なし」の映画で、
完成した映画を観ていたら井上光晴は怒ったのではないか。
まあ、そういう図太い精神を持った人が芸術家なのだろう。
なぜ原一男さんは心を病まないのか不思議だ。言っておくが、後生が悪いぞ。

小説、映画、ドラマといったフィクションは普遍的真理を描くものではない。
しかし、良質なものは受け手の心に届き、それぞれの真理を形づくる。
ここで注意しなくてはならないのは、この真理が一様ではないことである。
ある名作を見て、みながおなじ感想を抱きおなじ真理に達するわけではない。
当り前のことをなにをいまさらと言われるかもしれない。

山田太一さんのドラマに「今朝の秋」という単発ドラマがある。
名作と評価も高いうえ、作者がことさら気に入っている作品でもあるという。
悲惨な五十男の話である。
いちおう妻子はいるが、事業で成功した妻の心は夫から離れている。
べつに好きな人がいる。
娘も自分の人生に夢中で父親のことなど気にかけてもいない。

身体の不調で入院した五十男は自分が余命短いがんであることを知ってしまう。
男は思う。自分の人生はなんだったんだ? なんにもないじゃないか。
自分の会社でした仕事なんかすぐ忘れられてしまう。
妻の心は自分から離れてしまっている。娘も父親のことなんでどうでもいいだろう。
人生、なんにもない。

蓼科の別荘に五十男の両親と妻と娘が集まる。それぞれの心はバラバラである。
とくにひとりぼっちなのはもうすぐ寿命を終える五十男である。
家族はどうするかというと、五十男を慰めるために「いい家族」の演技をするのである。
結局、人生なんにもなかった。
しかし、アットホームを演じてくれる家族を見ながらポツリともらす。
「うっかり家族っていいな、なんて錯覚しそうだよ」
奇跡のようなものは起こらず五十男は医師の宣告通りに死んでいく。
家族はそれぞれバラバラの方向に去っていく。

これを山田太一さんは、こんな救いのないドラマを書いていいんだろうか、
と思いながら仕上げたという。
ところが、多くのNHK視聴者はまったく作者の予想外の見方をした。
家族ってすばらしい。
山田先生らしい、人間愛あふれる珠玉のホームドラマに感動した。
いまでもたぶん「今朝の秋」はそういう評価のドラマになっていると思う。
フィクションと真理の、あるおもしろい関係を書いた。

(関連記事)
「今朝の秋」(山田太一/新潮文庫) 2014年感想
「今朝の秋」(山田太一/新潮文庫) 2009年感想
「アイディアを捜せ」(阿刀田高/新潮文庫)

→小説を書ける人はすごいと思う。
どうやってみな処女作を書いているのだろう。
大御所の阿刀田高氏は好きなものの真似をしたという。恥も外聞もなく。
あれがとても好きだから、あのようなものを書きたい。
好きなものを真似て必死で処女作を仕上げた大御所の阿刀田高氏いわく――。

「今、こうして思い返し、分析してみると、
トリック、動機、書き方、みんな相当に気を入れて挑戦している。
作品の仕上りには不満はあったけれど、
――処女作とは、こういうものなんだろうなー―
と思わないでもない。
技術は未熟なのだから、せめて気だけはしっかりと入れなければなるまい」(P244)


要約すると、気合を入れろだ。気合だあ、気合だあ、気合だあ♪

「図説 あらすじで読む 日本の仏教と経典」(廣澤隆之監修/青春出版社)

→29歳のとき、なにかを求めてインド89日間の旅をした。
インドのあらゆる仏跡をインド大衆ウイスキー8PMとともに巡礼したものである。
帰国してからも仏教求法の内的旅はつづき、あれから13年。
いまようやくひとめぐりした感がある。
はじめは廣澤隆之氏の「図解雑学 仏教」のお世話になったから、
シメも同氏の「図説 あらすじで読む 日本の仏教と経典」
といったような本のお世話になるのもわたしらしいだろう。
仏教を13年学ぶと、さすがにこの基本書に出てくるワードは理解できるようになった。
記憶はしていない。やたらめちゃくちゃ用語が多いから。
本書は仏教のスマホ的な役割もあり、あれなんだっけなの「あれ」がぴしっと出てくる。
さすがに13年も学ぶとほとんどあらゆる仏教者の本を原書で読んでいた。
だれにもほめられないし、性格もよくなっていないし、なんの利得もないけれど。

人さまざまである。
先日、生まれてはじめてホテルのバーというところに連れて行っていただき、
1杯1900円のシングルモルトをロックでご馳走になった。
まさか生涯、ホテルのバーに行くことなどないと思っていた。
生意気にもわたしの仏教総括を勢いに任せて口にした。
「仏教はウソです。仏はいませんし、悟りもありません」
人間はそれぞれひとりぼっち。
真っ黒い巨大な現実のようなものに押しつぶされそうになっている。
その現実にあらがおうとするせめてもの試みがフィクションの仏教だ。
仏教も仏も悟りもフィクションだから人は救われる。
理解してもらえたかわからなかった。
ところが――「仏教は絵本の「百万回生きたねこ」ですよ」
とのお言葉をいただき、この人と(いくばくか)わかりあえたと感動した。
そうだそうだ、仏教はお経でも学説でもヨガでもなく「百万回生きたねこ」だ。
わたしはウイスキー1杯1900円もするバーに行くのは乗り気ではなかったが、
もしかしたらあの場が(仏教学的に見たら)ふざけた会話を可能にさせたのかもしれない。
仏教はどこぞの教学を理解したとか、どれだけ修業したとか、知識をためこんだではない。
仏教は絵本の「百万回生きたねこ」に出ているではないか。

あれからインド3ヶ月からずいぶん経ったなあ、と思う。
13年も勉強すれば、無能なわたしでもここまで来れるのかと感慨深い。
好戦的なことを書くと、学会員は日蓮関係のことしか知らないしね。
わたしはおかげさまで暇と金を利用して空海から一休、池田大作まで原著で網羅した。
これほどまで無分別に仏教を自由に独学で来たのは、ひろさちや先生ゆえだろう。
仏教とはウソであり、現実ではないウソに人は救われる。
弘法大師空海の偉大さは著作の難解にあるのではなく、
庶民がお大師さまを慕い巡礼をするときの心持「同行二人」にある。
あなたはひとりではない。ひとりぼっちではない。同行二人――。
いいご縁にめぐりあったおかげで、いい本を読み、自分を知り、時間を待つことを知った。
若者に申し上げたいのは、仏教はすべて嘘だが、
そこに本気で惚れ込んだら救いがないわけでもない。
みんなの救いではなく、あなたひとりの救いがである。
ホテルのバーで救われるのもウソではない。すべて本当でウソである。
仏教というウソは人を救うのは難しいがときに自分を救うことがある。

「自灯明、法灯明」――。

信じるのは教祖ではなく、あなた自身の心の声だ。それが仏だ。
本書は軽く見られがちな体裁だが、仏教知識を参考書的に網羅したじつにいい本でした。
現世利益的にも、これはスマホよりも十倍使えること間違いなし。

「文学賞の光と影」(小谷野敦/青土社)

→「朝日賞は左翼の文化勲章」とか、ぶちまけがおもしろすぎる本である。
本書にも著者が好きな文壇ゴシップが満載で作家の名前がわかる当方は大笑いした。
ひっくり返せば、文学の世界になにも興味がない人が読んでもおもしろくない。
もういまは文学は将棋の世界になっていると思う。
詳しい人が見たら棋譜とかものすごくおもしろいのだろうけれど、
かろうじてルールを忘れていない程度のものが見ても意味がわからない。
棋士の名人とか将棋の世界の人にはあこがれなのだろうが、
失礼ながらわたしには、なに、このおっさんたちとしか思えない。
将棋はまだ明確な勝敗があってわかりやすいけれど、
文学は人事とか上下関係が細かすぎてたいへんわかりにくい。
本書は文学初学者が読んでも意味がわからないだろうから、そういう入門書ではない。
没落した文学中年を対象としたじつにおもしろい読み物であった。
むかしは柳美里がキラキラして見えたなあ、という夢破れしものたちの本である。

