いま左手が動かない。
昨日医師ふたりも橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)と診断。
どちらかといえばお詳しそうな先生によると、かなり重度の橈骨神経麻痺らしい。
いつかは治るだろうと希望の言葉をいただけたので嬉しい。まあ治る、いつか。
緊急で科を違えての連携をしてくださったあの漢方医および病院への感謝は尽きない。
処方薬はやっぱりいつものメチコバールだったが深い安心を得られた。

先生はいいことを教えるとされている。
わたしは悪いことを教えてくれる先生がいたらいいなと。
酒はそこそこやるが、タバコもギャンブルも女遊びも、
悪いこといっさいをわたしは恥ずかしながら師匠がいなかったためか知らない。
節税方法もなにもかも大学出にもかかわらず、実際世間知はゼロである。
庶民はすごいよなあ。
わたしも庶民だが、節税対策はほとんど知らないし、
いろいろ細かな裏の知識に関しては幼稚園児レベルである。

悪い先生ってかっこいいよなあ。
公立中学のころの社会の先生は教え子何人かをフーゾクに連れて行ったらしい。
社会を教えるってそういうことだと思う。
あの先生は人気があったし、わたしも好きだったから、特定とかされたくない。
唐突だが、創価学会の戸田先生や池田先生は(いいことも教えたが)、
悪いこともちょろっとそれとなく教える名人だったのではないか?
戸田さんなんか池田名誉会長に借金の取り立てをさせたわけでしょう?
きっと悪いことをいっぱい教えたことだろう。

先生がほしい。まあ弟子もいたら悪くない。師弟不二は正義でR♪
みんな寒いからって家に引きこもっていちゃダメだぜ。
おれは朝日新聞もNHKニュースも見ていないが(ネットニュースさえ未見)、
ロケットニュース24という
どうでもいいことばかり書いてあるニュースサイトはほぼ毎日読んでいる。
そのロケットニュース24が今月27日にファン参加の新年会をやるというではないか。
会場は高円寺パンディットで会費はワンドリンク付きで千円ぽっきり。
そのうえ福袋公開で有名なロケニューがひとりひとりにジャンクな福袋をくれるという。
これは親友の結婚式をキャンセルしても行く価値があるイベントだ。
参加希望をネットでしたのだが、受付メールは来るが、確約メールは来ない。
もしかしておれネット上でけっこう有名で、
要注意人物としてブロックされているのではないかと誇大妄想を抱くが、
2日まえだかに電話したらしっかり予約は取れているとのこと。

高円寺なんか行ったことがないんじゃないか。
到着した瞬間、いけすかねえと思い、わが町・浮間舟渡のほうが百倍いいと思ったね。
着いたのはギリギリ。左手が動かないためシャワーにあんな時間がかかるとは。
会場は満員でわたしは52番目。
そのあとにも来ていたから60人以上集まったのではないか。
おれなんかオフ会開催を宣言してもひとりも集まらないのにさすがロケニューだぜ。
ギリギリに行ったのだからべつにいいのだが、けっ、立ち見かよと思う。
おれのイメージではな、あくまでもおれのイメージの話だが、
ロケニューの新年会なら男性陣全員がほぼ裸のふんどし姿で現われ、
「あけましておまんこ」とか叫びながら、樽の酒を鏡開きして、
あちこちからコソコソの理由でもらった食い物を大解放するかと思ったら、
ものすげえまじめにロケニューの記者たちがパネリストよろしく座っている。
みなさん業界人っぽくパリッとしていて、こちらの想像していたものとまるで違う。
おれは佐藤記者のバカっぷりがとにかく好きなんだが、オーラがねえな。
これは社会人としてはまともだということだから批判にはならないだろう。
佐藤記者はどこからどう見ても気が小さそうなふつうのいい人でござった。

なんか知んないけれど、いきなり福袋を配り始める。
おれは52番目だからそうとうあとっしょ?
人が福袋をもらうのを見ておもしろいかといったら、さあ、そのへんはご想像にまかせる。
もっとカオスかなあ、と期待していたのである。
ロケットニュース24ってどういう仕組みで金を稼いでいるのかわからないじゃん。
タテマエはネット広告なんだろうけれど、
大会社の新商品を発売まえにいきなり激賞したり、えええ?
裏金とかどうなっているという「ぶっちゃけ話」が聞きたかった。
ロケニューで取り上げられた飲食店は収益が上がるだろう?
それがどうやってバックマージンで返ってくるのかとか、
真相は言えないだろうけれど、ぼかすくらいはしてもらえるかと。
質疑応答を許すという雰囲気ではなかったね。
おれもヤジのプロだから(プロレス後楽園ホール仕込み)、
やる気満々だったがモヒカンの怖そうなあんちゃんが目を光らせていて隙はなかった。
客層はアラサーくらいの業界人っぽい美男美女風味が多かったなあ。
内輪受けする話が多かったようだが、部外者のこちらは理解できなかった。

えんえんと40分くらい福袋をひとりひとりに渡していたのだったか。
おれの番なんかになるともう残りが少ないのである。
わが福袋はいまいちばん見どころがあると期待している、
いい意味でバカをできるライター佐藤記者に選んでもらう。、
福袋の内容は最後に書くから、てめえらしまいまでかならず読めよな。
福袋配布のあとは10分休憩で、
そのあとなにをするかはまえもって決めていなかったらしい。
ロケニューらしくていいのだが、うがった見方をすると本当は質疑応答をする予定で、
最後の最後で逃げたのではないか?
なんでもロケニューの記者が、
それぞれお気に入りの自著記事を紹介することになったらしい。
ライターならみんな知っていると思うが(ロケニュー記者もご存じだったでしょう)、
いちばんつまらないのは人の自慢話、手柄話で、
さいこうにおもしろいのは表には出せない裏話なのだが、どうして?
過疎ブログ「本の山」だって、ここでは書けない裏話がおもしろいのだと思う。
あの企業からこういうクレームが来て、
お返しにこういう宣伝をロケニューがしたとかさ。

金髪のおにいちゃん記者がロケニューで彼女募集をしたら、
10人以上から連絡が来たという話がいちばん印象に残った。
おれなんか彼女募集をブログでしてもひとりも来ないからね。
たしかに金髪記者は好人物っぽく、有名なロケニューの記者である。
おれよりは男として5倍は上だが10倍ではないだろう。
そんな彼でもロケニューに入り業界人になれば女が寄ってくるのか。
おれも業界に入れば、少しくらいなら女性さまにお相手していただけるのかしら。
サンジュンさんが近々ライターを募集するかもとおっしゃっていたが、
おれはいま橈骨神経麻痺で左手が不自由でタイピングが非常に遅いからなあ。
3ヶ月後くらいなら治っているかもしれず、
そのとき募集があったらダメもとで応募するだろう。

え? おまえのレポートなんてどうでもいいから福袋の内容を書けって?
わかりましたよ。ワンドリンクのビールを500円と計算したら、
以下は約500円のロケットニュース24の福袋。

DSC_0027.jpg

なんかゴミがいっぱい入っているなあ、といかにもロケニューらしくて嬉しくなった。
このカラフルなジャンクっぽさってええよねえ。
ひとつひとつこまごまと検証していきたい。「本の山」は(自称)学術的ブログでもあるので(笑)。
いちばん大きいメインのこれはなんだろう?

DSC_0028.jpg

これはオーム電機の小型扇風機フラワーファンだな(色はピンク)。
いちおう千円らしい定価は(ただし生産停止でアマゾンでの評価は☆ひとつ。理由はうるさい!)。
暑がりのおれにはいいのか?
なんかピンクの手帳がついているけれど、これはいったい?
ビニールを開いて見てみてもよくわからない。
筆記体の英語が読みにくく、
死んだ脳神経をよみがえらせ解読すると彼女たちはディズニープリンセスの6人らしい。
ビルマに行くことがあったら現地で使おう。
カードみたいのはプレゼントに。しかし、このメモ帳は重いのではないか。
このミニ扇風機で元を取ったと思うのが生きる知恵というもの。
残りの福袋(ゴミ)を見ていきたい。

DSC_0029.jpg

またオーム電機の回転式ナイトライト。746円。転ぶなよということか?
おつぎの色はまたピンクで、iPhone用Puchi AC充電器。
あれ? こんなもんがアマゾンでは1300円もするのか?
いまでさえガラホでアイフォンの意味がわからない。ほしい人がいたらあげる。
つぎのもまたわかんねえ。なんじゃこりゃあ。
高品質データーライン(美達商事株式会社)。5メートルあるらしい。金額不明。
これで首でも吊って死ねとでも言うのだろうか(むろん被害妄想)。
カプセルに入ったピンクのブタの覆面が。
いつか女にこれをかぶせて、このメスブタがと言うのを人生の目標にしろってこと?
こどものおもちゃも入っていた。
仮面ライダーをレベルアップさせるものらしく、本体がない当方にはゴミ。
いいよいいよ。福袋に行列なんてするのはきちがいで福袋は本来ゴミを入れるところ。
「プリバラ ジュエルパック なんたら編」――。
3歳未満のお子様は食べちゃう危険があるから与えちゃダメって裏に書いてある。
これだけは意味不明で開けてみたら青いハートのペンダントがふたつ入っていた。
あとこれはヘタをすると喧嘩売ってんのかというものが福袋に。
「定礎」って書かれた縦1センチ横2センチのプラスチックのプレートがいっぱい。
なんにも使えないのがロケニュー的かつ「本の山」的なところがあるなあ。
いくらなんでもこれは捨てとけよ編集部(笑)。
最後はダイソーで売っているテニスボール2個セット。運動せにゃあかんなあ。

すばらしい福袋をくださったロケットニュース24には感謝している。
朝日新聞もNHKも見ていないおれさまが唯一見ている最高なロケットニュース24!
これからも応援しているから、もっとワクワクさせてくれ。バカをやってくださいな。
ご縁があったらライター仕事をくださいな(顔出しもOKでっせ)。

