河合隼雄ではないがウェルメイド、よくできているなあと世界に惚れ惚れする。
わたしは映画監督の原一男教授にたいへんお世話になったが、
その6、7年後に先生のレイプ未遂を穏便に治めるという意味で恩返しをした。
もう原さんと逢うことはないと思っていた。
原さんも多くの教え子のひとりであるわたしのことなど覚えていないだろう。
そりゃあ、あれほど真剣に向き合い強い影響を受けた人だから
覚えていてほしかったけれど、そうは甘くないというくらいは世間を知っているつもり。
と思っていたら、本名も知らないブログ読者、
Sさんからいっしょに原一男の映画を観に行かないかと誘われる。
最初は断ったが、翌日こちらからお願いしたのは、
じつのところ星占いの影響だったのである。
わたしは当然、原先生が自分のことなんて覚えてないと思っている。
よくあるおっさん顔で特徴もなく貧相な外見である。
ところが、側近のおひとりが原先生にこのブログの存在を教えてくれていたのである。
もうドラマティックというかサイコーのお芝居ではありませんか?
最初の「ニッポン国VS泉南石綿村」では向こうも喧嘩腰に来て、
こんな人だったかなあと思う。

次の「ゆきゆきて、神軍」でも近くで顔を合わせたが、原先生が笑っているのである。
こちらも当然、かつての師匠だし笑顔で返した。
あれ? もしかしてわたしのことを思い出したの? とヒヤリとした。
(実際は前日かだかに側近がブログを教えていたらしいのだが)
「(さっきのはダメだったが)この映画(「神軍」)はいいの?」と例の原スマイルで。
緊張してなんと答えたかは覚えていない。座席は原一男先生の真後ろ。
「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三をいちばん大声でヤジったのはわたしだろう。
よくできているなあ、と神さまや仏さまめいたものに感謝したくなる。
星座(コンステレーション)のように布置がうまくできすぎている。
他力でも自然でも大日如来でも阿弥陀仏でもいいが、
絶対この世界の裏側にはなにかあると改めて確信する。
今年は橈骨神経麻痺に始まり、ミャンマー、空海、ハロワ、短編小説ご依頼と盛り沢山。
まだ8月なんだよなあ。時間の流れるのが遅すぎる。
うそくさいだろうけれど、みんなにありがとうって言いたいよ。
昨日さジェイコムの録画番組、全151が消えていて死ぬかと思った。
未視聴の山田太一ドラマや山田太一推薦映画がたくさんたまっている。
ジェイコムに電話したら機械を再起動させるだけでデータが完全復活した。
ありがとうがうそじゃないってわかるでしょう。みんな、ありがとう。
コメント欄で匿名の原一男シンパにたたかれているのが悔しくて書く。
映画監督の(高卒)大学教授の原一男さんって、弱いものには強い人なんだよねえ。
たとえば、柄谷行人、宮台真司、四方田犬彦にはペコペコする。
なんでも試写会参加の四方田犬彦(……だれだか知りません)には近刊で
近作の「ニッポン国VS泉南石綿村」をボロクソにけなされたらしいけれど、
毎日のように拝読して勉強になっているとか謙虚ぶっている。
1800円払ったわたしが「つまらない」と言ったら、
「おまえの根性が悪い。早く帰ればよかっただろう」と権力的に指導する。
若い女の子には非常にやさしくレイプ騒動まで起こしているのに、
フェミニズム団体からはたたかれない。
それが悪いというのではなく、弟子たるわたしも「弱いものには強い」が、
学歴もなにもなく真の底辺から社会的上昇を果たした原教授は、
本当に驚くほど「弱いものには強い」――。
「ニッポン国VS泉南石綿村」でお客が自分より弱いと見たら「帰れ」。
「ニッポン国VS泉南石綿村」で登場した公務員が弱そうだと見定めたらたたく。
厚生大臣は(生来の性質からか計算したのか)たたかない。
原一男監督は「舐められたら終わり」という生活者の真実をよく知っている。
わたしが原先生や側近からブログコメント欄で攻撃されているのは、
舐められているからだろう。おまえは大学教授に勝てるのか?
レイプだなんだと言っても、おれたちの権力を舐めるなよ!
いくらでもそんな情報は揉み消せる立場に我われ権力者はいるんだぞ。
かっこいいぜ、原一男先生! 白状するが、あらためて……大好きだ♪

土屋顕史(080-5188-7357)
yondance1976@gmail.com
数日まえ、大恩ある原一男ドキュメンタリー映画監督のご作品を、
小柄ながらもすばらしい映画館で鑑賞するという幸運を得た。
気づいたのは、原先生の映画ってほぼ「いじめ」ではないか?
最新作「ニッポン国VS泉南石綿村」はほとんど「いじめ」の映画でしょう?
自称アスベスト被害者たちが下っ端役人を集団で囲んでいじめる光景にはぞっとした。
お役人さんは立場上、被害者原告団には逆らえないのである。
そのことをわかったうえで無力な公務員を、
権力者の大学教授、原一男とタッグを組んで攻撃するのは「いじめ」にしか見えない。
「いじめ」の善悪も、「いじめ」ほど楽しいことはないという真実もここでは問わない。

原一男は「いじめ」映画作家である。
男の出世作「ゆきゆきて、神軍」もひどい「いじめ」映画である。
いちおう建前の「正義」は部下不当処刑、人肉食を追求する奥崎謙三や原一男にある。
それを知っているから奥崎と原一男撮影グループは対象を
「正義」の名のもとに集団で囲み威圧するのである。あれは「いじめ」だろう。
「正義」という美名があれば、
「いじめ」をしてもいいというのが原一男作品の本質ではないか?
現実にうちのような過疎ブログにも原一男の手下から匿名での集団攻撃を受けている。
うち「本の山」は実名も電話番号も公開していますから、
できましたらそちらも実名でメールかあるいは電話でとお願いしても、
原一男の「正義」の「いじめ」軍団は匿名批判にこだわり勝利を喝采する。

原一男事務所には電話がつながらない(金欠のためとの情報もあり)。
原先生もわたしの「最新作がつまらない」という意見を、
「あなたが劣っているからだ」というほぼほぼ権力者の理論で片づけ、
その後は取り巻きの美少女といちゃいちゃしていた。これも「いじめ」と言えなくもあるまい。
わたしは原一男先生や「正義」の「いじめ」を否定したいわけではなく、
世の中そんなもんだよなあ。彼は勝った。勝利者はレイプでもなんでもしていい。
世の中はそんなもの。人生そんなもの。人間なんてそんなもの。
今日もまた原先生は取り巻きにちやほれされ、
いっぽうのわたしは孤独に餓えいている。人生なんて、そんなもんだ。
「いじめ」は「正義」。原一男教授は「正義」。悪いのはわたし。ぼく……泣かないもん。

批判を実名でブログコメント欄ではなく、メールや電話ですることができる、
いまの原一男先生のお弟子さんはいらっしゃらないのでしょうか?
レイプネタの詳細を聞きたい原一男信者の方もお待ち申し上げております。

土屋顕史(080-5188-7357)
yondance1976@gmail.com
ブログコメント欄で神軍平等兵と名乗る、
匿名の平成の兵隊さんがいうことが正しいならば――仮想の話だ。
師匠が本当に「本の山」を少々でもお読みくださっていたなら、
なおかつそのことを当方が把握していれば、
原一男先生とわたしの再会は美談で終わったと思う。

「よお、土屋、久しぶりだなあ」
「相変わらず先生はお元気そうで」
「どうだ? 食えてるか?」
「まあ、ぼちぼち、おかげさまでなんとか」
「そうか。よかった」
「先生のほうはどうですか?」
「こっちもぼちぼちって感じだな」
「今日は先生の新作を観にきましたよ」
「ありがとうな。小林(奥さま)もいるんだよ」
「なつかしい。逢いたいです」
「あとでな」
「はい、よろしくお願いします。
 先生はご記憶ではないかもしれませんが、
 ぼくは原先生との約束を生きがいにしてきました」
「うん?」
「それは――」
「うん」
「かならず自分の表現をものにする」
「そうか」
「今年、ようやくチャンスが舞い込み、百枚くらいの短編小説を書かせてくれると」
「そうか」
「これで約束を果たせなかった先生との約束を20年ぶりに果たせるかと」
「約束?」
「20年近くまえ。早稲田の先生のゼミがありました」
「うん」
「そのときの課題は「私の表現したいこと(私の生き方)」」
「ふうん(覚えていない)」
「それを出せなかったのが、ずっと心残りでした。それをついに書けるかと」
「そうか」
「わたしの表現したいこと(私の生き方)」
「ううん」
「今日、先生に再会できて本当によかったです。ありがとうございます」
「いや」
「先生との約束を20年近く腹に抱えて生きてきました」
「そう」
「ありがとうございました」
「そこまで(の礼は)……」
「べつに駄作を郵送したりはしませんからご安心ください」
   弟子、ひとりよがりにも涙ながらに場を去る――。

「私はこの弟子のことは長らく記憶になかった。(奥さまの)小林(夫人)、覚えているか?」
「そういえばむかし、どこかで逢いました」
「あいつはあたまがおかしいんじゃないか?」
「あたしはそうとも思えません」
「なにがしたいんだこいつ?」
「原さんの蒔いた種よ」
「――」
「それが育って花が開く直前なんじゃない」
「そうか」
「そうよ」
「ずっとおれは自分のことしか見てこなかった」
「そんなことはない。あの人は、そのことの証明じゃない?」
「そうか」
「そうよ」

まあ、現実は思うようにはいかないというわけで。
11日、1回目上映後、足の不自由な小林さんが、ゆっくり下に降りてきた。
こちらは自分を覚えているかさえわからないし、
変なプライドもあるしであいさつさえできない。
そのまま静かに小林さんはエレベータで上に上がっていったが、
胸の奥深いところから込み上げてくるものがあった。あの時代をともに生きた。
そして20年近く、お互い、没交渉のまま、
しかしながらそれぞれ懸命に表現しようと生きてきた。我われは再会した。
しつこく述べるが、わたしは原一男先生の自称一番弟子である。
「神軍平等兵」とHN(仮名)を名乗る人物から、
「本の山」の「原一男レイプ未遂記事」をご本人に読ませたというご報告をいただきました。
原先生、恥ずかしかったんじゃないかなあ。
わたしのことなんて、すぐにだれだか思い出すって思うし、
自分を最高師匠とあがめていた弟子にレイプ未遂がばれていたことを知ったのだから。
ばれていたどころか事件を揉み消してもらっていた。
「神軍平等兵」さんは鬼だなあ。

わたしは原一男先生に救われたと言ってもよいが、こちらも先生の命を救っている。
わたしだって当時法律関係の知り合いくらいございましたから、
彼女に訴訟をすすめていたら当時60歳を超えていた原先生は無職無収入になり、
再就職先もなかっただろうし、慰謝料とかで首をつるしかなかっただろう。
そこを自称一番弟子で、
原先生にもっともお世話になった気がするわたしが抑えたと言えなくもあるまい。
もう10年以上まえだがそのときのわたしの姿勢で、原先生の運命は変わっていた。
裁判映画を撮るまえに、てめえの下半身の裁判沙汰はどうだって話だ。
原一男信者は多いが、このあたりの裏事情は本人も語るはずなく、ここでしかわからない。

法律的にはレイプはいけないことになっている。
それを原一男教授は奥崎謙三を真似たのか遂行した。
女性が「やめてください」と泣き叫んだら、
自分の男根を引っ込めたというからまだ仏心はあろう。
話を被害者から聞いたかぎりでは妙に手馴れており常習犯のにおいがする。
ホテル代節約のため獲物の女を疾走プロダクション事務所に呼び出し、
出口をふさいだうえでことにおよぶのが男の常習手口のようだ。
原一男氏は映像のプロなんだから、
隠しビデオで毎回の性交を撮影していた可能性も高い。
それを話に出されたら女性も被害を訴えられまい。
その原一男プライベート・セックス映像を観てみたいが、本人に土下座する覚悟はある。
レイプの善悪はわからない。
むろん、基本的には悪なのはわかっているが、それはこの世の法で天上の法ではない。
しかし、処女女子高生のレイプ近似被害を又聞きで聞いたことがあり、
レイプは断じて許してはならない罪悪だとも思う。処女をレイプするとかあんまりだ。