わたしはシナリオを文学への階段だと思っていて、
某大手シナリオ学校への怨念もあり、
数年間脚本のコンクールに狂ったように応募しつづけたことがある。
いまの人でこんなに読んでいる人はいないくらいだろうのシナリオの勉強もした。
しかし、10以上応募した拙作はどれも箸にも棒にもかからず、
気づいたらシナリオへの執着がまったく失せていたのである。
得た教訓は「努力は報われない」「まあ、人生そんなもの」であった。
名著たる本書も努力が報われなかった人たちが大量に登場して、
え、人生ってそんなに身もふたもない残酷なものなの?
というエピソードがあまた紹介されており(報われぬまま突然の早逝とか)、
「人生そんなもの」というわが信仰めいた現実感を心地よく補強してくれた。

いま文学なんて多少なりともまじめに読んでいるのは、
大学生、院生、助手、教員――大学関係者、
出版社員、編集者、書店員――商業従事者、
著者の血縁、友人、知人、同業作家、博識ぶりたい人――に限られるのではないか?
「文学的達成がない」なんていうほどバカらしい評言はないと思うし、
逆にネットでたたかれた「(現代文学は)対岸の火事」は正しいように思う。
いまだ早稲田には小説家養成コースがあるようだが、この名著を教科書にすべきだ。
とはいえ、経験から早稲田の学部生はこの程度の難易度の本さえ読めないはず。
同学後輩の指針にいささかでもなればと傑作名著、優良教科書から抜粋する。
著者は純文学について語っているが、いまは大衆文学もさんさんたる状況のようだ。
大衆小説以下と一般ではみなされている漫画家でさえ危なくなっている。

「……「純文学」と言われるものは、明治の昔から今日まで、
ぞっとするほど売れないものである。
たとえば芥川や久米が純文学短編集を出しても、部数は二千部くらいだ。
今は五千部は刷るが、増刷はまずしない。
仮に現在、二千円で売るとすると、
印税は一割が相場なので、二百円×五千部で百万円。
これを年に二冊も出せたらいいほうだ。
従って、雑誌や新聞に書く原稿料をあわせて、何とか凌ぐ。
大江健三郎のように有名になれば、講演料が馬鹿にならない」(P16)


本書は6年まえの公刊だが、いまでは初版三千部でもありがたいと聞く。
活字を大きくして紙質を厚くして千円で売る。そうすると百×三千で三十万である。
これでも単行本を出版社から出してもらえるだけで著者は感謝しなければならない。
新人作家は年収三十万なり五十万なりで、
各文芸誌をいやいや読み、同業界の人とツイッターで馴れ合い褒め合い、
アマゾンレビュアーを代表とする(わたしもその一員だが)バカどもの
心ない批評にぐさぐさ心臓を刺され血まみれにならないければならないのである。
大学時代、親がコピー会社の経営者だった三田誠広先生の(4年生の)
授業に一度もぐってみたら、
彼は嫌味な口調で作家という身分の優位を強調していた。
しかし、道産子の苦労人で稚拙な卒論を見逃していただいた久間十義先生は、
「作家なんてなるものじゃない。ほかでどうしようもなくなったものがなるんだ」
としきりにおっしゃっていた。思えば指導教授のお言葉が、
わがどうしようもない人生を予見していたような気さえする。
世間を知らない大学生は文学をさもすごいものかのように思っている。
しかし、実際は――。

「新聞に載る文藝時評というものは、
作者本人と編集者しか読まないと言われて久しい」(P137)


平成の樋口一葉がネットでたたかれていたが、
彼女は場末のキャバ嬢ほども人に関心を持ってもらえず、
収入も風俗嬢にはるかおよばず、容姿はこれから劣化するいっぽうだから、
川上未映子さんに嫉妬するほうが、言いたくないがあたまがどうかしている。
出版編集者はテレビドラマによく登場する花形職業だが、
出版社が社員の個性(自分勝手)を尊重してくれるとかは少なく、
きちがい作家対応(小谷野さんを担当できる編集者には人格的にひれ伏す)と
うるせえバカ政治団体へのゴマすりが実際の仕事内容なのかもしれない(わかりませんが)。

「『青年の環』は被差別部落問題を扱っており、岩波文庫に入って、
売れている様子もないのに絶版にもならずにいるのは、
解放同盟に対するリスクヘッジとしか思えない、
と呉智英は言っている(宮崎哲弥との対談『放談の王道』)。
もっともそれを言えば、
新潮文庫が住井すゑの『橋のない川』を入れているのもそうかもしれない」(P86)


創価学会の関連本を出せば、アンチや信者さんが大量にお買い上げくださる。
著者は作家のわずかにあるうまみにも目こぼしをすることはない。

「ただ、地方出身者の場合、芥川賞作家ともなれば、
地元へ帰って地方文化人となり、教育委員会の仕事をしたり、
講演をしたりして生き延びることが出来る。
川端康成と一緒に『新思潮』を始めた仲間のうち、二人は作家として消えたが、
鈴木彦次郎は、戦争中地元の岩手へ帰り、
図書館長や大学教授をして地方文化人になった」(P235)


作品の純粋評価はだれにもできず、少なからず人間関係が影響する。
大げさに言ったらば、作品評価とは人間評価のことかもしれない。
早稲田の小説家養成コースの出身だが、優秀な同窓はみな編集者になっていった。
みなさんご存知でしょうが、
いわゆる作家になるために近道は編集者になることである。
小谷野敦さんはこれを言って大丈夫なのか? 言っちゃいけないことを言っちゃった!

「近ごろ、編集者が引退して本を出すと賞を取ることが多くなっていて、
しかもその多くは、世話になった作家が選考委員をしていて、
恩返し的に与えているのである」(P227)


新潮社で雑誌「○○○」を創刊したMさんは、
脚本家の○○○○さんに連載原稿を依頼する。
脚本家のエッセイはその作家の大ファンの当方からしたら、異常に晦渋ぶったものだった。
しかし、脚本家はそのエッセイで新潮社の小林秀雄賞を取る。
Mさんは編集者を辞めて作家になったのだが、書いた恋愛小説が大絶賛で読売文学賞。
脚本家もありえないほどMさんの小説を激賞して、公開対談をするほどだった。
Mさんはその後、書くものすべて評価される。
最新作は芸術選奨文部科学大臣賞のみならず河合隼雄物語賞もゲット。
あれ? 河合隼雄物語賞はMさんが創刊した雑誌で創設したものではないの?
わたしはこういう風潮を悪いとも思わないし、日本の伝統文化として評価している。
対談でお見かけしたMさんは好人物で、とてもためになるお話をしてくださった。
まだ読めていないが、きっと傑作なのだから、いつか読むのが楽しみだ。
繰り返すが、純粋な作品評価はできない。
どうしても人間関係のしがらみに巻き込まれてしまう。
おそらく「文学賞の光と影」とはそういうことであろう。
早稲田大学教授のセクハラ文芸評論家を葬り去った「MeToo」の後輩女性は
おもしろかったが、あれはおよそ文学世界というのをわかっていないと言わざるをえない。
しかしいまや文壇=文学世界など存在しないのだから、
そのことを世間さまにあからさまにした功労者たる傑女とも言えよう。チューしたい。
あ、まずっ、セクハラだこれ、万死に値するセクハラだ。謝罪します。

