苦しみは人を成長させるとかいう戯言があるじゃないですか?
それを佳子さまや眞子さまに言えるかって話で。
苦しみは可能ならば経験しないほうがいい。理由は苦しみは苦しいから。
かつてインドのマガタ国の王子釈迦がグルメのかぎりを尽くし、
美魔女からあどけない処女まで全身で性的快楽を味わい、
欲望の限界まで達した最後の欲望が、
世俗的権威ではなく霊的権威がほしい(聖職者になりたい)という危険な欲望だった。
そこで釈迦王子は国の保護を受けながら観光的苦行プレイを6年した。
釈迦は優秀だったのかバカだったのか、悟ったところの結論は苦行(修業)に意味がない。
自分が偉いのは、マガタ国の王子だからだ。それは前世ゆえ。
苦しみは欲望から発生するが、悟りたいというのも欲望であった。
本当はなーんにもないんだ。
みんな好きにしたらいいというのが釈迦の悟りであった。
厳しい修業を10年でも20年でもやれというのは、師匠の搾取利益のためであって、
真実でもなんでもない。もっと遊ぼうよ。きっついことは勘弁。
おそらくそれがマガタ国王子にして浮浪者になったニート釈迦の教えだろう。
おおやけには言えないことってたくさんあるじゃないですか?
紫綬褒章作家の宮本輝でさえ、
いまだ自分が恥ずかしい創価学会メンバーであることをカミングアウトできない。
空海だってさあ、本音は今日天皇と逢ってきたけれど、あいつめんどうくさい、疲れた、
ということは側近には言えても公言(文書化)できないわけだ。
おれの師匠は恵果ということになっているが、あいつが裏金をいくら請求したか。
こういうのも表にはなかなか出せない(密教の)秘密語である。
創価学会の池田名誉会長の魅力の源泉は秘密語でしょう。
小学校の恩師を講演会で大称賛したあと、裏ではこきおろしてバカにしていたとか。
いまの学会員だって裏では、なんの功徳もなく、
みじめにもあわれにも死ぬことさえできない池田センセエを悪く言うこともあるでしょう。
それが密教だ。それが釈迦の秘密だ。
釈迦だって有名な国の王子だったから、
わずか6年くらいの苦行ごっこでブッダとして認められたとも言える。
インドなんか20年、30年、意味のない苦行をしているのに、
まったく世間的には認められない乞食修行者とか捨てるほど山ほどいるから。
口では言えるが書き残せない本当の秘密の教え、それが密教と考えたらどうだろう?
「仏なんかいない」「空海はずるい」「結局は金だ」「ひとりでさみしく酒や女がほしい」――。
好きな人がわかれるよねえ、話し言葉と書き言葉。
こちらは軽い吃音持ちだから書き言葉が好きで、それを追求してきた。
しかし、書き言葉が苦手という人もいるはずである。
書き言葉は読み言葉(活字)に強く影響されるから、
どうしても新聞口調の堅苦しいものになってしまい、
それでは自分の思っていることが出せない。
吃音だから長らく電話は嫌いだったが、
それでも経年の変化はあり、いまではそこそこ大丈夫。
話し言葉がいいのは(録音されていないかぎり)記録に残らないところ。
わたしは話し言葉では言える真理(ぶっちゃけ話、ここだけの話)はたくさんあるが、
それが記録に残ってしまうと思うと書くことはできない。
ブログ「本の山」は書き言葉でしょう? 言えないことが山ほどある。
だって、書いてしまったら記録として、事実として流通してしまうのだから。
わたしの書き言葉と話し言葉のギャップはすごいよ。
それを知っているおともだちもいなくはないが、そういうのは前世からの因縁だろう。
年単位の人間関係がないと本当のこと(秘密)は言えない。
そうは言っても1回わたしと逢えばわかることも多くあるだろう。
基本、当方はどの底辺職場もうまく渡り歩いていたし、そこまでコミュ障ではないと思う。
もしかしたらコミュ障の反対の「人たらし」でさえあるかもしれない。
書き言葉では伝えられないことがある――というのが空海の真言密教であろう。
「真言宗のお経 CD付き」(双葉社)

→お経のCDが目当てで買い、
ひさびさに高校生のころからあるラジカセに入れたら作動せず、
パソコンでもいいの? と思いながら東芝のパソコンにおうかがいを立てたら、
見事お見事、聞くことがかないましたというお話。
唐の時代、(恵果の師匠の)不空が創作したという「舎利礼文」の一節が気になった。
それは――。

「入我我入」

本書の読み下し文では「入我我入したもう」だった。
大学受験時代、漢文はなぜか好きでよくやったけれど、
「入我我入」を「我に入り我が入る」と読むのが「正しい」のかどうかはわからない。
「我に入り」はいわゆる「他力」と言えなくもないだろう。
そうだとしたら「我が入る」は「自力」と言うことになる。
世界の秘密めいた宿命や運命は向こうから来るものであり、
しかしそういった目に見えない言葉にならない世界に自分から入っていくこともできる。
というか、むしろ「入我」と「我入」がイコールである。
世界の秘密たる偶然を宿命と観ずるときに(「入我」)、
自分はその見えない必然の世界に入っている(「我入」)。
「それが来たときにそこに入れ」
「それをみずから受けとめて、あえてそこに入っていこう」
「入ってくるのも入っていくのも我なんだよ」

☆   ☆   ☆

本書には葬式や法事の手順がこと細かく記されていた。
お経目的ではなく、葬式や法事のマニュアルとして有用なのかもしれない。
父にはむかしから聞いていたが2年まえあたまをやってしまったので、
先日とりあえず最新版を聞いておこうと葬式はどうしてほしいのか問うた。
やはり坊さんはいらないらしい。祖母は新興宗教の「生長の家」である。
父は墓へのこだわりが強く、ここには書けないが、いろいろめんどうくさかった。
父の葬式ってだれが来るんだろう?
母の葬式は無宗教でやって、母の友人と思しき人ふたりに声をかけたが、
あとから伝え聞いた話だと迷惑に感じていたという(香典、時間)。
精神病の母が友人と思っていた人は、みな母を迷惑に思っていたという笑い話。

わたしは母が死んだ52歳くらいを寿命として設定している。
呼ぶ人はいないから(だれもシステム上わたしの死を知りえない)葬式不要。
いちばん安いところで焼却していただき、骨はどうしてもらっても構わない。
孤独死、無縁死と聞くとみじめだが、あんがいいいものだよ。
叔父は孤独死で腐乱死体で発見されたが、いさぎよいとも思える。
ひとりとして友人はいなく血縁からも嫌われ、あっぱれ孤独死を完遂した。
この叔父は、母の味方をして、母は精神病ではないと大騒ぎをしたが、
のちには母と不仲になり、姉は精神病だからとあちこちで言い回った。
わたしは葬式で叔父を殴ろうとしたが、みじめにもぜんぶ交わされた。

しょぼい人生で終わりそうだぜ、と生まれてきたことを後悔する42回目の誕生日。
希望は来世。この世はかりそめ、本番は来世だ。
いかに自分を嘘でごまかすか? それが仏教のテクニックである。
本当は来世もなにもなくこのまま孤独と不安に苦しみながら、
ある日突然無意味に死ぬのだろう(ああ、突然死できたら!)。
血縁の死にざまを目にし耳にすると自分がどのような悲惨な死を迎えるか想像がつく。
そういう呪いの世界を生きているし、書けるものならば書きたかった。
仏教の呪術性、禍々しさ、終わらない暗さ、理不尽不合理な狂的死臭腐臭悪臭が好きでした。

「比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか」(島田裕巳/ベスト新書)

→著者もよく勉強しておられるので驚くばかり。お金が勉強させている気がする。
出版社から原稿依頼があったら、それはお金がかかっているから勉強する。
オウム真理教を擁護したとかで著者はいったん退場したけれど、
見事な復活を遂げたと思う。
退場していたときに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の英気を養っていたのだろう。
本書はとてもおもしろく、かつわかりやすく、
日本仏教史が自分のなかできれいにまとまった感じがした。

「比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか」――。
著者の提出する解答は明快でとてもいい。
1.天台本覚論(みんな成仏できる)に逆らって最澄が厳しい修業を課したこと。
2.最澄の弟子、円仁、円珍が密教を重視して、真言宗よりも密教化してしまったこと。
最澄は弟子たちに厳しい修業をさせたが、それは天台本覚論と矛盾している。
このためまず法然が反旗をひるがえしたという。
著者によると、43歳の法然はもう出世の見込みがなくなりふっ切れたらしい(笑)。
もう修業なんてめんどうくさいことをやめて易行念仏でええやんけと。
日蓮は天台宗が密教化していることに腹を立てて南無妙法蓮華経よ。
が、日蓮の矛盾は円仁や円珍のことは罵倒したが、
密教も認めていた最澄を自己の正統性を守るという理由から否定できなかったこと。
そもそも日蓮も親鸞も存在があやふやらしい。
当時の公家たちの記録に日蓮や親鸞の名前がない。
親鸞は法然サイドの記録では末弟あつかいで、
自称高弟だったのではないかという疑惑がある。
本書でおもしろかったのは以上の指摘だが、それを言うかよ、
というタブー破りの小気味さがよろしい。
著者は一回ぺしゃんこになって(オウム事件)無敵状態になったのではないか。
わたしの言葉だと信憑性がないかもしれないので、
東大の宗教学科卒の人気ライターのお言葉を紹介する。

「最澄の場合には、天台教学と密教の関係について、「円密一致」という立場を取った。
円教とは完全な教えという意味だが、ここでは、天台教学のことを指す。
最澄は、結局は彼のもとを去る[弟子の]泰範(たいはん)に宛てた書状では、
「法華一乗と真言一乗となんぞ優劣あらん」と書き送っていた。
法華経を中心とする天台教学と密教との間に優劣はないというのである。
これが[弟子の]円仁になると、密教への評価は高くなる。
そこには、最澄が『大日経』を中心とした胎蔵界の摂取にとどまったのに対して、
円仁がそれに加えて『金剛頂経』にもとづく金剛界と
『蘇悉地経』にもとづく蘇悉地をも学び、
密教をトータルに摂取したことがかかわっていた。
円仁は「理同事別」の考え方を取り、理論的には円密一致だが、
実践の上では違いがあるという立場をとった。
これが円珍になると、天台教学と密教は実践の上で違いがあるだけではなく、
密教のほうが実践的で優れているという「理同事勝」の立場をとった。
天台では、五時教判ということが言われ、釈迦は最後の法華涅槃時において、
はじめて本当の教えを説いたとされた。
ところが、円珍は、さらにその先に「真言陀羅尼門(しんごんだらにもん)」を立て、
法華涅槃の教えさえ、釈迦の本当の教えではなく、
方便にすぎないという立場をとったのである。
円珍の著作の一つ、『大日経指帰』では、
「大乗中の主、秘中の最秘、法華もなお及ばず」と述べている。
これを最澄が聞いたとすれば、唖然としてことばをなくしたかもしれない。
だが、密教に対する社会的な需要は高まっており、それに対応して、
天台宗の地位を上げ、真言宗を凌駕するには、
密教を最も優れた教えとしなければならなかったのである。
さらに円仁の弟子だった安然(841~884年)は、
密教の方が天台教学よりもはるかに優れているという「円劣密勝」の立場をとり、
比叡山を真言宗と称するまでに至る。
こうして、真言宗の東密に対する台密の信仰が確立されていくことになる」(P78)


東密とか台密とか受験日本史で覚えたけれど、そういう意味だったのか。
実際問題、現世利益の密教だよねえ。
一念三千とか教わったって一銭の利益にもならないわけだから。
天台教学は現世利益という面においてはまったく使えない教えだった。
にもかかわらず、厳しい修業を求められるって、なにその罰ゲーム?
という感じだったのだろう。
しかるに、天台教学と現世利益を南無妙法蓮華経で結びつける日蓮が現われた。
日蓮は法華経の現世利益的記述を重視したが、
本人に現世利益があったのかなあ、という問題がある。
創価学会に入ると不幸になるんではないかと思うわけさ。
学会員って魔(厄災)が来ると、これは正法を受持している現証で、
自分を成長させるチャンスとか逆に喜ぶようなマゾ的なところがあるじゃないですか?
それって不幸を求めている態度とも言えなくはない。
まあ、幸福というのは不幸の相対概念だから、
不幸になるのが幸福への近道なのだろうが、学会員って不幸な人が多いよねえ。
使命なんか捨ててふつうの人として、おだやかに生きるのもいいのではないかと。
99%の人がどうせ大した陽の目を見ることもなくひっそり死んでいくのだ~よ。
しかし、日蓮は田舎坊主として終わりたくないと思った。
島田裕巳氏は日蓮の矛盾を的確に指摘している。
日蓮が師匠と目す最澄は密教を認めていたし、空海に師事してまで学ぼうとしていた。

「ただし日蓮は、生涯にわたって、この点で最澄を批判することはなかった。
最澄が密教を学んだこと自体にふれることもなかった。
しかし、最澄の後を継ぎ、同じように唐に渡った円仁などについては、
当初は評価していたものの、佐渡流罪中に記された『開目抄』では、
批判的な書き方をするようになり、
身延に隠棲してからは、厳しく批判するようになる。
円仁を批判するなら、比叡山に密教を持ち込むきっかけを与えた最澄を、
日蓮は批判すべきであった。
なぜ日蓮が最澄のことを最後まで批判しなかったのか、本人は述べていないが、
もしそうした試みに出ていたら、日蓮としては何をもって正しい仏法の理解とするのか、
その根拠を失っていたかもしれない。
自分が天台の伝統に正しく従っていることを示すためには、
智顗(ちぎ)と最澄の教えに誤りがあってはならない。
このことは、日蓮の生涯において隠された一つの大きな矛盾だった」(P174)


以前のご著作でも感じたことだが島田裕巳さんは円仁(慈覚大師)が好きっぽい。
たしかに10年も中国に留学しているし、
その間「会昌の廃仏(仏教禁止令)」で苦労している。
中国五台山の竹林寺で「念仏三昧」を伝授されたのも円仁が初である。
南無阿弥陀仏という声明念仏は円仁が中国から輸入したものだった。
ちょっと竹林寺にでも行くかと思って調べたら、あれは北京から行くのか。
北京は大嫌いな街だし、竹林寺も近年建て替えられた観光用らしいから、
そこまで念仏に散財することはないと思い直す。
円仁は自分は最澄を超えた(最澄の師匠である)という夢を見たらしい。
これは空海が見た、師匠恵果を弟子にしたという夢と似ている。
たしかに円仁は最澄よりも苦労しているが一般人には知られていない。
円仁は空海よりも55年も早く慈覚大師という諡号(しごう/勲章)を
天皇からもらっているとのこと。
創価学会親和性が非常に高い著者は、
「円仁は空海に勝った」とかあの人たちが大好きな勝負論を説いている。

合法節税対策団体、河合隼雄財団や、
自陣勢力拡大を目的とした河合隼雄賞で知られるあの有名なユング心理学者が、
日本の師匠とあがめたのが華厳宗の明恵である。
明恵は法然を厳しく批判したのだが、河合はそこにほとんど触れていなかった。
明恵が法然をどのように批判していたかの一端を本書で知る。

「……法然を批判した同時代の明恵による『摧邪輪(ざいじゃりん)』では、
「上人深智有りと雖(いえど)も、文章を善くせず、仍(よ)って自製の書紀なし」
と述べられている。
法然は文章がうまくないため、書き物を残していないというのだ。
実際、『選択本願念仏全集』は法然自ら書いたものではなく、
弟子たちに筆をとらせたものである。口述筆記とも考えられるが、
弟子たちの貢献がどこまでなのか、確かなところは分からない」(P99)


文章ってうまい人はうまいけれど、へたな人はどうしようもないよねえ。
なにも書き残していない釈迦の秘密は文章がへたくそだったことかもしれない。
イエスもなにも書き残していないし、レベルは段違いに低いが、
わが(踊り念仏の)一遍上人も文章を書くのは好きではなかったような気がする。
「歎異抄」を書いた唯円は日本の仏教者でいちばん文章がうまいと思う。
まあ、そこを親鸞の黒い血筋を継承する子孫たちに利用されてしまうわけだが。
声で情を出すのも天性だが(若いころの池田さんはうまかった)、
文章に情を乗っけることができたのが不遇の天才ゴーストライター唯円である。
常識に逆らうと、親鸞なんか「歎異抄」だけで、あとはぜんぶダメという気がするね。
大敗北人生を呪詛とともにまっとうした日蓮大聖人よりも、
好物のうなぎや天ぷら中トロをたらふく腹に詰め込んだ、
いまもお元気に活動なさる不死身の池田名誉会長のほうが偉い、
という見方もできなくはないだろう。
わたしもさ、池田先生と生意気にもおなじで、うなぎが大好物なんだよ。
しかし、うなぎは閉店間際の半額でも当方の金銭感覚からしたら高い。
日本大乗仏教は利益を主眼において見るとよくわかるのではないか?
厳しい修業をマゾ的に喜ぶ天台宗よりも現世利益のある密教の方がいいではないか?
まあ、修業すると自信はつくのだろうが、自信のあるやつは概して偉そうで不快。
厳しい修業が必要ない南無阿弥陀仏、いいじゃないの。
わざわざ苦しむなんてアホで、もっと楽をして現世利益を享受しようよ。
真理よりも利益でしょう――というのが創価学会なのだが、
どうしてかわたしは禍々しく黒光りする庶民の王者、
創価王国総帥の池田先生率いる創価学会からまったく相手にされず、
折伏する価値もないという評価をいただいている。ごちそうさまです。ペコペコペコちゃん。

「空海入門」(ひろさちや/中公文庫) *再読

→おい、みんな、ひろさちやさんのことをバカにしすぎだぞ。ぷんぷんだ。
ひろさちやさんは独学で仏教を勉強したから権威がなく、しかしわかりやすいんだ。
学会員は師匠病にかかっているかのごとく、師匠、師匠と上には媚び、
いったん下と見たら指導者気取りで一発かまそうとか考えるようだが、
おいおいおい、釈迦に師匠はいたかよって話だ。
釈迦は自分のあたまで考えて自称仏陀(覚者)になったって話だろう?
これまた仏教は独学の梅原猛さんもひろさちやさんも書いているけれど、
空海の師匠の恵果和尚はどうしようもねえカスだったんじゃねえかって。
反面教師っているじゃないか。
創価学会の池田名誉会長を育てたのは二代目会長の戸田城聖とされているが、
池田はアル中で女好きの金の亡者、戸田を見て、
こいつどうしようもねえなと思ったはずである。
ゴミやクズ、カスみたいな師匠が偉人を生み出すことがあるといういい例だ。
あんがい空海や池田の例を見ると師匠が人間的にカスのほうが、
いい弟子が育つとも言えよう。というか、師匠なんて必要か?
師匠はいてもいなくてもいいし、いたとしてもだれでもいいんじゃないか?
空海は師匠なんか権威を借りるための道具だと思っていたと思う。

プロレスの話をするとアントニオ猪木とジャイアント馬場を比べたら、
馬場のほうがよほど社会的にしっかりしている(金に細かく従業員から搾取する)。
いっぽうの猪木はどうしようもねえクズだとみんなが言っているわけでしょう。
だが、結果としてみると馬場の全日本プロレスは悲惨のひと言でしょう。
馬場の魔の手から脱出したのは川田利明くらいではないか。
比して猪木の新日本はいまや成長企業である。
またふたりの師匠の力道山が元ジャイアンツの馬場をかわいがり、
猪木を山猿あつかいする(人間あつかいしない)鬼畜だったわけだ。
力道山はだれに空手チョップを教わったんだよ。
仏教の悟りとプロレスの自称最強は似たようなところがある。
いまの僧侶は格闘家ではなく、自称最強のプロレスラー、葬式パフォーマーだろう。
晩年の馬場なんて、そこらへんのヤンキーでも倒せた高僧のような存在だった。
なにが言いたいのかっていうと、ひろさちやさんはガチが強いんじゃないか。
若い僧侶はみな隠れて、ひろ先生の本を読んで仏教を勉強するらしいぞ。
高僧の講義なんかわけわかんねえよって。

本書で受賞歴ゼロの仏教ライターひろさちや氏はおもしろい禅の話を紹介している。
江戸時代の盤珪(ばんけい)禅師の話だ。
師匠が弟子に京都へ行って上質の紙を買って来いと命じた。
弟子は師匠のためにえっちらおっちら京都で紙を買ってくるわけだ。
だが、師匠は「これじゃない」と弟子を罵倒する。
弟子はどこが悪かったのだろうと迷いながらもう一度京都へ行き、
人から評判を聞いて最高品質の紙を買ってくる。
しかし、師匠は「おまえはバカか!」と弟子を怒鳴りつける。
おまえは本当にアホやなあ。二度も間違えるバカがいるか。
おまえの目はなにも見えていないんだから、いっそのこと目ン玉潰しちゃろか!
やり直し。三度目の正直といいよるが、もういっぺん京都へ行って来い。
弟子は震えながら泣きそうな表情で三度目の京都へ向かった。
もうやけくそになって善悪の基準もわからなくなって京都で紙を求めた。
師匠のもとへ戻り、おそるおそる紙を差し出すと「バカヤロウ」と師匠は怒鳴る。
その瞬間、弟子は悟りめいたものを開いた。
「わかりました。ありがとうございます」
師匠は「ようやくわかったか。なーに、最初の紙でもよかったんだ」と笑顔で応じた。

これはどういう意味か、ひろさちや氏は我流の解釈をしている。
この紙でいいのかなという迷いを師匠に察知されたのがまずかった。
本当は最初の紙のときに、「これじゃあかん」と言われても、
「いや、この紙でいいんです」と自信を持って差し出せばよかった。
ひろさちやさんは過激なことを書いていて、
禅なんだから紙を丸めて師匠をポカリと殴りつければよかったとまで書いてある。
弟子は師匠に迷いを見透かされたのがいけなかった。
これでいいんだと迷いなくストレートに差し出すのが悟りだ。
さすが無師独悟のひろさちやさんだけのことはある。
このエピソードは創価学会の池田大作にも通じている。

