「グラフSGI」(聖教新聞社)

→信濃町で創価学会の千葉の地区部長(?)の壮年部さまに面談をしてもらったときに、
以前一度お逢いしていただいたことのある婦人部さんから「グラフSGI」をいただく。
それから「聖教新聞」のPR版もいただく。
「グラフSGI」は創価学会インタナショナルは海外でこんな活躍をしていますよ、
という月刊写真誌みたいなもの。
1月号「特集:人間革命の旅」、2月号「特集:信・行・学」の2冊をもらう。
ほうら、コージーコーナーのお菓子を持って行ってよかった。
これで借りみたいなものを感じずに済むわけだから。
帰宅してさっそくぜんぶ読む。

面談結果はどうだったのかなあ?
最初、文化センターで面談していただいたのだが、きれいめの女子部が勢ぞろいよ。
大にぎわい。以前、平日に行ったときは閑散としていたのだが(人ひとりなし)。
孤独な独身男性は女子部目当てに創価学会に突撃するのもありではないか?
面談で壮年部さまにご指導されたのは、あなたは本当の幸福を知らない。
自分は本当の幸福を知っているが、あなたは本当の幸福を知らない。
本当の幸福は入信してみないとわからない。
わたしはブログには不幸自慢を好んで書くが、本当はそれほどでもないのである。
だって、もうすぐミャンマーに行くわけだから。
「欲望がない」のが悩みなんて、最高に幸福な状態とも言えるわけでしょう?

しかし、わたしは本当の幸福を知らなく、部長さん(?)はそれを知っているらしい。
「あなたを見ていると(本当の幸福を知らないのは)もったいなくてしょうがない」
わたしも対面だから、ぶっちゃけの本音を話す。
「座談会へ行きたいのは、下世話な好奇心というか、覗き見根性なんです」
たぶん地区部長によると「入会希望カード」を出したら、千葉の座談会に参加OK。
それを出したら池田さんの過去動画や学会芸能人のPRを見られるらしいけれど、
わたしはいまのなまの創価学会を見たいんだなあ。
3/30、31、4/1に行なわれる会合に来いと言われたけれど、
千葉のあそこだと往復交通費が千円かかる。
できたら浮間舟渡の創価学会にカードを出して、北赤羽の会館に行きたいのだが。

日曜日に入会希望カードを書けと言われたときはためらったけれど、
いま考えたら図書館カードをつくるようなものだから、そのくらい構わないのか。
もう住所なんてとっくにばれていると思うしさあ。
「念仏は捨てなきゃダメ」とか「浄土宗の地域は自殺率が高い」とか言われた。
まあ、隠れキリシタンのように面従腹背でこっそり念仏してもいいわけだ。
創価大出身の目が純真のあまりキラキラした女子から、
「あたしと念仏のどっちを取るの?」と迫られたら念仏なんかゴミ箱にポイだが。
意外と創価学会って、いい団体じゃないのかなあ?
だって、↓こんな↓ブログ記事を書いている人にわずかでも内部を見せてくれるのだから。
入りたいって言ったら、本当に入れるのかなあ。
学会員さんは機関誌(紙)を読め読めと言ってくるわりに、
自分たちはほかの記事を読まないよねえ。
↓こんな↓ことを書いているやつなんだよ、わたしわたしわたし。大丈夫か創価学会。

※「本の山」カテゴリー「創価学会」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-category-49.html
「税務署が嫌がる「税金0円」の裏ワザ」(大村大次郎/双葉新書)

→わたしの卒業論文(小説創作)指導教授は三島賞作家の久間十義先生だが、
終わってもいない私小説めいたものを批判もせず、
ゴーサインをくれたのだからいわば恩人のひとりである。
しかし、久間先生はあのころお金がたんまり入っていたから、
そういう鷹揚なお気持で学生のくだらぬ創作に向き合えたのかもしれない。
事務所を持って原稿を書いていると言っていたから、
おそらく個人事業者ではなく法人にしていたのではないか?
早稲田大学教授としての正規給金と作家としての原稿料。
膨大な所得から発生する税金を消すためには事務所でも借りたほうがよかったのだろう。
久間十義先生は中上健次の熱狂的ファンで、
同時に三島賞選考委員だった中上健次に引き上げてもらったことをいまさら知る。
早稲田大学文芸専修のボス、
江中直紀(故人)も中上狂信者だったから、そういうコネだったのかといまごろ知る。

本書の内容はサラリーマンへの副業のすすめである。
ふたつ収入があればいいよ、という話ではなく、
(経費によって)副業を赤字にしたら本業の所得も帳簿上は減るから節税になるよと。
税金というのは、所得の総額にかかるもの。
「所得の総額=給料+副業」
このため副業の経費を使って所得の総額をゼロにしたら税金が発生しなくなる。
久間十義先生のいちばんいい時代にわたしはお逢いしたんだなあ。
だったら、不完全な卒論を通してもらっても、
まあ、幸福のおすそ分けみたいなものでOKかしら。

「個人事業で1000万円の収入を得るより、
会社にして1000万の報酬を得るほうが2割以上、税金が安くなるのです」(P176)


理由は個人事業者からサラリーマン社長になると、
給与所得者控除で220万差し引けるからだという。
まあ、法人税も発生するのだろうが、そのへんは当方の頭脳では理解できなかった。
芥川賞作家で三島賞選考委員の宮本輝先生も、
テルプランニングとかいうおかしな会社をつくっているしね。
ファンクラブ入会を拒否されたとき、
運営がテルプランニングだったので二度電話して(だれも出ない)、
留守番電話にも二度メッセージを残したが返答はなかった。
もともと税金対策の幽霊会社みたいなものだったのだろう。
税金とか法律とか、知らないことで大損している人がいるのだろう。
知っていることで、おいしい思いをしている人も当然。
日曜日に創価学会壮年部の好漢から「世の中は甘くない」と指導されたが、
それは彼の人生が甘くなかったというだけで、
世の中にはきっと甘くおいしい思いをしている人がけっこういるのだろう。
甘い話が表ざたにならないのは、
当人が嫉妬や批判を恐れてそういう話をしないからとは考えられないか?

