表現者という言葉をはじめて耳にしたのは大学のゼミである。
当時、早稲田大学客員教授だったドキュメンタリー映画監督の原一男先生が言った。
人間は表現者と生活者にわかれると。
そのとき先生は自身を表現者としてみなしていたようだが、
いまから思えば高卒にして大学教授にまで成り上がった当時の原先生は生活者だった。
おそらくフリー時代の数倍の定収入に映画監督は驚いていたのではないか。
まだなにも世間を知らない大学生に向かって、
生活者の(高卒)大学教授は表現者たれと扇動しているようなところがあった。
そんなアジテーションに乗ったぼくは当時どれほど世間知らずのバカだったか。
いまは長生きするための健康食品が大好きだという原一男教授は、
表現者から生活者に成り上がってからは世間をお騒がせする映画を撮れないでいる。
そりゃあ、先生、先生と呼ばれ安定した収入があれば、人間は危険なことをしないもんだ。

生活者のドラマを多作した表現者の脚本家、山田太一は講演会でよく言っていた。
自分の限界を見極め断念することも、ときには重要だ。
夢ばかり追って齢を取ってしまうと、いざ引き返そうと思っても年齢的に難しくなる。
高卒の大学教授の原一男監督が安定した生活者で、
生活者を好んで描いた大卒脚本家の山田太一が不安定なフリーというのがおもしろい。
原一男教授にはそういうものがないようだが、
自称弟子のわたしは長らく生活者にコンプレックスのようなものがある。
まじめに働いて金を稼いで家族を養っているものを仰ぎ見るような感覚がある。
むろん、そんなのつまんねえだろ、という子どもっぽい表現者感覚も残存している。

よく成功者は10年夢にかじりつけばそれはかなうなどとのたまっているが、
わたしはおかしな夢の奴隷になってもう20年近くなる。
いまはもうなにが夢だか現実だか、なにもかもわからなくなってしまった。
池袋ハローワークのおばさんからは、あなたの経歴ではもう正社員は無理と言われた。
どうしても正社員になりたいわけではなく、もうなにがなんだかわからない。
山田太一さんのおっしゃるよう、自分の限界(才能)を見誤ったのかもしれない。
板橋区キャリアカウンセリングの俗物おっさんに原一男先生のことを話したら、
「そりゃあ、あんた騙されたんだよ」と言われた。
自分は安定した大学教授の立場にいて、そういうことを言うやつがおれはでえ嫌いだとも。
「とにかくあなたは小石川、早稲田であたまはいいんだから資格でも取れ」
そうしてハロワの就職支援に行ったら、
あなたの年齢と経歴ではどんな資格を取っても、
もうまともな人生には戻れない、どうしてそれがわからないの? と叱責される。
ハロワのおばさんのヒステリックな当方への非難はこたえた。

通勤時間1時間のところに火葬場の正社員の仕事があった。
まず就職活動用のスーツを買い、それからそのスーツで履歴書用の写真を撮影。
ハロワで紹介書をもらい、履歴書と職務経歴書を郵送。
仕事内容は遺体収納棺桶の運搬、遺骨の壺(つぼ)への収納、遺族対応。
おもしろそうだからやってみたいと思ったが、左手首の橈骨神経麻痺が。
完全状態を10としたら、まだ4くらいの回復レベルだ。
骨壷を落としたりしたら冗談では済まないし、それをしないとはまだ言い切れない。
そもそも書類選考で通るかも(面接まで行けるかも)わからない。
絶対なんとしてでも正社員になりたいと思っていないやつが、
果たして正社員になれるのか? 
あんがい、そういう脱力したやつがすいすい通ることもあるような気がする。
同様、いまはどうしても表現者になりたいと願う年齢ではない。
おそらく、なるようにしかならないのだろう。
原一男さんも山田太一さんも師匠だが、
後者とは結局ひと言も交わさずに終わりそうである。
買わねばと思いながら就活用のスーツはまだ買っていない。
わたしは私から出発していない言葉はインチキだと思う。
私をめぐって他者の言葉を痴呆老人のように徘徊することもあろうが、
最後に帰っていく場所はこれまた私である。
あらゆる、私からスタートしていないところの意見、考えはニセモノだと思う。
帰着点は教祖や会長、有名人、世間的偉人ではなく、私だと思う。
ひとりの私をたいせつにしてほしいとわたしは思います。
明日、空海の「性霊集」を読んだら仏教有名人めぐりもひとまず終了かなあ。
そのあとに梅原猛さんの空海解説を軽く読み返したりはするけれど、
いまさら無数にあるだろう解説書を読んだりはせず、自分の感想を信じる。
数日後には仏教ブログ記事の大行進がスタートする。
お読みにならなくていいですから。
できたら、飛ばし読みでもしてくださったら書き手としては至上の喜び。
またトンデモ説を書きまっす。
結局、空海の密教は「おれは仏の秘密を知っているが、
それは秘密だから書き言葉では説明できない」と要約できる。
ひと言にまとめれば「おれの弟子になれ」――。