ある人から聞いた話だが、
お元気なころの(コンプレックス過剰な)池田先生が(全国中継される)本部会で、
エリートのNHK職員の学会員をいびりまくったという。
池田先生は弟子に挨拶をさせる。「声が小さい」と池田先生は怒鳴りつける。
これが果てしなく延々と続き、婦人部からも「かわいそうよ」という声が出たらしい。
いかにも低学歴の池田がエリートの弟子に仕掛けそうなことだが、
正解は「うるせえぞ池田。声が小さくて悪かったな」だったのかもしれないのである。
まあ、本当にそんなことをやったらあとで裏で男子部にボコボコにされるのだろうが。
池田はこういう弟子いじめが大好きで、
芥川賞受賞直後の宮本輝青年にもシカト(無視)するという陰湿ないやがらせをしている。
わたしは文章力にかぎっていえば、池田は宮本輝の足元にも及ばないと思う。
宮本輝だってバカじゃないから師匠からいじめられ、
あーあ、池田もこの程度の男かと見切ったことだろう。
しかし、妻子ある宮本青年は創価学会というバックがなければ生きていけない。
このため宮本は池田に土下座文章を書いたのだろう(「無言の叱責」事件)。
現在の宮本老人は(池田が半分死んだいま)師匠格になったようで、
芥川賞の選考会ではるか年下の食えない後輩作家をいびり抜き、
池田根性、池田精神の正統な継承者であることを満天下に示している。

宗教の師弟関係っておもしろいよねって話。
梅原猛は弟子をつくり群れたがったが、ひろさちやさんは天然というか自由人というか、
そういう師弟関係を毛嫌いしているところがとてもいい。
ちなみにひろさちや先生は創価学会が大嫌い。
河合隼雄のように創価とうまく手を組めば勲章のひとつやふたつもらえただろうに、
いさぎよいというかバカというか。
しかし、アンチ創価としてはひろさちやさんは味方に思え、
そこで得をしたこともあったろう(立正佼成会!)。
ひろさちやさんは自信があったから創価嫌いを表明できたのである。
ひろさちやさんはあたまがいいから、創価も恐れをなしたと言うこともできよう。
師匠がいないで、どうやってあれだけ仏教を勉強したのだろう。

ひろさちや氏は師匠から認めてもらっていないのに自分を信じることができた。
空海だってそうで、無名の僧が違法帰国をして「(御)請来目録」ってなんだそれ?
どっからその自信は来るんだよ。
意外と知られていないが日蓮の最初の(出家したときの)師匠は念仏者で、
師匠、師匠、師弟不二と騒ぐ創価学会がたてまつる日蓮大聖人さまは、
じつのところ師匠に逆らっているのである。
師匠もなく留学経験もなく「立正安国論」を幕府に出すなんて、あったまおかしいよ。
なんでそんなに自信があるんだよ。
ひろさちやさんに話を戻そう。氏のチープなわかりやすい言葉を引いておこう。
えーと、紙の話をしていたんだっけな。

「迷いながら行動したのでは、山科から京都まで三度の往復をさせられるはめになる。
上質紙といったって、たかが紙ではないか。
どんな紙でも文句を言うな! この紙でいいんだ!
どちらでもいいが、ともかくそれくらいの自信がないといけない」(P72)


著書多数だがこれまた受賞歴ゼロの精神医学の重鎮、
成仁病院の院長である春日武彦先生も「迷い」がいけないと書いていた。
自信のないところに由来する「迷い」が医療ミスを呼び寄せると。
相続税対策をどうしているのかわからない、
幸運の女神に好かれたひろさちや先生はこうおっしゃる。
河合隼雄財団ならぬ「ひろさちや財団」をつくって、ぼくを雇ってくれないかなあ(笑)。
「迷い」はよくない。

「中途半端だから、迷うのだ。迷うから、幸運の女神は逃げてしまう。
幸運の女神に逃げられてしまえば、ますます落ち目になり迷いが深まる。
完全な悪循環である。
さて、空海は、ある意味で運命にゲタをあずけてしまった男である。
そんな卑俗な表現は空海に似つかわしくない……と言われるかもしれないが、
空海が、運命に完全に、自分をまかせきれた背後には、
「自分は仏陀である」という彼の信念があったからだ。
どんな過酷な運命であっても、運命は、仏陀にだけは反抗できぬはずだ。
そして、自分はその仏陀である……と、それだけの信念があったから、
空海は運命にゲタを預けられたのである」(P73)


わたしって自信があるのかなあ、ないのかなあ。
春日先生からのメールでは
もっとプライド(自信)を持ってくださいみたいなことが書かれていて、
え? え? え? わが文章はそういうふうに見えるのって驚いた。
自虐ができるのは自信があるからだとわたしは思っている。
高級グルメを食ったとか有名人と逢ったとかブログに書いているやつって、
あれは自信がないからでしょう?
わたしも春日武彦先生からメールをいただいたとか書いているけれど、
かの精神科医はマイナーでそこまでの有名人ではない。
しかし、唯一わたしなんかを相手にしてくれた文筆業者でご恩は忘れないぞ。
「自信を持ってください」はわたしが春日先生に申し上げたいことで、
あれだけおもしろい本を書ける人なんだから芥川賞とか直木賞なんてレベルじゃない。
ユーチューブで白衣を脱いだ春日さんを見たら妙にオドオドしていて、はああ。
わたしが現在存命の名文家を5人選べと言われたら春日さんを入れるくらいなのだから、
もっと自信を持っていただきたいが、
その自信なさげなところが名文と関係しているのかもしれない。

わたしが空海を読んだのはお金と自信が関係している。
ちょっとお金に関する案件があって、いまオシャカになっているのかもしれないが、
そのために空海を読んでいたのである。
お金がからまなきゃ、いまどき空海なんてなかなか読めない。
それから空海を読んで自信が増したよねえ。
仏教なんてほぼほぼ自分を信じるためにあるのではないでしょうか?
成り上がりものの成功者がいきなり仏教とか言い出すのは自信の補強のため。
創価学会がなぜいいのかと言ったら自信がつくからだと思う。
自分は高卒だが日蓮大聖人の弟子なのだから負けないぞって感じよ。
おれはNHKのエリートを泣かせるほど偉い池田先生の弟子なんだって。

あらあら、なんの話をしていたのだっけ? そうだ空海の真言密教だ。
東大の印度哲学科出身のひろ先生は密教は梵我一如だと言い放っている。

「インド哲学に、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想がある。
「梵(ぼん)」とは、サンスクリット語で「ブラフマン」といって、宇宙原理である。
万有の真理である。大宇宙(マクロ・コスモス)である。
それに対して「我(が)」は「アートマン」といい、こちらは人格的原理である。
自己そのもの――といえるかもしれない。
あるいは、小宇宙(ミクロ・コスモス)といってもよい。
そしてこの梵(ぼん)と我(が)が究極において一致するというのが、
「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想である。
「梵我一如」――「アートマン・ブラフマン同一説」である。
これが婆羅門(ばらもん)哲学の根本思想なのだ。
そして、空海は、[入唐後]二人の印度人からインド哲学(婆羅門哲学)を教わっていた。
「梵我一如」の教説を聞いたとき、空海は、大声で、
「それよ! それよ!」
と叫んだにちがいない。「梵我一如」こそ、密教を説く鍵であったのだ!
おわかりであろう。「梵」は宇宙原理であり、だから「宇宙仏」「仏」である。
そして「我」は凡夫だ。
仏と凡夫が一如[一体]である――というのが、密教の根本教義である」(P124)


むかし創価三世だか四世の統合失調症の青年に、
法華経の「唯物与仏(ゆいぶつよぶつ)」の解釈に関して、
「自分は仏である」という秘密を告白されたが、
健常者ではなく精神障害者から「仏宣言」をされるとブルブルっときた。
しかし、空海も日蓮もああいうやつだったのかもしれないなあ。
わたしは心の奥底で仏に通じているとは思うが、いま仏でもなんでもなく、
レベルで言えば餓鬼(がき)くらいではないかと思っている。
餓鬼のみならず幼稚という意味でのガキでもある自覚はあるが、
他人からそれを指摘されたらムカつくよなあ、そこは。

*精神病院の成仁病院って創設者の片山成仁さんが自分の名前をつけたんだ。
その自我肥大っぽいところとかお名前からして創価臭がするなあ。こええ。
だれにも読まれていない過疎泡沫ブログは、
好き勝手なことが書けてらっくちんちん、おちんちん。

「仏教の思想Ⅰ」(梅原猛著作集5/集英社) *再読

→角川ソフィア文庫の空海を7冊読んで、梅原猛の解説を読み返した。
正直、空海は難しい。
これほど集中してひとりの宗教家に取り組んだのは4年まえの一休以来久しぶりだ。
空海の本の感想はネット検索しても出て来ないから。
だれもあんなものは難しくておもしろみも少なく読めないって。
だから、みんなネットで検索するだろうが、そこで我輩の記事がヒットするぞ。
そうなると「本の山」の空海観が定説に近くなるわけである。
繰り返すがみんな読めないし、読めても感想なんか書けっこないわけさ。
とりあえず空海をひと段落つけて、梅原猛さんの空海論を再々読したら、
自分がかの大学者の影響を強く強く受けていることに改めて気づいた。
梅原猛さんは本物だよ。
書くものがとにかくわかりやすくいい意味で俗っぽく、
わかりやすいというのは本当にわかっていなかったらそうは書けないんだから。
失礼ながら真言宗お偉方の加藤精一氏より梅原猛のほうがわかっていると思った。
加藤精一は言葉で伝えられないとか逃げていたからね。
本当は自分もわかっていないのに、
わかりやすく書けないのをおのれの非と認めていなかった。
おれは偉い。わからないのは読者のレベルがおれさまに達していないからだ。
どうやったらそんな傲慢な考え方をできるのか不思議だが、
それが親子三代(もっとかな?)宗門にいると常識になるのだろう。
真言宗内部にいると空海は少しの欠点もない偉人として崇拝しなければならない。

本書で梅原さんは恵果はクズだとか、天皇へのごますりがうまいとか書きたい放題。
批判はいろいろあるのだろうが、梅原猛とか河合隼雄はすごいよ。
この本は10年以上まえに一度読んでいるのだが、
空海をひと通り読んだいま読み返すと梅原猛のすごさに改めて身震いする。
そして10年かけて、わたしの理解力が上がっていることに気づく。
大学院に入りたいとか学問したいとかそういう気持はまったくないが、
そして梅原猛の専門は(仏教ではなく)哲学で、
あんなものは学問ではないという批判も知っているけれど、
それでもわたしは氏に仏教を学ぶことの楽しさを教わった気がする。
だれがなんと言おうが梅原猛は大学者である。氏いわく――。

「すべて仏教というものは、由来を尚(たっと)ぶ。
ふつうは、仏教は釈迦から伝わったものとされるが、どの仏教宗派も、
釈迦からどのような経路をへて自分のところまで
伝わったかという付法の経過を重視する。
密教は、その教祖を釈迦ではなく、魔訶毘盧遮那仏(まかびるしゃなぶつ)におくが、
やはり、付法の経路を大切にする。
一つの思想の価値を評価する方法は、古代人は近代人とはちがう。
近代人は思想をその独自性において評価する。
師の説をそのまま保持する学者、それはどんな偉大な学者であろうと、
大した学者ではないとされる。独創性がないからである。
しかるに、古代人は思想の正しさをその由来の正しさによって評価する。
それがどんなにすぐれた思想であっても、
それが何らかの古き由来をもっていない限り、
その思想は全く価値がないというのが古代人の考えである」(P378)


まったく梅原猛は加藤精一に喧嘩を売っているのかよ。
加藤精一はいちおう学者らしいが独創性のかけらもなく、
父も祖父も空海の学者だったから(おそらく歴代)、つまり由来の正しさによって、
いま真言宗のトップとして君臨しているのである。
梅原猛は学問の世界をわかっていないとも言えよう。
少なくとも学問仏教は理解していない。
わたしは学問として仏教をやるつもりはないが、それは血筋にはかなわないからだ。
なにを言おうが浄土真宗門主の大谷光淳先生は「正しい」のである。
空海の時代から学問仏教はほとんど血筋(家柄)だったのではないか。
そのことにクソッタレと思ったのが空海であり法然であり親鸞であり日蓮大聖人であり、
比叡山(大学)にも行っていない踊り念仏の一遍上人であり、
どこぞの短大を代筆卒論でお情けで卒業させてもらった池田大作先生であり、
そういうところから独創的な仏教が出て来るのだろう。
梅原猛さんもその系譜であろう。
河合隼雄の息子さんは……というのは、ここでする話かどうかはわからない。
梅原猛は空海の真言密教をじつに簡潔に要約している。

「世界というものはすばらしい、それは無限の宝を宿している。
人はまだ、よくこの無限の宝を見つけることが出来ない。
無限の宝というものは、何よりもお前自身の中にある。
汝(なんじ)自身の中にある世界の無限の宝を開拓せよ。
そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。
私が真言密教に強く魅(ひ)かれ、
現在も魅かれているのは、そういう思想である」(P401)


仏教なんて中国やインドからも見放されたポンコツ宗教なんだよな。
各宗派の教祖も、だれもインドに行っていない。
中国にさえ行っていないやつが宗祖になっている。
しかも権威のよりどころはたいてい中国で、中国っていまはあの中国だよ。
上野、御徒町界隈に中国人旅行者がたくさんいるけれど、
あまりのマナーの悪さに「○○人お断り」って書きたい店もいっぱいあろう。
しかし、わたしも梅原猛さんとおなじで仏教が好きだ。
中国も好きだし、インドも嫌いではない。
しかし、いまさら智顗(ちぎ)や龍樹を読むつもりはない。
現代でも大学であんなものを研究している人がいるんでしょう?
あったまおかしいよ。そんなことしておもしろいの?
わたしは梅原猛も仏教全般も「正しい」からではなく「おもしろい」から好きだ。

(関連記事)
「仏教の思想Ⅰ、Ⅱ」(梅原猛著作集5、6/集英社)

「性霊集 抄」(空海/加藤精一訳/角川ソフィア文庫))

→「性霊集」は空海の公的書類や書簡を集めたもの。本書は抄録である。
空海の本はすべて漢詩文で書かれている。漢文全盛の時代。
いまで言えば天皇も首相も政治家も英語でやりとりするようなものだ。
いま日本はアメリカの属国だが(?)、平安時代は中国の属国だったのである。
本書を読んで思ったのは、空海は法やしきたりよりも現実的利益を重視していること。
なにより現世における現実的利益がたいせつだ。
40を過ぎてなにを言っているのかと笑われそうだが、
わたしはいまでも世界には秘密のボタンがあって、それを見つけさえしたら、
そして押してしまえばパーッと人生が拓(ひら)けるのではないかという思いがある。
世界の秘密のスイッチ、人生の裏ワザ、マンパワーの奇跡的レベルアップ術、
言語未到達のこの世の果てへの隠し扉を空海は知っていたような気がしてならない。
それは神秘的なものだが、効果は極めて現実的で利益があるものである。
秘密はおそらく言葉にあろう。

ご存じのように空海を乗せた遣唐使船は嵐に巻き込まれ僻地に漂着した。
しかし、土地の役人に怪しまれ、唐の目的地へ行かせてもらえない。
遣唐大使が何度手紙を書いても天皇の親書がないため信用してもらえない。
そこで大使が中国語がうまいと評判の空海に手紙の代筆を頼む。
現代の愛国者が読んだらぶっ倒れそうな手紙を空海は書いてる。

「伏(ふ)して思いますに大唐の天子様の治めておられる御代(みよ)は、
霜(しも)や露(つゆ)が適度に降りて恵まれた土地でありますし、
そこに宮殿を造られて住まわれているのはめでたいかぎりであります。
そして賢明な天子様が次々にあとを継がれ、すぐれた方が次々に出られ、
その威徳は天をおおいつくし八方にまで行きわたっておられます。
そこで私ども日本でも天候に恵まれて天下が泰平でありますのは、
きっと中国に立派な天子様がおられるからだろうと思い、
とてつもなく大きな木を材料に用い、高山にたとえるほど大きなのみで船を造り、
唐の朝廷に使者を送ったのです」(P94)


土下座外交に近いことを空海はやっているのである。
しかし、結果的にこの書簡が功を奏して通行の許可が下りたのだから、
空海は利益を上げていると言えよう。
遣唐大使がプライドを持って正統的な外交手法で手紙を書いてもうまくいかなかった。
空海は結果(現実的利益)が方法の正しさを決めることを知っていた。
いくら正しい方法を取っても現実的に利益が出なかったら仕方がないではないか。
空海は以降、結果(現実的利益)を出しつづけるが、それが密教の教えである。
空海は長安の青龍寺で恵果和尚と出逢い秘伝を授けられる。
出逢いは偶然であり運だが、空海は偶然の裏側にあるものを知っていたのだろう。
運(うん)は「運ぶ」と書くが、
空海はまるで大空の風や大海の波に運ばれるように恵果と逢い死別している。
逢う人とはかならず逢うという運命の法則を空海は知っていた。
大空の風も大海の波も、台風も嵐も自然現象だが、
それらすべてが大日如来の顕現というのが真言密教の教えである。
20年の約束で留学に来ていた空海はわずか2年で切り上げ帰国する。
そのほうが結果的、現実的に利益になると思ったからそうしたのだろう。
そういう風や波を空海は感じたから、ならばそうするのが自然なのである。
空海はちょうどそのとき遣唐使として来た人物に帰国を願う手紙を書く。

「この私が受けて参りました密教は、仏教の心髄であり、
国の安定と安全に寄与し、災厄(さいやく)を払い福利を益(ま)し、
凡夫が仏陀に到達する最短の近道なのであります。
本来なら10年かかるところをわずか一年で成満し、
三密(身・口・意の三密、仏陀の活動)の印爾[いんじ/秘法]を
一身に体得することができました。
この宝珠ともいうべき密教の教えを天皇陛下へ持ち帰りたいのです」(P127)


密教は世界哲学ではなく現世利益のある呪術なのだと空海は明言している。
密教は学問ではなく現実的に利益の出る秘術であり秘法だ。
いまで言うならば役に立たぬ経済学ではなく、
富も健康も増し国益もあがる裏ワザであると。
世界には秘密のスイッチがじつのところ存在し、自分はそのありかを恵果から学んだ。
見栄や虚飾ではなく現実的な利益を考えよう。現実的になろう。
世界の仕組みを知っても知的満足はあろうが、それだけである。
知らなければならないのは世界の仕組みではなく世界の秘密である。
南都六宗や天台宗といった顕教はたしかに世界の解釈を教えるが、
密教のように世界を変革することはできないではないか?
このため、密教は顕教よりもすぐれている。これが真言密教である。
法律や真理、建前よりも現実的な利益のほうがたいせつではないか。
空海は朝廷に出した上申書にこう書いている。

「空海が聞いておりますが、如来の説法には二種があると申します。
一は浅略(浅くて簡単な)なる説法、
二は秘密(表面的ではなく奥深い)の説法であります。
浅略というのは一般的な経の文章(散文)や
偈(げ)とか頌(じゅ/韻文)などが相当します。
これに対して秘密というのは陀羅尼(だらに/真言)などが該当します。
たとえば浅略趣は医学でいえば『大素』とか『本草』などの
薬学の書物のようなもので、病気のもとを解説したり、
薬の内容や効能を述べているにすぎません。
これに比べて陀羅尼を誦すのは、病気に応じて薬を調合し、
それを実際に飲んで病気をなおすのに相当します。
もし病人に向って薬の効能書(こうのうがき)を読んでやっても、
それだけでは病気は良くならないでしょう。
どうしても病(やまい)に適した薬を作って飲まさなければ
病気をなおして命を保(たも)たすことにはなりません」(P176)


密教の自分は薬剤師ではなく実践的な医者だと空海は言っているのである。
昨日また橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)で大学病院の神経内科へ行ってきた。
待合室で他の患者さんと話すと担当の医師は説明が長いらしい。
親切でいい先生とも言えて、患者からの質問にはぜんぶ答える方針の模様。
はっきり言って、患者は病気の知識を得ても意味がないでしょう?
現実的に治るかどうかが重要なのだから。
ひとりの患者が20分も30分も使ったらあとが詰まるのである。
1時間15分待たされたが、わたしはあとが混雑しているからと5分で出てきた。
筋電図検査の結果を聞くと、
データ的にはまだよくないらしい(治る余地があるってこと)。
橈骨神経麻痺では代診とかいろいろな事情があり、
つごう4人の神経内科医師の診察を受けた。
その過程でわかったのは、医者もよくわかっていないということ。
ビタミン剤を飲んで自然に任せるしかないよねって感じ。
治るときは治るし、治らないときは治らないだろう、くらい。
本当のことを言うと、病気がよくなったとき、
それは自然によくなったのか医術が功を奏したのかはわからないのである。
なぜなら医者にかかっていなかったときの自分と比較できないからだ。
わたしが医者によく言っていたのは「絶対よくなるって言ってください」と。
むかしの医者はそれを言えたが、
いまの医療者はコンプライアンスだかなんだかで言ってくれないのである。
「嘘でもいいから言ってください」と頼んでも「それは言えないよ」なのである。

空海の真言密教というのは、確信を持って、なにごとも絶対よくなると断言し、
証拠として呪術的儀式(現代でいえば外科手術に当たる)をやったことである。
ほとんどの病気は自然によくなるのだから、
大日如来たる自然を深く信じることである。
死ぬときが来たら自然に死ぬだろうし、それが結果的によいことなのである。
自然というのは運であり、偶然だ。
大自然(大日如来)と一体化すれば風や波、
つまり運や偶然の流れに乗ることが可能になる。
大日如来信仰は自然=運=偶然=自分の存在を確信することではないか。
なぜなら自分とは自然そのもの、運や偶然の結晶だからである。
空海は師匠の恵果から教えられた密教をこう簡略化して説明している。

「不肖(ふしょう)私は駄目な人間ですが、先師から教えを承けてきました。
中国の唐まで行って深い教え(密教)を求めようとしました。
幸(さいわい)に今は亡き不空三蔵の付法の弟子にあたる、
青竜寺の恵果先生にお会いすることができ、
この秘密神通最上の密教を受学することができました。
恵果和尚は私にこう告げられました。
「もし自分の心の奥底がわかれば、みほとけのお心もわかります。
仏心を知ることは衆生の心を知ることです。
我心・仏心・衆生心この三心は同一なりと知れば、
その人は大覚(だいかく/大日如来)と呼ばれるのです」(P204)


