「笑いの力」(河合隼雄・養老孟司・筒井康隆/岩波書店)

→笑いのある職場とピリピリした仕事場に明確にわかれる。
このくらいのスキルがあれば倍近い時給にいけるんじゃないかというママさんも、
職場環境がいいためかわずかな給金で働いているケースを見たことがある。

きっと笑いというのは、自分をもうひとりの自分がダメじゃん、と思うことなのだろう。
そんなことをしちゃダメじゃん自分。自分のくせにそんなことをして。
それをメタフィクションというのか。
わたしはバカだからメタフィクションという言葉の意味はわからないが、
本書で「笑い」にこだわりをお持ちらしい作家の筒井康隆氏が、
とてもわかりやすく難解なメタフィクションをご解説してくださっている。

「メタフィクションというのは、小説そのものを批判する小説、
あるいは小説を書いている作家[自分]そのものを批判する小説、
といったようなものです。身近なところで言うと、
手塚治虫さんの漫画の中によく手塚治虫本人が出てきますね、
「おまえ、何やってんだって」って、登場人物からいじめられたり、
「自分の漫画はここがおかしいな」って批判したりする。
これがメタフィクションなんですね」(P73)


なるほどじつにわかりやすい説明である。

本書によると河合は台湾の絵本「ほほえむ魚」にいたく感激したという。
現地に行ったとき、たまたま絵本作家のジミー氏と逢う機会があった。
台湾の絵本作家も日本の河合隼雄の存在を知っていた。

「ぼくが会いたがっているというんで、ものすごくびっくりして、
会いに来られました。たしかに素晴らしい人でした。
自分が絵本を書くようになったのは、
入院してもう死ぬというところまでいって、その死線を越えたところから、
急に絵本を書くようになったということを言われた。
あとで履歴を見たら、白血病だったらしいです。
ほんとうに死ぬと思われたらしいのですが、それを乗り越えたあとで、
こういう本は出てきて、いまはずいぶんジミーさんの本は訳されて、
ぼくはほかのも読みましたが、すごく面白い作品です。
このお話のように微笑みというのは関係をつくるのにすごく役立ちます。
ぼくらでも、人に好意を示したいというとき微笑みますね」(P8)


1.人をバカにする笑い(批判)
2.自分をバカにする笑い(メタフィクション)。
3.人に好意を示す笑い(微笑)。

「どうして時間は「流れる」のか」(二間瀬敏史/PHP文庫)

→アンソロジーでタイムトラベルものの佳作短編をいくつか読んだので、
オリジナルは「図解雑学 時間論」であったという本書を読む。
SF小説ではタイムトラベル関連はネタが出され尽され、もはや荒野らしい。
文学的に物申せば、いまではタイムトラベルは可能である。
たとえば歴史小説を読めば、とりあえず過去に行くことができよう。
もう少し暇と知力があれば、日本古典を読めばタイムトラベルすることができる。
未来には夜見る夢で行くことが可能だ。
このまえ未来で13、4歳の自分の息子に逢った夢を見た。
「携帯でお父さんに電話して」と頼んだら困った顔をしていたから、
父親は死んでもういなかったのかもしれない。

冗談はここまでで、本書は物理学者が書いた時間論だが、
オリジナルは図解雑学だそうだが、それでも当方には難解でギブアップした。
これは著者が悪いわけではなく、こちらの物理学素養の不足ゆえだろう。
それでも参考になったところはあり、これはまえどこかで読んだ記憶があるが――。

「もし過去へ戻れるタイムマシンが存在したとすると、自分が生まれる前に戻って、
父親と母親が結婚するのを邪魔することもできるでしょう。
でもそれをしてしまうと、自分が生まれなくなってしまいます。
また過去の自分自身と出会って、自分を殺すこともできることになります。
すると、自分が存在しなくなってしまいます。
過去へ戻れるタイムマシンには常にこうした論理的矛盾が付きまとうので、
大多数の研究者は実現不可能と考えています。
物理学者のホーキングも
「未来からの観光客がいまだかつていなかったことが、
タイムマシンができないことの証明である」といっています」(P200)


生意気にもホーキング博士に逆らうと、わたしはいつだかわからぬが、
何千年後、何万年後の未来にはタイムマシンが完成していると思っている。
未来人は現在に来て、いまもいろいろやらかしていると思う(オカルトっしょ?)。
たとえばいまわたしがタイムマシンを発明したとして、
過去にさかのぼり両親を出逢わせなかったとする。
しかし、そんなことをしたら未来になにかしらのエラーが出てしまうので、
未来からわたしの変えた過去を
さらに修正するためにタイムパトロールがやってくるはずである。
18年まえ母がわたしの目のまえで飛び降り自殺する悲劇は、
何万年後かの未来世界のために必要だから不可逆、不可変、絶対なのではないか?
ある人とお逢いしたときこれは一期一会だと言われたが、
それは未来のタイムパトロールが調整した結果で、
変えられないものだったのかもしれない。
たとえ逢いたくなくても逢う人とは逢うし、逢わない人とは決して逢えない。
なぜならそれは未来にタイムマシンが完成しているからと考えたらどうだろう?

単純労働者にとっては作業量=時間だが(経験多数)、芸術家はそうではない。
芸術家にとっては14年が一瞬にも、1年が10年にもなりうる。
10年かけた大作でもゴミとみなされることがあるし、
鼻歌をうたいながら3日で創作したものが永遠の傑作になることもなくはないだろう。
3時間睡眠でも快調なときがあれば、10時間寝ても不調なときもあるでしょう?
専門学者のお言葉を拝聴したい。

「――時間は時計で測るが、世の中にあらゆる時計がなくなったとしたら、
時間は流れるだろうか。
もちろん、時間は時計の存在に関係なく流れるに決まっている。
それでは、時計だけでなく宇宙の中のあらゆる物質がなくなったとしたら、
どうだろうか。空っぽの宇宙には、何の変化も起こらない。
何かが変化するからこそ、時間の流れがわかるのだから、
空っぽの宇宙には時間は流れないと考えることもできる。
マッハはさらに考えを大胆に進めて、物質が存在しなければ、
単に時間が流れないだけでなく、時間そのものが存在しないとしました。
これに対してニュートンの絶対時間は、
物質が存在しようがしまいが関係なく、それ自体で存在します。
マッハの考えた時間を、物質との関係(相対的な関係)で
存在することから相対時間といいます。
マッハのこのような考え方に、ドイツの物理学者アインシュタインは
大きな影響を受け、のちに相対性理論をつくりあげました」(P90)


不謹慎なことを言えば、時計なんかなくしちゃえばおもしろいんだよねえ。
時間に縛られて、年齢に縛られて、つまらなくなるよりも、
ノンノン、いないな「もっと自由に、もっと過激を!」(原一男教授)。
時間なんて本当に存在して、どこかで流れているのかなあ。
なんで30歳で死んだら不幸で、100歳まで生きたら大往生なのだろう。
どっちが深く生きたかなんてわかったもんじゃないと思うけれど。
わたくしごときがありがたくも雇っていただけるような低賃金単純労働作業の監督者は、
作業効率を高めようとするが、高めても彼らの給料は上がらない。
我われ非正規雇用作業者は効率を上げれば上げるほど疲弊度は増し日給は下がる。
時間の発明こそ、人間の最大悪やもしれぬ。1日でも時計を捨ててみよう。

「空海とアインシュタイン」(広瀬立成/PHP新書)

→著者の主張のひとつは、いま学問が細分化されすぎているのはいかがなものか。
空海は綜芸種智院(しゅげいしゅちいん/統合大学)をつくったわけだし、
著者によるとアインシュタインも現代の大学の専門化を問題視していたらしい。
わたしは都立高校だったからか、物理、化学、生物、地学みんなやらされた。
大学受験対策としては効率的ではないのだろうが、
少しは基礎を学べたのでよかったと思っている。
たとえば物理、化学、生物が嫌いということは勉強してみないとわからないじゃん。
生物は教師が嫌いだったが、物理、化学の教師は覚えていないが、
生物教師のいやらしさだけは記憶に残っている。
いやな先生というのはあんがいプラスな存在かもしれなく、いやそれは反対で、
いい教師に当たったらその科目を好きになるというのが事実かもしれない。
理科4科目のなかで地学が教師をふくめていちばん好きだった。
それに地学はもっとも数式と縁がない物語的要素の強い学科のように思う。

さて、アインシュタインである。
空海とからめられたら少しは理解できるかなと期待したが、
いやあ、さっぱりボロボロ、チンプンカンプン。
相対性理論とかわけわっかんねえ。
まあ、アインシュタインは天才と言われているが、プラスもマイナスもあって、
そういえばと本書で思い出したが、原子爆弾も彼がつくったようなものだ。
見栄をはらしていただくと、
相対性理論の基本のようなものはわかったような気がしなくもない。
本書から学んだことを自分の言葉で説明してみる。

時速300キロで走る新幹線があったとする。
これは立ち止まっている人から見たとき時速300キロである。
時速100キロのスピードで新幹線を追いかける自動車から見たら、
新幹線は時速200キロになる。
新幹線と反対方向に時速100キロで走る自動車から見たら、
かの新幹線は時速400キロになる。
時速300キロで走る新幹線の乗客にとっては部屋のなかにいるようなもの。
このため缶ビールも倒れないし、歩いてもよろめくことはない。
新幹線のなかから見たら立ち止まっている人は300キロで走っているように見える。
――これはそれぞれの視点によって時間(スピード)は相対的に変わるということ。
観察者の立場(速度/時間)が対象の見え方を変化させる。
売り出し中のアイドルなんか、わたしのような老人から見たら、どうせすぐ消えるさ。
けれども、高校生から見たら、あこがれの人のように見えるわけでしょう?
たぶんこれが相対性理論の基本だと思うが、
どうしてこれが原爆や原子力発電所になるかは不明。
そうそう、著者は地震の多い日本で、
原子力発電所をつくることを早くから危険視していた慧眼の持ち主。