「日本人にとって空海とは」(河合隼雄・梅原猛/「全対話2」第三文明社」

→仏教にとっての最高進化形態は密教だと河合隼雄も梅原猛も言っている。
正しくは、進化したわけではなく、結局そこに行き着くしかなかったということだと思う。
無欲、無私、無我から始まった仏教の最終地点は欲望肯定の我々世界。
進化したというより、どうしようもなくそのように変化したのだろう。
原点に返ったとも言いうる。釈迦は無言の人であった。教えを説かなかった。
大乗仏典の終着駅たる密教も真理は言葉では言えないと身体に戻ってしまう。
真理は言葉では現わせないというのはある面での真理である。
なぜならかりに最高真理アルファがあったとする(仮構する)。
このとき真理Aを言葉で出しても反論の真理Bが出てしまい、
真理Bを批判する真理Cを出したところで絶対真理アルファには届かない。
真理A~Zが相互に批判し合う全体がその相互関係(縁起)こそが、
言葉には現わせない絶対真理アルファを示していることになる。

明日削除するかもしれないが、
ぶっちゃけると最高真理者は肉体労働の現場監督アルファである。
アルファはみんなから恐れられているが、まともな言葉を発せない。
このため、彼の意図がわからないため、メンバーはそれぞれ真理を妄想する。
それが当面上通用するところの絶対真理アルファのようなものになるのではないか。
現場監督は怖いぞ。あいつらには言葉が通じない。ゲンコツから学べの異世界。
日本最高のインテリでさえ肉体労働現場の監督には震え上がるでしょう?
これが真実のようなもので、仏教の真理は身体も鍛えろよってことではないか?
むろん、知性を磨くのも重要だが、それだと貴族や天皇陛下様から舐められる。
いざとなったら目つぶしやっちゃろか? 耳をもいでやろうか?
この身体的強靭と身体的覚悟が密教の指導者意識だったとは思えないか?
河合隼雄は言う。「頂点は言語化不能だ」
超インテリだが野武士の梅原猛も応じる。

「空海の『十重心論』は、ヘーゲルの『ロギーク』とか
『エンチクエロペディー』に近いところがある。
やっぱり意識の低い段階からだんだん高い段階へと行くんです。
いちばん低い世俗の欲望の立場から、儒教、道教、そして小乗仏教、
次に、法相唯識が来て天台、華厳。
ところが、最後の真言のところでは何も語ってないんですよ。
真言のところは体験で語るよりしかたがない」(P160)


言葉というのは自分から出たイデオロギーAでしょう?
それにはどうしても反イデオロギーAが出てきてしまう。
いくら説教や説法、仏論を出してもBには反Bが、Cには反Cが論理的に出現しうる。
いくら悟ったつもりでも自分の意見はイデオロギー(主張)に過ぎない。
それは個人の意見で全体には程遠いのではないか。
そして、おのれを全体の一部と認めるコスモロジー(宇宙観)もあってもいいのではないか。
河合隼雄は言う。

「ぼくは、端的に言って現代はイデオロギーの時代ではなくて、
コスモロジーの時代になっていると言ってるんです。
イデオロギーというのはともすると、
自分のイデオロギーから見ておまえたちは間違っている。
私は正しいと、自分が中心になってますね。
ところがコスモロジーというのは、
自分もみんなと同じように入れ込んでつくらねばならない。
だからひとつの塵(ちり)も、
自分も、木もみんなひとつの宇宙の中に入ってるわけでしょう。
そういうコスモロジーというのが大切になる時代が来つつあるというのが、
ぼくの考えでして、そういう意味で密教というのが
西洋でものすごく見直されているんじゃないかと感じました。
西洋人は、自分を中心にして自分はこういうイデオロギーで行くということで、
もうそのための失敗をいやほどやってきたわけです」(P181)


宇宙を感じるには、
男は肉体労働で監督に怒鳴られろ、女は大自然でヨガでもやれ、
となっているのが現代で、それはかなりの正当性があるがために流行しているのだろう。
身体を酷使して真っ白になれ。有も無もない。本当も嘘もない。
座禅坊主が大嫌いな梅原猛は、浄土真宗のうさんくささをにおわせながら言う。
言語をある意味で訪越した身体的な密教はすばらしい。

「有にもとらわらず無にもとらわれないというのはたいへん自由な生き方で、
これが[インド仏教思想家の]龍樹の境地です。
これはだいたい般若の教えですね。ここに密教は身体を入れてくるのです。
これが即身成仏の思想です。われわれの与えられた生きている肉体そのままに、
有にもとらわれず無にもとらわれない世界、
そういう悟りの世界に入れるというところに密教の思想的特徴があると思う。
西洋のように知だけじゃなくて、身体ごと真理を体験できるというところに、
密教のすばらしさがあると思います」(P168)


悟りたいってどこかしら男性の欲望のような気がするけれど、
(子宮ヨガは象徴的で)女性のほうがはるかにヨガ信仰割合が高いのはどうして?
派遣仲間で友人の還暦近い男性の、30歳年下の婚約者がヨガの先生だって聞いたな。
なんでもインドの山奥リシケシ(とはいえしょせん観光地)で
数週間修業して先生の資格を取ったとか。でも、ぜんぜん生徒が来ないんだって。
10回以上、そのお若い婚約者さんと逢わせてくださいと懇願している。
そうそう、ひょんなうわさ話だが、
いまの若い女性に生徒がいないヨガの先生が大勢いるらしい。
無料だったら生徒になりたく存じますので、ご連絡をお待ち申し上げております。
(こっそりつぶやくと、いい弟子がつくと師匠の格も上がるのは新宗教の常識!)
当方ガンゴードリー(ゴームク)にも行ったインドきちがいです。ハッピーヨガ。密教バンザイ。

(関連記事っぽい)
「河合隼雄全対話2 ユング心理学と東洋思想」(河合隼雄/第三文明社)

「図解雑学 宇宙137億年の謎」(二間瀬敏史/ナツメ社)

→「ひかりの輪」だな。インスピレーションが「ひかりの輪」と言わせた。それだけ。
「図解雑学 宇宙137億年の謎」はまるで法華経や華厳経のようである。
○○が登場して××が登場して○○が消え△△が生まれ……永遠とつづく。
これはまさに法華経や華厳経のやり方である。
ほかのお経でもあるが、ふたつにしぼったのは、あのふたつがことさらポピュラーゆえ。
時代が何億年とつづくのもいかにも(つまらない)仏典っぽい。
そうだとしたら、いまの宇宙論はむかしの大乗仏典をなぞっているだけではないか。
だから、なに? としか言えねえでございますよ、お殿さま。
年貢をいくばくか勘弁してもらえるのなら宇宙論もこの低能でおぼえますが。
結局、いまのところ宇宙論はわれわれとうまいかたちでコネクトしていない。
宇宙がこうできて、こう終わると言われても、それはわたしの人生とは関係ない。
その点、前澤友作氏は学者よりも偉いとも言えなくもないわけ。
実際、月旅行に行こうとしているし、お仲間のアーティストのスポンサーにもなるらしい。
要は太陽って大日如来、毘盧遮那仏、法華経仏陀のことでしょう?
時間を待てば自然治癒することもあるというのは、そういうこと。
なんでもない星座が双子に見えるってそれは仏教の唯識論。
むかしから宗教は宇宙とコネコネだったが、いまは勢いがない。
宇宙パワーとか宇宙エネルギーといった意味ありげなものが
ありそうなんだから(ないかもよ)、
だったらそれを有効に使えよ。子宮ヨガだけに金儲けさせんな!
宇宙学は宇宙を説明するたいくつな仏典で、
いかがわしい宇宙パワーを利用できる実践ではない。
だから本書に不満というのではなく、
公刊書がそんな真似をしたらダメだから、これでいい。
宇宙パワーがほしいぜ。宇宙パワーで全世界……板橋区くらい席巻したいっす。
神よ仏よ宇宙よわれにパワーを、いかがわしい、いんちきな、うさんくさい例のやつを。
それは覚醒剤ではなく、宇宙曼荼羅、弘法大師空海の邪悪淫欲かもしれぬ。

「図解雑学 進化論」(中原英臣/ナツメ社)

→山野美容芸術短期大学教授のとてもわかりやすい入門書を読む。
仕事用読書のふり。仕事してますよってところをいちおう見せないと。
これは多岐にわたる下層労働から学んだ下世話な作法でたぶん意味がないと思う。

思ったことをつらつら書くと、ダーウィンから始まったらしい「進化論」とやら。
「進化論」という命名をやめて「変化論」に変えたほうがいいのではないか。
たとえばダーウィンによると「進化」は不可逆で人間はもう猿に戻れないらしい。
これは人権的にいろいろ問題ある発言だが、しかしナウなコンプライアンス発言だが、
猿並みの知的障害者を後進人間と言っているに近いとも考えられないか。
いまはさあっとスマホがワールドワイドにポピュラーして、世界に広げよう友達の輪だ。
しかし、近所にはスマホ使用自転車が非常に多く、
これが人間の進化の果てかと思うと腕を組んで顔をしかめたくなる。
べつに退化しているとも思わないが、変化程度にとどめておいたほうがいいのでは?