師匠と弟子の関係ってなんだろう?
仏教業界では師匠にもっとも気に入られた弟子が、次の師匠になっているわけだ。
このため、いかに師匠に気に入られるかが弟子の勝負のようなところがある。
いかに師匠に媚びを売るか。自己犠牲、奉仕をするか。
師匠も上から気に入られて師匠になったのだから、弟子に奴隷根性を求めるだろう。
弟子(奴隷)の醍醐味もあるに違いない。
弟子は師匠が偉くなれば偉くなるほど、弟子たる自分も偉くなったように感じるもの。
正義は多数決だから、弟子をたくさん集めた師匠ほど偉くなる。

このまえ田舎の川岸に学会員の青年と並んで座って対話をした。
日が沈むころ、
ふざけて「夕陽に向かって南無阿弥陀仏と一度言ってみない?」と声をかけた。
答えは、むりむりむり。
いまのわたしは平気で大勢の学会員と、
ご本尊とされる「ひげ曼荼羅」に向けて南無妙法蓮華経と唱えることができる。
実際に信濃町でも千葉でも学会員と南無妙法蓮華経と題目をあげた。
日常生活でも朝は3分で勤行(法華経読誦)と題目(南無妙法蓮華経)。
夕方には数回、南無阿弥陀仏とこころのなかで唱えている。

3ヶ月経って橈骨神経麻痺の左手首はようやくゆっくりと動きはじめた(おっせえ)。
これは南無妙法蓮華経のおかげか、南無阿弥陀仏のおかげか、
医学(気休めの薬として有名なメチコバール)のおかげか、
それとも万事が壮大なコンステレーション(宇宙意思)のもと
発生した自然現象(自然法爾)なのか、
単なる偶然(確率的現象)なのか、それは「わからない」。
南無妙法蓮華経のみを絶対正義とする人たちと、
南無阿弥陀仏と両方唱えられる変人の、
いったいどちらが懐(ふところ)が深いのかも「わからない」。
わたしは南無妙法蓮華経の意味も、
南無阿弥陀仏の意味も「わからない」だと思っています。
「わからない」から法華経や阿弥陀仏に南無(お任せ)するという謙虚な姿勢だ。
わたしを「厚顔」とか「偉そう」とか批判する人は、実物を見てから言ってほしいと思う。
このまえ池袋のハロワの西村さんっていうおばさんから厳しい指導を受けた。
ハロワの役人って求職者を指導している気持でいるやつもいるんだよね。
証拠はあるよ。「○○と指導」とか書かれた紙を持っている。
で、西村さんから本当のことを言われたわけだ。
あなたの経歴だと介護以外では正社員は無理。
でも、その左手じゃ、介護さえ無理ねって。
耳が痛いけれど、かなり本当に近いことでしょう?
少なくともベテランのハロワ職員の西村さんはそう思ったわけだ。
あなたが正社員なんて、世の中なめてんじゃないわよと。

「41歳ならまだ大丈夫」というのはおそらく嘘だけれど「救い」でしょう。
嘘だから「救い」なんだけれど。
このまえ学会員にひと言で法華経を説明してみて、と言ったら答えられなかった。
本当にわかっていたらできるはずなんだけれど。
法華経をひと言で説明したら「嘘も方便」――。
現実的に考えて無理なものは無理じゃないですか。無理なものは無理。
わたしがいまから医者になりたいと言っても、それは無理でしょう?
結婚も無理だろうし(したいかどうかは自分でも不明)、
あとは余命の宿命をまっとうするくらいしかない。

ここにある呪文を唱えれば、どんな願いもかなうと説く宗教があったとする。
それを信じられたら「救い」になるわけだ。
わたしは「がんで余命1年」と宣告されたらラッキーと思うが(来世にゴーゴー♪)、
現世に執着がある人は絶望してしまう。
このとき、がんが治るという宗教があればそれは「救い」になる。
少なくとも、その祈りがかなうという呪文を唱えているときは救われているわけだ。