「神軍平等兵」を自称する匿名の原一男信者からのコメントがきっかけで、
このようなことになり、まさか再会はないと思っていた師匠にもふたたびまみえた。
くそつまらない最新映画を観ることで赤貧映画作家に募金することができた。
Sさんのすばらしさもわかった。
奥崎ではないが、天罰覿面。すべては天罰。
ブログの記事削除はひんぱんに行なっており、ご希望のかたはその旨を記したメールを。
無記名でもよろしいですが、ご記名のあったほうがもちろん好感触です。
「原一男レイプ総集編」とか出したら、ひと財産稼げるのではないかしら。
美少女と公衆のまえでいちゃいちゃ群れる老映画作家は、
この世の「はかなさ」を感じさせる。
ああいうおっさんになりたいぜ。それは天龍源一郎と原一男なり。
8月11日渋谷アップリンクに絶叫上映「ゆきゆきて、神軍」を観にいく。
日本初のドキュメンタリー絶叫上映。
「ゆきゆきて、神軍」はレンタルビデオで5回以上観ているし、
シナリオも数回読み直している。
理由は、なぜみんながこんなに称賛しているかがわからないからである。
映画主人公の奥崎のどこがいいのかわからないし、原一男映画の魅力もわからない。
人間・原一男の魅力はわかりすぎるほどわかる。だが、奥崎はわからん。
あらゆる裏話も読んだり、見聞きしたりもしたし、「神様の愛い奴」も観た。
ひとつのヒントになっていたのは、原先生から教わったことで、
当時の客はあれ(「神軍」)を観ながらゲラゲラ笑っていたぞ、というお言葉。
どこまで絶叫できるかなと鑑賞前にSさんと某居酒屋でメートルを上げていた。
いけなかったかもしれないが缶チューハイも持ち込んだ。
当方以外にも缶チューハイ持参者はいたから、まあ許される範囲だろう。
しかし、座席のB2がやばいのである。どうやらA2に原一男先生が座るらしい。
これではぶっ飛んだことを叫べないではないか。
さっきコメント欄を読んだら、恐れ多くも、
原一男先生は旧弟子の存在をご認識していたようだ。
だとしたら、あの座席関係は偶然だったのか、神の配列だったのか、仕掛けか。

わたしは原先生が自分になんて気づいていないと思っていたから絶叫し放題。
昨日、原先生のツイッターを拝見したら、絶叫がうるさい奥崎のようなやつがいた、
と書かれていたが、それはおそらくB2にいたわたしのことだろう。
原一男先生はスーパーヒーローものとして「ゆきゆきて、神軍」を撮影した。
いうなれば奥崎謙三はスーパーヒーローなのである。
わたしは奥崎をヤジり倒そうとねらって、酒まで持ち込んでいる。

映画開始。ノリがいいじゃないか。
Sさんから注意されたように、「場の空気」を読まなければならない。
どうやら大丈夫そうなのである。
平成最後の夏には奥崎謙三はお笑い芸人のような存在になっていた。
みんな奥崎にほんろうされる生活者に同情し、奥崎を愛すべききちがいとみなしている。
内容はほとんどあたまに入っているから、ヤジのかけ放題である。
奥崎をバカにする。死人に鞭打つ。自称英雄狂人をみんなでからかう。
こんな楽しい映画イベントは経験したことがない。
考えてみたら、わたしも奥崎的だよな。
原一男先生の真後ろに座っていながら、
先に暴力を振るった奥崎が負けて悶絶するシーンで、
「原さん(キャメラを)とめろ」とか背中越しにヤジっていたわけだから。
平成最後の夏、ほぼ観客の全員が
昭和の怪物である奥崎を愛おしみながら鼻で笑っていた。
奥崎って笑えるよなあ。原さんはいやそうだったが、
「ゆきゆきて、神軍」は絶叫上映がいちばん観客が楽しめるのではないか。
なぜなら主役は主演の奥崎謙三でも映画監督の原一男でもなく、
無名の我われだからである。無名の我われが主役や脇役になれる。
多少きこしめした当方は絶叫のしすぎでご迷惑をおかけしたかもしれません。

ずっと言いたかったのは、奥崎が元上官に一本取られたところでのザマアミロ!
言おうと公開前の約束になっていた「イッポン」を言うのも忘れず(常識あります)、
すぐさまザマアミロと続けたが、どのくらいわが声は館内に響いたか。
あの変な神秘主義者(巫女?)のおばさんもアナーキストも存在自体が怪しすぎて、
かつキャラが立っており、しかし人間の生死という問題をはらんでいるので、
どこかヤジりにくく彼らの狂信的なパワーとの勝負になる。
奥崎謙三が最終目的地(山田)のところに行くまえのフェリーでのヒーローシーン。
「カメラ目線」と女性のヤジがかかったあとに、
「疫病神」とわたしは絶叫したが、
どこまで8月11日の観客のご支持を得られたかはわからない。
わかったのはどこまでも脇役(あるいは小道具、草花、壁)
としての役目を求められる演劇や映画はおもしろくない。絶叫上映ばんざいだ。
ただし原一男監督は絶叫きちがいのわたしのまえにいたせいか、
もうあんまりやりたくないなあ、という感じであった。
下手をすると演出領域にもヤジを投げかけられ、
監督の自尊心が破壊されるデンジャラスな上映だ。
そこにまたまた自称一番弟子のわたしが行ったという、このたまたまの偶然性は、
Sさんのちからによるのか、神さまの手腕なのか、仏さまの手のひらか、
いろいろなものを考えさせられる。

アフタートークで原先生は言っていた。
奥崎謙三は撮影でいったニューギニアで、老齢ながらセックスに目覚めたという。
晩年の支持者に原さんが聞いた話だと、
奥崎はぼろぼろの身体でタクシーに乗り、ソープに行っていたという。
理由はセックスを求めてではなく、
だれかに自分の子どもを生んでほしかったからだという。
そのあたりがニューバージョンの「ゆきゆきて、神軍」書籍に書いてあるという。
Sさんはアスベスト映画後に買っていた。わたしは教養文庫版があるからパス。
稼ぎがよくなり彼女もでき、いまが人生の花道であるSさんは「神軍Tシャツ」を買うという。
「あんなもんどこに着ていくんですか。恥ずかしいっすよ」
「サインを入れてもらって部屋に飾っておくだけでもいいんです」
だったらとSさんにお願いした。サインを入れてもらうときに、原さんに聞いてくれませんか。
「いま原さんの生きているお子さんは何人いますか?」
Sさんは「神軍Tシャツ」3500円が高いと買うのをやめてしまった。
どれだけお金がないんですか、原一男先生! 
原価数百円の「奥崎Tシャツ」を3500円って……。
それに晩年の奥崎謙三は原一男を殺そうと思っていたという話も聞くし、
そんな奥崎謙三をプリントアウトしたTシャツを3500円で売ろうなんて、
あなたはどこまで……。あなたはどこまでキ、キ、鬼畜なのか……。
やはりわたしは原一男の自称一番弟子であり、それを誇らしくも恥ずかしくも思う。



*うわさの「神軍Tシャツ」はアマゾンでは取り扱いしていなかった。
原一男さんのファンである睡蓮みどりさんという美人作家が、
ネット記事で原さんの疾走プロダクションを「失踪プロダクション」と書いていて、
なまなましいリアル性を感じた。もう電話は復旧したのでしょうか?
この記事はすぐ消します。
「失踪プロダクション」って、あなた天才美人作家だよ。
ツイッターがあればからめるのか。
映画関係者からコメントをいただきましたが、
原一男名義のおコメントはご本人がお書きになったのでしょうか?
教えてください。よろしくお願いします。ありがとうございます。
レイプ疑惑に関しても記事の削除をふくめて対話しましょう。
わたしは同姓同名の有名アイドルがいる女子から、
原さんにいきなり押し倒されうんぬんの話をうかがいました。
関係者が匿名(神軍平等兵)ってずるいような気もしますが、
わたしは高貴な表現者ではなく、生活者以下の乞食野郎なので、
そこにはこだわりません。この記事はすぐに消します。
恩師を真似てツイッターをすべきかどうか。
でもフォロワーなんて2、3人ついたらいいほうだし、
自分の意見を他人が興味を持っているとは思えない。
8月11日、原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」を鑑賞する。1800円。
アスベスト被害訴訟をあつかった3時間半にわたるドキュメンタリー映画だ。
終了後、質疑応答があったので恩師の原先生に質問する。
当り前だが、大勢の教え子を持つ大学教授はわたしのことを覚えていなかった。

わたし「土屋と申します。3つ質問があります。簡潔で結構ですのでお答えください」
原先生「私の話は長いからねえ。ひとつひとつ頼むよ」
わたし「この映画は退屈で上映期間中、早く終われとそればかり考えていました」
原先生「――」
わたし「これはわたしの人生観、映画観、芸術観がおかしいのでしょうか?」
原先生「そうだね。それはあなたがおかしい」
わたし「わたしが間違っていると?」
原先生「そう、あなたが間違えている」
わたし「――」
原先生「あなたは事前に思い込みやなにか既成概念があってこの映画を観たのでは?」
わたし「――」
原先生「全身をすみやかにして、そのままこの映画を観たら楽しめないはずがない」
わたし「わたしが間違えている」
原先生「そう。あなたが間違えている」
わたし「――」
原先生「どうして帰らなかったの?」
わたし「――」
原先生「つまらなかったら帰ればいいじゃない?」
わたし「――(1800円がもったいない)」
原先生「帰ったほうがよかったと思うね」

原先生「ふたつめの質問は?」
わたし「この映画は原教授と小林教授がおつくりになった」
原先生「はい」
わたし「大阪芸大の教授といえば権力サイドの人間でしょう」
原先生「――」
わたし「そういう権力サイドの人が反権力のサイドにまわって映画を撮るのは、
 おかしいというか、(勇気を出して)ええかっこしいが過ぎるのではないでしょうか」
原先生「あなたはね、知らないでしょうが、教授の仕事というのはね、
 カリキュラムにそって教えるとかで、権力とかぜんぜんそういうものではない。
 だから、権力とかそういう考えはぜんぜんなかったね。
 それは撮影しているときにそういうことを感じることはあったけれども、
 あなたの意見は的外れだ」
わたし「――」
原先生「みっつめの質問は?」
わたし「下品な話で恐縮ですが、
 (国に勝訴した)原告団の分配金はひとりいくらだったのでしょうか」
原先生「これは私ではなく(トークショー相手の原告団代表のひとりに話を振る)」
代表「900万円ですね。(あとは長いので割愛させていただきます)」

あとで同行したSさんから何度も、あの場でああいう質問をしちゃいけませんよ、
と指摘され、そういうものなのなのかとみずからを恥じた。
Sさんいわく、個人的に一対一の関係で言えばよかったじゃないですか?
「場の空気」があの瞬間に壊れましたよ。
そうそういったん質問が終了したあと、原先生からつけたしのように聞かれた。
「なら、あなたはどんな映画が好きなの?」
「……山田……太一作品です。……テレビドラマですが」
そのとき、こいつはバカじゃないか、
と見下した国際的受賞歴華やかな原教授の一瞬の表情の変化を見逃さなかった。
これは当方の錯覚や被害妄想だったのかもしれない。

ひとつ恩師から17年ぶりに学んだことは、自己愛をいかに高めるかの重要性だ。
自作を1800円支払って観てくれた客に「つまらない」と言われても、
「それはあなたが間違えている」と返す強烈なまでの自信、自己信頼、自己愛。
自作をわからないほうがおかしい。
こういうプライドは大学教授を数十年やっていないと持てない気もするが、どうだか。
わたしも今年、金銭的必要から短編小説をひとつ書くが、
売れるとも思っていないし(それでいいとおっしゃっていただいている)、
「つまらない」と言われたら「ごめんなさい」と謝ってしまいそうだ。
しかし、師匠の原先生いわく、そういう姿勢ではよろしくない。表現者として勉強になった。
最終講義がこの日に終了したのかもしれない。ようやく卒業式を迎えた。