(関連サイト)ロケットニュース24
https://rocketnews24.com/
いい年齢のカタワ(橈骨神経麻痺)の分際で恐縮だが、恥ずかしいことを書くが、
わたしはこのまま底辺にうずもれて土塊(つちくれ)と化す塵芥的存在なのか?
そうだったらそれを運命や宿命と受け入れるが、まだ自分になにかできる余地はないか?
詳細をブログに書くかはわからないが昨日だって高円寺のあるイベントに参加した。
今日だって自死遺族会のエバーグリーンに可能ならば参加するのもおもしろい。
創価学会、幸福の科学をふくめ、どの宗教団体にもマインドはオープン。
勧誘されたら、まあ入るだろう。どこでもだ。
個人とだってだれとでも逢うと表明して携帯電話番号まで公開している。
しかし、だれからも相手にされない。
ビルマにでも突撃したいと思うが、このたびの橈骨神経麻痺で左手が不自由。
なんだって来い状態なのだが、カモンカモン、来るのは橈骨神経麻痺という。
もういのちは惜しくないから山口組の人に生命保険をかけられ東京湾に沈んでもいい。
なんだって来いやなのだが、来たのは創価学会女子部やエホバの証人美少女ではなく、
橈骨神経麻痺で左手が動かない。レジでお釣りをもらうときとか悲惨だ~よ。
いまは男装者、女装者でもメンヘラでもイケヌマ女、
インテリ老嬢でも生活保護者でも対話に活路を見出したい。
そんな夢みたいなことを考えているカタワ中年男がここに一匹生息している。
無能力ゆえだれにも相手にされない。
コメント欄で教えてもらったのだが、いま左手が不自由なのは、
紹介先HPの写真から見ても完全に橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)。
きっと仏罰でも当たったのだろう。これが現証というものか。
橈骨神経麻痺だとシャワーに倍時間がかかり、ひげもうまく剃れなくて、
食器も洗いにくく落として壊してさらにそれを拾えないという障害スパイラル。
これも仏罰なのだろうから仕方がない南無妙法蓮華経。
人生うまいこといっているやつはいいなあとさえ思わなくなった。
ふつう以下のカタワになり果てた。だれも助けてくれないが、それが人生なのだろう。
有名人やその子分だったら違うのだろうが、
左手が不自由なカタワを助けてくれる人はいない。
もし当方がフクスマやイケヌマだったらとか、そういう敵性思考はしないようにしている。
左手が動かないので困る。左手がほしいが、
そんな希望がかなうはずもない南無阿弥陀仏。
いまの政界経済界(文学界)
上層部古老は底辺の現実を知らないから好きなことが言える。
ネクタイをしめて現場視察はできるけれど、自分で底辺労働はできない。勇気がない。
自分は「現場を知らない」ことを認めたくない。まだ現場視察に来るだけ理解がある。
わたしは金欠となにか書く題材はないかという目的で底辺職場をうろうろ徘徊して、
お互い共通言語が違うと知りながら仲間(こちらは勝手にそう思っていた)と対話した。
わたしはいまの上の(おかみ)連中よりも現実を何倍も知っていると思うが、
上を批判したいつもりはまったくなく、現場仕事をできないお気持もわかり、
できたら社会上下の仲介をすることで日本国へのご恩を返したいというのが現在の所存。
イケヌマを嫌いと言っている時点でうそくさいが、
わたしはかなり偏見偏向がないほうだと思う。
インテリ先生のコンプレックスをじわじわいじりたいが、
みなさまはイチゴをケーキに乗せるだけのようなお仕事はできないのではありませんか?
そりゃあ視察して手を振るくらいはできましょうが。
某先生がお好きな絵柄の、しもじもの会員を激励奨励して手を振るあれ。
いろいろな先生はケーキづくりのラインに入ったことがあるのだろうか?
はじめて逢うラインのおばさん、おじさんとコミュニケーションを取れるのか?
現場を知っている読書家失業者がここにいる。
25日にコージーコーナー川口工場の食堂でひとり昼休みに考えたこと。
人はなんによって生くるか――。
旦那さんが定職をお持ちの近所のミセスさまが働くのならわからなくもない。
日本語をろくろく話せない若い外国人がここで派遣で働くのもわかる。
イケヌマではない30、40の日本男が、こんな立地の悪いところで働くだろうか?
きのう池袋の公共職業安定所で温厚そうな年配男性職員から言われた。
「結局、働くというのは能力いかんではなく、その職場の雰囲気に合うかですからねえ」
ものすごい真理を教えてもらったような気がした。
帰りの満員の埼京線ではとなりの若い女性が、
聖教新聞をおやじのようにたたみ読みしていた。冬だった。きのうは寒かった。
女は大柄なメガネをかけマスクをつけていた。
これがわれわれがいちばん言ってもらいたい言葉で、
いざ言われたら発狂しかねないという悪魔の仏敵の邪悪な呪文であるような気がする。
わたしをふくめて(しつこく繰り返すが)わたしをふくめて、
好きなことやりたいことしたいこと――使命天命宿命などなにひとつありはしない。
鎌倉時代の貧農ならそれでよかったのだろう。
「好きにすれば」と言われるよりは、先生のような人の指導に従いたい。
宣伝に乗っけられて、ほしくもないものを買って、さも満足そうに振る舞うしかない。
タレントの広告に自分を似せられるようファッションや化粧をこだわるのも生きがいだ。
いま現代日本文学の課題なんてあるのだろうか?
あるとすれば「老人は早く死ね」だが、だれもそんな本は買わないと常識人は思っている。
毎日がつまらないし、なんにもないが、
その日常を捨ててもやはりなにもないことには変わらない。
土屋さんに逢う勇気もない。このままはいやだが、このままでしかない。
昨日、コージーコーナー川口工場で昼休み、孤独に現代日本文学についてふと考えた。
いまある派遣会社からの離職票郵送待ち。
来たらその瞬間に池袋の公共職業安定所に行き相談に乗っていただく。
離職票回収にここまで時間がかかった理由は書かない。

いま左手が動かない。ほとんど右手一本で文章を書いている。
昨日、行かされるたびに二度と来るかと思うコージーコーナー川口工場に行く。
交通費を抜いたら日給5千円くらいになってしまうここには、
来たくないと派遣社員さんに言う。
「それはここで働いている人に失礼だ」と叱られ、そういうものかと思う。
そういうものなんだなあ。

昨日行かされたのは、みんなのあこがれケーキのイチゴのせ。
あれを実際にやったことのある人はいないっしょ?
みんなあこがれているけれど、だれもしたことがないという(笑)。
いやね、経験者としてはあれはかなりきついレベルの仕事よ。
初体験だったからかもしれない。
途中でおもしろくなちゃってね。イチゴのヘタを高速で抜いて、
ホールのケーキに隙間なくイチゴを並べる。
今春のコージーの売り出し商品らしく、たしかにおいしそうだった。

いつもやっているおなじことの繰り返しは退屈だが安定してできる。
反対に未経験のことはなにもわからず不安ばかりである。しかし、新鮮で楽しい。
やっているあいだにイチゴのヘタを抜くのが異様なほどスピードアップした。
馴れってやつだろうけれど、こういうのって楽しい。
なんかさインチキ職人のような気になっちゃって、仕事がおもしろい。
まあ、イチゴのヘタを取って並べるだけなんだけれど。

最後に作業台清掃と床清掃。
二度と来ないだろうから覚えても仕方がないとか言っちゃいけない。
わかったよ。前言撤回。コージーコーナーのケーキは完全衛生ばっちしクリーン100%。
おそらくコージーコーナーのケーキほど口に入れて安心なものはないだろう。
作業員告白の裏の真実は、コージーコーナーはキレイキレイ。

で、今朝起きたら左手が動かないんだなあ。
わたしは常日頃から原因とか結果とかうさんくさいと思っているほうだから、
左手が動かないのはイチゴと関係しているかはわからない。
もちろん、労災なんか言うつもりはない。
去年のパチンコ会社もそうだったけれど、多くの会社が事故ゼロを自慢しているよねえ。
でもさ、それって事故があってもなかったことにすればゼロって話で。
それにいまはどこも底辺労働は立場の弱い派遣や外国人でまかなわれているから。
怪我をしても病気になっても病院に行かなければ、それは怪我や病気にならない。

昨日また蕨(わらび)の激安酒場でのんだけれど、
背広軍団のボスが(酒を)3杯のんだら残業代をつけてやると言っていたけれど、
リアルでしばらく笑いがとまらなかった。
まあパワハラでアルハラなんだけれど、そういう昭和的行為って懐かしいよねえ。
まだ離職票は来ないし(レターパックで来ると聞く)、左手は動かない。
左手もつばでもつけておけば治るのかな。
わたしは整形外科と異常なほど相性が悪いので、できたら行きたくない。
レントゲンを撮られて高くつくし。
左手は動かないが、痛みがあるわけではない。
しかし、左手が動かないと食器を洗えないしブログ更新もできない(してるじゃん!)。

しかし、離職票が来ない。
今日来なかったら公共職業安定所に行くのが来週になってしまう。
いや、左手の回復を考えるとそうなったほうがいいのか。
ぶっちゃけ、1、2日の違いであの業界(どの業界?)は2、3万金額が変わる。
料金は払うから速達でお願いしますとも言ったんだけどなあ。
それよりもこの左手は動くようになるの? 
このままだったらどんな単純作業仕事もできないよ。
もう信心しかないんじゃないか。
創価学会女子部才媛のご連絡をお待ち申し上げております(またそのラストかよ!)。
左手が動かない。この広い世界におけるミーニングはなんなのだろう。
「捨聖 一遍」(今井 雅晴/歴史文化ライブラリー/吉川弘文館)

→仏教の話はやめろやめろ、古参読者のあたしも読みたくないからやめて。
もう義理でも読みたくないから仏教の本の感想は書かないでくれ。
そう言われているのに書いてしまうこの宿業みたいなものはなんなのか?

幼稚園児に語るように書くと法然、親鸞、一遍は南無阿弥陀仏の人。
日蓮大聖人さまが地獄に堕ちるって言った人だね。
一遍は3人のなかでいちばんマイナーだったんだ。
それはふたつの理由による。
1.思想が過激すぎた(自殺推奨)、
2.師弟関係を否定した。

けどさ、南無阿弥陀仏って死んだら極楽浄土に往けるってことでしょ?
念仏しながら死にたくないとか内心思って、
大勢の弟子たちに囲まれていた法然や親鸞はうさんくさいとも思えないか?
日蓮大聖人のところはとくにそうだけれど、階級が「正しい」かどうかを決めるでしょう?
「池田先生の言うことは正しい」とかさ。
「原田会長がこう言っていたわ」とか(あれ? いまの会長は原田さん?)。
そういう階級、身分、差別をすべて捨てようと一遍は言ったんだ。
肩書も家族もなにもかも捨てて南無阿弥陀仏(自然)になりきろう!
そうして踊ろうって。なにもかも捨てて素っ裸になって踊ろう!
踊り念仏はまともな定住村落生活を営めない、
クルクルパーのイケメンや美少女が男根や女陰をちらちら見せながら、
観衆から金をとって極楽(エクスタシー)を教えた宗教行事である。
わかりやすく書くと男根はおちんちん、女陰はおまんこという意味である。

朝日と夕陽が好きな人にわかれると思う。一遍は西日が好きな人だった。
臨終(死)こそ最上幸福と見る逆転思想の人だった。
みんな仏教は自殺を禁じていると思っているかもしれないが、じつはそうではない。
釈迦も過去世で自殺しているし、法華経にも焼身自殺する仏が讃えられている。
むかし四天王寺というのが自殺のメッカだったんだ。
自殺こそすべてを捨て切ったいさぎよい悟りのポーズと言えなくもない。

「こうして春秋の彼岸にはことに四天王寺への参詣者が多かった。
それは観無量寿経に示されている日想観を
行なうのに適当な場所であるとされていたからである。
これは観想念仏の世界で、本来の意味の念仏である極楽浄土を
心に思い浮かべるための方法の一つである。
「日想観」を行なうというのは、心を落ち着け、
太鼓のように丸い太陽が海に沈もうとしているのをじっと見つめ、
目を開いても閉じても、はっきりとその姿が見えるようにすることである。
そして四天王寺の西門において、日想観を行なったまま、
極楽浄土を求めて自分から難波の海に沈む者も現われた。
高揚した気分のなかで、一刻も早く極楽へ行きたいと願ったのである」(P30)


このあと学者は実際に入水自殺したものの例を文献を提示して挙げる。
人生は死をもって完結するのだから、
臨終が夕陽のごとく美しければいいという考え方もできなくはない。
源義経や織田信長の最期は「もはやこれまで」といういさぎよい美しさがある。
「ああ、終わった。わが人生を見たぞ」と思いながら死んでいくのは、
生活者としてはどうだか役者としては生きがい(死にがい)があるのではないか。

