「喰いたい放題」(色川武大/光文社文庫)

→色川武大なんぞいまではよほどの好事家しか知らぬむかしの大衆作家だが、
いまとむかしではどちらがよかったのかという問題がつねにつきまとう。
むかしはパワハラ、アカハラ、セクハラなんて言葉はなかったわけでしょう?
その点よくなったとも言えるし悪くなったと言うこともできよう。
ここ10年でさえ、いろいろな価値観が変化してきている。
ほんの10年まえはひとりの学生が
シナリオ・センターという三流専門学校のひとりの無能講師の指導に逆らったら、
それだけで経営者の二代目社長さんは絶対正義の自分たちに逆らうなと激怒し、
あろうことかお金をもらっている学生を強制的に追放どころか、
人権侵害ともまごうべき立ち入り禁止にさえすることができたのだ。
いまは天下の早稲田大学でさえ被害生徒の訴えを聞き入れ、
いまのところは問題教授を停職処分にして時勢をうかがっている。
どのみち、お金は返すだろう。
慰謝料がどうなるかは興味がある。いま裏で協議されていることであろう。
戦後強くなったのは靴下と女だと言われるが、
価値という面ではいまは女性集団の価格はバブルのように急上昇しているものの、
女の実勢価値は下落するいっぽうではないかと思われる。
職場で同世代の労働者に実地調査すると、女はもういいと思っている男が少なくない。

この10年、20年でいちばん価格が上がった食品は鰻(うなぎ)ではないか。
料理屋でもスーパーでも値上がりが半端ない。
鰻は滋養にいいのだから仕方がないという見方もできよう。
まえにも書いたが、鰻はむかしから好きだった。
いまは比較的安価な中国産ともはや宝石のように光り輝く国産品にわかれる。
むかし専門店で小さな天然国産鰻をお重で食べるチャンスがあったとき、なんだと憤った。
これならスーパーの中国産養殖鰻のほうが脂(あぶら)が乗っていてうまいではないか。
むかしの食通作家、色川武大はいま(当時)の鰻など食えたものではないという。
理由が洒落ているので紹介したい。たしかに鰻はうまい――。

「しかし、鰻そのものは、昔に比べてぐっと味が落ちた。
よく古老が、なんにつけても昔のものをほめて、
今をけなすのをきき苦しく思っていたが、
鰻に関しては私も古老と歩調を合わせなければならない。
まず第一に、養殖のもの、ただひたすらに肥満していて、
脂だくさん、身が柔らかすぎる。
養殖場で、なんの苦労もなく、飽食していたものの持つだらしのない味だ。
舌にのせてトロ、はいいけれど、トロトロすぎる。
昔の天然鰻は、もっと苦労を積んで生きてきたものの精があった。
それが微妙な味わいをうみ、舌にのせておけばトロ、だけれども、
同時にピンと張ったしたたかさも感じさせる」(P239)


明日は「土用の丑の日」だが、みなさまはどこで鰻をご購入なさるだろうか?
今日の段階で各スーパーの鮮魚売場にはわが大好物である鰻であふれていた。
あれって明日、売り切れるわけではないだろう?
明日の閉店間際や明後日に行ったら、どうなっているのだろう。
お正月後の「おせち」のようになっていたらぜひ買いたい。
しかし、鰻はどうしてか安くならないのだ。また冷凍するのだろうか。
「商売に精を出す」という言葉は、いまでは死語に近くなったのではないか?
精を出すには精をつけなければならない。
むかしの卵はいまのように安くなく、無精卵ではなく有精卵であったという。
文筆稼業に精を出すために精を必要とした色川武大はむかしの話をする。

「江戸小咄(こばなし)などでも、女郎[じょろう/商売女? 売春婦? 風俗嬢?]が
抱え主[雇い主]の眼を盗んで夜鳴きうどん[屋台のうどん店]をとり、
懐中に大事そうに忍ばせてきたたまごを、カチッと割り入れたりする場面がある。
あれも有精卵だから、滋養になるとも思えるし、
生あるもの同士が喰べたり喰べられたりする哀れも誘うのである。
それに、高価ではないにせよ、現今のように安くはなかったように思う。
安くて、感動もなく量産されていて、くだらなく便利になってしまったな」(P31)


色川武大の「もっと苦労を積んで生きてきたものの精」
という言葉がいまわが身に響いている。反響している。
古い小説を読んでいると、
むかしの人の苦労はパワハラ、アカハラ、セクハラ当たり前の世界である。
むかしはいいと言うほど老人ではないが、
酒精はむかしのほうが強く感じられてうらやましい。
酒精とは酒のちからを借りてでも、なにかことをなしてやろうという気力の表明である。
いまは精神が宿っていないものが多すぎるが、その善悪はわからない。
精神科の春日武彦医師によるといまは精神病患者のパワーも弱いらしい。
かつては格が上なものから理不尽な凌辱(りょうじゅく)を受け、
なみだを飲み、それを精神のちからとした女性もいたことであろう。
権力者ぶった女性から人権を凌辱され(被害妄想に近似)、
その怨恨を返そうと虎視眈々と10年近く狙っている病的な臥薪嘗胆の男を知っている。

精をつけよう。「安くて、感動もなく量産されていて、くだらなく便利」な時代を
生きる我われも精魂を鍛えよう。
それはかならずしも明日、鰻を食べようというわけではない。
廃棄率、経済効率を考えると明日に鰻を食べるのはいいが、
精をつけるとはそういうことではない。いつか精を出すために精をつけるのである。
自戒を込めて書くが、カップ麺ではなく精がつくものを食べるようにしたい。
カップ麺もいやはや異常なほどうまいものもなくはないが、けれども、しかしだ。
見るからに精が強そうな人、弱そうな人が男女ともにいる。
一時期、精が強そうでもいつの間にか弱まっている男女もいる。
いったい精とはなんだろうか? おそらくそれは「いのち」だろう。
みんな毎日「いのち」を残酷無比にも殺して(殺させて)、それらを食しながら生きている。

