「世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く」(植島啓司/集英社新書ヴィジュアル版)

→ただの世界遺産のガイドブックなのだが、
著者のように宗教人類学者という肩書があると、
なんでもない旅行見聞記が学術調査の論文になってしまうのだろうか?
神秘的な教祖めいたことを言おう言おうとしているが、うまく決まっているとは言いがたい。
しかし、ビシッと決まってしまったら宗教学者ではなくなるから、これでいいのだろう。

子宮女子のコバマヤ(エビの義姉)がはまった宇宙ヨガとか
シャレオツなスピリチュアル方面に行きたいのだが、
誘いがからきし来ないのはあちら系統とは縁がないということなのか。
泥臭い創価学会よりも宇宙ヨガのほうがシャレオツでいい匂いがするが、縁がない。
いまは創価学会のテンションの男はあまりもてず、
宇宙ヨガとか神秘的な香りがするなよなよした男性の周囲に女性は集まるのだろう。
ぜったい創価学会の勇士のほうが宇宙ヨガ整体師よりは金を稼いでいると思うけれど。
本書の著者である植島啓司はむかしから宇宙ヨガ整体師タイプのキャラであった。
イケメンからこんな意味ありげなことを言われたら女はもうたまらんでしょう。

「神を感じるとは、何かが自分のなかに入り込んでくる経験ではないかと思う。
自分がマイナスにならないと神の入り込む余地はない。
普段のプラスである自分をやめなければならない。
そのためには、いつも思うことだが、話をしない、お願いをしない、
触る、温度を感じる、気圧を感じる、気圧を感じる、湿度を感じる、
聴く、匂いを感じる、風を感じる、感覚を開く、
そして、目の前のものだけを見ることである。
そうしないと何が変化したのか感じ取ることはできないだろう」(P46)


植島啓司の自称学術論文は、ひとつ間違えたら子宮女子のヨガポエムである。
しかし、香水の匂いがして汗臭い学会歌よりも宇宙旅行的色彩に富む。
おなじ宗教というフィールドでも、ひろさちやや島田裕巳は創価学会と地続きだが、
植島啓司は世俗を超えたかのような優雅さが悔しいけれどある。
女が子宮の声を聞いたらポエムになり、男が逸物の叫びを聞けば性犯罪を起こす(笑)。
「きみの子宮の声が聞こえる」とか植島や宇宙ヨガ野郎は女を口説くのだろうか?
またそういうことを言っても植島啓司のような風貌ならセクハラにならないのである。
島田裕巳やわたしが言ったらパトカーを呼ばれてしまう。

植島啓司は顔でずいぶんおいしい人生を送ったようだが、
それが客観学問ならぬ主観的な宗教学の示しだす真理のひとつであろう。
おのれを知れとか言うとなんだか深い宗教的真理のようだが、要は鏡を見ろよということ。
真実はいつもシンプル。自然と一体化して自然の声を聞け。風になれ、鳥になれ。
鏡を見て豚だと気づいたら豚になれ。叫べ、ぶひいい♪

「ニセモノはなぜ、人を騙すか?」(中島誠之助/角川oneテーマ21)

→テレビ「開運なんでも鑑定団」で有名なあの人の本。
本書をひと言でまとめると、ホンモノの定義は高く売れること、になるのではないか。
わが家に代々伝わるお宝だと大事にしているものでも高く売れなかったらニセモノ。
骨董は新たな生産ができないから(じつはニセモノは生産可能)
市場はニセモノだらけになる。
骨董市場はニセモノをいかにさばくかが腕の見せどころのインチキ商売に近い。
いかにニセモノをホンモノに見せかけて売るかが骨董屋の手腕である、
同時にいかにしてニセモノに埋もれているホンモノを掘り出してくるか。
数万で買ったものが数百万で売れてしまうのが骨董の世界である。
100万で購入したものがニセモノだとわかったとき、どう売り抜けるか。
信じられるのは自分の眼だけの厳しい世界だが、
どのようにして眼を鍛えるかに近道はないと著者は言う。

「いいものを見て、感動を得る。
そうして感動という土台の上に建ちあがった家は、美の殿堂になる。
しかし、感動なしに、知識という土台の上に建った家は美の殿堂にはならず、
それは欲ばりの御殿になってしまうのだ。
ここがわかるわからないの大きく違うところで、何しろいいといわれたモノを
たくさん見て、感動することが大事なことなのだ。
「見たってわかりゃしない」よ思っても、
実物をつぶさに見ることが何よりも大切だと思う。
事実、「見たってわかりゃしない」のだ。だけどめげずに繰り返せ」(P53)


