「なんだかなァ人生」(柳沢みきお/新潮社)

→うちのブログのファンなんか10人程度だろうが、
興味の矛先は「おまえ大丈夫か? 正気なのか?」にあるというくらいの自覚はある。
もっとやってほしいという期待感と、
そろそろやめておけという無言の老婆心を日々感じていなくもない。
今年のビックイベントはブログに携帯電話番号を公開したこと。
「だれの挑戦でも受ける」っておまえ大丈夫か、正気かっていう話。
しかし、それにうまく乗ってくれた御仁もおられ、
奈良のお医者さんから電話があり、お話させていただき、
ついでに京都も観光できたのは今年いちばんのいい想い出であった。
だれに話してもこれは「え?」という顔をされるが、事実なのだからしようがない。
その山田太一ファンの奈良のお医者さんのおすすめが漫画家の柳沢みきお。
柳沢みきおはコンビニ廉価版の「大市民」が好きで愛読していた。
いま再読してみようとしたら、どうやら引越のときに売り払ったようだ。
ぜひ柳沢みきおを読んでくださいということなので、このたび非常に遅れはしたが、
漫画家初のエッセイ集である(安価では)けっこう入手困難な
「なんだかなァ人生」を読んだしだいである。
奈良のお医者さんからはお小遣いをいただいており、
恩を忘れないというか義理堅い面が、
シナセンの最高指導者であられる小林社長から「あんたは厚顔よ」
と大声で罵倒された当方にもあるのかもしれない。
エッセイは「枕草子」「徒然草」の時代から自分(の好き嫌い)を書くものだから、
本書も漫画家の書いたものながらじつに日本の伝統にそった正しいエッセイであった。

「週刊新潮」連載のエッセイである。
漫画を描くのは苦しいが雑文を書くのはイージーで楽しいとか、
本音っぽいことが最後のほうで書かれていたが、作者は大丈夫か正気か?
そんなみんな思っていることを満天下にさらして、先生は大丈夫ですか正気でっか?
漫画はいちばん難しい執筆芸術だと思う。
絵画オンリーでもダメで、セリフオンリーでも、物語オンリーでもダメなのだから。
まあ、本音のエッセイは楽しいよね。
しかし、著者は妻や子供たちのことはまったく触れていないから、そこは大丈夫で正気。
風俗やキャバクラのようなものが大嫌いとはよく言ってくれたなあ。
対人恐怖症気味のものにとっては、風俗やキャバクラは接待でなく拷問だろう。
バブルのとき10億で買ったマンションが
1億4千万でしか売れなかったという実話は「徒然草」を超えた無常観があるだろう。
わたしは物欲のないのが当面の悩みなのだが、
著者はクラシックカー、クラシックギターの収集に散財してきたらしい。
そういう人間そのままの俗物根性を公開しているのも悪くない。
開き直っているところもいい。
わたしも言葉(書籍)に「大丈夫か? 正気か?」レベルの投資をしているので、
柳沢みきおの言葉には共感するし、それが真実であってほしいと思う。
消費したのではなく浪費したのでもなく、投資したのだ――。

「でも、これだけはただ飲み食いし遊んだだけの浪費ではなく、
自分が美しいと惚れこんだ物への消費なので、後悔は一切ありません。
それどころか、私の血となり肉となっていて、
これからの作家人生で、大いに生かせるような気がしてならないのです。
つまりは無形の大財産になっていると。
ですから、これらの無形財産を作品にどう生かしていくのかが、
今後の人生のテーマですし、
楽しみでもあるのです(単なる負け惜しみか)」(P167)