私の心の奥底まで到達したらそこには父と母の性の営みがある。
どうして父と母が結ばれたのか考えると、ふたりの出逢いから始まろう。
それは偶然であり運の要素が強く、いま私が存在することを考えると、
結果的にそれは自然と言えるのではないか。
いろいろな人の縁、縦糸横糸さまざまな絆(きずな)のなかで両親は出逢った。
ならばそこに衆生心(みんなの心)の働きがあるだろう。
衆生心とはユング心理学の言うところの集合的無意識だと思う。
父と母が出逢う前提としてふたりが誕生するということがなければならない。
そうなると祖父と祖母の因縁が関係してくるし、
さらに奥底までさかのぼると大日如来が見えてくるのではないか。
としたら、私は大日如来であり、周囲のみなもまた大日如来の化身である。
私の身口意の行為が周囲に波及し、新たな男女の組み合わせ、
さらにその子孫の運命を決定づけていくのだから、
やはり私は運であり偶然であり大日如来であることがわかろう。
未来も過去も私という偶然的存在のなかに自然として備わっているのである。
ならば、私はなにをしても自由で、自分(=大日如来)を信じていいのである。
運や偶然を信じるのが、私が宇宙と一体化する秘密の鍵(かぎ)ではないか。
運がいい人というのがいる。
空海は自分を大日如来だと信じていたから外界である大日如来と一体化できた。
つまり、空海は自分の運のよさを信じていたから呪術がうまかった。
自分が大日如来ならば、すべての偶然は必然になる。
偶然を必然と観ずるのが以下の書き下し文の意味である。
すべては偶然であり、同時にすべては必然として起こるべくして起こっている。
それは自分の心が大勢の心、究極的には仏心に通じているからである。

「[恵果]和尚告げてのたまわく、もし自心を知るはすなわち仏心を知るなり。
仏心を知るはすなわち衆生の心を知るなり。
三心平等なりと知るはすなわち大覚と名づく」(P198)


現実というのは神秘的な偶然の結果でもあるのである。
現実的であることと神秘的であることは矛盾していない。
現実はありふれており、まあこんなものだが、
それを神秘的な奇跡と観ずることも可能だ。
どうしたら神秘的な利益が上がるかといえば、現実的になることだろう。
空海は女犯(にょぼん)の罪に問われている奈良仏教(法相宗)の僧侶のために、
この破戒僧をお許しくださるよう天皇に嘆願書を書いてあげている。
現実として起こってしまったことは仕方がないという現実的な見方がそこにはある。
法律や戒律も大事だが利益のほうが重要ではないか。
天皇には過去の中国の皇帝の例を挙げ、恩赦を出せば評判が上がると進言している。
評判が上がればそれは天皇自身の利益になる。
天皇が破戒僧を許したかはわからないが、
こういうことをしておけば空海は奈良仏教に貸しを作ったということだから、
新興の真言宗への当たり(批判)も弱くなるだろう。
空海は計算してこういう行為をしたとも言えるし、
まったく自然発生的な行為だったのかもしれない。

空海の人生を見ているとひどく打算的に思えるが、
これは仏陀(大日如来)が全体の利益を計算した結果と考えることも可能である。
偶然はチャンスでもリスクでもあるが、空海は法律や常識に縛られずに、
あたかも「風のように鳥のように」自由に生きている。
大学中退から始まり遣唐使船、違法帰国と空海は自由にやりたい放題である。
だが、空海の人生を見るとき、
それはまるで運命をそのままなぞっているようにも思える。
もっとも自由に自分を信じて生きるとき、その人は運命や宿命に達するのかもしれない。
どこまで自分という大日如来を信じられるかが勝負なのだろう。
おそらく言葉のない世界への隠し扉は「自信」「自由」「運」「偶然」がキーワードである。
自由に自然体で「風のように鳥のように」生きたのが、
現実的神秘家の呪術的指導者であり救済者の弘法大師空海である。

「般若心経秘鍵」(空海/加藤精一編/角川ソフィア文庫)

→空海というのは日本スピリチュアルの元祖と言ってもよい。親玉だ。親分よ。
スピリチュアルにはまる人の特徴。
・自分が大好き。「本当の自分」とかついつい考えちゃう。
・基本的に優秀であたまがいい。創価学会は泥臭くていや(笑)。
・金がある(スピリチュアルは金がかかる)。
・神秘的なことを信じたい。おとなになった不思議少女。
・メンヘラ(精神疾患)体験がある。
・人より優位に立ちたい。自分は人を教え導くタイプだと思っている。
・インドのリシケーシュでヨガをやっちゃうタイプ。
・悟ったぶりっ子。男性よりも女性のほうが多い。

こんなことを思ったのは空海で検索していたら、
女性スピリチュアル・リーダーが出て来ること出て来ること。
さんざんスピリチュアルに散財してきた元を取りたいのか、
個人セッション60分で3万6千円とか詐欺まがいのことをしている。
おなじような詐欺に何度も遭い常識が麻痺しているのかもしれない。
空海がやったこととは完全に別物といえるかと言ったらそれも難しいと思う。
あたまがいいと世界の不合理が見えて、
スピリチュアルに走りたくなってしまうのかもしれない。
スピリチュアルの世界ってだますのは男でだまされるのは女のような気がする。
さて、こちらは男らしく西洋哲学者のニーチェの言葉を引用しよう。

「何か新しいものを初めて見るという点ではなく、
古いもの、古くから知られているもの、
誰にでも見えているが見過ごされているものを、
新しいものであるかのように見るという点が、
真に独創的な頭脳の抜きん出ているゆえんである」(「ニーチェからの贈りもの」


東洋神秘思想家の空海は最新の密教を中国から輸入したがために、
それだけの理由で偉いというのではない。
古くから知られた「般若心経」を密教的に新しく解釈している。
下品な言い方をすれば「般若心経」を密教でレイプした証が「般若心経秘鍵」だ。
それほど密教は強いのである。
仏教のいうなれば最高進化形態が密教で、ここが打ち止めといってよく、
あとはもうヒンドュー教に到達する(吸収される)しかない。
空海の真言密教の教えは「わたしもあなたも世界はみんな仏さまで、
その最大仏、最勝仏を大日如来としましょう」というもの。
スピリチュアル的な宇宙との一体感を空海は即身成仏と呼んだわけだ。
自分の心の奥底を探っていくと宇宙の元締め大日如来に行き着き、
大日如来は宇宙そのものだから、自他や精神肉体物体の区別は融和され、
「よおし決まったぜピース!」って感じかな。

なんでも大日如来で説明できてしまうわけである。
なぜあなたが生まれてきたのかも大日如来で、なぜ死ぬのかも大日如来。
死ぬまえはどうだったのかも大日如来で、死後の世界も大日如来。
インド語のアッチャーはグッド程度の意味だが、アッチャーは大日如来でもある。
世界は大日如来であなたもわたしも飼い犬もマグロの刺身も大日如来なんだから、
みんなアッチャー、盛り上がっているかい? アッチャーしているかい? 最高ですか?
このテンションで般若心経も大日如来の教えだと空海は独自解釈する。
般若心経や仏教用語があたまに入っていない人でないとわからないから
テキトーにぶっ飛ばすと、色即是空空即是色は華厳宗の教えで、
どこそこは三論宗の教え、あそこは法相宗、この部分は天台宗と独自解釈するのだ。
で、最後のギャテイギャテイの箇所が密教の教えであると。

どうして古いお経に最新の密教の教えが盛り込まれているかという、
疑問への解答がおもしろい。
空海は問題設定がうまいのである。
受験生時代、予備校講師に答えは問題に書いてあると教えられた。
究極の答え大日如来を心身で味わっていたから、
空海は問題を創るのがうまかったのかもしれない。
弘法大師空海は自問自答の天才とも言えるのではないか。
自分で問題を創り、ふつうなら師に教え(答え)を求めるが、
空海は自分で答えを出し、それが「正しい」とつゆ疑わず信じることができた。
空海は自然体だったが、自然そのものにたいへんな自信を持っていた。
なぜなら自分も大日如来で宇宙全体、自然現象みなみな大日如来だからである。
本書の内容は、顕教の般若心経はじつのところ密教の教えである。

「また次のような疑問を持つ人があるでしょう。
顕教と密教とは趣旨が全くかけ離れているとすれば、
いまこの『[般若]心経』のような、いわゆる顕教の経典の文中に、
密教の深旨[じんし/深い意味]が説かれているなどとする解釈は、
不可能のはずではないか、と。
それに対して私はこう答えましょう。
医道にすぐれて詳しい医師が見れば、一般の人ではわからない道端の一草でも、
それがなにに効く薬草であるかが見通せるし、宝石に詳しい人は、
他の者の気がつかない鉱石の中に、
貴重な宝石がうもれていることが知れるのであります。
このように、深い趣旨に気づくか気づかないかは、誰のせいでもない、
その人の眼力に依るのであります。
『心経』に密教的深旨が含まれているというには、
見る人がいわゆる密教眼を持つことが大切なのです」(P90)


密教眼というのは曼荼羅的世界観のことだと思う。
曼荼羅とは密教の世界観を絵画化したもので、世界は仏さまに満ち溢れていて、
すべての仏がじつは中心の大日如来の化身であることを示した仏画である。
先日東京のスラム街山谷で牧師さんが伝道のため、
ボランティアでやっているという激安弁当店におもむいた。
牧師さんのブログを読んだら(もちろん全部ね)かなりアクの強い人らしく、
自分は人を救っているという意識が強く、
またそうでなければやってけないのだろうが気もお強いらしく、
山谷の老人と百円、2百円のいざこざで怒りをぶちまけている(人間らしくていい)。
わが目で見たことだが、お客さんの老人もこんな激安店なのに、
お店の人にかなり強いことを言っていたし(だから山谷暮らしなのかは不明)、
どっちもどっちでうまくバランスが取れているなあ、と感心したものである。
山谷の元日雇い労務者からしたらプロテスタントの教えはチンプンカンプンだろう。
そのことをわかったからこそ自分もおなじ目線に立とうと、
インテリの牧師さんも40まえにして日雇い労働者の仲間に加わったのだろう。
曼荼羅的世界観(密教眼)に映るのは、どちらも仏さまというかなあ。
牧師さんも無学な日雇い労務者のおかげで救済者のポジションに立てているし、
お客さんも牧師さんのおかげでいろいろ助かっていると思われる。
どちらが菩薩で仏かはわからないし、
たまたま色即是空空即是色の(空海いわく)華厳的縁起が
成立しているのかもしれないし、両者の立場(牧師と労務者)をわけたのは、
「ギャテイギャテイ……」や「おん あぼきゃ べいろしゃのう……」という、
秘密(呪文、ダラニ、真言)が奥深くで関係しているのかもしれない。

空海は平安貴族仏教の人だから、
この時代には法然の南無阿弥陀仏も、日蓮の南無妙法蓮華経も存在していない。
法然や日蓮は(最澄の)天台宗の出身とされるが、
影響を受けたのは(台密であれ東密であれ)密教ではないかと思う。
光明真言は「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら 
まに はんどま じんばら はらばりたや うん」である。
これは長すぎてあたまの弱い無学な民衆は記憶できない。
だから法然は呪文を南無阿弥陀仏に設定し、
日蓮は南無妙法蓮華経を創作したのではないか。
空海は真言密教の開祖だが、当然のように古い天台宗のことは熟知していた。
天台本覚論(みんな仏性を持っている)あっての真言密教なのである。
この不可思議な仏性、世界の謎を刺激する最新の秘密語(真言)を
(儀式手順とともに)唐から持ち帰ったのが空海である。
しかし、その秘密語はサンスクリット語だから日本下層民にはなじまない。
このため、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経が生まれたが、
言葉が異なるだけで世界観は真言密教とさほど変わらない気がする。
南無阿弥陀仏はわが心の菩提心であり、同時に世界が阿弥陀仏のあらわれである。
南無妙法蓮華経は日蓮の「ひげ曼荼羅」を見たらわかるよう、
妙法が世界に充満しているという、これまた空海の密教的世界観と極めて似ている。
だから、わたしは独自解釈として念仏=題目=光明真言だと思っている。
真言密教は難解で金がかかり庶民的ではないので代用品の念仏や題目もいいと。
そうは言っても好みはあって、いちばん好きなのは一遍の南無阿弥陀仏で、
理由は上記のような考え方(独自解釈)を一遍から習ったと思っているからである。

平安仏教の空海は、古株たる既存権力、
奈良仏教の法相宗、三論宗、華厳宗から叩かれたことだろう。
鎌倉仏教の法然も日蓮も平安仏教からいちゃもんをつけられている。
空海や法然は旧勢力と折り合ったが、最澄、日蓮は大喧嘩をした。
空海の最晩年に書かれたという「般若心経秘鍵」は、
奈良仏教(南都六宗)と和解するために執筆されたと思えなくもないのである。
というか、もっと即物的な言い方をしたら、
新手の真言密教は南都六宗の若手を弟子として引き抜くしかない。
天皇や貴族に評価されるのもたいせつだが、後継者も育成せねばならず、
僧侶の数は限られているから南都六宗の若僧を自陣に引っ張り込むしかない。
「般若心経秘鍵」は南都六宗(三論宗、法相宗、華厳宗、倶舎宗、成実宗、律宗)の
僧侶を自分に寝返らせるために書かれた折伏(勧誘)の書と見ても、
あながち間違いでもないような気がする。
相手にいままで気づかなかった疑問を惹起させ(自信喪失に追い込み)、
「正しい」答えをすぐさまその場で差し出すのが宗教勧誘のコツであろう。
本書で以下の部分が折伏のキモになるのではないか。
折伏(しゃくぶく)は難しいのである。なぜなら折伏は心のレイプに近い。
創価学会の池田名誉会長だって真言宗のご尊父を折伏できなかった。
空海の折伏術はこうである。とくとご覧あれ。
みなさんのお信じになる般若心経はじつは密教の教えでもありますぞ。

「ある人がこういう質問をするかも知れません。
[奈良仏教である]法相宗の三時教判[優劣判断]からいえば、
『阿含経』は初時教、『般若経』は第二時教で、
これらはいずれも未了義(みりょうぎ/不完全)な教えであり、
『華厳経』、『解深密教』などを中心とする唯識教学[唯心論]こそ、
第三時教で顕了(けんりょう)の(完全な)教えだといいます。
これからすれば『[般若]心経』は第二時の未了義の教えなのだから、
第三時の華厳とか法相の教えがここに含まれている筈(はず)が無いではないか、と。
それに対して私はこう答えたいと思います。
大日如来の説法すなわち真言密教では、
一字の中にすべての教えが含まれており、一つの思いの中に、
経・律・論(三蔵)のあらゆる教えを含んでいるくらい深くて広いのです。
まして一部の経典、一品(いっぽん)の経文ともなれば、
どうして欠け落ちたものがありましょう。
すべての教えが含まれているに違いないのです。
占いに長じた人の目から見れば、亀の甲(こう)の割れ目や
小さな算木(さんぎ)の並び方の中に、万象があらわれて、尽きることがありませんし、
帝釈天の宮殿をとりまく珠玉の網(あみ)には、
重重帝網(じゅうじゅうたいもう)といわれるように
ひとつの珠(たま)にすべての珠が映え合って映るといいます。
帝釈の声論という論書[アガスティアの葉?]には、インドの伝説で、
あらゆることが書かれ、網羅(もうら)されている、といわれるではないですか.。
これらを考え合わせますと、『心経』の中にあらゆる仏教の教えが
すべて含まれているといっても、少しも不思議ではありません」(P57)


新参者の空海は自分を売りだし、自己PRするしかなかった。
日蓮は上から目線でいきなり権力者を叱りつけ大失敗した。
世事全般「空(くう)」であるならば、ホンモノもニセモノもない。
すべてが大日如来であるならば、すべてがホンモノですべてがニセモノである。
顕教も密教も、あたかも骨董品のようにすべてがニセモノであるとの確信を持ったら、
セールストークは「お目が高い」と相手の自尊心を刺激するのがもっともよろしい。
ホンモノはこちらが証明するものではなく(証明書などいくらでも偽造可能)、
相手がホンモノと思った(信じた)ものがホンモノになるのである。
真言密教は空海がホンモノと信じたからいまもホンモノとして流通しているだけで、
学問というインチキくさい世界から見たら密教は釈迦とは縁もゆかりもないニセモノだ。
スピリチュアルはインチキでニセモノだが、
高額有料技術情報提供者と購入修行者が双方同意していたらホンモノなのである。
ホンモノもニセモノもないのだから(すべてがホンモノでニセモノゆえ)、
「あなたはお目が高い」と一発かましてやればいいと山師の空海は考えたのであろう。
「お目が高い」あなたさまなら密教の価値がわかるでしょう。
牛馬のような下賤な人間とは異なるあなたさまだからわかるのです。
空海は下層民を馬にたとえることがままあるが、こういう差別精神が嫌いではない。
底辺バイトや派遣でいろいろな人にお逢いしたが人間の能力差は厳として存在する。
ビジネスマンとして当方より優秀な社会人、肉体労働が心底うまい人がいるいっぽうで、
だからといって両者が入れ替わったらうまくいくわけでもなく、適材適所、
空海の本なんて読めるのは一部の世からあぶれた有閑者くらいだろう。
わたくし空海の価値がわかるあなたさまは「お目が高い」と弘法大師はやるのである。
ほかの仏教の教えよりも、わたしの密教は価値があるのです。

「とは言え、真実を見抜く力量や、悟りに至る速さなどは、人それぞれですし、
各自の好みの方向もまちまちです。
密教にも金剛界[男性性]と胎蔵界[女性性]の二つの見方があって、
人々の機根(きこん/こころざし)に応じた見方が提供されていますし、
他の仏教各種の教えも、密教に比べればまだまだ浅い見方なのですが、
馬小屋の馬[けだもの/下層民/意識の低い人たち]が、
前に横たわる埒(らち/柵/さく)を越えられないように、
それを信じている人々の前には壁が立ちはだかっていますから、
なかなかそれを乗り越えて進むこともままならないのです。
しかしこうしたさまざまな教えがあっても、
仏陀大日如来が人々の好みに応じて各種の教えを提供して下さっている、
と考えればよいのです。
各種の教えが存在するのは、決して無駄ではないのです。
仏陀大日如来が人々にさまざまな過程となる教えを示し、
人々をより高い立場[意識高い系でっか?]へ次第にいざなっていかれる、
と受け止めればよいのです。大日如来が衆生を導く方法は、
このようにすべからく深い思いやりをもってなされているのです」(P49)


これは称賛になるのか悪口になるのか空海は日蓮大聖人よりもいかわがしい。
まさに日本スピリチュアル協会の元祖、教祖、組長だと思う。
政治も弟子の扱いもうまく、まるで創価学会の池田大作さんのようである。
創価学会もスピリチュアルも神秘性という意味での根っこはおなじだが、
創価大学はお洒落だが創価学会はドブ板選挙の汗臭さから抜けきれない。
空海密教系のスピリチュアルは意識高い系でお洒落なイメージがあるけれど、
他人のことはどうでもいいが高学歴美女よ、お金がもったいなくありませんか?
村上春樹はスピリチュアル的で、山田太一は創価学会的と言えよう。
吉本ばななは意識が高すぎて(病的ってこと?)当方にはわかりません。
こんなつまらない仏教記事を最後まで読んでくれる人なんかいるのかなあ。
と、こういうふうに念仏系は創価さんよりもはるかに謙虚なのだ。
ここは弘法大師空海の真似をしてワールドさまに対してエゴアピールだ!
このブログ記事のおもしろさはかなりレベルの高い人しかわからんぞ!
うわっ、言っちゃった。おれ偉そう。恥ずかしい。こっち見んなよ。ぶくぶく泡沫だぜい。

昨日ハロワに行って、
就職相談窓口で経歴の一部を語り(時間的、人間関係的に全部は言えない)、
「どうせこのままひとりだし、やりたい仕事もないし、なんでもいいっすよ」
と投げやりなことを言ったら、介護か警備ならだれでも取ってもらえる(ニュアンスよ)
というようなことを教えてもらい、わざわざ専門コーナーに連れてっていただくと、
今度の女性相談員は顔面左部にいかにも男からぶん殴られましたよという痣があり、
ファンデーションでも消せないのかなあ、と思いながらお話をうかがう。
警備員は今年3月だかにアルバイトに応募して落とされたんだけれどなあ。
相談を終え(就職活動1カウント)チラシコーナーを見ていたら、
翌日開かれる「警備業界しごと説明会in北千住」を発見。
なんでも事前予約すると当日千円分のクオカードをもらえるらしい。
締切は17:30。いまは数分まえで急いで携帯から電話予約する。
北千住ってうちから行きにくいんだ。片道約1時間300円以上かかる。
どれだけ貧窮しているのか歩くのが好きなのか、荒川ぞいに徒歩で行くことに決める。

いちおうチラシには入退場自由と書いてあった。
これはさくっと行って説明だけ聞いて就職活動カウント2で退散すればいいのではないか。
10年近く行きたかったところに東京の旧スラム街、ドヤ街、山谷がある。
山谷は南千住だから北千住から歩いて行ける。
ようやく念願のドヤ、日雇い労働者の街、
スーパーフリーと聞く山谷に行くときが来たのかと思う。
うちから北千住まで荒川散歩で歩いたことはあるが何分かかったか覚えていない。
3時間くらいじゃないかと予想したらピタリと当たって3時間。
会場に集まった求職者は20人ちょっとか。だれもスーツネクタイの正装はいない。
これはチラシに服装はご自由でと書いてあったからだろう。
わたしもTシャツとジーンズ。おまえ、警備職をなめんなよ。
集まったメンバーは高齢者や算数も忘れたようなわたしめいた人たち。
氏名住所電話番号を書かされるが複写式になっており不穏な空気がただよっている。
「これ、いきなり携帯に電話かかってくるんですか?」
と担当の方にうかがったら、どんぴしゃりっぽい。
そうしてほしくなければその旨をブースの人にお伝えくださいとのこと。
なんか、やばいよやばいよ。

映像紹介では東京オリンピックに向けて、
新たな警備員が1万4千人(かなあ?)必要とされていることが示される。
若い美人の警備員の女の子がやりがいはありますと言ったり。
警備の仕事を10年誇りを持ってやっているというイケメンも登場したが、
よく飽きないなあ。あんたならもっと稼げる仕事があるんじゃないかと思う。
この就職イベントには6社が参加。
わたしが3月に花見バイトで落とされたと思しきT株式会社もいて苦笑。
映像説明や会社紹介が30分で終わって、
これで義理を果たしたかと思い、帰ろうとしたらダメだと。
「せめて一社くらいブースに行ってください」
世間知らずだから、そういうものなのかなあと、ううんと着席。
赤羽にある日給8500円の警備会社。
住んでいる場所を問われ浮間舟渡と答えたら知らないので驚く。
発音がよくないのかと浮間舟渡を何度も繰り返したが、赤羽さんは知らないらしい。
赤羽、北赤羽、浮間舟渡じゃないか。なんだかとてもかなしくなった。
うちはどこの現場にも交通費を出しますと自慢げだったが、
移動中の時間はお給料にならないんだから、それはなあ、大して。
横の還暦近いおっちゃんがやたらハッスルしていて自己PRしていた。
前職で3年警備員をしていたらしい。よく3年もやれるなあ。
東京オリンピックが終わったら警備員の需要も終わるでしょうと意地悪な質問をしたら、
赤羽課長さんと隣の3年警備員さんが口を合わせて否定した。
どういう理由かはわからない。