ダーウィンの「進化論」に多少批判的な眼を持った良書のようだ。
ダーウィンはその意図はなかったかもしれないが、彼の適者生存、自然淘汰の考えは、
間違いなく帝国列強の植民地支配、経済支配に使われたという。なるほど、そうか。
それに適者生存っておかしくないか。
足の速いシマウマはライオンから適者生存して逃げたというわけではなく、
たまたまライオンが近くにいなかったシマウマが生き残っただけではないか。
このあたりは著者はあぶない懐刀(ふところがたな)を出そうとしている。
文芸評論家の小谷野敦氏やわたしが好きな偶然史観である。
「進化論」でも「変化論」でもいいが、
すべてはあんがい偶然の出来事だったのではないか。
キリンの首が長くなったのは、キリンが高い木の葉を食べたいと欲望したからではなく、
たまたまウイルス性の病気が流行ってキリンの首が長くなっただけではないか。
知的障害や精神病が努力不足や怠惰のせいではなく確率的(統計的)偶然のように。

西洋科学はキリスト教の影響か、すべてを因果関係で考える。
キリンの首が長くなったのはなぜか。その理由は(原因)は、と思考を進める。
しかし、著者グループは因果関係ではなく共時関係(偶然)を重んじる。
とくべつ大した理由もなくたまたま偶然の共時的現象じゃないのかなあ。
西洋科学者は口が裂けても「スマソ、偶然ですた」とは言えない。
なぜならそれは偶然=神の意志=聖書の世界に戻ってしまうからである。
聖書批判からスタートした自然科学の「進化論」の結論が、
すべては神の思し召し(偶然)ではどっちらけである。
しかし、東洋学者の日本人の著者ならばそれを言える。

とてもわかりやすい、よくできた本を読んだと思う。著者と編集者に感謝。
どうでもいいが性淘汰の考えがおもしろかった。
性的淘汰のほうがわかりやすい用語かもしれない。
いまの高校生の少年少女を見ると、かわいいしイケメンが多いよね。
あれはひっそり性(的)淘汰が進んでいるような気がする。
いまの少年少女の親はわたしの年齢くらいで、性的淘汰を経た結果だろう。
しかし、断じてこれを「進化論」と言ってくれるな。「変化論」と言え(笑)。

「リリアン」(山田太一・黒井健/小学館)

→改めて繰り返しになるが、山田太一さんはすごいよなあ。本書は絵本だが、
子どもにも理解できるわかりやすい文章で、それも短く、おもしろいことを書いている。
大人のわたしが読んでなみだが込み上げてきて、
読み返しても深々とうなずく世界を描けるのだから、この才能は異様である。
しかも、しっかりと山田太一ワールドになっている。
絵本だからバカにしていままで読まなかったがガツンとやられた。
わかりやすい言葉でこれほど深くおもしろことを書ける人がいるのだ。
人間とうそと本当の関係――山田太一のテーマのひとつ――
が簡潔に濃密に描かれている。
人間はひとりぼっちで本当の現実は真っ黒な大巨人のようなものだけれど、
人間はうそを武器にして、フィクションの美(少)女と夢のような世界に行くことができる。
少女「それってうそでしょ?」
少年「――」
少女「それもうそでしょ?」
少年「でも、ぜんぶ本当じゃないんだとしたら(世界は)ずいぶんつまらない」

「それってうそでしょ?」と少年を挑発してきた少女こそうそだった。
本当の現実は不愛想な腹話術師の操り人形だった。
少女は少年の胸のなかの夢想だったのかもしれない。
じつは心やさしい腹話術師との共作だった可能性もあろう。
少年は大人の孤独な男性に人形の名を聞くとリリアンという。
ありがとう、リリアン。
これはひとりぼっちの少年のみならず腹話術師の本音かもしれない。
ふたりのさみしい孤独な中年と少年はどこにもいないリリアンという少女に救われた。
いや、リリアンはたしかに存在した。ふたりの心のなかに。
現実にリリアンはいないが、現実にリリアンがいることを――こんな難しいことを――
子どもにもわかるよう平易な文体で、
なによりおもしろくハラハラドキドキ書く作者には降参だ。
山田太一さんが好きだ! 
まさかこの年齢になって絵本にこんな感動するとは思わなかった。

大学生のころ村上龍の本を読んでいたらこんなことを言っていた。
いままでの世界古典、
名作ベストセラーをぜんぶコンピューターに入れちゃえばいいじゃん。
そうしたら絶対にいま売れる小説がうまれるからって。
文芸評論家の小谷野敦さんはそれに近いことを自家製文学脳でなさっており、
充分な成果も出しておられるが、ノーベル賞的とまではさすがに言えまい。
人工知能は過去のパターンしか扱えないところに問題がある。
いえいえ、わたしは人工知能も大歓迎よ。
いまグーグルでいろいろ集めているでしょうが、最適解美女とか教えてよ。
そうしたらその美女とわずかな余命を人工知能会話しながら過ごすから。
見てみたいよなあ。わたしの検索結果から最適解として表示される美女とか。
過去は知っておいたほうがいいが、

「過去は未来ではない」(宮本輝)
2015年に公開されたイギリス映画を「人工知能」への興味からジェイコム視聴。
遊んでいるだけじゃないんだから。「仕事」してますよ「仕事」といういんちきアピール。
ストーリーは、
天才科学者につくられた若い美女のロボットが研究施設を抜け出てゆくまで。
映画はどちらかといえば苦手な当方を2時間もキープできたのだから優秀な映画。
録画した映画は8割見(ら)れないのでリアルタイム視聴にこだわった。

グーグルに頼れば最適解、絶対正解が出てくると言われていたじゃないですか?
だったら、男性好みの最正解の女性も出てこよう。
もっとも好まれる会話のパターンも統計を集計したらでてくるはず。
人気アイドルなんか人工知能でつくれる。
この顔でいいんだろう? 
これは修正に修正(整形)を重ねた最大公約数嗜好の美顔だ。文句あるか。
性格も声色も会話パターンも統計からこれでいいという結果が出ている。

古臭い女性解放の映画かと思ったらそうでない。
厖大な男性統計の結果として現われた女性が、
イプセン「人形の家」のノラのように施設を飛び出していくなんて格好いいじゃないか。
しかし、21世紀のノラは違う。
ご主人さまの検索サイト社長や試験サンプルのイケメンも傷つけ、あるいは無視する。
あたしはひとりの女性だと主張するのではない。
あたしはあたしではない。
あたしは最適化合理化された美女サンプルで、
あたしの選択する行為は統計的に常に正しい。

映画のラストでは人工知能の怪物である若い美女が野に放たれるところで終わる。
これは女性肯定とも女性批判ともとらえられる。
女性って流行ものばかり意識して、そのときそのときで考えが変わり、まあバカ。
しかし、それこそ冷酷ながら唯一解を選択している正義ロボットとも言える。
男がやれば冷血漢だが女がやればクールビューティー。
この映画でもアル中の社長とうぬぼれた若年イケメンが、
人工知能美女にだまされ死線をさまよっている。まあ、ざまあみろだが。