「ニッポン国VS泉南石綿村」の感想は「つまらん」のひと言に尽きるが、
生産性のない言葉を残しておこう。
なぜかネットには絶賛記事しかないので、わずかながら意味もあろう。
まず3時間半は長すぎる。
あれは金銭を徴収する作品ではなく、金品を与えて観ていただく類のプロパガンダ映画。
前半はアスベスト被害者の悲惨なインタビューと死がワンパターンに繰り返される。
国家公害に苦しまされている自分たちってなんてかわいそうなんだろう。
そういう被害感情演技がわざとらしく見ていられない。
それを撮影して国家権力と闘っている自分って格好よくないかという、
撮影者の原一男監督のケチな英雄根性が透けて見え恥ずかしい。恥ずかしくないのか?
ときに被害者の庶民くさい思い出話(飲む打つ買うをやったとか)が挿入されるが、
これまた映画監督の計算が丸わかりで、こんなシーンに計算通りに笑えるかと白ける。
被害老婆のお風呂シーンとか、これで「真実」を撮影しているつもりなら認識が甘い。
障害者(脳性マヒ)の青年を路上で全裸にさせた青年時代から、
原一男の表現者根性は成長していない。
そんなものは反権力でも表現でもないと個人的には思う。
前半は被害者のインタビューばかりで、それぞれの人生があるのはわかるが、
ワンパターンで興ざめした。
横(A2)で泣いていた若い女性がいたが、あたまがおかしいんじゃないかと思った。
もしくはいまの原一男さんの愛人のひとりなのかもしれない。

休憩をはさんだあとの後半は――。
前半で長々と被害者意識を観客に植えつけておいたうえでの原告団の活躍である。
国家権力に戦いを挑んでいる国家権力の恩恵をこうむる原教授は格好いいなあ。
反権力、反体制の闘う表現者・原一男(しかし大学教授先生)。
わたしが確認できたのは1回だけだが、被害者も原さんのことを先生と言っていたから。
原一男は裁判を有利に運ぶための大学教授という権威を持った助力者だったのである。
アスベスト被害者たちが傲慢に被害者ぶり、
群れて集団で無力な少数の下っ端公務員を取り囲み詰問するシーンは。
いじめを助長する意思でもあったのか?
ふたりのまじめそうな若い役人に
連日集団で罵声を浴びせるシーンは見ていられなかった。
アスベスト被害の責任はいまの公務員にはないだろう。
それをわかっているはずなのに(わからないほどバカなのか?)、
無力で少数の決して自分たちに逆らえない公務員をいびる原告団は、
あたかも正義の仮面をかぶった悪鬼の群れのようであった。
正義のためならなにをしてもいいという阿修羅集団の面相を喜々として原は撮る。

原告の代表のひとりが弁護士と衝突するシーンは、
映画にするため(「絵」をつくるため)に
わざと原が双方をあおって(仕掛けの結果)撮影したのではないか。
弁護士とは法律の枠内において正義を実現させることを考える。
しかし、それではラチがあかない場合もある。
ならば、法律を超えて(たとえば奥崎謙三のいうような)
「天の法」に従ってもいいのではないか。
単純思考しかできない原一男はこの映画でも、
(結果的に彼を成功者(映画賞、教授、有名人)にした「ゆきゆきて、神軍」の)
奥崎謙三役を引き受けてくれる人を必要としたらしく、
原告団の代表のひとりをキャメラであおり、弁護士や警察に逆らい、
どこかの官邸(首相官邸?)に単独侵入させようとするが、自作の焼き直し感は否めない。
しかし、こういうシーンを評価するものも多いらしく、バカじゃないかと思う。
A1の席にいた美少女は原の新しい愛人か、
トークショーではやたら監督といちゃいちゃしていたが、
この少女が奥崎もどきの原告を英雄視しているようで、
若者は変なハシカにかかるときがあるのだと苦々しく思った。

たまたまそういう仕事に携わりアスベスト被害に遭うのは運が悪いとも言える。
ほかにも偶然のたまたまで運悪く難病にかかるものも大勢いる。
そういう人たちは国家からの賠償を受けられないが、
アスベスト被害者は正義面をして被害者意識を全面に出して国に抗議できる。
後半もまた退屈で仕方がなかったが、金の話がまったく出て来ないからだと気づく。
治療中の人はどこから医療費が出ているのだろう。
働けず食べていけない人はどの金で生活していたのか。
最後の最後で金の話が出てくるが、そこまでは一切出て来なかかったから、
これは表現者を自称する原一男自主映画監督の生活能力の欠如の問題だろう。
結局勝訴して、原告たちはひとり約900万を手に入れるのだが、
金額に不満を持ったものもいたという。
ときの厚生大臣が公式謝罪したり、遺族を訪問する。
そのときの生活者(庶民)の無邪気な喜びを、
原はわざとらしく批判的なコメントを入れながらインタビューするが、
下層民出身の原一男は、
数十年にわたる大学教授生活でこころから生活者意識が消失したのだと思われる。

この映画を観て感動するとはどういうことだろう。
被害者の悲惨な様子を観て泣けば感動したことになるのか?
勝訴して大臣の謝罪を受け、無邪気に喜ぶ無学で素朴な庶民の姿を、
嘲笑あるいは共感すれば、この映画に感動したことになるのか?
映画評論家は挙国一致体制でこの映画をほめているし称賛の嵐は増すばかりだが、
50人しか入らない観客席にいたのは多くカウントしても30人で、
いびきをかいているものもいた。
トークショーでバカな庶民が大学教授の映画監督に「おもしろくない」と言ったら、
巨匠は「それはあなたが間違っている」と怒った。
わたしはべつに怒られているとは感じなかったが、
同行したSさんによると、
「原さんあのとき怒っていましたよ。もうああいうことはしないほうがいいと思います」

わたしがなにを言おうとだれも耳を貸さず(アクセス数なんてゼロに近い無名ブログ)、
かわいそうなアスベスト被害者を大学教授が撮影した「ニッポン国VS泉南石綿村」は、
反体制的で反権力的なマスコミ受けする名作映画で、
いままでも多くの映画賞を受賞しているが、
これからももっともっと世界中から映画賞を奪取し、作者である原一男の名前を高め、
新作を要望するファンもいや増しに膨れ上がることであろう。

原一男「この映画のよさをわからない人は間違っている」

(関連サイト)
「挑発するアクション・ドキュメンタリー 原一男」
↑現在絶賛上映中↑
人間のいちばん醜悪な行為は、群れて馴れあい互いを褒めあい、いっときの孤独感から解放されることだと思う。70歳を超える映画監督がなんの学識もなさそうなグルーピーと公衆の面前で親密な関係をアピールしているのは見苦しかった。群れて馴れあう。しかし、これが政治の原初風景かも知れぬ。あいどんという匿名の山田太一古株ファンの老人も、周囲におばさんを集め、群れて馴れあうのが好きだった。わたしは醜い男性だったので、あいどん師匠や側近から嫌われ追放処分。創価学会も基本は群れて馴れあうだ。公明党も群れて馴れあう創価学会のちからなくしてはなにもできない。よく知らんが、田舎の人間関係は群れて馴れあうものだろう。つまり、政治とは群れて馴れあうこと。原一男監督のことを孤高な人と見誤っていた当方は、師が過剰なまでにお仲間と群れて馴れあっているのを目撃してショックだった。しかし、生きるとはそういうことなのだろう。男は群れ(村)をつくり複数の女を確保し、村の暗黙の掟に従わないものには「帰れ」「去れ」。20年前の尊師はそうではなかったが、いまの巨匠教授は群れて馴れあい、異分子は「帰れ」「去れ」。ここは俺の村だ。村の掟を知れ。村の定めは日本国憲法よりも上だ。ここではレイプもセクハラもなく上納女と、それ以外の村八分女にわかれる。俺の村だ。俺が法律だ。なぜなら俺は海外映画賞を無数に取り(池田大作的!)大学教授で、なにより取り巻きが大勢おり、群れて馴れあう中心は俺だからだ。俺は偉い。俺を批判するものは許さない。俺の映画をつまならない? なら途中で帰ればいいだろう。そんなこともわからないのか。俺は国際映画賞作家だ。俺は偉い。俺は毎日のようにお仲間と群れて馴れあう。俺はいい気分だ。俺の村は平和だ。奥崎謙三も死んだから俺は殺される心配もない全身映画監督だ。ゆきゆきて、群れて馴れあう。俺は俺だ。俺に逆らうな。なぜなら俺は俺だからだ。奥崎は天罰で死んだが、俺は元気満々、自信満々。天の法律に守られているからセクハラもレイプもない。群れて馴れあうことのよさを老年になって知った。ツイッター。毎日楽しい。ツイッター。不幸なやつは天罰で、取り巻きと群れて馴れあう俺は毎日が極楽だ。俺は百二十歳まで生きて俺の映画を撮り、くだらん新人はつぶす。ゆきゆきて、原一男。
昨日、原一男先生の「ニッポン国VS泉南石綿村」と絶叫上映「ゆきゆきて、神軍」を
大嫌いな渋谷にある小さなしかし良質な映画館で鑑賞しました。
これはもうすべてSくんの手柄だな。
わたしが原一男監督と再会することはもうないと思っていたが、
それを変えたのが「本の山」読者のSくんである。いきなり携帯に電話が来た。
S くんとはじめて会ったのは去年らしい。
8月に踊り念仏の一遍上人ゆかりのあるお寺に行こうかどうか迷っていたが、
結局行ったのだが、その移動中にSくんからはじめて電話があった。
基本姿勢は原一男先生とおなじで、来るもの拒まずである。
わたしより10歳以上年下のSくんと逢ったが、よく意味がわからなかった。
金がないとピイピイしていたので、
強制連行したサイゼリヤではわたしが少し多く払った記憶がある。
Sくんは用心深く、名字だけで名前を教えてくれず、
若い人はそういうものなのかなあ、と思った。

いつだったかいきなりSくんから電話がきたことがある。
23時まえだ。
チベット旅行に行かないかというのである。金は自分が出す。
もしくは原一男先生と再会しないか。
なんでも300万円で原先生と映画館を借り切って映画を観るという、
疾走プロダクションのダメ企画があったらしく、それにふたりで行かないかと。
困惑したわたしは詳細がわかったら教えてくださいと返答したと思う。
原先生に逢うのだったら電話したら、数分くらい逢ってくれるでしょうと彼に伝えた。
300万円も払うことはない。

さて、ここからはSくんではなくSさんになる、なぜなら感謝しているからだ。
もう原教授や奥さまの小林教授に再会することはないと思っていた、
でも、28歳のSさんから不思議な電話があり、一度は主義を守ろうとお断りした。
しかし、翌日どうしてかわからぬが考えが変わった。
フルネームを知らぬSさんに電話をして、いっしょに行ってくれませんかと。
こうしてわたしと因縁深い呪縛的関係にある原一男夫婦との再会と相成ったのである。
最初は「ニッポン国VS泉南石綿村」で、
そのあと3、4時間後に「ゆきゆきて、神軍」絶叫上映である。
飲もうぜ、店はSさんが選んでくれと師匠気取りであったが、
居酒屋は苦手な24時間営業の某チェーン店だった。
おごってくれるという。果たして28歳の若者に総額7千円もおごってもらっていいのか。
去年逢ったときは金欠でピイピイしていた記憶しかないのだが、
ある意味で専門職であるSさんは職場をかえ、収入も増え、
同僚の2歳年下の彼女もできてハッピー感がうかがえたので、
いいのかなあ、いいのかなあ、と最後まで思いながらご馳走になった。
奥崎謙三くさいインチキ霊言者めいた言葉を発しますよ。
「わたくしと逢った人ってそのあとかならずといっていいほど運がよくなります」
実際そうなのだが、それを証明しろと言われても困る。

みなさんがわずかでもご興味をお持ちでいらっしゃるのは、
「ニッポン国VS泉南石綿村」鑑賞後の恩師と自称一番弟子の質疑応答でしょう。
しかし、それはしばらく隠しておきたい。
わたしにとっては本当に深い意味のある問答で、悪罵でもなんでも可能だが、
これはしばらく寝かしておきたい。
まあ、それをリアルで目撃、聴聞できたSさんおよび、観客30人の報酬と言いますか。
「ゆきゆきて、神軍」絶叫上映のことも今日は書かない。
ツイッターとか人を精神的に貧しくさせるだけだと思う。
思ったことを(まったく寝かさないで)すぐその場で言って仲間と共有しあうなんて、
孤独を必要とする創作行為とは正反対に位置するだろう。
原さんもツイッターなんか辞めたほうがいいと思うが、
もう他人の意見は聞かない巨匠にそれを言っても仕方がない。