男って難儀な生きもんやねえ。
タバコとか酒とか博打とか
美食とか風俗とかコレクション(骨董)に依存しないと生きられへん。
そして、その欲望が生きる活力を生みだし文化を活性化させるという。
ぼくは喫煙もパチンコも競馬も女遊びも骨董趣味も否定しない。
そのくらい人生のつまらなさをわかる年齢になったし、
なにがわかったのかと清く正しい人から
胸ぐらをつかまれても薄笑いしながら「なんだかなァ人生」。
まだ自分の人生にはなにかあると
自分をごまかして生きているけれど「なんだかなァ人生」。
吉原の高級風俗で一発やって銀座の鮨屋でお任せを頼んでも「なんだかなァ人生」。
べつに死んじゃってもいいいけれど、それもめんどくさいし、
精神科にかかるのはもっとめんどくさいしという「なんだかなァ人生」。
本書を読んで鮨(すし)を食いたくなった。
柳沢みきおは鮨を好きなようだが、自分の好きなことを書いたところで筆は冴える。
とはいえ、これは読者の関心もあるのか。
不動産とかクラシックカーとかクラシックギターとか西洋骨董品のことを書いたエッセイは、
正直なところあまり関心がないのでおもしろくなかったなあ。
いや、鮨は成金趣味のようなところがないのがいいのかもしれない。
スーパー半額なら250円レベルでだれでも鮨を口にすることができるのだから。
好きなことがあったら人はあのもっとも恐ろしい孤独から逃れられる。
ビールが好きで(彼はビールをロックで飲むらしいベトナム! ラオス!)
ベンツと風俗が嫌いな友人がひとりもいないという柳沢みきおは言う。

「私は人付き合いが極端に苦手で、仕事関係の人以外とは誰とも会いたくない、
という人間です。ですから、あえて友人というものを拒否してきたので、
腹を割って話せる男友達がいない、というツケが悩みを抱えた時に回ってきます。
どうにもならないほど、生きる事への息苦しさを感じた時にも、
一人で悩んで処理するしかなくモンモンとなるのです。
しかし実はコレが、私にとっては物語を作る上で大いに参考になっているので、
有意義なことではと。でも疲れます」(P165)


格のうえでは助言できるレベルの相手ではないか、女友達はいいよお。
柳沢みきおは風俗が嫌いなら、女性と友人関係になれるのではないか?
年上の女友達と話すとき、人生も悪くないなんて、枯れ葉のようにしんみり思う。
だから、出世や大勝利と縁がないのかもしれないけれどさ。
奈良のお医者さんはおもしろかった。
かの医者の影響で早稲田の演劇博物館に行き、山田太一未公刊戯曲を読んだわけだ。
そして異常なほどの「大丈夫か? 正気か?」
という執念をもって感想をブログに記している。
それは広い意味で文化の貢献につながっていることだろう。
わたしもブログに携帯電話番号を公開したとき、
まさかだれもかけてこないだろうという世界への諦念があった。
電話の着信があったとき「大丈夫か? 正気か?」と思ったものである。
奈良へ来ないかというお誘いにはさらに「大丈夫か? 正気か?」。
行ってしまうわたしもわたしだが、誘ったほうもそうとうなものである。
ぶっちゃけ、そんなことに金を使っても意味がないとも言えるわけだから。
奈良のお医者さんや柳沢みきお、
わたしに共通しているのは自分の「好き」へのこだわりであろう。
なにかを好きになったほうが人生は楽しい。それがパチンコでもタバコでも風俗でも。

「私家版 精神医学事典」(春日武彦/河出書房新社)

→著者からいただいた本だからケチをつける気はカケラもないことを最初に断わっておく。
こだわりとプライドに満ちた500ページ近い大著で、
そのうえ近年はめずらしい活字二段組(表現が正しいかはわかりません)である。
売れるのかなあと。売れなかったらまた春日さんのことだから被害者意識を
こじらせてしまいそうで、こんな渾身の大著を書いたにもかかわらずそれでは、
踏んだり蹴ったり、あんまりなのでかわいそうで見ていられなくなる。
帯を見ると荒俣宏、円城塔、斎藤環といった大物(?)たちからの宣伝文があり、
これは根回しをかなりうまくやっていると見てよく、
出版界にはいろいろな賞があるようだが、
もしかしたら長いこと出版業界から無視されていた春日さんは、
本作で初受賞のようなものをするのではないか?
そうしたら賞のパワーで売れるだろうし、
春日先生の本当の価値が世間から認められ、
お勤めの病院でも最近顧問から院長に出世したようだし、
まさに人生一発逆転、春のようなものが訪れるのではないだろうか?
さらにさらに「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」は、
著者が私小説と言っているから私小説で、
これもなにかの文学賞を受賞して、ようやく、
ようやくだが春日先生の時代が到来するのではないか?
もしそうなったらこれは本当に邪心とかなく長年のファンとして嬉しいかぎりである。
小谷野敦さんがなんか文学賞を取ったらケッと心のどこかで思うけれど、ここだけの話。