有名な話があるじゃないですか? 「浦島効果」と言われているあれ。
双子の兄弟のひとりが宇宙に光速で行って30年後に帰ってきたら、
年齢差が12歳も開いていたとか(宇宙旅行をしていたほうが若い)。
でも、これは生活苦の違いと解釈できなくもない。
宇宙旅行をしているよりも地球で生活しているほうが苦労があるじゃないですか?
だから、宇宙に行っていたほうが若く見えるという解釈もできなくはないだろう。
長年ひきこもりの30歳と妻も子もいる30歳ではどちらが幼く見えるかわかるでしょう?
わたしは子どものころから老け顔で、老け顔は歳を取ると若く見えるからいいわよ、
なんて言われたことがあるけれど、いまもって老け顔である。
実年齢より10歳上くらいに見られる。
精神年齢はたぶん70歳くらいに到達しているような気がする。
とはいえ、人によっては当方のことを中学2年生くらいに感じることもあるだろう。
まあ、それが相対性理論って、間違っていますよね、アインシュタイン先生?
おなじ40歳でも、生きている時間は異なる可能性がある。
それはお互いが見合ったときにしかわからず、(絶対的ではなく)相対的なものである。
むかしは60歳なんておじいさんだったけれど、
いまは教え子の若い女性を密室で襲えるくらいヤングな大学教授もいるわけ。

この相対性理論(ほんとかよ?)を仏教の言葉で述べるならば――。

「宇宙に存在するあらゆるものは、たがいに作用しつながりをもちます。
ここにある羯磨曼荼羅(かつま・まんだら)は、それらのつながりを基礎として、
そこから、宇宙の調和と多様性が生み出されることを示しています」(P46)


「一切のものがそれ以外のものを縁として、
われわれの前に現象し相互に依存しあっている」(P221)


時計の時間とか、免許証や履歴書の年齢なんか、どこまであてになるかってこと。
1年のような1ヶ月もあるし、40歳の美少女も、老女の女子高生もいるってこと。
「1日24時間は平等」なんていう常識は嘘だとアインシュタインは言いたかった(の?)。

「お盆のお経 仏説盂蘭盆経」(藤井正雄/講談社)

→仏説盂蘭盆(うらぼん)経は中国でつくられた偽経ということで、
お経の本にもまず掲載されていないが、
そんなことを言えば法華経だって般若心経だって偽経なわけである。
ただし大乗仏典は偽経ながらインドでつくられているぶん、
中国で創作された盂蘭盆経よりも格上になる模様。
盂蘭盆経は中国の儒教思想(親孝行)が仏教にミックスされた教えである。
あるいは日本人にはもっとも身近な経典かもしれない。
というのも、大半の日本人にとって仏教とは葬式とお盆の際に必要なもの。
葬式はそうひんぱんにはなかろうが、お盆は毎年来るわけだから。

仏説盂蘭盆経の内容は童話やおとぎ話のようにわかりやすい。
釈迦の高弟のひとりに目連尊者という坊さんがいた。神通第一と言われた僧だ。
なんでも見通せる眼をもっているので、
死んだ母がどうなっているか神通力をもって見てみたら、
あろうことか目連尊者の母は地獄に堕ち餓鬼になっていたのである。
目連が餓鬼の母親に食べ物を差し出しても、
それを手に取って口に入れるまでに灰になってしまう。
どうしたらいいか困った目連は師匠の釈迦に相談した。
そうしたら釈迦いわく、
雨安居(うあんご/インドの僧は雨期のときには托鉢しないで寺院で修業すること)
の終わった日にすべての僧にご馳走をお布施したら母は救われるだろう。
実際、目連尊者が実行してみたら母は餓鬼地獄から救われたという。

いやらしい見方をしたら、親孝行と坊さんへの布施をうながす意地汚い教えだ。
これが日本まで来ると、先祖供養とくっついて、いまのようなお盆になるわけである。
うちは父方も母方も仏教ではなかったからお盆を経験したことがないけれど、
田舎のお盆とか親戚が集まってさぞかし重々しくかつ楽しい行事なのだろう。
なぜ目連尊者の母が餓鬼道に堕ちたのか著者はおもしろい解釈をしている。

「目連尊者の亡父はバラモンの修道のおかげで天上界に生まれたのに、
亡母はなぜ餓鬼道に堕ちたのでしょうか。
業(ごう)つく婆(ばばあ)というのに、
なぜ業つく爺(じじい)とはあまりいわないのでしょうか。
それほど父に比べて母は業が深いのでしょうか。
母の業が深いというのは、欲ばりという意味ではないのです。
母はわが子を育てるのに、時には心を鬼にして育てます。
育児に専念する尊い母親の姿を見落としてはならないでしょう。
それに気づかずに、母を忘れ、供養することのなかった目連尊者に、
お釈迦さまはそれとなく教訓を垂れたものと受け取ることができます」(P87)


父に関してはいまはいがみあうこともあるけれど、
あっちが死んだりしたら素直に「ありがとう」と手を合わせられる可能性があるけれど、
母に関しては目のまえで飛び降り自殺されてしまったから、そこはねえ。
いまでも人が飛び降りて死ぬ夢をかなりの頻度で見るし、あの死に方は迷惑だよ。
しかし、お母さんありがとうという気持も芽生えていなくもないが、
供養の方法がお坊さんにご馳走しろって、それは違うだろうという気もする。
アニメ「みなしごハッチ」がいちばん思い出深いが、
「母もの」は普遍的に身分の高下を問わず人の心を打つ物語パターンだと思う。
四国のお遍路さんに行くよう人は高齢者が多く、
そのなかでも死別の苦しみをかかえた人が多いような気がする。
逆縁というけれど子どもに先立たれたりしちゃうと、しんどいやろうねえ。
そこでお盆の(死を含んだ)非日常的な儀礼がある種の救済となるわけだ。
お遍路のような巡礼行為も日常を見直す儀礼のひとつと言えなくもない。
多くの(全員ではない)女性はどうして子どもをほしがるのだろう?

「母が餓鬼道に堕ちていたことを知った目連の嘆きはいかばかりだったでしょうか。
母が餓鬼道に堕ちたのは、子を想うがゆえの所為であり、もしも
目連という子供がいなければ悪業も犯さずにすんだでありましょう。
目連は自分が母を餓鬼道に堕としたものと痛感したのです」(P97)


むかしは家が偉く、家の問題として長男を産めとか迫られたわけでしょう?
いまはそういうのが比較的にゆるくなってきたから、子どもを産む必要はあるか?
女性にとってはなにかひとつの大仕事を終えたような満足感があるのかもしれないが、
20代でパパになった男はもう冒険はできないし、先の人生が見えてしまう。
中学生のようなことを言うと、わたしも母に産んでくれって頼んだ覚えはない。
そこらへんは前世や来世をつかって腹におさめるしかない。
来世で今度は母となにがあるのだろうと思うと、おちおち死ねやしないじゃないか。
マイナーな「仏説盂蘭盆経」はアマゾンでいま9千円の値段がついているが、
そこまでの価値はない。当方がブックオフオンラインで買った350円くらいが適正価格。

おもしろいものが好きで、おもしろいものを読みたい、書きたいと思うが、
おもしろいっていったいどういうことだろう?
有名評論家が推薦している作品でもおもしろくないことはございますでしょう?
たとえば樋口一葉の「わかれ道」。
たまたまの偶然からアンソロジーで読んだが、これがおもしろい。
しかし、42歳のいま、のんべんだらりんと読書するからおもしろいのかもしれない。
少なくとも高校生や大学生のころはこの小説のおもしろさがわからなかった。
というか正確には言葉が古すぎて読解できなかった。
42歳のいまでも週5で肉体労働していたら樋口一葉のおもしろさはわからない、
というよりも読む気がしなかったことだろう。
体力の問題のみならず知力の問題もあり、
なにしろ言葉が古いから下手をすると30代前半でもわからなかった可能性はある。
いわゆる意味不明な古典(古文)を注釈とともにいっぱい読んだいまだから、
樋口一葉の「わかれ道」のおもしろさがわかるのではないか。
ただ単に血筋(遺伝子)が悪いからという可能性もあり、
大学教授の家に生まれたら高校生くらいで樋口一葉が読めるのかもしれない。
岡本綺堂の劇作「修禅寺物語」は近松門左衛門よりもおもしろいと思ったが、
これは近松よりも 「修禅寺物語」の言葉のほうが新しいからかもしれない。
おもしろいとはなにか? 教養がないといろいろ苦労する。
現在購読中の雑誌は「週刊スピリッツ」と「月刊スピリッツ」。どちらも漫画雑誌だ、
ぜんぜん読むのが追いついていなくて(漫画でも積ん読?)、
さきごろようやく月刊のほうがリアルタイムになった。
月刊は若手の登竜門的なところがあり、
赤字も赤字、大赤字で利益は出ていないだろう。
たまたま創刊号から読んでいるので新人漫画家を支えるために買って読んでいる。
ベテラン(?)の「阿・吽」や「孔雀王ライジング」もいいが、
最近すばらしいと思ったのは町田翠氏の「ようことよしなに」だ。
漫画雑誌は最初のページからは読まないでしょう?
いちばん好きなところから読む。
「ようことよしなに」はいつしかナンバー1になった。
田舎(富山)の女子高生ふたりの、
ありきたりといえばありふれたちょっとむかしの設定の物語だ。
性描写どころか男女の恋愛さえないのがよかった。
なにげないシーンをじつにおもしろく、わかるわかるという感じで描くのである。

いきなり最終話が来てしまった。
あの流れならもっと続けられたはずだが、まさか人気がなかったとは思えない。
ネットで検索したら「百合(ゆり)」という関連ワードが出てきた。
わからなかったので百合を検索するとレズものということらしい。
そう言われたらそうも読めるが、
もしかしたら(スウェーデンの文豪)ストリンドベリゆずりの女性嫌悪の傾向をもつ当方は、
百合ものが好きなのだろうか(ストリンドベリのバツ3は女好きゆえか女嫌いのためか)。
たしかに韓国名作映画「サニー 永遠の仲間たち」も百合といえば百合である。
ちかぢか「サニー」の日本バージョンがつくられるらしい。
よくわからないが腐女子(死語?)はホモが好きなんでしょう?
腐男子という言葉はあるのか調べたら、
あるにはあるがボーイズラブを好む腐女子的存在らしい。
石が飛んでくるかもしれないが、
英国同性愛作家のモームは好きだが、ホモやボーイズラブは薄気味悪い。
百合かどうかは知らないが「ようことよしなに」はよかった。
あんなものが好きなのと言われるのを承知で書いた。