骨董品にはニセモノの楽しみというものがあるらしい。
著者はある店で「国定忠治の合羽」を見つけた。
これの真贋を問うのは無粋だが、著者は冗談半分で店主にホンモノかどうか訪ねた。

「私が国定忠治の合羽だといってあんたに売る。
今度あんたは、これを別の人に国定忠治の合羽だよといって渡す。
そしてその人が国定忠治の合羽だよと別の人に渡せば、
それはもうホンモノになるんだよ」(P84)


「持ち主が三人続けてホンモノと信じていけば、ホンモノになる」ことを著者は愉快に思う。
宗教関係の秘宝や秘仏はまさにそういうところがあろう。
ニセモノだってババ抜きの要領でだれかに高く売り飛ばせたら、
その時点ではホンモノなのである。
野暮なことを言うと本書の著者である中島誠之助氏の一存がすべてを左右する。
どんなホンモノでも中島氏がニセモノと言ったら価値が大暴落するのが現実だ。
ならば話は簡単で、そう、裏金を渡せばいいのだが、
一度ホンモノの中島値札がついたものはそうそう価値は下落しないだろうと思われる。
業界にどっぷり漬かったプロは既成のホンモノをニセモノと見破ることはできない。
映画評論家は人間関係のある監督の作品をホンモノだとほめあげるしかない。
ところが、アマチュアは異なる。アマチュアはまっさらな眼でときにものを見る。

「ところが感性でものを見るということは、人が誰も認めてくれなくても、
自分がいいと思った方向に、まったく新しい枕木を置いて、レールを敷くことができる。
それが認められた時に、非常に大きく増幅して、歴史に名を残すことができる。
プロの欠陥は、現在の延長線上でものごとを考えるから、
失敗することがないかわりに、大きく伸びることがなかなかできないといえる。
アマチュアは、戦えば戦うほど失敗する。
しかし、永続してそれを続けていくことで、大きな勝利を得ることができる。
それはやはり自分の信念を、感性を磨くということだ。
人がなんと言おうと、自分はこれがいいのだという信念をもってほしい」(P184)


とはいえアマチュアは結局たとえば中島氏のようなプロ権威のまえに敗れ去るしかない。
焼き物はトレンチ調査をすれば考古学的な客観に近い時代考証が可能である。

「ところが絵や掛け軸は、地面をトレンチするものではないし、
持ち主の手から手へと所在地が動いているので、伝来のほどが実証し難くなり、
ニセモノが存在しやすくなる。
だから美術界で絶大な影響力のある学者が、
「この絵は、尾形乾山の真筆」と断定したなら、仮にそれがニセモノであっても、
その学者が生きている間は、「尾形乾山のもの」と言い続けないと、
部下の助手だとか准教授は学界という組織のなかで栄達ができない。
だから有名な学者が世を去ると、
しばしば考察が変わるのはそうした理由なのである。
断定した学者が高名なら高名なほど、権威があればあるほど、
その説は正しいですと通さねばならない風潮が日本にはある」(P138)


残念ながらホンモノもニセモノも権威のお墨付きしだいというのが現実なのだろう。
みんな権威システムをわかっているから、権威には媚びるしヘイコラするし、
こっそりそうと周囲にはばれないよう裏金を渡すものもいるはずである。
権威に逆らうものが目指すのも、別の筋立ての権威である。
いまはむかし威勢よく反権力、反権威を標榜していたものたちが、
より性質(たち)の悪い権威になっている気がする。権威は冒険や冒険者を嫌う。
しかし、井上靖の小説に登場する人物ではないが、
これはホンモノだと既成権威に逆らって言ってみたいじゃないですか。
掘り出し物を探すというのは、ぞんがい深みのある趣味であり遊びではないか。
わたしも劇作家のユージン・オニールやストリンドベリというホンモノを
古書の山を分け入って掘り出したときは嬉しかった。
アル中のオニール、女性蔑視のストリンドベリ、
どちらももう陽の目をみることはないだろうがたしかなホンモノである。
自由律俳人の山頭火は存命時は浮浪者のルンペンだったが、
没後に文豪レベルにまで昇格した。揮毫も高い値がつくからホンモノだろう。
山頭火はニセモノがそのままホンモノに変わりうるという人生の不可思議を証明した。
だが、やっぱり山頭火はニセモノ臭がプンプンしており、
そのニセモノっぽいところがホンモノの証拠という怪しさを内に秘めている。
これまた怪しい河合隼雄に言わせると、
「ホンモノはニセモノを厚遇しないと出て来ない」そうである。