プライドが高い人って損してるよね? プライドなんて捨てちゃえ、捨てちゃえ。
大企業に勤務しているというプライドを捨てる。部長を捨てる。課長を捨てる。
派遣でもいいじゃないか。失業給付や生活保護をもらってもええやないけ。
まずブランドを捨てよう。アクセサリーや宝石を捨てよう。
あんなもん質屋に持って行ったって、いくらにもなんねえって聞くぜ。
アクセサリーなんて……おっと、これは職業上の守秘義務から言えねえな。
カツラも捨てて、自然の素のままの自分でええじゃないか、世のおっさん同志よ。
わたしは本当はみんな捨てて身ひとつで海外に出たいがもう年齢が言うことを聞かない。
いったい自分にとってなにが大切なんだろう?
著者は鎌倉時代のスーパーフリー坊さん一遍の和歌をうまく解釈している、

「すてゝこそ みるべかりけれ 世中を
    すつるもすてぬ ならひあるとは

何もかも思い切って捨ててみたら、実は、
ほんとうに大切なものを捨ててはいなかったことがわかってきた。
俗世間で貴重だとされている妻子・衣食住を捨てたからこそ、
その大切なものが見えてきたのだ。それがわかったのだ」(P98)


捨てることは捨てられることでもある。
わたしなんか人間関係をポイポイ捨ててきたから、いましんじつひとりぼっちである。
泥酔してある人に電話したら「かなしそうな、さみしそうな声をしていた」と言われた。
この先予定なんかまったくないし、家族団らんもバーベキューも結婚式もない。
このまえ酔っぱらってさみしさ極まって電話帳にあるかぎりの人に電話したら、
ほとんどの人が出てくれなかったし迷惑がられた。
捨てるとは捨てられることであり、とてもさみしいことで、そのさみしさにも味がある。
著者は肩書や妻子を捨てているのか知らないが、
一遍研究の権威者のひとりとしていっぱしのことを言う(失礼!)。

「いってみれば、捨てることによる楽しさ、うれしさの境地は、
鎌倉時代の歌人たちが追求した「さびしさ」の境地と共通するものだろう。
歌人たちはしきりにさびしい、さびしいといっていたけれど、
それは厭うべき境地ではなく、むしろ求めるべき境地であった、
「さびしさ」が徹底したところこそ、不安な要素の多い人生行路のなかで、
唯一、心の平安を得られる境地であった」(P101)


今日、持病の逆流性食道炎が悪化したのか何度も吐いた。
よれよれよぼよぼして布団に倒れ込んでいた。さみしいなあと。
そうしたら派遣のSさんから電話があって、なんかすごい元気が出たんだよね。
派遣のSさんとは奇妙な因縁があって、
おととし(退職勧奨にもかかわらず)失業給付がもらえないので、
あるリネン工場に怒鳴り込もうかとした瞬間に電話が来たんだ。
あのタイミングは神がかっていた。
わたしは損得勘定、金銭欲が捨て切れていないから、さみしくもこうして生きている。
人間ってなんなのだろうなあ。おれはいったいなにをしたいのだろう。
世の中の仕組みなんて鎌倉時代から変わっていないのである。
世の中なんて、そうそううまくはいかないのである。新しいことは認められない。

「鎌倉時代の日本では、何か新しい宗教的境地をひらいても、
新しい宗教を作ったとして布教することは不可能に近かった。
なぜなら、宗教はすべて仏教の範囲を出ることはできなかったからである。
いい換えれば、新しい救いの道をひらいたとして、
それを正当化するためには仏教の論理や経典、
高名な僧を使うことが必要であった。
そうすることによってのみ、社会の人びとの支持が得られたのである。
これは日本の古代・中性を通じての常識であった。
中世末期に伝わってきたキリスト教でも、神(デウス)は大日如来であるとか、
仏教教義にのっとった説明の仕方にならざるを得なかったのである。
このように見てくれば、踊り念仏は一遍が開始したのではなく、
仏教内で正しい伝統を有しているといいたかったのである」(P123)


「歎異抄」は唯円の思想だが、それでは説得力がないので親鸞の言葉にしたのである。
「新約聖書」はそれぞれ信徒の言葉だが、まあイエスの言行録ということで。
大乗仏教は人間の言語化できる最高の昂揚を言葉にしたが、
あれは釈迦の言葉だからいちおう。
「コーラン」はムハンマド(いまの表記は知らん)の言葉だが、神の言葉ということで。
安っぽい新書でもカントがこう言っているとかニーチェがこう言っているとか多い。
まずは捨てることから始めてみよう。
カントを捨てる。ニーチェを捨てる。釈迦をキリストを捨てる。
きみは師匠を捨てられるかい?

「仏教の一般的な師弟関係でいえば、一遍の生き方は常識外である。
師匠は、能力があると認めた弟子には、
自分の筆跡あるいは日常に使っていたものを与えるのが普通である。
弟子はそれをよすがに師匠を敬い、心の支えにし、
また後継者として今度は自分の弟子の教育にあたるのである」(P200)


しかし、一遍は入滅(死)に先立って、自分の身のまわりのものすべてを焼いてしまった。
こういうものに価値はないんだよと。
骨董品とか訳知り顔にあつかっている、
平成の紫綬褒章の神戸作家は少しなにか捨てたらどうだ?
おそらくいちばん大切なものは南無阿弥陀仏であり、南無妙法蓮華経であり、
それは自然であるということ、自分であるということだろう。
これは一遍が言っていたことではなく、わたしの内奥からの言葉である。
言っとくけどブランドへの執着はないが、プライドもかなり捨てたが、
しかし小金への執心はいまだ異常なほど根強い。これをなくしたら死んじゃうよ(笑)。

*いつものことですが誤字脱字失礼。最後までお読みくださり大感謝。

ある年齢以上の孤独な中年男は、
人生のくそつまらなさから宗教にひかれるのではないか。
おれも宗教に入って、熱く生きたいもん。
仏敵山友を許するまじ、とか正義の志士になってスクラムを組んで獅子吼したいもんさ。
あまりにもなんにもなさすぎるっていうかさ。
早めに結婚や子作りをしておくのは「正しい」と思う。
不謹慎なことを書くと、夫婦喧嘩のひとつでも飽きないじゃん。
子どもってかならずなにかをやらかしてくれるしさ。それも定期的にだから最高。
なにが最高って飽きないからだよ。
さざ波が立っていたほうが人生は退屈せずにいられるの。

おれなんかハプニングに巻き込まれたくて携帯電話番号まで公開しているのに、
そういうのが来ないってのは、これが宿命なのかなあ。
携帯番号公開って怖いことで、
夜中2時に仏法対話の電話が女子部きれいめからかかってきてもOKってことよ。
怖いおにいさんから呼び出しがかかるかもしれないし、
そういうことがあったらわたしはおもしろがっちゃって行くような気がする。
昨日の女子高生から電話が来たって話は嘘だけれど、うまくできていたでしょう?
宗教に寄付するのも美少女にだまされるのもおなじようなもの。
そのとき楽しければじゅうぶん元を取っている。
こういうことを書いたら本当にそういう電話が来るかと思ったら来ない、来ない。
味気ねえな現実って。ドラマみたいなことはめったに起こらない。
創価学会の若い衆に拉致されて囲まれ威圧的折伏とか経験してみたいけれど、
いまは人権意識とやらが幅を利かせていて、
学会の勇士もそういうことをできないんでしょう。

わたしは戸田先生とか池田先生とか、おもしろいから好きよ。
池田先生とかぶっ飛んでいて仏さまみたいな人だなあと思う。
で、自我肥大を書いておくと、おれもそのタイプじゃないかと思うんだ。
むずかしい仏法をウイスキーでものみながらざっくらばんに話せるっていうか。
しかし、我輩の弱点は弟子がつかないんだ。
そもそも自分に従順な弟子とか嫌いだし、好きにすればが基本方針だからなあ。
怪しげな宗教でも創って狂騒的にカッカしたいが弟子が来ない。
北海道か沖縄でみんなに農作業かフーゾクでもさせて、
自分は最高指導者を気取って安酒でもかっくらいたいが弟子が来ない。
中村天風みたいな存在になりたいのだが弟子が来ない。
若い男女のブログでも巡回してコメント欄でほめまくればいいのだが、
そういうことは面倒くさい。
ファイスブックでもツイッターでもやってもいいのだが、指導者がいない。
つまらねえなあ。お下品でもいいからおもしろいことはないかなあ。
精神科医の春日武彦先生に患者として逢いに行き、
それをルポにしたらものすごいおもしろいと思うが、、
それはどこかの出版社がけっこうなギャラ付きで企画することだと思う。
そこまでボランティアはできない。おれは釈迦ではない。
「一遍入門」(大橋俊雄/春秋社)

→むかしからのブログ読者さまに、もう仏教の話を書くのはやめろと。
どうせだれも最後まで読んでいないし、自分もきついからやめてくれと。
自分がいちばん力を入れている記事をだれにも読んでもらえないという、そのね。
わたしはべつにほかの宗派の人に一遍好きになれと言っているわけではない。
一遍の考え方をすると、宗教的な喧嘩がなくなりいいんじゃないかなあ。
しかし、喧嘩こそ人生の生きがい、男の見せ場と考えるむきもあるから、それはもう。

まえから何度も書いていることだけれど、一遍の宗教観を紹介する。
一遍は「最高真理」を仮構するわけだ。
「最高真理」とは「なんで?」の源(みなもと)のことである。
なんであたしはブスなのにあいつは美人なのか?
なんであいつは金持でみんなからちやほやされているのに俺は貧乏で孤独なのか?
なんでうちの子は障害を持って生まれてしまったのか?
なんで自分の愛する息子や娘が自殺してしまったのか?
なんでなにも悪いことをしていない自分が難病で苦しまなければならないのか?
この「なんで?」の答え、つまり「究極真理」は「わからない」。
「運が悪かったんだよ」と言われるよりは「わからない」のほうが気分がいいのでは?
しかし、「わからない」って言われても、
じゃあ、どうすりゃいいのかって、これも「わからない」。
ある人には劇的に効いた薬がべつの人には逆効果になることさえありうる。
「わからない」状態につねにいるのは不安である。
だから、庶民のうちから
自然発生的に南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経が出てきたのだと思う。
南無阿弥陀仏は法然の発明品でもなんでもなく、
教信のようなクソ庶民連中がうめいていたのを法然が聞き取ったのである。
南無妙法蓮華経も庶民の怨嗟のうめきを日蓮が題目に翻訳したのだと思う。

一遍はたまたま南無阿弥陀仏を熊野の神から授かったというだけの話で、
彼は南無妙法蓮華経でもいいということを言っている。
わたしの言うことを聞かなくてもいい。あなたが信じたものが真実なんだよ。
しかし、南無阿弥陀仏は言葉の持っているパワーが強いからいいと思うなあ。
とりあえず南無阿弥陀仏と書かれた札をあげておくから、
言葉の意味は自分でいろいろ考えてそれをお信じください。
現世利益があると思ってもいいし、奇跡があると思ってもいい。
たとえ嘘でも信じていたら嘘はけっこう本当になることがあるものである。
一遍の「正しい」の根拠は熊野神社の神託(夢告)だからこれはもう狂気と言うしかない。
「正しいから正しい」という狂った盲信である。
ただし一遍の偉いところは、
自分はそう思ったが違う可能性もあることを知っていた。
弟子から法華経と念仏のどちらが「正しい」のかと問われて、
「うーん、役に立つんならどっちでもええんじゃね」と答えている。
どうせ売れないだろうけれど、
どこかの出版社に一遍上人語録の豪傑訳をさせてもらいたい。
創価さんとか浄土系さんとかがうまく手を組んで宣伝してくれたら、
まさかまさかの爆発的大ヒット作が生まれるかもしれない。
宗教系は売れるって小谷野敦さんも言っているし、
ビルマかどっかで10日くらい修業してハクをつけてくるからさ。
で、倉田百三みたいに女子高生と付き合おうっていう算段さ。