公立中学校2年のときSさんというお嬢さまがいた。
かなり家柄のいい気品あるお嬢さまだったようだ。
そういう子は悪ぶりたがるもので、チン毛のような不良グループとも交際があった。
14歳のときである。中学2年生である。
体育館で集会があったとき、退場するわたしにチン毛ちびのWが声をかけてきた。
振り返ると、チン毛は同級生の高貴なお嬢さまSの背中をお遊戯のように押し倒した。
正しい体育座りをしていたSさんは大げさに身体を崩し大股開きになり、
真っ白なパンツをわたしに向けて公開した。
ちょび髭もはえそろわないチン毛のWが「見たな~」とからかってきた。
家柄のよい美少女のSさんは一瞬はにかみの表情を見せると、
きっとこちらを厳しい目でにらんできた。
どこかで遊びの気配があった。Yと少女が共謀した可能性もあるのではないか。
少女の目が遊んでいた。
わたしも恥ずかしくて「ごちそうさま」のようなかたちで後ろ手を振った。
瞬間こころがときめいていたのは否定できない。
お嬢さまの少女Sに、
そんないたずらをできるチン毛ちびのWがうらやましくなかったはずがあろうか。
知性がないとはにかみもエロスも(誤解にせよ)深く味わえない。
なんでもない小事件をおおげさに解釈していたという可能性も否定する気はない。
10~30歳くらいまでは女のほうが平均として男よりも優秀だと思う。
医学部とか成績で取ったら女医ばっかになっちゃうから男女で得点調整していると聞く。
早慶レベルでも男女で得点調整は何十年もしているはずである。
早稲田の第一文学部に入って驚いたのは女の子の勉強ができること!
比較して、わたしをふくめて男子のあたまがよくないこと。
東大はほとんど得点調整をしていない気がする。
だって、女が東大に入ったらお嫁のもらい手がなくなっちゃうじゃないですか。
東大卒の嫁とかふつうの男ならプレッシャーが強すぎる(わたしは平気)。
たぶん一流会社もあらかじめ男女比を決めたうえで採用しているのではないか。
20代前半なんか女子の真っ盛りなんだから、
本当の人事評価をしたら会社が女ばかりになる。
女性は出産や子育てがあるから、それは困る。
それになぜかふしぎと男は30~40歳くらいに急に伸びるやつがいるのである。
保育士やナース、カウンセラーといった女性ならではの仕事は例外だが、
女は30を超えるといままでよく出ていた女性らしさがヒステリックな怖さとなり、
反面、子育てという面を考えたら女性のヒステリーはしつけに効果があるだろう。
既婚者に聞くと、夫も妻にしだいにしつけられていくらしい、おヒスこわっ。
早稲田の女子学生とかわたしなんか勝負にならないほど賢かったなあ。
中国語演習とか男はメチャクチャで、女は完全予習をしてきている。
ミスタードーナツでアルバイトをしながら、
なお中国語も完璧だったMさんという性格もいい賢女がいたなあ。
早稲田の男は舐めてもいいが、早稲女は舐めたら痛い目を見る。
人気取りでフェミニストぶっているわけではなく、事実の提示だ。
わたしがフェミニストなんてとんでもない話で、好きな作家はストリンドベリで、
彼の愛誦の句は「女をこれ以上つけあがらせてはならない」だからな。

(関連記事)「女性についてのことわざ」←ちょー笑った。
https://matome.naver.jp/odai/2133765583725645601
ちょっと運勢が好転するかなあ、そうしたら父も喜んでくれるかなあと電話。
「おまえ酒を飲んでいるだろう」とか父は歓迎の言葉をくれず不機嫌極まりない。
家族の運勢というものはかならずあるとわたしは信じている。
ゴマキが大成功しちゃったのと実弟の犯罪は共時的現象でしょう。
ほかにもいろいろ例は挙げられるが家族のひとりが成功するともうひとりがダメになる。
人生は努力ではなく運だ。
父は努力信者で365日24時間働き、息子と逢うとおのれの大勝利アピールばかり。
男なんてそんなもんだが母が精神病になったときも「おれには仕事がある」でスルー。
母がわたしの目のまえで恨みがましい遺書をのこして自殺したときも、
「おれには仕事がある」でスルー。通夜にも葬式にも来なかった。
しかし、それが男なのかもしれない。
いま父の運勢は弱まっている。おととしあたまをやって半身麻痺。
杖をつかないと歩けないのに、
あえて杖を持ちながら使わないで「おれは元気だ」のアピールをしている。
あのあたりは自転車が暴走しているから、
杖をついたほうが後方から障害者だとわかりリスクは下がる。
しかし、父は杖を45度くらいに持ち上げながら亀のように歩いている。
いくら杖をついたらと助言しても「おれは間違っていない」「ケンジは間違っている」。
NHKと読売新聞が大好きな父は、
新聞広告で見かけたインチキ健康食品を飲み始めたらしく、
「この薬が効いているからもうすぐ治るだろう」と意味不明なことを言っている。
精神病の母は朝日新聞が大好きで、
なにか衝突があると「私は朝日新聞を読んでいるから正しい」の一点ばりだった。
朝日新聞は母親なるもの息子の目のまえで飛び降り自殺しろって書いてあるんですか?
さっき父からしたらちょっとした幸福であろうこと(わが慶事)を、
家族のきずなにしたがい報告したら喜ぶどころか冷たい反応が返ってきた。
父と息子の関係はこういうものなのだろう。
わたしも父の亀歩行を横でにやにやしながら笑っていたから人のことは言えない。
バカをどうするかという最大に近い難問がある。バカは治らない。
先日、どうして東大に落ちたんですか? と聞かれ、
バカだからとは答えられず、数学ができなくて、とごまかした。
その自分の欺瞞がいやで東大日本史や東大現代文の話をいたしました。
知っている人は知っているだろうけれど、
東大の日本史や現代文に「正しい答え」はほとんどない。
なぜなら東大が「正解」を(センター試験のように)発表していないからである。
東大現代文はとくに宗教がかっていて、
入試後に各予備校が発表する「答え」がまったく異なる。
わたしは河合塾で大川邦夫先生の出す答えをいちばん正しいと信じたが、
それは信仰の領域で、本当の「正解」は出題者しか知りえない。
東大日本史もそうだ。あれは東大歴史学者の史観を答えろと言っているに近い。
ただし、おっしゃる通り数学(理系学問)の答えはほぼ一致する。

去年、超名門の追手門学院大卒の芥川賞創価作家の「田園発~」という小説を読んだ。
この作家は小説にリアルな「なま」をぶっこむところがあるので好きだ。
この小説の主要登場人物の中学生男子に、深い愛情を寄せる高校教師がいた。
たしか数学教師だったと記憶している。
高校教師はなにをするかというと、自分の縁のある男子にこの問題をやれと指導する。
高校教師は所属する名門校の入試問題を作成する責任者である。
こういうことをするのは人情で、
断じて不正ではないと小説家の宮本輝は「田園発~」で書いている。
ああ、これが創価学会の周辺なのだなとわたしは納得した。
いま医大入試の不正で騒がれているが、あんなものは脇が甘いのひと言で終わる。
問題にはかならず出題者がいるのだから問題(解答)をあらかじめ教えてあげたらいい。
司法試験だって公務員試験だって、あらゆる試験で出題者がいる。
出題者は答えを知っている。
どういうことかというと、そこで裏組織のたとえば創価学会なんだなあ。
これ以上は言えないが、あたまのいい人はわたしの言いたいことをご理解くださるだろう。
わたしはそれを不正と思っておらず人情との認識があることをここに正式表明する。
世の中はそういうものではないのかしら?
「小説にすがりつきたい夜もある」(西村賢太/文春文庫)