いったいどうして愛読者に過ぎないこちらに、
春日さんはわざわざこんな大著をプレゼントしてくれたのだろう。
いま身体的にも精神的にも調子が悪く、
これはそろそろ精神科へアクセスしろよということなのかと穿(うが)った見方をしてしまう。
そういう思考回路を取ることからも、いまの当方のメンタル面の不調はわかるだろう。
たぶん実際はそんなお節介めいたものではなく、ただの厚意か、
こいつがどんな感想を書くか知りたいという好奇心からだと思う。
精神科へ行くチャンスはいままでいくらもあったと思うし、いまさら感が否めない。
とはいえ成仁病院へ行くには赤羽に出て、そこからバスで西新井まで1本か。
いきなり院長先生が診てはくれないだろうなあ。
それにもし精神科にかかるとしても春日先生だけはちょっとと思うし、
反面、春日先生に診てもらわないとしたら精神科なんて行く必要はないとも思う。
いやいや、いきなり春日医師のまえに登場して、
「なにがお困りですか?」と聞かれても無言で答えず、
こいつは緘黙症かと思わせておいて、
いきなりカバンからくるくる巻いたカレンダーの裏を取り出し、
おもむろに芝居がかった調子で「人生の迷い」と書かれた紙を見せるのも、
これは氏が占い師にやったことのパロディーなのだが、おもしろいのかもしれない。
しかし、「人生の迷い」なんて自分で考え抜くしかなく、精神科医に聞くものではないし、
もし答えてくれる人がいたとしてもそこでお手軽に得た答えはニセモノだろう。
つくづく医者は患者を選べない因果な商売だと思う。
「物欲がないので困っています」と相談されても答えようがないだろう。
「それはいいじゃないですか」くらいなもんで。
40を過ぎた男が同性の医者に「虚無感でいっぱいです」
とか高校生みたいなことを言えるかよ。こっちだってプライドというものがある。

専門家ではないからわからんが、
統合失調症ではないし気分の波は激しいが病気というほどではなく、
(希死念慮はあるが)たぶん軽いうつ病と診断するのもためらわれるレベルで、
しいて病名をつけるのならパーソナリティー障害(人格障害)のミックスあたりで、
とはいえ医師もさすがに40を過ぎたいいおっさんに病名を伝えることはためらわれ、
軽めの精神安定剤のようなものを出され「様子を見ていきましょう」で終わるだろう。
だが、それでも精神科にかかったほうがいいのかもしれない。
なぜなら孤独はよくないからだ。
じつは土曜日の約束を友人にキャンセルされ、それは仕方がないのだが、
ちょっと落ち込んでいる。孤独はよくない。
本書は著者の連想で編まれた(がために私家版?)精神医学事典らしく、
ならばこちらも連想のようなものに任せて引用や感想を書いていこう。
そもそも文章を書くという行為は連想そのものなのだ。

「自分自身と向き合うためには、孤独な時間が必要だ。
思索や内省のために孤独は必須であり、
孤独があってこそ人は「自分らしさ」を取り戻す。
とはいうものの、孤独な状態は危険を秘めている。
自分を客観視しづらくなるので、考えが暴走しやすい。
自分では論理的に考えているつもりでも、現実にそぐわない理屈に囚われたり、
バイアスの加わった思考に陥りがちとなる」(P452)


このため病的に孤独な人は定期的に、
たとえ3分診療でも精神科とつながっていることが重要なのだろう。
精神科は初診はけっこう時間を取るようである。
(消化器内科は初診でも3分いかなくて忙しいんだなあと驚いた)
わたしは精神科の、この初診がいやなのである。
自分のことをペラペラ話したくないし、聞かれたくないことがたくさんある。
そんなことを言われたら診察ができないじゃないかと言われても、
「そりゃあそうでしょうね」と言うしかない。
春日さんならいいかって、春日さんにはもっとさらに
話したくないし聞かれたくない、自分の弱みなんて。
精神科医の春日さんもおなじ理由で精神科やカウンセリングではなく、
占い師にすがったわけだから。春日さんが変なことを書いている。

「自慰をする際に人はどのような空想をするのだろうか。
あまりにも非現実的な場面を思い描いても、欲望と現実とのバランスが取れまい。
自分に都合が良すぎることを考えても、それではいまひとつ興に乗れない。
すなわち内面と現実との摺(す)り合わせといった意味で、
精神分析では自慰空想の内容が重視されるという。
だがわたしが患者になったとしたら、精神分析医ごときに、
そんな秘密は口が裂けても言いたくないね。
平然と喋るほうが、よほど不健全ではあるまいか」(P103)