わたしは一遍とおなじで、
南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もおなじ意味だと思っている。
どっちも「究極真理」でパワーのある言葉で意味は「わからない」。
おまえは不可知論者でそこで思考をストップさせていると叱られるが、
わからないのはわからないのだから、
わからないことを虚心坦懐に認めるほうがいさぎよいのではないか?
どうしてだれかがいきなり死んじゃったりするのかなんてわからないじゃん。
でも、「わからない」のは不安だから
「わからない」に対してわからない「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」を
そのままぶつけてみるということを編み出した鎌倉時代の仏僧はすげえよ。
「なんでこうなるのか?」→「わからん」→「どうしたらいいのか?」→「念仏や題目」
「わからない」ことさえしっかりわかっていたら安心していられるのである。
わたしは毎朝、勤行唱題(南無妙法蓮華経)しているが、
夕方に近づくと南無阿弥陀仏をこころのなかで唱えることがある。
だって、法華経がおそらくいちばんいいリズムだし、
あれを朝3分やると元気が出るじゃん。
落ち込んだときもこれが宿業なのか、
しかし仏さまは見てくれることだろうよ南無阿弥陀仏と唱えると安らかな気になる。
天台宗は「朝題目で夕念仏」なんでしょう?
だったら、天台宗に入れってあんな世襲の葬式坊主の教えを聞く耳は持っていない。

なにかあるとすぐ上に指導を求める宗教団体があるらしいけれど、
信者さんはどうして自分のあたまで考えようとしないのだろう。
どうせ結局は「信心が足らねえ」になるのによ。
自分のあたまで考えた南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏が本物の信心である。
本物の信心はだれかから指導されるものではなく(それは借り物じゃん)、
自分のあたまでこんちくしょ、くそったれ、ばっかやろと考えたものだろう。
自分という存在もまた「わからない最たるもの」でしょう?
ならば自分が南無妙法蓮華経であり南無阿弥陀仏なんだよ。
「○○先生はこう言っている」の連発はやめようぜ。
まあ、楽だからおれもやるけどな。そこらへんはみなさんとおなじ小狡い庶民なんだ。
一遍が宴会で酔っぱらった武士に念仏札をセールスに行ったんだ。
泥酔した武士はご機嫌で紙くずを買い上げてやった。
一遍が去ったら、武士が言ったという。「あの坊主ほどのインチキはおるまい」
お付きのものが「じゃあ、どうして買ったんですか」と聞くと
「仏法は本物であるから」と答えたという。
のちにこの話をめぐりまわって聞いた一遍は、あの赤ら顔の武士はなかなかやるなあ。
なぜならふつうの人は僧を信じて、絶対の仏法を信じようとしない。
そこがあのサムライは見どころがある。
意味は書いちゃったけれど、いちおう権威づけのため「一遍聖絵」から引いとくね。
原文なんて読む必要ないから。おまけみたいなもん。

「おほくの人にあひたりしかども、
これ[武士]ぞ誠に念仏[仏法]信じたるものとおぼえし。
余人は、皆、人を信じて法を信ずる事なきに、
此俗[武士]依法不依人のことわりをしりて、
涅槃の禁戒[釈迦が死ぬ間際に注意したこと]相叶へり。
ありがたかりし事なり」


著者の学術的文章を借りるならば――。

「今まで多くの人に出あったが、
この人[武士]こそ本当に念仏を信じている人だと思った。
他の人たちは、皆、人を信じて仏法を信じようとしないが、
この人は釈尊が亡くなるときの最期の誡(いまし)めであった
「法をよりどころとして、人をよりどころとしない」という道理を知っている」(P77)


わたしも仏法は信じているけれど(法華経も阿弥陀経も般若心経も)、
会長さまを信じるとか教祖さまにひれ伏すとか、その感覚はわからない。
山田太一ドラマはおもしろいけれど、作者を人格神のようにあがめたりしない。
小谷野敦さんの軽い本は好きだけれど、実物はすごいって聞くしね。
これは真理は伝達できないということにもからんでくる。
山田太一ドラマの視聴者は、
いろいろな感想をそれぞれの体験によって持つでしょう?
小谷野さんは自分が絶対に「正しい」と信じている人で、それはそれでいいのだが、
他人が「正しい」と信じていることにいちゃもんをつけたがるところがない?
白黒をつけよう、勝負しよう、法廷の裁きを受けよう、とかさ、ブルブル。
相手も「正しい」、自分も「正しい」を仏教レベルで説いてしまったのが一遍である。
南無阿弥陀仏(わからない)が究極真理なら、
自分も相手も「正しい」かはわからず、ならば自分も相手も「正しい」のだろう。
あーあ、こんなもん義理で読まされたくねえよ、と思っている読者の顔が浮かぶぜ。
読まなくていいからね。あなたは「正しい」んだから。

なんで南無妙法蓮華経の人、具体的には日蓮大聖人は念仏をあんなに嫌うのかね?
どっちもいかがわしいかび臭い呪文じゃねえか、ハハハ。
ご存じでしょうが、念仏の観無量寿経は、
釈迦が霊鷲山で法華経を説いているときに、
韋提希(いだいけ)夫人が仏さまに「SOS」を出したから、
それじゃあということで法華経をいったん中止して彼女を救った教えなんだよ。
主人を子どもがいまにも殺そうとしているときの夫人にする教えは、
(法華経ではなく)観無量寿経だったという、それだけの話ではないか。
南無阿弥陀仏で救われる人がいてもいいし、
南無妙法蓮華経で救われる人がいてもいい。
真相はお客さんがおなじだからお布施をめぐっての争いだったのではないか。

さて、わたしの好きな一遍は法華経ととても親和性が高い。
以下はひとりもお読みにならないだろうが、
一遍の祖先に河野道清という人がいる。
これは子どもができなかったので家族が三島明神にお願いして生まれた子である。
三島明神の申し子というらしい。
で、この三島明神(日本の神さま)の本地が大通智勝仏である。
本地垂迹説はよくわからないのだが、まあ、仏と神が本当は一体なのよという話。
大通智勝仏はむかし「法華経」を説いた仏で、
「法華経」の化城喩品第七によると出家するまえには16人の王子がおり、
彼らは父にしたがってつぎつぎに出家した。
そのいち9人目の王子がさとりを開いて阿弥陀仏になり、
16番目の王子が釈迦如来になった。
いまから法華経現代語訳を開いて確認する元気はないが、
本書の36ページに書いてあるからたぶん本当だと思う。
なにが言いたいのかって、釈迦も法華経も阿弥陀仏もさ、
まあ、みんな遠い親戚みたいなもんじゃないか、一杯やろうぜってこったな。
だれも読まなかっただろうが、しかし書くとわかるね。だから書いているのだが。

一遍といえば、当時故人であった空也と証空への敬慕で知られている。
学者ではないから知らないが、空也は意外と資料がないらしい。
はっきり言って学者の価値って、資料を識別できるくらいではないか?
どの資料とどの資料がどういう関係かは読んでみるまでわからず、
先輩から教えてもらうほかなく、
それではじめて資料を読んで意味がわかるのである。
学者はそういうおもしろいことを一般書に書かないし(書いたら権威がなくなる)、
また一般庶民にわかるように平易に書ける筆力がない。
だから、ひろさちやや島田裕巳は偉いとも言えよう。
本当は学問なんてせずとも、南無妙法蓮華経って一心に唱えていたらいいの。
なにもお経はわからなくても、南無阿弥陀仏と唱えていれば心が休まるの。
題目も念仏もいまのカタカナ(リノベーション)なんかと比べたら、
言葉の重みが禍々しいほど黒々と凄惨なまでに存するのである。
(一遍ファン同士)仲間ぼめをするわけではないが本書はわかりやすい部類に入る。
念仏の空也は法華経も読誦していたことも知る。

「空也は念仏を勧めたといっても、
空也の念仏は平康頼の『発心集』に空也の業績をたたえ
「これ我が国の念仏のそし(祖師)と申すべし。
すなはちほけきやう(法華経)と念仏とを、極楽の業として、
往生をとげ給へるよし見えたり」と記しているように、
従来の呪術宗教者的形態を踏襲しながらも、
天台的な『法華経』と念仏を往生の業とするといった、
肉体的な念仏行をとおして宗教的エクスタシーを得ようとするものであった。
ここに空也の念仏が世の人に迎えられる原因がひそんでいた」(P145)


だれも読んでいないだろうからこっそり悪口めいたものを書くが、
この人はどうしてもっとわかりすく書けないんだろう?
証空なんていう坊さんもみんなご存じないでしょう?
まあ法華経が大好きで、一遍が敬慕していたおおむかしの坊さんである。
なぜ一遍は証空を慕っていたのか?

「名聞利養と栄達を願っていた僧の多かったとき、
証空はひたすら沙弥[しゃみ/出家未熟者]としての生活をつづけ、
『法華経』を読誦することを旨とした持経者で、念仏者ではなかったが、
教団組織を否定し、
宗教生活を沙弥的なあり方で実践しようとしたところに、
一遍の立場と似たものがあり、
ここにまた一遍が証空を崇拝してやまない理由があった。
いわば、一遍にとって証空は空也や教信とともに
期待すべき宗教的人間像であったといえよう」(P173)


宗教に入っても班長とかブロック長とかみんな目指すものねえ。
出世のための「がんばっているアピール」が指導をしたり、指導を受けたりすること。
そんなことよりひとりでインドへ行って来いって。
もう仏教ネタはやめて、どうせだれも読んでいないのよ、
と言われたのに書いちゃったわ、いやーん♪
こんな長文記事を最後まで読んでくれた方の宗教ならかならず入ります。
ありがとうございます。第3のビールなら奢りますよ。
しっかし、こういう決して報われない無駄骨を功徳というのかもしれんのお。

*誤字脱字はそのうちね♪

AVって男の妄想の商品化でしょう? それじゃダメなんだ。
女の性的妄想のほうがよっぽど(男にも)エロいと思うのだが、
そういうご作品は寡聞にして知らない。
若い美人の女の子が笑顔で裸になってフェラチオして笑顔で交尾するなんて退屈。
おれが見たいのはそういうのじゃないんだなあ。
もっと「なま」を感じさせるものを見たいというか。
どこまでが本当か嘘かわからないものほどおもしろいものはない。
カラオケ店員をチンピラ数人がレイプするむかしのビデオを見たことがあるが、
興奮するとか人権的に同情するとかではなく、
すごいリアルなものを見たという感動に打ち震えた。
ふつういやがっている立場も体力的にも下の若い女性アルバイトを
男が数人がかりで押さえつけてやれるか?
そこでチンポを真剣のごとく勃起させていた男性は聖人か狂人か、
ただならぬ人であったことは疑いえない。
あこがれるというか、ああいう人でもそれなりに合法的にまともに生きているんだなあ。
人生は奥深いぜ。
そのAVはFC2動画にあるから、興味があったら探してくれ。
それで廃液したらおまえは鬼畜だぞ。
だれか壊れたわたしを精神病院に急送してください。
浮間舟渡の民生委員は壊れたわたしをどうして助けてくれないのですか?
壊れた壊れたこわれたかけらの思考のエロのNTR(寝取られ)。
NTR(寝取られ)って最高のエロじゃないのかなあ、男にとって。
自分が大好きな女がべつの男とギシギシアンアンやっているのを妄想するのはサイコー。
これはお偉い宗教人類学者の植島啓司先生もおっしゃっていること。
だから、いや、そうだとしたらAV女優に片思いするのがイチバンなんだよなあ。
おれの好きなあの子があんな男たちに前からも後ろからもやられてアンアン言ってるって。
しかし、好きなAV女優はいない。
片思いがしたいのはNTR(寝取られ)の快感を存分に変態的に味わいたいからかも。
いまは人権とかうさんくさい言葉があり、
我輩さまみたいなあれでもなかなか収容できないのでしょう?
ハンコは押す。意味はわかりますか? ハンコは押す。だから、その方面、ちょっとよろしく。
やはり神や仏はいたわけで、かわいい女子高生が電話をかけてくれたのである。
なんでも母親の急な手術のため、いますぐ10万円必要だと。
送ってくれた顔写真と声を聞いて、この子は信じられると思い、すぐさまATMに走った。
JKいわく――。
「いますぐには返せませんが、このご恩は忘れません。
いつか絶対に何倍にもして返します。
あたしはエッチなことはまだ知りませんが、そういうのがお望みでしたら、そちらでも。
とにかくかならずこのご恩は返します。本当にありがとうございます」
10万なんて大金だが、いいことをしたという満足感でいっぱいだ。
これでひとりの少女を救うことができた。
もちろん、「貸した金は返ってくると思うな」は父の教訓だから期待していない。
しかし、このいいことをした、人を助けたという気分のよさは晴れ晴れとする。
そして、希望が生まれた。
もしかしたらいつかあの女子高生が恩返しをしてくれるかもしれない。
1年後か2年後か3年後かわからないけれど、5年くらいまでは希望を持てる。
自滅願望のある自分がすばらしい希望を10万円で買ったと思えば安いものではないか。
浮間舟渡は今日も雲ひとつない快晴である。ブラボー♪

