「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」(春日武彦/太田出版)

→人と人はわかりあえないよ。自分の苦悩は他人にわかってもらえない。
うん、孤独だね。でも、それが現実なんだからしようがないじゃないか。
自分で苦悩に立ち向かうしかない。そうなったときにせめてなしうることってなんだろう?
幸運とか不運とか人間には理解不能なバランスとタイミングで舞い込んでくるけれど、
まったくの無力というのは絶望感にとらわれるから、せめてなしうることはないか?
著者がしているのは言語化、占い師にすがる、お祓いをする、家の改装をする、である。
なんでも両親がお亡くなりになり、マンションの一室を相続したとのことで、
そのマンションを自分流に徹底的に改装することで
「お祓(はら)い」の効果があるのではないかと。
運勢が好転して名誉や財産が天から降ってくるのではないかと。
そこまで期待するのは大仰なのは先生もわかっておられ、
せめて自分の生きづらさのようなものが何割かでも解消するようなことがないかと。

精神科医の春日武彦さんの根本にあるのは孤独感である。
これは春日さんだけではなく、強弱の違いこそあれ、だれもが抱えている問題だ。
だれにもわかってもらえないから孤独感が増すのである。
精神を病むというのは孤独をこじらせたとも言いうる。
はっきり言って軽度の精神病だったら、
裕福な美青年や美女から愛されることで消えるだろう。
しかし、人生はそこまで甘くないから精神科医のもとを訪れるものが現われる。
精神科医は女性患者N子から自分の苦しみなんて「分かりっこないですもんね」
と言われたことがあるらしい。正確にはキレる寸前だった初診のN子はなんと言ったか。
「あなたみたいに恵まれた人には、わたしの苦しさなんて分かりっこないですもんね」
職業人、春日武彦医師はどう答えたか。
「たしかにわたしみたいな甘っちょろい人間には、
あなたの苦しさを十分には理解出来ないかもしれません。
でも、まあ自分にとっていちばん辛いことを思い起こして、
そこからあなたの苦しみを想像する――
そのくらいの努力はしてみるつもりですけど」
人間の限界を踏まえたうえでの理想的な回答だろう。
内省的な春日医師はその後に自問したという。
もし患者から「あなたにとって<いちばん辛いこと>ってなんですか?」
と聞かれたらどうしていたか。
自分の<いちばん辛いこと>ってなんだろう? 人それぞれ辛いことがあろう。
あなたもあるだろうし、わたしもあるし、
精神科医の春日武彦さんにも、その患者のN子さんにもある。

「患者がいつまでも執着しているという点において、
N子の「苦しさ」は呪いみたいなものである。
彼女のそれは煎じ詰めれば母子関係の問題であったから、
すなわち実母からの呪いとなろうか。
他方、わたしにとっての「いちばん辛いこと」とは何なのか。
母親に称賛され誇りにしてもらえる存在としての自分になれない(なれなかった)
――そんな悲しみ、あるいは無力感である。
N子の価値観からすれば当方は恵まれた人なのかもしれないが、
それは医者という職業に対するステレオタイプな思い込みに基づいているだけである。
わたしの辛さについてN子は
「いい気なもんだ。その歳で何を言っているんだよ」と嘲笑するかもしれない。
そのときわたしは、「いや、そんな簡単なものじゃないんだよ」
と丁寧に説いて聞かせる自信はない。平静を装いつつも、
脳内イメージでは金属バットで力任せに滅多打ちにしてしまいそうだ」(P5)


母親からの強い承認を求める気持と
どこまで関係しているかはだれにもわからないだろうが(どんな精神分析家にも)、
春日さんが中学生のときにお母さまはお辛い経験をなさったらしい。
人の不幸を転載するようなかたちで紹介するのは品のない行為だとはわかっている。
なんでも春日医師のお母上はガス会社の調査員に、
レイプ未遂のようなことをされたらしい。
その日だけにとどまらずストーカー的な脅迫行為を二度された。
春日氏自慢の美しいお母さまは男を刑事告訴した。
懲役2年の実刑を相手に食らわせた。
それとどのくらい関係があるのかわからないが、
そのころから春日氏のご母堂は夜、睡眠薬をウイスキーとともに飲み、
当時中学生だった春日医師にからんでくるようなこともあったという。
ときには心肺停止になりかけるようなこともあり、
春日少年はたいへん不安な気持を持った。
そのときの不安感がいまも続いているかどうかはわからないが、
春日氏は自身の不安感が強いことを著書でよくもらしている。
お母さまのその体験と自分の「いちばん辛いこと」がどう関係しているのかはわからない。
関係しているのかもしれないし、あんがい無関係かもしれない。
人の苦しみはわからないが、わかったような気になることがあるのも事実である。
わたしが小学校高学年のころ、母親が自殺未遂をやらかしたからである。
精神科でもらっていた薬を大量服薬して救急車で病院に運ばれた。
それから先も母の精神不安定は続き、一家団欒というものを経験したことがない。
家にはつねに母という不安要素があった。
中学校に入ると父は母から逃げ出し、母のことは息子に任せるという作戦に出た。
父と母の板挟みになるのは辛かったなあ。
で、結局は大学卒業直後に母はわたしの目のまえで飛び降り自殺をして、
今度は死ぬことに成功した。父や息子の悪口をぎっしり書き込んだ日記を残して。
どうして母がよりによってわたしの目のまえで飛び降り自殺をしたかはわからない。
だれかにこの辛さをわかってほしいと長年思っていたが、
いまはわかってもらえないだろうとあきらめている。
N子は自分の辛さをわからないだろうと春日医師をなじった。
春日医師は自分の辛さはわかってもらえないだろうというある種の達観をしている。