板橋区役所に電話して聞いた話だが、
年収200万でなんの申告もしないと(控除を受けないと)住民税が8万9千円らしい。
それに国保と年金で月4万近く持っていかれたら生活できない。
不安定な低所得者のみなさん、確定申告をしましょう。
区の課税課の人や税務署に相談してみましょう。
話を聞くと、ああ、そうなのか、と税金の仕組みがわかります。
この本を読んだのはだいぶまえだが、確定申告を終えたいま、
重要箇所を読み返すとさらに理解が深まった。

「あらゆる領収書は経費で落とせる」(大村大次郎/中公新書ラクレ)

→いま橈骨神経麻痺で左手が動かないので引用がめんどうくさい。
不自由な左手で本を抑えると右手一本指しかタイピングに使えないからだ。
このため、本書で知った重要部分を箇条書きするだけにとどめる。

・会社の目的は利益をより多く上げることではない。
・会社の目的は計画した通りの利益を上げることである。
・なぜなら予想外の利益を上げると税金で持って行かれてしまうが、
税金は費用対効果のまったくない無駄であるから。
・「利益=売上-経費」
・利益から税金を取られるから、利益は売上か経費をどうコントロールするか。
・売上はコントロールできないが、経費は調整できる。
・企業は福利厚生費(経費)を多く使えば会社も社員もうるおう。
・税務調査官の言うことがかならずしも正しいわけではない。
・飲み会も会議費として計上すれば経費で落ちる。
・ランチも会議費で落ちる。
・視察旅行という名目にすればあらゆる旅行が経費で落ちる。
・研修旅行でもいい。
・ポイントは報告書という証拠をつくっておくこと。
・ベンツは「減価償却」後も資産価値があるから(売れるから)いい節税対策商品。
・会社は株主のものだが、自分が株主であれば会社で家を経費で買っても自分のもの。
・キャバクラを経費で落とさないなんてバカじゃないか。
・政治家秘書なんてたいてい元水商売で政治家の愛人だぜ。
・だから、政治家は税金で愛人を囲っているわけだ。
・会社の経費でも愛人を持てる。
・ちょっと秘書みたいなことをさせていたら給料として愛人料を支払える。
・キャバ嬢を愛人にしたかったら、マーケティングの業務委託費として報酬を支払え。
・西村賢太が風俗(デリヘル)代金を経費で落としていなかったら、それは大損。
・作家になれば家賃どころか海外旅行でもなんでも経費で落ちる。
・かならずしも領収書が必要というわけではない。
・「いつ・どこで・いくらで・なにを」買ったかの記録があれば経費で落ちる。
・わからなかったら少なめに申告すればいい。
・納税者が申告の正しさを証明する義務はなく、
税務署員が誤りを証明できた場合にのみ追徴課税されるが、それはとても難しい。
・でも、なるべく領収書を保存しておこうね。
・税務署員はうそをついて多く税金を取ろうとしてくることもなきにしもあらずゆえ要注意。
・著者は元国税調査官でそういうことをしてノルマを稼いでいる同僚を見てきた。

むかしは虚栄心や名誉欲から作家になりたかったが、
本書を読んでいま節税対策、損得勘定のうえで作家になりたくてたまらない。
あっ、夢ができたかも♪

「田園発 港行き自転車(上)(下)」(宮本輝/集英社文庫)

→一流小説家の宮本輝の新刊文庫「田園発 港行き自転車」上下二巻を拝読する。
かつてコカという上司から「土屋さんは知的障害者以下だ」と指摘されたことがあるくらい、
当方の知力が低いためか、登場人物が多すぎて、視点がころころ変わり、
しかし、みながみな創価学会的メンタリティーを持つおなじような人で区別がつきにくく、
ある意味では読者を選ぶ難解な小説とも言えるだろう。
この小説では仕事が決まるときのことが複数書かれているが、
ひとりとして履歴書を書いて応募したものがいない。
全員、コネで仕事を決めているのである。
そういうところからみながみな創価学会員ではないかという疑いをいだいた。
一流の宮本輝は創価学会にどっぷり浸かりすぎているから、
それ以外の世界を知らないし書けないのだろう。

だれがだれだかよくわからなくなる難解な文学作品だが、
こちらの理解できた範囲内でわかりやすくストーリーを紹介しよう。
この文芸大作は、やたら無駄情報で水増しされている。
観光ガイドに書いてあるような、
富山の知識をそのまま書き写しているところがかなりある。
作者は自分の知った専門知識を書き写すことで(自転車やらグルメやら)、
原稿料収入継続および増加をねらったのだろう。
若手作家がこんなことをやったら選考委員の作者はキレるだろうが、
自分がやるぶんにはいいのである。
これは長老作家ならではの特権だから、そこを責めるほど冷たい人間ではない。
おそらくそういう観光情報、自転車知識、グルメ自慢を削除したら、
「田園発 港行き自転車」は1冊または1/3におさまるだろう。