統合失調症に罹患したら、かなりのことを人生であきらめなければならない。
しかし、「祈りとして叶わざるなし」という過去の宗教家の文言を信じて、
自分は独立開業して、自分が折伏した嫁と結婚して子どももつくる。
この呪文を唱えていたら、「祈りとして叶わざるなし」――。
そう信じて毎日数時間、呪文を唱えていたら、そのとき彼は救済されている。
「救い」って「嘘も方便」のこととも言えるわけである。
「救い」ってそういうことではないかと思う。
「死んだら浄土へ往ける」も「来世がある」というのもたぶん嘘だが
(とはいえ科学的には真偽の判断がつかない)、
そう信じていたら「救い」のようなものを感じる人がいても悪くない。
現世への執着が老いてますます増していく一方の作家の宮本輝さんのような人は、
来世や極楽往生を願う宗教を毛嫌いしていることと思う。
結局、わたしは宮本輝の三千分の一の「幸福」さえ味わえなかったなあ。
しかし、一遍の南無阿弥陀仏の教えによるならば、まだそれは「わからない」――。
ああ、「救い」があったぜ。

(関連記事)
「法華経」(紀野一義訳/「大乗仏典」/筑摩書房)
「ガイドブック 法華経展」(東洋哲学研究所)
「日蓮大聖人御書 要文選集(通解付)」(創価学会教学部編/聖教文庫)
折伏ってよめますか? よめる人は危険なのだが、しゃくぶく。
折伏とは自分の正しさを相手に押しつけ、相手を完全破壊、調教奴隷化すること。
ゆうべ見た本部会(夢かも)で婦人部が、
あたしと結婚したかったら入信してという折伏話で爆笑が起きた気がする。
折伏すると功徳があるんでしょう?
だったら、わたしなんてさいこうのカモのはずなのにどうして女子部が来ないのか?
レイプされる準備はできている。南無妙法蓮華経。
わたしは世間知らずの愚か者だから、
なかなかいろいろな常識に気づかない。
たとえば「本の山」の仏教記事はだれにも読まれていないとか(笑)。
長年お世話になっている人から、
それとなく仏教書の感想は読むのがきついと悪意なくそれとなく言われ、
ああ、そうだよなとそのくらいのことをいまさら気づいた愚者であります。
しかし、最近電話でお話させていただいたが、
「本の山」の仏教記事がお好きな読者さまもいるようなのである。
書き手としてはいちばん人気のないのは仏教記事だと思っていた。
聞くと、けっこうな仏教書の検索でひっかかるらしい。

うちのアクセス解析は古くぶっ壊れているので、
だれがどの検索用語で来たのかも、
どのカテゴリーが多く読まれているのかもわからない。
ぶっちゃけ、アクセス数もわからないが、
これはランキングから大したことはないことはわかる。
おおむかし山田太一ファンの古株権威あいどん師匠から、
「本の山」は山田太一記事しか読む価値がないと言われムカッと来たが、
いまはそうだよなあと思う。

酔っぱらって思うがままに手を抜いて書いているのがこの雑記だが、
これがいちばん好きという読者さまもおられよう。
そういう現実を知りたくないから(よくある)「拍手」をつけていない。
「拍手」をつけてしまうとその数に書き手が左右されてしまうから。
それは自由ではないから。

わたしはブログ読者さまにぜんぶ読んでほしいとはいまはまったく思っていない。
東大卒の小谷野敦さんの本の感想だけ読む人がいてもいいし、
精神医学的に当方に関心がある方がいらしてもいいし、
いまは更新しなくなったが演劇関連の記事だけ読む人にも感謝している。
宮本輝ネタはむかしからコアなファンがついているのは手触りとしてわかる。
シナセンネタへの注目は手応えとしてわかる(片手不自由のカタワだが)。

専門がないのはわたしが文芸専修出身だからだろう。
文芸専修とはむかし早稲田にあった小説家養成コース。
文芸専修は自由で、ほかの専門から単位を取って来いというスタンスで、
おかげさまで楽勝な科目ばかり選択し、思いっきり楽ちんに卒業させていただいた。
今年とかいきなり税金の本の感想を書き始めて、古くからの人は笑ったでしょう?
節操がないというのか自由というのかフラフラしているというのか。

下世話な好奇心――これこそわが生命力の根源にあるものでございます。
地球は丸いらしいから東へずっと行けば遠まわりだが西へ着くわけだ。
創価学会は朝日がのぼる東がお好きで、浄土真宗は落陽の西がお好みの模様。
道に「迷う」、つまり「迷い」というのはどちらが東か西かわからなくなること。
「悟り」とは、あるいは東は西で、西は東と気づくことかもしれない。