→このまえ散歩をしていたら近所の公園で高校生の男女が抱き合ったり、
接吻を交わしたりなぞしており、それが夕暮れどきでおっさんはええなあ、ええなあと。
若い美男子も美少女もほんまにええもんやなあ。
性欲がまんたんのときにそういうことをするのってどれだけ極楽気分なのだろう。
西村賢太もわたしもそういう性春を味わえなかったくちだから性格がゆがむのである。
文学はどこまで性格異常が進行しているかが勝負であり、
西村賢太は現代の文豪たるにふさわしい風格を備えている。
おなじ低学歴の中上健次のように、
コンプレックスから大学教員に色目を使わないところもいい。
みんなが思っていることを言うと、中上健次の小説は読みにくいし、よくわからないし、
なによりおもしろくないじゃないですか。
いっぽう西村賢太は読みやすいし、わかりやすいし、なによりおもしろい。
なんでおもしろくもないものをテクスト読解して
利口ぶりたがるバカ学者やバカ学生がいるのかわからない。
おもしろけりゃなんだっていいんだよ。
わたしのなかでは西村賢太のほうが中上健次よりもはるかに上である。

性欲旺盛な若いころにもてなかったという怨念を昇華するのが男の文学だろう。
いま西村賢太は成功者で有名人でもてるだろうが、
そうなると女ってなに? と女性嫌悪におちいらないのだろうか。
世の中には女を買わないといけない中卒の西村賢太タイプと、
いくらでも若い女子大生とタダマンできる早稲田の渡部直己タイプにわかれる。
そんなに女っていいいものだろうかという、
やばい本音を汗っかきのデリヘル好きの西村賢太は白状している。

「こう見えて、私は根がかなり人に気を遣う質にできている。
それは買淫時の相手たる女性に対しても然りで、
今日は抜こうと決めた日は、自宅で歯を磨いて金玉を洗い、
そして再びホテルでも浴室を使って口内を洗浄する程の、
ことマナーの点では我ながら見上げたところを有する男なのである。
そんな私であれば、自らのプレイ中における異常な発汗量に
無神経でいられるはずもない。
また悪いことに私は正常位に快楽の重きを置くタイプである。
しかも挿入後、上半身を相手に覆いかぶせるかたちで密着させつつの上下運動に、
最も性交の醍醐味を見出すタイプでもある。
無論、これは肌がより密着する分、互いの体温が激しく上昇し合うし、
上なる私の熱汗が、下なる女性の顔面にポタポタふりかかってゆく仕儀ともなる。
と、なれば私たる者、気が引けると同時に腰の方も引けてくる。
そんな気持ちの上での申し訳なさは、
次第に一物の張り具合にも影響を及ぼしてくるのだ。
イヤ、何もそう廻りくどい云い方をせずとも良い。
もっと雑駁(ざっぱく)に云えば、単に暑さの度が過ぎると鬱陶しくって勃起も萎えるが、
しかし、それでも汗みずくになり、口の臭い女を必死で突き上げている自分自身が、
えらくバカバカしい物体に思われてきてしまうのである」(P172)


このまえハロワで就職したかったら、取る側のことを考えろと指導され、
それはまさしくわが思うところ、意気投合、御意然りと思い、
わたしが雇う側だったらぜったいに自分なんか採用しませんと真顔で答えたら、
あなたにだって長所はあるはずなんだからそれを探して、
と悲鳴のようなご指導をありがたくもいただいたが、池袋のハロワはおもしろい。
わたしも西村賢太とおなじで、自分が相手の女だったらと考えるほうである。
自分が女だったらぜったいわたしなんかと付き合わないし、
それ以前にいちおう自分をよく知っているつもりだから、
すべての女に対しておれなんかと付き合わないほうがいいという客観的結論に達する。
結婚している男は多かろうが、ふしぎなのは自分程度と女を見定める眼である。
ほんとうにその相手がいい女だと思ったらば、
自分よりも上の男と交際したほうがいいという客観的結論にどうして至らないのか。
あんがい結婚なんぞ20代の性欲の盛りに女にだまされてしてしまい、
子どもまでできてしまい、もう生活から逃げられなくなるという、
悪魔的かつ生物学的に正しい宇宙生命的な大がかりの罠(わな)やもしれぬ。
もてない独身貴族の西村賢太はいま非常な幸福感を味わっているのかもしれない。
西村賢太は若いころもてなかったぶん、いまいい思いをしているのかもしれない。
早稲田のセクハラ教授、66歳の渡部直己がバカだと思う根拠は、
27歳のぴちぴちのギャルが自分なんかに求愛されて嬉しいかどうかを考えられない、
「想像力の欠如」ゆえである。自分も相手も見えていない。人間が見えていない。
きっといま西村賢太も渡部直己の凋落に連夜祝杯を上げていることだろう。乾杯。
そして色即是空。

「ケチで貧乏根性の私は、[デリヘルで]折角こちらでお金を払う以上は、
できる限り相手からのサービスを享受したい。プロならば、
是非ともこちらを存分にイカせてもらいたいところだ。
これは趣味嗜好の違いと云うよりは、
結句は”風俗”に対する自身のスタンスの問題であろう。
が、これを相手側の立場で考えてみると、
果たしてどんあものであろうか。
考えてみると私自身、こと本番ありの風俗においては、
これまでかなりの数の交渉があるものの、
さて先方をイカせるまでに至った事態はどれだけあるのか。
先様の、はなから眉唾の自己申告はともかく、
実際にそれは殆(ほとん)ど皆無なことに違いない。
何しろ、たまには奉仕として指でもって愛撫を加え、その見事な乱れっぷりに
このまま昇天さしてあげようと思っても、やがて”痛い”なぞ本音を呟かれると、
そこで一気に興ざめしてしまう」(P227)


本当はセックスなんか嫌いな男女が相手のためを思って、
本音はいやいやしているのだが演戯で歓喜表現の奉仕をしていたら、
相手もセックス嫌いなのに、
相手のためを思って相手が嫌いなセックスをしきりに求めてくるという事態も
妄想ならぬ現実世界では少なくないのではないか。
しかし、メスにとってオスの男根が直角以上に勃起しているという現象は、
おのれの存在意義、役割意識、自己肯定感を深く満たすものであろう。
いかにもいまを生きる文豪らしく西村賢太はアダルトビデオを嫌っている。
通俗アダルトビデオが嫌いなのはなにより第一――。

「それに第一、他人の絡みを眺めたところで、結句つのるのは羨望感ばかりで、
男優のフィニッシュに合わせて自分も果てるなぞ、
気色悪くて到底でき得る芸当ではない。
だが、これが写真の類なら、かような気分に陥ることもなく、
被写体たる、さまざまなタイプの女に向けて、
あくまでも自分を主としたイマジネーションを働かせることができるのだ。
その空想の中では、自らがその女の相手となり、いかようにも、
どんなプレイをも、心ゆくまで敢行できるのである」(P216)