ストーリーは15年まえ、裕福な会社社長が富山の田舎駅で突然死した(心筋梗塞)。
自転車会社の社長は宮崎へ接待ゴルフに行くと言っていたのに、
どうして富山でおっ死(ち)んだのか?
まあ、そんなことは「対岸の火事」で読者にはどうでもいいのだが、
創価学会員である作者の宮本輝には重大事らしい。
謎(なぞ)の答えは、
京都で芸妓をしている愛人と富山で逢っていたから(けっ、ブルジョアめ)。
で、この社長が死んだとき、じつは愛人は身ごもっていた。
そのことは商売女も死んだ男も知らなかった。
おそらく男が死ななかったら女は協議のすえ子どもをおろしていたことだろう。
男が死んだから女は男の子を出産する決意が生まれたのである。
これってひとつの「死」がひとつの「生」を生みだしたってことだから、
すげえ「生命のからくり」「宿命の彩り」「宇宙の法則」を書いているってことじゃねえか?
じつはこれは妙法(日蓮仏法)なんだが、
それを書ける学会員のおれ(宮本輝)ってすごいなあ。
社長令嬢はどうして宮崎に行くと言っていた父が富山で死んだのか知らなかった。
5年後のことである。
社長令嬢は株式収入で楽に食えることが判明し、コネで絵本作家になる。
彼女の描いた絵本を、例の富山の5歳の隠し子が読み作者に手紙を書いた。
作者は手紙の主が自分の義理の弟とは知らず丁寧な返事を書いた。
こういう美談が15年後の現在、みなの知るところになり、
みながみな感動しておいおいむせび泣く。
読者を泣かせるまえに登場人物がいっせいに感動して泣きはじめる。
いっしょに泣く読者と興ざめするものにわかれることだろう。
ふたりの手紙の内容はこうである。

「――ぼくのことをすきですか。
かがわまほせんせい、ぼくのことをすきになってくださいね。――
――わたしは、ゆうきくんをだいすきになりました。――
なんというやりとりだろう。人間の世界には、こんな奇跡に似たことが
あちこちでしょっちゅう起こっているのかもしれない。
人間はそれに気づかないだけなのではないか……」(上巻P291)


たしかこの女性絵本作家の祖父も浮気をして隠し子を生ませており宿命っぽいなあ。
みんながみんなお金持だから、金がわんさかあると2号を持ちたくなるのだろう。
宮本輝は浮気や不倫は悪だという倫理観を持っているらしいが、
わたしはそうは思わない。
自分がされたらいやじゃないかって、かえって寝取られ妄想で興奮するかも。
前提として自分なんかに女性をひとりじめする権利はないという客観的自己認識がある。
それにいまのわたしなんて人さまの奥さまに
ちょっとかわいがってもらうくらいしか希望がないので、浮気や不倫を否定できない。
創価長老作家の宮本輝の魅力は世間をよく知っているところである。
いま20代前半の女性が妻子持ちのIT会社経営者と双方同意で3年不倫して、
しかし別れるとなったときの慰謝料の相場は300万円だとよ。
若い女性っていうのはたくさんご馳走してもらいプレゼントをもらい、
しかも遊びに連れて行ってもらい、
年上からいろいろな床指導を無料で受け床上手にしてもらった相手に、
さらに副収入の100万を1年につき請求できるくらい価値があるんだなあ。
こんなおいしい思いをしたら、
その女性はこころがゆがんでいくのではないかと思うが、
宮本輝の小説世界ではそうなっておらず、
かわいい娘をさんざんおもちゃのようにもてあそばれた父親が、
あたかも世間をよく知った賢い市井の偉人のような教訓を垂れる。

「親としては、[娘に]もっと違う経験でおとなになってほしかったが、
やがて今回の失敗が麻裕[娘]という人間に
思いも寄らぬ豊かさを与えるかもしれないのだ。
失敗や災難や苦労が、そのままで終わってしまうのなら、
人間はなぜ人間として生まれ、
この猥雑で汚濁にまみれた社会で生きていくのかということになる」(下巻P38)


親父さんは友人の知り合いの弁護士に金の取り立てをやらせるのだが、
このときの描写がいまの宮本輝の真骨頂ではないかと思った。
宮本輝ほど世間(=金)のことを熟知した作家はそうそういないのではないか。
なかば脅迫のようなかたちで娘の件で300万円を獲得した家長は――。

「……弁護士に電話をかけた。弁護料を請求してこないので、
康平のほうから弁護士報酬の額と振り込み先を訊こうと思ったのだ。
「領収書は必要ですか?」
と弁護士は訊き、もし必要ないのなら二十万で結構だと小声で言った。
慰謝料の二割は払わなくてはならないのではないかと思っていたので、
「二十万……。それでよろしいんですか?」
と康平は訊いた。
「ええ。その代わり現金でいただきたいんです」
なるほどそういうことか。康平はすぐに理解した」(下巻P40)


宮本輝の文芸大作「田園発 港行き自転車」でいちばん感銘を受けたのはここである。
領収書を発行せず、その金が銀行を経由しなければ所得は税務署にばれない。
このわずかな文章で宮本輝は世間をよく知っていることがわかる。
この弁護士がやったことは、むかしのヤクザがやっていたこととまるでおなじである。
いま幅を利かせているコンプライアンスなんぞという横文字を、
あたかも毛嫌いしているような宮本輝のこういう創価学会精神がわたしは大好きだ。
お互い秘密にしておけば税務署(お国)に持って行かれることはないのである。
宮本輝は人情作家ともされているが、果たして人情とはなにか?
この小説で人情とはどういうことかを具体的にわかりやすく書いた箇所がある。
自転車会社カガワサイクルの社長が富山で突然死したあと妻が会長になった。
女性絵本作家にとっては母に当たる。