いま予想では橈骨神経麻痺(左手不自由)が治っているはずだったのだが
(医者の見立てもそう)、ほとんど状態はよくなっていない。
これでは働けないだろうとわらにもすがる思いで、
創価学会不合格のぶんざいで朝の勤行&唱題を再開した。
夕方には荒川土手を散歩して西日に向かいお念仏を唱えさせていただいている。

というと聞こえはいいが、治りゃなんでもいいよの、
お薬をこれでもかと出すヤブ医者状態かもしれない。
いまできることがないので(そういえばいままで手を出していない)
空海を角川文庫で読み始めている。
40歳を過ぎて空海を読む(読める)、この娑婆っ気のなさと知力はいかんや。

空海もおもしれえな。
あいつ、エリートコースを蹴っ飛ばしてニートになっているんだよ。
ニートって税金をほとんど払わないゴミだろう?
にもかかわらず、どういうコネを使ったのか国費で中国留学生になっている。
そのうえ20年学ぶという約束を反故にして(破って)わずか3年で帰国。
で、おれさまは恵果和尚(けいかかしょう)の一番弟子だから重用せよと政府に自己PR。
本当だったら犯罪者なのに、この自信はどっからくるんだよ。

中国の恵果なんて日本では知られていないから朝廷も困っちゃう。
すげえ偉い人だって違法帰国者の空海というニートくずれが
言っているけれど、どうよ? って話。
で、結局、ときの権力者(嵯峨天皇)から認められ、
あとは弘法大師まで階段をすたすた上がっていった。
結局、恵果(師匠)の偉さは空海(弟子)が証明したことになる。
弟子(空海)が偉くなったから結果的に師匠(恵果)も偉くなったと。

じつのところ、長安青龍寺の恵果和尚とやらは、
ぜんぜん偉くもなんともない死にぞこないの坊主だったかもしれないのである。
果たして空海はニート生活や国費留学、違法帰国、大出世でなにを証明したのか?
「偉い」とはなにか? 「正しい」とはなにか?

(関連記事)
「NHKこころをよむ 空海を語る」(梅原猛/ラジオテキスト)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-4331.html
対人問題で困っているときに裏金ほど使えるものはない。
これは真っ当な企業の社会人ならば知らないものはいないのではないか?
わたしは以前、山田太一ファンクラブ(ドラマファン掲示板)の女王、
エッセイスト(笑)のE氏がしきりにわたしの悪口を掲示板に書くので困っていた。
あるとき山田太一イベントで女王にあたまを下げて、
お手紙を受け取っていただいた。
そのお手紙には5千円を入れておいた。
1万かなと思ったけれど、当時の経済事情がそれを許さなかった。
裏金の5千円を渡したら、ぱたっとEはわたしの悪口を書かなくなったものだ。
人間なんてこんなもんさ、という山田太一ドラマの庶民哲学の正しさを知った。
そのE女史が掲示板に紹介していたのかな。
山田太一の最新インタビューを読んだら、もう半分死んでいるようだ。
去年1月、脳出血で倒れて、どうやら右の半身麻痺の模様。
・家族が自分の言うことを信じてくれなくなった。
・あれほど好きだった本を読もうという気にならない。
・もう死んだほうがいいのではないかと思っている。
・人間、100歳まで生きる価値、意味は果たしてあるのか?

――言いたい放題で相変わらず山田太一先生はおもしろいなあ。
なんでこんな人が朝日賞や小林秀雄賞を取れたのかは、
裏金(裏事情)が大きく関係しており、
大ファンの当方はそれをわずかなら見破ることもできるが、
どこでもあることをいまさら訳知り顔で言ってどうなるかという思いもある。
みんなやっていることを、
尊敬している山田太一の旧悪を暴くというようなかたちでしたくない。
それにそういう裏金(贈与品、贈与評価、仲間褒め)は悪ではなく、
山田太一さんの腰の定まらない庶民的な善性から出ているとも思うからだ。
朝日賞、朝日新聞といえば、アエラムックが創価大学の特集を出した。
こうすれば創価大学は朝日新聞という権威をお借りすることができる。
アエラムックは学会員が買うから、朝日新聞社は儲かる(これって裏金よね)。
さらに朝日新聞関連マスコミはなかなか創価学会の批判をできなくなる。
世の中うまくできてんなあ。
おれもその輪のなかに入って小指の先ほどでいいから甘いハチミツをなめてみたいっす。
一剣を磨くという言葉があるじゃないですか。
正確には、 十年一剣を磨くだったか。
たしかにそうとも言えるのだが、そうともばかり言えないこともある。
たとえば新卒で長年、
おなじ業界(たとえば医者)にいた人は、その世界しか知らないわけでしょう。
このまえ池袋ハロワのN女史に、定職にもつけないぶんざいで、
といったようなことを言われたけれども、それは経験豊富ってことでもあるわけ。
派遣やバイトでいろんなところで働いた。
働く目的は小金稼ぎもあるが、社会見学、人間勉強の意味合いが強かった。
派遣なんて本当にいろんな業界経験者がいるわけよ。
おなじ派遣の身分ということで、わたしは恐れず、
お得意のうさんくさい笑顔で近づき、いろいろなお話をうかがったものである。
本ではわからない実地の耳学問をしたと思っている。
なかには医療の人、健康食品の人、ベテランシェフ、不動産屋、食品関係――。
さまざまな分野の人からわたしはお話をうかがっている。
これは職を転々としたからできたことで、一剣を磨いていたら無理だろう。