私怨や私恨、怨恨はございますが政治的主張のようなものはほとんどない。
天皇制もいいと思うし安倍政権にも反対しないし、
同時に拡声器で騒がないかぎりにおいて(!)左翼さんの主張もいいと思う。
選挙は長らく行かなかったが(たかが一票でなにが変わるかよバーカ!)、
最近は現世利益を求めて公明党に入れているが、公明党の政策は知らない。
北赤羽のほうの公明党のポスターに監視カメラ全国設置を訴えているものを見たが、
それはちょっといやだなあ、と思いながら強制わいせつ被害の実話を耳にすると、
あんがいそれもいいんじゃないかなとも思う。
ご指摘を受けるまえに言っておくが、ええはい、政治がよくわかりません。
三権分立なんてウソだろうと知ったかぶりたいが三権分立の意味もよくわからない。
宗教的にもノンポリ(ポリシーがない)である。
おいしいエサをぶらさげられ誘われたらどこの宗教でも入るでしょう。
どの宗教も正しいと思います。
今年の目標として、どうやろ、ひとつ創価学会にでも入っちょるか、
と友人に宣言したが、八方手を尽くしたが入会できなかった。
とはいえ、創価学会が嫌いなわけではなく、浄土真宗よりは清潔かなあ、と思う。
そうは言っても親鸞(唯円)が嫌いなわけではなく日蓮よりも体質に合っている。
レズもホモもお好きなようにと思うが、群れて拡声器で騒いでいるのを見ると鬱陶しい。
社会不正を見てもさして義憤は感じず、うらやましいなあと思うのみである。
もし自分もその立場でばれなければやっていたと思う。
死刑制度はどうでもよく、あってもなくてもよい。
国が殺してくれるなんて安楽死みたいでええなあ、と思わなくもない。

果たしてこういうノンポリは損なのか得なのか。
たとえばアスベスト被害を国は認めろ、
なんちゅう左翼アピールをしたほうがマスコミ受けはいいわけでしょう?
そのうえ仲間と群れることができる。左翼のほうがおいしい気がする。
でも、べつに天皇制があっても悪くないんじゃないかなあ、と思ってしまう。
わたしはどのグループにも賛成できるが、群れて拡声器で騒ぐのは反対だ。
いまでも毎日ではないが創価学会の婦人部さんから
いただいた勤行経典を片手に朝、法華経を読誦。
同様いただいた青色の数珠を手にして題目を唱えることがある。
法華経の主意のひとつである諸法実相は、要は「世界はようわからん」ちゅうことやから、
毎朝あれを唱えるのは精神健康的に悪くないはずである。
ノンポリとは「正義が嫌い」ということかもしれない。正義なんてない、おそらく。
8月11日渋谷アップリンクに絶叫上映「ゆきゆきて、神軍」を観にいく。
日本初のドキュメンタリー絶叫上映。
「ゆきゆきて、神軍」はレンタルビデオで5回以上観ているし、
シナリオも数回読み直している。
理由は、なぜみんながこんなに称賛しているかがわからないからである。
映画主人公の奥崎のどこがいいのかわからないし、原一男映画の魅力もわからない。
人間・原一男の魅力はわかりすぎるほどわかる。だが、奥崎はわからん。
あらゆる裏話も読んだり、見聞きしたりもしたし、「神様の愛い奴」も観た。
ひとつのヒントになっていたのは、原先生から教わったことで、
当時の客はあれ(「神軍」)を観ながらゲラゲラ笑っていたぞ、というお言葉。
どこまで絶叫できるかなと鑑賞前にSさんと某居酒屋でメートルを上げていた。
いけなかったかもしれないが缶チューハイも持ち込んだ。
当方以外にも缶チューハイ持参者はいたから、まあ許される範囲だろう。
しかし、座席のB2がやばいのである。どうやらA2に原一男先生が座るらしい。
これではぶっ飛んだことを叫べないではないか。
さっきコメント欄を読んだら、恐れ多くも、
原一男先生は旧弟子の存在をご認識していたようだ。
だとしたら、あの座席関係は偶然だったのか、神の配列だったのか、仕掛けか。

わたしは原先生が自分になんて気づいていないと思っていたから絶叫し放題。
昨日、原先生のツイッターを拝見したら、絶叫がうるさい奥崎のようなやつがいた、
と書かれていたが、それはおそらくB2にいたわたしのことだろう。
原一男先生はスーパーヒーローものとして「ゆきゆきて、神軍」を撮影した。
いうなれば奥崎謙三はスーパーヒーローなのである。
わたしは奥崎をヤジり倒そうとねらって、酒まで持ち込んでいる。

映画開始。ノリがいいじゃないか。
Sさんから注意されたように、「場の空気」を読まなければならない。
どうやら大丈夫そうなのである。
平成最後の夏には奥崎謙三はお笑い芸人のような存在になっていた。
みんな奥崎にほんろうされる生活者に同情し、奥崎を愛すべききちがいとみなしている。
内容はほとんどあたまに入っているから、ヤジのかけ放題である。
奥崎をバカにする。死人に鞭打つ。自称英雄狂人をみんなでからかう。
こんな楽しい映画イベントは経験したことがない。
考えてみたら、わたしも奥崎的だよな。
原一男先生の真後ろに座っていながら、
先に暴力を振るった奥崎が負けて悶絶するシーンで、
「原さん(キャメラを)とめろ」とか背中越しにヤジっていたわけだから。
平成最後の夏、ほぼ観客の全員が
昭和の怪物である奥崎を愛おしみながら鼻で笑っていた。
奥崎って笑えるよなあ。原さんはいやそうだったが、
「ゆきゆきて、神軍」は絶叫上映がいちばん観客が楽しめるのではないか。
なぜなら主役は主演の奥崎謙三でも映画監督の原一男でもなく、
無名の我われだからである。無名の我われが主役や脇役になれる。
多少きこしめした当方は絶叫のしすぎでご迷惑をおかけしたかもしれません。

ずっと言いたかったのは、奥崎が元上官に一本取られたところでのザマアミロ!
言おうと公開前の約束になっていた「イッポン」を言うのも忘れず(常識あります)、
すぐさまザマアミロと続けたが、どのくらいわが声は館内に響いたか。
あの変な神秘主義者(巫女?)のおばさんもアナーキストも存在自体が怪しすぎて、
かつキャラが立っており、しかし人間の生死という問題をはらんでいるので、
どこかヤジりにくく彼らの狂信的なパワーとの勝負になる。
奥崎謙三が最終目的地(山田)のところに行くまえのフェリーでのヒーローシーン。
「カメラ目線」と女性のヤジがかかったあとに、
「疫病神」とわたしは絶叫したが、
どこまで8月11日の観客のご支持を得られたかはわからない。
わかったのはどこまでも脇役(あるいは小道具、草花、壁)
としての役目を求められる演劇や映画はおもしろくない。絶叫上映ばんざいだ。
ただし原一男監督は絶叫きちがいのわたしのまえにいたせいか、
もうあんまりやりたくないなあ、という感じであった。
下手をすると演出領域にもヤジを投げかけられ、
監督の自尊心が破壊されるデンジャラスな上映だ。
そこにまたまた自称一番弟子のわたしが行ったという、このたまたまの偶然性は、
Sさんのちからによるのか、神さまの手腕なのか、仏さまの手のひらか、
いろいろなものを考えさせられる。

アフタートークで原先生は言っていた。
奥崎謙三は撮影でいったニューギニアで、老齢ながらセックスに目覚めたという。
晩年の支持者に原さんが聞いた話だと、
奥崎はぼろぼろの身体でタクシーに乗り、ソープに行っていたという。
理由はセックスを求めてではなく、
だれかに自分の子どもを生んでほしかったからだという。
そのあたりがニューバージョンの「ゆきゆきて、神軍」書籍に書いてあるという。
Sさんはアスベスト映画後に買っていた。わたしは教養文庫版があるからパス。
稼ぎがよくなり彼女もでき、いまが人生の花道であるSさんは「神軍Tシャツ」を買うという。
「あんなもんどこに着ていくんですか。恥ずかしいっすよ」
「サインを入れてもらって部屋に飾っておくだけでもいいんです」
だったらとSさんにお願いした。サインを入れてもらうときに、原さんに聞いてくれませんか。
「いま原さんの生きているお子さんは何人いますか?」
Sさんは「神軍Tシャツ」3500円が高いと買うのをやめてしまった。
どれだけお金がないんですか、原一男先生! 
原価数百円の「奥崎Tシャツ」を3500円って……。
それに晩年の奥崎謙三は原一男を殺そうと思っていたという話も聞くし、
そんな奥崎謙三をプリントアウトしたTシャツを3500円で売ろうなんて、
あなたはどこまで……。あなたはどこまでキ、キ、鬼畜なのか……。
やはりわたしは原一男の自称一番弟子であり、それを誇らしくも恥ずかしくも思う。



*うわさの「神軍Tシャツ」はアマゾンでは取り扱いしていなかった。
8月11日、原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」を鑑賞する。1800円。
アスベスト被害訴訟をあつかった3時間半にわたるドキュメンタリー映画だ。
終了後、質疑応答があったので恩師の原先生に質問する。
当り前だが、大勢の教え子を持つ大学教授はわたしのことを覚えていなかった。

わたし「土屋と申します。3つ質問があります。簡潔で結構ですのでお答えください」
原先生「私の話は長いからねえ。ひとつひとつ頼むよ」
わたし「この映画は退屈で上映期間中、早く終われとそればかり考えていました」
原先生「――」
わたし「これはわたしの人生観、映画観、芸術観がおかしいのでしょうか?」
原先生「そうだね。それはあなたがおかしい」
わたし「わたしが間違っていると?」
原先生「そう、あなたが間違えている」
わたし「――」
原先生「あなたは事前に思い込みやなにか既成概念があってこの映画を観たのでは?」
わたし「――」
原先生「全身をすみやかにして、そのままこの映画を観たら楽しめないはずがない」
わたし「わたしが間違えている」
原先生「そう。あなたが間違えている」
わたし「――」
原先生「どうして帰らなかったの?」
わたし「――」
原先生「つまらなかったら帰ればいいじゃない?」
わたし「――(1800円がもったいない)」
原先生「帰ったほうがよかったと思うね」

原先生「ふたつめの質問は?」
わたし「この映画は原教授と小林教授がおつくりになった」
原先生「はい」
わたし「大阪芸大の教授といえば権力サイドの人間でしょう」
原先生「――」
わたし「そういう権力サイドの人が反権力のサイドにまわって映画を撮るのは、
 おかしいというか、(勇気を出して)ええかっこしいが過ぎるのではないでしょうか」
原先生「あなたはね、知らないでしょうが、教授の仕事というのはね、
 カリキュラムにそって教えるとかで、権力とかぜんぜんそういうものではない。
 だから、権力とかそういう考えはぜんぜんなかったね。
 それは撮影しているときにそういうことを感じることはあったけれども、
 あなたの意見は的外れだ」
わたし「――」
原先生「みっつめの質問は?」
わたし「下品な話で恐縮ですが、
 (国に勝訴した)原告団の分配金はひとりいくらだったのでしょうか」
原先生「これは私ではなく(トークショー相手の原告団代表のひとりに話を振る)」
代表「900万円ですね。(あとは長いので割愛させていただきます)」