「母がカガワサイクルの会長に就任して約十五年間でやったことはひとつだけだ。
それはいまもつづいている。
母は会長になると、すぐに日本中の自転車販売店の店主に直接逢って
挨拶すると決め、それを実行に移した。
日本中の自転車屋といっても、カガワサイクルの製品を扱ってくれる店だけだが、
それでもかなりの数になる。
母はまずもっとも売り上げの少なかった四国から始めた。
四国を担当する営業部員に、一軒ずつの自転車屋の家族構成を調べさせた。
店主の年齢、配偶者の有無。
母はヨーロッパの高価なブランドのショールをデパートの外商部に発注し、
それを車に積んで各自転車屋を訪ね、店主や店長に挨拶してから、
これを奥様にとショールを渡して歩いた。
妻のいない人にはお母様にといった具合にだ。
それはエルメスやセリーヌなどの高級品だったから、経費もかかる。
一軒一軒を訪ねていくのだから日数もかかる。
けれども、カガワサイクルの会長、前社長の夫人が、
東京からこんないなかの自転車屋まで挨拶に来てくれて、
妻にこんな高価なおみやげも持参してくれた、という驚きは、
それまで店の奥に置いてあったカガワサイクルの自転車を
店先の目につく場所に移してやろうという心情に変わる。
そうしない自転車屋も多かったが、数年にいちど会長が訪ねて来て、
奥様かお母様にとショールや皮手袋などを置いていかれると、
やはり人情というものが生まれてくる」(上巻P170)


「人情=もの」

人の気持は「もの」でしかあらわせないという世間知を宮本輝は見抜いている。
人の気持は「言葉」で示してもうさんくさく(あとに残らず)、
気持を「金」で見せてしまうとどこか不潔感があるので、
気持は「もの」で表現するのがいちばん適切なのである。
これはいまの若い作家には書けない真理のひとつであろう。
「田園発 港行き自転車」では富山の若い女性が、
東京の元上司(妻子持ち男性)に2万円ぶんの魚の干物を送っている。
上司はお返しに元部下のあか抜けない田舎娘に2万のピアスを送る。
これこそ人情だが、正直わたしには人情が難しすぎる。
人にプレゼントするのが苦手である。
まず相手がなにをほしがっているのかわからない。
魚の干物なんて好き嫌いがわかれるでしょう? 
嫌いな人はいやがらせに感じるのではないか。
ピアスの穴も開けていない女性にピアスをプレゼントするのもどうだか?
「おまえはピアスでもつけて少しはおしゃれをしろ!」
というお節介めいたものを相手が感じる危険性は想像しないのだろうか?
そのうえ「もの」を上げると相手の負担になり、
お返しをしなければならないという気持にさせるだろう。
バレンタインのチョコなんてまさにそうで、
チョコが大好きな男なんてあまりいないと思う。
しかし、バレンタインのチョコはホワイトデーに倍返し、
3倍返しを女性から期待されているとも一部メディアでは報じている。
いまのわたしにとったらバレンタインのチョコレートは迷惑行為に近い。
(それがばれているのかここ10年くらいチョコゼロで嬉しい)
しかし、バレンタインのチョコのようなかたちでしか人の気持は表現できないのである。

このまえの日曜日、創価学会のお偉方の面談を受けたが、
宮本輝のこの小説を読んでいたため、
しっかりコージーコーナーのお菓子を手土産として持って行った。
わたしがいちばん影響を受けた小説家は宮本輝だろう。
しかし、あちらサイドからは嫌われているようでファンクラブ参加を拒絶されている。
こんど集英社気付で宮本輝先生宛に、
コージーコーナーのお菓子を2万円分くらい送ってみようかと思う。

「明日は来るのか?」は中島義道博士によると哲学的命題でもあるらしいが(?)、
明日とか来週とか来年という感覚が人よりも異常なほど鈍いような気がする。
これはもう目のまえで肉親から
いきなり飛び降り自殺されたものしかわからない感覚かもしれない。
昨日と今日で世界がガラリと変わってしまう。
わたしはあの日から自分が来年生きているという確証のようなものを失っている。
さくらを見るたびに今年が見納めかなあ、と思う。
これはもう本当に経験したものしかわからない世界なのだろう。
見方を変えれば、将来の不安から比較的に自由だから楽とも言えよう。
偉大なる母から教わったのは、いざとなったら死ねばいい、である。
来週の土曜日はおそらくミャンマーにいるのだろうが、いま実感のようなものはない。
この左手(不自由)で行って大丈夫なのかと思うが、行ってみないとわからない。
というか、ミャンマーはもう行ってしまったとも言える。
ネットでミャンマーのことを調べたら旅行ブログが山ほど出てきた。
ミャンマーのあらゆる名所をもう写真で見てしまっているのだ。
ミャンマーでは知らないところに行きたいが、
それはいまは知らないのだからどこかはわからない。
行けるかどうかは「運・ツキ・偶然」の世界だろう。
時間的余裕はたっぷりあるから、そのぶん脇道や寄り道には有利だろう。
ミャンマーから帰ってきてどうするかもまったくわからない。
最後の欲望が「ミャンマーへ行きたい」だったような気もする。
あるいはミャンマーで新たな欲望(希望)が生まれるかもしれない。
なにもかもわからない。
明日が来るのかも、なにが「正しい」のかも、なにがよくて悪いのかも、わからない。
明日死んでも「まあ、いっか」と思っているのは精神医学的にはどうなのだろう?
本日、板橋税務署にて人生二度目の確定申告を終える。
板橋区役所課税課の人に聞いたけれど、確定申告は義務ではないらしい(わからん)。
ただし、やらないと損をすることがあるよってことのような気がする(違うかも)。
わたしはバカだから確定申告もひとりではできなく、お役人さんにお手伝いいただいたが、
そのときの手順を見ながらお金のにおいに敏感な当方が思ったこと――。
去年、異常なほど(わたしにとっては)税金が高かったのは、
去年確定申告をやらなかったからではないかと。
当方の勘だと数万から10万レベルで損をしたような気がする。
いまからでもやれるのは知っているが、領収書も書類もなにも残っていない。
確定申告の目的って(低所得者の場合)還付金よりも住民税対策じゃないかなあ。
間違っているかもしれないし、こちらの無知蒙昧を公開しているだけかもしれない。
ぶっちゃけ、やってみて思ったのは、確定申告はめんどうくさすぎる。
わたしは書類の整理とかちまちました計算は大嫌いである。
このくらいの給料(還付金)のために、
橈骨神経麻痺(左手不自由)のいまこれをやれと言われても割に合わない。
そんな不遜なことを考えたことがなかったとは言えないだろう。
やってみてわかったこともあるから意味がなかったとまでは言わない。
去年の医療費、15万円だわさ。
3割負担でこれだから、7割は国負担で、国民皆保険の日本はやっぱりいい国だよ。
あと、どことは言わないが派遣会社の源泉徴収票はルーズ。
わたしはめんどうくさいからいちいち給料入金を通帳で確かめていないが、
そっちは大丈夫なのかしら。
まあ、実際よりも(おそらく)源泉徴収票の収入が少ないから、税的にはいいのだろう。