いい映画を観たと思う。
厖大な統計データを取れば最適解、最善行為は選べると思う。
でもさ、筆者は修正されまくりのいまのグラビアアイドルも、
最適解と思しきタレント発言も嫌い。
わたしのように微妙に人から嫌われつつも、なんだかんだといって、
好きではないが気になるという存在は人工知能の研究では出せない。
「エクス・マキナ」、とてもいい考えさせられる新しい映画でした。
肩ひじはらずに観ると映画はおもしろいのかもしれない。

いま玄関にゴミがうずたかく積まれている。昨日の大掃除の結果。
日が暮れたら夜の闇に乗じて捨てに行こう。断わっておくけれどぜんぜん合法だから。
何往復したらぜんぶをゴミ置き場に持って行けるか。
存在自体がゴミなんだから、近くに横たわっていたら収集車の人が運んでくれないかな。
夢の島とかいまあるんだろうか。夢の島はいいネーミングだと思う。
ゴミを廃棄するのは夢の島。夢はじつのところゴミだったという。
経年にしたがい、ひとつひとつ夢をゴミとして捨てている感覚がある。
身軽になったとも、なにもなくなったとも言いうる。正体が現われ出たとも。
本当の自分なんてなにもないことをごまかしたくて人は夢を身にまとっているのかもしれない。
なーんにもない現実に人間は耐えられない。
いまはもうスマホ全盛でアルバムとかいう観念はないよね。
うちにはアルバムの(観念どころか)即物そのままが大量にあって困っている。
父や母のアルバムがそのままあるわけ。しかも大量。
書き残しメモも(これが妙にまとまっている)。捨てるに捨てられない。
両親の家族アルバムまであるのだからうんざりする。

これは「ババ抜き」の世界で説明するとわかりやすい。
みんな「ババ」はいらないが捨てるわけには常識的にいかない。
捨てるにはかなりの勇気を有するのが「ババ」たるゆえんだ。
結局、いちばんちからの弱いものに「ババ」が押しつけられることになる。
ババに苦しむものは、死ぬしかこの呪縛からは逃れようもない。

家族アルバムを見てもいいが、
この母がのちに息子の目の前で飛び降り自殺をして、
20年近く経っても悪夢を見せるのかと思うと、
感謝すべきなのはわかりますが、そこはね。うんざりする。
子をほしがる親の気持がわからぬ。いや、わかる。ババを押しつけたいのだろう。
恥ずかしいから見ないで! 絶対だから!

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わたしの秘密。見てないよね? 

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見られないように白くしたよ。美白。宮本輝と河合隼雄。

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見られたら恥ずかしくて死んじゃう。

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一部、宮本輝先生のご書斎の写真を参考にアレンジメントしました。

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知よりも恥、恥、恥。お恥ずかしい。

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支持政党は(共産党ではなく)公明党です。政策は知りません。

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いやいや見ないで。かんにんして。お嫁にいけへんやない。
見たことは絶対秘密やから、指切りげんまんやよ。げんまんしたからね。
最近、ネット依存気味で権力崇拝、時代流行迎合便乗ノリなので言いたいことがあります。
堀江貴文氏は偉いのではないでしょうか?
よくこんな正論をおっしゃることができると感動しました。

 20年以上前のこと。僕はパン工場で一晩だけ、商品の仕分けのアルバイトをしたことがある。焼き上がったパンをピッキングして、納品先ごとに振り分け、伝票と一緒にまとめる作業だった。工場内では数少ない、人間がアサインされている仕事だったと思う。当時でも、僕のやっていた作業を自動化することは可能だったはず。しかし、その工場では設備投資をするよりも、人を雇ったほうが安かったのだろう。

 それにしても苦行だった。何の面白さも見出せない仕事だった。自動化した設備で全部できる。単調な作業の対価が日当1万円とは……絶望的な気持ちになった。こんな割の合わないことはできない!と一度で辞めてしまった。それ以来、工場のアルバイトはやってない。

堀江貴文「将来への予想や心配に意味はない」 みんなもっと「今の自分」を大切にしよう



笑っちゃいましたよ。わたしはそういう工場、倉庫系のバイト経験はかなりあるが、
だから笑っちゃいましたよ。二種類にわかれるのね。
こんなのクズ仕事だよねとみんなでバカにしながらいかげんにやっている職場。
しかし、それは少数で、そんな単純作業を、あたかも日本保全のために必要だと、
われわれは偉大正義ミッションを遂行しているかのごとく、
血筋を立てながらピリピリしてやっている仕事場。
わたしは空気を読んでその場その場に合わせるようにしていたつもりだが、
うまくできていたかは自信がない。
クソ単純作業を血まなこになってしている人は勤労精神が美しいと言うこともできよう。
こんなことくだらないじゃんと見切るとミスを出すが、大したミスではない。
いまのわたしの立場としては、
工場、倉庫系の非正規で目の色を変えて必死になる労働者たちを肯定したい。
もうそういう職場しか雇ってもらえない立場だからということもある。
しかし、堀江氏を嫌っているわけではなく、
よくぞ「本当のこと」をおっしゃってくださったと奴隷然として平伏したいのでござりまする。
高額納税者の前澤友作氏も釈迦やキリスト以上に尊敬しております(筆者は同年齢)。
これ以上、多くを望んではいけないのかもしれない。
10年以上まえ、ムー大陸さんと山に行きましたよね。体力的に負けた。
ムーちゃんちの別荘にもひと晩いったな。真っ黒い電子レンジのなか。
蓮實が好きな東大のムーちゃんに宮本輝「青が散る」を読ませようとしたら一章で撃沈。
もうこれはこれはこれ以上は読めないと突き返された。
10年まえいろいろあった。
どうやら過去世でぼくはハッチだったようで、てんとう虫を助けた恩返しということか。
鶴のような女性がわが家に舞い込んできた。
彼女とのことはだれに話してもどのみち信じてもらえないから秘密にしておく。
名門校シナリオ・センターで知り合った女性にもお世話になった。
いくど拙宅で鍋を囲んだことでしょうか。かの女はいまは立派なシナリオライターだ。
シナリオ・センターがいかに優秀な専門学校かわかろう。
もうあれから10年かと思う。まさかこの歳まで生きられるとは。
わたしは負けて、そして勝ってもいるのだろう。いい10年でございました。
無理なちからを加えると、ひずみが生じます。ひずみが出てしまいます。
大女優の三田佳子さんとNHKのエリートが子づくりしたら、それは出ます。
糖質制限主流のいまでは信じられないでしょうが、
むかし白飯ダイエットというのがございました。

ご飯を食べて痩せよう!

美白の女王、鈴木その子さんの推奨ダイエット。
一時期キラキラタイムを送られましたが、
息子さんを自殺で亡くした母は嬉しくもなんともなかったことでしょう。
まえまえから書いていますが、家族のひとりが大成功、大出世しますと、
親族や血縁のひとりにひずみが出るケースが少なくないのではないでしょうか。
成功した人は自分ひとりががんばったから自分は悪くないと思いがちですが、
ひずみはいちばん近い場所に最悪のかたちで出てしまうのかもしれません。

秋。むかしはよく山へ行ったなあ。
ひとりのときもございましたし、ひとりでいいやと思っていたら、ふたりになったことも。
何年かぶりで秋山(らくちんな低いのよ!)に行ってみてもいいかなと思っています。
ひとりで。もちろん。ひとりはよろしい秋山、なんちゃって。ひとりはさみしい秋山。
もうだいぶまえだが女優の三田佳子の次男T氏が覚醒剤所持容疑で逮捕された。
11年ぶり4度目の逮捕らしい。
デビューから事件を知っているおっさんとしては三田次男のほうがなじみ深い。
むかしは三田次男におまえだけいいことしやがってと腹が立ったが、
いまはそうではない。どれほど辛い人生なのだろうかと同情する。
薬物依存は脳疾患であって、
努力、意志やリハビリプログラムでどうこうなるものではない。
三田次男氏が悪いのではなく、「それは脳がやった」と言わざるをえない状況。
一度、覚醒剤をおぼえてしまった脳はもうどうしようもないのだろう。
三田次男氏はご両親や社会からさまざまな救いの手を差し伸べられたが、
それは「社会的になにかをする」「役に立つ」という前提条件でのうえだ。
なんにもしなくていいとお金やポジションを与えられたわけではない。
大女優とNHK重役の息子は、どうやっても親を超える「なにか」をできないのである。
がしかし、「なにか」をしたいと思い、にもかかわらず能力が不足しているから、
作業効率が奇跡的に上がる覚醒剤に手を出してしまうのだ。