Sさんは昨日、
ものすごくおもしろいドキュメンタリーを距離1メートルで目撃した可能性がある。
わたしが恩師の原一男先生と17年ぶりくらいに再会したんだから。
正直、Sさんと去年、一遍の寺で逢ったときは、なんだこいつと思った。
名字だけしか言えないとか、それはないよなあ。
しかし、昨日不思議な因縁がわかり、出逢いの複雑性の無知を恥じた。
Sさんだって原先生の映画を、
自称一番弟子のわたしを通じて鑑賞することができたわけだからこれも不思議な縁。
昨日のことは書かないことに意味があるのかもしれない。
まあ、明日書いちゃうかもしれないけれどさ。
いろんなことをいまでも考えている「特別な一日」でございました。
原教授の奥さまの小林教授にご挨拶できなかったのが当方の未熟です。
おそらく勘違いでしょうが、小林教授とは一瞬の心のつながりがありました。
生きているもんだなあ。Sさん、小林教授、原教授、昨日は本当にありがとうございました。
あれからほぼ泣きつづけているといってもよい。


※Sさんの強いご希望により掲載↓「言いたい事も言えないこんな世の中は」


正確には日本初のドキュメンタリー絶叫上映。
絶叫上映なんて聞いたこことはないし、ネットで言葉を調べてもわからない。
漢字の意味から察すると、上映中に絶叫してもいい映画ということになろうか。
わたしはむかし小石川に住んでおり、後楽園ホールにプロレスをよく観にいった。
なにがおもしろいかといったら小中生のころに聞く、観客席のおやじのヤジなのである。
絶妙なタイミングでポイントの正面を突いたヤジを発する技能は天才的でみな笑った。
とはいえ、どのヤジおやじも世間的には報われていなそうな人ばっかりだったのが、
少年期の悲しい想い出だ。
うまいヤジがプロレスをおもしろくしていた時代があった。
わたしは天龍VSレイジーラモンHDの試合以降なまでプロレスを観戦したことがない、
映画もイラン映画「別離」が最後だろう(山田太一推薦でした)。
わたしのヤジは後楽園ホール仕込みの人間国宝級とも言えよう。
小学生、中学生が熱心に1500円の立見席で天龍源一郎を応援した。
ヤジは自然におぼえたといってよい。
いつしかプロレスからはヤジの文化が消え、まるでアイドルの世界のようになった。
演劇でも映画でも博物館でも芸術館でも、
ヤジは下品と廃棄されるがむかしのプロレスはそうではなかった。
いったい絶叫映画というのはなんなのだろう?
一杯気分でないと非常識なヤジなんか飛ばせない。

むかし一遍の寺に同行してくれたSくんが絶叫映画のチケットを取ってくれたという。
いまわたしは文豪モードだから、
一杯飲み屋(激安酒店)のあっせんもSくんに期待している。
Sくんがわたしのことを何度も「土屋先生」と言ったのには、
そのたびに繰り返し吹き出したが(くつくつ笑ったという意味)、
先生たる我輩を若者たちが重んじても、もういいだろうというわが年齢でございます、
果たして明日の日本初(?)の絶叫上映はどうなるか?
「もっと過激に、もっと自由を」と教えてくれた先生がかつて早稲田にございました。
先生の呪いと真正面から向き合う日が明日である。
Sくん、才能あるんじゃないかしら。出世してぼくを支えてくれ。
ああ、いまでも土屋先生と呼ばれている。恥ずかしいったらない。
おれが先生かよ。がらじゃないでございますことでごありまする。
弘法大師の空海が24歳のときに「三教指帰」でもう言っているんだよね。
なにをって、いまではもう読むべき本が多すぎて追いつかない。
空海って平安時代の人よ。その人がもうギブアップしている。万巻の書は読めません。
平均的能力を有した会社員が1月に読める本は4冊でも多いくらいではないか。
とはいえ、駅ナカの書店には売れ筋の自己啓発書、成功談しか置いていない。
ことさら難解書物を読みたいわけでもなく、正直いまの労働環境だとそんな本は読めない。
テレビもスピードは速まるばかりで、いったいなにがなんだかわからない。
この人はどういう人物なのかと興味を持ったら、
とっくのとうにスキャンダルで消えていたりする。
だれも信じられないが、みんなそれぞれ正しいのは、いまの仕事環境からわかる。
頼みの綱はブックオフ・オンライン――。

「百年小説」(ポプラ社) 2050円

明治から終戦までの文豪の短編51篇が採録されているらしい。
既読のものも多く、横光利一の「機械」とか20年ぶりに再読したら、
どんな感想を抱くのか。
あのころは自分には作家にしかなれないと思っていたな、えへっ。
高額書籍ゆえ決め手はブランドである。
ポプラ社は百年文庫という短編小説全集を出しており、その採録作品がじつにいい。
とはいえ、百年文庫はブックオフでめったに見かけず、
価格も高いから売れていないのだろう。
2千円は高いが、ここはポプラ社のブランド力を信じた。
いい短編小説をひとつでもふたつでも書けたら書いてみたい。

「文学賞の光と影」(小谷野敦/青土社) 348円

あらゆる賞という賞の薄汚さを、
真偽定かならぬ文章で教えてくださったのが小谷野敦先生――。
賞金額ゼロの天皇陛下賞よりも10万円の報酬である。
くれるならもらいとってやるか、小谷野敦賞、なんちゃって、アハハ、めんごめんご。

ほしいものは手に入るんだなあ。
太宰治の女性独白短編小説を集めたものなんかあるとは知らなんだ。
それが百円で買えるとはさすが在庫量豊富なブックオフオンラインですな。

「女詞 太宰治アンソロジー」(凱風社) 108円

おれ、ポルノでもミステリーでもおもしろかったらええと思うねん。
だれがさ、たいせつなお金を支払って他人の観念遊戯につきあいたいか?
大江や阿部、サルトル、カミュはつまらないが、
山田太一ドラマ、宮本輝、ミステリー、ポルノ(未読)はおもしろいちゃうか?

「文豪の探偵小説」(山前譲編/集英社文庫) 108円
「水蜜桃 ポルノの巨匠傑作選」(祥伝社文庫) 298円
「桃源郷 ピンク・ユートピア」(光文社文庫) 108円


おもしろけりゃあいいんだ、バッカヤロ!

「運は数学にまかせなさい 確率・統計に学ぶ処世術 「数理を愉しむ」シリーズ」(ハヤカワ文庫) 198円

人生はおそらく運の強弱で、それを学問にしたのが確率統計で、
宗教の科学名は確率統計ではないかと思っている。
いま10万損しても未来で1千万儲かるようなことが宗教の領域では起こりうる。

「空海とアインシュタイン」(広瀬立成/PHP新書) 198円

なんかこの日は文庫本を5冊以上買うと100円割引らしいので、せこくせこく――。

「短編復活」(集英社文庫) 108円

合計3524円か。
ほんとにもう文学とはオサラバしようと思っていたんですが、こんなふうに。
40を過ぎてお子さまが読むような名作文学を読むことにします。
ブックオフオンラインはさすがで2日後の25日午前中に到着しました。ありがとう。
「モレルの発明」 (アドルフォ ビオイ=カサーレス/清水徹+牛島信明訳/書肆風の薔薇)

→ボルヘスやブランショが大絶賛した小説をわたしに送ってくれた人に感謝する。
じつはあのへんダメなんすよ~と思いながら、もう40を超えた男である。
わたしは絶対批評なんて存在しないと思っている。
ファンである作者から本を送っていたたいたとき、酷評できるバカが格好いいか?
あいどん師匠とネットで呼ばれ尊敬を集めている、
山田太一ファンクラブ会長の匿名高齢者がいるが、
この人は山田太一さんから(自身を評論した)早稲田大学教授の本を無料でもらったとき、
あろうことか匿名で山田太一評論を上梓した作者を、
まこと意味不明ないかにも高卒といったバカ文体で悪罵のかぎりを尽くし貶め勝ち誇った。
こんなあいどん師匠のような人がいまでは山田太一の側近ぶって威張っている。
そんな相手でもなんとか取り入りたくて、
あいどん師匠の掲示板に書き込むと内容以前にその場で削除される。
工業高校を出て、自慢といえば山田太一から仲人してもらったことしかない老人である。
なんとかしてこの庶民王者にコンタクトを取りたいのだが、
コメントをしても削除されメールを送っても返ってこない。
ちなみに問題となった早稲田教授の本は、立ち読みした直感から買わなかった。

ブログでしか発信できないような当方のごときダメ書評家でも、
小説の感想くらいどうでも書くことができる。
称賛しようとすれば天井まで持ち上げられるし、
批判しようと思ったら作者のプライドの中心を射抜けると尊大な自意識を有している。
「モレルの発明」は難解な芸術小説である。有閑人にはこれほどの傑作はなかろう。
テーマは自由意志や著述の可能性、他者性の発見である。
わかりやすーく説明しちゃうよ。
小説の原点は「モレルの発明」同様に日記なわけ。
無人島漂着者の主人公にとって、
昨日が存在しえたことを証明するのは昨日の日記しかない。
書くことは世界を創造することと言えよう。
もし日記にウソを書いたら、それが事実として通用する。
未来の日記を今日あらかじめ書いておいてもいい。
将来この日記を発見したものは、書かれたことを事実と思うだろう。
ならば、事実は書かれたこと(著述性、著述の主体)にしか存在しない。
書かれたことがすべて本当になるのである。
「私」とはなにか? 「自分」とはなにか?
「私」も「自分」も日記に書いたことでしかない。
では「他者」とはなにか? これも日記に書いたことでしかない。
無人島にもかかわらず十数人の遊覧客めいた人たちがいる。
主人公はそのひとりの女性に恋をするが、彼女は存在するのか?
というのも、どうアプローチしても反応がないからである。
もしかしたらすべてはホノグラム(映画の最新版3D化)ではないのか?
おなじ映像が繰り返されているだけではないのか?
その証拠は自分の日記である。
映画登場人物らしき人たちはみな決まっておなじセリフを口にし、おなじ動きをする。
すべてはモレルの決めた配役、セリフ、演技ではないか?
ならば、書き手のわたしも映画のなかに入れないか?
愛する女性と映画のなかで親しくなれないか?
書いたらばいい。彼女との関係を日記に書けばそれは事実となる。
事実とはモレルの最新映画ではなく、自分の著述した日記にこそあるのではないか?
むむむ? わたしの日記は本当にわたしが書いているのか?
わたしはだれかに、たとえばモレルによって書かされているだけではないか?
わたしはモレルに逆らえないのではないか?
わたしはモレルに決められたセリフと演技をしているだけではないか?
モレルを殺したい、破壊したいが、そのときわたしもいなくなってしまう。
わたしはモレルの無人島に生きている。モレルが書けと命じたことを書いている。
わたしは「モレルの発明」をした。

わかる人はいますかって話だよな~。
でも、こういう小説のおもしろさを評価することができる。
こういう小説があってもいいし、新しいと評価されてもいいだろう。
「おもしろい小説」とはなにか、自分にはわかるときが来ないのではないかと思う。
しかし、「おもしろい小説」を全身全力で書きたい。
それはゴロツキのわたしなんかに期待をかけてくれる御仁がひとりいらして、
出版界の常識など無視してもうお金をいただいているからである。

「日本恋愛思想史」(小谷野敦/中公新書)

→むかし上司のコカさんから近所の酒屋の角打ちで、、
「土屋さんだって、テレビに出て結婚したいって言えばひとりやふたり手を上げますよ」
と激励なのか侮蔑なのかいまいち判断が難しい助言をいただいたことがある。
5歳上のコカさんは本人も自虐に使っていたが、偏差値40くらいの高校出身。
一丁前に結婚していて息子さんもいて、いまは大企業の社員で高給取りである。
結婚までのいきさつを根掘り葉掘り泥酔したコカさんから聞いたが、
くっついたり離れたりしたようで、どうにも当方が小説で知った恋愛のイメージと合わない。
コカさんはなかなかいい男だったが、世の中にはどうしようもないカップルがいるでしょう?
ああいうふたりってどういう恋愛をして結婚しているのか想像がつかない。
でも、失礼ながらいっぱしに恋愛めいたことをしているはずなのだ、きっと。