おっと春日さんは意外とノーマルなんだなということはどうでもよくて、
わたしも精神科医ごときに自分の秘密は口が裂けても言いたくないね、と思ってしまう。
ここでひとつの問題が生じる。
春日さんは精神科医なんて心のオーソリティーでもなんでもないという立ち位置のようだ。
それを言っていいのかということを書いている。
精神科医なんて「心の修理屋」に過ぎないと。

「わたしが精神科医になった理由のひとつは、患者の言動を通して
人の心の根源的な何かを垣間見ることが出来るのではないかと期待したからであった。
狂気が精神の極限状態であると仮定するならば、
そこには心の深淵がさらけ出されているのではないかと予想したわけである。
しかしそんな予想はむしろロマンティックな夢想と称すべきなのだった。
故障したエンジンから生ずる異常音に耳を傾けても、
物理学の根源とでもいうべき秘密が聴き取れるわけではない。
故障の個所はどこなのか、故障の程度はどれほどなのか、
そうした見当がつくだけだろう。
わたしは心の修理屋にはなったけれど、
修理作業を通して深遠なるものと邂逅することはなかった。
せいぜい心には壊れやすい部分があり、
また壊れるにも一定の癖やパターンがあると知っただけであった」(P288)


春日さんが精神分析医なんかに秘密を話したくないように、
自分の患者さんが、
果たして本当に精神科医に胸襟を開いて心の奥底を開陳してくれるか?
それは春日さんの器がどうこうの問題ではなく(それもちょっとはあるかなあ)、
現実的に精神科外来の混雑を考えたら、
そこまでひとりの患者に時間を取れない。
ベルトコンベアーに乗ってきた患者を高速でパターンに分類して仕分けする工員が、
かならずしも患者の心の秘密を知らなくてもよい。
というか、むしろそんなものを知らないほうが
作業効率は高まるので優秀な工員たりえよう。
それにしても壊れた心を故障したエンジンにたとえるあたりうまい。
春日さんはB級精神科医から詩的精神科医に
長年の修業の結果、相成ったのではないか。
わけてもわけてもいくらわけても分類しえないもの――
わけられないもの――わからないもの――無分別知的絶対存在――超自然的なもの
――天才のようながあってほしいという願望が著者にもわたしにもあるのだろう。

とにもかくにも春日医師はパターンに分類するのがお好きなようである。
言葉の機能のひとつは分類ともいえるため、
文学作品を愛する詩的精神科医が分類に偏執を見せるのは必然だろう。
自己実現という主に若い人を迷わせるポエミーな概念がある。
春日さんは本書で古株精神科医の中井久夫には何度も言及しているが、
お仲間だった心理療法家の河合隼雄にはいっさい触れていない。
自己実現は河合が日本に広めた達成目標のようなものだが、
詩的精神科医はそれをおちょくってみせる。こういう芸がうまいのよ春日先生は。

「自己実現においては、自分らしさが重要なポイントとなるだろう。
自分らしさを欠いていれば、それはどこか違和感に彩られたものに成り下がってしまう。
とはいっても、本当の自分らしさ――すなわち唯一無二のものなど存在するのだろうか。
自分らしさなど、所詮はいくつかのパターンに分類されてしまう程度のものではないか。
そのパターンを換言するならキャラということになるだろう。
キャラクターではなく、かなり紋切り型な類似としての「キャラ」である」(P301)


自己実現なんて自分のキャラを見極める程度のお遊びだろう、と言っているに近く、
精神医学の重鎮、中井久夫が激怒する(?)ような不遜なことを
平気で口にする春日さんは生意気と評されただろうことも予測はつくが、
春日医師のそういう神をも恐れぬところがわたしは好きである。
春日さん、中井久夫の絵画療法とか、どう思っているんだろう?
あんなもん効くわけねえとか言ってほしいが、調べたら中井久夫はまだ存命かチクショー。
自己実現した結果、わかったキャラが「永遠のパシリ」だったらいやだなあ。
おそらくわたしのキャラは「負け犬」なのだろう。
やたら犬から吠えられるし(関係あるか?)、
負け犬の遠吠えってわたしのためにあるような言葉だもんね。
ちなみにわたしが正常か異常かは精神科医の春日武彦先生にも分類できないという。