アマチュアはあまり骨董に深入りしないほうがいいと、
著者は(新参をはばむ)陰湿な市場のからくりを赤裸々に語る。

「仮に時価相場が一千万円ある美術品をオークションにかけるとしよう。
その品を欲しい業者同士が競り合わないで、安く落手できるように談合する。
そして、二百万円で競り止めて、後日利益を折半されてしまえば、
出品依頼人は八百万円の大損だ。
あるいはニセモノを嵌めようと思ったら、二、三人の業者でもって
十万円しかしないものを、五百万円まで競り上げて、それにのってきて、
その上の値段を言った甘い人に落手させればいいわけだ。
競りにはこういう騙しのテクニックがある」(P203)


骨董世界は「ホンモノをわかる自分」を売買する自己陶酔の激しい世界なのだろう。
あるいはほしいのはその骨董ではなく「ホンモノを知る自分」なのかもしれない。
より高価な「自分」を買うために骨董市場では札束が飛び交うのであろう。
富や財産に恵まれたものは骨董という「自分」に金を使うことに楽しみを見出す。
相続税対策として骨董はどうなのだろう?
税務署の査定のときはニセモノ判定で、
相続後にホンモノに昇格すれば節税効果は最高である。
そしてホンモノよりも美しいニセモノがあらわれたら、
いったいどちらがホンモノなのだろう?
「言葉」は現実世界のニセモノであり、同時に現実を突き詰めたら「言葉」しかなく、
このとき「言葉」はニセモノでありながらホンモノになる。

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「ウソの論理」(ひろさちや/中公文庫)

「ポルノの巨匠傑作選 水蜜桃」(祥伝社文庫)

→ポルノ小説のアンソロジーを読む。
年齢相応なのだろうが、最近とみにエロの感度が落ちている。
男は「飲む・打つ・買う」=「飲酒・賭博・女性」のいずれかに依存するものだが、
そしてそれが生きる歓びだが、年々女に興味がなくなってきてさみしい。
エロに胸躍るというのは少年の精神で、老いはなにもかもどうでもよくなる。
好みのえっろいなあ、と思うシーンはある。
たとえばおよそ35年まえの山田太一ドラマ「想い出づくり」。
24歳の独身職業婦人の田中裕子が「処女じゃないから」
とさみしそうな妻子持ちの課長さんに一発やらせてやる。
いち夜かぎりのこと――。さみしい男女が慰めあった、それだけ。
そういうはずだったのだが、実際はどうなるか。
課長は男性同僚のまえで田中裕子を食ったと下品な自慢をするのである。
それを田中裕子が目撃してしまうって、エロエロどはまりでありまする。

この関係で思い出すのは、大学時代のこと。
最近うちのブログもプライバシーの保護に気をつけているから、どう書けばいいのか。
とあるサークルにきれいで性別問わずみんなから好かれる女の先輩がいたのである。
自意識過剰のどもりだったぼくも声をかけてもらうと嬉しかった。
実際、かの女性は有名な民放に入社したから非常に優秀な人だったのだろう。
あるとき酔っぱらい運転の車内でみなとともに聞いてしまったのである。
その女性の先輩はチャラい男の先輩と交際していた。
そのチャラい先輩が交際相手の夜の営みを酔っぱらってか自慢話か、
ぎゅうぎゅう詰めの車内ですべて公開したのである。
その女性がどれほど寝台のうえでは淫乱か、こと細かく公開してしまった。
エロエロえろされむ、と当時も思ったし、いまでもあれはエロの極致だと思う。

このアンソロジーの川上宗薫「女馬たち」で似たような描写があり、とてもよかった。
会社の同僚にグラマーな妙齢の女性がいる。
いつも誘っているような隙のある服装をしている。
社内旅行のときに女湯の彼女の全裸を覗き見た男がいて評判になった。
幸運なこのデバガメは同僚女性の全裸すみずみの様子を男連中に広めた。
意外と毛が濃いとか、腰つきから男をかなり知っているらしいとか。
会社の男たちはみな職場でその女性を視線で全裸にひん剥いていた。
グラマーな女性も悪い気はしていないようなのである。
男たちの猥談にも平気で混ざってくるし、男を何人も知っていることを隠さない。
露出の多い服装を好む自称ヤリマンの女は職場のアイドルであるが、しかし――。