恋愛研究家の小谷野敦さんの本を読んだら、
少しはそういう事情がわかるのではと期待するものの、それは甘かった模様。
最近わたしもしみじみ気づいたが世の99%の人は忙しくて本を読む暇はない。
圧倒的多数の庶民にしたら1月で1冊の新書でも読めば読書家になるのではないか。
たとえばわたしの年代のふつうのサラリーマンは早起きして晩まで会社で働き、
帰宅したらコンビニ弁当と一杯の晩酌であとは疲れていて寝るしかない。
平日はそんな感じで1日が終わってしまい、土日は休息を取るだけで終わる。
生活のどこにも読書をする時間的余裕はない。
これはこのまえ自動販売機の缶ジュース補充の相乗りのバイトをしたとき、
ナイスガイの男性から聞いた話。このまえはじめて街コンに行ったと言っていた。
小谷野敦さんは我われ庶民のための、
わかりやすい啓蒙的新書を多数上梓している。しかし――。

「テレビや新聞は絶大な影響力を持っているが、あまり私のいうようなことは、
テレビや新聞受けはしないようである。
とはいえ、私が書いているようなことを知っている人は、だいたい五千人、
[小谷野氏が誤りを指摘している]「恋愛輸入説」など
知っているのはだいたい多くて十万人と見て、
それ以外の数千万の日本国民は、時代劇が描くように、
戦国時代にも今のような「恋愛」があったと思っているのだから、
どうでもいいような気もする。
いわゆる知識人が考えているほどに、
世間は知識人の言っていることは知らないものである。
それが庶民の健全さというものであるかもしれない」(P215)


小谷野は庶民が知識人の主張を知らないことを嘆くが、
たぶんいわゆる知識人の小谷野も庶民のことをよくわかっていないような気がする。
わたしは知識人の世界も庶民の世界もどちらもわかっているとは言いがたい。
読書は遅いし理解力も乏しいし、
そのくせ孤独を好み貧しい人的ネットワークしか持たぬ。
おそらく職場つながりでセクハラと言われるのを用心しながら、
バツ2くらいのメンヘラがかったおばさんにアタックするしかないのだろう。
しかしその女性が「本の山」を見つけてしまった時点で関係終了と相成る。
スウェーデンの文豪ストリンドベリは二番目の妻に、
自分の小説(「痴人の告白」)を読まぬよう誓わせたが、
彼女は約束を破り、その瞬間ストリンドベリのもとから逃亡したという。
コバヤシエイトという才媛を妻として捕獲に及んだ、
(小谷野敦から破門された元子分の)「山梨のトド」こと小林拓也ライターは偉い。
視野の広い恋愛研究の碩学(せきがく)のお言葉を引こう。

「では、西洋では、もてない男女はどうしているのか、といえば、
岡田斗司夫の『フロン』にも書いてあるし、私もカナダで実見したことだが、
選(え)り好みをしないでとりあえずカップルになるのである」(P26)


こばかにされているのか、好みのタイプは? と聞かれることがある。
「だれでもいいです」と決まって回答しているが、
いつか間違って「なんでもいいです」とお孫さんもいるおばさんに答えたら、
「じゃあ、犬や猫なんてどう?」とからかわれ、庶民っておもしろいなあ。
本音をもらすと収入の多い女性がいいが、そういう男はまず嫌われるだろう。
でもさ、シナリオ・センター講師の上原正志や浅田直亮レベルでも
半分ヒモになれていることを考えると、
目を凝らしてよく探せば裏道のような男女街道があるのかもしれない。
でも重度の顔面神経麻痺のわが顔を鏡で見ると肩を落とすほかなく、
上原さんや浅田さんもむかしは格好よかったのかしら。

「顔じゃなく心だといったきれいごとが横行するのは、日本では戦後のことだ。
米国では今も、「もてない男のための恋愛ガイド」のようなものでは
もてない男は「ugly men」となっていて、もてないとは醜いこととされている」(P65)


これほどまで人を苦しませ迷わせる恋愛の起源はどのようなものか。

「動物の牡(おす)は、交尾のために牝(めす)を追い回したりするが、
その場合、牝ならどれでもいい、となったら「恋愛」ではない。
人間=ホモ・サピエンスはだいたい十数年前にアフリカに発生したわけだが、
それから有史までの過程で、この女では嫌だ、あの女がいい、
という意識が生まれた時があったとしたら、それが恋愛の始まりだろう。
売春にいたっては、猿の牡が、
牝と交尾してもらうためにプレゼントを上げるというから、
これが既に売春になっているだろう。恐らく恋愛より売春のほうが、始まりは早い。
いずれにせよ、五、六千年の有史の間ではなく、それ以前からのものだろう」(P28)


最近、メクラめっぽう短編小説を読んでいるが、意外や恋愛小説がおもしろい。
二人が結ばれない恋愛小説がとくにおもしろいのである。
結ばれたらそれは生活になってしまうわけで、
そんなものを描写されても読者はおもしろくないわけだが。
恋愛小説ではくっつくのとうまくいかないのとどっちが多いのか
小谷野先生に質問したいが、ツイッターが嫌いだからなあ。
顔面障害や貧困を抱え込んだ恋愛弱者にも唯一許されているのは片思いで、
これならば自由だが、これでさえ相手が見つからない。
宮本輝の「青が散る」でヒロインが自分に片思いしていることを知っている主人公に、
自分が金持の先輩にベッドでおもちゃのようにもてあそばれ、
かつでは男を知らなかった自分が、
日ごと性感帯を開発されていることを勝ち誇って告白するところは、
あらゆる小説のなかでいちばん好きなシーンと言ってよい。
宮本輝と小谷野敦の下品さは通じ合っているような気がするが同族嫌悪になるのだろう。

これにからめて小谷野敦さんの誤りめいたものをひとつおずおずと指摘しておこう。
正確には読解の相違といってもよく、
小谷野さんが間違っているわけではないのかもしれない。
どちらも正しい可能性もある。法華経の女人成仏に関する認識の違いである。

「武士的価値観も手伝っているが、まず女人往生の思想が変化し、
『法華経』の「提婆達多品」にある龍女という女が、
成仏するためにいったん変生男子、
つまり男に生まれ変わって成仏するという逸話を基に、
女はそのままでは成仏できないという思想が広まる」(P78)


正確にはインドの釈迦の時代から奈良仏教まで女性は蔑視されていた。
女性が成仏したいなんて生意気を、どの口で言っているんだという。
どんな美女も糞袋なんだよというのが古来仏教の女性認識であった。
このため、法華経の女人成仏が受けたのである。
いわば法華経は女性のご機嫌取りをしたわけで、
小谷野さんのおっしゃるように女性差別を広めたわけではない。
ねえねえ、創価学会のみなさんもそう思うでしょう?
小谷野さんは婦人部の怖さを知らないな。
「女はそのままでは成仏できないという思想」はそれまでの常識で、
法華経ならば女も変生男子によって
成仏することが可能だと新しい女性観が生まれた。
まあ、どっちでもいいんだけれどね。
わたし学者じゃないし、小谷野さんを怒らせていいことなんてひとつもないから。

はい、批判はここまで。
小谷野さんの本はわかりやすくて、バカの当方には非常に勉強になる。
むかしの新書を引っ張りだして来て、部分的に再読することも少なくない。
以下、そうだったのかと勉強になったところを備忘用に列記する。

「谷崎潤一郎なども、遠慮して、近松はいいけれど、
と「所謂痴呆の藝術について」では書いているが、
「恋愛及び色情」を見ると、近世町人は女を蔑視していたから、
かぐや姫のような崇高性は近松の女にはないと書いている」(P103)


かぐや姫は天皇をも振った女だからねえ、そりゃあ近松劇の女は勝てんよ。
これに関係して、谷崎潤一郎以外でもう一人――。

「もう一人、中村真一郎も近世町人文藝のダメさに気づいた人であった。
中村は、近代になって日本文学史を作った際、いちばん得をしたのは、
近世後期の洒落本、黄表紙、滑稽本などで、あれはその当時、
文学らしいものがほかになかったから入れられたので、
同じ基準で近代文学史を編んだら、
膨大な量の通俗小説に埋もれてしまうだろうと書いていた」(P118)


身もふたもない本音でおもしろいよなあ。
いまきっと(おそらく大して売れまい)平成日本文学全集とか企画されているんだろうな。
そこでまた派閥あらそいとか勢力の変化があると思われる。だれを入れるかって。
平成純文学全集とか数万円もらっても読みたくない。
一部では三島の再来、平成の三島とも言われた平野啓一郎だが、
あの渦中、早稲田の文芸演習で教授がこのなかで読んだ人いる?
ま、いないよね、と久間十義氏はため息をもらしたが、
果たして80人くらい教室にはいたのであったが結果はあわれゼロであった。
ついに待ちに待った天才が現われたみたいな騒ぎ方を本屋でしていた記憶がある。
しかしコネで大出世した京大生は新人賞あがりよりも信頼できるところがある。
新人文学賞に応募したことはないが、
応募したらどうしても賞ねらいの作品になってしまう気がする。
受賞しても単行本化されず、原稿を編集部に持ち込んでも突き返される。
ある編集者から惚れられるのがいちばんいいのだが、
いまはもう編集者も忙しく人間関係も複雑で、
自分の味覚に絶対的とも狂的とも言うべき自信を持つ、
退社も辞さないほどにひとりの作家を愛せる破天荒な編集者は少ない。
それどころが編集者のほうが目立ちたがりテレビに出ると大喜びしてツイッターで拡散。

ツイッターもインスタも、文学的なもの、恋愛的なものを薄める気がする。
百年後に研究者がいまの日本恋愛事情を見たら、どのような感想を抱くのか。
庶民のブログやツイッター(のまとめ)に基礎文献は残っているのである。
かつてこんな時代はなかったのである。
みずからもツイッターきちがいの小谷野敦氏は言う。

「学問的に言うなら、近世後期より以前の庶民が何を考えていたかなど、
まったく分からないに等しい」(P154)


じつは去年の1月に人工知能関連のシナリオ仕事を依頼されたことがある。
あまりにもメチャクチャな要望だし(人間には不可能と思われた)、
給金もお小遣い程度だったし、エクセルのやり方がよくわからなかったし、
せっかくお声をかけていただいたのにお断りさせていただいた。
NTTが親元の依頼先であったと記憶しているが詳細は定かではない。

以下に本書でいちばん感銘を受けた東大卒の小谷野敦博士の名文を紹介する。
早稲田大学の第一文学部の肝心かなめの文芸専修に在籍していたわたしでさえ、
こんなことを知らなかったのだから博士に一日中笑われてもそれを責められない。

「文学研究の基本の一つは、ある作品が先行する作品から
どのように影響されているかを考えることにあって、
比較文学ではましてやそれが基礎作業である」(P165)


ノータリンのわたしはいま古い小説を亀のように遅々とした歩みで読み進めているが、
ほとんど最近の作品を読まないのはパクリや盗作になってしまう危険性を感じるからで、
古い名作をお勉強いたしますとそれはパクリや盗作ではなく「影響」でございます。
年輪を重ねるごとに(知識が増すごとに)小谷野さんのすごさ、おもしろさがわかってきた。
早稲田分派、小谷野学派の継承を正式に宣言したいが、
それをすると宮本輝の追手門学派を裏切ってしまう。
だが、宮本輝ファンクラブ入会拒否、山田太一ファンクラブ追放処分、
シナセンからも創価学会からも毛嫌いされ、行き着く先は……。
わたしは小谷野敦先生および奥さまの坂本葵先生をイエスや仏陀のように尊敬していて、
坂本葵さんを一夜でもお貸しくださったら滂沱の涙を流すだろう「もてない男」であります。
いい本でした。これからのご執筆にも期待大です。

「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」(春日武彦/宝島社)

→ただの愛読者に過ぎぬ無名の男に
近刊自著を送ってくれる人なんか先生しかいないはず。
そういうことをしていただくと、より精神科医の著者に興味を持つわけである。
こういうことを書くとナイーブな著者はまた被害妄想をつのらせるのではないかと
恐れつつ書くと、本書はこれまでの本と文体を変えている。
あたかも福田恆存のような老賢者文体が散見される(~~ではありますまい等)。
それはそれでおもしろく、
こういう著者の変化を楽しめるのが長年の愛読者冥利というもの。
春日先生は「なぜあの人は平気で自分を傷つけるのか」
とか老年のいまも考えているのかしら。
出る杭は打たれるというか、目立つと叩かれるというか、それは仕方がないことなのだ。
ブログ「本の山」もいまは批判コメントが9割で、常軌を逸したご批判をいただくことがある。
ムカつくけれど相手は匿名だからどうしようもない。
電話して来いよ、と携帯番号を公開しても、批判者は匿名のかげに隠れている。
それは仕様がないとも、先生のご著作を読んでいるからか思うのであります。