「正常と狂気との間に明瞭な境界線が引けると精神科医は考えていない。
言動や生活態度が正常であるとは到底思えないが、
そのことでトラブルが起きているわけでもないし、
仮に治療をしたとしても効果が期待出来ないケースなんていくらでもある。
そういった人たちはむしろ環境によって運命が左右されてくる。
銀行員や公務員であったら異常そのものであるが、
芸術家であるとか芸能の分野でならば、あるいは水商売や風俗関係ならば
愛すべき人として暮らしていけそうな人物などいくらでもいる。
そのような人たちの人生に精神科医は介入しない。
生きていく世界の選択を誤らないようにと祈るだけである」(P81)


春日さんって職業的な微笑はできても、心の底から笑ったことがない人だと聞く。
笑わないだけではなく、泣かない人でもあるらしい。
泣かない人がいるというのはびっくりしたけれど、
たしかに春日医師のご著書はけっこう読んでいるほうだと思うが、
一度も泣いたことはない。しかし、笑えるのである。
春日さんは人を笑わせるのが天才的にうまいがゆえに笑えないという、
おかしな宿命のようなものをお持ちの人なのかなあ。
それとも笑うわたしがおかしいのかしら。
わたしはテレビのお笑いを見て笑ったことが一度もない。
笑わせようとしているお笑いは嫌いと言ってもよい。
春日さんはそもそも笑わないんだから、
お笑い芸人がよく理解できないという点では同類だろう。
さてさて、以下の文章で笑うのっておかしい? みなさんは笑いますか? 

「高校の頃、武智という教師がいた、
我々生徒は姓を音読みにして「ぶち」と読んでいた。
何となく斑犬(ぶちいぬ)とかマダラ模様の豚や馬を連想させる外見であったし、
「ブチ殺す」とか「ブチのめす」などといった物騒な言葉にも
親和性のありそうな教師だったので、
このあだ名に我々は大いに納得していた。
だが当人にとっては、実に不愉快な名称だったのであろう。
誰かが当人の前でうっかり「ぶち」と口にしたら、たちまち張り倒されていた。
無理もないと思った」(P302)


ここで大笑いするのっておかしいのかなあ? うちビョーキかしら。
うちのブログはどうなんだろう? 笑った人もいるでしょう?
わたしは笑わせようとねらって書いているけれども、
そこではないところで笑われているのかもしれない。
当方にとってそれはそれほど不愉快ではないが、春日院長先生はどうだか
おれなんかに本をくださる人を怒らせたくない。
ええい、大サービスでもう一丁。ここも大笑いした。
春日さんの本はこんなにおもしろいんだから、みんな買って読んで褒めてあげて。

「実は少々離れた場所で痴漢行為が行われているのを目撃したことがある
(まだスマホなど普及しておらず、また乗客が協力して犯人を取り押さえる
といったパターンも定着していなかった時代のことである)。
朝の満員電車であった。多くの乗客が気づいていた。
にもかかわらず痴漢(痩せて背が高く、金壺眼で頬骨が飛び出て、
服装は安サラリーマン風)は平然と被害者の身体を撫で回していた。
その平然さが、周囲を怯えさせ「見て見ぬ振り」を強要していた。
被害を受けている女性は嫌悪感よりも恐怖に駆られ、
混雑した車内を必死に移動しようとする。
それを脅しつけるかのように薄笑いを浮かべた痴漢が追い回す。
猥褻(わいせつ)といったものではなく、まさに暴力であった。
乗客たち(わたしも含む)は、もはや痴漢の毒々しさに圧倒されて棒立ちしていた。
あのときの印象に基づくなら、女性を弄んだり竦(すく)ませて屈服させる喜びに加え、
居合わせた乗客たち全員に無力感と自己嫌悪とを生じさせる楽しみを
痴漢は味わっていたように思える」(P269)


日常に立ち現われた異界をじつに巧みに描写している名文である。
おもしろい文章やうまい文章を書く人には素直に負けたと思う。
正統的な模範的な文章の書き手としても春日さんはうまいもの。
たとえば家族とはなにかを定義するにしても、
こうまでうまくは言葉を使いこなせないのではないか。
わたしが引用させていただいているのは、
本を読んでもすぐ忘れてしまうという脳欠陥があるためと、
もうひとつはうまい文章を書き写すことでコツを盗みたいという意地汚さゆえだ。