「彼らは、冗談ではからかうが、実際には手出しできない。怖いのである。
とても太刀打ちできないと思っている。
そして、もしも手出しができ、彼女が受け入れたとしても、こんな女だったら、
何もかも、座興半分に、みんなにしゃべりかねないというおそれがある」(P57)


「小さい」とか「へたくそ」とか広められたら終わりの時代であった。
むかしはむかしでいまはいまで、
いまの若者はコクったらその瞬間にラインやらで広まると聞くから、
これでは男は草食化するしかない。男女交際のリスクが高すぎる。
ひと晩のアバンチュールが「ミーツー」により人生永久追放になりかねないのだから。
しかし、それだけエロの貴重性は高まり、いまは冒険ができるいい時代なのかもしれない。
本書では田村泰次郎とかいうむかしの人気作家のやばい小説が採録されている。
昭和46年に発表された「昨日の花々」だ。
いまは脳疾患で半身不随になった作者と思しき老人が大東亜戦争中、
中国大陸に兵隊として赴いていたときに買淫したシナの淫売を懐かしく思い出す小説。
このアンソロジーは1999年発刊だが、いまでは出版できないのではないか。
しかし、当然あってしかるべき話なのである。
多くの男は酒や女を必要とする。
ならば、大陸で買った春の花々を懐かしく思い返してなにが悪いか。春の酒、春の女。

「兵隊ほど、そのことを好きなものはいない。
兵隊たちの日常の話のほとんどはそのことである。
そして、また兵隊はそれに見合うだけの体力を持っている。
休日に外出すると、兵隊たちは必ず、そんな女たちのいる場所へでかける。
初年兵のときは、でかけるとき、
「いいか、絶対、行ってくるんだぞ。行ってこない奴は、帰ってきたら、往復ビンタだぞ」
と、外出のあいさつに、下士官の前に整列した初年兵にむかって、どなりつける。
初年兵たちは、「突撃一番」と、青いインキの押してあるゴム製品を、
古年兵から恭しくもらい、そそくさと営門のそとへでかけるのである。
休日の私の行動は、大体、決まっていた。
まず、中国人街にむかって、早足でむかい、
中国人経営のむさ苦しい酒場へはいって、黄酒(ホアンチュー)を注文する。
黄酒というのは、黄いろい色をした、甘い酒で、ちょっと、臭味があるが、
安くて、いい具合に酔いがまわる。粟(あわ)からつくった酒である。
その黄酒のお瓶子を二、三本飲むと、身体が火照って、なんとなく陶然としてくる。
そのあいだに、仲のいい戦友たちがはいってくると、いっしょになって、飲むのである。
足もとがふらつくまでに飲むと、その居酒屋を出て、
女たちのいる区域へはいりこんでいく。
女たちは一人に一部屋ずつあてがわれて、私たちのその女たちの部屋を、
一軒一軒、のぞきこんで、あがりかまちに腰かけて、女たちをからかうのである。
女たちのほうでも、心得ていて、
この兵隊は、あがるつもりなのか、ただのひやかしのつもりなのか、
おおよそ察しがつくらしく、それぞれに適当にあしらうのである」(P250)


日本軍の兵隊というと現代では忌まわしきものの象徴だが、彼らにも青春があった。
男女関係は支配ー被支配「ミーツー」で言いあらわせるものではないのではないか。
いや、現実は女性はひたすら男性から搾取される被害者なのかもしれないが、
そんな現実を笑い飛ばすのがインテリではない文盲に近いわれわれ庶民ではないか。

いまはだれも知らない旧ベストセラー作家、梶山季之の短編「名器の女」を本書で読んだ。
いまの女権全盛時代では、この「名器の女」というタイトルがまずアウトだろう。
「女性は子を産む機械」のようなニュアンスを、
なかには感じ取られる人もおられるでしょうから自粛、自粛、自粛正義。
「名器の女」には「貧乏お××」の女性が登場する。
昭和43年に発表された小説でさえ伏せ字にしなければならなかった「貧乏お××」。
いまぎりぎりネットは表現規制がかかっていないから書くと、これは「貧乏おそそ」のこと。
おそそとは、おめこ、おまんこという意味。
「あげまん」のまんは、おまんこのまんじゃないとかいう説もあるけれども、
ベストセラー作家の梶山は庶民ならみな持つ一発逆転の夢をおまんこに託している。
冴えない独身中年男が「貧乏お××」ならぬ「富豪お××」とめぐりあい運が開ける。
これは男の夢だなあ。