1時間半くらい立ちっぱなしで待たされたが、立っているだけでクラクラした。
これって逆流性食道炎のせいだろうか。
ある人はストレスが逆流性食道炎を起こしていると言っていたけれど、
こんな状態でミャンマーに行けるのか不安になる。
しかし、航空券もホテルも取っているから、これを無駄にするわけにはいかない。
確定申告手続きをしているとき、わたしの左手の使えなさを見たお役人さんが
「障害者手帳は?」とお聞きくださったが、橈骨神経麻痺で障害者認定されるのだろうか?
ネットで調べたところヒットしないが、それは申請した人がいないということだろう。
確定申告を終え(これでぼ、ぼ、ぼくも小国民♪)、アポなしで父の顔を見にいく。
橈骨神経麻痺(左手)だけでこれほど辛いのだから、
右半身麻痺で生きているあんたはすげえよと言うためである。
右手が使えないなら字が書けないだろう? それでも生きているほうがいいのか?
その生命力はどっから来るのだと息子のわたしは信じられない。
父は昼寝をするまえだったようで、お邪魔をした感じがしてすぐに退散する。
父「仕事はどうするんだ?」
わたし「こんなんじゃ(左手)働けないでしょう」
父「こっちはどうなんだ(左手の小指を立てる)」
わたし「おれなんか相手してくれる人はいないよ」

赤羽に行く。豆腐の「茂蔵」でお買い物。むかしからここはひいきにしている。
グルメなぼくちんの本音だが(割引まえの)定価で買っても十分に安いしおいしい。
「茂蔵」はハイソな場所には出店していないから、これは下層民のうまみだろう。
「茂蔵」は変なチャレンジ精神があるのか、新しい味を体感できることが多い。
それから大ファンのコージーコーナーへ。
1月25日にコージーコーナー川口工場に行かなかったら、
おそらく橈骨神経麻痺にはなっていなかっただろう。
寝違えたのが原因でも川口に行かなかったら、それほど深酒しなかったのだから。
「さくらマドレーヌ」を買う。これは春限定の商品では?
妙な人工くさい味がして、食べたことねえよって感じがいいのである。
ちなみに当方が購入した「さくらマドレーヌ」はコージーメイト基準ではNGか。
マドレーヌが曲がって袋に入っているのである。
わたしがコージーで働いていたころ指摘され、
お客はそんなことを気にしないで買うだろうと思った。
そのことを証明するためにあえてそれを買い、写真で公開する。
これをダメというくらい厳しい基準がコージーの非正規古株にはある。
春の定番商品「プランタニエ」があってうるっとくる。
この箱をつくるのがめんどうくさいんだよなあ。
菓子を入れるのも変なルールがあって、みんなてんてこ舞いしたものである。
いまではいい思い出。プランタニエはとても懐かしい。
いまちょっと円高っぽくなっているんでしょう?
ミャンマーは日本円は両替しにくく、ATMも少なく使用料が高く、
USドルを現ナマで持って行くのがいちばんだという。
けっこうなドルを買っていくから円高よ、もっと進め。
日本はいい国だ。ニッポン、がんばれ! ニッポン、ニッポン、ニッポン!

※おいしい「茂蔵」
http://www.shinozakiya.com/

↓根性が曲がった(笑)、しかし奇妙美味な「さくらマドレーヌ」↓
DSC_0031.jpg
医療費控除ってそのぶんを所得から消せるのかなあ?
意味もわからないし書き方もわからないから明日板橋税務署に電話するけれど。
経験から板橋区の役所の人は親切な人が多く、丁寧に教えてくれることだろう。
はああ、税金のことは本当によくわからない。

さてさて、お医者さんにはかなりお世話になっている。
勤務医なんてたいへんな激務で、本来は(欧米なら)あんな待遇じゃやれないんでしょう?
そんなお医者さまに不満を述べるなどとんでもないことだとはわかっている。
でも、お医者さまはやさしいから(整形外科以外)お願いくらいしてもいいかと。

全体を診てくれる医師がいない。
数年まえの顔面神経麻痺では、脳神経外科、眼科、耳鼻科、リハビリ科を受診。
それぞれの科で言うことが異なり、医学って学問じゃないんだなあと。
状態が悪いんだから、ひとりに診てほしいが西洋医学ではそれができない。
このため、わたしは最強の医師は臨床経験豊富な内科医でかつ漢方医だと思う。
漢方は基本的に人間を全体として診るでしょう?
そのうえ西洋医学の内科の知識もあったら、そちらの診断や処方もできる。

