「明日は来るのか?」は中島義道博士によると哲学的命題でもあるらしいが(?)、
明日とか来週とか来年という感覚が人よりも異常なほど鈍いような気がする。
これはもう目のまえで肉親から
いきなり飛び降り自殺されたものしかわからない感覚かもしれない。
昨日と今日で世界がガラリと変わってしまう。
わたしはあの日から自分が来年生きているという確証のようなものを失っている。
さくらを見るたびに今年が見納めかなあ、と思う。
これはもう本当に経験したものしかわからない世界なのだろう。
見方を変えれば、将来の不安から比較的に自由だから楽とも言えよう。
偉大なる母から教わったのは、いざとなったら死ねばいい、である。
来週の土曜日はおそらくミャンマーにいるのだろうが、いま実感のようなものはない。
この左手(不自由)で行って大丈夫なのかと思うが、行ってみないとわからない。
というか、ミャンマーはもう行ってしまったとも言える。
ネットでミャンマーのことを調べたら旅行ブログが山ほど出てきた。
ミャンマーのあらゆる名所をもう写真で見てしまっているのだ。
ミャンマーでは知らないところに行きたいが、
それはいまは知らないのだからどこかはわからない。
行けるかどうかは「運・ツキ・偶然」の世界だろう。
時間的余裕はたっぷりあるから、そのぶん脇道や寄り道には有利だろう。
ミャンマーから帰ってきてどうするかもまったくわからない。
最後の欲望が「ミャンマーへ行きたい」だったような気もする。
あるいはミャンマーで新たな欲望(希望)が生まれるかもしれない。
なにもかもわからない。
明日が来るのかも、なにが「正しい」のかも、なにがよくて悪いのかも、わからない。
明日死んでも「まあ、いっか」と思っているのは精神医学的にはどうなのだろう?