「大七は、妻の佳奈子と、男と女になったわけである。
いくら不遇だった人物でも、そして風采の上らない男でも、不思議なもので、
ある運を捉(つか)むと、ぐんぐん輝きをましてくる。男らしく、凛々しくなる。
自信が、自信を産みだし、仕事も上り坂になってゆく。
これは不思議な話だが、本当なのだ。
長いこと平社員で燻(くすぶ)っていた人物が、役付になった途端、
バリバリ仕事をして、社内の人間に眼を瞠(みは)らせることがある。
あるいはA社から、B社に引き抜かれた直後、
あッというような大手柄を立てる人物も少なくない。
それは矢張り”運”としか、言いようがないのだ」(P276)


つまらない低能男性の当方は悪女や悪妻の輝きを妄想するのだけが、
いまの生きている愉しみかもしれない。
悪い女をこましてやったと思ったら、
女はさらに悪く、一杯食わされ――そんな経験がしたい。
悪い女にだまされてボロボロになりたい。だれにも相手にされず、さみしいなあ。ガッデム。
「桃源郷」(昭和官能研究会編/光文社文庫)

→官能小説のアンソロジー。
40を過ぎたおっさんが日の暮れた荒川土手を散歩していると、
制服姿の高校生のカップルに出くわす。
着衣はしているもののベンチでかぎりなく本番行為に近いことをしているのである。
決まってさわやかなイケメンとまるでエッチなことなんて知らないような美少女だ。
お互い気まずい思いをする。
10年くらいまえだったら口笛を吹いて冷やかしたりしただろうが、このご時世。
向こうにはJKがいるから、万が一トラブルになったらこちらが不利。
見て見ぬふりをしてその場から遠ざかるようにしている。

官能小説に手が出る心境と高校生カップルをながめる郷愁は似ている。
甘酸っぱくて、ええなあ、ええのうという。
富島健夫のエロ小説は高校生のころ読んだが、おっさんになってまた読むとは。
その道の大家、富島健夫のエロ青春小説「美しい貌(かお)」はいい。
勉強はできるがあまりルックスはよくない処女の女子大生、
知子を同級生のプレイボーイが落すまでの短編小説である。
男友達のまえでは自慢できないこの知子のすばらしさを小説で描いている。
自分が美人ではないことを知っているため性格は控えめだが、
しかし性への好奇心は人並み以上にあり常習的に自慰をしている。
こういうオボコな娘を「かんにんして」「やめて、やめて」とか言わせながら、
ぞんぶんに恥ずかしがらせ性の快感に導いていくプレイボーイは、
いかにもこの作者らしい造形でありきたりという批判もあろうが、
(ゲイをのぞく)全男性の夢がここにあると言ってよかろう。
最後は知子を大人の女にしたプレイボーイが、この娘は心映えがいいとまとめる。
おそらく世の平凡な男女はこうして結婚していくのだろうと思わさせる。
作者はそこまで考えていないのだろうが、
男にプレイボーイを演じさせる処女の知子の技量も評価できよう。

野坂昭如の「猥談(わいだん)指南」も男の悲哀を感じさせる佳作である。
猥談が得意な中年が主人公だが、きっかけは不能じみてきたからというのが物悲しい。
世界共通で男は猥談が好きで、そこで話を盛りたがる。
それは罪ではなく聴き手を楽しませる遊びなのである。
実際に性風俗を試してもつまらないものだが、その体験をどうふくらますか。
釣りに行ってさんざんな結果だったのに、
こんな大物を釣ったと物語るところに小説の原点はあるのかもしれない。
野坂昭如の「猥談指南」から――。