なんで男全般、女をコントロール(支配)したがるのだろう。
わたしも西村賢太とおなじでアダルトビデオはつまらないと思うが、性的妄想は異なる。
こちらは宮台真司ブルセラ学者とおなじで、女性の気持に欲情する変態種である。
いつだったか、おもしろいアダルトビデオを観た。
それは盗撮風で中学2年くらいの女子が公園で高2くらいのイケメンに迫るものである。
なにがおもしろいかといったら、少女がまったく美しくないメガネブスなところ。
しかし、イケメンの関心を引きたくて安っぽい超ミニスカートを着用している。
14歳くらいの少女がエロいのだ。
イケメンの先輩に気に入られようと、
わざとパンツを見せたり、胸をさわらせたりするどころではない。
不細工な少女はわざと先輩の膝枕に寝て男性器をあからさまに身体全体で刺激する。
男子高校生の勃起は衣服着用のうえでさえわかるほどである。
だが、男子高校生はイケメンで細身の女子中学生はブスである。
女子中学生は先輩の手を自分の股間に持って行き手マンさせるように仕向ける。
パンツの上からの手マンではなく、じかの陰唇手嬲りでございますった。
そこで14歳の少女が恥ずかしがりながらもヨガるのには参った。
演戯かどうかはわからないが醜い細身の少女はイケメンの手技に降参する。
イケメンはといえば少女の濡れた陰唇を弄んだおのが手を
汚らしいとでもいうかのごとく、タオルを探しだしてエンガチョのごとく拭いている。
最後はお慰みというようにご褒美というように、
いやいや美男子はしこめの少女に接吻してやる。
メスって14歳くらいからこんな生物学的知識があるのかと感動興奮欲情した。
わたしはセクハラなんてできない女の気持を尊重する男だと思った。
男のエロよりも女のエロのほうがはるかに深いと思っている。
おそらく西村賢太もこういうことは知っていると思うし、
その脱フェミニズム視点から新作を書いてほしいと期待している。

ああ、賢太先輩のように女におぼれたい。あくどい女にだまされたい。
賢太兄貴はY子という専門学校くずれの風俗嬢に惚れ込んだことがあるという。
店に通いつめ、請われるがままにブランド品を贈った。
あげくのはてにY子のカードローン80万円の肩代わりまでしてやった。
全身全霊全財産を西村賢太は、
渡部直己教授ならば相手にしないような専門学校くずれの女に捧げたのである。

「結句Y子[陽子かなあ?]とは、
プライベートでことを行なえたのはただの一回、
一発限りで終わったから、何とも割高な昇天である[射精一発80万円かよ!]。
で、この経緯を「けがれなき酒のへど」と題し、
現代落語を草する気持ちで百二十枚の作に仕上げてみた。
そしてこれが商業文芸誌に転載の運びとなり、
私の実質的なデビュー作となったのだから世の中わからないものである。
おまけに該作は、当初に坪内祐三氏が褒めてくれ、
最近では高田文夫先生が面白がっても下すったから、
有り金まき上げられた元もすっかり取り戻して、お釣りまできたようなものだ。
こうなると恥も小説もかいとくものである」(P150)


120枚という小説の感覚を知りたくて、
ちかぢか「けがれなき酒のへど」を再読するかもしれない。
再読に耐える作家がほんものといえるのではないか。
わたしも尊敬する西村賢太のように女におぼれて大損してみたい。
世間のいわゆるマイナスは結句、文学の世界では何倍ものプラスとして返ってくる。
今年はじめミャンマーで千ドルだまし取られたが、わたしは喜々として報告した。
他人のマイナス(不幸)を読むほど
おもしろいことはないというストリンドベリ的な信念による。
男はやたら自慢話、プラスの自己アピールが好きだが、
わたしはそういうのはなるべく書きたくないという女々しい弱性男子である。
が、女に誘惑されだまされケツ毛まで持って行かれたいというおかしな文学妄想がある。
きっと西村賢太もそうだろう。金ならあるぞとおそらく小心者の男は笑っている。
いい本を読んだ。
いわゆる現代文学で気になるのはいまや西村賢太だけになってしまった。
よもやま評論家の小谷野敦や精神科医の春日武彦先生も広いくくりでは文学者だろうが、
権力団体の早稲田文学がそういうことを認めていないのだから仕方がない。
おもしろいエッセイをぞんぶんに楽しむことができた。じつに喜ばしい「事件」であった。

「英雄児」(司馬遼太郎/新潮文庫)

→英雄は英雄であって英雌ではないのである。
女は英雄になれないし、男もなかなか英雄にはなれないから、
男女ともに英雄を好んで描いた司馬遼太郎の小説に惚れるのだろう。
男がなぜみな英雄になれないのかというと大人になるからである。
英雄は大人の男でありながら、なお子どもでなければならない。
英雄は女のように目先の損得勘定や世間の規範にしがたってせこせこ生きるのではなく、
少年のように野望、大志がなければならない。
天下のもとに生まれたのならば天下を取らんと欲しなければならぬ。
先日、ある女性から司馬遼太郎が好きという意外なことを教えてもらい、
理由を問うたら「だって(小説の登場人物が)男らしくて格好いいじゃない」――。
現実にはそういう男はなかなかいないが、司馬遼太郎の小説のなかにはいる。
天下を取るのをあきらめるのではなく、
虎視眈々と天命さえも逆らおうとおのれの宿命を華々しく開花させんと狙うやから。
彼が「英雄児」である。
先ごろ死刑が執行された麻原彰晃は司馬遼太郎のいうところの「英雄児」だ。
男は生まれてくる時代が悪かった。
もし生まれてくる天地人が異なっていたら彼は「英雄児」ではなく英雄になっていただろう。
仏教観的には司馬は創価学会が大嫌いで踊り念仏の一遍を絶賛していたが、
それは池田大作が天地人に恵まれた英雄であり、
天命に逆らおうと欲するも天下を取れず、
歴史という運命の奔流に巻き込まれ敗れ去る「英雄児」ではなかったからではないか。

司馬が名作短編「英雄児」で描くのは河合継之助である。
継之助は越前長岡藩の男で幕末のころ官軍に壮大な戦いを挑み敗れ去る。
この短編を読んで歴史小説、時代小説を読めないわけがようやくわかった。
わたしは河合継之助を知らないし、
そもそも当時の地名や幕藩体制といった基礎知識がないから理解できないのだ。
歴史小説、時代小説の旨(うま)みを味わえない。
しかし、司馬が「英雄児」を愛したように河合継之助を愛することならばできる。
「英雄児」はいいおっさんになってもぷらぷら遊び歩いているのがいい。
なぜそういう非常識なことができるかといえば、おのれを大物と信じるがゆえだ。
学校(私塾)に行っても、まったく当時でいう(流行の)学問をしない。
講師の指導にもまったく耳を貸さない。このため――。

「学問は、おそろしく出来ない。
出来ないというより、自己流に興味のある特別な学問に熱中しているようであった」(P11)


学校の宿題(漢詩文)など自分を慕う若年の後輩に焼き芋をおごってやらせてしまう。
劣等生であった「英雄児」を師匠と目した新米坊主の慧眼も見事である。
学校という領域では劣等生の「英雄児」は若い男に本当のことを教えてやる。