しかし、わたしは一剣を磨いてきたという自負もある。
言葉という一剣を10年どころか20年レベルで磨き続けている。
すなわち、いろいろな言葉を読み、
工夫しながら自分の言葉を磨いている(ブログ)。
それでこれかよと笑われるかもしれないが、言葉という一剣を磨いてきた。
刀がなまくらかどうかは人のこころにどのくらい突き刺さるかでわかるであろう。
わたしは書くために生きている。
評価されるかは運とあきらめ、
人間の喜びと悲しみを自分の言葉で書きたいから生きている。
なんかご立派なことを書いちゃったみたいで恥ずかしいなあ。
いやいや、グウタラでろくな人間じゃないんです。ご存じでしょうが。
携帯の番号を公開して、電話はこないこともないのだが、
みな本名を名乗らない。
むかし一遍関連のお寺に行ったとき、
いっしょに行きたいと若い男の子から電話があったけれど、
この子も名乗らなかった。
お名前はって聞いたら上だけ言って(もう忘れた)下は言えないだってさ。
腹をくくれって。そんなんじゃなにをやってもうまく行かないぞ。
と、なにをやってもうまくいってないわたしから言われてもねえ(笑)。
まえの創価学会婦人部の人も、結局偽名を使ってきたわけよ。
腹をくくっていない。わたしを信用していない。
10年来の友人とかになっている人は、
みんな最初から正々堂々本名を名乗っている。
自分を信じていない相手を、だれが信じられるかって。

ミャンマーへ行くまえにも年上の女性から電話がかかってきて、
この人も名乗らず、そのときハロワにいて忙しかったのだが、
早坂暁についてひとりペラペラしゃべっていて、
ミャンマーから帰ってきたらまた電話していいかと。
いいけれどこちらにも都合があるから前もってメールしてと。
「いきなり電話されるのが怖いの?」と言われた。
それはめいわくの問題で、怖いとかじゃないんだけれどなあ。
案の定、あれから連絡なし。名乗っていないから無責任。
土屋なんかその程度の扱いでいい(たしかにそうなのだが)。

実名を名乗るとブログに書かれるから怖いというご意見もあるでしょうが、
お名前を公開して接してくださった方はいわば(当方同様)
腹をくくっていらっしゃるわけで、ぞんざいには扱えないと思う。
公衆電話から電話してきて、匿名女性から住所を教えろと言われたこともある。
もうなんにも怖くないから、教えたけれどその先なんの連絡もない。
いきなりお電話をおかけくださってもいいのは初回限定で、
次回以降は緊急時以外(これも解釈がわかれる)
はなるべく事前にメールをいただいたほうが、より丁寧な対応ができる。
つまり、あなたさまのためにもそちらのほうがいい。
いまさら名乗れとか言わない。どうせだれも名乗らないんだから。

※数少ない友人や血縁者はいきなり電話もぜんぜんOKだし、かえって嬉しい。

土屋顕史(080-5188-7357)
「さもありなん 空海、法然、親鸞、そして道元」(村内弘道/Parade Books)

→しろうとが仏教書を書くなという意見もあろうが、
どうして葬式坊主や仏教チンピラ学者の書いた本が価値があるのかわからない。
むかしから何度も書いていることだが「真理」のわたしなりの定義をしてみる。
「真理」とはなにか――。

1.多数派が支持している(多くの人が認めている)。
2.古株である(歴史伝統がある)。
3.上のふたつとも似通っているが、権威になっている。
4.身もふたもないことを言うと、「真理」とは人を喜ばせること。
5.どんどん行くと、いまだウソ(虚偽)だとばれていないこと。
6.自分が「真理」だと信じていること。