「三流週刊誌の記事につられてコールガールを買ってみれば、
二十貫近くの巨体を、皮のコートに包み、あからさまな東北弁で、
「わたす未亡人なのよ、まだこの商売はずめて間なしなの」と、
これだけが売物らしく、間なし間なしと押しつけがましくいうわりに、
ガッチリ車代までとられ、この時も獅子奮迅の末に不能。
「昨夜ひょいと思いついて、コールガールをよんでみました。
四谷の喫茶店で会ったんですが、これが十五歳の少女でしてね。
なんでも家出してるんだそうで、十三歳の時に、家庭教師に犯されて、
それから一晩も男なしには過したことがないといいます。
えらく体臭のつよい女でしたが、まあ、なんですね、
世の中にはつぎつぎとすごいのがあらわれてくるもので、
私なんぞこりゃいくつになっても、
ああこれで満足だと眼をつぶることはできませんですなあ、
うれしいような、くやしいような」
二十貫の巨体変じて、十五歳の少女となり、
そしていかにこの少女を雄々しく愛撫したかと、客の前でものがたり、
その時はたしかに、下腹部が硬直し、いやそれだけではなくて、
いても立ってもいられぬほどの欲望に身をつらぬかれるのであった。
「思い出しただけでもこの通り」
あらわに帆船(はんせん)風を得た如き股間を指さして笑わせ、
「ほんとに山下氏は女好きなんだな」とやっかむようにいわれると、
一瞬、自分でもそのような錯覚におそわれる」(P205)


エロの話のみならず人生全体のことまで暗示しているような深い悲哀がある。
最近つくづく思ったのだが人間はあるいは男はこうして生きていくしかない。
じつのところ猥談を聞く方も、話半分だということはうすうすわかっているのである。
しかし、そういうことがあってほしいという切なさはどうだ。
精神の病気で大学にも行けず家に引きこもって宗教にはまっている青年と会ったとき、
彼は自分のことを優秀なジュエリーデザイナーと話していたが、
それにうまく話を合わせて「すごいですねえ」と言ってあげるのが、
酸いも甘いもかみわけた大人の態度だったのである。
ふと大学時代に三浪くらいして文学部にようやく入ったUさんという男性を思い出した。
どう見てもモテるような風貌ではないのに、会うたびに猥談をしてきた。
昨日は女子高生と遊んでねえとか、ウソとしか思えないのだが飄々と話しぬける。
あまりに堂々としているので風格さえ感じられたものである。
男は女よりもよほどナイーブな傷つきやすい生き物なのかもしれない。

「赤い舌」(今東光/「桃源郷」光文社文庫)

→けっこうな数のポルノ短編小説を読んだが、これがいちばんおもしろかった。
昭和44年(1969年)に「小説現代」に発表された短編小説である。
今東光(こん・とうこう)は瀬戸内寂聴とゴニョゴニョがあった僧侶作家。
「赤い舌」の主人公は18歳の代用教員。時代設定は戦後まもなくのころではないか。
18歳の宮古定助は師範学校出ではない、非正規の代用教員。
精通(はじめての射精)は遅く16歳のときである。
その後しばらくして村の同輩が強姦事件を起こしたことを知り性に芽生える。
ぷらぷらぶらぶらしていることを周囲からとがめられ、
いやいや代用教員になった定助の心に変化が生じる。

「宮古定助は教壇に立って書き取りや読み方を訓(おし)えながら
男の子に交わって前列の席を占めている半数の女の子をちらと眺めては、
この十三歳前後の小娘が悉(ことごと)く可愛らしい裂け目を持ち、
その裂け目は湿って温い穴になっているのかと想像すると
くらくらするほど興奮してくるのだ」(P101)


定助はお登世という13、4際の教え子の少女にどうしても目が行ってしまう。
お登世は百姓の家の子で、身体の発達もよく、とにかくお転婆な少女である。
学校の女生徒の親分的存在がお登世という気の強い少女であった。
あるとき非正規の代用教員の定助は、
女子グループと男子グループが校庭でいがみあっているのを目撃する。
男子が女子なんか鉄棒の「尻上り」はできないだろうと挑発しているのだ。
果たして男子にどういう意図があったのかはわからない。
「尻上り」をすると着物の尻がまくれることを男子は知っている。
百姓娘のお登世は男子のこれ見よがしの挑発に乗り、
自分は「尻上り」ができると主張する。
悪ガキの男子連中いわく、「女のくせに機械体操できるかれ」。
お登世はできたら男はみんな土下座しろという。
ああ、土下座するから、できるものならやってみろ、
と男たちはひとりの少女に返答する。

「いきなりお登世は尻上りをやった。
ぱっと裾がまくれて可愛らしい小麦色の尻が見えた。
男の子等はどっとはやすのかと思いきや、ごくりと生唾を呑んで押し黙っていた。
実は定助もどきっとしたのだ。
たしかにお登世のすらりとした二本の脚の間に縦に一筋、
桃色の割れ目が灼きつくように眼に入ったからだ。
定助はその場を逃げるようにして立ち去ったので
彼等が約束を実行したかどうかは知らなかった。
定助にとっては彼等の約束など何の興味もなかった。
それよりお登世のふっくらとした魅力溢れる眠れる愛の鹿苑が忘れ難い印象だった」(P103)