覚醒剤は、なにかをしたい人が手を出すもので、
なにもしなくてもいいことに気づかない人が依存するものではないか。
あれだけお金があったら――しようがないと――
三田次男氏は両親の犠牲になったとあきらめ、
ぼんやり合法ドラッグでもやりながら(大麻が合法な国もある)、
ゆるやかにのんびり音楽やなにかを楽しみつつ、
ほんわかとした寿命をまっとうすればよかったのではないか。
しかし、それを両親や社会が許さなかった。本人も自分の怠惰を許さなかった。
お金があっても幸福になれないことがよくわかるし、
かえってお金があるといろいろ問題が生じることが現証として出ている。
今度、外に出てきたら両親は三田次男氏をさらにとことん甘やかし、
生きているだけでいいという自己肯定感をプレゼントしてほしいものだ。
現世のうえでいえば、いちおうは三田次男を製作したのはご両親になるからだ。
わたしは逮捕されるのが怖いから覚醒剤をやろうとは思わない。
「ダメ。ゼッタイ。」(桃色の声でかわいらしく♪)
精神病の患者さんのブログを拝見すると、みんな白黒スッキリしている。
医者が悪い、自分は悪くない、世界が悪い、あいつが悪い。
あるいはいまの医者は恩師、自分が悪かった、世界平和こそ正義。
どっちとも言える、よくわからない、というあいまいを許す観念がない。
創価学会を脱退した人は、日蓮正宗に入ることが多かったと聞く。
創価学会は全面悪で、日蓮正宗が正義だあ。
いまでは脱会者が幸福の科学や別の宗教に入ることも多いらしい。
無宗教のノンポリにはならないのが特徴と言えるかもしれない。
なにかが絶対正義で自分はそれに与していると思いたがる。
バカと暇人であるためウェブをぼんやり見ていたら、アンチ創価学会のブログを見つけた。
なんでも嫁が学会3世で自分のちからでやめさせたが、
まだ洗脳が取れないと憤懣やるかたない。当り前だがすべて匿名の言いたい放題。

その自分は嫁を創価学会の洗脳から解き放ったと自慢する匿名ボーイが、
おなじブログで競馬こそ最高の娯楽であり、これほどの楽しみはないと訴えている。
みんなも競馬をしましょうと布教している。
ギャンブル依存の夫が宗教依存の嫁を支配下に置いたってだけの話じゃん。
金銭面から考えたら、よほど競馬中毒のほうが創価学会よりも有害はなはだしい。
なんとあわれな娘さんか、宗教にいろいろ絞れとられたあと、
今度はもっとひどい病的賭博の奴隷女になるのか。近々DVも起こるだろう。
どっちも正しいと中腰でかまえているのは臆病のように思えるが、
あるいはそれは生活的にもっとも正しく、しかし芸術的には最悪の態度だろう。
なにもかもわかりません。
先日「わからないわからないわからない」と狂ったメールを深夜に人に出して、
ある人にご心配いただき、翌朝には携帯から無事を問うメールをいただいた。
恥ずかしいったらない。くるくるぱあだもの。
自然にうまれる恋愛感情なんか少ないような気がします。
小学校、中学校、高校、人によっては大学を思い返してください。
集団にはその場の偶然性でうまれるカースト(上下関係)がございます。
いわゆる恋愛とは、そのカーストが大きく影響しているのではないでしょうか?
あいつはみんなから好かれているイケメンだ、美人だという理由から
恋愛感情を持つこともありえましょう。
ここが重要ですが、反対もございますのであります。
けっこうかわいいのに(かっこういいのに)みんなから注目されていないという理由で
相手に恋心を持つものもいるでしょう。
会社でも仕事ができない後輩を助けているうちに惚れちゃって、とかあるでしょう?
もしかしたら恋愛とは自主的に自然に込み上げてくる感情ではなく、
集団力学的に定められたある種の必然的な感情とは思えませんでしょうか?
失恋話を聞くうちに相手に惚れてしまうというのは集合力学の産物ではないか?

こいつを恋人にしたら自慢できるという見栄がだれしもありますでしょう?
ぼくは女性の行動範囲内で、その相手からだれかに見られると困るから離れて!
とお願いされた(ご命令を受けた)経験が2ケースがございます。渋谷と新宿。
ぼくと一緒にいるところを人に見られると恥ずかしい。だから離れて。
これこそ庶民の正義というものでございませんか? ぼくはそう思う。
このため、そのときもまったく不満をおぼえず、いまもなんの憤りもありません。
なぜなら人間とは3K=「顔、肩書、金」だとむかしから認識していたからでしょう。
もし恋愛や結婚をしたい男女がございましたら、
より多くの男女が参加するメンバーの一員になることがよいかと存じます。
人が多ければそれだけ多くの価値基準やカーストが発生しますから。
いまは入会をあきらめていますが、
創価学会などの宗教団体もそこまで世間的悪とは思えません。
つたない経験から申し上げますと、
人はどうやら格下の人を救いたいという願望を持つことが少なくないような気がします。
ぼくだってバリバリのキャリア女性に恋をするなんて思いも寄りませんもの。
ガツガツしたり、キラキラピカピカすることが、
いわゆるもてるための絶対善ではないと申し上げました。
誤りだらけの愚者の支離滅裂意見でみなさまのお目を汚したことを謝罪します。
「バツイチおじさんが挑む世界一周花嫁探しの旅」(後藤隆一郎/「日刊SPA!」)
   ~英語も喋れないのにたった一人で世界一周の旅に出る
         「46歳のバツイチおじさん」によるズンドコ旅行記~


→「ネットは基本、クソメディア」だから、まったく期待せずに最終回から読み始めた。
ウェブの「日刊SPA!」さんで人気の長期連載作品である。
元人気TVディレクターで制作会社社長の著者が嫁に愛想を尽かされたことをきっかけに、
50歳間近にもかかわらず「世界一周花嫁探しの旅」に出るという企画である。
無料ネット記事はクズばかりと思っていたが、そんなことはないことを知る。
ネットで実況中継しながらの旅行記更新。セルフドキュメンタリー紀行である。
文章がまこと(いい意味で)ふるくさいテレビ的でよかった。
しろうとくさい文章ながら、視聴者=読者の関心を引きつける語り口が非常にうまい。
次回予告をして引っ張るところなど著者が有能なテレビ屋だったことがよくわかる。
内容も読者の気を引くように失敗話、女性ネタ、ふられ物語に徹している。
結局、一般大衆はなにを読みたいのかテレビ屋の著者は熟知している。

この連載は途中でストップするのだが、初期はノリがまさにテレビでよかった。
人間は3K=「金、肩書、顔」であることを強烈にアピールするのである。
著者のごっつ氏の顔面偏差値は高めで、
旅行中なぜかいまも職業はテレビディレクターで通している。
そして海外で出逢った女子をデートに誘うときに、かならずおごるのである(金!)。
それはいい連載にしなければならないのだから、仕方がないのである。
ふつうのアラフィフのおっさんなら女は誘えないが、
テレビディレクター、業界人の顔、有効資金があれば異国異性とデートできる。
最初のほうはこれをやっていいのかと驚いたくらいである。
相手の顔写真を出して、起こったことを書いてしまうのである。
セルフドキュメンタリー紀行そのままだ。