わたしは著者とは異なり道元が嫌いで、
暴力大好きな体育教師のような存在だと思っているが
(実際、男はよく弟子を殴り蹴ったと聞くし、いまの曹洞宗もそういう伝統らしく、
日本軍隊および会社組織は道元の組織理念で成立していたと聞く)、
しかしけれどもにもかかわらず、
上記の「真理」の定義に当てはめると道元の言葉は数ある「真理」のひとつとなろう。
結局、わたしが言いたいのはいちばん身もふたもない6で、
「真理」とはそれぞれの人が「真理」であると信じていることなのである。
オウムの人は教義を「真理」と思っていたのだろうし、だったらそれが「真理」である。
あれだけ暴露本が出されているのに、
いまだ池田大作さんをつまらない聖人君子と思っている人にはそれが「真理」。
自分の「真理」も変わらないように、他人の「真理」も変えられない。
その人の信じているところが「真理」というほかない、というのが現実的なところだろう。
とはいえ、現実的には脅迫したり裏金を渡したりで「真理」はころころ変わるとも言える。

著者も本書を書いて「真理」がわかったのではないか?
村内さんは道元の「現成公案」にひかれたらしく、
これはいったいどういう意味なのか過去の現代語訳をつぎつぎと引用している。
その結果、現代語訳がみんな異なることに驚き、どれが「正しい」のか迷い、
最後には自分で現代語訳している。これが最良の仏教的生き方だろう。
わたしは道元嫌いだからか、村内さんの訳もふくめ、すべて意味不明で、
暴力座禅きちがい道元の「現成公案」なんか価値はないという立場だが(いまは)、
著者はこの本を書いたことで救われただろうし、
「真理」はだれの現代語訳でもなく、村内弘道訳が著者にとっての「真理」だろう。
わたしも一遍、一休、日蓮などいろいろ「本の山」で訳したが、
わたしにとっての「真理」はそれらで、
結局、ほとけを信じるというのは自分を信じることで、
それは言い換えたら自信を持つことなのだろう。
そもそも自信を持たなきゃ、ふるくせえ古文を現代語に訳せない。
訳せた時点で自信が芽生えているのだろう。

そういう意味で、本書は村内弘道さんにとってはいちばん意味がある本ではないか。
読者が本書から学ぶことがあるとするならば、それでいいんだよということ。
「真理」のようなものを求めて、ときに人間は過去の偉人の仏教書を読むが、
あんなものに「正しい」解釈のようなものはなく、
現代語訳なんて人によってまったく違うし、ならば自分で勝手に訳してそれを信じれば、
それそれまさにそれが「真理」だし、その「真理」を信じたら自信を持つことができる。
おもしろいとかつまらないというレベルではなく、
村内弘道さんは本書で「自分の言葉(真理)」を発見し、救済されたことであろう。
しかし、それが他人を救済するかはわからなく、
そもそも空疎な言葉なんかより、
はるかに価値のある金品(お接待)をもってさえ人を救えるのかわからない。
わたしは「わからない」が「真理」だと思っている。
在野仏教学者の「さもありなん三部作」を読んで、
仏教に救われるとはこういうことだという確信を深めた。
自分の言葉で書いた「真理」を信じるのが仏教かもしれませんね。いや、わかりませんよ。

「さもありなん 遍路、無限、そして分乗仏教へ」(村内弘道/Parade Books)

→人間っていろんなことを考えるもんなんだなあ。
肩書や権威(地位・受賞歴)にこだわらず本を読むと奇書に出逢えるのがいい。
もうだれにも読まれないブログだし、書き手も半分死人だから、
本当のことを言っちゃうと、
本書の奇抜性がわかるのはわたしがだれにも認められないにもかかわらず、
殴られるのを覚悟で書くが非常にあたまがいいからである。
著者は一般書としてこの本を書いたようだが、
ふつうの人はこういう本を読まないし、義理で読んでも意味がわからないと思う。
本書から学んだことは少なくないが、それをわかりやすく説明する。
著者は数字(経理)に強いとどこかに書いてあったが、それがよくわかる本だ。
仏教用語の「空(くう)」を市井に生きる金に強い経理屋はこう解釈する。
ああ、そういう解釈もあったのかと新鮮で驚く。
以下はまるで仏教書のようにわかりにくいが、思えばこの本は仏教書であった。

「仏教では0と1をはるか昔に取り入れました。それが空(くう)です。
ブッダの真理である縁起から見るとこの世の様相は、
有るとも無いとも言えないのです。無と有までを含む上位概念、それが空です」(P13)