むかしは着物の下はノーパンである。
悪ガキ連中がいくらお転婆といっても女だろうと勝気な百姓娘をからかった。
「尻上り」なんか女がしたら割れ目が丸見えになるんだから、やれるはずないだろう。
しかし、14歳の少女は大勢の男子のまえで秘所の鹿苑を惜しげもなく公開した。
あの姿勢をしたら股は開かれているから、
男子全員に桃色の鹿苑の内部すべてをさらけだしたことになるだろう。
お登世というお転婆娘はそれを知っていて、あえて「尻上り」をしたのだろうか。
いったいこの日に何人の男子が精通を迎えたことだろう。
18歳の代用教員、宮古定助は百姓娘のお登世を女として意識する。
もったいないことをしやがって。
おのれの秘所たる桃色の鹿苑をみんなに見せてやることはないじゃないか。

夏季休暇になった。学校では川遊びが禁じられている。
だが、散歩のおり定助が川のほとりに近づくと少女の歓声が聞こえる。
定助の耳はまずなによりも先に、そこにお登世の声を聞き取った。
代用教員の宮古定助18歳は男子からも女子からも舐められているが、
それでも教員であることには変わりはない。
お転婆のお登世を中心として全裸で川遊びをしていた少女たちは一斉に逃げる。
しかし、お登世だけはどうしてか逃げずに勝気にもその場にいた。
演技なのかなんなのか、おぼれたふりをして「助けて」という。
男性教師は14歳の少女のまっさらなそのままのすがたに見入る。

「小娘の肉体がこれほど美しいものとは、
定助が真夏の太陽の下で白昼しみじみと見るまでは考えも及ばないものだった。
小麦色の濡れた肌はしっこりと固くしまって、小さな胸に早やこんもりとした丘が
双ケ岡のようにならんで、その桃色の乳首がつんと上の方を向いている。
胴はきゅっと引き緊(しま)って片手を廻しても引き寄せられそうだし、
その胴の割りに大きく膨(ふく)らんだお尻から、
すらりと長く伸びた脚がたくましく枯れ木を支えている。
ぷっくりとした下腹部の腿と腿との間の翳(かげ)りは
それが陰影だとわかっていながら愛の鹿苑の芝草のように見えるのだ。
お登世の闊達な遊び振りはまるで小娘のようで、この小鹿を抱きしめたら
定めしもがき暴れ悲鳴をあげながら笑いころげるのではあるまいか」(P107)


「先生。一緒に泳ごう」と少女は言うではないか。
子どもに返ったように青年も少年に戻り、衣服を投げ捨て川に飛び込む。
18歳の少年と14歳の少女は禁じられた川遊びを満喫した。
遊んでいる過程で抱き合うようなかたちになったこともあった。
疲れたふたりは川から上がった。全裸の青年とお転婆少女は向き合って座った。
少女は腿は揃えているが、足先は無防備にも開いている。
青年はどうしてかわからぬが疲れたふりをして野原に横たわった。
生意気で勝気なお転婆の14歳の少女はゴロツキの代用教員に笑いかける。

「「先生、泳ぐの上手やね」
「われみたいな子供の頃からこの大沼の河童やったからな。
われのからだも水泳に適してるんやよ。魚みたいで」
「そないに見らんどいて」
「見いたいよ」
「こないしてか」
お登世は心持ち股を開いた。
これは意外な事態なので定助は赤くなった。
恰度(ちょうど)、定助の目の前、鼻の先にくっきりと割れ目が見え
薄桃色に暈(ぼか)したような小鹿の口は
まだこの世の誰もうかがい知れない秘所だ。
汚れのない愛の鹿苑の入り口だ。
定助が見たいよと答えたのはレトリックに過ぎない。
それなのにこの女の子は既にこんなことを知っているのであろうか。
定助は自分の男性がまるで胸騒ぎでもしているように
下腹を突き上げてくるのを感ずると、
「阿保やなあ」
と叫びながらまた大沼へ飛び込んで行った」(P110)