今回の橈骨神経麻痺でも近所の循環器科医師からは整形外科へ行けと。
個人的な好き嫌いだが、整形外科医は苦手である。
やたらレントゲンを撮り(高い!)、根性論が好きで痛み止めを出し惜しみ、
素振り百回、リハビリ千回のような鬼コーチ的な人が経験上多い気がする。
整形外科医って必要なの? とまで書いたら失礼なのはわかっている。

橈骨神経麻痺にかかる確率ってどのくらいなんだろう?
わたしはまずいちばん信頼している漢方医(神経内科)に診てもらった。
橈骨神経麻痺は整形外科領域でも神経内科領域でもある。
そのときは必死だったが、いま思い返してクスッと思うのは、
自分は橈骨神経麻痺なんてほとんど診たことないよ、と漢方医があせったこと。

わたしは「レントゲンいりません。高いから。どうせメチコバールでしょう」。
生意気な患者だよなあ。
漢方医はとっさにおなじ病院の神経内科に紹介してくださった。
もう午後の診療は終わっていて、緊急処置だったらしく本当に感謝している。
もう患者さんのいない神経内科ではわざわざお医者さんが来てくださり、
専門医らしい触診をしてくれて「時間が経てば治る」と言われてとても安心した。
処方薬は結局メチコバールだったわけだが。

無理を言っているのはわかるが全体を診てくれる医者はいないものか。
いまは内科医で漢方医がいちばんそれに近いと思っている。
いきなり話を飛ばすが、学問領域でも全体を見ることからは日に日に離れている。
歴史学なんかまったくそうで、専門化が激しく、全体は口にできないわけでしょう。
哲学もそうだし文学も専門にわかれている。
そのようななかで、文系も理系もいっしょくたにして全体を見る、
いわば人生学のようなものを立ち上げようとしたのが
心理療法家の河合隼雄だったと思う。
比較文学の小谷野敦さんも全体を見ようとしているが、河合隼雄はお嫌いなようだ。
ゴッホの「星月夜」をくれると言われてもいらないと答えるくらいほしいものがない。
しかし、いまほしいものができてそれは片腕である。
橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)がまったくよくなっていないのだ。
リハビリなんて死んでもやらないね、とうそぶいていたが、あっさり転向。
ネットの見よう見まねでリハビリをしているくらい左手が動かない。
貧困女子専門ライターのS氏が41歳(いまのわたし!)で脳梗塞になり
半身麻痺になったそうだが、さぞかしお辛いことだろう。
当方は半身麻痺ではなく左手だけの麻痺だが、これだけでも十分にしんどい。
なにごとにも時間がかかり(着替え、シャワー、食器洗い、洗濯)、そのぶん疲れる。
いちばんきついのは買い物のレジで財布をポケットから出し支払うのが遅いこと。
左手で左のポケットから財布を出せないから右手で出すのだが、その異常な面倒くささ。
あわてると股間をいじくっているようにも見えそうで、
こいつは公衆の面前でなにをしているんだ? と思われかねない。
人の辛さというのは、自分も経験してみないとわからないのだろう。
父はたしか右のほうの半身麻痺だったが、
前向きに生きる希望を失っていないのだから強い。
息子なんて左手が動かないだけで、なにかギブアップしそうな感さえある。
父を見直しました。

これは逆流性食道炎のせいなのか、弱みを見せるようでいやだが体調が悪い。
今日なんか立っているだけでフラフラしてしまい、昼は寝込んでいた。
やたら足がつるけれども、これはなんの兆候なのだろう。
専門の神経内科医が橈骨神経麻痺と診断したんだから脳関係のあれではなかろう。
なんかミャンマーで死んでしまうのではないかという予感もあり、
いつもは楽天カードについている海外旅行保険だけなのだが、
今回はエアアジア保険(損保ジャパン)にも入っておいた。
よくわからんがエアアジア(LCC)はネットでチェックインするらしく、
そのときに保険の案内が出てきて思わずクレカ決済(死んだら1千万よ♪)。
そのときJCB(楽天カード)が使えなくて、だいぶ手間取った。
わたしは長年クレカを持てなかったが、楽天さんはこころよく仲間に加えてくれた。
ほかにも楽天にはいろいろお世話になっており、
どこにあるのかは知らないが足を向けて眠れないといまでも思っている。
クレカがないとネットで買い物ができないでしょう。
正確にはデビットカードが使えて、わたしもお世話になっていたが、
いちいち入金するのが不便である。
ネットとクレカがあるとないとでは、片腕があるかないかくらいの差が出るのではないか。

いま紫綬褒章作家の宮本輝氏の新刊文庫
「田園なんたら」を病床(怪我床?)で読んでいる。
おおっと、宮本輝さんが成長していた。
むかしはメールも送れない登場人物しか書けなかったが、
いまは添付ファイルまで作品に出している。
わたしは添付ファイルは来たのを開けるくらいはできるけれど、
PDF化はできないから、へたをすると老作家に先を越されたのだろうか?
2009年設定の宮本輝の小説にスマホはまだ登場していない。
当方はもう完全にスマホは使いこなせないとあきらめている(だからガラホ)。
宮本輝にスマホを使われたら当方のパーフェクトな無条件降伏、大敗北であろう。
ラインとかツイッターとかインスタグラムとかもさっぱりわからない。
このまえNHKの集金人にアプリを見せろと詰問されたがアプリの意味もわからない。
そういうのを手取り足取り教えてくれる片腕のような存在がほしい。
片腕はどこにも売っていない。
「一遍上人と遊行の寺」(富永航平/朱鷺書房)

→くだらない低質のくそ旅ライターが書いた一遍への愛情をかけらも感じない本。
しかし、著者はこの本を上梓したことで、
旅費をぜんぶ経費で落とせてほくほくだったであろう。