あとで同行したSさんから何度も、あの場でああいう質問をしちゃいけませんよ、
と指摘され、そういうものなのなのかとみずからを恥じた。
Sさんいわく、個人的に一対一の関係で言えばよかったじゃないですか?
「場の空気」があの瞬間に壊れましたよ。
そうそういったん質問が終了したあと、原先生からつけたしのように聞かれた。
「なら、あなたはどんな映画が好きなの?」
「……山田……太一作品です。……テレビドラマですが」
そのとき、こいつはバカじゃないか、
と見下した国際的受賞歴華やかな原教授の一瞬の表情の変化を見逃さなかった。
これは当方の錯覚や被害妄想だったのかもしれない。

ひとつ恩師から17年ぶりに学んだことは、自己愛をいかに高めるかの重要性だ。
自作を1800円支払って観てくれた客に「つまらない」と言われても、
「それはあなたが間違えている」と返す強烈なまでの自信、自己信頼、自己愛。
自作をわからないほうがおかしい。
こういうプライドは大学教授を数十年やっていないと持てない気もするが、どうだか。
わたしも今年、金銭的必要から短編小説をひとつ書くが、
売れるとも思っていないし(それでいいとおっしゃっていただいている)、
「つまらない」と言われたら「ごめんなさい」と謝ってしまいそうだ。
しかし、師匠の原先生いわく、そういう姿勢ではよろしくない。表現者として勉強になった。
最終講義がこの日に終了したのかもしれない。ようやく卒業式を迎えた。

「ニッポン国VS泉南石綿村」の感想は「つまらん」のひと言に尽きるが、
生産性のない言葉を残しておこう。
なぜかネットには絶賛記事しかないので、わずかながら意味もあろう。
まず3時間半は長すぎる。
あれは金銭を徴収する作品ではなく、金品を与えて観ていただく類のプロパガンダ映画。
前半はアスベスト被害者の悲惨なインタビューと死がワンパターンに繰り返される。
国家公害に苦しまされている自分たちってなんてかわいそうなんだろう。
そういう被害感情演技がわざとらしく見ていられない。
それを撮影して国家権力と闘っている自分って格好よくないかという、
撮影者の原一男監督のケチな英雄根性が透けて見え恥ずかしい。恥ずかしくないのか?
ときに被害者の庶民くさい思い出話(飲む打つ買うをやったとか)が挿入されるが、
これまた映画監督の計算が丸わかりで、こんなシーンに計算通りに笑えるかと白ける。
被害老婆のお風呂シーンとか、これで「真実」を撮影しているつもりなら認識が甘い。
障害者(脳性マヒ)の青年を路上で全裸にさせた青年時代から、
原一男の表現者根性は成長していない。
そんなものは反権力でも表現でもないと個人的には思う。
前半は被害者のインタビューばかりで、それぞれの人生があるのはわかるが、
ワンパターンで興ざめした。
横(A2)で泣いていた若い女性がいたが、あたまがおかしいんじゃないかと思った。
もしくはいまの原一男さんの愛人のひとりなのかもしれない。

休憩をはさんだあとの後半は――。
前半で長々と被害者意識を観客に植えつけておいたうえでの原告団の活躍である。
国家権力に戦いを挑んでいる国家権力の恩恵をこうむる原教授は格好いいなあ。
反権力、反体制の闘う表現者・原一男(しかし大学教授先生)。
わたしが確認できたのは1回だけだが、被害者も原さんのことを先生と言っていたから。
原一男は裁判を有利に運ぶための大学教授という権威を持った助力者だったのである。
アスベスト被害者たちが傲慢に被害者ぶり、
群れて集団で無力な少数の下っ端公務員を取り囲み詰問するシーンは、
いじめを助長する意思でもあったのか?
ふたりのまじめそうな若い役人に
連日集団で罵声を浴びせるシーンは見ていられなかった。
アスベスト被害の責任はいまの公務員にはないだろう。
それをわかっているはずなのに(わからないほどバカなのか?)、
無力で少数の決して自分たちに逆らえない公務員をいびる原告団は、
あたかも正義の仮面をかぶった悪鬼の群れのようであった。
正義のためならなにをしてもいいという阿修羅集団の面相を喜々として原は撮る。

原告の代表のひとりが弁護士と衝突するシーンは、
映画にするため(「絵」をつくるため)に
わざと原が双方をあおって(仕掛けの結果)撮影したのではないか。
弁護士とは法律の枠内において正義を実現させることを考える。
しかし、それではラチがあかない場合もある。
ならば、法律を超えて(たとえば奥崎謙三のいうような)
「天の法」に従ってもいいのではないか。
単純思考しかできない原一男はこの映画でも、
(結果的に彼を成功者(映画賞、教授、有名人)にした「ゆきゆきて、神軍」の)
奥崎謙三役を引き受けてくれる人を必要としたらしく、
原告団の代表のひとりをキャメラであおり、弁護士や警察に逆らい、
どこかの官邸(首相官邸?)に単独侵入させようとするが、自作の焼き直し感は否めない。
しかし、こういうシーンを評価するものも多いらしく、バカじゃないかと思う。
A1の席にいた美少女は原の新しい愛人か、
トークショーではやたら監督といちゃいちゃしていたが、
この少女が奥崎もどきの原告を英雄視しているようで、
若者は変なハシカにかかるときがあるのだと苦々しく思った。

たまたまそういう仕事に携わりアスベスト被害に遭うのは運が悪いとも言える。
ほかにも偶然のたまたまで運悪く難病にかかるものも大勢いる。
そういう人たちは国家からの賠償を受けられないが、
アスベスト被害者は正義面をして被害者意識を全面に出して国に抗議できる。
後半もまた退屈で仕方がなかったが、金の話がまったく出て来ないからだと気づく。
治療中の人はどこから医療費が出ているのだろう。
働けず食べていけない人はどの金で生活していたのか。
最後の最後で金の話が出てくるが、そこまでは一切出て来なかったから、
これは表現者を自称する原一男自主映画監督の生活能力の欠如の問題だろう。
結局勝訴して、原告たちはひとり約900万を手に入れるのだが、
金額に不満を持ったものもいたという。
ときの厚生大臣が公式謝罪したり、遺族を訪問する。
そのときの生活者(庶民)の無邪気な喜びを、
原はわざとらしく批判的なコメントを入れながらインタビューするが、
下層民出身の原一男は、
数十年にわたる大学教授生活でこころから生活者意識が消失したのだと思われる。

この映画を観て感動するとはどういうことだろう。
被害者の悲惨な様子を観て泣けば感動したことになるのか?
勝訴して大臣の謝罪を受け、無邪気に喜ぶ無学で素朴な庶民の姿を、
嘲笑あるいは共感すれば、この映画に感動したことになるのか?
映画評論家は挙国一致体制でこの映画をほめているし称賛の嵐は増すばかりだが、
50人しか入らない観客席にいたのは多くカウントしても30人で、
いびきをかいているものもいた。
トークショーでバカな庶民が大学教授の映画監督に「おもしろくない」と言ったら、
巨匠は「それはあなたが間違っている」と怒った。
わたしはべつに怒られているとは感じなかったが、
同行したSさんによると、
「原さんあのとき怒っていましたよ。もうああいうことはしないほうがいいと思います」

わたしがなにを言おうとだれも耳を貸さず(アクセス数なんてゼロに近い無名ブログ)、
かわいそうなアスベスト被害者を大学教授が撮影した「ニッポン国VS泉南石綿村」は、
反体制的で反権力的なマスコミ受けする名作映画で、
いままでも多くの映画賞を受賞しているが、
これからももっともっと世界中から映画賞を奪取し、作者である原一男の名前を高め、
新作を要望するファンもいや増しに膨れ上がることであろう。

原一男「この映画のよさをわからない人は間違っている」

(関連サイト)
「挑発するアクション・ドキュメンタリー 原一男」
↑現在絶賛上映中↑
弘法大師の空海が24歳のときに「三教指帰」でもう言っているんだよね。
なにをって、いまではもう読むべき本が多すぎて追いつかない。
空海って平安時代の人よ。その人がもうギブアップしている。万巻の書は読めません。
平均的能力を有した会社員が1月に読める本は4冊でも多いくらいではないか。
とはいえ、駅ナカの書店には売れ筋の自己啓発書、成功談しか置いていない。
ことさら難解書物を読みたいわけでもなく、正直いまの労働環境だとそんな本は読めない。
テレビもスピードは速まるばかりで、いったいなにがなんだかわからない。
この人はどういう人物なのかと興味を持ったら、
とっくのとうにスキャンダルで消えていたりする。
だれも信じられないが、みんなそれぞれ正しいのは、いまの仕事環境からわかる。
頼みの綱はブックオフ・オンライン――。

「百年小説」(ポプラ社) 2050円

明治から終戦までの文豪の短編51篇が採録されているらしい。
既読のものも多く、横光利一の「機械」とか20年ぶりに再読したら、
どんな感想を抱くのか。
あのころは自分には作家にしかなれないと思っていたな、えへっ。
高額書籍ゆえ決め手はブランドである。
ポプラ社は百年文庫という短編小説全集を出しており、その採録作品がじつにいい。
とはいえ、百年文庫はブックオフでめったに見かけず、
価格も高いから売れていないのだろう。
2千円は高いが、ここはポプラ社のブランド力を信じた。
いい短編小説をひとつでもふたつでも書けたら書いてみたい。

「文学賞の光と影」(小谷野敦/青土社) 348円

あらゆる賞という賞の薄汚さを、
真偽定かならぬ文章で教えてくださったのが小谷野敦先生――。
賞金額ゼロの天皇陛下賞よりも10万円の報酬である。
くれるならもらいとってやるか、小谷野敦賞、なんちゃって、アハハ、めんごめんご。

ほしいものは手に入るんだなあ。
太宰治の女性独白短編小説を集めたものなんかあるとは知らなんだ。
それが百円で買えるとはさすが在庫量豊富なブックオフオンラインですな。

「女詞 太宰治アンソロジー」(凱風社) 108円

おれ、ポルノでもミステリーでもおもしろかったらええと思うねん。
だれがさ、たいせつなお金を支払って他人の観念遊戯につきあいたいか?
大江や阿部、サルトル、カミュはつまらないが、
山田太一ドラマ、宮本輝、ミステリー、ポルノ(未読)はおもしろいちゃうか?