「詩だの文章だのということがいくら拙(つたな)くても、人間の価値にかかわりはない。
大体、漢学者などは、詩文がうまければそれでりっぱな学者だと
世間も自分も心得ている。そんなもので天下の事が成るか」(P12)


優等生の学友であるはるか年下の新米坊主はなるほどと理解する。

「この男の学問観は、
学問とは自分の行動の力になるものでなければならない、
というものであった」(P13)


上記の引用の「学問」を「小説」に言い換えたら司馬の小説観になるのではないか。
司馬遼太郎の小説観は、
小説とは自分の行動の力になるものでなければならない、
というものであったのではないか。
学問的理論を支柱とした純文学など小説であってたまるか。
人を揺り動かすのが本当の小説で学問高尚遊戯は小説ではない。
「英雄児」がなぜこの学校に通っていたかといえば、
たまたま図書館で発見した「李忠定(りちゅうてい)公集」を筆写するためである。
李忠定はほとんどの学者が名前も知らないような無名の中国の政治家。
「宋朝末期の名臣」らしいが、中国史はよくわからない。
「英雄児」の継之助は李忠定に惚れ込む。男が男に惚れるのである。

「ときに継之助は、幕末の物情騒然たる時勢に生きている。
――おれの生涯は李忠定だ。
と、ひそかに心を決するところがあった。
この男は自分の気質にあう書物以外はよまなかったが、
この「李忠定公集」ほど感銘したものはなかったらしい」(P17)


「英雄児」は「英雄児」に惚れ込むのである。男が男に惚れる。
田中英光は太宰治に惚れ殉死したし、西村賢太は藤澤清造に惚れ込んだし、
遠藤周作がイエスを慕ったように宮本輝は池田大作(日蓮)に惚れたし、
この理屈でいえばこの文章の書き手は一遍、
ストリンドベリ、ユージン・オニールにただならぬ影響を受けている。
司馬遼太郎は河合継之助に惚れ込み「英雄児」を書き、
のちには長編小説「峠」のモデルにするほどこの男を愛した。
女流の柳美里も太宰治に惚れたとうそぶいているが、
40過ぎまで生きて先ごろ50歳の誕生日をブログで自分で祝っていたから、
このあたりが女郎(めろう)の限界であり、その堅実な生活観は長所でもあろう。
女は英雄にも「英雄児」にもなれず、老いてババアになるだけなのだが、
そこが女のかわいさであり愛らしさであり、
男にはない女ならではの、はかなき美々しさであろう。
英雄色を好むではないが「英雄児」は足しげく商売女のもとに通ったと小説では語られる。
劣等生のフーゾク好きの中年男「英雄児」は新米小僧に女を語る。
新米坊主は朋輩にフーゾクに連れて行かれそうになり逃げ帰ってきた。
「英雄児」ならそうするだろうと思ったからである。
しかし、このあと「英雄児」がいちばんのフーゾク好きだったことを知る。
「英雄児」は15歳年下の若僧に女を語る。
自分は女を知るためにフーゾクに通い詰め、お嬢を△○◎の3つに分けた。

「これだけ買いはしたさ。しかし◎の者になると、
これは男子にとって容易な敵ではない。
おれはかねてから女におぼれるのは惰弱(だじゃく)な男だけかと思っていた。
しかしそうではない。
惰弱なのはあるいは○△におぼれるかもしれぬ。
しかし◎には、英雄豪傑ほど溺(おぼ)れるものだと思った。
溺れる、といっても、羽織を着せられて、
背中をポンとたたかれるからどうこうというのではない。
その情には、一種名状しがたい消息があり、
知らず知らずのうちに男子の鉄腸が溶けてゆく。
むしろ英雄豪傑ほど溶けやすい。(……)
だから試してみたのさ。
そのあげくの果てのつまるところが、女はよいものだ、と思った。
心ノ臓の慄(ふる)えるほどに思った。いまもおもっている」(P29)


英雄豪傑を自認する男がおぼれるのは女なのか同性たる「英雄児」なのか。
「女の敵は女」だから、女が女に惚れるということはないが、
男は男色という意味合いをまったく抜きにしておなじ男に惚れることができる。
英雄は男に惚れるべきか女に惚れるべきか「英雄児」は悩み結論づける。

「おれという人間は、自分の一生というものの大体の算段をつけて生きている。
なるほどおれの家は小禄(しょうろく)だし、おれの藩は小藩だが、
小藩なだけに将来、藩はおれにたよって来ることになるだろう。
なるほど同じ一生を送るにしても、婦女に鉄腸を溶かして生きるのも一興かもしれぬ。
しかし人間、ふた通りの生きかたはできぬものだ。
おれはおれの算段どおりに生きねばならん」(P29)


むろん、人間だれしも算段どおりに生きられるわけもなく、
そこらへんがファイナンシャル・プランナーとかいう大馬鹿どもが嫌いなゆえんだが、
「英雄児」は英雄のように算段どおりに生きられぬ、
そのところをもって男は「英雄児」になりうるのである。
英雄豪傑たらんと欲する「英雄児」たる男は女におぼれるのもいいが男におぼれろ。
大学教授とかいうステータスを用いて、
男にも女にもおぼれず(人に惚れる才能がない無血漢!)、
そのくせていよく若き女学生を毎度まいど
こまそうとする早稲田の渡部直己なんぞという卑劣漢は早く切腹しろ。
恥を知れ馬鹿者が。芸術はテクスト読解するものではなく惚れるものだ。
芸術は、人間は、人生は、批評対象ではなく、惚れ込んでこそである。
わたしが渡部直己の教え子だったら、
「じゃあ教授が小説を書いてくださいよ」といびり殺してやったことだろう。
似たような存在の江中直紀教授は大学外で喧嘩したら勝てる、と在学中は我慢して、
卒業後はつまらない人間だからすぐに忘れてしまっていたのだが、そうしたら天罰覿面。
みじめにもなんの業績もなく早死にして無名のまま犬のようにおっ死(ち)んだ。
江中直紀は男からも女からも惚れられない、すなわち行動がない、
いかにもいかにもなシャレオツなおフランス学者であった。
詩だの文章だのということがいくら拙くても、人間の価値にかかわりはない。
大体、仏文学者などは、詩文がうまければそれでりっぱな学者だと
世間も自分も心得ている。そんなもので天下の事が成るか――。
小説家の司馬遼太郎は「英雄児」河合継之助を上杉謙信に比している。

「謙信という人物は、軍神に誓って生涯女色を絶ち、その代償として常勝を願った。
ほとんど奇人といえるほど領土的野心が乏しく、
むしろ芸術的意欲といっていいような衝動から戦さをし、常に勝った。
謙信は戦争を芸術か宗教のように考えていた男だが、
河合継之助にも、気質的には多分にそういうところがあったにちがいない」(P48)