約束のひとつのブース体験をしたから帰ろうとしたら、
「あんたは非常識よ」といった目つきでおばさんからにらまれて、
もしかしてひどいことをしているんじゃないかと思う。
たぶん警備員の人手不足というのはフィクションのたぐいではないか?
警備会社人事部の方たちが自分たちのお仕事をつくるために
このイベントを企画したのではないか?
だって、結局、面接しても落とされるわけでしょう?
わたしも渋谷のあそこから落とされている。
落選だったら連絡しないからという、いちばん応募者がいやがるタイプの方法で。
「80歳でも警備をしている人はいる」と説明会で聞いた。
ほかにも早く帰りたいという参加者の声は耳にした。
たぶんわたしがいちばん最初に無礼にも千円いただいて帰ったと思います。
わざわざ見送ってくれた(引き止めに来た)お偉いさんに、
生意気にも「警備は5年後でも大丈夫そうです」と言い放った根性悪がわたし。
こころがいたむなあ。

山谷、ドヤ、ジャパニーズ・フェーマス・スラム、治外法権泪橋、南千住へゴー。
やたら北千住から南千住あたりはお巡りさんが多かった。
山谷の情報は前日に入念に調べておいた。
日本のスラム、貧民街、昔は首切り場、横は変わらず吉原風俗街という山谷。
山谷の入口はセブンイレブン世界本店である。
かつてはここに有名な角打ち(立ち飲み)酒場があったという。
緊張して手が震えたのか世界本店の証拠はうまく撮影されていないかもしれない。

DSC_0040.jpg

いよいよ山谷入場である。ぎりぎり限界の、人間の欲望が渦巻く魔界、魔窟、異世界。
たしかに高齢者が昼から道端に座り込んで酒を飲んでいるなあ。
しかし、みな缶チューハイをちびちびやっていて迫力がない。
ワンカップとか焼酎、ウイスキーを飲んでいる高齢猛者(もさ)はいなかった。
有名な交番があるのだが(外人バックパッカーへの案内所でもある)、
そこの並びに警察官を挑発するように、
真っ赤な顔をして昼から缶チューハイを飲んでいる高齢者3人がいた。
写真を撮りたいと思い、
トラブルになってもいまのわたしのコミュ力(だいぶ成長しました)なら
大丈夫だとは思ったが、東京のスラム山谷に敬意を表してそれはやめておいた。
一泊2200円の宿のあるところだから
外人バックパッカーがもっといるかと思ったら、意外なほど目にしない。
若い白人の女の子がチャリで観光しているのを見て、
ああ、ここをニッポンと思われちゃうのはどうかなと思う。
しかし、長らく東京在住のわたしが観光目的で来るような場所なのだから、
日雇い労務者と共産党、怪しい古びた宗教がひっそり息づく山谷こそ、
われら大日本国民が誇るザ・ニッポンなのかもしれない。
この山谷が第一回目の東京オリンピックを支え、高度経済成長を後押ししたのだ。
全財産と思しきスーツケースを路上で開いている後期高齢者を見て合掌する。
詳細は書けないが、わけわかんない店とか、
あからさまに違法滞在外国人(シナだと思う)向けのショップがあって、
ここは東京でいちばんの観光地ではないかと思う。
廃墟の街、亡霊が住まう生ける墓地、怪しげな人が数十分おなじ場所に立っている山谷。

DSC_0041.jpg

もう肉体労働をものともせず余力を残して山谷に戻り、
大酒を食らった体力勝負の男たちはいない――。
死んだ街、灰の降る街、呻きも嘆きも消えたかに見える山谷よ。
わたしはかつての粗暴で下品で無計画性のかたまりの山谷に敬意を表し、
いま残骸の彼らがちびちびと口にする缶チューハイを真似して買い、
公園でしみじみ飲む。いつかわたしもここに来るのだろうか。
止まれ。もうこの道は行くな。止まれ。だから、止まれ。

DSC_0042.jpg

写真の向こう側にうっすら見えるのはスカイツリーである。
行ったこともないし、行きたいとも思わない、蜃気楼のようなスカイツリー。
海外のスラム的聖地を何度か訪ねたことがあるためか、
その日暮らしのダメ人間のどん詰まり、聖域山谷の急所を発見する。
菊池譲牧師が大貧民たちのために手弁当で営業している「まりや食堂」である。
4:40から数時間だけ激安のお弁当が貧窮者のために販売される。
嗅覚が鋭いわたしは山谷を歩き回りながら、ここがスラムの心臓だとにらんだ。
注文したものも大当たりだった。
「卵焼き弁当」160円と、なぜか茄子の天ぷらつきのカレーライス300円。
160円の卵焼き弁当は名物らしい。
カレーは日替わり弁当で出されるメニューだが、
大人気で40食があっという間に売り切れるという。
高齢の元日雇い労務者たちと並んで開店を待ちながら、
わたしは旅をしている気分だった。東京でこんな旅ができるなんてブラボー!
牧師さまのブログを読むと極貧者のために
手弁当(ボランティア)で出しているカレーで、
一般人にあまり買われると困るらしい。
お弁当の写真も撮影したが、あえて掲載しないでおく。
みんなカレーを注文していたが、たしかにこれは懐かしい泪(なみだ)の味がするカレー。
茄子の天ぷらもよく合っている。
南千住から御徒町までは遠かった。
結局、わがガラケーのカウントだと44529歩どこかに向かい足を進めた。
聖地である山谷に遊び半分で行って申し訳なく思う。
「秘蔵宝鑰」(空海/加藤純隆・加藤精一訳/角川ソフィア文庫)

→「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」は空海の晩年に書かれた代表作。
淳和天皇が仏教の宗派の相違を知りたいという理由で各宗が出したもののひとつ。
これを読んで真言密教の内容がわかるかといえばそうではなく、
空海いわく密教は師僧から口伝えで教わるもので、
灌頂(かんじょう/儀式)を受けないかぎり理解しようとしても逆に害悪になる。
灌頂はお師匠さまから水をあたまからぶっかけてもらう通過儀礼のようなもの。

空海は「秘蔵宝鑰」で人間のレベルを上下10に分類していいる。
おそらくこれは天台宗の十界論の影響だろう。
天台宗ではシナ僧の智顗(ちぎ)が五時八教の教相判釈をしている。
教相判釈はいっぱいお経があるけれど、
それらの優劣はどうなっているかという個人的判断で、
考え方はおもしろいが学問的には誤りである(成立年度)。
学会員さんは常識だろうから飛ばしてください。
仏教に興味がない人もここは読み飛ばしてください。
中国天台宗の智顗(ちぎ)は釈迦がこういう順番で数あるお経と説いたと主張する。
1.華厳経(難解ゆえ理解を得られなかった)
2.阿含経(初期仏教、小乗仏教)
3.阿弥陀経、維摩経、勝鬘経(以下、大乗仏教)
4.般若経
5.法華経、涅槃経
密教がどうしてないかというと、中国天台宗が成立したころ、
まだインドから密教が入ってきていなかったからと思われる。
日本天台宗の最澄も日蓮宗もこの説を取り法華経を最勝の教えとしている。

最澄と同時代を生きた空海は権威を借りるのではなく、自分で判断する。
人間は平等ではなく、レベルの違いがあるとはっきり書いている。
本書のアマゾンレビューを見ると空海のやさしさに触れたなぞという、
気持の悪いものが散見されるが、彼らをバカと言ったら失礼で、
おそらくやさしい善人たちなのだろう。
空海は人間のカースト(偉い順番)を以下のように定めている。
1.欲にまみれる生活者(我欲)。
2.法律を守り親孝行してまじめに働く生活者(儒教)。
3.人間世界ではないあの世や天上世界にあこがれるロマンチスト(道教)。
4.声聞。釈迦の教えを耳で聞いて修業するもの(小乗仏教)
5.縁覚(独覚)。師につかないで悟ったもの(教えを説かないから小乗仏教)。
6.法相宗(唯識)。外界は内心のあらわれと見る唯心論(大乗仏教)。
7.三論宗(空の哲学)。般若の智慧(空)を悟ったもの(大乗仏教)。
8.天台宗。法華経を最勝と考える正義の人たち(大乗仏教)。
9.華厳宗。華厳経の世界観を支持する人たち(大乗仏教)。
10.真言密教。釈迦も説かなかった秘密の真理を知るもの(空海密教)。

ちなみに4~9は「顕教」で10は「密教」だと空海は説明している。
空海は平等主義者ではなく、れっきとした差別主義者であった。
著者をふくめ学者や坊主はそのことを隠微しよう(隠そう)として、
空海は10に分類しただけで優劣はつけていないと主張するものが多いけれど、
空海は天皇にはごまをすり、天台宗の年上の最澄をこれでもかと見下し弟子を奪い、
おのれの優秀を疑わぬ、見ようによっては「いやなやつ」だったのである。
バカ(愚人)をバカ(愚人)と言ってなにが悪いかと弘法大師空海は開き直っている。

「あゝ、自分自身の心の内にこうした宝が実在しているのにそれに気付かず、
外のどこかにあると間違って、勝手に自分で覚(さと)ったと思い込んでいるとは。
これを愚人[バーカ!]といわずに何と呼べばいいのでしょうか。
慈(いつく)しみぶかい如来(みほとけ)のお心は切なるものがあります。
しかし、教えをもって彼らを救う以外に方法は無いのです。
種々の教えを並べているのはこのためなのです。
しかし、いくら薬がいろいろあっても、それを服用せずにいたずらに議論したり、
いたずらに諷誦(そらよみ)したりなどして時を無駄に過ごしているならば、
如来(みほとけ)は必ずこれをお叱りになります。
つまり、密教以外の九種の教え(これを顕教という)は、
宮殿の外側の塵を払っているようなもので、真言密教こそが、
宝の宮殿の鍵(かぎ)をあけて、中の宝物を手に入れることができるのです」(P21)


空海の定めた人間レベル1~10のうち、みなさんはどこにいらっしゃいますか?
1か2あたりではないかと思われますが、結局それがいちばんいいのだと思う。
8の創価さんとかになっちゃうと独善主義と思い上がりが怖いでしょう?
真言宗では空海がいちばん偉い。
傲慢なのは重重承知だが、わたしはいま5の縁覚(独覚)レベルにいるような気がする。
仏教の師匠はいないし、欲望がめっきり落ちたし、よくない悟りにおちいっている。
教えを広めたいとか他人に影響を与えたいとか、そういう娑婆っ気も枯れた。
空海も「秘蔵宝鑰」で縁覚(独覚)はやばいと書いている(111ページ)。
縁覚(独覚)は地獄よりも恐ろしいと記している論書もあるとのこと。
地獄ならばまだ仏へ這い上がることができるが、
縁覚(独覚)は「菩薩の死」を意味して永遠に救われない。
わたしは1の人間か1以下の地獄に戻りたいところがある。
地獄の猛火とか言い方を換えればカッカしている、生き生きしているということだから。
余談だが、空海の時代には日本浄土教は出ていなかったが、
空海のレベル論(「十住心論」という)で言えば、
死後の極楽浄土を求める法然や親鸞はレベル3ということになる。
あんがいレベル3くらいがいちばんいいのでは?
だって、4からは厳しい修業が必要なんだぜ。みんな難しい本を読むの嫌いでしょ?
わたしも座禅とか地獄に堕ちるぞって脅されてもやりたくない。

まえにも書いたが、空海の鋭いところは持論の反論を想定するのがうまいのである。
果たして仏教は必要なのか?
当時は国費、税金でお寺を造り塔を立て僧侶を養っていた。
そんなことをする必要があるのかという問答を公子(公務員)と玄関法師がしている。
これがかなりえげつないガチンコ問答で弘法大師の純粋なファンが
内容を知ったら驚くようなことが書かれている。
「秘蔵宝鑰」は難解で一般読者は読めないと思う。
だから、紹介することに意味があろうが、
かえって紹介しないほうがクリーンな空海のイメージを保つことができていいのか。
迷うところだが前者を選択する。
現代においてなお僧侶は税制上優遇されているが彼らは存在する価値があるのか。
問答の内容はわたしがわかりやすくまとめ、
ねつ造だと言われたら困るので肝心かなめのところは原文(現代語訳)を引く。

公子「僧侶の世界って腐っているじゃないですか?
 あのすさまじい権力闘争はなんですか? 上に媚びることしか考えていない」
法師「たとえ腐っていようがまったく僧侶のいないよりはマシでしょう」(P71)
公子「国は仏教にだいぶ税金を投入していますが、どのような利益があるんですか?」
法師「ここだけの話、下層民は牛馬みたいなものだろう。
 あいつらはほとんど動物みたいなもので、
 放っておくと欲望のままなにをするかわからない。
 ああいう牛馬のような納税者をビシッとしつけるために仏教が必要なんだよ。
 これは秘密にしとけよ。このように真言密教は偽善ではなく真理を説くからな」
ここがいちばんおもしろかったので原文から抜粋する。

「馬を御する方法を例にたとえれば、馬のくつわと策(むち)とによって制御するので、
これ無くして馬を操(あやつ)ることはできません。
同様に人民を統治するには教化と法令が必要で、
これ無くしては統治はできないのです」(P76)


近代教育制度は国のために都合がいい人間(兵隊や良妻賢母)を
大量生産するためのもので、現代の教育制度もまあ遠からずで、
法律を破らない、よりよき納税者を養成する国家経済政策なのである。
国家がほしいのは金で、いかに牛馬のように長時間働く納税者を育成するか。
これが平安時代もいまも変わらぬお上(かみ)の基本姿勢なのだろう。
バカと天才はなんとやらと言うが、空海はそうとうな大物だったことが知れよう。

公子「だからって仏教の坊さんは腐りすぎていて悪臭がしますよ」
法師「ハハハ、おまえら公務員の世界だって腐っているだろ? 違うか?
 それによ、仏教は儒教や道教と等しく天皇陛下さまがお認めになられたものだぞ。
 おまえ、おそれおおくも天皇陛下さまに、お逆らいになるのか」

「儒教・道教・仏教の三つの教えは、いずれも陛下が認められ、
弘め伝えられたものです。それなのに、なにゆえに、
仏教の僧尼たちの違反ばかり指摘して、
儒教や在俗の人たちの非行にはことさら寛大にされるのですか」(P78)


公子「おれも本音を言っちゃうよ。公務員は楽じゃないって。おまえやれるか?
 朝早くから夜遅くまで働いて、給料なんかこれっぽっちかよって思うくらい。
 坊さんはいいよな。寺の中で座ってのほほんとお経をよんでいるだけだろう。
 どこが国の役に立っているんだよ」
法師「(痛いところを突かれあわてて
 『涅槃経』『大智度論』『大迦葉本経』『金剛般若経』『法華経』の知識自慢をして、
 居丈高にも高圧的に公務員を圧倒しようとする)」
公子「(バカにして)本当かなあ?」
法師「仏教には国を守る力がある。現世利益がある」

「この故(ゆえ)に『大智度論』(巻大五十八)によれば、
帝釈天は『般若経』典を読誦して阿修羅の軍を打ちくだいたとありますし、
僧祥(そうじょう)の『法華伝』によれば、
閻魔王は『法華経』にひざまずいて、
この経を受持する人を敬礼した、とあります」(P84)


公子「(薄笑いを浮かべながら)あっそう。で?」
法師「(怒り狂い)おまえ、地獄に堕ちるぞ。
 いいか、いいか! 釈尊は孔子も老子も偉いって言っているから偉いんだよ。
 ポンコツ公務員よ、地獄に堕ちろ!」

「お黙りなさい! そのようなことばは! 
孔子は自分から、西方の聖人釈尊をたたえておりますし、
老子翁もわが師釈尊のことを語っております。
偉大な聖人は嘘は述べない筈(はず)です。
釈尊を謗(そし)ると地獄の深い坑(あな)に堕ち込みますよ」(P84)


空海やばいなあ。仏教は天皇も認めているからおれも偉い。
釈尊は孔子も老子も偉いと言っているからおれも偉い。
それがわからねえようなやつは地獄に堕ちろ!
本当は天皇も孔子も老子も偉くない(という人がいてもいい)のだが、
空海は「偉い人」(権威)の仕組みをよくよく理解していたと思われる。

最後に空海の教相判釈を見ていきたい。
空海は密教がいちばん偉くて、つぎが華厳経、その下が法華経とした。
どういう理由でこの順番にしたのか何度も繰り返し読んだがよくわからない。
ちょろっと法華経の定番批判はしている。
法華経は釈尊死亡後にできたお経でしょう。
でも、法華経はいきなり釈尊のお父さんがあらわれ「わが子よ」と語りかける話。
よって、子の年齢が親より大きいというのはおかしい、という批判は書いてあるが、
空海はそこに集中して法華経批判をするわけではない。
たぶんものすごい子どもっぽい論理なのだと思う。
わかりやすく説明しよう。
学会員というのは、ほら法華経大好きな人たちでしょう。
学会員と空海の対話をさせてみよう。
学会員「どうして法華経は密教よりも下なのか?」
空海「法華経の仏は大日如来の化身だからだよ」
学会員「根拠はなんだ?」
空海「密教経典に書いてあるが、これはうちに入らないと意味がわからない」
学会員「密教の教えはなんだ?」
空海「秘密だ。入信しないと教えられない」
学会員「日蓮大聖人は真言亡国と言っている」
空海「そんな田舎坊主のことは知らんよ。彼はだれに認められたんだい?
 おれは嵯峨天皇とのパイプがある。その日蓮くんはどういうコネが?」
学会員「教えは秘密というのはずるいではないか?」
空海「まあ、華厳経がいちばん近いと思っていい。華厳経を読めるか?」
学会員「活動で忙しくて読む時間がない」
空海「法華経より深い世界観だよ。密教は教えられないが華厳なら教えてやろう」

このブログでは何度も紹介しているが、空海による華厳世界観の説明である。

「まずインドの伝説に帝釈天の珠網(しゅもう)のはなしがあります。
この珠網は、水晶の珠(たま)をつないで造られていますが、
そのうちの一つの珠を見ると、周囲のすべての珠がこの一珠(いっしゅ)の中に映り、
そこに映っている小さな珠をさらに観察すると、
その小粒(こつぶ)の中にも周囲の無数の珠が映っており、
こうして無限に細かく映り合っています。
このように一珠の中に全体の珠網が含まれ、
また全体の珠網も一々の珠に含まれていますが、
悟りの世界は、このようにすべてが重々無尽に縁起し合っています」(P149)


密教はずるいと言われても仕方がないだろう。
空海「密教がイチバーン」
他宗「論争しよう。教えはなんだ?」
空海「ヒ・ミ・チュ」
他宗「どうすればわかる?」
空海「おれの弟子になればわかる」

本書でも真言宗の高僧である翻訳者の著者が、
まるで空海のようなずるいことを言っている。
真言宗の教えは秘密で、師から教わって修業しないとわからないと。
これの意味するところは、「自分は秘密を知っていて悟っている」だから、
後輩は絶対に先輩を超えられないという最強ロジックである。
「まだ教えていない秘密がある」と延々と弟子を奴隷化できる。
秘密を知っていると思うと自分が特別な存在になったような気がする。
この感覚が悟りであり、真言密教の特色ではないかと思う。
本書にも真言宗僧侶に対する諌(いさ)めが書いてあり、
うちらの秘密を軽々しく口にするのではないよ、とのことである。
加藤精一氏は密教の秘密の一端を公開しているが、高僧ともなればいいのだろう。
あんがいわざと難しいことを書いて、
自分を神秘的な存在に見せかけるテクニックが、
真言密教および空海の隠しておきたい秘密なのかもしれない。
「お坊さんは役に立たない」というのが、
決して口外してはならぬ仏教の秘密だったらどうしよう。やべえ口外しちゃったよ。
でもまあアクセス数の低いブログだし、
地獄に堕ちてカッカした生き方をしたいから、まあいっか。
「お坊さんは役に立たないけど偉い」というのが真言密教の隠している秘密。
公式的には真言密教の教えは――。

「世界を微塵(みじん)にしたほどの多数の仏部の仏たちは、わが心の仏であり、
大海を水滴(すいてき)にしたほどの多数の、
金剛部・蓮華部の諸仏もまた、わが身体なのです(大曼荼羅)。
一一(いちいち)の文字にはあらゆるほとけと事柄を含め秘め(法曼荼羅)、
一一(いちいち)の刀剣や金剛杵(こんごうしょ)などもみな仏の神通力をあらわし、
同時に諸仏をあらわしています(三摩耶曼荼羅)。
私たちのすべての心身には、曼荼羅で示されるように、
あらゆる仏徳が本来、円満に具(そな)わっているのですから、
私たちは修業や体験を通してこの事実を確認していきさえすれば、
この生涯のうちに、秘密荘厳の仏をこの自身に体現することができるのです」(P161)


なんだか深い内容を語っているようだが、何回読んでも意味はよくわからない。
密教はいかがわしく、そこがとても宗教の本質をついているような気がする。
空海の真言密教はうさんくさい成功哲学のようなチープさがなくもない。
「そのやり方では失敗します。こうすればかならず成功できる」
「1日10分の努力で月収百万円を稼ぐ方法」
「秘伝。米国最新科学が証明した成功哲学10の気づき」
「しあわせマジック、しあわせ脳の作り方。先着10名様限定」
「顕教ではダメだ。真言密教ならだれでもこの世で即身成仏できる」
人気レストランの秘伝のスープは秘密だからよいのであって、
レシピを公開したらだれでも料理することができてしまい価値がなくなる。
秘密であるということそのものが価値を創造することがあるのだ。
秘仏は毎日公開したら価値を失ってしまう。
女性裸体は隠しているから価値があり、裸族の女性は味気ない。
パンチラも胸チラも隠されているから、見えると喜ぶ男が現われるのだろう。
大きな秘密を創造(発見)したことが空海の大天才のいわれではないか?

1.仏教は現世で利益が出るのか?
2.空海の真言密教に現世利益はあるのか?
3.仏教の僧侶はなにかの役に立っているのか?
4.空海はどうしてルンペン僧から大出世したのか?
5.上記1~4の答えは秘密で、空海は答えを知っていたが墓場まで持って行った。


この記事を書くために丸々4日費やしているが、
おそらく最後までお読みくださった読者さまは数名ではないかと思う。
わけがわからないでしょう?
無給でだれにも読まれない感想文を書く情熱って。
しかし、密教によるならば、この記事を書くという行為が、
かならず全世界の変化にわずかながら寄与しているのである。
わたしが空海の記事を書いている理由は秘密だが、
一銭にもならない行為がもしや現世利益と関係しているのかもしれない――
そういう世界の秘密をわたしが知っているのかもしれない。
一銭にもならないのに異常な熱気をもって長文を書くのはバカでしょう?
もしかしたらバカにしか見えない、
言葉では伝えられない秘密の世界があるのかもしれない。
あったら、どんなにいいことか。それほど現実はつまらないし味気ない。
現実の退屈、無味乾燥を深く味わっているものほど秘密を求めるものだろう。
世界には生き生きとした秘密があり、それは秘密だから語られていないとしたら、
どんなに世界は光り輝いて見えることだろうか?