「文豪の探偵小説」(山前譲編/集英社文庫) 108円
「水蜜桃 ポルノの巨匠傑作選」(祥伝社文庫) 298円
「桃源郷 ピンク・ユートピア」(光文社文庫) 108円


おもしろけりゃあいいんだ、バッカヤロ!

「運は数学にまかせなさい 確率・統計に学ぶ処世術 「数理を愉しむ」シリーズ」(ハヤカワ文庫) 198円

人生はおそらく運の強弱で、それを学問にしたのが確率統計で、
宗教の科学名は確率統計ではないかと思っている。
いま10万損しても未来で1千万儲かるようなことが宗教の領域では起こりうる。

「空海とアインシュタイン」(広瀬立成/PHP新書) 198円

なんかこの日は文庫本を5冊以上買うと100円割引らしいので、せこくせこく――。

「短編復活」(集英社文庫) 108円

合計3524円か。
ほんとにもう文学とはオサラバしようと思っていたんですが、こんなふうに。
40を過ぎてお子さまが読むような名作文学を読むことにします。
ブックオフオンラインはさすがで2日後の25日午前中に到着しました。ありがとう。
「モレルの発明」 (アドルフォ ビオイ=カサーレス/清水徹+牛島信明訳/書肆風の薔薇)

→ボルヘスやブランショが大絶賛した小説をわたしに送ってくれた人に感謝する。
じつはあのへんダメなんすよ~と思いながら、もう40を超えた男である。
わたしは絶対批評なんて存在しないと思っている。
ブログでしか発信できないような当方のごときダメ書評家でも、
小説の感想くらいどうでも書くことができる。
称賛しようとすれば天井まで持ち上げられるし、
批判しようと思ったら作者のプライドの中心を射抜けると尊大な自意識を有している。
「モレルの発明」は難解な芸術小説である。有閑人にはこれほどの傑作はなかろう。
テーマは自由意志や著述の可能性、他者性の発見である。
わかりやすーく説明しちゃうよ。

小説の原点は「モレルの発明」同様に日記なわけ。
無人島漂着者の主人公にとって、
昨日が存在しえたことを証明するのは昨日の日記しかない。
書くことは世界を創造することと言えよう。
もし日記にウソを書いたら、それが事実として通用する。
未来の日記を今日あらかじめ書いておいてもいい。
将来この日記を発見したものは、書かれたことを事実と思うだろう。
ならば、事実は書かれたこと(著述性、著述の主体)にしか存在しない。
書かれたことがすべて本当になるのである。
「私」とはなにか? 「自分」とはなにか?
「私」も「自分」も日記に書いたことでしかない。
では「他者」とはなにか? これも日記に書いたことでしかない。
無人島にもかかわらず十数人の遊覧客めいた人たちがいる。
主人公はそのひとりの女性に恋をするが、彼女は存在するのか?
というのも、どうアプローチしても反応がないからである。
もしかしたらすべてはホノグラム(映画の最新版3D化)ではないのか?
おなじ映像が繰り返されているだけではないのか?
その証拠は自分の日記である。
映画登場人物らしき人たちはみな決まっておなじセリフを口にし、おなじ動きをする。
すべてはモレルの決めた配役、セリフ、演技ではないか?
ならば、書き手のわたしも映画のなかに入れないか?
愛する女性と映画のなかで親しくなれないか?
書いたらばいい。彼女との関係を日記に書けばそれは事実となる。
事実とはモレルの最新映画ではなく、自分の著述した日記にこそあるのではないか?
むむむ? わたしの日記は本当にわたしが書いているのか?
わたしはだれかに、たとえばモレルによって書かされているだけではないか?
わたしはモレルに逆らえないのではないか?
わたしはモレルに決められたセリフと演技をしているだけではないか?
モレルを殺したい、破壊したいが、そのときわたしもいなくなってしまう。
わたしはモレルの無人島に生きている。モレルが書けと命じたことを書いている。
わたしは「モレルの発明」をした。

わかる人はいますかって話だよな~。
でも、こういう小説のおもしろさを評価することができる。
こういう小説があってもいいし、新しいと評価されてもいいだろう。
「おもしろい小説」とはなにか、自分にはわかるときが来ないのではないかと思う。

「日本恋愛思想史」(小谷野敦/中公新書)

→むかし上司のコカさんから近所の酒屋の角打ちで、、
「土屋さんだって、テレビに出て結婚したいって言えばひとりやふたり手を上げますよ」
と激励なのか侮蔑なのかいまいち判断が難しい助言をいただいたことがある。
5歳上のコカさんは本人も自虐に使っていたが、偏差値40くらいの高校出身。
一丁前に結婚していて息子さんもいて、いまは大企業の社員で高給取りである。
結婚までのいきさつを根掘り葉掘り泥酔したコカさんから聞いたが、
くっついたり離れたりしたようで、どうにも当方が小説で知った恋愛のイメージと合わない。
コカさんはなかなかいい男だったが、世の中にはどうしようもないカップルがいるでしょう?
ああいうふたりってどういう恋愛をして結婚しているのか想像がつかない。
でも、失礼ながらいっぱしに恋愛めいたことをしているはずなのだ、きっと。

恋愛研究家の小谷野敦さんの本を読んだら、
少しはそういう事情がわかるのではと期待するものの、それは甘かった模様。
最近わたしもしみじみ気づいたが世の99%の人は忙しくて本を読む暇はない。
圧倒的多数の庶民にしたら1月で1冊の新書でも読めば読書家になるのではないか。
たとえばわたしの年代のふつうのサラリーマンは早起きして晩まで会社で働き、
帰宅したらコンビニ弁当と一杯の晩酌であとは疲れていて寝るしかない。
平日はそんな感じで1日が終わってしまい、土日は休息を取るだけで終わる。
生活のどこにも読書をする時間的余裕はない。
これはこのまえ自動販売機の缶ジュース補充の相乗りのバイトをしたとき、
ナイスガイの男性から聞いた話。このまえはじめて街コンに行ったと言っていた。
小谷野敦さんは我われ庶民のための、
わかりやすい啓蒙的新書を多数上梓している。しかし――。

「テレビや新聞は絶大な影響力を持っているが、あまり私のいうようなことは、
テレビや新聞受けはしないようである。
とはいえ、私が書いているようなことを知っている人は、だいたい五千人、
[小谷野氏が誤りを指摘している]「恋愛輸入説」など
知っているのはだいたい多くて十万人と見て、
それ以外の数千万の日本国民は、時代劇が描くように、
戦国時代にも今のような「恋愛」があったと思っているのだから、
どうでもいいような気もする。
いわゆる知識人が考えているほどに、
世間は知識人の言っていることは知らないものである。
それが庶民の健全さというものであるかもしれない」(P215)


小谷野は庶民が知識人の主張を知らないことを嘆くが、
たぶんいわゆる知識人の小谷野も庶民のことをよくわかっていないような気がする。
わたしは知識人の世界も庶民の世界もどちらもわかっているとは言いがたい。
読書は遅いし理解力も乏しいし、
そのくせ孤独を好み貧しい人的ネットワークしか持たぬ。
おそらく職場つながりでセクハラと言われるのを用心しながら、
バツ2くらいのメンヘラがかったおばさんにアタックするしかないのだろう。
しかしその女性が「本の山」を見つけてしまった時点で関係終了と相成る。
スウェーデンの文豪ストリンドベリは二番目の妻に、
自分の小説(「痴人の告白」)を読まぬよう誓わせたが、
彼女は約束を破り、その瞬間ストリンドベリのもとから逃亡したという。
コバヤシエイトという才媛を妻として捕獲に及んだ、
(小谷野敦から破門された元子分の)「山梨のトド」こと小林拓也ライターは偉い。
視野の広い恋愛研究の碩学(せきがく)のお言葉を引こう。

「では、西洋では、もてない男女はどうしているのか、といえば、
岡田斗司夫の『フロン』にも書いてあるし、私もカナダで実見したことだが、
選(え)り好みをしないでとりあえずカップルになるのである」(P26)


こばかにされているのか、好みのタイプは? と聞かれることがある。
「だれでもいいです」と決まって回答しているが、
いつか間違って「なんでもいいです」とお孫さんもいるおばさんに答えたら、
「じゃあ、犬や猫なんてどう?」とからかわれ、庶民っておもしろいなあ。
本音をもらすと収入の多い女性がいいが、そういう男はまず嫌われるだろう。
でもさ、シナリオ・センター講師の上原正志や浅田直亮レベルでも
半分ヒモになれていることを考えると、
目を凝らしてよく探せば裏道のような男女街道があるのかもしれない。
でも重度の顔面神経麻痺のわが顔を鏡で見ると肩を落とすほかなく、
上原さんや浅田さんもむかしは格好よかったのかしら。

「顔じゃなく心だといったきれいごとが横行するのは、日本では戦後のことだ。
米国では今も、「もてない男のための恋愛ガイド」のようなものでは
もてない男は「ugly men」となっていて、もてないとは醜いこととされている」(P65)


これほどまで人を苦しませ迷わせる恋愛の起源はどのようなものか。

「動物の牡(おす)は、交尾のために牝(めす)を追い回したりするが、
その場合、牝ならどれでもいい、となったら「恋愛」ではない。
人間=ホモ・サピエンスはだいたい十数年前にアフリカに発生したわけだが、
それから有史までの過程で、この女では嫌だ、あの女がいい、
という意識が生まれた時があったとしたら、それが恋愛の始まりだろう。
売春にいたっては、猿の牡が、
牝と交尾してもらうためにプレゼントを上げるというから、
これが既に売春になっているだろう。恐らく恋愛より売春のほうが、始まりは早い。
いずれにせよ、五、六千年の有史の間ではなく、それ以前からのものだろう」(P28)