被害と加害というのは難しい。
春日先生のおっしゃるように、どちらも被害者という場合が多々ある、
もちろん、被害者ぶった加害者という当方のような悪漢も存在する。
むかしは美男美女のカップルを見かけると、それだけで被害者意識を刺激され、
攻撃したい、傷つけたい、不幸のどん底に落としてやりたいと思ったものである。
いまは前世や来世というオカルトに走ったから、
美男美女は前世でええことをしたんやなあ。
もしかしたら、おいらも来世は美女か美男に生まれるかもしれへんなあ、
と美男美女のラブラブを目撃しても、美しいものはええなあと微笑むくらいである。
このあたりが被害感情と加害感情の難しいところだろう。
美男美女はだれかしらを傷つけたいと思っていないのに、
多くの人に被害感情を抱かせている。
存在自体が罪と言ったらば、たしかにそうなのだが、言いすぎの面もあろう。
女優でアイドルのめごっち(剛力彩芽)のインスタが攻撃対象になっているが、
億万長者とのラブラブを毎日のように見せつけられたら、
被害感情を持つものを責めるわけにはいかない。
その被害感情は加害的な悪魔根性に容易に転ずることだろう。

美男子というのは存在するだけで(生きているだけで)周囲を傷つけているのである。
美女も同様で、美少女はなおさらだが、
むろんそれらは彼女たちに罪があるわけではない。
ノーベル賞学者も大富豪も、存在自体が加害的(人を傷つけている)なのだが、
本人はそういう理由で攻撃されても人間不信、人間嫌いが強まるばかりだろう。
わたしはシナリオ・センターの経営者母子を攻撃しているが、
あの人たちはシナリオも書けないくせにシナリオを教えて偉ぶっていて金持ちで、
存在自体が当方に被害感情(世界の理不尽さ)を抱かせるのに十分なのである。
あんがい経営は火の車なのかもしれないが、
そういう裏事情は最後(倒産)までおもてに出て来ないだろう。
小学生のころからバリバリの営業マンにシナリオを教えていたという、
不登校児の新井一樹副社長はどこまでシナセンを持ち直せるか。
人生への虚無感でいっぱいの当方には、こういうゲスな好奇心が生きる支えとなる。

わたしもささいな攻撃にさらされていると言えなくもないが、
批判コメントが集中するのは早稲田ネタを出したときが多い。
当方の感覚では早稲田合格は運がよかったのひと言で、
早稲田でも一浪して一文なんか価値がないと思っているが、
読者さまのなかにはたかだかラッキー早稲田程度に被害感情をお持ちになり、
こいつを傷つけたいと思う人がいるのだろう。
当方からしたらあなたのほうが収入が多いのだからいいじゃないですか、
と思わなくもないが、そういうものではないらしい。
たしかにわたしは異様なほど運がいい一面があり、そこに立腹する御仁もおられるだろう。

本書は「被害者ぶった加害者」の怖さとその対策を教える本である。
春日武彦先生が周囲から傷つけられるのはある面で仕方がない。
春日さんがお医者の家に生まれたのは先生の罪ではないし、
医師が一般書を多数、有名出版社から出せるのは著者の才能によるもので、
それを春日武彦氏への攻撃理由にするのはあんまりだが、
しかし世の中とはそういうものだとも言いうる。
わたしはいま美男美女のカップルを見ても腹立たないし、
美少女が同級生と夕暮れの公園で接吻しているのを目撃してもええなあと思う程度。
そういう心理をベテランの臨床精神科医はこう絵解きする。
「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」――。

「相手が幸せそうに見えたから、自分の気も和んだとか、
ちょっとうらやましいと思った、なんて感じるのが通常の感性でしょう。
気が荒(すさ)んでいたり、イライラしているときならば、
相手が幸せそうな様子が何だか「当てつけ」
ているように思えて腹が立つこともあるかもしれません。
不幸になってしまえと腹の中で毒づいて、
あとで自己嫌悪に駆られるかもしれません。
まあいろいろな感情的リアクションがあり得るわけです。
当然のことながら、
自分の気持ちに余裕があるときには相手の幸福を肯定して、
余裕がないときは否定的な感情に傾きます」(P65)


いまわたしは運勢が少し好転したのか被害妄想のようなものは以前より減少した。
めごっち(剛力彩芽)のネットニュースを見ても微笑ましいと感じるのみ。
本書193ページには攻撃されたときの対処法が列記されている。
春日先生いちばんのお好みは、「逆襲どころか、
二度と攻撃を仕掛けてこないように相手を徹底的に痛めつける」という。
この選択肢でわたしが選ぶとすれば、
「恥も外聞もなく許しを請う。あるいは金品を提供して勘弁してもらう」である。
むかし山田太一ファンクラブの女帝、海老川洋子からひどい攻撃を受けていた。
どうすればよいのか山田太一ドラマを視聴しながら行き着いた結論は、
「金品を提供して勘弁してもらう」であった。5千円程度で彼女の沈黙は買えた。
わたしは春日武彦先生の愛読者で、
通常意識のうえでは攻撃したいとは思っていないが(無意識ではあるかもなあ)、
春日さんから近刊を送っていただき、まったく加虐心のようなものは消失した。
それどころかご好物らしきかっぱえびせんを、
迷惑と知りながら冗談半分で百袋くらい送ってさしあげたい。
奥さまの手料理にはかないようもないが、
これまたご好物らしき野菜炒めのレトルトでもいい。
代わりに刺激的な向精神薬(リタリンはもうないか)を送ってほしいとか、
そういう不正根性からではなく、純朴な恩返しである。
そもそも恩返しといえば、わたしからしたら、自著を読んでくださるだけで恩人。
多少、批判めいたことが書いてあっても書評を書いてくれるだけでありがたい。
まあ、その辺は周辺環境の相違だろうから突き詰めない。

あんまり他人に期待しないほうがいい、という結論に著者は至っている。
これよこれ、これっすよ。わたしは山田太一ドラマの
日本一の研究者を自称しているが(だれも認めてくれないが)、
氏のドラマの底に流れるメッセージは、
「人生なんて、こんなもの」「人間なんて、こんなもの」
という皮肉で人間不信のトーンである。
人生に期待するから絶望するのだ。人間に期待するから人間嫌いになる。
わたしは人生や人間への期待をなくしてから生きづらさは下降カーブ。
絶好のおいしい話を持ち込まれ(この仕事をぜひともしたい!)、
しかし世の中そんな甘くないだろうと最後まで信じなかったが、
目のまえにさしだされた札束が当方のありていな現実感を破壊した。

春日武彦医師は愛読誌の「SPA!」を読んで、これよこれよと思ったという。
(「SPA!」なんかだれが買っているのかわからなかったが春日医師世代か?)
「SPA!」に(西村賢太を引き上げたことで有名な)読書家の
坪内祐三氏が福田和也氏との対談で「そうこなくっちゃ」
という名言をご披露なさっていた。
不遇のときに人気作家の坪内祐三氏が恩をほどこしてあげた編集者がいた。
「編集者はこの恩は忘れません」と誓った。
その編集者が復活したらあろううことか、
大恩人たる人気作家の坪内祐三氏を無視するようになった。
そこでいまや出版界の重鎮たる坪内祐三氏が思ったのは「そうこなくっちゃ」。
出版業界のあまたある賞をひとつも得ていない名文家の春日武彦先生は、
坪内祐三氏の「そうこなくっちゃ」にいたく感動したらしい。
この稚拙な感想文が出版界の先生のおひとりにでもご閲覧していただけることを、
春日先生の長年の愛読者のひとりとして期待してやまないが、
人生や他人に期待しないという自己ルールをこれは破っていることになろう。

わたしには複数の先生がいる。
原一男先生。山田太一先生。宮本輝先生。小谷野敦先生。そして春日武彦先生だ。
いままで精神科のご厄介にならなかったのは春日武彦先生のおかげだろう。
しかし、精神科を受診したほうが業界のご商売繁盛につながるのだから難しい。
春日先生はじつにいい教訓を本書で述べている。
あんがいご本人の自覚以上に、いい意味で作者は老成しているのではないか。

「我々には、「理屈ではそうかもしれないけれど、
リアルな世界は必ずしもそんなもんじゃないよ」
といったいささかいい加減な(でも経験的には確かな)感覚があります。
なるほど嘘をつくのは悪いことだが、嘘も方便という言葉だってあるじゃないか。
ときには見て見ぬふりをするのが武士の情けというものさ。
規則ばかりを言い立てるのは野暮というものだ。
馬鹿正直が人を幸福にするとは限らない。
多少の欠点があったとほうがかえって人間らしい。
四角四面よりは愛嬌(あいきょう)のあるほうが世渡りは上手く行く。
と、まあそんな調子で原則と逸脱を適度に使い分けている。
ダブルスタンダードというやつですね。
それが出来なければ、まっとうな社会人とは見なされません」(P142)


しかし、そこからは芸術も文学もうまれないと熟知したうえでの老医師の助言だ。
著者はアンチエイジングの時代風潮に逆らい、老いのよさを本書で書いている。

「わたしは六十歳を超えたジジイですが、
精神科医としては自分が若くないことを喜ばしく思っています。
その理由のひとつは、しばしば患者本人や家族から、
「なぜこんな病気になってしまったのでしょう」と問われたときに、
「運が悪かったからです」
と、平気で答えられるようになったからです。
因果関係がどうしただの、誰それのせいだと犯人捜しをしても、
多くの場合、あまり実りはない。(……)
でも、精神科医が若いと、運が悪かったからなんて口にすると
不真面目に思われる傾向があります。
どこか無責任感が漂っているように映るらしい。
年をとると、運が悪かったからという発言が、
人生経験の積み重ねから導き出されたほろ苦い言葉であると
相手に感じられがちのようです。ああ、やはりそんなものなんだなと、
溜め息混じりの共感につながる場合が大部分となります」(P39)


この春日先生へのファンレターとも言うべき、
つたない面白味も少ないブログ記事を書くのに4時間以上かかっています。
読書時間も合計したら6、7時間でしょう。
エゴサーチがお好きな春日先生が万が一、この愚劣記事をお読みになられても、
「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」
「なぜ土屋は平気で自分を傷つけるのか」と思ってほしくありません。
こんなに春日武彦先生のご本を一生懸命に読む人はめったにいませんよ。
だから、新刊をまた送ってください、と書かないとわたしが偽善者っぽくなるので、
そこはご勘弁のほど、どうかよろしくお願いします。

いま巨匠で大学教授の高齢権力者の原一男先生のツイッターを拝見したが、
善人ぶっていて殴り殺してやりたくなった。
ドキュメンタリーは「仕掛け」とわたしは原先生から教えていただいた。
権威なんて恐れるな、もっと過激に、もっと自由を。
だれかさ、ツイッターのアカウントをお持ちの方、
うちのこの↓記事↓あたりを日本映画界の巨匠のツイッターにぶち込んでくれませんか?
ドキュメンタリーっぽいじゃないですか。世界が1ミリくらいおもしろくなる。

「うえのけつをぬぐう」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-5416.html
「恥ずかしい原一男」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-5417.html

キネマ旬報ってそこまでの権力はもうないでしょう?
映画ではなく文学の人だからどうでもよかったけれど、
原先生の映画新人いびりはすごかったんでしょう? あんなものは映画じゃないとか。

誤りだろうがツイッターやインスタは魔だと思っている。
なぜなら孤独が創作を醸成するからである。
孤独は狂気も生みだしかねないので恐ろしい。
だれか映画世界の天皇陛下、
原一男先生のツイッターに爆弾を投げ込んでみませんか?
あの人が天皇制批判をしているって、天皇が天皇を批判してどうなるの?