*もしかしたらこんな長文記事を、
最後までお読みになったことで現世利益があるかもしれませんね。
それは世界の秘密でわからない――。

妻「(見知らぬハンカチを見つけ)あっ」
夫「うん(ぼんやり)」
妻「ううん(浮気を疑うなんて)」
夫「うん?」
妻「(だから)ううん(なんでもない)」
夫「(浮気がばれたのかと気づき)ああっ(やばい)」
妻「うん?」
夫「ああ(どこまでばれているのか?)」
妻「うん(話をすすめる)」
夫「――」
妻「うん(急かす)」
夫「うーん(迷う)」
妻「(強く)うん(白状しろ)」
夫「ううん(否定する)」
妻「うん(怒る)」
夫「ああん(怒り返してみたらどうか)」
妻「うん(怒ってごめんね)」
夫「ああ(うまくいった安堵)」
妻「――」
夫「――」
妻「(やはり怪しくて)ううん」
夫「うん(自信たっぷり)」
妻「うん?(とハンカチを指す)」
夫「ああっ(ばれたのか)」
妻「うん(そうだったのか)」
夫「うん(負けた)」
妻「うーん(許さないわよ)」
夫「うん(しょんぼり)」
妻「(腰に手をあて)うん(当り前よ)」
夫「あーあ(どうしよう)」

これをやれる役者さんっていまいらっしゃいますか?
「吽字義」(空海/加藤精一編/角川ソフィア文庫)

→いまから空海に教わった世界の真理を書いちゃうよ。
世界の真理とは――。

あいうえお
かきくけこ
さしすせそ
たちつてと
なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
や ゆ よ
らりるれろ
わ   を



世界の万事万象に「ことば」がついているでしょう?
そうだとしたら世界はことばだし、真理もことばでしかない。
いかなる真理も五十音字の組み合わせ、テンポ、リズム、配列でしかない。
あらゆる「ぜつぼう」も「きぼう」も「あいうえお」的な「ことば」でしかない。
それって救済じゃね? というのが空海の「吽字義」の主張である。
世界は「阿(あ)」で始まり「吽(うん)」で収束する。
「阿(あ)」はすべての始まりすなわち大日如来であり、
「吽(うん)」はすべてをまとめあげ完成させるこれまた大日如来である。
ことばは「あ」から始まっているし、尻取りは「ん」で終わるでしょう。
それが世界だ。それが真理だ。世界はことばである。世界は五十音字。
「あ」→「あみだぶつ」→「つまらない」→「いらいら」→「らく」→「くるしい」
→「いんど」→「どすけべ」→「べんり」→「りそう」→「うんこ」→「こどく」
→「くるしみ」→「みらい」→「いきいき」→「きぼう」→「うん」
空海いわく真言密教は「阿(あ)」から始まり「吽(うん)」で一周する(円を描く)。
これはけっこうな真理ではないかとしろうとは思うのね。
なぜならほかの真言(呪文)もそうなっているから。
南無大師遍照金剛(な「あ」むだいしへんじょうこんごう「うん」)
南無阿弥陀仏(な「あ」むあみだぶつ「うん」)。
南無妙法蓮華経(な「あ」むみょうほうれんげきょう(うん))。
アーメン(「あ」ーめ「ん」)。
ならば「阿(あ)」は不思議な真言ではないですか?
すべてが「阿(あ)」より生起しているが、同時に「阿(あ)」は実体のないことばでもある。
「吽(うん)」もまた不思議な秘密語で、
「ん」はすべてをゼロ(空)にするとも、すべてを包括する宇宙的全体語とも言える。
言えるのかなあ。そんなこと言っちゃっていいのかなあ。
とりあえず弘法大師空海はこうおっしゃってございますです。

「また『大日経疏』巻七にこう言っています。
「阿(あ)字を観想することによって一切のものが本来的に生じたものではなく、
縁によって生じていることを知るのです。
およそこの世のことばというものは名称からはじまります。
しかもその名称は字によって示されます。
したがって梵字[ぼんじ/サンスクリット文字]の書体の阿(あ)字も
他の字の母とするのです。
他の字はすべて阿(あ)字が変化したものだからです。
阿(あ)字を観想して真実を知る時も同じです。
阿(あ)字はすべての教えの中に行きわたっているのです。
つまり一切の教えは例外なく多くの縁によって生じ、縁から生ずるものはすべて、
縁となっているそれぞれの始めがありそれが本(もと)になっているのです。
いまその本(もと)となっている縁を考えますと、
これもまたまた多くの縁によって生じています。
これをどこまでもさかのぼって考えても何が本(もと)になっているかわかりません。
こう考えていきますと、
すべてのものは本来的に存在するのではないことが知れますし[五十音字表!]、
これがすべてのものの真実のすがたなのです」(P107)


「とうさん」「はめつ」「はさん」「ぜつぼう」「じごく」「りこん」「こどく」は「ことば」。
いま書いて気づいたが「ん」で終わることばってなんか悲惨だなあ。
「りさん」「むざん」「がん」「しざん」「もうあかん」「うんともすんともいえん」――。
そうではなく「ん」が終わりについてもいい「ことば」はたくさんある。
「ざいさん」「あんしん」「いあん」「らくちん」「るんるんきぶん」――。
すべてが「ことば」であるならば、なんだと空海は言うのか。
いや「大日経疏」にこう書いてあるらしい。どこを引用するかも書き手の才能である。

「……世間の一般の人々はすべてのものの本源を見ていないので、
ものが勝手気ままに生じていると見まちがってしまいますので
生まれたり死んだり苦しみの流れから抜け出すことが出来ないのです。
これは丁度(ちょうど)、智慧のない画(え)かきが
自分で色付けして恐ろしい鬼の絵を描き、その自分の画いた絵を見ておそれおののき、
地面にたおれてしまうのにたとえられます。
多くの人々も、これと同様です。
自分ですべてのものの源(みなもと)になるものを勝手に想像し、
勝手にこの世のありさまを画(え)にえがいて、
みずからその世界に飛び込んでしまって、種々の苦しみを受けているのです。
これに対して大日如来の智を備えた絵師は真実をすでに体得していますから、
阿字不本生[この世は「あ」でしかなく「あ」はことばである]という教えをさとって
法界曼荼羅の境地に安住できるのです。
こう考えてきますと、深い広い秘密の教えといっても、
[我われ]衆生が自心の曼荼羅[構造]に気がつかずに秘密と言っているだけで、
仏陀がこれを隠しているわけではないのです」と。
以上が阿字の実義[「あ」という真言の意味]であります」(P108)


もうオカルトを超えてトンデモ支離滅裂だが、
人生って「阿吽(あうん)」というか「アッと驚く為五郎」で結局は「運」なのではないか。
山田太一ドラマのセリフでは「うん」が連発するが、
「うん」ほど相手のことばをうまく引き取るセリフはないのかもしれない。
うんざりするけれどうんとこしょっと発奮すれば運がひらけるかなあ。
だれか「うん」とコメント欄にでも書いてくださいよ。
最近、ブログのコメント欄にひどいことしか書かれないけれど、
これも阿吽の世界の理(ことわり)なのかもしれませんね。
なにかが変化するコンステレーションの「阿(あ)」なのかもしれない。
空海いわく――。

「如来[仏]のお心とそれに付属する心の作用とは、
相互に主(しゅ)となり伴(はん)となって限り無くひろがっています。
それは曼荼羅上の諸仏諸尊にひろがり、
ひいては一人一人の人間の心にもつながっています。
要するに大日如来と私たちは、互いに深く関係していまして、
それは丁度(ちょうど)、帝釈天の珠網[しゅもう/ミラーボールの連なり]
(網の目一こまずつに珠がついていてお互いに姿を映し合っているいる状態)
や沢山(たくさん)の穴のあるおおいからもれ出る光のように、
光源は一つだが、多くの光に見える錠光(じょうこう)に似ています。
いく重(え)にも重なり合って、きわめて複雑にかかわり合っています」(P125)


いまの若い人は「影絵」ってわかりますかねえ?
世界なんて五十音字(あ~ん)の影絵かもしれないわけである。
あーあ、空海があと3冊残っているけれど明日では終わらなそうで、うーん、うーん。

「声字実相義」(空海/加藤精一編/角川ソフィア文庫)

→空海は中国語がペラペラだったという。読む書く話す聞くぜんぶできた。
そのうえ中国に行ってまずサンスクリット語(古代インド語)を学んでいる。
最澄はいまの言葉ではコミュ障というのか、話す聞くがまったくダメだった。
わたしもむかしすべてが言葉なのだと悟った(自己満足、自己欺瞞だから許して)。
ものすごく苦しくて死にたいと考え詰めたが、ああ、これは言葉に過ぎないのだと。
言葉の組み合わせに苦悩は分解することができると。
世界は言葉でできており人間の喜びも悲しみも苦悩も絶望も歓喜も言葉である。
どんな悲惨な体験も「くるしいからしにたい」という言葉の配列に過ぎない。
苦悩なんて五十音字の並び替えだと思うと、
体験を自分の心から断絶することができる。
13年まえインド旅行中アッチャーというヒンドゥー語をたくさん耳にしたけれど、
あれは「よしよしオッケー」みたいな意味らしい。
帰国後もしばらく自分のなかでアッチャーが鳴り響いていたが、
空海密教の真言(マントラ)というのはこのアッチャーに似たようなものだと思う。
インド人の使っているアッチャーとわたしのアッチャーは違うのだろうが、
ある肯定的要素を表出した「自分の言葉」である。
正確な意味がわからないからこそ自分の意味を付与できて都合がいい。

語学の天才空海にも真言(呪文/マントラ/サンスクリット語/古代インド語)の
正しい意味は理解できなかったと思う。
だいたいはわかるけれども、それが完全な意味かどうかはわからない。
いまの学者がいくらサンスクリット語を研究してもおなじである。
サンスクリットは古代インド語だから、当時現地で生きていた人にしかわからない。
そのうえ言葉の意味というのは文脈によるでしょう?
「お礼をする」だって復讐することを「お礼をする」とも言うわけだからさ(お礼参り)。
言葉というのは相対因縁、縁起関係、
照応現象、共時現象、華厳的世界観の象徴のようなところがある。
だれかがはじめて使った新語が広まって普遍語になることもある。
世界は言葉で成り立っているが、その言葉の意味は文脈関係つまり因縁で決まる。
そして言葉には真言(秘密語)があり、真言の意味は「わからない」のだが、
だとしたらこの真言がまさに世界の秘密を象徴(具現化、可視化)しており、
それによって世界には秘密のあることが証明され(不思議な運命や宿命)、
だからこそこの真言(秘密語)を唱えることで、
世界の秘密たる仏陀と一体化できると考えたのが空海の真言密教ではないかと思う。
古代インド言語学では(いまの日本の五十音字とおなじで)、
すべての言葉は「あ」からスタートしていると考えられていた。
ならば、始まりの「あ」が大日如来である。
あらゆる悟り(さとり)も成仏(じょうぶつ)も地獄(じごく)も虚無(きょむ)も、
すべて「あ」から始まる五十音字の配列に過ぎないならば、
「あ」こそがもっとも神聖なる原始の言葉で、
大日如来を説明するならば「あ」がいちばんふさわしい。
以上のようなこと(わかりにくかったですか?)を空海さんはこう書いている。

「この十界のあらゆる言葉はみな声によって語られます。
声には長い短い高い低い、音や韻(いん)の違い、
屈曲の違いがありますがこれが文となります。
文は名字によってあらわされ、名字は文によって明確に表現されます。
故(ゆえ)に訓釈者たちが言う「文即字」とは、
文[文脈]と字[語意]との深い関係を表現しようとしているのです。
生き物すべてに文字があるということで、この文字に十種の別[違い]があり
十界にあてて十種の別を配当したのです。
この十種の文字を真[真実]と妄[虚偽]とに区別するとどうなるかと申しますと、
深い浅いの堅[レベル]の分け方でいきますと、
仏界の文字だけが真実で、あとの九界の文字は
妄語[うっそぴょーん]ということになります。(……)
[仏界の言葉すなわち仏陀の真言を]龍樹は秘密語と名づけています。(……)
この場合の真言とはどのような意味でありましょうか。
諸法の実相を謬(あやまり)なく妄なくあらわすから真言というのです。(……)
……すべての諸尊[阿弥陀如来も薬師如来も]の根源は大日如来です。
すべての言語も大日[如来]より流出し、さまざまに転変していって、
世間に流布している言語となるだけです。
こうした真実なる関係を知っているのを真言と名づけ、
これを理解していない場合の言語を妄語というのです。
妄語を耳にしていては長い夜のごとき果てのない苦しみを受けることになり、
逆に真言[秘密語]を耳にすることによって
我々は苦を離れて楽を得ることができるのです」(P74)


曼荼羅(まんだら)というのは密教的世界観を絵画化したものである。
見ればわかると思うが、曼荼羅は仏さまがいっぱいで、みんなが仏陀や如来だ。
不動明王や地蔵菩薩の入っているのがあるのかもしれないが、
すべては大日如来の化身(変身したもの)である。
わたしも仏、あなたも仏、みんな仏と思って生きるのが曼荼羅人生術かと思われる。
真言密教はコンステレーション(星座)を見ようということなのかもしれない。
たとえばプラネタリウムの満天の星々は闇夜だから光り輝いている。
大日如来というのはプラネタリウムを発光させている裏側の
遍照金剛(光明/電気)なのだと思う。
いろいろな星座(如来、菩薩)があるけれど、光源は大日如来。
わたしは天文学ファンの少年ではなかったからよく知らないが、
季節によって夜空にはたくさんの星座があるのでしょう?
それはそうと知っているから、たとえば双子座は双子座として見えるのである。
これとおなじでみんな仏陀で大日如来と知っていれば(曼荼羅!)、
混沌(こんとん)とした現象を意味あるものと感じることができるだろうし、
一見するとマイナスに見える現象の背後にあるプラスの意味も了解できよう。
不思議な秘密語の光明真言を唱え、曼荼羅を意識しながら生きていると、
凡夫の我われでもあらゆる現象に、
大日如来(仏陀)の顕現を見て取ることができるのかもしれない。
宇宙の意思とかコンステレーションとか、ユングっぽくてオカルトだなあ。
大学者で聖職者の真言宗最高権威の学術的言語の助けを借りよう。

「空海が著作の所々に「覚(さと)れる者をば大覚(だいかく)と号し、
迷える者をば衆生と名づく」とか、「悟れば仏、迷えば衆生」
と言っているのはこのことであり、仏と衆生との違いは、
大日如来を中心とした曼荼羅の構成を知り、
仏陀と衆生との一体なることを悟るか否かにある。
一般仏教のように自分たちの煩悩(ぼんのう)をおさえたり、
新しい智慧を生じさせたりするのではない。
曼荼羅の考えかたを知ることのみが成仏の条件なのである。
仏と自分とは本来同じという人間観、仏陀観なのであるから、
仏陀になるには、そうした構成に気付きさえすればよい。
その瞬間に我々は大日如来と等同なのである。
空海の主張する「即身成仏」の本意はここにある」(P95)


こんな言葉を信じて権力者の著者に読者が軽口をたたいたら、加藤先生は激高し、
「おれをだれだと思ってるんだ、おまえごときが、おまえは修業が足らないんだよ」
と叱られそうだが、なるほど自分を最高位の大日如来と同一視していたら、
逆にそういう傲慢な態度のほうが「正しい」と言えなくもないのだろう。
真言宗は浄土宗系のように謙虚ぶらないのがいいとも悪いとも言えよう。
迷うとはどこに行ったらいいかわからなくなることであり、
引き返そうにもどちらに戻ればいいかわからなくなることである。
海路で迷ったら無明の闇夜の北極星を目安にしたらいいと聞く。
人生に迷ったものの北極星が光明真言なのだろう。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら 
まに はんどま じんばら はらばりたや うん」
意味はだれにもわからない秘密語である。
どう生きたらいいかわからないし、不思議なことの起こるのが人生だが、
なにが起きるかわからないという世界の裏側の秘密を
言語化したのが光明真言なのだろう。
わからないが、しかし、光明真言は闇夜にもかかわらず光り輝いている。

「即身成仏義」(空海/加藤精一編/角川ソフィア文庫)

→新たな問いを創ることが発見の第一歩なのかもしれない。
真言宗や日蓮宗系(創価学会ふくむ)では即身成仏とかいうけれど、成仏ってなに?
なんでみんなそんな成仏したがるの? どうして仏になんかなりたがるの?
悟るのが成仏だとしたら、
みんな仕事を辞めて家を出て、すべてを捨てぶらぶらすればいい。
で、公園の木の下で「よおし、悟った!」と宣言すればオッケー。
生き身の釈迦のやったことはこれだよね。
しかし、正確にはむろんのことそうではない。
無人島にひとりきりでは人は悟ることができないとも言いうる。
「悟る」という行為にはかならず他者からの承認、評価が必要なのだ。
だれか第三者からあなたは悟っていると言われないと悟りにはならない。
釈迦が悟り仏陀(覚者)になったのは弟子を従え、
長者(富裕層)から寄進(寄付)を受けたときである。
王城によばれ王者と接見したとき彼は仏陀になったと言ってもよい。
とすれば、成仏したいとは偉くなり、
みなから尊敬されたいという欲望とは考えられないか?

死んだら成仏するとはひとつの真理である。
どんなダメなやつ(わたしのような)でも死ねば、
あいつにもいいところがあったと多少は評価が上がるもの。
だが、生き身で成仏するのなら、偉くなり多くの弟子を持ち尊敬されるしかない。
この点、本書の編著者は相応し、祖父は加藤精神、
父は加藤純隆とどちらも真言宗のお偉方で、
本人も全日本仏教会会長を務めたほどの大物だから成仏したと言えよう。
この考え方の根っことしてあるのは天台の説く十界論である。
空海は天台宗を軽んじていたが、
著書に十界という用語を使っているので(「声字実相義」)、
十界論は認めているのだろう。
十界論とは(創価学会が大好きな)人間の心のレベルを10にわける考え方。
以下のように下から上にレベルアップしていく。
地獄界<餓鬼界<畜生界<修羅界<人界<天界<声聞界<縁覚界<菩薩界<仏界
この十界論から考えると、成仏したい、仏に成りたいとは、
地獄の亡者、餓鬼どもを蹴散らし、さらに踏みつけにして這い上がり、
人間、天神、出家者を見下し、菩薩を弟子として従えるのが仏である。
これをやったのが創価学会の池田名誉会長で、
現在の内部では池田本仏論は否定されているようだが、
わたしは池田大作さんは成仏していると思うし本仏であると思う。
空海もニートくずれの浮浪者から嵯峨天皇の側近になり、
真言宗の開祖となり、弘法大師の称号をもらい、
高野山の奥深くにいまも生きているというから(入定)、たしかに成仏している。
弘法大師さまといまも庶民からの信仰は厚く、これも成仏の証拠である。

一方で成仏を心の平安を得ること(1)、
絶対的な幸福の境涯にいたること(2)とみなすケースもある。
これは在家信者の考える成仏で(1)は念仏系、(2)は日蓮系、
座禅系は(1)も(2)もふくめてという感じがする。
だが、在家の成仏はどこか自己欺瞞の香りがしてよろしくない。
これは在家の悟り、成仏が自己申告だからであり、
自己満足の汚臭が発生せざるをえない。
以前、創価学会の壮年部さんの面談指導を受けたが、
自分はあなたと違って「本当の幸福」を知っていると言われた。
これが自己申告、自己満足の悟り、成仏であろう。
わたしから見たらその人はどこにでもいるおっさんなのだが、
本人いわく地獄の苦しみを乗り越えて絶対幸福の境涯に至ったという。
しかし、彼は組織に所属しており地区部長というポストにいたから、
なんの肩書のないわたしよりも成仏に近づいていると言えなくもない。
悟りや即身成仏はだれにでもできるのだろうが(自己申告)、
他者からの承認を得られないとどこか自己満足臭が発生してしまう。
人間は悟ったような言動をわざとらしく周囲に見せつける(1)か、
あるいは自分を尊敬する弟子や部下、後輩に対して説教すること(2)でしか、
成仏の外相(外見)を提示できないという哀しさがある。
あるいは世俗の権力者と交流して聖人として認めてもらうか(3)。
以上の点から考えると、空海は即身成仏に成功したと言えるのではないか。
おそらく空海をもっとも意識していたであろう日蓮は、
即身成仏したとまでは言いがたい。
池田大作さんは空海とおなじく(1)(2)(3)の要件を満たしているから、
現代ではまれな即身成仏を遂げた大勝利者と言えよう。

成仏したいとは、尊敬されたい、偉くなりたい、肩書や勲章がほしいと同義。
おそらく空海も池田さんも成仏の意味を正確に把握していた。
池田が尊敬する二代目会長の戸田城聖は暑い夏の真っ盛り、
壇上で扇風機を自分に向け、説法を聞きに集まった会員たちに向かって、
高級洋酒をのみながらこう言い放ったという。
「諸君、暑いだろう? (扇風機に顔を近づけ)ああ、涼しいわな。
諸君、きみたちも信心して折伏して偉くなってこちら側に来い。こっちはええでえ」
戸田の指導の意味を正しく理解したのは本仏の池田さんだけだったのではないか。
尊敬されるのがどれほどの快楽か。
成仏というのは尊敬されることを志向している(目指している)ところがある。
要は、偉くなりたいということだ。他の声聞や縁覚(独覚)、菩薩よりも偉くなりたい。
このため、女性よりもはるかに男性のほうが
成仏にあこがれる傾向にあるような気がする。