みんなも人助けをするといい気分になるから、周囲に困っている人がいたら助けてやれ。
いまではもうちっぽけな夢さえかなわなくなったと思うとさみしい。
オスというオスに長期間オモチャとして遊ばれまくったボロボロの女性と結婚。
共働きで夫婦生活を維持。妻は子どもを産めない石女。
月1回3桁を超える男から仕込まれた、
これだけはベテランでうまいと評判のフェラチオで抜いてもらうのが生きる楽しみ。
こんな最低の夢を見ている男がいることも、
それさえかなわずなみだをのんでいる男の存在も知らない人は知らないだろう。
下り坂は果てしない――。
いまコメント欄であんたのネカマはうますぎたと絶賛されたが(美香QNW!)、
自分もネカマはうまいと思うしある意味で天才レベルだと思う。
文字(言葉)オンリーで女を装って男に金を払わせる裏の仕事をしてみたい。
出会い系サイトとかチャットレディーとかにスカウトしてくれよ。
それはおれはうまいから。実績もあるから。
べつに悪いお仕事でもなく、
世のもてない男性に希望を与えるやりがいのある社会貢献レベルの高い、
ナースに近いくらい人に感謝される職業だろう。
ネカマはおれはほんとうにうまいから、だれかこれをビジネスにつなげてくれ。
でも、ホモではない。男に性的興奮をおぼえたことは一度もない。
ネカマの才能があるって嬉しいことなのか悲しいことなのか。
男のツボをピンポイントで押せるということだから、
男たる自分をよく知っているということなのかもしれない。
おれが創作した女性よりもイイ、造物主たる神が創造した女性と出逢ってみたい。
最新の情報を教えてあげちゃうよ。いまは性別が逆転しているんだ。
現場レベルでは男よりも女のほうが偉くなっている。
わたしが直近の仕事でパワハラなんてみじんも経験せず快適愉快に働けたのは、
(病的妄想かもしれないが)女性3人がわたしのことを守っていてくれたからである。
実際問題、あの3人がいないと会社はまわらない。
「偉い」というレベルをどこに置くかだが、3階の女性3人は偉かった。
これってすごいことなんじゃないかなあ。
ふつう2ヶ月も働いていたら、人間関係にちょっとしたいざこざは起きるでしょう?
でも、上階の3人とはまったくそういうことがなかった。
伝票を破ったり、あれこれちょいミスをしたけれど、
女性契約社員はヒステリックにはならなかった。
破れてしまったものは仕方がないのだから再発行しましょう(冷静)。
これがふつうの会社だが、そういうふつうがどこもできていないでしょう?
あの会社は天国みたいだった。
男よりも女が偉かった。

もう男が女を食うとかいう時代じゃないのではないかしら?
いまは女が男を品定めして、女が男を食って同性に自慢する時代ではないか?
肩書や階級ではいまだ男性上位世界だが、なまの現場では女のほうがはるかに強い。
何度も書いているが、ぼくにはプライドというものがなく、
強い女性からもぐもぐ食べられたいなあ。
作家や音楽家といった芸術家志望ならぼくをお召し上がりになることで、
かならずや貴女の創作活動にプラスになるはずである。
いまは男が女を食う時代ではなく、女が男を食う時代でR♪
知的コンプレックス過剰な人はわたしを難しいインテリのように思っていることだろう。
なまのわたしはぜんぜん違うから。
シェイクスピアとかドストエフスキーとか仏典が話に入ってくることはありません。
基本的におかねの話ばかりですよ。
いまはそこまであれな人ではないけれど、
はじめて逢った女性に月収はいくらなんですかと聞いたくらいだから。
でも、その子はいまカウントするかぎりにおいて人生のトップ大恩人で、
いろいろいろありがとうございますだから、なにがうまくいくかわからない。
わたしはインテリのような会話はできませんよ。
おかねの話は大好きで、なにがほんとうはいくらするか、なんて話で盛り上がる。
あいつの月給はいくらだとか。
わたしはおかねが大好きなんですねえ。
シェイクスピアよりもストリンドベリよりもユージン・オニールよりもおかねが好き。
おんなのことおかねがどっちが好きかって、おんなのこはおかねとおなじ意味でしょう。
なまのおかねが好きだ。げんなまは生麦酒よりも響きがよろしい。
北戸田の橋本女史からおんななんか札束で引っぱたけばと教えられたが、
しんじつはわたしのしんじつではなく、あれはうそかもしれない。
おかねはうそかもしれない。おんなもこれまたうそかもしれない。
去年はこれまた収穫の多い1年だったのだが、
パチンコ会社の仕事終了打ち上げ飲み会に参加させていただけたのは嬉しかった。
会社の飲み会に参加するのはこれがはじめて。
しかし、派遣ばかりだからけっこうフリー。
みんなから嫌がられているきつい力仕事の1階の男だらけの飲み会。
赤羽の鳥貴族。料金のいくらかを会社が持ってくれて激安。
あれはおもしろかったなあ。
男だらけの飲み会ってみんなセックス自慢をするんだねえ。
おれはセックスでこんなことをしちゃったよ、みたいなさ。
26歳のクドウさんという超イケメンの若者がじつにイイ味を出していた。
なんでも彼はバーを自営で始めて失敗したらしい。親に借金して清算した。
しかし、まだ夢は消えていない。
何度も何度も言っていた。
「いつか世界中にクドウの名をとどろかせてみせるぜ!」
「いまに見てろ! クドウを知らないものはいない世界にしてみせる!」
クドウさんはむかしのわたしみたいな野心家で、
しかし顔面偏差値は百倍、
いや千倍こちらより上なのだから近々夢をかなえることだろうと思った。
びっくりするくらいのイケメンのクドウさんは、
トイレ近くてかわいい女の子をナンパしてさっそくメアドだかなんだかをゲットしていた。
「やりますねえ」と声をかけたが、
そのときは煩悩でいっぱいで派遣同僚のわたしを識別できなかったようだ。
生きているのっておもしれえなあ。人間サイコー。
もっともっとおもしろい経験をしたいから、だれか協力してください。オネガイ♪
ほしいものがないのが悩みだが、知り合いのAVとかなら見てみたいしほしいなあ。
つまらないAVはすぐさま素っ裸になり、大して変わり映えのしない肉交渉を始める。
本当におもしろいAVは交尾まえの会話で魅せるものではないか?
この男女が裸になるなんて想像もつかないみたいなさ。
しかし、つまらない会話がだらだら続くよりは早めのおセクスを希望するのもわかる。
わたしが思うに究極の良質AVはセックスが始まるまえで終了するものではないか?
つまり、それはおもしろいドラマや映画ということになるのだが。
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」は最後まで濡れ場がなかったでしょう?
しかし、にもかかわらず、あれは最高のAVとも言えよう。
テレビ局は視聴率がほしいならアダルトビデオを流せばいいじゃん。
いや、流しているのだろう。そこにいたるまでのドラマを。
むかしからの知り合いのAVとか見てみたいなあ。
わたしはエロいわけではなく、ただただ覗き見根性が強い、
いいかえれば好奇心が強い勤勉な労働者なのであります。上官に敬礼。したっ!
この年齢になってつくづく理解したのは女性がいかに偉いかということ。
女って相手の正体を逢った瞬間にすっぱ抜くじゃないですか?
お金を持っているやつには女が近寄ってくるが、見事お見事、
わたしには金のにおいがないことを察知され、
適齢期のみならず少女から老女までお化けでも存在しているかのような扱いだ。
女は男の正体、真贋を見破る眼力を遺伝子的にか持っているから偉い、
おれって本当に劣悪な自分勝手の極悪野郎だが、女性には見破られている。
女連れでパチンコに行っているチンピラは根はおれよりよほど上等善良だと思う。
女ってきっと男の正体を見極める神の眼を持っているのではないか?
子を産むのは女だから、女にそういう眼力がないと、人類が途絶えてしまうわけだから。
早稲田になんか入れてもらうべきではなく、チンピラになったほうがよかったのだ、きっと。
チンピラになりたいが、いまからではなれない。それが人生というものだ。
加齢とともに幅が広がった。横幅も広がっているかもしれない。
だって、直近の仕事が楽過ぎてあれは太るって。
ちがう幅も広がっている。たとえば女性。
大学生のころは30歳女性といえばおばさんで、性的対象ではなかった。
このまえ携帯に公衆電話から電話してきた匿名の女性は、
「30代の女から電話をもらって嬉しいでしょう?」と言っていたが、
たしかに認めたくないがいまなら30代女性でも土下座交際を求めよう。
幅が広がったのは、あたま(思想)もそうだね。
いまは共産党も公明党も同時に支持している(入れるのは公明党)。
正義なんてうそだと気づいたから朝日やNHKの記者さまのお靴を舌でペロペロできる。
仏教的にも、どの宗派にもご機嫌を取れるし、
末端信者にも幹部先生さまにも平伏することができる。
とにかくまあプライドってもんがなくなったな。
プライドがないのがおれのプライドみたいなさ。
「(人生・生活)このままでいいのか」という迷いはみんなあるだろう。
模範的な答えは自力で突破するしかない。
しかし、昨日プライドなんか捨てて電話帳にある人すべてに電話したが、
完全に人徳というものを失っているためか、だれにも相手にされなかった。
むかしは好きなアイドルとかいたけれど、いまは顔の識別ができない。
むかしは正義の主張があったけれど、いまではなんでもいいと思っている、
このためかだれにも相手にされず孤独でひとりぼっちでさみしい。
このまま死んでいくのが宿命なのか。
宿命転換できるというおばさんもいるが、
転換できるならそれは宿命ではないというのが当方の仏教観。
幅が広がった。どんな訳あり女性とも交際できるし、どんな宗教にも入れる。
同性愛はダメだったが、麻薬覚醒剤大麻は未経験で、
合法な場所(国)でならなんでも試してみたいという幅の広さがある。
親から虐待された無教養な中卒キャバ嬢と恋愛して(だまされて)みたいなあ。
願いをかなえるという信濃町宗教にはいま入信希望を出していて結果待ちだ。
たんまりワルいことをして、ええ思いをしたいんやが、ワルができへん。
わしはたぶんチョーかわええJKが「据え膳」でも、
もっと自分をたいせつにしたほうがいいよ、親御さんのことを考えたら、
などと偽善を口にするヘタレである。
ギャンブルにもはまれないし、金銭欲も物欲もないし、どうしたらいいのさ。
生まれながらの天然のワルにあこがれるなあ。
レイプとかできるやつってチョー優秀じゃん。
わしは大金をもらってもレイプの仕事はできないと思う。
窃盗や暴力もできない。なんにもできない。だから、なんにもなかった。だから……。
もうあとは世界からの答えを待っているしかないというかね、その。
だって、もうやることはやったじゃないですか?
おれたぶん地頭(じあたま)はそうとう悪いけれど、ここまで本を読んだ。
仏教関係、演劇関係だけでも素人でここまで読んだやつはいないでしょう?
労働経験もいろんなところで働いた。
恋愛体験なんてものはないけれど、女の子との甘い時代もなかったわけではない。
ぜんぜん誇れるようなものではないけれど。
41歳っていったら宅間守も死んでいる年齢なんだよなあ。
師匠の原一男先生は成功者風を吹かせてブイブイいわせていた年代だ。
昨日派遣会社に離職票を「なるはや」で送ってくださいとお願いしたし、
もうやることはすべてやったよなあ。
実名どころか携帯電話番号も公開したし、ここから以上は世界の問題だろう。
世界がどうおれを料理するのか、このまま廃棄処分するのか。
もうやれることはすべてやったような気がしてならない。
あとは待つしかないような、自滅か破滅か大出世か(笑)。
おれよりがんばっていないのに出世しているやつとかおおぜいいるじゃん。
もはやそれに不満をいうほど世間知らずではないが、しかし。
なんかおもしろいことはないかなあ。電話くれたらすっ飛んでいくのに。
恥ずかしいことを告白しちゃうよ、わが精神病的妄想。
自我肥大のせいだろう。
わたしは「本の山」が職場の一部の人にばれているだろうという妄想を抱いていた。
NTSロジでも近所のあそこでもコージーコーナーでも。
直近の短期バイト先のあそこでもそう。
でもでもさ、ふつうに考えたら、だれもわたしになんか関心はないよね?
だとしたら、わたしはずっと精神病的妄想を生きていたのではないか?
それは自殺するよりはましだから、まあ生きていたのだからいいじゃんという話なのだが。
大晦日にコージーの好青年Nさんが「とび職」に転職したと聞いたときは嬉しかったなあ。
あの子は心根がいいのがひと目でわかり、ここで終わっちゃもったいないと思っていた。
給金はコージーの倍以上になったらしい。
Iさんも威張ったところのない親切な青年だったが、
実家の不動産屋を引き継ぎ、いまは営業をしているという。
コージーとしてはどうだかわからないが、本当にいいことだと思う。
それほどNさんもIさんも心根のいい親切な派遣の先輩たちでした。
北戸田コージーにはあっちゃんがまだいたので驚いた。
数年派遣でコージーに来ているという。
「あっちゃんくらい若くてかわいかったらも、もっと華々しい世界に行けるのでは?」
自分は人よりお菓子と向き合っているほうがいいという。
そういう人生もあるのだろう。
おれがあっちゃんだったら世の中ひっかきまわすけれどなあ。
まだ若いんだから、かわいいんだから。
ブログのアクセス数は極めて低い。愛読者は10人ちょっとではないか。
だからこういう私小説ブログを書けるのだし、ひっくり返せば、だれにも相手にされていない。
醜形恐怖症で画面神経麻痺だから鏡はできるだけ見ないようにしている。
自分の顔が大嫌い。こんな顔の相手をする女性の不遇に同情してしまうくらい。
しかし、年上男性にはわたしが「女好き」の顔に見えるらしい。
もっと言えばわたしは客観的には「商売女」が好きな中年男の顔の模様。
太宰じゃないけれど淫売なんて、ただただ怖いだけなのにさ。
既婚者からも未婚者からもフーゾクに行きたいという告白をされることが多い。
相手の顔はまじめな会社員で、そういうことを思っているようにはとうてい見えない。
おれはね、母から目のまえで自殺されたんだから、女はね、女全般としてはね、それは。
姉的存在に甘えるのは好きだけれど、女とすったもんだやるのは、ちょっと……。
女を好きになりたい。
病的妄想だけれど女を好きになったら眠っていた(笑)パワーが全開しそう。
同年代の貧困中年から「いつか運命の女性が現われますよ」と慰められたこともありました。
母が朝日新聞信者だったから朝日新聞は嫌い。
父がNHK信者だからNHKは嫌い。
大学の同期の政治家秘書の超美人お嬢さまが入社したからNHKは嫌い。
確証はないけれどコネでしょう?