最近、メクラめっぽう短編小説を読んでいるが、意外や恋愛小説がおもしろい。
二人が結ばれない恋愛小説がとくにおもしろいのである。
結ばれたらそれは生活になってしまうわけで、
そんなものを描写されても読者はおもしろくないわけだが。
恋愛小説ではくっつくのとうまくいかないのとどっちが多いのか
小谷野先生に質問したいが、ツイッターが嫌いだからなあ。
顔面障害や貧困を抱え込んだ恋愛弱者にも唯一許されているのは片思いで、
これならば自由だが、これでさえ相手が見つからない。
宮本輝の「青が散る」でヒロインが自分に片思いしていることを知っている主人公に、
自分が金持の先輩にベッドでおもちゃのようにもてあそばれ、
かつでは男を知らなかった自分が、
日ごと性感帯を開発されていることを勝ち誇って告白するところは、
あらゆる小説のなかでいちばん好きなシーンと言ってよい。
宮本輝と小谷野敦の下品さは通じ合っているような気がするが同族嫌悪になるのだろう。

これにからめて小谷野敦さんの誤りめいたものをひとつおずおずと指摘しておこう。
正確には読解の相違といってもよく、
小谷野さんが間違っているわけではないのかもしれない。
どちらも正しい可能性もある。法華経の女人成仏に関する認識の違いである。

「武士的価値観も手伝っているが、まず女人往生の思想が変化し、
『法華経』の「提婆達多品」にある龍女という女が、
成仏するためにいったん変生男子、
つまり男に生まれ変わって成仏するという逸話を基に、
女はそのままでは成仏できないという思想が広まる」(P78)


正確にはインドの釈迦の時代から奈良仏教まで女性は蔑視されていた。
女性が成仏したいなんて生意気を、どの口で言っているんだという。
どんな美女も糞袋なんだよというのが古来仏教の女性認識であった。
このため、法華経の女人成仏が受けたのである。
いわば法華経は女性のご機嫌取りをしたわけで、
小谷野さんのおっしゃるように女性差別を広めたわけではない。
ねえねえ、創価学会のみなさんもそう思うでしょう?
小谷野さんは婦人部の怖さを知らないな。
「女はそのままでは成仏できないという思想」はそれまでの常識で、
法華経ならば女も変生男子によって
成仏することが可能だと新しい女性観が生まれた。
まあ、どっちでもいいんだけれどね。
わたし学者じゃないし、小谷野さんを怒らせていいことなんてひとつもないから。

はい、批判はここまで。
小谷野さんの本はわかりやすくて、バカの当方には非常に勉強になる。
むかしの新書を引っ張りだして来て、部分的に再読することも少なくない。
以下、そうだったのかと勉強になったところを備忘用に列記する。

「谷崎潤一郎なども、遠慮して、近松はいいけれど、
と「所謂痴呆の藝術について」では書いているが、
「恋愛及び色情」を見ると、近世町人は女を蔑視していたから、
かぐや姫のような崇高性は近松の女にはないと書いている」(P103)


かぐや姫は天皇をも振った女だからねえ、そりゃあ近松劇の女は勝てんよ。
これに関係して、谷崎潤一郎以外でもう一人――。

「もう一人、中村真一郎も近世町人文藝のダメさに気づいた人であった。
中村は、近代になって日本文学史を作った際、いちばん得をしたのは、
近世後期の洒落本、黄表紙、滑稽本などで、あれはその当時、
文学らしいものがほかになかったから入れられたので、
同じ基準で近代文学史を編んだら、
膨大な量の通俗小説に埋もれてしまうだろうと書いていた」(P118)


身もふたもない本音でおもしろいよなあ。
いまきっと(おそらく大して売れまい)平成日本文学全集とか企画されているんだろうな。
そこでまた派閥あらそいとか勢力の変化があると思われる。だれを入れるかって。
平成純文学全集とか数万円もらっても読みたくない。
一部では三島の再来、平成の三島とも言われた平野啓一郎だが、
あの渦中、早稲田の文芸演習で教授がこのなかで読んだ人いる?
ま、いないよね、と久間十義氏はため息をもらしたが、
果たして80人くらい教室にはいたのであったが結果はあわれゼロであった。
ついに待ちに待った天才が現われたみたいな騒ぎ方を本屋でしていた記憶がある。
しかしコネで大出世した京大生は新人賞あがりよりも信頼できるところがある。
新人文学賞に応募したことはないが、
応募したらどうしても賞ねらいの作品になってしまう気がする。
受賞しても単行本化されず、原稿を編集部に持ち込んでも突き返される。
ある編集者から惚れられるのがいちばんいいのだが、
いまはもう編集者も忙しく人間関係も複雑で、
自分の味覚に絶対的とも狂的とも言うべき自信を持つ、
退社も辞さないほどにひとりの作家を愛せる破天荒な編集者は少ない。
それどころが編集者のほうが目立ちたがりテレビに出ると大喜びしてツイッターで拡散。

ツイッターもインスタも、文学的なもの、恋愛的なものを薄める気がする。
百年後に研究者がいまの日本恋愛事情を見たら、どのような感想を抱くのか。
庶民のブログやツイッター(のまとめ)に基礎文献は残っているのである。
かつてこんな時代はなかったのである。
みずからもツイッターきちがいの小谷野敦氏は言う。

「学問的に言うなら、近世後期より以前の庶民が何を考えていたかなど、
まったく分からないに等しい」(P154)


じつは去年の1月に人工知能関連のシナリオ仕事を依頼されたことがある。
あまりにもメチャクチャな要望だし(人間には不可能と思われた)、
給金もお小遣い程度だったし、エクセルのやり方がよくわからなかったし、
せっかくお声をかけていただいたのにお断りさせていただいた。
NTTが親元の依頼先であったと記憶しているが詳細は定かではない。

以下に本書でいちばん感銘を受けた東大卒の小谷野敦博士の名文を紹介する。
早稲田大学の第一文学部の肝心かなめの文芸専修に在籍していたわたしでさえ、
こんなことを知らなかったのだから博士に一日中笑われてもそれを責められない。

「文学研究の基本の一つは、ある作品が先行する作品から
どのように影響されているかを考えることにあって、
比較文学ではましてやそれが基礎作業である」(P165)


ノータリンのわたしはいま古い小説を亀のように遅々とした歩みで読み進めているが、
ほとんど最近の作品を読まないのはパクリや盗作になってしまう危険性を感じるからで、
古い名作をお勉強いたしますとそれはパクリや盗作ではなく「影響」でございます。
年輪を重ねるごとに(知識が増すごとに)小谷野さんのすごさ、おもしろさがわかってきた。
早稲田分派、小谷野学派の継承を正式に宣言したいが、
それをすると宮本輝の追手門学派を裏切ってしまう。
だが、宮本輝ファンクラブ入会拒否、山田太一ファンクラブ追放処分、
シナセンからも創価学会からも毛嫌いされ、行き着く先は……。
わたしは小谷野敦先生および奥さまの坂本葵先生をイエスや仏陀のように尊敬していて、
坂本葵さんを一夜でもお貸しくださったら滂沱の涙を流すだろう「もてない男」であります。
いい本でした。これからのご執筆にも期待大です。

「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」(春日武彦/宝島社)

→ただの愛読者に過ぎぬ無名の男に
近刊自著を送ってくれる人なんか先生しかいないはず。
そういうことをしていただくと、より精神科医の著者に興味を持つわけである。
こういうことを書くとナイーブな著者はまた被害妄想をつのらせるのではないかと
恐れつつ書くと、本書はこれまでの本と文体を変えている。
あたかも福田恆存のような老賢者文体が散見される(~~ではありますまい等)。
それはそれでおもしろく、
こういう著者の変化を楽しめるのが長年の愛読者冥利というもの。
春日先生は「なぜあの人は平気で自分を傷つけるのか」
とか老年のいまも考えているのかしら。
出る杭は打たれるというか、目立つと叩かれるというか、それは仕方がないことなのだ。
ブログ「本の山」もいまは批判コメントが9割で、常軌を逸したご批判をいただくことがある。
ムカつくけれど相手は匿名だからどうしようもない。
電話して来いよ、と携帯番号を公開しても、批判者は匿名のかげに隠れている。
それは仕様がないとも、先生のご著作を読んでいるからか思うのであります。

被害と加害というのは難しい。
春日先生のおっしゃるように、どちらも被害者という場合が多々ある、
もちろん、被害者ぶった加害者という当方のような悪漢も存在する。
むかしは美男美女のカップルを見かけると、それだけで被害者意識を刺激され、
攻撃したい、傷つけたい、不幸のどん底に落としてやりたいと思ったものである。
いまは前世や来世というオカルトに走ったから、
美男美女は前世でええことをしたんやなあ。
もしかしたら、おいらも来世は美女か美男に生まれるかもしれへんなあ、
と美男美女のラブラブを目撃しても、美しいものはええなあと微笑むくらいである。
このあたりが被害感情と加害感情の難しいところだろう。
美男美女はだれかしらを傷つけたいと思っていないのに、
多くの人に被害感情を抱かせている。
存在自体が罪と言ったらば、たしかにそうなのだが、言いすぎの面もあろう。
女優でアイドルのめごっち(剛力彩芽)のインスタが攻撃対象になっているが、
億万長者とのラブラブを毎日のように見せつけられたら、
被害感情を持つものを責めるわけにはいかない。
その被害感情は加害的な悪魔根性に容易に転ずることだろう。

美男子というのは存在するだけで(生きているだけで)周囲を傷つけているのである。
美女も同様で、美少女はなおさらだが、
むろんそれらは彼女たちに罪があるわけではない。
ノーベル賞学者も大富豪も、存在自体が加害的(人を傷つけている)なのだが、
本人はそういう理由で攻撃されても人間不信、人間嫌いが強まるばかりだろう。

わたしもささいな攻撃にさらされていると言えなくもないが、
批判コメントが集中するのは早稲田ネタを出したときが多い。
当方の感覚では早稲田合格は運がよかったのひと言で、
早稲田でも一浪して一文なんか価値がないと思っているが、
読者さまのなかにはたかだかラッキー早稲田程度に被害感情をお持ちになり、
こいつを傷つけたいと思う人がいるのだろう。
当方からしたらあなたのほうが収入が多いのだからいいじゃないですか、
と思わなくもないが、そういうものではないらしい。
たしかにわたしは異様なほど運がいい一面があり、そこに立腹する御仁もおられるだろう。

本書は「被害者ぶった加害者」の怖さとその対策を教える本である。
春日武彦先生が周囲から傷つけられるのはある面で仕方がない。
春日さんがお医者の家に生まれたのは先生の罪ではないし、
医師が一般書を多数、有名出版社から出せるのは著者の才能によるもので、
それを春日武彦氏への攻撃理由にするのはあんまりだが、
しかし世の中とはそういうものだとも言いうる。
わたしはいま美男美女のカップルを見ても腹立たないし、
美少女が同級生と夕暮れの公園で接吻しているのを目撃してもええなあと思う程度。
そういう心理をベテランの臨床精神科医はこう絵解きする。
「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」――。