「英雄児」は英雄ではない。永遠に「ひのき」になれない「あすなろ」のようなものである。
いかに算段をつけ野望をいだいても人生はままならぬ。
しかし、そこに人ならぬ神仏の創作の手が入っているのではないか。
しかるがゆえに最後には敗北する「英雄児」は雄々しくも美々しいのではないか。
「英雄児」にして独裁者の河合継之助は強力な私兵団をつくり大勢の人を殺した。
オウム真理教の麻原彰晃なんぞの比ではないたくさんの人間を「英雄児」は殺している。
が、男は殺人鬼ではなく「英雄児」である。
男たちに告ぐ、老いも若きも男性諸君、英雄を目指す「英雄児」にならないか。
天下を取ろうという誇大妄想的な野心をせっかく男として生まれたのになぜ持たぬか。
女のご機嫌うかがいなぞしている暇があったら男は英雄を目指し、そして挫折しろ。
人生、どうせこんなもんだと思うな。ふざけんな、いまにみておれと臥薪嘗胆せよ。
十人や百人、千人だって殺してみせると不敵に不逞に不敬におのれを狂信してみないか。
殺していい理由は自分が天下のもとに殺されてもいいからである。
小市民的な女性的価値観にうんざりしているのは男性ばかりではないのだろう。
「男には男のふるさとがあるという」(中島みゆき「旅人のうた」)。

(関連記事)
「宗教と日本人 司馬遼太郎対話選集8」(司馬遼太郎/文春文庫)
「人間というもの」(司馬遼太郎/PHP文庫)

「無力感は狂いのはじまり 「狂い」の構造2」(春日武彦×平山夢明/扶桑社新書)

→どこのブックオフにも売っていそうな精神科医とホラー作家の対談本だが、
これはいまアマゾンでは4500円以上の価格がついている超入手困難本。
もとより、当方は定価以下で仕入れたが(方法は秘密)、
読了後どうしてここまで高値がついているのかはわからなかった。
さて、インターネットは化け物である。
今後どのような変化(進化)を遂げるのかわからない。
大手マスコミのみならず公的報道機関が伝えられない個人的な思いをネットは伝えうる。
当然、プラスばかりではなくマイナスの未知数も膨大でどうなるか読めない分野である。
むかしは本の著者は自著の本当の感想を知りえなかった。
新聞書評は馴れ合いだし、
いまはなき(まだある?)読者ハガキに作者の悪口を書くものはいなかっただろう。
しかし、いまはだれでもネットを使えば匿名で本の批評ができる。
ところが、これは著者にとってはたまらないのではないか。
春日武彦医師はエゴサーチ――すなわちネットで自分の名前で検索すること――
をなさっているのかどうだか。このあたりの本音がおもしろかった。
著書多数の精神科医いわく。

「俺は傷つくからね。絶対に検索なんてしない。
でも、心が弱っていると、ついやっちゃうんだよね。
世の中から見捨てられている気分になったときとかさ。
それでやっぱり見なきゃよかったって思う。もう何度も誓いを新たにしている」(P201)


春日医師は「とんちんかんなことを書いているヤツが多い」と思う。

「ちょっと俺の前に座れ、ひと晩じっくりお前の見解の正当性について
話そうじゃないかと言ってやりたくなるヤツばかり。(……)
本当にそいつを捕まえられたらね、素人だって公に意見を出した以上はさ」(P202)


ああ、春日先生に呼び出されて、愛猫のようにちょこんと御前に座りたい。
「ひと晩じっくりぼくの見解の正当性」について春日先生と話し合いたい。
うちから春日先生ご自慢のお屋敷まで往復しても交通費は千円もしない。
春日先生の本音をうかがい、氏の弟子たることを生きるモチベーションにして、
先生がお亡くなりになったあとに春日先生はこうおっしゃっていたと世に訴えたい。
精神科医の春日武彦氏の内部には、
言いたくても言えないことが渦巻いているのではないか。
春日さんはそういうことを、いじましくも飼い猫相手にぼやいているというではないか。
かっぱえびせんが好きな春日先生の愛猫になりたい。
春日先生がさみしそうにしていたら、おひざの上に乗っかって甘え、
反対に先生が甘えさせてくれと迫ってきたら、つんと逃げるような猫になりたい。
ふつうなら下記のような不謹慎な本音は書籍には書けないのである。
しかし、春日医師は物怖じしない。
いったい男の深奥にはどんな禍々しき本音が渦巻いているのだろう。
現在は精神病院の院長先生である春日氏は産婦人科から医者稼業をスタートしている。

「俺ね、産婦人科をやっていたとき、
来た患者とやれるかってシミュレーションを反射的にしていたの。
そうすると、大部分は出来ないわけよ。だけど、そんな人にも相手がいるわけ。
だからね、俺はどんなのでもやるヤツがいるんだという結論に達した」(P129)


ものすごい本音を手榴弾のように読者のこころに投げ込んでくるソルジャーだ。
バ・ク・ハ・ツだ~よ!
きたないおんなの顔とおまんこを見比べ、げんなりする若き産婦人科医はサイコー!
わたしも老若問わずカップルを見かけると、
双方の顔のつりあいを考えニヤニヤするような彼岸的異常性がある。
どの夫婦にも運命の不可思議さを見て取れるような神秘主義者だ。

この本に春日医師の臨床的結論として誤りを指摘したくもない部分もなくはないが、
それは先生と向かい合って話したときにしか言えるものではなく、
おいそれとだれでも無料閲覧可能なネットで語るものではないだろう。
意外と本当のことというのは記録として残る本には書かれていないのではないか。
わたしが対談集を好むのはぽろっと本音が出現することがあるからである。
秘密は隠すから真実性を保ち、また真実たるゆえんともなる。
来世では美人に生まれることになっているが(え?)、
ノーパンで超ミニスカートをはいてひとりで盛り上がりたい。
本書は春日武彦医師が「宇宙の法則」を書いているから稀覯書あつかいなのか。
一見するとチープな対談本で春日医師は自身の発見した「宇宙の法則」を語る。

「俺みたいな商売だと、時間という存在をいかにとらえるか、
クリアするかというのが勝負なのね。
例えば、家族関係がぐちょぐちょで、今は膠着状態でどうにもならない。
どうすればいいのかといったら、待つしかないの。
百年経てばみんな死ぬんだと。そういう意味では絶対に展開があるわけ。
いかに余分なストレスをため込まずに待つかが勝負になってくる。
医者でも保健師でも、ダメなヤツは耐えきれなくて余計なことを突つく。
ダメなときはダメなのよ。そこで腹をくくると意外な展開が生まれる。
それが宇宙の法則としてあるわけ」(P77)


タイムパトロールの世界では(藤子漫画「T・Pぼん」)、
なるべく過去世界に直接的に介入せず、ちょっとした出逢いをうみだすことによって、
自然の流れのままに人為的不幸を未遂に終わらせることがよいとされているが、
それは「見守る(待つ)」ちからの強い人間にしかできないことである。
待って待ってぎりぎりまで追い込まれることのよさを、
本書で対談相手の遅筆ホラー作家は語っている。平山夢明氏かく語りし。