このまえひさびさにNHKがうちに来た。
わたしがまず言ったのは、訴えるなら訴えてください。
それからテレビは映りません。
地デジ移行のときからテレビは映らなくなりました。
NHK委託業者さんは、ガラケーを持ってきてください。
なんでわたしがスマホではなく、ガラケーユーザーだと知っているのかは不明。
ガラケーを玄関まで持って行くと、アプリを押せ、アプリを押せを繰り返す。
何度押しても彼の望む結果は得られなかったようでご退散してもらえた。

わたしはうそはついていない。
1970年に半年にわたって放送された30分×26回の連続テレビドラマを一括視聴。
もちろん、脚本は山田太一。
この人のドラマではなかったら10時間以上、映像と付き合うことは難しい。
わたしは20年以上の山田太一ドラマ(シナリオ)のファンだが、
どうしてこうまで好きなのか考えてみると
「ふつうの生活」「ありきたりの日常」へのあこがれが人並み以上に強かったからだと思う。
欠損家庭もありきたりと言えばそうだが、うちの家庭もまた崩壊家族であった。
それは父が悪いのでも母が悪いのでもなく、
社会風潮(家族はこうあるべし)が家族を寒々としたものにさせていた。
結局、母は2000年にわたしの目のまえで飛び降り自殺をして血まみれになって死ぬ。
遺書にも日記にもひどいことが書いてあった。
母親が偉いと思うのは、
多少は皮肉もあるが、わたしの人生を完全に壊してしまったところである。
どこもママさんは自分好みしようと息子にあれこれ仕掛けるが(教育するが)、
結局はべつの若い女のところに逃げられる。
しかし、うちの母カズコさんは極めて優秀で、
41歳にもなる息子をいまだに支配しているしコントロールしているし好きにさせない。
ふつうはそんなことはできないが、目のまえで飛び降り自殺をしたらそれはできるのだ。
息子を完全な母の支配下に置き、
腹から生まれた赤ん坊を自分の完全な作品にすることができる。
母が息子の目のまえで自殺するなんて前例も少ないだろうし、
経験者はほぼ廃人になると思われるから、非常にレアなケースと言えよう。

ふたたび、わたしが山田太一ドラマを好きなのは
「ふつうの生活」が描かれているからである。
わたしは18年まえに母から目のまえで飛び降り自殺をされ世界は闇に覆われた。
最後のプライドで(いわば母を殺した)精神科には行かなかったが、
社会的常識から見たら「ふつうの生活」からはるかに逸脱している。
世間をせせら笑いたいのは、母が自殺してもだれも助けてくれなかったこと。
国家もマスコミもあらゆる宗教団体も救いの手を差し伸べてくれなかった。
そして、こういう事情で、履歴書の空白が生まれてしまうが、
「本当のこと」を言っても面接官を困らせるだけで(経験あり)、
履歴書は私文書偽造をするしかない。悪いことなのだろうが、そうするしかないだろう。

ようやく1970年の山田太一ドラマ「二人の世界」に話を戻す。
じつはこの作品は数年まえに2、3回視聴してギブアップした。
美男美女の恋愛ドラマなんか見たくねえというのが、その理由である。
今回、目や耳を酷使して最後まで視聴できたのは、
わたしも少しながらまともに近づいてきたからだろう。
ドラマ「二人の世界」はイケメンで一流会社のエリートと、
重役の美しいお嬢さんがまったくのたまたま偶然で恋に落ち(ひとめぼれ!)、
1週間を待たずとして婚約(すぐさま結婚)する話である。
26歳のイケメンは優秀な営業マンだったが、会社の派閥争いに巻き込まれ、
いわば重役のミスを押し付けられるかたちで、
おもしろみのない総務に左遷されてしまう。
いくら総務の仕事はつまらないとはいえ一流企業で給料はいいし、
まだ26歳なんだから上役に貸しを作っているぶん将来性は有望だろう。
しかし、イケメンは美人妻にあおられたこともあいまり、
脱サラして当時流行のスナックを始める。
イケメンはスナック開業にあたり妻の父に借金を申し込むが、
この会社重役の岳父の威厳がすばらしく、世間の象徴と言いたくなるくらい迫力がある。
「スナックを経営したいとか、まわりに流されているだけではないか?」
図星のイケメンは返す言葉がない。妻の父は言う。
「本当にやりたいことをやってみろ」
26歳のイケメンは本当にやりたいことなどわからないことを深く悟る。
しかし、スナック開業は家族全体にプラスをもたらし、
家族は一体化して、それぞれなんにもないマンネリ人生を活性化させることになる。
スナック成功のために、両家の家族がみんなで協力して生きがいのようなものを感じる。

これはわたしの父と母の物語と言ってもよかろう。
時代的にも、1970年は父と母が交際を始めたころだ。
田舎者の父は冴えないねずみ男のような風貌だったが、
水道橋の食堂で休みなし、どころか職場に泊まり込み働いていた。
父が酔うと毎回言うことだが、あのころは年収1千万あったとか。
(このまえ女友達と逢いに行ったら年収900万になっていた←クスクス)。
わが父は不細工だったが、ドラマ「二人の世界」のイケメンとおなじく、
このままサラリーマンで終わりたくないと思い脱サラしようとする。
それは愛する妻(わたしの母)の意向もあったことだろう。
ドラマでも開業資金がないために借金を頼る美男美女夫婦が登場するが、
父は母の叔母に援助してもらったとのことである。
いまの父は去年あたまをやってしまったから、むかしのことはすべて抜け落ちている。

いいなあと思うのである。
山田太一ドラマ「二人の世界」もいいし、そこから想像される若き両親の奮闘ぶりもいい。
「二人の世界」を見ながら、
父と母にもこんな甘い青春時代があったのではないかと考えると涙が出て来る。

いまもそうかもしれないが、むかしの結婚は家と家との結婚でたいへんだったでしょう。
相手の家の資産状況、遺伝的病気の有無、犯罪者はいないか。
いまはフェイス(顔)の部分が強いが、むかしはこういうことの吊り合いが重んじられた。
50年くらいまえまでは結婚は、好きか嫌いではなく世間体の問題であった。
いまならきょうだいに無職ニート引きこもりがいる女性は結婚できないのではないか?
まあ、それを超えるのがほんものの恋愛結婚なのだが、この問題は置いておこう。
新婚生活はとても甘いようだが、父も母も似たようなものを経験したと思うと嬉しくなる。
新婚旅行で1個1300円のお椀を買う買わないで喧嘩する新婚夫婦は甘いよなあ。
田舎者のイケメンがセンパイという言葉を使うと、お嬢さまの新妻が拒否する。
なんかセンパイとか聞くとリンチでもしそうな気がして怖い。
おいおい、田舎ではセンパイは当たり前で、とてもやさしくしてくれるんだぞ。
ふつうの家族はいいなあ、と思うのは姉と弟。
ドラマ「二人の世界」でいちばんよかったのは結婚した姉と実家の弟の関係だ。
弟は姉の結婚がどこかさびしいし、同時にとてもうれしい。
結婚してからも姉は弟の心配をするし、弟もいつも姉のことを気にかけている。
きょうだいには兄弟、姉妹、兄妹、姉弟と4パターンあるが、
いちばん情緒的で美しいのは姉と弟の関係ではないか。
山田太一さんもお姉さんがいらしたし、お子さんはお嬢さんふたり、お坊ちゃんひとり。