言葉の意味はあんがい通じないということを理解していない人はまだいると思う。
わたしが携帯電話番号を公開したのは、文字の使えなさにあきれたからといってもよい。
言葉は本当に発言者の意図するところの意味を受け手に伝えられない。
「ありがとう」だって、いろいろあるでしょう?
言葉は「ありがとう」だけど、声色を聞けば「ありがた迷惑」ということもあろう。

文字は発言者の意味の3割も伝えないのかもしれない。
創価学会の池田名誉会長の本はどれも非常につまらないが、
声としてそれを聞けば、さらに全存在としてスピーチを聞けば意味がぜんぜん変わる。
南無阿弥陀仏だって一遍の声を聞いた瞬間にガクガクしたものもいよう。
しかし、映像だけではなく声すらむかしの記録は残っていない。
いくら動画とてライブの対面にかなうものはないだろう。

今回創価学会婦人部のお偉方からお言葉でご指導を受けたが、
意味がよくわからないのである。
電話したくても、あっちは番号を公開していない。
神戸のヤクザはコメントの文章は悪かったが、声はやさしそうだった。
わたしが電話や対面にこだわるのはこのためである。
文字面だけ見てなにがわかるか? しかし、それが偏差値学問である。

文字にそれほど決定的な意味はないのかもしれない。
池田先生の言葉は文字としては退屈だけれど、
あれだけ大勢の人をとりこにしたわけでしょう。
声の質とかパフォーマンスがすごくよかったんじゃないかなあ。
おそらく鎌倉時代の踊り念仏開祖・一遍上人もそうであったのではないか。
以下はいろいろな解釈が学者によってされている一遍の歌である。

「ひとりただ ほとけの御名や たどるらん
をのをのかえる 法(のり)の場の人」


いくら連帯してもスクラムを組んでも結局はひとりなんだよという。
いっときの昂揚は楽しいが、おのおのそれぞれの仏法に帰るしかない。
死ぬときはいつもひとりである。
この一遍の歌をいまのわたしが携帯でどもりどもり言っちゃうとうさんくさいから、
これは文字のほうがいいと当方で判断した。
何度も言うが、書き言葉は通じないぞ。
会話はせめて情のようなものが入るから意味が伝わりやすい。
創価学会の池田大作名誉会長や捨聖の一遍はそういうのがうまい人だったと思う。

「遊行の捨聖 一遍」(今井雅晴:編/吉川弘文館)

→現在の一遍研究の権威者が一堂に寄稿した書籍である。
「おまえも偉いことを認めるから、おれが偉いこともしっかり認めろよ」という本。
掲載の順番で格を示すとか、先輩後輩関係をしっかりさせ、
新入りの紹介をするなど、それを言ったらおしまいだが、
読者に向けて書かれた本ではないような気がする(ごめんなさいであります)。
40を過ぎてうすうすわかったけれど、学問の世界も仏門もそういうシステムなんだよねえ。
新しい主張をしてもよほど強いバックがいないとまったく相手にされない。
長老(中村元)がいらして彼は神聖化され、
子分たちが先輩後輩のいじましい関係を生きる。
長生きしたら少しずつミリ単位でポジションが上がっていくシステムになっている。
また創価学会の婦人部さんからメールで叱られたけれど、
学会の座談会に参加してみたいってそんなにおかしいことなのかなあ。
壮年部の面談を受けろって言われて、ハイ構いませんと答えたのにNG。
面談を受けるとか値踏みをされるってことなんだからそうとう屈辱的なことなんだよ。
座談会くらい、ほいさって誘ってくれないもんかねえ。
浮間舟渡にも学会員さんは生息しているんでしょう(北赤羽に会館がある)?
気楽に誘ってくださればいいのに、
いまの創価学会は(よく知らないけれど)ライオンズクラブみたいなの?
一見さんお断りの紹介なしでは行けない高級料亭なんですか創価学会は?
なにが庶民の団体だよ。
「信心がまだ足りない」とか言われたって、
そもそも座談会や勉強会に行かなきゃ、
雰囲気や教えもわからないじゃないですか?

コメント欄で言われた。
「いまのおまえは無職で貧乏な中年男。役立たずだから創価学会はいらない。
もし入りたければ土下座でもしろ」って、なぜか神戸の山口組のヤクザさんに。
誤解しているのは、まず見なきゃならないじゃないですか?
入るとか入らないは座談会を何回か経験したあとでしょう?
昭和初期のあれな時代じゃないんだから、いきなり入れ、よしOKはダメでしょう?
「来るもの拒まず去るもの追わず」がいい宗教だと思うなあ。
一遍は入信者を拒んだことがないわけではないが(あじさかの入道)、
基本的には「来るもの拒まず去るもの追わず」だったような気がする。
一遍の時宗に参加するようなものは、ほかでは相手にされないものばかりだったから。
あまりにも美少女の度が過ぎて、
13歳のころから村の若い衆にまわされ知能に障害を持ってしまったもの。
指が五本以上あるものや(20本!)、ふたなり(両性具有者/半陰陽)。
そのふたなりがとびきり美しく、
いまのAKBなんか比較にならぬほどロックでフリーで淫猥な踊り念仏を舞うのである。
破れだらけの貧相な法衣からは、見えてはならぬものもちらちら見えたことだろう。
わたしは一遍時宗集団は見世物小屋の巡礼のようなものだったと思う。
親から捨てられた不具や片輪は一遍の南無阿弥陀仏に救われたのである。
人間、明日死んでしまうかもしれない。
死んだら上質覚醒剤をはるかにオーバーするハッピー極楽世界に往ける。
ならば、なぜ全身で喜びをあらわさない? いいから、踊れ! もっと踊れ!
もっと過激に、もっと自由に踊れるだろう! それが一遍の南無阿弥陀仏だ。