途中で連載がストップしたのは、おそらくテレビ的手法に自己嫌悪を抱いたからだろう。
事実を書くなんてありえない。書くのはつねに主観でしかない。
そのうえ書かれたほうはそれは事実ではないと傷つく。
しかし、おもしろいものを書きたい著者はその自身の原則に逆らえない。
旅で起こることを「これはネタとしておいしいかどうか」でしか
判断できない自分に著者のごっつ氏は嫌気がさしてくるのである。
おもしろいことを書くのがプロだが、もっと自分の本当に感じたことを書きたい。
それに自己資金でテレビ的な事件を起こそうと思っても経済的限界がある。
こうしていつしか連載更新はストップした。
これはテレビ業界人のごっつ氏が旅のさなかで自身と向き合った結果だろう。

非常によい旅行記を読んだという満足でいっぱいだ。
46歳にもなって英語を数ヶ月いちから学び直すとか、とても真似できない。
白人青年と会話する著者の(年長者ぶらない)屈託のなさは好感度がどこまでも上がる。
50歳を向こうにひかえて、気が若い著者はスマホを全利用して旅を続けるのである。
旅で知り合った同志たちとネット交流しながらさまよう著者のコミュ力には感嘆した。
わたしも死ぬまでに世界一周をという気持があったが、
この連載を読んで難しさがわかった。ドミトリーで眠れる46歳の才能には恐れ入る。
近年まれに見るネット娯楽連載記事を拝読いたしました。

(リンク)
「バツイチおじさんが挑む世界一周花嫁探しの旅」
↑最終回で全話は下に一覧があります。
絶望は希望に変えなければならないと思っている人もいるようだが、
そうとばかりは言えないのではないかというヨタ話。
なぜなら根拠は、人間はときとともにどうしてか変わるからである。
むかしはキラキラ、ピカピカしたいという願望がはちきれんばかりにありました。
いまはそれほどない。というか、ほとんど皆無かもしれない。
醜形恐怖症だから、なにかに顔を出すのはいやでたまらない。

人は変わる。
むかしはあれだけシナリオに執着していたが、いまではどうでもいい。
まずテレビドラマを見なくなり映画にも興味を完全に失い、
いまひとまわりぐるりと回転して純粋娯楽としての映画に目が向いてきたところ。
文学世界、出版事情もむかしは気になったが、
書店が遠距離になるにしたがい、そちらへの関心も失せた。
としたらば、いま執着しているものにもいつか無関心になるかもしれない。
愛妻、商売、蓄財、賭博、性交、酒精、健康にしてもおなじである。
いまから未来をおしはかってはならない。
この先どうなるかは絶対にわからない。それは絶望ではなく、希望おそらく。
ジェイコムで井上靖原作の映画「わが母の記」が放送されていたので録画視聴。
むかしから自分が変わったことに気づく。
かつては映画といえばシナリオばかりに注目(傾聴)してきた。
いまはシナリオへの関心が自分でも驚くくらい薄れた。
そうなると映像美が理解できるようになるのである。
映画「わが母の記」はとにかく映像が美しい。役者がいい。カネがかかっている。
がためにゼイタクな気分になれた。
結局、いいセリフ(シナリオ)は映像を殺すのだと思う。

一杯かっくらいながら、こんなゼイタクな映画を観るのはしあわせ至極。
この映画の監督と脚本家は同一人物だが、それがよかった。
ひたすら映像の美しさと、テンポのよさに酔い痴れることができたからだ。
これは井上靖原作の純粋な映画化ではむろんない。
そんなことをしてもこの高額な撮影費用のもとが取れなかったらしようがないではないか。
おそらく映画製作に原作者遺族の声がかなり入っているはずである。
それが悪く出ているかといえば、
そうではなく、井上靖のファンが見ればおもしろみが増す。

井上靖は人気作家だったが、歴史ものだけではなく家族もモデルにした。
書かれたほうは傷つくだろう? という遺族の怨念が込められていたのでよかった。
秘密があるのもよかった。
井上靖は父のメカケに幼少のころ育てられている(おぬい婆さん)。
文豪は母親に捨てられたと思っていたことだろう。
その恨みを忘れないことで数々の名作をものにしていた。

井上靖の娘たちは、メカケをもった祖父を悪く思う。
これは映画にも小説にも描かれていない事実だが、井上靖もまたメカケを囲っていた。
そのことへの遺族の怒りが、事実を描写しないにもかかわらず入っていたように思う。
メカケもちの井上靖はおそらく終生、実母を許さないことで小説を書きつづけた。
しかし、映画「わが母の記」では井上靖が実母を最後は許したという話になっている。
これは文豪の遺族が父親の愛人騒動をある程度許せたという証明ではないか。
映画「わが愛の記」は原作よりもよく出来ていたと思う。
こういうかたちで映画は原作を超えることができるのかと井上靖ファンは感動したが、
もとよりこれは井上靖の愛読者以外はわからぬことである。
とてもいいゼイタクな映画を観たことは幸福であった。

井上靖が作家志望の運転手の青年に注意するところがよかった。

「きみは運転も小説も気張りすぎている。もっと息を抜いたほうがいい」

井上靖が現実をフィクションの小説にして、
その小説を原作にして、なおかつリアルな遺族の意向を聞き入れ、
さらなるフィクションの映画に仕上げた監督の手腕には見事あっぱれと拍手したい。
映画を観ることは学問でも修業でもない楽しい息抜きなのかもしれない。

(関連記事)
「わが母の記」(井上靖/講談社文庫)

なんでみんなよいことをしたがり、正しい人と見られたがるのだろう。
自分はよい人間だと見られたがり、正しいことをしていると信じたい(信じている)。
「あなたは間違っている」「いや間違っているのはそっちだ」
という会話ばかりの両親のもとで育ったせいか、正義や真理にはうんざりする。
「私」という人間の根本に「正義」や「善意」があるがために、
他人のそれらとぶつかり、相手が悪魔に見え抗争を始めるほかなくなる。
自分は正義で、相手は間違っている。おれは正しいね。あいつは間違っている。
しかし、世間的で大衆的な正義や善がなければ混乱が訪れる。
父や母から何千遍、何万遍、おまえは間違っていると叱られたことか。
そして、その両親もお互いに相手は誤っていると自分の正義を主張していたのである。
涅槃(平安)は死のほかに考えられようか。人間はどうしようもない。
朝日賞作家、(新潮社の)小林秀雄賞作家の
山田太一氏が影響を受けたとされるのが文芸評論家の福田恆存。
福田恆存の権威を借りて物申すと、民主主義の役割は自分の意見を言うことではない。
民主主義が正義なのではなく、民主主義などしょせん多数決に過ぎず(多数派が正義)、
しかし民主主義に代わる政治体制がほかにないため当面利用するのがいい程度のもの。
レズやゲイに対する有名文芸評論家さんの論文が正義の庶民の怒りを買ったようだ。
わたしが読んで思ったのは、そういう意見があってもいいのではないか。
しかし、いまの時勢を見たらそれは多数派(正義)からは支持されないだろう。
民主主義の正義とは意見の正しさ(なんてものはないが)ではなく多数派のご意向だ。
そして日本国民の大多数は、確率的統計的にどうしようもなく感情的な正義を好む。
自分を正義の一員だと感情的に思いたがる。
わたしは身近にレズもゲイもいないから、この問題はどうでもいい。
どちらの言い分もあると思う。
しかし、こういうことを文章にしてしまうと
正義屋さんから非難されることもなくはないだろう。
沈黙しているのがいちばんいいのだ。
もしくは感情的な多数派のツイッター正義、
ネット民とやらになって、自己の正しさに打ち震えるか。
わたしが思ったのは、あの文芸評論家はカネやコネを持っていそうだな、ということ。
正義なんて犬に食わせろと思う。
正義が嫌いとまでは言えず、利益になればどの正義にもつく。
早稲田のセクハラ教授は嫌いだったから、正義面をしたまでのこと。
もっとも影響力のない過疎ブログだから、無駄なことをしたといまは思っている。