「家族は、安心感や無条件の愛情、打ち解けた雰囲気とそれなりの規律、
いたわりの心や敬意、自由と分別、みずみずしい感情とその交流、
良い意味でのいい加減さなどを基に家庭を営んでいくのが「健全な」姿だろう」(P334)


まあ現実はそんな健全な家族はどこにもないのだろうが、
言葉のうえではこれほど理想的な家庭はないだろう。
「健全な家族」はどこかしら胡散臭さがある。
では、「健全な精神」とはなにか?
春日武彦医師は森田療法を説明するかたちで「健全な精神」について言及している。
これほどわかりやすい森田療法と「健全な精神」の説明はないだろう。

「早い話が、ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、
質実剛健に黙々と日常を生きてみろ! というわけである」(P414)


でも、それ、おもしろいでっか? という話になってくるわけだが。
この本は娯楽性が高いばかりではなく実際に役に立つことも書いてある。
精神病の発病を防ぐヒントである。
いまわたしが狂っている新興宗教(狂っていればいるほどいい)
に入りたがっているのは無意識に発病のシステムを察知しているのかもしれない。
成仁病院の院長にして臨床経験豊富な精神科医の春日武彦氏は語る。

「自衛隊を除隊してしばらくしてから、精神状態が悪くなって医療を受ける人が
ときおりいると聞いたことがある。
それは自衛隊にいることがストレスフルで、そのためにおかしくなるといった話ではない。
むしろ厳格な規律に縛られて身体をフルに動かしている間は
何とか発病を防げていたのに、
除隊によって生活を律するものがなくなった途端に状態が悪くなってくる、
といったパターンなのである。
そのような観点からすると、自衛隊のような集団生活にも美点のあることが分かる。
枠組みにきっちり嵌め込まれ、生活は規則正しく、しかも身体を酷使する日々は、
妄想など寄せつけない。ニートだとか引きこもりとはまったく正反対の生活に、
発病を防ぐヒントが隠されているということになる。
ただし自衛隊生活がオールマイティではないし、
いまどきの若者には徴兵制復活が必要だ
などという暴論が成り立つ根拠にもならない。
が、あまりに自由かつ取り止めのない状態は、
精神的によほどタフでない限りかえって不幸を招きかねない事実は
きちんと把握しておくべきだろう。真っ白な百号のキャンパスを前にして、
躊躇することなく思いつくままに絵筆を動かせる者はまことに少ないのである」(P51)


ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、質実剛健に黙々と日常を生きてみろ!
春日さんは忙しい臨床のかたわらで(本書を読んだらわかるが)大量の読書をして、
なおかつあまたのおもしろい本を書いてきたのだから、
達成できたかはわからないが少なくとも目標に近づこうと実践はしてきたのである。
もっともっと報われなければならない人であろう。
職種にもよるのだろうが、仕事をしながら読書を続けるのは本当に難しい。
本書は春日精神医学、春日心理学、春日的狂人記録の集大成といってよく、
長年の臨床や読書がこのようなかたちで結実したことに
「おめでとうございます」と心から申し上げたい。
願わくば正しい評価を受け、なにかの賞を取り、
そこでまた「おめでとうございます」と口にできたらと思うばかりである。
大著のご執筆、さぞかしお骨折りだったことでしょう。
この本を書き上げたあとの春日先生の新境地を読むまではまだまだ死ねないぞ。
多少(?)メンタルに問題がある先生の愛読者は新作を楽しみにしております。
アマゾンで心ない評価をされているのを見ましたが、どうかお気落ちなさらぬよう。
この記事をお読みのみなさま。
本書は「はじめての春日武彦」「春日武彦入門」にもたいへんふさわしく
(ベテランさんはネタの重複が気になる方もあるいは)、
ぜひぜひ手に取っていただきたい1冊であります。
精神医学の知識は意外と生活に使えるし、
本書はわかりやすい解説をすることでは
第一級の著者の手による「私家版 精神医学事典」ですから買わない手はありません。



(追記)ごめんなさい。287ページの「9・11」は「3・11」では?
こちらの勘違いかもしれません。ごめんなさい。
それからこの記事における誤字脱字、ごめんなさい。
少しずつ直していきます。ですから、ごめんなさい。