さて、心の平安を得たいならば般若心経や観音経でもいいが、
即身成仏したいならば自分の密教でなければならないと空海は主張した。
空海は真言密教のすばらしさを誇示するために、
阿弥陀如来(阿弥陀仏)を引き合いに出す。
身もふたもないことを言うと、
空海は阿弥陀如来をバカにすることで密教の優れていることを証明する。
なにかの価値の正しさを証明するためには別の価値をおとしめるしかない。
空海はそれをあからさまにやったし、日蓮も影響を受けたのかそうしている。
空海がどういうかたちで真言密教の最勝を証明したか。
阿弥陀如来は法蔵菩薩が無数の生まれ変わりをして長い修業をした結果だろう。
しかし、真言密教では凡夫がこの一生のうちで即身成仏できる。
(ちなみに空海の時代には浄土教はほとんど萌芽さえ出ていなかったと思う)
そのためには師の教えを受け、空海の言う修業をしなければならない。
ということは、空海は即身成仏しているのである。
なぜなら即身成仏していなければ方法を教えられるわけがない。
だが、本当に空海は即身のまま成仏していたのだろうか?
現代にもライターになっていない講師が、
ライターになる方法を教えるシナセンというスクールがあると聞く。
多くのビジネス塾の講師は本当にビジネスで成功しているのか?
自分がビジネスで成功するためにビジネス塾を開いている講師も少なくない気がする。
空海もその点ではイカサマ師くさいが、嵯峨天皇とのパイプが力強い。
いまのお寺の僧侶って悟っているんだろうか?
あんがい悟っていなくても悟る方法は教えられるのかもしれない。
これは本書の編著者にも共通する疑問である。
真言宗トップの加藤精一氏は自分は即身成仏したと考えているのだろうか?
文面を見ると、それっぽいことが書かれているのだが。

「……これらはいずれも密教に飛び込んだ修行者への筋道を説いたもので、
これを一般的に現代語訳してもはじまらない」(P34)


真言宗では僧侶だけが即身成仏できて、
檀家は布施を払っていればいいと言っていると解釈できなくもない。
繰り返しになるが、即身成仏するとなにがいいのだろうか?
やはりみんなから尊敬してもらえ威張れることだろうか?
空海の真言密教は、弟子が決して空海に逆らえないシステムになっている。

「即身成仏義」に入ろう。空海は身体の重要性を強調する。
いままで仏教は心や意識を身体とわけて考えてきたが、そうではない。
身体という客体を見る主体たる心があるのではなく色心不二である。
身体は心とおなじであるし、それを延長したら草木も物質も心である。
我が心の奥底に仏陀がいるならば、我が心も仏であり我が身体も仏であり、
話を大きく広げれば自然世界も物質世界もあらゆるものが仏陀である。
その仏は大日如来(音写すれば摩訶毘盧遮那仏/まかびるしゃなぶつ)という。
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は華厳経に登場することで知られている。
摩訶(まか)とは大きいという意味だから、
大日如来は華厳経の仏をさらに大きくしたものと言えよう。
さあ、行くぞ。覚悟しとけ。大日如来(だいにちにょらい)とは――。

「[ほかの如来のように]はじめは菩薩で、
長い間の修業によって仏陀になったのではなく、
大日如来は始めから仏陀として存在している、という意味で、
これを法身と呼びます。
本来、自然に仏陀でおられる、という意味です。
そしてこの大日如来という法身の仏陀は、法界[世界中]に遍満(へんまん)し、
すみずみにまで行きわたっているのですから、この法身[大日如来]と、
一切の衆生[しゅじょう/生き物]とはまったく同一にとけ合っていて、
いわば一体のものです。
しかしこの深い意味を[我われ]衆生は知らないし認識していないので
大日如来はそのことを衆生に知らせてあげようとしているのです。
また同じく『大日経』悉地出現品第六に次のような文があります。
「諸々の人々の中で、なにごともその原因をやたら追求する人がいるが、
それはまことに愚かなことであって、
そういう人たちは[大日如来の]真言というものの真意も、
真言の真実の姿[大日如来]もとうてい知ることはできません。
[すべては大日如来のあらわれで]原因の造り手など存在しないのですから
結果も不生(生ぜず)ということです。
因などというものはこの場合、空(くう/実体が無い)ですから、
どうして果などある筈がないのです」(P42)


まあさ、その、こういうことを語っていると悟っているっぽいじゃん(笑)。
まえに紹介した因陀羅網(いんだらもう)のたとえってあるじゃないですか?
ほら、ディスコかクラブか宮殿だかに
ミラーボール(宝珠/宝玉)がたくさんかかっていて、
それぞれのミラーボールにそれぞれぜんぶが映っている。
つまりあらゆる現象は影響し合っている、
ひとつの出来事がすべてに反映するという世界観。
そのミラーボールをすべて集めて無限に大きくしたのがスーパーミラーボール。
大日如来とはこのスーパーミラーボールのことなんですよ。
我われ生き物の心の奥底にはミラーボールが入っていて、
心と身体はいっしょだから、身体もミラーボールで、
じつはこれらのミラーボールはスーパーミラーボールで、それは大日如来なんだ~よ。
我われの心の奥底のミラーボールは、じつは全宇宙を収めていたんだよという。
これって創価さんの一念三千とほぼおなじなんだけれども、
空海も創価さんも「むかつくからおんなじにすんなよ」と怒ると思われる。

突然だけれど、因陀羅(いんだら)とは、インドラ神、帝釈天のことね。
以下の意味は、いまあなたが見ているこの文字群も、
聞こえてくる雑音(なにかのミュージックかもね)も、
考えていることも大日如来が影響しているんだってこと。
気持の悪いことを言うと、
いまキミとボクは心の奥底で大日如来を通じてコネクションしているってこと。
みんなみんなコネコネコネコネしている。
空海は「即身成仏義」にいわく――。

「次に「重重帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく」とは
譬喩(ひゆ)をあげて大日如来の身口意の行動は法界に遍満(へんまん)しており、
私たち凡夫・衆生の行動にも行きわたっているのであって、
大日[如来]と衆生との関係は一体であるといえます。
それはあたかも帝釈天[因陀羅]の宮殿を飾る珠[ミラーボール]を
ちりばめた網(あみ)の如くであるのです」(P38)


わかりやすく説明しちゃうよ。
みんながみんな人間のみならず壁も扇風機もドライフラワーも、
「ホトケ♪ ホトケ♪ ホトケ♪」とバンザイしながら合唱しているのでございます。
そんなバカなはずないじゃないかって、
弘法大師空海が言ってることなんだからしょうがねえじゃねえか!
怒るならいまも生きているらしい高野山の弘法大師に直接言ってくれ。
即身成仏ってことはたぶんそういうこと。
どうしたら「ホトケ♪ ホトケ♪ ホトケ♪」の大合唱が聞こえてくるかは、
真言宗の坊さんに修行法でも聞いてください。
このまえ逢った統合失調症の学会員は陽性症状のとき、
壁の声が聞こえてきたと言っていたから狂ってみてもいいのではないかしら。
かなり専門的な(みなさまにはどうでもいい)話をすると、
密教の即身成仏は華厳経の「初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)」
=「初発心の時に便(すなわ)ち正覚を成ず/信心を起こしたとき成仏している」
とおなじではないかという意見があるらしい。
真言宗トップの編著者はその説を否定しているが、わたしは似たようなものだと思う。

空海の「即身成仏義」を要約する。
1.しょせん「悟り」は自己申告さ♪
2.もうあなたは仏陀だから喜ぼう♪
3.自信を持って、自分を深く生きようぜ♪
4.自分の道を行こう、マイウェイ♪
5.だって自分の道は、仏の道なんだからゴーゴー、ブッダばせ(ぶっ飛ばせ)♪

*最後までお読みくださり本当にありがとうございました。誤字脱字失礼。

お葬式ってばくだいな利権なんだなあ。
そこを取り仕切っている全日本仏教会の存在をいままで知らなかった。
サイト内検索を「創価学会」でしたら、答えはそりゃねえ……。
しかし、全日本仏教会はよくあれだけの宗派が集まったものだ。
教えなんてまったく違うところが
葬式利権と税金対策の問題で手を組んでいるという印象。
税金相談はこちらから、とかあからさま過ぎる。
朝日新聞と仲がよいみたいだし、
権威・権力というものを伝統仏教はしっかり把握している。
おいしいポジションは手放したくないよなあ。
天皇、宗教、政治屋、経済界、大マスコミが
お互いの権威を支え合っているのだと思われる。
公益財団法人、全日本仏教会かあ。財団法人は税金面でゴニョゴニョだし。
あんがい創価学会よりもよほどおいしい利権団体かもしれない。
若さは皆無だけれど。
たぶん上のほうってくっついて権威バランスを取っているような気がする。
全日本仏教会と創価学会が老老戦争をしてくれたらおもしろいなあ。
弘法大師空海と日蓮大聖人は似たところがある。
しかし、空海の運のよさと、日蓮の運の悪さはいったいなにゆえか。
わたしは空海も日蓮もおもしろいと思うし、
毎朝法華経を唱えているし題目も上げているし、同時に真言(マントラ)も覚えた。

「弁顕密二教論」(空海/加藤精一訳/角川ソフィア文庫)

→空海は留学中に唐でなにを学んだかというと中国化されたヒンドゥー教である。
密教は中国版ヒンドゥー教だから、たしかにそれまでの仏教とは違う。
密教とはなにか? それは世界(=仏=我)には秘密があるということ。
それはなんですか、と問われても、それは秘密なのだから言えない。
言ったらそれは秘密ではなくなってしまうのだから。
空海は秘密が多い。なんであんなに運がいいのかは謎である。
それはおそらく空海がある世界(=仏=我)の秘密を知っていたからだろう。
「世界(=仏=我)」には言葉にならぬ秘密があることを認めること、
もっと言えばその秘密を信じることが密教である。
世界は我の心である。心の奥底には言葉にならない領域がある。
そこが世界全体に通じている。そこで人はそれぞれ仏の声を聞くのだ。

いやがられるのを承知で、仏教用語を使った説明をする。
空海は「密教>華厳宗>天台宗」という立場を取っている。
これはどういうことかというと、天台では一念三千を説く。
これは一念(一瞬の思い)のなかに三千世界は含まれているという考え方だ。
しかし、人間はひとりではないのだからふたりいたら三千×三千で九百万になる。
世界には無数の人がいるのだから、
創価さんが鼻高々と語る一念三千は底が浅い思考だとも言えるわけである。
華厳宗は因陀羅網(いんだらもう)の比喩を説く。
これをわかりやすく説明すると、
天井から無数のミラーボール(鏡の玉/宝珠/宝玉)が紐でぶら下がっている。
ひとつのミラーボールには、他のぜんぶのミラーボールが映っている。
プラネタリウムの星座みたいなキラキラした世界だわな。
実際は無数の首吊り死体が並んでいるような不気味な光景かもしれないけれど(笑)。
そうだとしたらひとつのミラーボールが小さな変化を見せたら、
ぜんぶのミラーボールが同時的に共時的に変化を見せるわけでしょう。
まあ、創価さんの言う一念三千とおなじだとわたしは思うが、
空海さんは天台よりも華厳のほうが深いと考え、
そう言われると特定宗教組織に属さない当方はそういう見方もできると思う。
でさ、空海さんの密教は無数にミラーボールがあるのなら、
いっそのことそれらを合体させて巨大なミラーボールにしちゃえと考えたわけだ。
その瞬間に我は世界になるし、その状態が仏であると。

以上は主に心を中心に考えている。一念三千も一念だから心でしょう?
仏教では業(ごう/カルマ/行為)を身口意(しんくい)の3つにわけで考えている。
身は身体、口は言葉、意は意識である。
空海の特徴は意のみならず口や身もミラーボールのように考えたところである。
いくらお経を読んでも密教はわからないというのは、
経典は身口意の口(言葉)しか扱っていないからだと思う。
殴ることで伝わるものもあれば、手をつなぐことで伝わるものもある。
即身成仏というのは空海の発明らしいが、
いままでの仏教は身口意の口(言葉)と意(心)ばかり重視してきたが、
身体の価値をもっと認めてもいいのではないかと。

これは秘密だからわからないが、
空海が唐から学んだことのひとつは麻薬の製造方法だったかもしれないわけだ。
宗教は民衆の阿片(あへん/麻薬)と言った偉人がいるらしいけれど、
比喩ではなく、直接身体的に麻薬をやっちゃうのもありではないかと。
行ってみたらわかるが、インドは麻薬大国だし、合法のショップまである。
密教は中国版ヒンドゥー教だから、麻薬OKの世界観ではないかという気がする。
ある種の覚醒剤をキメると曼荼羅(まんだら)世界が見えると河合隼雄の本で読んだ。
あんがい釈迦だってあっちの人だったんだから、
苦行をして人生がいやになってハッパ(大麻)をやったら、
その瞬間に悟ったかもしれないわけ(笑)。
でも、ハッパやって悟りましたとは言えないでしょう?
それが仏陀の秘密で、その秘密を嗅ぎつけたのが空海だったのかもしれない。
空海は青龍寺に大金を払って経典や法具を購入している。
どこから大金をマジックのように取り出したか考えると、
麻薬取引というのがいちばん手っ取り早い。
新参の外国人、空海が恵果の一番弟子になるなんて絶対おかしいわけだから。
空海は青龍寺のゴロツキ坊主たちに金をばらまいたと考えるのが筋である。
創価学会の池田大作さんも会長になるまえ、
ひんぱんに側近たちに高いメシをご馳走していたと本で読んだ。
大蔵商事で大金を稼いでいた池田さんは財力で、
わずか32歳にして三代目会長に成り上がったと考えるのがふつうである。
池田さんは空海とおなじで、
死んだ師匠からおまえが後を継げとふたりきりのときに言われたことになっている。
これは空海が恵果の遺言を偽造したのとおなじ構造である。
あんがい空海は恵果を麻薬漬けにして衰弱死させたのかもしれない。

わたしの人生最大の後悔はインドで
いくらでも麻薬や覚醒剤をやるチャンスがあったのに怖がってやらなかったことだ。
もしやって効果を実感していたら、この説が正しいかどうかわかったのだが。
ある種の覚醒剤をやると、あたまが冴え渡るって言うじゃないですか?
空海の才能もこれで説明できるのではないかと。
空海は青年のころ山岳修行者だったという説もあるから、
むかしから健康的に麻薬をやっていたのかもしれない。
渡航費は麻薬密売でまかなったとも考えられる。
最澄は空海に「おい、麻薬やんねえ?」と言われたかもしれないわけだ。
最初は無料で渡しても依存させたらいくらでも元は取れる。
純粋な最澄は麻薬で悟るのはよくないと拒絶し、
じゃあ密教はわからんよ空海に愛想をつかされたのかもしれない。

麻薬じゃなかったら女かしら。
釈迦は龍樹や鳩摩羅什(くまらじゅう/法華経の漢訳者)とおなじで、
いまでいうセックス依存症だった気があるのだ。
釈迦は王子として生まれ伝説かもしれないが、
あらゆる快楽をむさぼったことになっている。
美食もしこたま味わったであろうし、複数の愛人の女体をなめまわし、
熟女に教わった性技を国一番の美少女相手に試すということもしただろう。
カジュラホにあるセックス寺院のインド世界を釈迦は生きている。
そういう快楽主義者が「もう飽きたぜ」とか言って妻子を捨て、
ちょっとばかし苦行をやったくらいで悟ったなんて甘い甘い激甘だよ。
で、弟子には不邪淫とか、おまえさ、どの口で言ってるんだ?
出家者には淫行自体を完全禁止させているだろう?
さんざん変態行為をやりまくったヤリチンのおまえが、そりゃないだろう?
そこが釈迦および仏陀の矛盾であり秘密であるとも考えられないか?

即身成仏。仏陀になるには苦行体験のみならず、
快楽体験(性体験や美食体験)も必要だというのが仏陀の本当の教えではないか?
しかし、それは弟子たちには言えない秘密である。
なぜならみんながみんな仏陀のような快楽体験を味わえるわけではない。
たまたま釈迦は裕福な王子として生まれたから美女も美食も味わうことができたのだ。
いや、たまたまではなく、仏教では過去世の業(行為)が生まれを決めていると説く。
仏陀は裕福な王子として生まれたことにコンプレックスがあったのではないか?
このコンプレックスも仏陀は決して弟子には口にできない秘密だったろう。
仏陀は極上の快楽を味わっていたが、それは秘密にしなければならなかった。
この仏陀の秘密を空海の天才は発見したのではないか。
身口意の口意を極楽におもむかせるのに、どうして身体を使わないのか?
身体的快楽は言葉や意識を超越した世界とも言える。
空海は最澄に女犯(にょぼん)をしろと迫ったかもしれないのである。
「やっちゃえ、やっちゃえ。大丈夫。秘密にしておくから。
仏陀だって龍樹だって最澄さんのお好きな鳩摩羅什だってやってるんだから大丈夫」
秘密、秘密、これが秘密の密教でっせと空海はニヤリと笑った。

どこまでも暴走するが、
あたまの悪い当方が気が狂うくらい仏陀の秘密を妄想したんだ。
釈迦は王子として育てられたが、じつは女性だったのではないか?
みんな如是我聞(自分はこう聞いたよ)と言うけれど、
釈迦自体はなにひとつ書き残していないのである。
釈迦は包容力のある女性で「わかる」と「大丈夫」しか言わなかったのではないか。
人間の苦しみというのは孤独感と不安感に結晶されると言ってもよい。
孤独感には「わかるよ」、不安感には「大丈夫よ」と微笑でうなずいてもらえたら、
それだけで弟子はついてくるのである。
釈迦は微笑だけでなにも言わなかったかもしれないのである。
だから、なにも言わなかったからこそ死後何百年経っても、
釈迦の言葉が聞こえてくるものがいて、
そういうものが仏典を創作したとは考えられないか。

空海の「弁顕密二教論」に話を戻そう。
というか、まだこの本の話をまったくしていなかった。というのは、つまらないからだ。
「弁顕密二教論」は唐から帰国した空海が、
自分が学んで来た密教はこれまでの仏教とはぜんぜん違うよ、と論じている。
それはそうで空海の密教は仏教というよりも中国版ヒンドゥー教なのだから。
そのうえ、正しい密教の体系のようなものはおそらく中国にもなく、
密教は空海が独創した当時の新興宗教のようなものである。
空海はどうして密教を思いついたかというと、
それは顕教(けんぎょう)という言葉を仏典のなかで見つけたからだろう。
「金剛頂五秘密経」にこう書いてあるという。

「もし顕教について修業する人は、三大無数劫という長い時間を経てのちに
無上菩提(むじょうぼだい/最高の悟り)を証することになるのだが、
その間にあっても、あるいは進み、あるいは退(しりぞ)き、
なかなか進めるものではない。
中には大乗の菩薩(ぼさつ)の高い境地の七地(しちじ)の菩薩にたどりつきながら、
小乗のめざす阿羅漢果(あらかんか/小乗仏教のめざす正邪の地位)を
志向してしまって、大乗の悟りにたどりつけないのである」(P77)


翻訳者によると、空海以前に密教と対比させて顕教という言葉が
使われているのはここだけらしい。
空海はこれを読んで大乗仏教が上座部(南伝)仏教を「小乗」とバカにしたように、
大乗&小乗仏教を「顕教」とバカにしたのである。
そのうえで自分は顕教よりも優れた密教を習得していると威張ったのである。
では密教とはなにか? 「弁顕密二教論」の冒頭に答えは書かれている。
それは秘密で言葉にはできないと。

「ひと口に仏陀といっても、経典や論書によって種々の意味がありますが、
いま私(空海)は仏陀を三つの身に分類したいと考えます。
そして教えとしては、顕教と密教の二種に分類いたします。
仏陀を法身、応身、化身の三身とするうち、
応身、化身が説かれる教えを顕教といい、
これは仏陀が相手の能力や性質に応じて
彼らを救済するために説かれたものでありますから、
ことばで説明できる範囲の教えであって、
深い含みのあるようなものではありません。
これに対して法身の仏陀が説かれる教えを密教といいます。
こちらは奥深い秘密の内容の教えであって、
これこそが真実の教えということができるのです」(P14)


訳者で解説者の加藤精一氏は親子代々、
真言宗のお偉いさんらしく、説明はわかりやすいが、
本当の密教を知っているのはうちらだけだと思っているところがあり、
まさにそれが密教なので、氏は密教をたいへんよく理解していると思う。
権威者かつ権力者のわかりやすい解説によると、密教の世界観は――。

「すなわちこの世界の現象はすべて大日如来の仏作仏業(ぶつさぶつごう)
――仏の活動――にほかならないのであり、
その活動はしばらくも休まずに続いているのである。
こうした仏陀観、しかも自分に直接かかわってくる生き生きとした曼荼羅的世界観は、
経文(きょうもん)の句義[意味]を知っただけではとうてい及ばないのであり、
理論だけで理解しようとする人々は、
十分に反省して自らの誤りを正すべきである」(P94)


加藤精一氏は威張りくさっているお父上の加藤純隆氏に何度も
密教の真理(仏陀の秘密)を質問して、
「それは言葉では伝えられない」という返答をもらったことだろう。
最後まで秘密を口にしないでお父上は威厳をもってお亡くなりになったはずである。
そのとき加藤精一氏は仏陀の秘密がわかったはずである。
真言宗長者、全日本仏教会会長を経て、
いまや真言宗のトップの氏もまた弟子から聞かれるはずである。
「秘密の真理を教えてください」と。
真言宗最高権威者のひとり加藤精一氏は、
父親とまったくおなじような重々しい顔をしておなじような口調でこう言うだろう。
「それは言葉では伝えられない」
加藤精一氏にご子息がおられるのかわからないが、
いたとしたらおなじように長じては高僧となり、
父の死後に「秘密の真理」を悟ることであろう。
秘密は「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら 
まに はんどま じんばら はらばりたや うん」――。

空海や日蓮に影響されて国家への提案をしてみよう。出世したいかも♪
空海は「御請来目録」を平安朝廷に出し大出世したが、
日蓮は「立正安国論」を鎌倉幕府に出し迫害あるいは無視された。
幕府の判断は正しく、なんの肩書もない田舎坊主に「国を憂う」とか言われてもねえ。

いま最大の国難、少子高齢化がわが国に訪れている。
この大問題を克服するためには「一夫多妻・多夫一妻」の公認しかないのではないか。
頭脳優秀なイケメンには重婚、多妻を許可する。
子どもができれば生活保護の3倍くらい多額の報奨金を与える。
美人、美女には多夫を認める。
大金を稼ぐ商売女は一妻多夫の象徴である。
この女がみごもったら、国がはらませた男に報奨金を与えたらいい。

むかし護国仏教と言われた奈良平安仏教があったが、
そのうちのひとつは華厳宗で、教えの「一即多・多即一」は言い換えたら、
「一夫多妻・多夫一妻」なのである。
もし国家がこの政策を選択すれば、
学会の統失青年からもあわれまれるほど不細工で無教養なもてないぼくも、
中古女体の恩恵をあずかれるかもしれない。ありがたや、ありがたや。