「相手が幸せそうに見えたから、自分の気も和んだとか、
ちょっとうらやましいと思った、なんて感じるのが通常の感性でしょう。
気が荒(すさ)んでいたり、イライラしているときならば、
相手が幸せそうな様子が何だか「当てつけ」
ているように思えて腹が立つこともあるかもしれません。
不幸になってしまえと腹の中で毒づいて、
あとで自己嫌悪に駆られるかもしれません。
まあいろいろな感情的リアクションがあり得るわけです。
当然のことながら、
自分の気持ちに余裕があるときには相手の幸福を肯定して、
余裕がないときは否定的な感情に傾きます」(P65)


いまわたしは運勢が少し好転したのか被害妄想のようなものは以前より減少した。
めごっち(剛力彩芽)のネットニュースを見ても微笑ましいと感じるのみ。
本書193ページには攻撃されたときの対処法が列記されている。
春日先生いちばんのお好みは、「逆襲どころか、
二度と攻撃を仕掛けてこないように相手を徹底的に痛めつける」という。
この選択肢でわたしが選ぶとすれば、
「恥も外聞もなく許しを請う。あるいは金品を提供して勘弁してもらう」である。
むかし山田太一ファンクラブの人からご批判を受けた。
どうすればよいのか山田太一ドラマを視聴しながら行き着いた結論は、
「金品を提供して勘弁してもらう」であった。5千円程度で彼女の沈黙は買えた。
わたしは春日武彦先生の愛読者で、
通常意識のうえでは攻撃したいとは思っていないが(無意識ではあるかもなあ)、
春日さんから近刊を送っていただき、まったく加虐心のようなものは消失した。
それどころかご好物らしきかっぱえびせんを、
迷惑と知りながら冗談半分で百袋くらい送ってさしあげたい。
奥さまの手料理にはかないようもないが、
これまたご好物らしき野菜炒めのレトルトでもいい。
代わりに刺激的な向精神薬(リタリンはもうないか)を送ってほしいとか、
そういう不正根性からではなく、純朴な恩返しである。
そもそも恩返しといえば、わたしからしたら、自著を読んでくださるだけで恩人。
多少、批判めいたことが書いてあっても書評を書いてくれるだけでありがたい。
まあ、その辺は周辺環境の相違だろうから突き詰めない。

あんまり他人に期待しないほうがいい、という結論に著者は至っている。
これよこれ、これっすよ。わたしは山田太一ドラマの
日本一の研究者を自称しているが(だれも認めてくれないが)、
氏のドラマの底に流れるメッセージは、
「人生なんて、こんなもの」「人間なんて、こんなもの」
という皮肉で人間不信のトーンである。
人生に期待するから絶望するのだ。人間に期待するから人間嫌いになる。

春日武彦医師は愛読誌の「SPA!」を読んで、これよこれよと思ったという。
(「SPA!」なんかだれが買っているのかわからなかったが春日医師世代か?)
「SPA!」に(西村賢太を引き上げたことで有名な)読書家の
坪内祐三氏が福田和也氏との対談で「そうこなくっちゃ」
という名言をご披露なさっていた。
不遇のときに人気作家の坪内祐三氏が恩をほどこしてあげた編集者がいた。
「編集者はこの恩は忘れません」と誓った。
その編集者が復活したらあろううことか、
大恩人たる人気作家の坪内祐三氏を無視するようになった。
そこでいまや出版界の重鎮たる坪内祐三氏が思ったのは「そうこなくっちゃ」。
出版業界のあまたある賞をひとつも得ていない名文家の春日武彦先生は、
坪内祐三氏の「そうこなくっちゃ」にいたく感動したらしい。
この稚拙な感想文が出版界の先生のおひとりにでもご閲覧していただけることを、
春日先生の長年の愛読者のひとりとして期待してやまないが、
人生や他人に期待しないという自己ルールをこれは破っていることになろう。

わたしには複数の先生がいる。
原一男先生。山田太一先生。宮本輝先生。小谷野敦先生。そして春日武彦先生だ。
いままで精神科のご厄介にならなかったのは春日武彦先生のおかげだろう。
しかし、精神科を受診したほうが業界のご商売繁盛につながるのだから難しい。
春日先生はじつにいい教訓を本書で述べている。
あんがいご本人の自覚以上に、いい意味で作者は老成しているのではないか。

「我々には、「理屈ではそうかもしれないけれど、
リアルな世界は必ずしもそんなもんじゃないよ」
といったいささかいい加減な(でも経験的には確かな)感覚があります。
なるほど嘘をつくのは悪いことだが、嘘も方便という言葉だってあるじゃないか。
ときには見て見ぬふりをするのが武士の情けというものさ。
規則ばかりを言い立てるのは野暮というものだ。
馬鹿正直が人を幸福にするとは限らない。
多少の欠点があったとほうがかえって人間らしい。
四角四面よりは愛嬌(あいきょう)のあるほうが世渡りは上手く行く。
と、まあそんな調子で原則と逸脱を適度に使い分けている。
ダブルスタンダードというやつですね。
それが出来なければ、まっとうな社会人とは見なされません」(P142)


しかし、そこからは芸術も文学もうまれないと熟知したうえでの老医師の助言だ。
著者はアンチエイジングの時代風潮に逆らい、老いのよさを本書で書いている。

「わたしは六十歳を超えたジジイですが、
精神科医としては自分が若くないことを喜ばしく思っています。
その理由のひとつは、しばしば患者本人や家族から、
「なぜこんな病気になってしまったのでしょう」と問われたときに、
「運が悪かったからです」
と、平気で答えられるようになったからです。
因果関係がどうしただの、誰それのせいだと犯人捜しをしても、
多くの場合、あまり実りはない。(……)
でも、精神科医が若いと、運が悪かったからなんて口にすると
不真面目に思われる傾向があります。
どこか無責任感が漂っているように映るらしい。
年をとると、運が悪かったからという発言が、
人生経験の積み重ねから導き出されたほろ苦い言葉であると
相手に感じられがちのようです。ああ、やはりそんなものなんだなと、
溜め息混じりの共感につながる場合が大部分となります」(P39)


この春日先生へのファンレターとも言うべき、
つたない面白味も少ないブログ記事を書くのに4時間以上かかっています。
読書時間も合計したら6、7時間でしょう。
エゴサーチがお好きな春日先生が万が一、この愚劣記事をお読みになられても、
「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」
「なぜ土屋は平気で自分を傷つけるのか」と思ってほしくありません。
こんなに春日武彦先生のご本を一生懸命に読む人はめったにいませんよ。
だから、新刊をまた送ってください、と書かないとわたしが偽善者っぽくなるので、
そこはご勘弁のほど、どうかよろしくお願いします。

「物語を生きる 今は昔、昔は今」(河合隼雄/小学館)

→「私」とはなにかといったらそれは物語で、
もういくばくか分解すると「私」とは父の物語であり母の物語であり、
両親の祖父母の物語といえよう。
わたしなんかも陳腐な自己愛者だから自分のことを考えるのは嫌いではないが、
行き着くのは祖父母の物語なのである。
いまのわたしの問題は祖父母、あるいはそれ以前の祖先に端を発している気がする。
人生は歴史に左右されるが、歴史こそ広い意味での物語である。
歴史や家族(あるいは宗教、国家)という物語があるからわれわれは孤独ではない。
歴史という物語が、なんによっているかといえば史料であり史跡、遺物である。
物語はどのようにして生まれるかを河合隼雄はじつにわかりやすく書いている。
古事記も日本霊異記もかぐや姫も源氏も太平記も説経節も近松も失楽園もみな物語だ。
物語はどのようにして生まれるのか。

「非常に単純な例を考えてみよう。コップに野草の花がひとつ挿してある。
それだけのことなら、別に誰もその花に注目しないかも知れない。
しかし、それは病気で寝ている母親を慰めようとして
十歳の少女が下校のときに摘んできたのだと知ると、
その花が単なる花でなくなってくる。
その花を介して、その少女に親しみを感じ、
その母娘の間の感情がこちらに伝わってくる。
そこに「関係づけ」ができてくる。
そのことに感激すると、そのことを誰かに話したくなる。
友人に話をするとき、少女は花を買おうと思ったのだが、
彼女には高すぎたので困ってしまったが、ふとその野草の花を見つけて……
というふうに話が少し変わることもある。
それを聞いた人が他人に伝えるときは、母親がその花を見て嬉しく思うと、
高かった熱がすうーっと低くなって……とつけ加えるかも知れない」(P13)


生活破綻者でヒモで文壇乞食の小林秀雄はかつてこう言ったらしい。
「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」
瀬戸内寂聴から「なにをして食べているんですか?」と鼻で笑われた男の言葉だ。
バラは美しいけれど、キャベツのように食べられない。
「美しい」と思うのは主観で、野草の花を「美しい」と観ずる第一発見者こそ評論家たる。
どんな小さな花園にも侵入して、花びらをむしり取り、
本来は豊饒たる土地だったかもしれないものをことごとく荒野にするような、
たとえるならば早稲田のセクハラ教授、渡部直己は評論家ではない。
「万死に値する」と自分で言ったのなら、二度でも三度でも自殺して自然土に還れ。
「美しい」という形容詞は人間の喜びだろう。
わたしもいつしか無名のままつまらぬおっさんになったが美少女への興味は尽きない。
妄言を白痴のように書き散らすと、いまの若いアイドルも女優もまったく美しくない。
全員、おなじような顔に見えてしまう。
みんなおなじように先輩を立てて無難でポジティブな発言に終始する。
美少女はときのうつろいとともに醜いおばさんになるのだが、
アンチエイジングってなんだ?
40過ぎのババアが10代のような顔でキラキラ光り輝いていて、それが称賛されている。
美はそういうものではない。かぐや姫の「竹取物語」は――。

「うつろう美を特に評価している。というよりも、この世ならぬ美を追求すると、
それは限りなく死に近接してゆく。つまり、美の影には死が必ず存在しており、
それは、うつろいゆくことの自覚を促すものとなる」(P43)