「ひとつの結婚が周囲に孤独をふりまく」というナレーションがドラマにある。
たしかに娘が嫁に行ったら実家の両親も弟もある種の孤独感はあるだろう。
こういう「ふつうの生活」を描いているから山田太一ドラマはいいのである。
甘い新婚カップルが、ふざけて威張って、
どのくらいわがままを通せるかお互い試すところとか、甘酸っぱくてええなあ。
あの父と母もわずかながらでも、そういう甘い体験をしていてくれたらと思う。
「食べ物は育ちが消せない」とかリアルだよねえ。
わたしの母も専業主婦だったが、主婦は暇を持て余してしまう。
ドラマでは女友達が「暇なら子どもでごまかせば」「それが生活というもの」
と助言するが、おそらくわたしが誕生したいきさつもこれに近かったのだろう。
父が脱サラしたのは当方が生まれたあとだから、かなりリスクがあったのではないか。
しかし、70年代の経済成長率は異常である(←クリックしてね)。
父と母は焼鳥屋を開業して共働きで休みもなく、そのうえ母には子育てもあった。
「二人の世界」を見ると、この時期こそ土屋家のもっともいい時期で、
父にも母にも生きがいがあり、毎日張り合いのようなものがあったのではないか?
後年、母が精神病を発症したとき、このストレスが原因で自分は病気になったと主張した。
とはいえ「二人の世界」を見ると、父も母もそれなりにいい時代があったような気がして、
それは錯覚や誤解といったものかもしれないが、そうだとしても深く慰められる。
わたしも中学生のころわずか、父の焼鳥屋を手伝ったことを記憶している。

わたしは母の眼前投身自殺以降、おそらくそのショックだろう。
それ以前の記憶が(嘘みたいだが)その日を境にきれいさっぱり消えてしまった。
子どものころのことをほとんど覚えていないのである、
神さまだったような母から目のまえで飛び降り自殺されるとはそういうことだし、
この体験はだれにもわかってもらえないだろうし、
母は息子の人生を完全に自分の思うがままにすることに成功したと言ってよい。
精神病の母は最期なにもかもわからない状態だっただろうが、
いま皮肉というべきか当然というべきか、わたしがその状態を引き継いでいる。
これはもうどうしようもないし、どんな宗教に入ってもいいが、
解決は自己の死によってもたらされるだろうということはうすぼんやりわかっている。

このドラマを見て、もしかしたら父と母は、
生きがいと張り合いに満ちた「二人の世界」を
味わったこともあったのではないかと涙がこぼれるほどうれしくなった。
わたしはずっと「一人の世界」を生きてきたが、これは母の呪縛なのだろう。
わたしは母を自殺というかたちで殺したが、
同時に母もその瞬間にわたしを抹殺し「一人の世界」に追いやった。
このまま「一人の世界」でだれにも相手にされることなく、心も開かず、
夢も希望もなく孤独死するのはまざまざと見えているが、
そんな男の両親がわずかでも
「二人の世界」を生きていたかもしれないと思うと涙ぐんでしまう。
それほどに「一人の世界」は寂寥索莫としているのである。
孤独なわたしは「二人の世界」にあこがれていたから、
いい中年男になっても古臭い山田太一ドラマに執着しているのだろう。
山田太一ドラマ「二人の世界」――いっときでも甘い夢を見せていただいた。
ジェイコム、日本映画放送チャンネル、山田太一先生に感謝いたします。
みんなひとりじゃないんだなあ。
最後のナレーションでこんなものがあったと記憶している。

「人間一人より二人のほうが強い」

子どものころに観て感動した映画を40を過ぎたいま再視聴してみた。
反戦的な学校教育的、つまり左翼的な映画だと思っていたが、
大人の眼にうつった「ビルマの竪琴」は左翼や右翼という垣根どころか、
国境人種の壁、あらゆる宗教の相違を乗り越えた感動作であった。
観たのは1985年上映の中井貴一バージョンである。

いまから考えたら赤紙一枚で徴兵されてビルマくんだりまで行き、
命がけでイギリス兵(インド傭兵ふくむ)と戦うなんてバカらしいでしょう?
しかし、戦前はそれが正義だとほとんどの国民が思っていて、
天下の朝日新聞でさえ戦争を正義のためと報道して国威発揚していたのだ。
水島上等兵(中井貴一)のいた小隊は、
イギリス兵から停戦を聞き武装解除して捕虜になる。
いまから考えたらこれは「正しい」行為と言えるのではないか?
隊長(石坂浩二)は生死をともにした部下たちに向けて降伏を潔く認めようと説く。
いま自分たちにできることをやろう。
万が一、母国に帰れることがあったらみなで日本再建のために力を尽くそう。
この部隊は隊長が音楽学校出とかで合唱が好きな風変わりな軍隊であった。
若い水島上等兵は竪琴(たてごと)がうまかった。
「私たちは歌のおかげで、苦しいときも辛いときも、なんとかやっていけたのです」

ビルマの三角山というところではまだ戦争が続いていた。
そこの小隊は停戦を受け入れず降伏しようとしないで抗戦している。
兵隊や兵器の差は圧倒的で、このまま交戦したら全滅してしまう。
そこで水島上等兵が英兵および石坂浩二の命令を受け説得に出かける。
タイムリミットをもうけられたギリギリの交渉である。
しかし、三角山の隊長は水島の説得に応じようとしない。
水島の言うことは石坂浩二の口真似である。
「ここは生きて忍んで日本に戻り働く。それが国のためだ」
三角山の隊長は応じない。
おまえは根性が腐った日本人だ。
ここで降参したらビルマで死んでいった仲間たちに申し訳が立たない。
一兵でも残って戦っておれば戦争に負けたことにならない。
水島は命の大切さを訴えおめおめ全滅することはないと必死で語りかける。
そこで部隊は全員で話し合った結果、最後まで戦うという結論になった。
当時、朝日新聞もうたっていた一億玉砕という正義を貫いたのである。
いまのわれわれは彼らをバカだと笑うだろうが、
命なんかよりも大きなものに殉じた彼らは軽々しく転向したやつらよりも雄々しい、
もっと言えば美しいということもできるのではないか?
少なくともほんの1週間くらいまえまでは、こちらが正義だったのである。

タイムリミットが来てイギリス軍から砲撃され三角山の日本部隊は全滅する。
水島はこのとき一度死んだという解釈もできよう。
しかし、水島は奇跡的に一命を取りとめる。
あるビルマの老僧の世話になり歩けるようになるくらいまで体力は復活する。
みんなのいる捕虜収容所に戻ろうとする水島にビルマの僧は語りかける。
このときの老僧のセリフはとても深いのだが、すぐには水島の心には届かない。
しかし、ビルマの僧の教えが、
じわじわとボディーブローのように水島を変えていくのである。
水島はうまく捕虜収容所まで行くために恩人の僧の袈裟(けさ)と腕輪を盗む。
老僧は水島が自分の袈裟と腕輪を盗むのを見るがとがめないで許す。
水島は空腹で動けないときにビルマ人に食べ物を供養されむさぼる。
道行き、大量の日本の兵隊の死体を見かけ、いたたまれなくなる。
自分で遺体を集め穴を掘って火葬、土葬する。
これはまるで平安時代の僧、空也上人がやったこととおなじである。
道中、イギリス人の牧師と修道女がうたう讃美歌が聞こえてくる。
覗き見ると、日本の傷病兵が死んだのでイギリス人が埋葬している。
死――死をまえにしたらなにが「正しい」のだろう?
死――死のまえに立ったら国籍、宗教の違いなどなんになろうか?

水島が迷うのはこのときである。
仲間であるみんなのところへ戻りたい。日本に帰って家族に逢いたい。
そして、いまは焦土になった日本を働いて働いて経済復興させたい。
ちなみに戦前は一億玉砕が正義だったが、いまは経済成長が正義である。
むかしは神風特攻隊が偉かったが、いまは金を稼いだものが偉い。
水島はみんなのところに、そしてなにより日本へ帰りたい。
しかし、野ざらしになった同胞の屍(かばね)をこのままにしていいのか。
さらに深い問いに悩まされる。
どうして大勢の日本兵が死んでいるのに自分は生き残ったのだろう?
回想シーンは出て来ないが、
このとき水島はビルマの老僧の言葉を思い出したのではないか。

「何事もムダな事だとなぜ悟らぬか。
イギリス兵が来ても、日本兵が来ても、たとえ戦争があったとしても、
何が変わるのだ。ビルマはビルマじゃ」


このビルマはダルマ(サンスクリット語で「仏法」の意味)と言い換えてもよい。
仏教国ビルマは変わらないだろう。
永遠不変のダルマ(仏法)もまた無常の世とは異なり変わらない。
浮世の正義はころころ変わり無常だが、心のダルマは恒常であり平安だ。
一般的にビルマに残った水島は偉いとされているが、
それは同胞の屍(死体)を埋葬したからだけではないと思われる。
戦争中は鬼畜米英と言い、戦後は経済復興だというみんなと袂(たもと)を分かち、
自分のあたまで考え抜き自分の道をひとりで選んだから尊いのではないか。
群れて正義をうたう仏教もあっていいが、
ひとりわが道を行くのもまた本物の修行者とは言えないだろうか?
釈迦は死ぬ間際になんと言ったか。
法をよりどころにせよ、自分をよりどころにして、
犀(さい)の角(つの)のようにただひとり歩め――。
映画のラストシーンの意味するところはこれであろう。

水島がいつものように同胞の屍を葬っていると複数のビルマ人が手伝ってくれる。
どうしてビルマ人は、
勝手に戦争をしに来た迷惑な日本兵の埋葬に協力してくれるのだろう。
水島はビルマ人たちに向かって合掌する。
多くの死体を葬っているとビルマの赤い土のなかから光り輝くものが出て来る。
ビルマ人はこれはルビーであり、たましいだという。
水島はビルマでたましいの問題に行き当たったのである。
たましいから見たら敵も味方も、かりそめの正義も、宗教の相違もない。
あのビルマの老僧は、たましいの問題を語っていたのである。
ビルマで死んだイギリス兵のセレモニーが行われる。
日本人の捕虜も参列させられることになった。
なんで自分たちが英国兵なんかの葬式に参加しなきゃいけないんだと、
不満を口にするものもいる。
牧師を先頭にしてイギリス兵、ビルマの僧が納骨堂に入っていく。
そこにビルマの僧の格好をした水島もいたので仲間たちは驚く。
日本式の遺骨の持ち方をしたビルマ僧が水島そっくりだったのである。
このとき水島が納骨したものは、例のルビーであった。
ビルマで不本意にも理不尽にも死んだ日本兵たちのたましいを、
水島は神のみもとに届けたのだろう。

「ビルマの竪琴」では歌が巧みに用いられている。
正確には歌(言葉)ではなく音楽(メロディー)である。
言葉は国それぞれで通じないがメロディー(哀歓)は国境を超える。
停戦後、イギリス兵、インド傭兵、日本兵がいっしょに
「埴生の宿」を歌うシーンは何度見てもいい。
しかし、英国兵は「Home! Sweet Home!」を歌っているのである。
おなじメロディー(哀歓・情感)を違う言葉で敵味方がいっしょに歌っている。
そして、一時的ではあるにしろ心を通じ合わせている。