トキオの山口メンバーが女子高生への本能行為で失職した。
山口メンバーの顔と地位と金をもってさえ、ああなるとはなんといたましきことか。
いまの女性さまは天皇陛下のごとき地位にいるのだろう。
へへん、おれは賢いから女子高生が目に入ったらすぐ遠くに逃げるね。
この学術論文(笑)の主張は、伝統仏教に基づいた「一夫多妻・多夫一妻」。
お偉いさん、どうか底辺のわたくしめを上にお引上げください。
いや、空海や日蓮はどこまでも偉そうだった、ならば真似をする。
宣言しよう。予言しよう。「一夫多妻・多夫一妻」を推奨しないとこの国は滅びる。
「三教指帰」(空海/加藤純隆・加藤精一訳/角川ソフィア文庫)

→24歳で空海は「三教指帰」を書かなければならなかったのである。
なんのためかというと、親族に遊んでいるんじゃないよ、と言うためである。
大学を無断で中退してふらふらしているけれど、遊んでいるわけではない。
自分はなにをしたいのかわからないけれど、
外見はふらふら遊んでいるように見えるのはわかるが、
しかしただ労働や納税、親孝行をサボって遊んでいるわけではありません。
「三教指帰」は空海の自己正当化のために書かれた、自己弁明のための書である。
これを書かなければいけないという切迫感を強く感じる書物である。
それだけ親族の空海への期待は高かったのだろう。
にもかかわらず、空海は大学を中退して浮浪者のようにふらふらしている。
もう仕送りはしないという手紙が親族から来たのではないか。
まずい、金がなくなったらふらふら遊べなくなると、
空海は必死で本書を書いたのだと思う。
もちろん、仏教に詳しくない親族にはまるで放蕩児の文章はわからなかっただろう。
高僧に「三教指帰」を見せたら、こいつは大物だと見破ったと思われる。
もう少し遊ばせておけ。こいつは歴史を動かすようなことをするかもしれないぞ。
空海は「三教指帰」を書くことで6、7年の追加モラトリアム(猶予期間)を獲得している。
そうして今度は中国へ20年遊びに行かせてくれと頼むのだから、
おそらく空海の家は大富豪だったのではないか。
もしくは空海を遊ばせておくだけの有力なパトロンがいた。
金がないと遊べない。遊んでいるうちに新たな創作が生まれる。
それが広い意味で文化の発展になるのだろう。

仏教はねじり鉢巻をしめて勉強してもわかるものではない。
仏教がおもしろくて経典を読むのが遊びのようにならなければ本物ではない。
遊んでいうるうちに身に着いた仏法が本物である。
ニート(私度僧)時代の空海は勉強しているつもりではなく、
ふらふら遊んでいるつもりだったのではないか。
うわっ、仏教はおもしれえ、こんな楽しい遊びはないぜ、という感覚だったのだと思う。
空海にとって仏教は高僧になるための手段ではなく、
それ自体がおもしろい遊びであった。

「三教指帰」は小説仕立てというか、日本初の戯曲(劇作)とも言われている。
あるおじさんが遊び人の甥に困っている。
まず儒教の博士が遊び人に説教して、この遊び人は改心する。
つぎに道教の博士が来て、これまた説教して一同みな感心して心を改める。
最後にみすぼらしい乞食僧(私度僧)が来て、ありがたい仏法の教えを説く。
みんながこの乞食僧の深い教えに感動して仏教に帰依するという物語だ。
この苦学している乞食僧は空海が自分をモデルにしたと読むものもいようが、
わたしはそれもあるだろうが、そうだとしたらあまりにも格好よすぎると思う。
こんなに自分は苦労して学問していますよ、
と親族あるいはパトロンにアピールするねらいがあったとも思うのである。
それから改心する遊び人の描写が生き生きとしすぎている。
この遊び人もまた空海自身をモデルにしているような気がしてならない。
空海は清らかな聖性と、極めて功利的な俗物性を
あわせもった矛盾した天才だったのである。
矛盾が大きいとは、それだけ懐(ふところ)が深いということだ。
おそらく以下の描写は親族の目にうつった空海青年の姿であろう。
本書は原文は漢文で、その書き下し文もついているが、現代語訳から引用する。
大学中退で遊び歩いている空海の叔父は甥をこのように見ていたのではないか。

「その甥は蛭牙公子(しつがこうし)という名前ですが、性質がねじれていて、
他人のいうことに一切耳をかさず、おこないが粗暴で、
礼儀や義理などまったく無視しています。ばくちを打ったり狩猟で遊んだり、
遊び人の仲間に入り、おごり高ぶっている様子は目にあまります。
人生における因果の道理など目もくれず、
自分の行動のむくいがまた自分にかえってくることなど少しも考えず、
酔うまで飲み、飽きるまで食べ、その上、女あそびに明け暮れています。
親戚に病人がいても心配する気などなく、他人を敬う思いなど少しもありません。
家にいれば父や兄を馬鹿にし、
外出すれば年長者のいうことなど見向きもしないのです」(P18)


スーパーフリーにも自分の道を模索する空海青年の姿は、
常識にしばられた親族にはこのように生意気なものとして受け取られたのではないか。
このため、そうではないことを証明するために「三教指帰」は書かれたのだと思う。
みんなは遊んでいると思うかもしれないが、本当の勉強とはこういうものだ。
「飲む・打つ・買う」を知らないで仏典などいくら読んでも意味がわかるものか。
世事全般が「空(くう)」であるならば、大いに遊ぶべし。
ばくちも狩猟も女あそびも「空」だし、鯨飲や大食の空しさを知ってはじめて「空」がわかる。
一切合切が「空」だとしたら、父も兄も先生も先輩も敬うのは汚い処世の術とも言える。
10年のニート(私度僧)生活で空海は、
遊ぶことを勉強だと感じて(人生勉強だと思って自分に無理強いした)、
仏法を学ぶことを快楽や遊びと思ったことだろう。
だが、そんな本当のことを書いても親族あるいはパトロン(支援者)には通じないから、
自分は遊んでいるわけではなく仏道修行をしているし、
これからもしていきたいという意味合いを込めて「三教指帰」は書かれたような気がする。
借金をお願いする手紙がいちばん切実で書き手の人間性が現われると聞くが、
もしかしたら「三教指帰」は学習費(遊興費)を乞うために書かれたものかもしれない。

「三教指帰」からわかるのは、空海の統合的傾向である。
儒教の専門家や道教の博士になりたいわけではないが、
それらを無視するわけではなく、全体的な非専門的な、
すべてを統合した世界観(それは後年に曼荼羅として顕正するが)を青年は欲していた。
その曼荼羅(まんだら)的世界観はどのかの専門養成学校に入ることでは得られず、
好奇心にまかせておもしろいことをつぎつぎと吸収する、
すなわちふらふら遊び歩くことでしか得られないたぐいのものであった。
大成してから空海はあらゆる専門を広く学べる綜芸種智院(学校)を設立するが、
これは空海が青年のころ、
こういう塾があったらいいなと思ったものを後進育成のために現実化したのだろう。
しかし、綜芸種智院からはだれも出ていない。
10年以上ふらふら遊び歩く空海のような天才はめったに現われないのである。
養成しようという意思、人力を超えたところから革命者は出て来るものなのだろう。

空海の文章を読んであたまがいいと感心するのは、
自分を批判する立場に立つのがうまいのである。
こういうことを書いたらこういう批判が来るだろうという先読みがうまく、
もしかしたら主張よりも自己批判のほうが鋭いところがあるのではないか。
こちらが批判を考えるまえにその批判が書かれてあると参ったするしかないのである。
世俗を生きる生活者からしたら私度僧(乞食僧/放浪者)などいくらでも批判できる。
税金を払わないでずるい。汗水流して働いて税金を払え。親孝行はどうした?
空海青年は「三教指帰」で、そういった来るであろうニート批判をすべて書き出している。
しかし、自分にはやりたいことがある。それがおもしろいからやりたい。
とはいえ、それがどういうものかはいまの自分にはわからないが、
この「おもしろい」を追求していったらかならずどこかに行くような気がする。
行かないかもしれないが、それでもいい。「我が道」を行きたい。
「我が道」の我、つまり自分を、そして道、運命を――自分の運命を生きたい。
そのためには本当の自分を、つぎに運命の裏側にあるものを知らなければならない。
だからもう少し遊ばせておいてくれ、
と願いながら書かれたのが「三教指帰」ではないか。
空海青年はなにかと出逢うことは知っていたが、それが密教だとはまだ知らない。
ふらふら遊び歩いている(ように見える)青年への厳しい批判も空海は理解している。
常識的な生活者はこう言うだろう。

「……人間の一生の娯(たの)しみや喜びは結局、
一家の富裕さと身分の高さに依(よ)っている。
出家などせずに家庭生活を大切にするべきだ。
百年の友といったところで、妻子と比べられようか。
妻子以上のものはいない」(P60)


これは現代でも批判を許されないようなところがある正論である。
まして24歳の空海ならば家柄も悪くはなく、まだ真っ当な道に戻れるのである。
世の中には知識も教養もなにもなく、ただ牛馬のように働くしかないものもいるのだ。
比して、空海よ、おまえはまだやる気さえ出せば、
ささやかだが地に足の着いただれ恥じることない人生に戻れるではないか。
なにが不満でおまえは大学を中退してふらふら遊び歩いているのか。
生活するということを甘く見ているのではないか。
これに空海が「三教指帰」でどう反論するのかというと、わからないではないか。
いま自分は功徳(福運)を積んでいるのかもしれない。
いま自分がこう遊び歩いていることで(私的仏道修行)、
すべてがうまくいっているということは考えられないか。
いま自分が功徳(福運)を積んでいるから親族が難病から逃れているかもしれず、
広く考えてみたら日本がうまくいっているのかもしれない。
親族も国家も大事に至っていないのは、いま自分がこうして遊んでいるからではないか。
屁理屈と言われたらそうだが、華厳の世界観からしたら、そう言えなくもないのである。
なにが功を奏して世界全体の安定が保たれているかわわからない。
自分がいま華厳や法華、一切空の世界に遊んでいるのと
世界平和(自然調和)は同調(同時生起)しているかもしれない。
なにが善で、なにが悪かはわからないのではないか。

そこで空海が持ち出すのは(ジャータカの)捨身飼虎のエピソードである。
たしかに王子は飢えた虎の腹を満たすために捨身(自殺)して、
自分の両親や兄弟を悲しみの淵に追いやった。
とくに自死遺族の母親は一生地獄の苦しみを味わうこともないとは言えまい。
しかし、この王子が来世で釈迦(仏陀)となり、多くの人をいまも救っているのである。
だとしたら、なにが善で悪かもわからず、
いまの行為がどのような結果となるかはわからないのではないか。
結果から証明するのはずるいが、
空海のふらふら遊び歩いたスーパーフリーなニート(私度僧)体験は、
真言密教の完成、弘法大師という地位として結実しているのである。
どうしていまの様子だけで判断して、長い目で見てくれないのですか?
もう少し遊ぶ金をくださいよ、
ということが言いたくて「三教指帰」は書かれたのではないか。
少なくともそういう可能性はまったくのゼロではないのである。
空海は大学中退してから31歳で遣唐使船に乗るまで空白で、
わかっていることは「三教指帰」を書いたというくらいしかないのである。
捨身飼虎のような例はあまたございますが――。

「このように見えない所で進んでいる善悪の結果について、
あなたは十分に気づいていないのです」(P68)


それに遊び抜いても365日働いても、どうせ死んでしまう。
死んだあとに地獄に堕ちたら、いくら財産を持っていようが意味はない。
いま自分(空海)がこうして仏書をしたためていることが、
みなさまの堕地獄を防いでいるかもしれず、そこの仕組みはまだわからないが、
なにか関係あることは間違いなく、わたしは自分の道を歩いて行く末を見たい。
「三教指帰」は自己弁明書であり、同時に決意表明書である。

「野心まんまんおまんこまんまん」
「ちああっちゃあわーるどあちゃーる」
「まかビクトリーマッカーサーまかまかカマすぞ」
「安倍はベアだがベタベタ食べる」
「おきちがいさま武勇伝御一代記」
「こころに冒険を夢は地獄に一直線」
「つわそうざいなありいぶりぶりぶり」
「ナマステなまごみ生卵ぶつぶつ仏もブリブリブリ」
「コカツコカツ大勝利」
「びくびくビクトリーりーまんしょっく」
「うんざりげんなりあんぐりしたいり」
「やましいやまやまやまい舞う」
「じじつしんじつつじつまがあう」
「おかまをおかしたらおんなでおまんこ」
「またぐなよまたまたのことたましいのこと」
「すぱぎゃてぃーすぱぎゃてぃー墓地そわそわ」
「小河大泉ちびちびぐびぐび」
「まぐろ納豆スカートまくり」
「ちかんかんかん大火災さい」
「ですますであるだジャパニーズ」
「ろうろう老化すべすべ助平」
「はははは母ははははアハ」
「ちんころちんぴらおちんちん」
「南無自分南無自然南無自由」

マントラを自作してみたが、今日はこのへんにしておいてやるっ(JKのようにかわいく)♪
「空海入門」(加藤精一/角川ソフィア文庫)

→仏教史というのは男の歴史なわけだ。女がほとんど出て来ない。
これは男は「権力への意志」が強い、要は偉くなりたがるからだろう。
男はおのれの偉くなりたがる気持にうんざりげんなりして仏門に入るが、
出家してもなお「おれはあいつよりも上だ」と思いたがる度し難い存在である。
おれのほうがきつい修業をやったぞ、どうだどうだ!? 
とか女から見たらバカみたいでしょう(笑)。
女なら男がいかに自慢話を好きかを知っているだろうし、
うまく自分をほめてくれる女房(愛人でもいい)を持った男が出世するもの。
あるいは隠れた愛人がいたかもしれないが、
空海は日本でいちばん偉くなった男と言ってもよいのではないか。
どのようにして空海が偉くなったかを本書を参考に見ていきたい。

本書では著者が空海をとても偉い人として紹介しているが、
それは権威のご相伴にあずかりたいからとも言えなくはない。
空海が偉いならば、紹介者の自分も偉くなるという仕組みだ、
真言宗の役職に就いている著者は、
この本で自分の師匠であるという東大教授の言葉や、
文豪の菊池寛の文章を引用しているが、この意図するところもおなじだろう。
他人を批判するだけではずるいので、
わたしがこの本を紹介する理由も似たようなところにあるのかもしれない。

さて、空海の話をしよう。
空海は地方豪族の息子で当時日本にひとつしかなかった大学に入った。
大学卒業後はみな公務員になるが、出世できるかは家柄で決まるため
空海青年は「どうせ大した未来はない」という状態であった。
このまま公務員をやってぼちぼち生きてひっそり死んでいくのか。
まあ、人生そんなものだが、これに空海青年はノーと言ったわけである。
空海は「行儀よく真面目なんてクソ食らえと思った」(尾崎豊)。
親族から期待を背負っての大学入学だったのに中退してしまう。
で、なにをするかと言ったら、なにもしない。
いまの言葉でいえばニート、風来坊、ルンペン、浮浪者、乞食、私度僧になった。
私度僧というのは、国から認可を受けていない僧侶のこと。
空海青年は10年ニートをする。反論もあろう。
ニートではなく、この時期いろいろなことを青年は勉強したはずであると。
しかし、それは空海にとっては好奇心のおもむくままの遊びであったはずだ。
遊びまくった10年のうちで空海がやったことといえば「三教指帰」の執筆くらいだ。
日本初の戯曲ともされる「三教指帰」の内容は、ニート(私度僧)で悪いか、である。
ニート(私度僧)は親不孝とされるが、
釈迦だって過去世で捨身飼虎という親不孝をしているではないか。
捨身飼虎とは王子が空腹の虎のためにわが身を与えたことである。
王子の親族はさぞかし悲しんだだろうが、王子は未来世で釈迦になっている。
これは空海青年の自殺するぞという脅迫とも見ることができる。
それからニート(私度僧)の言い訳は、
現代の青年も口にするものが少なくないあの「どうせ死んでしまう」だ。
安定した公務員になってもどうせ死んでしまう。

私度僧として空海は各地で仏教を独学した。
僧侶の家系だからといやいや勉強するのとは異なる。
自分を知りたい、真理を知りたいという好奇心から仏法を学ぶことは、
勉強というよりも遊びに近かったはずである。
仏法の快楽に身をゆだねながら空海が悟ったのは、自分は仏であるということ。
自分は自然(世界)である、仏は自然(世界)である、ならば自分は仏である。
これは精神病患者が使う有名な「述語論理」だが、
空海は発狂したとも覚醒したとも言えよう。
専門用語を使うと唯識思想、天台本覚論、華厳哲学をミックスした。
唯識(ゆいしき)とは、世界は唯識(ただ心)とみなす唯心論のこと。
天台本覚論とは、人はみな菩薩である(仏種を持っている)というある種の理想論。
華厳哲学は特殊な世界観で、
チリのなかにも仏は宿っているという「一即多 多即一」の考え方。
わかりやすく整理する。

1.世界は我が心である(唯識)。
2.人はみな仏になれる(天台本覚論)。
3.我は世界であり、世界は我である(一即多 多即一)。
4.世界全体が毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)に荘厳されている(華厳哲学)。
1~4より導き出されるのは、
5.世界は仏であり、我は仏であり、我は世界である(空海密教)。


自分は仏であるなんて多少の常識があったら、そんな考え方はできないでしょう?
一部非常識な(?)学会員だってせいぜい「地涌の菩薩」くらいというのに。
あの強気な学会員でさえ自分を「仏の子」くらいにしか思っていないのである。
しかし、空海青年は我こそ仏なりと(人間革命ならぬ)世界革命が起きたのである。
空海は常識を捨て(大学中退)、非常識(菩薩思考)を捨てスーパーマンになった。
いまの言葉でいえば「無敵の人」くらいが近いのではないか。
スーパーフリーな空海はぎりぎりのことをやって大金をせしめた。
くだらない常識を捨てた空海は遣唐使の留学生となる。
わたしは国費留学だと思っていたが、島田裕巳氏によると私費留学らしい。
どうやって金を集めたかは秘密で、それが密教なのだろう。
ヒントは運のよさにあるのだろう。
我こそ仏で世界ならば、我が金になれば金は我が物となる。
我は仏ならば法律など無視でき、そこに大金を得るチャンスがあるのだろう。
しかし、それは世界の秘密であり、仏の秘密であり、空海の秘密である。
当時の遣唐使船は死亡確率の高い危険な渡海だったが運よく空海は生き残る。
青龍寺で密教の師匠である恵果の一番弟子となり秘法を伝授される。
この後、恵果はまるで空海が来るのを待っていたように死ぬ。
空海は、早く日本に密教を伝えろという師匠の遺命にしたがい、
20年の留学期間をわずか3年で終え、
大量の密教経典と仏具を土産として日本に帰国する。

梅原猛氏もひろさちや氏も指摘しているが、恵果は老いぼれのクズだったのだろう。
え? 中国最高の密教坊主がこのレベルなの? 
というのが空海の悟りだったかもしれない。
あるいは偉大な人はどんな小人物からも偉大な真理を学ぶというか。
たとえば池田大作が、アル中で常に泥酔していたという投機的山師の
戸田城聖から偉大な仏法を学んだように。
人柄のよい学会員さんが俗物の池田大作から偉大な仏法を教わるように。
その人の器によって学べるものの限界があるのだろう。
器が大きければどんな小物からも秘法さえ学び取ることができるだろう。
あるいは恵果から空海が学んだのは本当の仏教の秘密だったのかもしれない。
恵果がなぜ偉いかといえば不空の弟子だからである。
不空がなぜ偉いかといえばもっと偉いとされる僧侶の弟子であるのと、
当時の政府要人から厚遇されていたからというのが理由である。
空海は大乗仏典もよく学んでいたが、
仏典の正当性の根拠はみな仏陀であり釈迦である。
では、なぜ釈迦が偉くて正しいのか? みんながそう信じているからである。
仏教では師弟関係が重視されるが、釈迦に師匠はいない。
見破ったぞ! これ仏教最奥の秘密なり。
空海は恵果の威光なぞインチキに過ぎぬと見破った。
恵果も空海に俗物性を見抜かれ、仏教の秘密を知ったことだろう。
空海は恵果の弟子ではなく師匠だったのである。
空海は、恵果が来世では自分の弟子になるという傲慢な夢を見ているが、
これは実際にあったそういう師弟関係の逆転を意味するのではないか。
恵果はちっぽけな自分を知り、いたたまれなくなったのか病死する。
生きているのが恥ずかしくなったのかもしれない。

20年の留学期間を3年に縮めて帰国した空海は犯罪者である。
しかし、仏教の秘密こと密教を知った空海は朝廷に自己PRする。
自分は中国最高峰の密教の最高指導者とされる恵果の一番弟子である。
恵果がそれほど当時の中国で偉かったかはわからないが、
これも仏教の秘密である。
一番弟子であったかどうかも、日本に帰国しろという恵果の命令があったかも、
真相はわからず、空海の自己申告に過ぎない。
それを言えば釈迦の悟りだって自己申告である。
釈迦の悟りを自己申告に過ぎぬ、と仏教の秘密を見破ったのが空海の天才である。
だったら、我も悟れる、仏になれる、即身成仏できる、というのが空海密教だ。
いろいろな不安におびえる烏合の衆に過ぎぬ朝廷のみなさん、目を覚ましてください。
自分は現世利益に役立つ密教の経典や仏具を大量に持参している。
ここで空海は7歳年上のライバル、最澄をうまく利用するのである。
先に帰国していた読書家の最澄は空海の持参した経典の価値を知っていた。
空海は最澄へ朝廷への推薦を依頼したと思われる。
こうしてうまく嵯峨天皇と手を結ぶことに空海は成功する。

空海と嵯峨天皇は書を通じて親交を深めたという。
ここで重要なのが空海とともに唐へ渡り、同時に違法帰国した橘逸勢である。
橘逸勢は遊び人で唐で勉強もせず書の世界に親しんできた。
こういうことを書くと左翼のように疑われるが(わたしは天皇制支持者)、
嵯峨天皇だって自分はどうして偉いのか不安なのである。
そこを見破った空海は嵯峨天皇の書を激賞するのである。
中国帰りの自分が保証するのだから間違いない。嵯峨天皇の書はうまい。
本場で書を学んだ橘逸勢もそう言っているからこれは疑いえぬ真実である。
「返報性の法則」で嵯峨天皇も空海や橘逸勢の書をほめる。
こうして自信がなく不安な嵯峨天皇の偉さは空海に保証され、
そうすることで空海の地位も上がるのである。
この男、憎いほど世界の秘密を知っていやがる。
現実で利益が上がる世界の秘密を説くのが空海の真言密教である。
空海、嵯峨天皇、橘逸勢は日本書道史でもっとも優秀な「三筆」とされるが、
彼らはお互いをほめあっただけで根拠のようなものはなにひとつないのである。
人は「三筆」だから空海の書をすごいと錯覚する。これも世界の秘密である。
3人のなかでもっとも本場で書を勉強したとされる橘逸勢でさえ、
わずかたった2年の留学なのである。
3人いれば権威ができるとも言える。
ふたりがひとりをほめていると、新参者もそのひとりを偉いと思うようになるのである。
3人がそれぞれほめあえば「三筆」のようなものができると言えなくもない。