これを読んでインドの仏教思想家の龍樹(ナーガルジュナ)の説いた空が一発でわかった。
これはわたしのあたまがいいからだろう(だれかぶん殴ってください、蹴とばしてください)。
ゼロっていうのは数字上は0だけど、ゼロと表記できるじゃないですか?
ゼロというのは「無いけれども有る」「有るけれども無い」(つまり空の)の象徴なのだ。
なんにもないけれど、0という記号で表記されえている。
本書は飛躍が多くそこがおもしろいので、わたしも本書から飛躍する。
この人は変なことを考えるなあ。逢ってみたいが、ふつうの人なのかもしれない。

「a:b=c:dはa×d=b×cであることを論理的に知っていて、
dがわからなければb×cをaで割って求めるのが第二種の認識である。
これが理性である」(P48)


「2:8=5:X」という等式があった場合、Xは5×8を2で割った20である。
ここでこの数式を活用して、当方が飛躍するのを許していただく。
最前、千葉創価学会壮年部のひとりから、
あなたは「本当の幸福」を知らないというご指導を信濃町に呼び出されいただいた。
死をゼロ(0)とし、本当の幸福とやらを無限(∞)とする。無限は永遠(久遠)でもある。
すると「0:∞=死:本当の幸福」という等式が成り立つ。

「0:∞(永遠)=死:本当の幸福」

ここから導き出される答えは――。

「本当の幸福=死×∞(永遠)÷0」

「死=本当の幸福×0÷∞(永遠)」

「∞(永遠)=0×本当の幸福÷死」


「0=∞(永遠)×死÷本当の幸福」


やべえ。書いていて、なんかあたまが痛くなってきた。
人生における事象はすべて数字に換算できなくもないだろう。
人生のかなりの出来事がお金に換算できるし、人生の選択肢は確率で数値化される。
仏教の説いている空(くう)はゼロ(0)で、阿弥陀仏は無限・永遠(∞)である。
そうした場合、著者のように考えることもできるのではないか?

「ここで一気に飛躍してしまおう。阿弥陀如来は確率である、と。
ならば弥陀に摂取されている状態を現代的に解釈するとこうなるのではないか」(P97)


著者の主張は、仏教でいう空が0で阿弥陀仏が∞ならば、
人生全般あらゆることは数字であらわせるのだから、
世事全般みな空(0)で阿弥陀仏は永遠・無限(∞)という数式が成り立つのではないか。
この数式が成立するならば、
人間が阿弥陀仏に救済される(=計算式に入れられる)ことを証明できるのではないか?
すごいことを考える人が世の中にはいるんだなあと。
数学なんて東大受験以来20年ぶりだから、いま気が狂いそうなほど疲れている。
読み手を疲れさせる本はいい本とも難解とも言えよう。
わたしもそうとうな変人のつもりだが、世の中にはまだまだ変な人がいるんだなあ。

「さもありなん 確率、宇宙、意識、そして魂」(村内弘道/Parade Books)

→著者は在野の仏教徒。
自分でも意味がわからないお経をよんでいれば金が入ってくる坊主ではない。
お経の解釈をちまちまやって上から気に入られようとしている仏教学者でもない。
日々資金繰りに追われながら仏教を生きようとしている奇人(失礼!)。
仏教を生きるということを深々と考えさせられた。
生きるというのは金なんだ。
しろうとの書いた仏教書がまず確率に注目したのは興味深い。
お題目を上げれば願いがかなうなんていうのは確率を無視しているわけでしょう?
いや、本当はお題目は確率を上げるのだが、そこをうまくとらえた本がない。
日々金に追われている(?)会社経営者の著者は坊主より、
より深く仏教を生きようとしている。

生活者は確率を生きており、損得の意味でより高確率な生き方をねらう。
だれだって成功確率90%と10%があったら前者を選ぶだろう。
ここで確率の話で難しいモンティ・ホール問題が出て来る。
これはすごい難しくまず一般人には理解できないだろう。
わたしもいまもって完全にはわかっていないが、
著者がわたしよりも理解度が高いということはわかる。
モンティ・ホール問題とは、たとえばクイズ番組。
3つの箱があり、当たりはひとつである。
参加者は3つのうちからひとつを選ぶことができる。
さて、参加者はひとつの箱を選んだ。
この後に当たり(答え)を知っている司会者が残りのふたつからハズレの箱を開く。
このあと参加者はさらに箱を選ぶ権利を与えられたとする。
この場合、どちらの箱のほうが当たる確率が高いかだ。
答えは、以前自分が選んだ箱ではないほうを選択したほうが当選確率が高まる。
わたしはこれがどうして正しいのか長らくわからなかったが、
ある日、ああ実験した結果だから正しいのだろうとわかった。
上記の問題は実験ができて、正誤を確かめられるのである。