いやらしいのお。えろいなあ。えろっ、えろっ!
勝気な少女は代用教員を意気地なしと見切ったのか、
すぐさま衣服を着てその場から去ったという。
男女の川遊びはだれかに見られていたのか、
代用教員は校長から厳しい注意を受ける。そういうことをしてはいけない。

「ところがもっと不可(まず)いことはお登世が転校して仕舞ったことだ。
定助はてっきり自分を避けるために親が他の学校へ移したのかと邪推したが、
次女だったので恩智(おんぢ)の叔父さんの養女にやられたということがわかった。
この叔父の家は百姓をやりながら電車の駅近くで饂飩(うどん)屋をやっていたので、
敏捷(びんしょう)なお登世が見込まれて貰われたのだ。
そう言えば裸になって彼の目の前で少しばかり
脚を開いた時のお登世の精悍(せいかん)な眼を忘れることが出来ない。
あの目は男の魂まで食い尽すように燃えていたのを
気がつかなかったとは迂闊(うかつ)な話だったと定助は後悔した」(P111)


代用教員の青年は、
お転婆娘の股の根っこにある桃色の鹿苑から「赤い舌」が出ていたのを見た。
ねっとりじっとりした、とてもいい文章で書かれたポルノ小説を読んだ。
これこそ純文学ではないかとわたしは思う。いい小説はよろしい。


世界は言葉で構成されておりますから、有効な呪文は広めるべきでしょう。
「人生なんて、そんなもの」「人間なんて、そんなもの」
これは山田太一先生から教わった呪文で、本当にツカえるデキた言葉であります。
「前世(過去世)が悪かった」「来世でがんばる」「すべては宿命」は、
あまたの大乗仏典を未熟な知能で読み漁った結果、得られた珠玉の要言です。
最近、発明した呪文がございます。「それは脳がやった」
ロボットならぬ人間はミス(失敗)をするところに特徴があります。
「どうしてそんなことをしたんだ?」と難詰されることでしょう。
言葉では謝罪しておくのが正しい。
しかし、建前の謝罪を自分の本音にしてはなりません。
本音は「それは脳がやった」と舌をぺろりと出しておけばいいのではないでしょうか?
毎日、淫行や盗撮で逮捕される男性がいます。あれは男の地獄。
実名報道とかされたら人生が台無しでしょう。

捕まったあともなぜ自分がそんなことをしたのか本人にもわからないと思います。
やっちゃいけないことはわかっていたが、やってしまった。
ミラーマンの元教授なんかかわいそうでなりません。
「私」がやったわけではないと男たちは叫び出したいことでしょう。
そしてそれは正しい。なぜなら「それは脳がやった」のですから。
やっちゃいけないと「私」が思っていても脳がやってしまうことは多々あります。
それは「私」がやったのではなく、「それは脳がやった」――。
たとえばギャンブル依存症。パチンコ中毒。
「もう絶対にパチンコはやらない」と周囲に誓う。
しかし、どうしようもなくパチンコに行ってしまった。
このとき「それは脳がやった」と開き直ればダメージが少ないのではないでしょうか。
自分はギャンブル依存症という脳疾患を持っているのだから、
これは病気の脳がやっただけで「私」がしたわけではない。
「それは脳がやった」とばっさり後悔や自責の念を切り捨てると過度に落ち込まずに済む。
とことん無反省ないやなやつになる危険性もありますが、
脳科学を極めたら「それは脳がやった」に行き着くのではないでしょうか。

脳を可視化、調教するには認知行動療法がいいでしょう。
パチンコに行った日はカレンダーに書き込み、収支も正確に記録しなければなりません。
ギャンブル依存症患者がいちばんやりたくないのはこれだと思います。
やはり「底つき体験」も必要なのかもしれません。
しかし、「それは脳がやった」ので「私」は悪くない。ええ、そうですとも。
「それは脳がやった」は「それは神がやった」とむかしは言っていたような気がします。
「それは無意識がやった」と言っていた時期もあったように思います。
「なんでそんなことをしたんですか?」に意味はありません。
なぜなら「それ」はもう起こってしまっていて、取り返しがつかないし、
行為の本当の理由はだれにもわからないからです。
自殺者の多数がうつ病だったというのは「それは脳がやった」の証拠であります。
正反対といえる成功者もおなじ。
「どうして成功したんですか?」に対する回答は「それは脳(神)がやった」です。
この拙文を最後までお読みくださり、不愉快なご気分になった方に謝罪します。
しかし、それは「私」のせいではない。「それは脳がやった」――。