大学中退のニートがまさかここまで偉くなると予想した人はいないだろう。
空海は現実をよく知っていた。セックス経典「理趣経」をそのまま読んだ。
我は仏なりと信じる空海の「権力への意志」はとどまるところを知らない。
偉くなるにはどうしたらいいか? 偉いものに媚びるというのはひとつの手だろう。
それから遣唐使のような死ぬかもしれないリスクを負って新たな発見をする。
もうひとつは世間で偉いとされるものを傘下に入れればよろしい。
空海ほど最澄をうまく利用した人間はいないのではないか。
空海は密教の秘法を伝授する儀式(灌頂/かんじょう)で年上の最澄を弟子にした。
これで空海の真言宗は最澄の天台宗よりも偉くなったのである。
空海は最澄最愛の弟子、泰範を奪い取るという荒業もしている。
空海は最澄相手にひどいことを何度もしているのだが、
角川文庫の「性霊集」にはそっち関係の手紙はひとつも収録されていない。
はっきり言って、空海は完全過ぎて人間味がないのだが、
もしかしたら最澄への手紙を読んだら親しみが増すかもしれない。
偉くなるには、あまり敵をつくってはならない。
世界の秘密を知らない最澄は純粋バカというのか、
奈良仏教の徳一という古株坊主と答えの出ない論争に時間を費やしていた。
空海はどうかといえば論争好きの徳一に相手をうまくおだてる手紙を送っている。
徳一みたいなめんどうくさいやつは最澄を盾として攻撃をかわせばよろしい。
偉くなってからも空海は嵯峨天皇にうまい贈り物をしてさらに偉くなっていく。
大学中退のニートくずれのルンペン青年が、
ついには天皇に比肩する地位までのぼりつめる。
こんなことがどうして可能になったかといえば、男が自分を信じたからである。
我は仏なりと。自分を仏と信じると人は無敵になるのだろう。

余談だが、むかし職場の年下の上司から
池田大作と松下幸之助の往復書簡集を読めと指導された。
じつにつまらない厚いわりに中身が薄っぺらの愚書であった。
文庫ではなく池田大作の全集で読んだのだが、
そこでは年上の松下幸之助が年下の世界的宗教指導者にこうべを垂れて
教えを乞うという、まことバカバカしい形式になっていて、そこだけがおもしろかった。
おそらく創価学会は松下幸之助関連のスキャンダルをもみ消してやったのだろう。
今回の山口メンバーのスキャンダルをもみ消せないほど、
いまの創価学会は弱体化しているのか。
ともあれ池田大作は空海同様に世界の秘密を知る庶民の王者である。
麻原彰晃は裏金を支払いダライ・ラマとうまくコネをつけたまではよかったが、
哀しいかな空海の再来とはいかず、あにはからんや死刑囚になってしまった。

これから見ていくが、空海の密教は彼の独創と言ってもいい。
空海はあまたある仏教の教学を密教を中心においてうまく整理した。
いまの真言宗僧侶は空海の教学の説明はできても、空海のような独創はできないだろう、
ただ「南無大師遍照金剛」(弘法大師に帰依します)と叫ぶだけである。
真言宗では南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経の代わりに南無大師遍照金剛である。
もし空海にあこがれるものがいたら組織を離れふらふらして自分の心を見つめることだ。
そして我は仏なりと信じるときがくれば、うまく時流に乗ることもなくはないと思う。
浮浪者で真っ白な職務経歴書しか持たぬ空海が正式に僧侶になったのは、
遣唐使に行く直前の31歳である。
世界(=仏)の秘密を知ったと自己申告する空海の主著をこれから見ていきたい。
はてまあ、何人がゴールまで並走してくださることやら。

*誤字脱字失礼。少しずつ直していきます。

平安仏教といえば最澄の天台宗と空海の真言宗である。
最澄の天台宗からは法然、親鸞、栄西、道元、日蓮大聖人さまが出たとされる。
みんなが気になる池田大作さんも根っこは天台宗にある。天台宗から出た。
「出た」ということは「卒業」ではなく「反逆」なのだが、だから天台宗はすごいとも言える。
空海の真言宗はだれも出していないからクソだとも言えるが、
それほど教えが完全だったと言えないわけでもないのではなかろうか。
いま空海付近をいろいろ覗き見したが、
真言密教はある宗教家を輩出しているではないか。
それはオウム真理教の麻原彰晃死刑囚である。
かりに空海は麻原彰晃と同レベルだといえば、
弘法大師を誹謗したことになるのか、称賛したことになるのか。
空海批判がいけないというのなら、
真言亡国と弘法大師を全否定した日蓮大聖人さまはどうなるのか。
田舎の創価学会の会館に入るとき、録音はしないでくださいと言われた。
閑散とした高齢者ばかりの会場で、
こんなものを録音する価値があると信じる人もいるのだと思いました。
いまもお元気な池田大作さんは麻原彰晃死刑囚同様に空海に似たところがある。
宗教っていいなあ。宗教は熱いぜ。いまはオウムも知らない若者も多いのか。

「サイコパス解剖学」(春日武彦・平山夢明/洋泉社)

→精神科医とホラー作家の対談本。
春日先生は、著作としてカウントされなくてもいいという程度のあつかい本だ。
そのようなことをメールでおっしゃっていたけれど、これがおもしろい。
5ページに1回くらい笑えるのである。コスパ最強というやつである。
作者としては複雑だろう。
自分の集大成として出した渾身の一作があまり売れず評価も低く、
反面、チョーいいかげんに出した本の評判がよく売れてしまうというのは。
どうしてこうなるかというと、みんな忙しいし、みんなバカだから。
いまはみんな忙しいから、
重厚な書物を時間をかけゆっくり読んでじっくり吟味するなんてことはできないし、
そのためもあり基礎教養のレベルが下がり、
いい本を書いてもその価値が読者には理解できない。
春日先生は自分の評価されたいところとは正反対の部分で売れているのかもしれない。
これは自分への絶望になろうが、他者に対する希望でもあるのだろう。
他者が自分の知らない自分を発見してくれるということなのだから。
わたしなんかも1ヶ月かけて書いたブログ記事がほとんど読まれていないだろうと思う。
しかし、まあ、それでいいのではないかと。
結局、他者と逢うというのは自分も知らない自分と逢いたいという意味である。
自分の魅力(才能)は他者によって教えられるものであるのかもしれない。
このブログの「雑記」なんか文法も誤字脱字も気にせずテキトーに書いているけれど、
数少ない読者さんにとっては「雑記」がいちばんおもしろいかもしれないわけだから。
そして、実際のわたしと逢って「雑記」の裏側を知るともっとおもしろくなるという仕組み。

とにかくおもしろく笑える本である。
最近はめっきり本屋に行かなくなったので、この本が出版されたことも知らなかった。
こんなおもしろい本だと知っていたら、定価で2冊くらい買って、
だれかへ1冊プレゼントしたいくらいである。
しかし、春日先生はこれほどおもしろい自著をまったく評価していないという矛盾。
本書はサイコパスにまつわる言いっぱなしの暴言酔談集である。
ビールを飲みながら話した内容らしいが、そういうのこそおもしろいのである。
傑作を書こうなんてねらいながら、鉢巻をして懸命に書いたものもいいが、
無責任に酔っぱらって口にした言葉がおもしろいこともある。
相手と相性が合えば、どんどんおもしろい言葉が出てきて、
それに刺激され、さらにおもしろい発言(=未知なる自分)がどこかから出現する。
狂人をおきちがいさま、患者さまと持ち上げて
日々サービス奉仕に徹している医療営業資格者の春日先生だからこそ、
鬱屈がたまりこういう本音の大放言で切れ味の鋭い黒々とした言葉を吐き出せる。
そもそもサイコパスなど医学用語ではなく、がために定義もない。
わたしが定義したらサイコパスとはチャーミングなクレイジーさんくらいになるか。
いまは精神病もなまぬるくなったと
あちこちで春日先生は嘆いて(?)いるが(……不謹慎っすよ)、
クレイジーなやつってサイコーにロックでパンクでええじゃないか! ええやんけ!

サイコパスといえば思いつくのは創価学会の池田大作氏やプロレスのアントニオ猪木氏。
おなじくプロレスの大仁田厚氏もサイコパっているが、あれはちょっと質が低いように思う。
いいことも悪いことも、こちらが想像も及ばぬレベルでするのが正しいサイコパス。
いまはつまんねえ時代だ。もっとサイコパスよ増えろ、
という思いが本書の著者ふたりとわたしに共通する感情のような気がする。
わたしはこのまえ統合失調症で創価学会員の31歳の青年に、
「もっとクレイジーになってほしいなあ」とか言っちゃう人間だから。
そうしたら川岸からの帰路、統失青年はマッドでクレイジーなことを言ってくれた。
入院しているとき精神病院で知り合ったおなじ統合失調症の女性と結婚して
子作りして家庭を持ちたいと。
「遺伝とかどうするんですか?」と聞いたら「関係ねえや」。
どちらもパートさえできない統合失調症夫婦のクレイジーでサイコパスな家庭は、
平和で安定したスマイルばかりのファミリーよりもよほどよろしい。
いくら違法性行為をしても無罪放免の精神障害者の性欲旺盛な青年は、
おれは女を折伏してから嫁にしますよ、とニヤリとしながら言った。
意味は、こころもからだも犯してやる。池田先生は二兎を追えと言っている。
そのとき、いままで鈍重で凡庸だと思っていた学会の統失青年が、
夕陽のせいもあろうがサイコパス的な輝きを放ち、わたしを魅了したのでございます。
春日武彦先生、楽しいご本をありがとうございました。このご恩は忘れません。

「こころの不安がわかる精神医学入門」(春日武彦ほか/洋泉社MOOK)

→こういう啓蒙書的な共著の主役を張るようになったのだから、
年功序列の日本で春日先生はいまは業界のなかでは重鎮というあつかいなのか?
そんな偉い先生から本を3冊も送ってもらえる当方のステータスもアップしたのか?
わたしは有名な精神科医の春日武彦先生から好かれているのか嫌われているのか?
当方の認識ではカクが違い過ぎるから無関心だと思うのだが……。
わたしをパーソナリティー障害だと診断する怒りのメールが
矢のように飛んで来たと思ったら、直後には最新刊を3冊も送ってくださる。
わかんねえよ春日武彦さんは。
わたしは春日先生の大ファンで機会があれば講演会でも行きたいが、
向こうはマイナーなブロガーに関心を持つ必要なんかないわけでしょう?
社会的地位も信用も収入も桁違いの春日先生はなにを考えておられるのか?

まずいまの精神科商売の現状をうかがおう。
今年の4月に出た本だからまさに最新の現場からの報告である。
いまはむかしとは異なり、どうなったかというと――。

「……患者さんがネットで自己診断してから来るようになったこと。
いきなり「僕はこの病気ですからそれに相応しい治療してください」
というノリの言い方で、しかも薬の銘柄まで指定してきたりする。
そういう意味では、医者と患者の関係というのがもう完全に、
居酒屋行って「獺祭(だっさい/日本酒)くれ」というのと同じ捉え方です。
実際に話を聞くと自己診断と微妙に違ってくることが結構あるんですよね。
あと、薬の銘柄を指定されると当然ムッとくるわけですよ。
ただ、僕なんかはもう面倒くさいんで、とりあえず希望に添って処方することが多い。
喧嘩してもしょうがないですからね。喧嘩したらネットに悪口を書かれるし、
それでうまくいくことだって一応あり得るので。
うまくいけば「めでたしめでたし」ですし、うまくいかなかったら
「だからプロに任せなさい」って偉そうに言うんですけどね。
「医者にすがるっていう関係性を否定するのって、かえって辛いことじゃない?」
と僕は思うんですけどね。
〝なんかよくわかんないけれど頼もしい存在”なんていう幻想を
医者に抱いていたほうが、僕は楽だと思うんだけどなあ」(P48)


〝なんかよくわかんないけれど頼もしい存在”なんていう幻想を
むかしは僧侶に抱いて安心していたものもいたのだろう(空海はそのエリート)。
日本では近代以前(江戸時代まで)は精神病という疾病観念さえなかったというから、
さぞかし真言宗の祈祷は患者の救いになったと思われる。
さて、お薬の話。
関係性を著しく害すので、わたしは医者になるべく銘柄指定はしないようにしている。
でも「ロペミンください」や「プロ・バンサインください」
は過去に言ったことがあるから不良患者だろう。
だって、薬局ではいくら払っても買えないんだからお願いするしかないわけで。
医者をおだてるのも忘れない。
「最高の病院で最高の名医に診ていただいているから、
もうこれ以上できることはないと。それだけで安心です」なんてさ。
おだてているわけではなく、本心でもあるんだけれど。
患者が変わったためか、時代の風潮なのか、
精神科医にも変化が見られると春日先生はおっしゃる。

「そして精神科医に文学的素養のある人間がいなくなった。
本当につまらないですね。ミもフタもない業界になってきている。
「おまえらIT企業にでも勤めてろ!」
「製薬会社にでも就職したほうがお似合いだ」
「マニュアルを枕にして寝てろ」みたいな奴らばっかり。
そういう輩が心の深淵を覗き込もうなんて、僭越だよ。
その辺がここ10年で感じた変化ですね(溜め息)」(P49)


春日先生の病院へ行って、本当はパーソナリティー障害らしいわたしが
「うつ病っぽいのでパキシルください」と言ったら医師はどんな顔をするのだろう。
パキシルは春日さんが大嫌いな抗うつ剤。
自分でも試したことがあるらしく、吐き気はあるものの、短気が治ったらしい。
臨床経験豊富な医師によると、パキシルはのませるとどうなるかわからない薬。
悟ったような気分になったり、反対に攻撃的になったりすることもある。
人体実験みたいのは嫌いではなく、パキシルを試してみたいなあ。
学会員のようなハイテンション、ハッピー、ビクトリー状態とか味わってみてえ。
わたしが統合失調症になったら人生に絶望するが、
このまえ学会員の統失患者に聞いたら、そういう自覚がまったくないんだなあ。
この病魔は自分を成長させるステップくらいのノリであっけらかんとしている。
精神病院でもほかの患者を折伏していたっていうからすさまじい。
31歳の彼はいまでは幻聴、妄想、興奮を特徴とする陽性症状の段階を終え、
薬で病気をコントロールしながら自宅療養している。
陽性症状終了後の統合失調症患者はどうなるか。
春日医師は、思考に妙な不器用さというか「ぎこちなさ」が残るという。

わたしは創価学会と統合失調症への興味から彼と逢ったのだが、
たしかに妙にこちらを疲れさせる「ぎこちなさ」があったような気がする。
自分は統合失調症で電車に乗れないから千葉の自分の家まで来てくれという。
で、逢ったら、このまえ「朝活のオフ会で池袋へ行った」という。
あれ? うん? うん?
当日は改札まで来てくれるだろうと思ったら、
そこから自分の指定するところに来いという。
なんでも彼はスクーターで来ていて、それをコンビニの駐車場にとめているが、
そこから離れることができないという。おそらく彼なりのルールがあったのだろう。
それから彼の家まで15分重いスクーターを引いて行ったのだが、
どうして最初から歩いてこないのかわからなかった。
おそらく彼のなかでは合理性とか効率とか、ある種のルールがあったのだろう。
家に着いていきなり池田先生の色紙や本でいっぱいの仏間に通される。
そこで彼は腹が減ったと主張し、母親にチャーハンをつくらせ、
わたしのまえでひとりがつがつ食らう。
そしてトイレに入り、こちらにも聞こえるくらいの爆音を立ててクソを放つのである。

たしかに春日先生のおっしゃるよう、ささいなところが不器用でぎこちなく、
そこに創価学会思想がミックスされているから、未体験のことの連続で、
おもしろくなかったわけではないが(彼にも感謝しているが)、
翌日はぐったりして動けなくなった。
こんな大変な病気に百人にひとりの確率でなっちゃうなんて怖いなあ。
しかし、創価学会に入ったら病魔に勝利して宿命転換できるのだからいいなあ。
いま春日先生が院長をなさっている精神病院は「下町のどん詰まり」にあるから、
おそらく学会員生息率も高いと思われる。
多くの臨床体験で覗き見たであろう創価学会と精神病の関係を、
いつか裏話としてこっそり聞いてみたい。

うつ病になったら春日先生に逢いに行けるのかあ。
しかし、もうパーソナリティー障害のご診断をメールで受けているから、
これは逢いに来いということなのかと精神病的妄想をふくらませる。
やべえ。「おれが治してやるから早く来い」という春日先生の声が聞こえ始めた。
これって幻聴だろう。すわ南無三宝、統合失調症か。
春日先生の声がテレパシーのように聞こえてくる。世界がぐるぐる回り始めた。

※いまメールを読み返したら「パーソナリティー障害っぽい」で、
正式なご診断は受けていなかった。
しかし、ならば本当はどうか診てもらうというかたちで逢うきっかけになるか。
いま逢いたい有名人なんて春日先生くらいではないか。


エア彼女でもつくろっかなあ、と昨日、
埼玉県蕨(わらび)の激安カラオケ居酒屋で腐れ縁のAさんと飲みながら思った。
どうせわたしが推薦しようとだれも行かない僻地にあるから書くが、
その激安カラオケ居酒屋の名前は「くいっく」。駅前だ。
食べ放題飲み放題で2時間2千円(+消費税)とか埼玉は埼玉だなあ。
19時からはカラオケ大音響なので、17~19時を好むものもいよう。
ここは24時間営業だそうだが、朝行っても飲み放題かしら。
一度、朝の7時ごろに行って酒を飲んでみたいところである。

ここはいわく因縁のある場所。
まえに行ったのは1月25日。どうして覚えているかというと、
ここで飲んだ翌日に橈骨神経麻痺を発症したから。
あの日はコージーコーナー川口工場に派遣で行き、
人生初の夢仕事、ケーキのイチゴ乗せを経験し(けっこう激務だった)、
もちろん派遣だから早く帰され、
そういうことはすべて想定済みでウフフンと思いながら
蕨にある大好きな飲み屋に行ったのでございます。
その翌日から突然左手首が動かなくなり、いまもって60%くらいの回復か。

北戸田コージーコーナーで知り合ったAさんは今年で59歳になったという。
このおっさんすげえのよ。
もう1年半以上の関係になるが、こんなわたしと長期間の関係を維持できるすごさ。
肉体的にも頑強。もう辞めると言っていたが、
いまの派遣先は北戸田コージーコーナーの「供給」よりも身体的精神的にきついらしい。
40そこそこのわたしでもいやがる「供給」をAさんはがんがんやっていた。
正確には、やらされていた。どこの派遣でも楽な持ち場ときつい難所がある。
いやな顔をしない人ほどそういう箇所を割り振られ、
そこの経験が多いからという理由でさらにきつい仕事が増えるという矛盾。
Aさんのいまの派遣先はアジア系外国人ばかりの多国籍企業らしい(笑)。
やっぱりおなじ派遣でも女は楽なところにまわされ、
雄々しい男ほどきつい持ち場に振られる。それで給料がおなじか、大して変わらない。

わたしが還暦近くなったら、とてもあんな肉体労働はできないだろう。
Aさんのすごいところは、わたしの酒のハイペースについてこれるところだ。
やはり下戸(げこ)と酒を飲んでもおもしろくないわけである。
相手とおなじペースでアルコールを摂取してハイ(歓喜)に至りたい。
年功序列をわきまえぬ偉そうな物言いだが、その点でもSさんはゴーカクなのである。
59歳でわたしとおなじ飲み放題ペースで飲める人がいるなんて奇跡。

Aさんのこの元気の理由はなにかと考えると、おそらくエア彼女の存在ではないか。
還暦近い男はむかしから自分には20代の美人婚約者がいると言い張っていた。
本当のことを知りたくて、
わたしは損得度外視で逢わせてくださいと1年以上お願いしている。
とてもAさんの話はおもしろくていろんな人に話して感想を聞いたが、
答えはぜんぶエア(虚妄)ではないかと。
しかし、だれもAさんと逢っていないのである。
わたしは騙される才能があるのか(ミャンマー)、
まだAさんの生きる支えが実在しているのかエア彼女なのかわからない。

エア彼女でもいいではないか?
いまのわたしの希望はエア彼女にこそあるのかもしれない。
何度も書いているが、特定異性を好きになるのはこちらの自由なのである。
むろん相手がこちらに関心を持つ義務はないが、好きになる自由はある。
むかし働いていたところでは知的障害者がAKB48をエア彼女にしていた。
エア彼女でもいないよりはましで、
まだ孤独で無味乾燥な人生を生きていくうえで味わいとなる。

このまえ統合失調症の創価学会の青年と逢った。
19歳で発病したようだ。3年まえ再発して3ヶ月の入院をした。
パートどころか作業所勤めもままならない精神病の創価3世の青年は、
エア仕事のジュエリーデザイナーをしていると誇らしげだった。
精神病院で知り合った統合失調症のエア彼女もいるようだ。
夢は? と聞いたら女性を折伏してはらませたい。
強姦や強制わいせつをしても罪がかなり減刑される(殺人もね)
統合失調症の青年の性欲を目の当たりにすると恐ろしい。
しかし、彼は学会員独特の「本当の幸福」を知っているらしく、
将来は「日本の柱」になるとのことである。
エア彼女も、エア希望も、エアドリームも、エアビクトリーもいい。
エアを仏教用語に翻訳したら「空(くう)」になるのではないか?

わたしはAさんのエアばなしは好きだが(本当はわからない)、
統合失調症の創価学会青年のエアにはついていけず、
いまでもあたかもこころをレイプされたかのようなやるせなさが抜けない。
彼の部屋ですることもなく池田先生の陳腐な日蓮解説書を読んでいたとき
(あたまの悪そうな線引きがたくさんなされていた)、
クソをして帰ってきた10歳年下の青年から、
「土屋さんにはまだそれはわからないでしょう。少しはわかりますか?」
と優越感まみれで言われ、精神も身体も爆発しそうになったが、
それは彼が統合失調症だからか創価学会員だからか、
うちのブログの読者だからかはわからない。