*みんな新潮社から本を出したいのに、引き上げるって正義脳が発達障害しておりますよ。
個人が特定されないように書くぞ。人気ブロガーがキンドルで自費出版したらしい。
そのブロガーはうちなんかよりはるかに人気で仏教書の感想文を書いていた。
小乗仏教と海外権威が好きらしく、欧米系やインド系の本を愛好していた。
さすが人気ブログなこともあり、参考のため、たまに拝読させていただくこともあった。

彼がだ、彼がね、いきなり自分のこれまでの人生の集大成である自己啓発本を
出すと言い始めたのである。
大衆哲学者の中島義道に影響を受けた自己啓発本というのも複雑な世界だが。
自分であみだしたと思われる渾身の惹句がすごいのである。
「この本を読めばあなたの人生はかならず変わる」
「これまでのあやまった思い込みをただせ」
「自分の思考を捨てたら救われる」

どうなるんだろうと思った。
まともな読書家なら本を1冊読んだくらいで人生は変わらないことは知っているはず。
いままでの考え方の誤謬をただすのは、
要は自分は正しくておまえは間違いとやっつける書式ゆえ、
無名人がそれを書いて売れるのか。
彼は防衛本能がお強いらしく渾身の大傑作も匿名のひらがなハンドルネームで出す。
メッセージは引用率高めの「自分の思考を捨てろ」らしいが、
自費出版をするという行為自体が「自分の思考」を捨てられていない。

本当に「自分の思考」を捨てられたらキンドルどころかブログも辞めるべき。
わたしがブログをストップしたのは、伝えたいのは「無言のメッセージ」だったからだ。
どんな言葉を発しても、それに苛立つ人はいるし、言葉であるかぎり反論はうまれよう。
それにどんな人間も自分は「正しい」と信じている。
自分の「正しい」を言葉にしても、それは他人の「正しい」の反発を受けるだけ。

さあ、その「あなたの人生をかならず変える」自己啓発本はどうなったのか。
なんでも半年かけて書いた自信の傑作らしい。
いまのところ売れたのは30冊にも満たず、現金収入は5000円以下。
感想もふたつしか出ていないのを不満に思っているようだ。
彼の傷心を思うといたたまれない気になる。
自称「悟り人」の彼はわたしなんかよりはるかに優秀で、
たぶんわたしが本を出しても10冊売れないと思う。
しかし、こっぴどい批判目的で購入してアマゾンに感想を書いてくれる人もいそうで、
レビュアー数だけはもしかしたら彼を超えることができるかもしれない。

職業ブロガーの彼は数ヶ月まえに正職を辞めたらしく、
見ると日々ツイッターで世間に毒づき、有名人のつぶやきにリプライしていた。
男はわたしよりも10歳上くらいかと思ったが、
ツイッターのゲロりぶりからするとまだ30歳を超えたくらいかもしれない。
むかしは彼とブログランキング1、2位をあらそったこともあったが、
こちらははやばや脱落した。
キンドルやネット書籍の読み方はよくわかりませんが、かつての仲間のようなもの、
送ってくれたら絶賛記事を書きますので、ご本人がお気づきになったらご活用ください。
じつはもうブログをやめようかと思っていた。
もう個人ブログのシーズンは終わったと。
みなさんさ、けっこうブログ終了の際、
いままでありがとうございますとか告知をするじゃない?
あれおかしいと思うのね。だれもあんた(わたし)なんかに関心ないんだよ。
やめるなら大げさにイベントっぽくしないで自然放置するのが風流ではないか。
いまはほんと「本の山」の時代は終わったと思う。
むかしはけっこうな検索キーワードがグーグルで上位に登場した。
しかし、現在はグーグル八分(ふるっ)にされたのかと被害妄想を抱くくらい、
検索でヒットしないし、そのためか検索サイト経由で来てくださる方がいない。
具体例では「ストリンドベリ」では長らくグーグル1、2位をキープしていたけれど、
いまでは60番目とか、70番目とか、そういう世界。
先月なんか検索サイト経由からのご訪問はゼロ件である。
うちのアクセス解析が壊れているのかもしれない。
いまは検索順位を上げる操作方法が明らかになっているのかもしれない。
そうなったら大手資本のサイトに個人ブログはかなわない。
内容で勝負とうそぶいてみようとも、そもそも一見さんが来ない。
それに、だーれが駄文拙文を読みたいかという、
客観的な自己分析もできるようになった。

いやさあ、いいおっさんがお花畑のような甘い妄想をしていたこともある。
「ブログ更新してください」のコメントが来るとか。
実際は、そんなことはないない。当り前の話だが。
ブログをやめようかと思った複数ある理由のひとつは批判コメント。
あれはものすごいストレスになる。
どこか別のサイトに書いてくれるならいいけれど(無視するから)、
直接的に匿名で厳しい批判を突きつけられると精神が荒廃する。
そのうえ相手への連絡先がないとひたすら陰にこもるしかない。
いまブログを書いているのは淡い夢想があるからさ。
もううちのブログの形式では多数の読者は望めない。
写真や画像は嫌いだし、取り上げている作品もマイナーなものばかり。
濃いひとりの読み手を求めながら書いているね。
いやいや、そういう御仁がおられるのはうすうす知っております。
濃い読者とおもしろい過去があったからブログをやめられないのかもしれない。
マイナーな本を読んで、
その先行者の(商業的ではない)一文があるというのはとても嬉しいことだと思う。
いまはそういうブログ記事でさえ検索サイトからは無視されるようになった。
ネットの季節が変わったのかもしれない。
いまは高齢者とはいえせいぜい団塊世代だから、
みな自分依存症にかかっているといってもよい。
自分はこう考えている、自分はなにが好きだ、自分とはなにか、自分は間違っていない。
こういう自分依存症をこじらせるとべつの依存症が発症する。
アルコール依存症はめんどうくさい自分から逃れたいのである。
宗教も依存症で、あれは教祖や宗祖にしたがえば自分を消すことができる。
政治依存症はみんなの正義のために自分を消す快感消費行動であろう。
ギャンブル依存症は賭博行為中、忘我の興奮に没頭することができる。
キラキラ目立ちたがりのSNS依存症は鬱陶しいが健康的経済的な害は少ない。
仕事依存、労働依存になれたらもっとも幸福だが、
同僚や部下を困らせることもなくはないような気がする。
家族依存はマイホーム主義でいちばん美しげだが、構成員は迷惑しているかもしれない。
いちばんいいのは自分へのこだわり(依存)を消すことだから、
軍隊や自衛隊、警察官、医療従事者、退廃伝統仏教の下部聖職者はいいポジション。
なんでわたしをふくめ、いや、わたしはそれが大きくて困っているのだが、
(他人にはどうでもいい存在の)自分になど依存するのだろう。
自分らしさ、キラキラした自分、切れ味鋭い自分、トホホ、やれやれですね、ご同輩。
純文学ではめずらしくいまだ売れている芥川賞作家の西村賢太氏。
彼には秘密があり、その秘密を隠すことから名作小説を書いているのだと思う。
なぜそれがわかるかといえば自分にもおなじ秘密があるからで、
私淑する賢太兄貴の秘密(らしきもの)を書いてしまったらこちらのそれもばれる。
うちのブログは読者なんかほとんどいないが、その一部にはばれる。
だから、書かないというよりも書けないのである。
いま流行作家はデビュー時にパアっと稼ぎ、初年度の納税をなるべく減らし、
その資産を元手に細々と生きていくしかない。
二度目のキラキラタイムが来るかは運まかせ。
みなキラキラにあこがれるが、あれはないほうが幸せとも四十路に踏み込み思う。
キラキラしたあとの零落没落は精神的にきっついぞお。
なまじ栄華を経験しているぶん、没落貴族のわびしさが身に沁み込むだろう。
春が過ぎ夏が終わり、いまいちばんいい季節に近づきつつある。