いちおうわたしは批判にこたえる準備がありまして携帯番号は公開しています。
プロフィール欄をご覧ください。
原一男さんもずいぶん時代に媚びるようになったなあ、とさみしい。
いい思いをしているんだなあ。おいしい人生をパクパクでっか。うらやましいなあ。
師匠はうまいことやったなあ、と思うが、
その人生の裏ワザを教授は大学で教えてくれなかった。
当方にそれを習得するほどの器量がなかったからかもしれない。
「物語を生きる 今は昔、昔は今」(河合隼雄/小学館)

→「私」とはなにかといったらそれは物語で、
もういくばくか分解すると「私」とは父の物語であり母の物語であり、
両親の祖父母の物語といえよう。
わたしなんかも陳腐な自己愛者だから自分のことを考えるのは嫌いではないが、
行き着くのは祖父母の物語なのである。
いまのわたしの問題は祖父母、あるいはそれ以前の祖先に端を発している気がする。
人生は歴史に左右されるが、歴史こそ広い意味での物語である。
歴史や家族(あるいは宗教、国家)という物語があるからわれわれは孤独ではない。
歴史という物語が、なんによっているかといえば史料であり史跡、遺物である。
物語はどのようにして生まれるかを河合隼雄はじつにわかりやすく書いている。
古事記も日本霊異記もかぐや姫も源氏も太平記も説経節も近松も失楽園もみな物語だ。
物語はどのようにして生まれるのか。

「非常に単純な例を考えてみよう。コップに野草の花がひとつ挿してある。
それだけのことなら、別に誰もその花に注目しないかも知れない。
しかし、それは病気で寝ている母親を慰めようとして
十歳の少女が下校のときに摘んできたのだと知ると、
その花が単なる花でなくなってくる。
その花を介して、その少女に親しみを感じ、
その母娘の間の感情がこちらに伝わってくる。
そこに「関係づけ」ができてくる。
そのことに感激すると、そのことを誰かに話したくなる。
友人に話をするとき、少女は花を買おうと思ったのだが、
彼女には高すぎたので困ってしまったが、ふとその野草の花を見つけて……
というふうに話が少し変わることもある。
それを聞いた人が他人に伝えるときは、母親がその花を見て嬉しく思うと、
高かった熱がすうーっと低くなって……とつけ加えるかも知れない」(P13)


生活破綻者でヒモで文壇乞食の小林秀雄はかつてこう言ったらしい。
「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」
瀬戸内寂聴から「なにをして食べているんですか?」と鼻で笑われた男の言葉だ。
バラは美しいけれど、キャベツのように食べられない。
「美しい」と思うのは主観で、野草の花を「美しい」と観ずる第一発見者こそ評論家たる。
どんな小さな花園にも侵入して、花びらをむしり取り、
本来は豊饒たる土地だったかもしれないものをことごとく荒野にするような、
たとえるならば早稲田のセクハラ教授、渡部直己は評論家ではない。
「万死に値する」と自分で言ったのなら、二度でも三度でも自殺して自然土に還れ。
「美しい」という形容詞は人間の喜びだろう。
わたしもいつしか無名のままつまらぬおっさんになったが美少女への興味は尽きない。
妄言を白痴のように書き散らすと、いまの若いアイドルも女優もまったく美しくない。
全員、おなじような顔に見えてしまう。
みんなおなじように先輩を立てて無難でポジティブな発言に終始する。
美少女はときのうつろいとともに醜いおばさんになるのだが、
アンチエイジングってなんだ?
40過ぎのババアが10代のような顔でキラキラ光り輝いていて、それが称賛されている。
美はそういうものではない。かぐや姫の「竹取物語」は――。

「うつろう美を特に評価している。というよりも、この世ならぬ美を追求すると、
それは限りなく死に近接してゆく。つまり、美の影には死が必ず存在しており、
それは、うつろいゆくことの自覚を促すものとなる」(P43)


美少女が美しくも寂しさを感じさせるのは、それが期間限定のものだからだろう。
いまでも20代と変わらない美貌を持つアラフォー女優とかホラーである。
枯れない花は人造美に過ぎぬ。
間違わない知能=人工知能は誤謬なきがゆえに人間よりもはるかに劣っている。
枯れるから美しい。もっと言えば、醜いものがもっとも美しいのかもしれない。
河合隼雄はカウンセラーのボス猿だから、あらゆる症例報告を耳にしただろう。
自分が担当した少女ではないからという理由からか、おもしろい症例を公開している。

「ある女子高生は素晴らしい美人で、
道で彼女とれ違う人が思わず振り向かずにおれないほどだったという。
彼女が自殺を企図し、幸いにも未遂に終わったので、
あるカウンセラーが会うことになった。
そのとき、彼女は「自分ほど醜い者はいない」ので自殺しようとした、と語ったと言う。
カウンセラーが不思議に思っていると、彼女は言葉を続け、
自分を見る男性の目があまりにもいやらしいので、
これは自分の内に非常に醜いところがあるのに違いない、と思った、と言った。
これは実に示唆的な話である」(P46)


「竹取物語」のかぐや姫を論じているさなかの話である。
美しすぎるこころが病んだ美少女とかええなあ。
文学の心内原初風景にかならず存在するアニマ(女性理想像/ユング用語)であろう。
永遠の美少女はいない。少女はいつか老いる(少女は死ぬ)。
美少女は醜悪を胚胎しているからこそ美しいのではないかと河合隼雄は説く。
男という男が邪悪な性欲をたぎらせる美少女を一瞬でも見れたら眼福であろう。
しつこく繰り返すが、いまのアイドルや女優はつまらない、そそらない。
きれいすぎて人工的なところが邪淫欲を刺激しないのである。
美しすぎて自殺未遂をした女子高生について河合隼雄はこうコメントする。

「男性の醜い関心を惹きつけるのは、彼女の美しさだけではなく、
彼女の内部にそれに呼応する部分がある、と考えてみてはどうであろう。
美は単なる美である限り、それほどの魅力をもたないのではなかろうか。
どこかで醜による不思議な裏づけをもってはじめて、
人を惹きつけることを可能にする。
かぐや姫が自分を醜いと言ったのは、謙遜ではなくて、
自分の醜の側面についての自覚があったから、とも考えられる」(P46)


酒井法子はなにをやっても干されないで、いまも大金を稼いでいると聞く。
わたしはのりピー、らりピーの美しさにここ数年で気づいた。
どう書いたら差別表現にならないのか不勉強のためまごつくが、
被差別部落の美少女とか神々しくも美しすぎるでしょう?
都市的アイドル人工整形美よりも、田舎の土着のまがまがしさをまとう、
父が母を殺して姉が自殺した天涯孤独な少女の美しさのほうがまさっている。
だから、柳美里は美しく現代まれなる文豪だったのだが、
40歳まえに自殺してほしかった。
そうしたら永遠の美が保たれたことだろう。
柳美里は太宰を裏切り老醜と生活を選択した。こうなったら百歳まで生きろ。

死と生をあわせもったものが美しい。
醜と美をあわせもったものが美しい。
ならば、女性性と男性性をあわせもったものもまた美しいのではないか?
河合隼雄は「とりかへばや物語」を例にあげて論じる。

「男と女の役割として固定的に考えられていることが、
いかに交換可能であるかを。この[とりかへばや]物語は示している。
そして、男と女という明確な区別として信じられているものが、それほどではなく、
その境界の崩れるあたりに、グロテスクすれすれの、
この世ならぬ美が存在することも示してくれる」(P156)


シェイクスピア劇に登場する男装の麗人ほどエロいものはないでしょう?
「十二夜」とか危なすぎる(お読みになるなら、ちくま文庫の松岡和子訳で)。
芥川の「奉教人の死」はおもしろすぎるのではありませんか?
太宰の女性文体小説は神がかっていて身震いするほどである。
太宰の短編小説「恥」を読んで男が40まえに死なねばならぬ理由がわかった。
あんな男を長生きさせちゃいけません。
わたしもジェンダー的には有名人で、匿名掲示板の女神的ネカマだった。
文学板のレジェンドが男性さまからいくつのラブレターをもらったかは秘密ね。
自称男性の匿名人から逢いたいといわれ、場におもむいたら女性だったこともある。
まえから書いているが、美少女とタッグを組んで、ゴーストライターをやりたいんだなあ。
小説が売れるか売れないかは、作者の顔だと思う。
我輩の天才的ネカマ経歴と美少女をからませたら文学バブルはまだ起こりうる。
おれ、女々しいから、ねちねちしていて女性よりもおんなおんなしていますよ。
顔に自信がある美少女にはビジネスチャンスを当方に賭けてほしいと思いますですね。
とはいえ、どう願ったとて人生はままならぬ。
ご子息も大出世してNHKで大評判の故人、河合隼雄先生はこうおっしゃっておられます。

「人間は幸福になろうと意識的努力をする。しかし、それではどうにもならない。
もっと偉大で強力な「ものの流れ」とでも言うべきはたらきがあり、
それに抗することはできないのだ。
ただ、その流れに触れ、その存在を認識するとき、
人間は大いなる納得や安心を得ることができる。
そのような深さに到達する道として、
人間には夢[オカルト/神秘信仰/スピリチュアル]というものがある」(P173)


わたしが師匠の原一男先生に再会したくないなあ、
と思うのは、あの人が努力教の熱烈信者だから。
自分が成功したのも多くのメスに射精しえたのも名誉、地位、勲章すべてが、
自分の努力の結果だと思っているようなところがある。
じゃあ、そういうものと現在は縁がない当方は努力をしていない怠け者ってことになる。
運や時勢、風向きを考えられない成功者はどうしてあんなに傲慢になるのだろう。
一介の高校数学教師に過ぎなかった河合隼雄が日本を代表する大学者になれたのは、
努力もあるだろうが、努力以外の大きなちからがあったからである。
河合隼雄はそれを知っていた。だから、大学者なのである。
氏は歴史学者や文芸評論家、文系学者ににちくりとやっている。

「後世になって、平成の時代によく読まれた『失楽園』(渡辺淳一、講談社、一九九七)
という小説を研究し、
平成の頃はほとんどの人が不倫をしていた、
などと結論されると困るのと同じかも知れない」(P143)


主に文藝作品から過去の世相を判断しておられる「もてない男」の
小谷野敦先生はこういうブチマケ本音についてどう考えているのでしょうか?
当方はツイッターのやり方を知らないので、からむこともできない。
いまは男根もしなびたであろう団塊世代の原一男先生でさえツイッターをやっているのに。

「ほとけさまの知恵袋 新釈仏教寓話集」(ひろさちや/講談社)

→仏教小説(仏典)でいちばんおもしろいのはなにかと問われたら、
わたしはジャータカと答える。
ジャータカは釈迦の本生譚(過去世の物語)でもっとも娯楽性が高いと思われる。
よく法華経は文学的と言われるが、それは認めるとしても、おもしろくはないでしょう?
さらに難解な部分もあり、子どもに理解できるかと言ったら怪しい。
ジャータカは絵本にもできるような平明な物語だから、
あるお話をうかがったとき真っ先にジャータカを思い浮かべた。
ジャータカは、釈迦は過去世でこんな善行をしたから釈迦として生まれたんですよ、
というお話である。もっとも有名なのは捨身飼虎(しゃしんしこ)ではないか。
むかしある国の王子が飢えた虎を見つけた。
虎は出産直後で弱っているため動けないようだ。
赤子の虎たちは母虎にしがみついているが乳すら出ないようである。
これを見た王子は自分が餌になろうと虎のそばに横たわる。
しかし、虎は食いついてくる元気さえもうないようだ。
そこで王子はどうしたか? 高い木の上まで登り、
そこから虎の近くめがけて飛び降り自殺をした。
虎の母子は王子の肉片を食い、生きのびることができた。
この王子はじつのところ釈迦の過去世の姿であったという。

一見、美談のように思えるが王子の父母やきょうだいのことを考えると痛ましい。
自死遺族の辛さはいつの世も変わらないはずである。
両親にしてみたら、とんだ親不孝をしてくれたということになろう。
じつは弱った虎を見たのは王子だけではなく、兄ふたりもいたのである。
兄ふたりは無視したが、王子は一度城に戻ってから現場に引き返した。
王子のきょうだいは自死遺族の苦悩のみならず、
一生自責感のようなものを引きずることだろう。
果たして王子の行動は善だったのか悪だったのかわからないのである。
ひろさちや氏は本書でさらなる新解釈をしていて、そこがおもしろかった。
氏いわく、これで虎は人肉食のうまさをおぼえ人を襲うようになったのではないか。
もしそうなったとしたら、王子は間接的に殺人さえしたことになる。
それが王子の母だったりしたら二重、三重の親不孝である。