飛躍して宗教的なことを書くと仏(ダルマ)はひとつなのである。
それは自分のたましいのことだろう。
大乗仏教も小乗仏教も優劣はなく、
おなじ仏を信じているという見方はできないか?
おなじ歌をイギリス人は英語で日本人は日本語でうたうのとおなじで、
おなじ仏(たましい)をあるものは南無妙法蓮華経という言葉にして、
べつのものは南無阿弥陀仏という言葉にしているとは考えられないか?
それが人によっては密教のダラニ(呪文)になることもあるだろう。
もっと飛躍すれば、たましいのことを東洋人はお経としてうたい、
西洋人は讃美歌としてうたいあげているとは言えないだろうか?
本当は言葉にならないそれ(たましい)を、
多様な人がそれぞれの言葉にしているのではないか?
究極の真実、真理は自分でもわからず、ならば言葉にもならないはずである。

日本人捕虜が母国へ送還される直前、水島は竪琴を手にしてやって来る。
みんな鉄条網にしがみつき、「水島、ニッポンへ帰ろう」と声を限りにして叫ぶ。
水島だってみんなといっしょに懐かしい日本へ帰りたいのである。
しかし、帰ってはいけないというたましいの声が聞こえてくるのである。
たましいの声はうまく言葉にできないから、
水島は涙を流しながら竪琴で「仰げば尊し」を奏(かな)で、
ひとりたったひとり、ひとりぼっちでみんなから離れ去っていく。

日本へ帰る輸送船のなかで隊長の石坂浩二が、
みんなのまえで水島からの手紙を読み上げる。
隊長は水島上等兵のことを部隊のなかでいちばん理解している。
以下は水島の手紙の一部である。
水島はビルマの山河を僧形でひとり歩きながら考えたことを述懐する。

「山をよじ川をわたって、そこに草むすカバネ、みずくカバネを葬りながら、
私はつくづくギネンに苦しまされました。
いったいこの世にはなにゆえこのようなヒサンなことがあるのだろうか。
なにゆえこのようなフカカイな苦悩があるのだろうか。
このギネンに対して私は教えられました。
なにゆえにということは、しょせん人間には、
いかに考えてもわからないことなのだ」


この「わからないこと」が神であり仏であり、
たましいであるというのがわたしの解釈である。
さらに解釈(誤解)を進めれば、この「わからないこと」が、
たとえばおなじ歌が「Home! Sweet Home!」と「埴生の宿」にわかれるように、
アーメンや南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経にわかれているのではないか。
戦中も現在も朝日新聞はそのときどきの正義をいかにもわかったように、
わかりやすく大衆に語りかけてくるが、
「わからないもの」「語りえぬもの」のほうが重要という見方もあろう。
わたしは映画「ビルマの竪琴」を何度も観て、
本作はタイで撮影されたと知りながらも、ビルマに行きたいと強く思った。
なんとかしてビルマにひとりで行ってみたいと。

1992年に放送された山田太一単発ドラマ、
「ハワイアン ウエディング・ソング」ジェイコム録画分をいまごろ視聴。
シナリオですでに読んでいるので、テキトーに酔っぱらって見たものである。
前回の感想では、これはハワイのマウイ島の絶景がメインだったのだろう。
シナリオではそれほどのものとは感じないと書いていた。
いざ映像で見ていたら、前回の感想は当たっていて外れていた。
たしかにシナリオで読むよりは映像で見たほうがいい作品だったが、
それはハワイの絶景のためではなく、
役者の容貌がいまの放送コードには引っかかるのではというくらい、
冴えなくみみっちく貧相で絵にならず、そこがじつにリアルな感じがしたからである。

本当に失神するくらい冴えないアラサーの男女が親の見栄で、
ハワイの教会で参列者は親だけという環境のなか結婚式をあげる話である。
繰り返し書いているが、山田太一ドラマの基本トーンは、
「なんて人生はこうまでつまらないのか」と「これほどなんにもないのか」である。
このドラマでも冴えない花嫁の母の倍賞美津子が、
定番の山田太一台詞「つまんない」「なんにもない」を絶叫していた。
だから、せめて行き遅れた風貌もなにもかも冴えない30を超えた娘を、
結婚紹介所で紹介されたこれまた見栄えのよくない、
どっからみてもお洒落な会話とは縁がないオタク的な「とび職」の青年と
ハワイ! ハワイ! ハワイ! 
それも(そのころ)流行のマウイ島の教会で結婚させたら、
せめて少しでも「つまんない」という感覚がなくなるのではないか?
わずかでも人生でなにかをなしえたような錯覚でも感じられるのではないか?

ところが親のあとを継いだ冴えない「とび職」のお婿さんが親に反発する。
おれは日本人なんだから、こんなところで西洋風の結婚式をあげたくない。
「いやなものはいやだ」
じつのところ個性というのは、なにが好きか、なにがいやかにあると言ってもよかろう。
「いやなものはいやだ」は親の支配下に置かれてきて、
うまく逆らえずにいる子どもの最初に発言するところの個性と言ってよい。
さあ、みなさまもおっしゃってください。
それは「いやなものはいや」だからやりたくない。
「いやなものはいや」と言わせないのが世間であり社会であり常識である。
リピート・アフター・ミー。さんはい。

「いやなものはいや(=自分)」

むろん、反語は「好きなものは好き」でこちらも個性であり、自分そのものである。
いくら健康に悪くても常識に反しても礼を失しても、自分というものは、
「好きなものは好き」と言うところにあるというのが朝日賞作家のメッセージである。
さんはい。人生をおもしろくするためにいってみよう。はい、さんはい。

自分=「好きだから好き」「いやなものはいや」

このドラマでは30過ぎのいまではテレビに出せないくらいの冴えない男女が、
親の期待や世間に合わせて、結婚相談所で出逢い、
お互いこのくらいかなあと吊り合いを考え、
しかし親の見栄もありわざわざハワイのマウイ島の教会で結婚式をあげる話である。
正確にはそうではない。
いかにも女の相手がヘタそうな「とび職」のオタク男が「いやなものはいや」と言う。
自分は足の短い猿のような日本人だから、
西洋人を真似てタキシードを着て、
キリスト教なんか興味もないのにハワイで結婚式なんかあげるのはいやだ。
反抗期もなかったような、親の言いなりとおぼしき青年がはじめて自己主張をした。
個性を出したのである。いやなものはいやだ。
これまたびっくりするくらい冴えない30女も
へたくそに自分を出して海に衣服のまま飛び込むが、まったく絵にならない。
花婿は花嫁を追いかけて海に飛び込むがカナヅチで溺れてしまう始末である。
なにをやっても絵にならない30を過ぎた男女である。
このふたりがハワイのマウイ島の絶景で、まったく映画のようではない、
言うなればしみったれた会話をするのだが、いいなあと思った。
これが山田太一ドラマであり、われわれ庶民の人生そのままであると。

人生は一定の年齢を超え常識にとらわれると、なにをしてもつまらない。
どうがんばって夢や目標を持って生きても、大半の人間の人生はなんにもない。
だから、ハワイで結婚式とか、そういう華々しいことを夢見て、
運のいいものは実行するのだがしかし、
そんなことをしてもつまらないし結局なんにもない。
それが生きるということだが、そこに哀歓を見て取れば、
そこにせめてもの救いのようなものを感受できれば、
このカネカネカネの資本主義社会もまだまだ灰に覆われてはいないのではないか?

いまいい歳になって、まったく世間からは評価されず孤独零落の身で思うのは、
人間ってつまらないから結婚するんだろうなあ。
人生なんにもないということにうすうす気づいたとき、子づくりをするのだろう。
人生はつまらないし、なんにもない。
しかし、おもしろい人生も有価値な意義ある人生も嘘っぱちだ。
ならばつまらない、なんにもない人生を直視してみたら、
そこにしかない味わいがあるのではないか?
それが生きるということではないか? 生きがいはそこにしかないのではないか?
つまらなくてなんにもない人生でも、それは「ありふれた奇跡」と自分をだまして生きよう。
ふたたび、それが生きるということだ。
わたしなんて職場の人全員に
「なにがおもしろくて生きているんですか?」
と質問したいような世間知らずのところがある。
人生はつまらないがしかし、なんにもないがしかし、しかししかししかし――。

(関連記事)
「ハワイアン・ウエディングソング」(山田太一/「月刊ドラマ」1992年7月号/映人社)
ひと晩明けたら正気に戻っていた。
いま出勤まえにジェイコムに録画していた映画「ビルマの竪琴」を見る。
みなさまは今日が仕事始めだろうが、わたしは1日にコージーコーナーで済ませている。
いまの職場に雇っていただけるのもあと4日。
同僚のみなさまとその後一生逢わない可能性も高い。
失礼のないよう仕事に励みたいと思う
では、行ってきます。今日も元気で♪
ぼくは正常で清浄で、成城大学出身のシナセン母子の奴隷です。
ぼくは明日(今日か)バイト先に行き、棚卸という作業をはじめて経験します。
ぼくはクルクルパーではありませんから、警察に通報しないでください。
ぼくはあすもあさってもまじめに行きます。
おまわりさんに逢ったら「おはようございます」と大きな声であいさつします。
部長さんや課長さんにはもっと大きな声を出すことでしょう。
なぜならぼくはまじめだからです。
ぼくはぼくはまじめセイジョー、イエローピーポーがこわい、助けて許して。
セイジョーだからぼくぼくぼく♪
早く書けとか急かされることもあるけれど、もう書いているんだよね。
対価は発生していないけれど、こうしてブログに駄文をさらしているではありませんか?
どうして人は商業出版、新人文学賞、
ちんけなシナリオ賞と無縁の「書く人」を無視するのか。
だから、書いているって。ブログだったら10年以上書き続けているって。
しかし、書いていないこともある。
この書いていないことが文章の迫力を増すような気がしてならない。
あまりにもおいしい体験はもったいなくて貧乏根性の持ち主は書くことを躊躇する。
大晦日の北戸田は、おいしいおいしいおいしかったでござる。
生きている妙味ここにありって思ったくらい、すばらしい人生体験ができた。
元旦も元旦で去年とおなじく川口の菓子工場に行き、
子どものお年玉よりも低い給金で帰されたが(待機してもいいとおっしゃいましたね)、
パターンは読んでいたし蕨駅へのバスはすぐ来たし、
お正月からわたしがいちばん好きな居酒屋で飲食できたのでかまへん。
2時間食べ放題、飲み放題で2千円以下の、狂的酒場が蕨(わらび)にはある。
川口コージーコーナーは本当は16時にでも帰れたが、
16時半までがんばった(居座った)。
いっしょにいた女性同僚はそれ以前にタイムカードを切っていた。
お正月に仕事もないのに派遣を呼ぶのはコージーコーナーの芸風だろう。
帰るとき、とんでもなく汚い、およそ食品工場とは思えない靴置き場で、
レンタル靴の返却サインをしようとしたら、ペーパーにあっちゃんの名前が。
意外ときれいな字を書く子なんだなあ。
ということは、上階に行かされただろうあっちゃんも16時ごろに帰されたのか。
あっちゃんは食堂でのケーキのアウトレット販売が目的で川口に行くと言っていた。
聞いた話だが、2千円のケーキが2百円で買えるのだとか。
わたしの昼休憩時間にはアウトレット販売は終了していた。
人生はお金だが、お金じゃないとうそぶいていると、お金が入ってくる。
いつものように嘘くさいインチキを書いた。
北戸田に大晦日に行ったこと、そこで見聞きした経験は、わたしの宝である。