「でも、本当にギリギリになったら、やっぱり小説でも開き直る。
10人で競作の場合とかさ。他の人は入稿していて、あとは俺だけ。
それで本が出ないと大変じゃない。その場合は時間との勝負ね。
いいものを書こうとか葛藤しない。
この間、『ミサイルマン』に入れた、「それでもおまえはおれのハニー」。
あれが50枚くらいあるんだけど。夜中の2時にかき出して朝の8時に渡した。
もう一発校了。ゲラなかった。それだけ時間がなかった。
でも、ほとんど直さないで出しちゃっているけど、悪くはないし、評判もいいのよ。
あれは面白いよって」(P51)


ドストエフスキーも山本周五郎も、
わざわざおのれをすっからかんの状態にしてから小説を書き始めたという。
ドストエフスキーは賭博散財で、山本周五郎は見栄の贅沢酒宴でふところをゼロにした。
作家の破滅願望のようなものは、おのれの限界を見たいという創作欲なのだろう。
わたしにはいつぎりぎりが来るのか、その状態がいいのか悪いのかもわからない。
もう正社員は無理だろうし、家族親戚とも絶縁状態だし、おしなべて人間関係が乏しい。
春日氏の主張する「宇宙の法則」に極めて似たものを信じて、
もう少し待とう、もうちょっとだけ待とうと自己延命処置を続けてきた結果が現在である。

「ダメなときはダメなのよ。そこで腹をくくると意外な展開が生まれる」

この「宇宙の法則」が正しいかどうかはおのおの自己検証するしかない。
このつたない記事が精神不安定時の春日先生のお目にとまらないかなあ。
いまのわたしは拙文をだれかに読んでいただけるだけでもありがたいという境地である。
好評なんかもってのほかで、批判していただけるだけでも、お目通し感謝でありまする。

ここ数年の変化はまったくといっていいほど本屋に行かなくなったこと。
新刊書店も古本屋も、あれほど大好きだった古本まつりも。
大学を出てしばらくは新刊書店の時期というものがございました。
5年くらい経つと新刊書店では売られていない膨大な本があることに気づく。
いくら大型書店だって新刊のストックには限界があるわけだから。
そんなこんなで古本屋めぐりや古本市もうでを始めたら、これがめっぽうおもしろい。
ブックオフもそのひとつにふくまれるだろう。
なにがおもしろいかって、いままで知らない(書物)世界に偶然に出逢えるから。
あれ、この本なんだろうと手に取ったときの興奮は生きがいにさえなりえた。

さらに古書世界は定価がない。
骨董品ではないが、とんでもない貴重な本をときに数百円や千円程度で入手可能。
人間は、なかなか、知らない世界とはぶつかることができない。
なぜなら、知らない世界は、それまで知らないから出逢いようがないのである。
貴族は貧民のグルメに出逢えないし、下層民は高級グルメのすばらしさがわからない。
古書世界の出逢いの法則は、まったく偶然のたまたまで運とかツキの世界である。
どこに自分の師匠や先人がいるのかわからないのだから、こんなときめきはないだろう。
わたしは古本偶然世界により、ストリンドベリやユージン・オニールを知り、
偶然を信じていたら両作家とも邦訳作品はほぼぜんぶ手に入れ読了することができた。
どこぞの教授先生から
ストリンドベリやユージン・オニールを読めと指導されたわけではない。
自分でストリンドベリやユージン・オニールの存在を創価したのである。
わたしが偶然のお導きを深く信じて、古書世界にわくわくしながら滞在した。
ムーちゃんからはそんなことをするくらいだったら、その時間働いて、
その金で多少高くても一流古書店で買えばいいじゃないかと言われたが、
それは違うのである。
ストリンドベリに古本屋で出逢うまではストリンドベリのことを原理的に知りえない。
ストリンドベリの翻訳がいくつあるかは、どの書籍にも出ていないのだから。

こんな本屋好きだったわたしが
いまはどうして新刊、古書ともに店舗におもむかなくなったか。
理由は時代的な理由と個人的事情がある。
いまはインターネットが異常発達している。
はっきりいって、交通費をかけ大型書店まで行き本を買うよりもネットのほうが安い。
古本も同様で、いまは古書店もネット参入しているからむかしよりも掘り出し物がない。
むかしからいっていたことだが、古本屋の接客はあまり気持のいいものではない。
それに本って重いじゃん。
若いころはよかったけれど、いまは重い袋をかかえて満員電車に乗るのはちょっと……。

個人的事情としては40過ぎまで本が好きだと、ある程度はこの世界が見える。
いまさら古本まつりに新たな出逢いを求めなくても過去吸収情報でアタリがつく。
なんとなくこのへんがおもしろそうだなというのはわからなくもない。
しかし、インターネットの弱点は本を立ち読みできないところにある。
ぶっちゃけ、数ページ読んだら、その本に購入する価値があるかどうか直感的にわかる。
が、インターネットだと立ち読みができず、
くだらぬ阿呆のレビューに頼らなければならない。
いまでさえ高額の図書はさすがに立ち読みしないと怖くて買う気にならない。
まあ、そこはブランドでこの出版社のこの企画なら信頼できるという読書家の常識はある。

いま「本の山」のメニュー仕入れ先はアマゾン、楽天、ブックオフオンライン。
アマゾンに一本化してもいいのだが、
だれもうちのアフィリエイト(広告)から本を買ってくれないからポイントが来ないんだよ。
みなさん本を読みましょうよ。
いまは老若男女どこでも片時もはなさずスマホにしがみついている。
あれは絶対にバカになるからね。主体性がなくなる。自分の味覚を喪失する。
しかし、インターネットはいいのである。
わたしはブックオフオンラインのお得意さまだが、あそこは便利で楽しく、
旧ブックオフ的な面も少しは残存しており、自宅であの興奮を味わえるのは幸福だ。
ブックオフオンラインの検索ワード欄があるでしょう?
あそこに思いつくままに気になる言葉を入れて、順番を安いものからにする。
すると想像していた以外のものもヒットしてセレンディピティ的な昂揚感を味わえる。
「幻冬舎新書」の新しい順、安い順に検索してもいい。
「創価学会」でも「光文社新訳文庫」でも「官能小説」でも「傑作選」でもいい。
検索ワードしだいで、思いも寄らぬ出逢いが生じるのはリアル古書世界同様。
こちらは数量も膨大だし郵送してくれるところがいい。
しかし、最近まで知らなかったが、
いまのブックオフオンラインはライン本(書き込み本)も売っているらしい。
だから、へたをすると2千円で買った本が蛍光ペンでピカピカしていることもある。
それはリアルにおもむかずネットで済ませようとするもののリスクだろう。