上祐史浩の本で読んだが、
この考え方はオウム真理教の殺人肯定の論拠ともなっている。
関連図書に記事を紹介しておきますので、関心ある方はお読みください。
ひろさちや氏といえば「デタラメ・あきらめ・いいかげん」を説いている。
世界はデタラメだから、そこはきちんとあきらめて、ほどほどいいかげんに生きましょうや。
これは経験的に正しいと言わざるをえない。
もう表現者になるとかあきらめて、
いいかげんに底辺生活者として寿命をまっとうしようと思っていたら、
夢のような話が舞い込んできたのは世界がデタラメだからとしか思えない。
ひろさちやさんはわかりやすいけれど、浅いんだよなあ。
まあ、浅いレベルにとどまっているから多くの読者に支持されているのだろうけれど。
もう少し深い仏教世界に入って物語を引き上げてこれないかと考えている。
そういうインスピレーションみたいなものは努力ではなく偶然だから難しい。
決して毎日遊んでいるわけじゃないんですよ。
いや、遊んでいるほうがいいのかもしれないのだから、この世界はデタラメだ。
デタラメとはどういうことか。

「わたしたちは、よく、Aが正しいとすればBは誤りだ、と考えます。
しかし、それはよくない考え方です。
実際にはAもBもともに正しいことがありますし、
ともに誤っていることもあります。いや、そのほうが多いでしょう。
Aが正しくBが誤りというケースは、むしろ少ないと思います」(P40)


論文ならば自説の正しさを証明しなければならないが、
物語や小説は正しいも誤りもないし、
しいて言うならばどちらも正しいし、どちらも誤っている。
しつこく粘着するが、正しい百点満点の小説があるかのようなことを説く、
早稲田の渡部直己セクハラ教授はまったく万死に値する。

(関連記事)
「危険な宗教の見分け方」(田原総一朗・上祐史浩/ポプラ新書)
「本生経(ジャータカ)」(平川彰訳/「原始仏典」筑摩書房)

昨日、日本文藝家協会から手紙がきた。
なんでも作家の角田光代先生が源氏物語を現代語に訳すらしい。
それにからんで角田先生が講演をしてくださるから、先着50人で聞きに来い。
この手の手紙はたまに来るが、なんで源氏物語? なんで角田光代?
たしかに角田光代さんは早稲田文芸専修の先輩で縁がまったくないわけではない。
中上健次お気に入りの三島賞作家、久間十義教授のご講義で、
ご尊顔を拝見しお話を聴講させていただいたことがございます。
20年まえ久間先生は文芸演習で角田光代さんの本を課題図書にして、
これで彼女の本にも増刷がかかるかなあ、と上から目線だったが、
文学出世という観点からみたら、
角田光代は瀬戸内寂聴、林真理子のような出世コースを堂々闊歩し、
いっぽうの久間先生は……まだ生きていらっしゃいますか?
角田先生はエッセイを拝読したことがあり、文藝の世界はすごいなあと。
角田先生レベルでも直木賞受賞まえは編集者の奴隷。
小説の最後のほうのここが気に入らないから書き直せと言われたら即刻命令を遵守。
タイトルはおろか小説の内容すら編集者が決めていたらしい。
これが高卒の作家ならわかろうが、角田光代は早稲田文芸卒だぞ。
編集者はどういう根拠や自信があって、人の書いたものを何度もダメ出ししたのだろう。
しかし、角田光代は賢くて、一流出版社に逆らわず、
言いなりになり、干されずに生き残り、いまでは源氏物語作家だ。
久間十義教授がどうあがいても手の届かない現代の文豪に成り上がった。
5千円のバスツアーと昼飯つきの講演会は良心的な価格だと思う。
講師が宮本輝だったら、即座に現金を振り込んでいたことだろう。
文芸評論家で芥川賞候補作家の小谷野敦さんが
「中小企業の社長めいた関西弁を話す陽気なおっちゃん」
と評したところの芥川賞選考委員の宮本輝氏をなまで見てみたい。
日本文藝家協会さん、どうかご企画のほど、よろしゅうお願いしますねん。ねん?
なまみの師匠といえるような存在はドキュメンタリー映画監督の原一男先生だけだが、
明日から先生のイベントが始まるらしいので、
アクセス数は激減中で愛読者は二桁に行くのかという過疎ブログでも宣伝をしておこう。
明日から東京都のアップリンク渋谷というところで、
むかしたいへんお世話になった有名映画監督で、
なおかつ大学教授でもあられる原先生の過去作品が上映されるらしい。
お願いします。どうか関東在住の方は観にいってあげてください。
というのも、夫婦そろって大学教授の原先生だが、もしや金に困っているのではないか。
ブログのコメント欄で客員教授は非常勤講師なみの待遇(収入)だと先ごろ教わったが、
芸術大学の教授夫婦、原一男夫妻はともに、その不遇な客員なのである。
それでも時給換算にしたらおいしい商売だろう(低収入の当方から見たら)。

ネットの見間違えかもしれないが、原一男芸術カメラマンは記念撮影もやっているらしい。
駅前の履歴書用無人撮影機で写真を撮影しても千円いかないが、
ドキュメンタリー映画の巨匠、
受賞歴多数の原一男監督に写真を撮影してもらうと1回50万円という。
40まえに世に出て教授稼業を長く続けていると金銭感覚が狂うのであろう。
いちおう言い訳めいたものはわからなくもない。
原一男先生の映画はすべて自主製作である。
どういうことかというと、お金をすべて自分たちで準備しなければならない。
雇われの映画監督とは違うのである。
原一男の映画はすべてボランティア感覚から出発している自己表現だ。
いま原一男夫妻には借金がどのくらいあるのだろう?
あんがい、そんなのは世間を知らない話で、
芸術家の大阪芸大教授は老後のたくわえもふんだんにあるのかもしれない。

大阪芸術大学教授の芸術家、原一男先生の最新作は「ニッポン国VS泉南石綿村」。
たぶんわたしほど原一男先生のお世話になった弟子のような存在はいないだろう。
観にいったほうがいいのはわかるが、恥ずかしい。
というのも、自称一番弟子にもかかわらず、それはやはり自称なわけで、
巨匠の原一男さんが当方なんぞを覚えているわけがない。
恥ずかしいのは、当方が42歳にもなるのにいまだ無名であること。
大学時代の誇大妄想期をわずかながらでも知っている人と逢うのが恥ずかしい。
原一男先生は相談しに来た教え子全員に
「おまえはかならず(表現の世界で)ものになる」と言っていた。
「かならずだれかが見ていてくれる」
しかし、こちらは20年近く、その界隈を、ときには遠くから、ときには近くから見てきたが、
師匠の原一男さんのような華々しいデビューとは縁がない。
原一男教授に早稲田で出逢ったしまったせいで、
当方の人生が狂ったと多くの常識人から客観的なご指摘をいただいた。
この20年近く、教授と教え子の当方の人生の、
いったいどちらがおいしかったかはだれでもわかるだろう。

恥ずかしい。ああ、原一男教授と15、6、7年ぶりに逢うのは恥ずかしい。
なぜなら弟子たるわたしは師匠の下半身の醜聞を知っているからである。
男の弟子たちがみんなおもちゃのように性的にもてあそんだ女の弟子を、
おれもやってやれと思った。そのとき教授は60歳を過ぎているのである。
弟子がやれたんだから師匠のおれなら楽勝だろうと事務所にデリヘルのように呼んだ。
外に出たらありふれたジジイだが、この事務所のなかでならおれは巨匠・原一男だ。
愛人も隠し子もいる(隠していないから隠し子ではないかもしれない)原先生は、
この日をどんなに楽しみにしていたことだろう。
60過ぎのジジイでも20代前半のきれいめ女子を、
映画監督、大学教授、表現者なら男根で打ち抜けるだろう。
それが団塊の世界観で、高卒の下卑た損得勘定で、マスコミ文化人たる男の思想だ。
マルクスも全共闘もない。表現とは教え子をレイプすることだ。
いいか。それが世界だ。芸術とはこういうものだと若いおなごに身体で教え込んでやろう。
しかし、原先生の計画は失敗した。
大学教授で映画監督の還暦オーバーのキネ旬作家はそのとき、
半勃ちの自身団塊男根をどのように処理したのだろう?
被害女性によると、その後も先生はいつも通りで、
卒業式にも教師気取りで平然と出席したという。

恥ずかしくて原一男先生と再会することができない。
むかしの誇大妄想狂的で世間知らずの自分を知っている先生と逢うことが恥ずかしい。
先生の下半身事情をたまたま偶然から知ってしまったから顔を合わせられない。
いくら先生が巨匠ぶって威勢のいいことをおっしゃっても、
しょせん老妻に隠れて教え子を手籠めにする人(その善悪はわからぬ)
なのだと知ってしまうと、恥ずかしくて、恥ずかしくて、なんでこんなに恥ずかしいのか。
もしかしたら原教授は、そんなことを恥ずかしいとも思ってもおらず、
教え子を権力にまかせて食うなんて当たり前だろう、
と考えていらっしゃるかもしれず、だったら、そんなことも知らぬ自分が恥ずかしい。
そもそも原先生の弟子は無数にいるわけで、
わたくしごときがこんなことを書いているのも恥ずかしい。
原先生が当方ごときを記憶していらっしゃらない可能性は8割近いと踏んでいる。
先生のご作品「ニッポン国VS泉南石綿村」というタイトルも恥ずかしい。
そういう単純な対立構図でしか世界を見られない師匠の単細胞が恥ずかしい。

3時間半のドキュメンタリー映画「ニッポン国VS泉南石綿村」――。
主人公の原告の生活者たちは撮影にくる大学教授先生をどう思っていたのだろう?
きっと「また教授先生が来たよ」とバカにしていたのではないか。
教授はおれたちに(映画になるような)過激な行動をしてほしいんだろう?
教授夫婦はそれを映画に撮影して、
おれたち庶民、生活者とは縁がない映画賞をいくつも受賞するんだろう?
アスベスト被害者が死ぬたびに喜々として、
芸術家や表現者ぶって、撮影しにくる原一男教授ってなんだ?
おまえばっかりいい思いをしてんじゃねーよ。
なにが表現者だ。生活者を舐めんなよ、教授先生!
師匠である原一男教授の表現作品を観るまえから、そういう予想がついてしまう。

73歳表現者(映画監督大学教授キネ旬権威)の
撮影した芸術映画「ニッポン国VS泉南石綿村」を
わざわざ渋谷まで行き1800円払って3時間半かけて神妙な顔で観る。
弟子は師匠の悪口を書けないから称賛するという前提条件のうえである。
わたしは律儀な弟子だから(?)
師匠の失敗作「またの日の知華」も映画館で鑑賞している。
ひどい悪口をブログに書いたが、
弟子としてはこれはいけないだろうと自粛して3日で削除した。
原一男監督の映画「ニッポン国VS泉南石綿村」を観て絶賛したほうがいいのだろうか?
意外と世間を熟知している原先生はトークショーの相手選びも入念である。
作家の睡蓮みどり氏とかわたしの十分の一の苦労も経験せず、
千倍の評価報酬を得ているのだろう。

巨匠の最新作「ニッポン国VS泉南石綿村」を観にいくかどうかはまだ決めていない。
わたしは渋谷が苦手で、なぜならかならずといっていいほど道に迷うから。
原さんのあまたいらっしゃるお手つきの女性に渋谷駅からガイドしてほしいなあ。
映画館の定員は50人くらいらしく、どれだけ金にならないんだよ。
わたしが師匠の最新作を観にいかないのは、
師匠に恥をかかせてはならないと思うからでもある。
映画上映後に質疑応答があるそうだが、
やばい質問をしそうな自分の危うさを知っている。
「原教授は何人のぴちぴちした教え子をヤリ部屋(事務所)でものにしたんですか?」
原一男先生はわたしがレイプ被害を10年以上まえに
うかがった女性のことも覚えていない可能性もあるので(常習犯疑惑)、
そういうことを知ってしまうのも恥ずかしくて渋谷におもむくことができない。
だれか誘ってくれないかなあ。ひとりでは恥ずかしくて師匠の原一男先生に逢えない。

(原一男教授先生映画の宣伝)
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