ならいまも細々と残っている時宗へ行けと言われそうだが、
あそこはもう完全な伝統仏教になり、言葉は悪いが死んでしまっているのである。
去年、一遍ゆかりの寺に踊り念仏を見物しに行ったが、
住職はまろやかな常識人で妻子もおられ、それを壊すってわけにはいかない。
どうせ一遍業界(長老先輩後輩)からは、わが解釈は誤りだとされるだろうし。
いま長老的になっていない本当の宗教家などいるのだろうか?
日本戦後史でいちばんおもしろいのは創価学会の大躍進なのである。
現世に絶望したひとりの庶民の座談会に参加したい――。
こんなわずかな願いでさえ上のハンコをいくつも必要として、結果否となるのか?
そこまで創価学会は官僚主義になったのか?
わたしは仏を信じている。
一遍が熊野詣でをしたとき律宗の坊主が念仏札を受け取ってくれなかったことに悩む。
律宗の僧侶は仏は信じるが、阿弥陀仏はどうも……と言ったようだ。
その晩、一遍は熊野神社の神から夢告(託宣)を受ける。
おまえの南無阿弥陀仏がもろびとを救うと思うなよ。みんな救われている。
このとき一遍はあらゆる神や仏が同一の絶対存在であることを身をもって知ったのだろう。

わたしは一遍とおなじで神も仏も信じている。大きなものを信じている。
インドに行けばヒンドュー教の神に礼拝するだろうし、
ミャンマーに行けば小乗仏教の仏さまに深くこうべを垂れるだろう。
キリスト教の教会に入ればイエスに祈るだろうし、モスクに入ればアッラーに祈る。
今年はまだ行っていないが初詣に行ったら日本の神々に祈る。
海外で宗教はなにかと問われたら、胸を張って仏教徒と答えるだろう。
学会員の庶民とか、本当は本部職員が大嫌いなんでしょう?
こっそり座談会に参加させてくれるところがあったらご連絡ください。
男子部でも壮年部でも。東京近辺で。
いまの婦人部の方はブログ「本の山」が大嫌いらしいので。
いつから創価学会の座談会は高級クラブのようになってしまったのだろう。
池田先生が泣いているぞ!

yondance1976@gmail.com
080-5188-7357(土屋顕史/自称一遍研究家/日蓮大聖人さまに偏見なし)
らりピーことのりピー(酒井法子)のセリフみたいだがわくわくしようヨ♪
ある人からの年賀状に「今年もわくさくさせてください」と書いてあった。
昨夜ミャンマー大使館にネットでビザを申請したら今日にはもう来ていた。
おれちょっとやばいからビザおりないんじゃないかと思ったら即日発行50ドル。
あとはこれをだれの家で印刷させてもらうかだが(航空券、ホテル予約票ともに)。
7万円でミャンマー往復航空券を取った。
ヤンゴンのホテルも一泊1700円で3日分予約。今日50ドルのビザも到着。
これはもうミャンマーに行くしかないっしょ。
むかしビルマに行きたいとブログに書いたとき、おまえは口だけムリムリムリ。
おまえは口だけ実行しない、とコメント欄で書かれて、
たしかにこの年齢と経済状況ではミャンマーに行けないと思った。
若い人はわからないだろうが、そのくらいオーバー40は身体が弱っている。
でもまあ、ここまで来たらお金がもったいないから行くっしょ?
ここにいたるまでものすごくめんどうくさかったけれど。
とりあえずヤンゴンのホテル3日は取った。
あとも取ろうと思えば日本で事前に取れるのである。
でも、それではわくわくしないじゃありませんか? こころにぼうけんがない。
ヤンゴン3日までは安全ホテルで、あとは風まかせにビルマの大地を歩いてみよう。
大げさだが、わくわくするとはそういうことだ。
わたしは見知らぬ人と逢いたいし話したいし影響を受けたい――わくわくしたい。
いまちょっとした案件がこじれているが、わたしの原点はわくわくしたいである。
知らない人に逢ってその価値観に刺激されてわくわくしたい。
こどもなんだなあ。なにも知らないんだなあ。なにかを知りたいんだなあ。
釈尊、釈迦のようなことを言うが煩悩(ぼんのう/欲望)がなくなって困っている。
ふつうお坊さんは煩悩をなくそうとして修業するわけでしょう? 座禅とかして。
でも、わたしの場合、加齢のためか一遍研究のためか気づくと煩悩が枯れていた。
涅槃(ねはん)に近づいたんだからいいじゃんとも言えるが、
煩悩がないと人生がつまらん。
街でどんな美女を見てもネットでタレント美女を見てもこころ動かない。
出世欲も消えていて、芥川賞とかそういうのにもさっぱり関心がなくなった。
まあ、いんちきな「悟り」みたいなものに近づいたんだからいいじゃないかとも言えるが、
こうなると人生がつまらないのである。
むかしはそれなりにワイドショー的関心はあったが、いまはまったく消失している。
犬猿の仲のシナリオ・センターが繁盛していると聞いても、ふーん、だから?
ビルマに行って瞑想修行をすることも考えたが、あれは煩悩断絶の修業でしょう?
わたしは人生がつまらないから、
独自仏教研究(笑)で消えた煩悩を復活させたいのである。
そういう思いもあって、欲望の絢爛豪華な結晶ともいうべき創価学会に救いはないかと。
あるつてをたどって創価学会の座談会に参加させてください、
とお願いしているが返信はない。
いい歳をして若いアイドルに夢中になるなんて格好悪いけれど、
なにかに夢中になれるということはとてもすばらしいことだと思う。
つまらんねえ。なんにもねえったらない。味気ねえ。
あんまりにも空しいから、
うそでもいいから一瞬でいいから色めきだちたいなんて思ってしまう。