楽天も好きだけれど、
ブックオフオンラインは大好きでここで買い物をするほどの快楽はめったにない。
似たショップにネットオフがあるけれど、あれは別会社で、注文品が来ないこともあり、
買取も1冊1円だし、あんまりかかわらないほうがいいと思う(実体験)。
文春文庫のアンソロジー全集8巻をもうすぐ読み終わるので、
ものさみしくなり中毒患者のようにブックオフオンラインへ。
メールボックスを開いて昨日だったら楽天ポイントが十倍ついたことを知るが、
こういうものは運だから仕方がない。
今日売っていた本も明日にはないというのが古本世界の常識だが、
ユーザーが多いネット古書ワールドではそれがもっとあからさまに見える。
カートに入れていたら消えていく書籍なんていくらでもある。本は見つけたときに買え。
エアコン寒いなあとぬくぬくしながら本日ブックオフオンラインで仕入れたもの。
カテゴリー「買った本の報告」はちょー久々の更新よ。

「14歳の本棚 家族兄弟編 青春小説傑作選」(新潮文庫) 108円
「14歳の本棚 初恋友情編 青春小説傑作選」(新潮文庫) 108円
「14歳の本棚 部活学園編 青春小説傑作選」(新潮文庫) 108円


短編小説のアンソロジーっていいなあ、と思っていたら、これを発見。
それほど文春文庫の「アンソロジー人間の情景」はすばらしかった。
もうこの齢になると作家全体を見たいというよりも、おいしいところだけ食べたい。
こういう小分けのメニューだったら、新たなひいきを見つけられるのでよい。

「ユージン・オニール ノーベル賞アメリカ劇作家」 (,西田実訳/講談社出版サービスセンター) 348円

いいか、ストリンドベリもそうだが、ユージン・オニールは我輩さまの作家である。
ウィリアムズもミラーもアメリカ演劇の父、オニールに比べたら足元にも及ばない。
この本は不幸で新訳を載せているらしいのだが、アマゾンレビューがひとつで酷評。
なんでみんなアマゾンのばかレビューなんか信じるのだろう。
海外の劇作家でいちばん好きなのはユージン・オニールである(国内では山田太一)。
翻訳された劇作品はぜんぶ読んでいるし、
どれも(いまではとても書けない)熱を入れた感想をブログに刻み込んでいる。

「人生を変えた時代小説傑作選」(文春文庫) 198円
「酔うて候 時代小説傑作選」(徳間文庫) 198円


いままで時代小説は大の苦手だったのだが、
文春文庫の「アンソロジー人間の情景」を読むとそういうものも入っていて、
かえってアメリカのふるくさいポップ小説よりもおもしろい。
まあ、お試し感覚だな。ここだけの話、菊池寛の短編は芥川よりもおもしろい。

「姦の風景 「性」のミステリー傑作選 オリジナル・アンソロジー」(森村誠一/幻冬舎文庫) 108円
「十三歳の実験 長編小説」 (富島健夫/光文社文庫) 108円
「女巡拝記」 (梶山季之/徳間文庫) 108円
「谷崎潤一郎マゾヒズム小説集」(集英社文庫) 198円


みなみないわゆるエロ小説である。もう老齢のせいかエロ動画よりもってまじかい?
どれも、もっとも信頼している文芸評論家の小谷野敦先生の天の声により購入。
どんなアダルトビデオよりも小説(言葉)は、
変態性的傾向(あるいは欲望)を刺激、回収できるのではないか?

「どうして時間は「流れる」のか」(二間瀬敏史/PHP新書」 198円
「数学で未来を予測する ギャンブルから経済まで」 (野崎昭弘/PHP新書) 198円


いまタイムマシンに興味があるんだよ。
藤子先生の「T・Pぼん」は子どものころからの愛読書で数日まえ再読してさらなる大感動。
あのタイムパトロールの漫画はものすごく深い世界を描いている気がしてならない。
さてさてPHPといえば、年下の池田大作先生に土下座したあの人だよねえ。

「松下幸之助ビジネス・ルール名言集」(PHP新書)

ビジネスはルールもマナーもまったくの無知。
歳を取るごとに気づくのは、いかにお金がたいせつかである。
お金をたくさん稼いだり、回した人はやはり偉くないとはいえまい。

「モーパッサン傑作選」(ハルキ文庫) 298円

フランス人やフランスかぶれは嫌いだけれど、モーパッサンの短編はおもしろくない?
フランスのエセお洒落なところを自陣から心底よりバカにしているところがよろしい。

「雪の音 雪の香り 自作への旅」(三浦哲郎/新潮文庫) 198円
「旅雁の道草」(三浦哲郎/講談社) 198円


自死遺族文学の天皇陛下、三浦哲郎先生のエッセイを購入。
上の新潮文庫は積ん読していたと思って探したがどこにもなかった。
早稲田仏文卒の三浦哲郎に認められたいと思っていた一時期がございました。
そんなことを思っているうちに、気づいたらお亡くなりになっていました。
わたしの「志乃」はもう現われたのか、それともこれから登場するのか。
それにしてもである。三浦哲郎のころは早稲田の仏文も文学臭があったのに、
どうしていま母校はイカサマ批評が幅を利かせているのだろう。

「風の誕生」(長部日出雄/福武書店) 198円

これなんかインターネット社会の恩恵といえるだろう。
ブックオフオンラインで「一遍」で検索していたらこれがヒットする。
聞いたことないなと思ったら踊り念仏の一遍を描いた長編小説らしい。
一遍かいわいの本はかなり目を通したけれど、これは知らなかった。
恥ずかしながら長部日出雄も知らず、ネットで調べたら直木賞作家。
ならば、そこまで退屈ということはなかろう。
いまはなき福武書店のこの(たぶん)売れなかった本をわたしが読んで、
その感動をうまくブログで伝えられたら、
また新たな価値が生まれてべつの出版社から再販されることもあろう。
しかし、本を買うのにも読むのにも感想を書くのにも時間と金がかかる。
正直198円だから買ったが、読めるかどうかは将来の経済状況、忙しいかどうかによる。

「馬上少年過ぐ」(司馬遼太郎/新潮文庫) 198円

格好いいのか恥ずかしいのかわからないけれど、
いままで司馬遼太郎の小説を一度も読んだことがない。
短編小説集で収録作品のひとつに興味を持ったから。
けれど、男性恐怖症の処女のような司馬遼太郎アレルギーがあるから読むかどうか。

最後に申し上げたいのは、早稲田ばか教授のいうような「必読書」なんてありません。
村上春樹でも宮部みゆきでも伊坂幸太郎でも角田光代でも、
みなさんお好きなものをお好きなような解釈で、
ぜひぜひ楽しみながらお読みになるのがよろしいかと存じますですね。
むむむ? 気づけばブックオフオンラインから裏金をもらいたいくらい宣伝しちゃった。
もちろん、もらっていないし、なぜなら完全無名人なのでさ。

(ブックオフオンライン)
http://www.bookoffonline.co.jp/

*例によって誤字脱字失礼。いまとっ散らかっていて。