美少女が美しくも寂しさを感じさせるのは、それが期間限定のものだからだろう。
いまでも20代と変わらない美貌を持つアラフォー女優とかホラーである。
枯れない花は人造美に過ぎぬ。
間違わない知能=人工知能は誤謬なきがゆえに人間よりもはるかに劣っている。
枯れるから美しい。もっと言えば、醜いものがもっとも美しいのかもしれない。
河合隼雄はカウンセラーのボス猿だから、あらゆる症例報告を耳にしただろう。
自分が担当した少女ではないからという理由からか、おもしろい症例を公開している。

「ある女子高生は素晴らしい美人で、
道で彼女とれ違う人が思わず振り向かずにおれないほどだったという。
彼女が自殺を企図し、幸いにも未遂に終わったので、
あるカウンセラーが会うことになった。
そのとき、彼女は「自分ほど醜い者はいない」ので自殺しようとした、と語ったと言う。
カウンセラーが不思議に思っていると、彼女は言葉を続け、
自分を見る男性の目があまりにもいやらしいので、
これは自分の内に非常に醜いところがあるのに違いない、と思った、と言った。
これは実に示唆的な話である」(P46)


「竹取物語」のかぐや姫を論じているさなかの話である。
美しすぎるこころが病んだ美少女とかええなあ。
文学の心内原初風景にかならず存在するアニマ(女性理想像/ユング用語)であろう。
永遠の美少女はいない。少女はいつか老いる(少女は死ぬ)。
美少女は醜悪を胚胎しているからこそ美しいのではないかと河合隼雄は説く。
男という男が邪悪な性欲をたぎらせる美少女を一瞬でも見れたら眼福であろう。
しつこく繰り返すが、いまのアイドルや女優はつまらない、そそらない。
きれいすぎて人工的なところが邪淫欲を刺激しないのである。
美しすぎて自殺未遂をした女子高生について河合隼雄はこうコメントする。

「男性の醜い関心を惹きつけるのは、彼女の美しさだけではなく、
彼女の内部にそれに呼応する部分がある、と考えてみてはどうであろう。
美は単なる美である限り、それほどの魅力をもたないのではなかろうか。
どこかで醜による不思議な裏づけをもってはじめて、
人を惹きつけることを可能にする。
かぐや姫が自分を醜いと言ったのは、謙遜ではなくて、
自分の醜の側面についての自覚があったから、とも考えられる」(P46)


酒井法子はなにをやっても干されないで、いまも大金を稼いでいると聞く。
わたしはのりピー、らりピーの美しさにここ数年で気づいた。
どう書いたら差別表現にならないのか不勉強のためまごつくが、
被差別部落の美少女とか神々しくも美しすぎるでしょう?
都市的アイドル人工整形美よりも、田舎の土着のまがまがしさをまとう、
父が母を殺して姉が自殺した天涯孤独な少女の美しさのほうがまさっている。
だから、柳美里は美しく現代まれなる文豪だったのだが、
40歳まえに自殺してほしかった。
そうしたら永遠の美が保たれたことだろう。
柳美里は太宰を裏切り老醜と生活を選択した。こうなったら百歳まで生きろ。

死と生をあわせもったものが美しい。
醜と美をあわせもったものが美しい。
ならば、女性性と男性性をあわせもったものもまた美しいのではないか?
河合隼雄は「とりかへばや物語」を例にあげて論じる。

「男と女の役割として固定的に考えられていることが、
いかに交換可能であるかを。この[とりかへばや]物語は示している。
そして、男と女という明確な区別として信じられているものが、それほどではなく、
その境界の崩れるあたりに、グロテスクすれすれの、
この世ならぬ美が存在することも示してくれる」(P156)


シェイクスピア劇に登場する男装の麗人ほどエロいものはないでしょう?
「十二夜」とか危なすぎる(お読みになるなら、ちくま文庫の松岡和子訳で)。
芥川の「奉教人の死」はおもしろすぎるのではありませんか?
太宰の女性文体小説は神がかっていて身震いするほどである。
太宰の短編小説「恥」を読んで男が40まえに死なねばならぬ理由がわかった。
あんな男を長生きさせちゃいけません。
わたしもジェンダー的には有名人で、匿名掲示板の女神的ネカマだった。
文学板のレジェンドが男性さまからいくつのラブレターをもらったかは秘密ね。
自称男性の匿名人から逢いたいといわれ、場におもむいたら女性だったこともある。
まえから書いているが、美少女とタッグを組んで、ゴーストライターをやりたいんだなあ。
小説が売れるか売れないかは、作者の顔だと思う。
我輩の天才的ネカマ経歴と美少女をからませたら文学バブルはまだ起こりうる。
おれ、女々しいから、ねちねちしていて女性よりもおんなおんなしていますよ。
顔に自信がある美少女にはビジネスチャンスを当方に賭けてほしいと思いますですね。
とはいえ、どう願ったとて人生はままならぬ。
ご子息も大出世してNHKで大評判の故人、河合隼雄先生はこうおっしゃっておられます。

「人間は幸福になろうと意識的努力をする。しかし、それではどうにもならない。
もっと偉大で強力な「ものの流れ」とでも言うべきはたらきがあり、
それに抗することはできないのだ。
ただ、その流れに触れ、その存在を認識するとき、
人間は大いなる納得や安心を得ることができる。
そのような深さに到達する道として、
人間には夢[オカルト/神秘信仰/スピリチュアル]というものがある」(P173)


わたしが師匠の原一男先生に再会したくないなあ、
と思うのは、あの人が努力教の熱烈信者だから。
自分が成功したのも多くのメスに射精しえたのも名誉、地位、勲章すべてが、
自分の努力の結果だと思っているようなところがある。
じゃあ、そういうものと現在は縁がない当方は努力をしていない怠け者ってことになる。
運や時勢、風向きを考えられない成功者はどうしてあんなに傲慢になるのだろう。
一介の高校数学教師に過ぎなかった河合隼雄が日本を代表する大学者になれたのは、
努力もあるだろうが、努力以外の大きなちからがあったからである。
河合隼雄はそれを知っていた。だから、大学者なのである。
氏は歴史学者や文芸評論家、文系学者ににちくりとやっている。

「後世になって、平成の時代によく読まれた『失楽園』(渡辺淳一、講談社、一九九七)
という小説を研究し、
平成の頃はほとんどの人が不倫をしていた、
などと結論されると困るのと同じかも知れない」(P143)


主に文藝作品から過去の世相を判断しておられる「もてない男」の
小谷野敦先生はこういうブチマケ本音についてどう考えているのでしょうか?
当方はツイッターのやり方を知らないので、からむこともできない。
いまは男根もしなびたであろう団塊世代の原一男先生でさえツイッターをやっているのに。

「ほとけさまの知恵袋 新釈仏教寓話集」(ひろさちや/講談社)

→仏教小説(仏典)でいちばんおもしろいのはなにかと問われたら、
わたしはジャータカと答える。
ジャータカは釈迦の本生譚(過去世の物語)でもっとも娯楽性が高いと思われる。
よく法華経は文学的と言われるが、それは認めるとしても、おもしろくはないでしょう?
さらに難解な部分もあり、子どもに理解できるかと言ったら怪しい。
ジャータカは絵本にもできるような平明な物語だから、
あるお話をうかがったとき真っ先にジャータカを思い浮かべた。
ジャータカは、釈迦は過去世でこんな善行をしたから釈迦として生まれたんですよ、
というお話である。もっとも有名なのは捨身飼虎(しゃしんしこ)ではないか。
むかしある国の王子が飢えた虎を見つけた。
虎は出産直後で弱っているため動けないようだ。
赤子の虎たちは母虎にしがみついているが乳すら出ないようである。
これを見た王子は自分が餌になろうと虎のそばに横たわる。
しかし、虎は食いついてくる元気さえもうないようだ。
そこで王子はどうしたか? 高い木の上まで登り、
そこから虎の近くめがけて飛び降り自殺をした。
虎の母子は王子の肉片を食い、生きのびることができた。
この王子はじつのところ釈迦の過去世の姿であったという。

一見、美談のように思えるが王子の父母やきょうだいのことを考えると痛ましい。
自死遺族の辛さはいつの世も変わらないはずである。
両親にしてみたら、とんだ親不孝をしてくれたということになろう。
じつは弱った虎を見たのは王子だけではなく、兄ふたりもいたのである。
兄ふたりは無視したが、王子は一度城に戻ってから現場に引き返した。
王子のきょうだいは自死遺族の苦悩のみならず、
一生自責感のようなものを引きずることだろう。
果たして王子の行動は善だったのか悪だったのかわからないのである。
ひろさちや氏は本書でさらなる新解釈をしていて、そこがおもしろかった。
氏いわく、これで虎は人肉食のうまさをおぼえ人を襲うようになったのではないか。
もしそうなったとしたら、王子は間接的に殺人さえしたことになる。
それが王子の母だったりしたら二重、三重の親不孝である。

上祐史浩の本で読んだが、
この考え方はオウム真理教の殺人肯定の論拠ともなっている。
関連図書に記事を紹介しておきますので、関心ある方はお読みください。
ひろさちや氏といえば「デタラメ・あきらめ・いいかげん」を説いている。
世界はデタラメだから、そこはきちんとあきらめて、ほどほどいいかげんに生きましょうや。
これは経験的に正しいと言わざるをえない。
もう表現者になるとかあきらめて、
いいかげんに底辺生活者として寿命をまっとうしようと思っていたら、
夢のような話が舞い込んできたのは世界がデタラメだからとしか思えない。
ひろさちやさんはわかりやすいけれど、浅いんだよなあ。
まあ、浅いレベルにとどまっているから多くの読者に支持されているのだろうけれど。
もう少し深い仏教世界に入って物語を引き上げてこれないかと考えている。
そういうインスピレーションみたいなものは努力ではなく偶然だから難しい。
決して毎日遊んでいるわけじゃないんですよ。
いや、遊んでいるほうがいいのかもしれないのだから、この世界はデタラメだ。
デタラメとはどういうことか。

「わたしたちは、よく、Aが正しいとすればBは誤りだ、と考えます。
しかし、それはよくない考え方です。
実際にはAもBもともに正しいことがありますし、
ともに誤っていることもあります。いや、そのほうが多いでしょう。
Aが正しくBが誤りというケースは、むしろ少ないと思います」(P40)


論文ならば自説の正しさを証明しなければならないが、
物語や小説は正しいも誤りもないし、
しいて言うならばどちらも正しいし、どちらも誤っている。
しつこく粘着するが、正しい百点満点の小説があるかのようなことを説く、
早稲田の渡部直己セクハラ教授はまったく万死に値する。

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