本書の斬新な指摘は、司会者がバカで当たりの箱を忘れていたら、
の想定をしているところ。
司会者が当たりの箱を忘れてたまたま開けた、
残りふたつの箱のひとつが外れていたら、この場合確率はどう変わるか?
この答えは本書を読んでもわからなかったのでいつか著者に質問したい。
しかし、わかったこともあって、それはふたつ。
他者の意識(司会者の行動←正誤を知っている)が確率を変化させる。
人間は選択を誤ることが多く、
そこに他者(選択)が加わると成功(正解)確率が高まる。
思いっきりわかりやすくしちゃうと、
自分ひとりで決めるより、だれかに相談したほうがいい。
自分の選択は誤る確率が高く、
そこに他者の選択行為が加わるとプラスになる確率が高まる。
たとえばある種の人が大好きな学歴でいえば、
わたしは東大を選択していたが、東大という他者は当方を選択せず、
思いもかけず過去問もまるでやっていない早稲田一文に選択されたが、
そちらのほうが「当たり」(正解)である確率が高い。

少し著書から離れてしまったが、他者の意識が確率を変えるというのはかなり本当だ。
このへんは著者もまだよく理解していないと見受けられるが、
サイコロをひとりが振ったら出目はそれぞれ1/6である。
しかし、4人が同時にサイコロを振ったら出目はかなりの偏向(偏り)を見せるという。
この確率的事実を「三人寄れば文殊の知恵」などと陳腐に形容していいのかはわからない。

ひとりの選択は確率的に間違うことが多い。
こういう数学的なことを仏教的な問題に飛躍させるのが、
坊主でもなく学者でもなくひとりの生活者として仏教を生きる著者の魅力だ。
以下が坊主でも学者でもない、一介の庶民の書いた仏教書の勘所であろう。

「だから自分では確率に基づいて正しく選択したと思っていても、
間違っていることの方が多くなってしまう。
もし本当にそうなら、選択はしなければいいと言うのか。
まさにそうである。自然の流れにしたがっている方が、長い目で見れば、
いい方向にいくはずである」(P87)


まるで権威を借りるようだが、
これは宗教人類学者の植島啓司氏の主張とおなじである。
著者が学者よりすごいと思うのは、さらにものすごい飛躍をするところである。
こういう考え方ができるのかと驚愕した。
これは葬式坊主や仏教博士にはできない発想である。
上記の引用に続いて――。

「これは親鸞が捉えた真理、自然法爾に通じる。
親鸞は法然を選択した。法然は念仏を選択した。
法然の書は「選択本願念仏集」である。選択に選択を重ねている。
したがって専修念仏が間違っている確率の方が高くなるはずである。
しかし幸いなことに親鸞の存在がそれを否定する。
そして自然法爾は念仏さえしない。
もう各人の頭の中にあるかないかだけである。
それだけで他人に影響を与えることさえできてしまう。
モンティ・ホール問題の変則版と同じである(P88)


わかりやすく言い換えたら現代は多くの人が、
これが「当たり」ではないかと自力で選択してチャレンジしているが、
そのチャレンジのごとにほかのチャレンジの成功確率が変わっている。
チャレンジ(選択)しないで「当たり(答え)」を信じている人がいかに重要か。
これをわかりやすく「残り物には福がある」と言い換えたら著者から叱られるか。
わたし個人の意見としては、
それでも親鸞は師匠(法然)や妻帯、肉食など選択しているものがある。
すべての選択肢を捨てて、
南無阿弥陀仏(自然)と一体化した踊り念仏の一遍のほうが親鸞よりも、
なんというかその、勝ったとか負けたとか、正誤正邪や深浅の問題ではなく、
わたしのこころに食い込んでくる。
ともあれ、生活しながら(金、金、金!)、
仏教と(ある種の坊主や学者以上に)真摯に向き合っている人がいることに驚いた。
わたし以外にそういう人がいることが嬉しかった。
ストリンドベリのファンとしては、
日本人の書いた小さな奇書にめぐりあえた幸運に感謝したい。

ひとりえっちをしているおんなのことかぞくぞくする。
もんもんといきいき、ひとりえっちしている性に芽生えたこは青春そのもの、
ええなあ青春、おのれのえろに戸惑っている、おにゃのこ。
えろくないのにえろいえろすはいい。
みょうにかたくるしくてまじめなのにえろいとかええなあ。もうすっかりおっさんなり。