もてないことはわたしのなかで救済となっており、
万が一子どもでもできてしまったら不幸を連鎖させてしまうので、その子に申し訳がない。
わたしは生まれて来なければよかったと思っているし、
父と母がどうして子づくりなどしたのかいまもってわからない。
まさか母の呪縛にこんな歳まで苦しまされるとは思わなかった。
春日医師はトラウマをマンネリ化させるという技術を本書で紹介しているが、
わたしがブログに母のことを繰り返し書いているのは、
無意識的にその作戦を選択していたということだろう。
たしかにマンネリ化させることには意味があり、いまでは持ちネタに近くなってしまい、
そこまで軽い体験じゃなかったんだけれどなあ、
と自分に突っ込みを入れたくなることがある。
しかし、辛くないか、と聞かれたら、辛い。経験してみないとわからないだろう。
仏教の開祖である釈迦はセックスを禁止したが、
それでは人類が消滅してしまうではないかという反論もあろうけれど、
生まれて来ること自体が辛苦というのは真理と言っていいだろう。
にもかかわらず、世の男女は
どうしてぽんぽん子どもを作るのか春日医師もわたしもわからない。
(春日医師は計画的に子どもを作らない人生を歩まれておられる)

「世の多くの人々は子を持つことに躊躇(ちゅうちょ)しないようだが、
いったいいかなる自信がゴーサインを出しているのかと
クビを傾けずにはいられない。おそらく何も考えていないだろうとは思う。
考えずにいられるのが信じられない。
愛だのスウィートホームだのの幻想に頭を濁らせられているのか」(P20)


いや、わたしがわからなかった謎を優秀な春日医師は解いている。
本書でいちばん「そうか、そうだったのか」とうなったのはここである。
モーパッサンは自分が目にしたくない嫌いなエッフェル塔でしばしば食事をしたという。
理由がおもしろく、パリでエッフェル塔が見えないのはここだけだから。
エッフェル塔に入ってしまったらエッフェル塔は見えない。

「なるほど、こんなふうに憎むべき対象や敵の懐に飛び込んだり同化してしまうのは、
なかなか賢明な作戦かもしれないじゃないか。
考えてみれば、多くの人たちは自分が親になることで
親からの呪縛から逃れているわけで、
基本的にはモーパッサンに近い作戦なのかもしれない」(P34)


親からの呪縛(期待、落胆、要するに支配)は強くても弱くても辛いものだろう。
親の呪縛は親の死後も子につきまといかねない強さを持っている。
現に春日医師のお母上も当方の母も、死後でさえ子を呪縛している。
しかし、自分が親になれば今度は自分が子を呪縛(期待、落胆、支配)することになり、
あながち親を恨んでばかりはいられなくなるのである。
今度は恨まれる側にまわるわけだから。
子がいない自分もモーパッサン作戦を取れるのではないかと春日さんは考え、
両親から相続したマンションの一室を、
「ブルックリンの古い印刷工場を改装して住んでいる辛辣なコラムニストの棲み処」
にリノベーション(改造、再生)してしまった。
このようなリノベーションはだれにでもできるというわけではないが、
親からの呪縛を逃れるために子は親になるという新説には驚いたし感心した。
親にされたことを子に仕返しするのである。
師匠にいじめ抜かれた弟子が師匠になって、
今度は自分が弟子を殴ったり蹴ったりするのもおなじだろう。
「勉強しろ」と言われたがしなかった子が親になり「勉強しろ」と子に言う。
基本的に自分の顔が好きでないと子作りはできないような気がする。
わたしは自分の顔が大嫌いだから、こんな顔をコピーなんかしたくない。
しかし、悪魔的なことを言うと、
子どもってなにをしてもいいペットなんだから、いいオモチャだろう。
親は子になにをしてもよく、目のまえで飛び降り自殺をしても許される。
わたしもレイプまがいのことをして子どもを作り、
その子の目のまえで自殺したらこのわだかまり、悔しさは消えるのかもしれない。

著者が気づいていないはずはないが、
占いもお祓いもどの宗教もインチキでありニセモノなのである。
春日さんはけっこうな大金を払って神主にお祓いをしてもらい、
お札まで購入したらしい。しかし、特別幸運なことは舞い込まない。
しかし、もしお祓いを受けていなかったら大惨事になっていたと過去の散財を合理化する。
いちばん詳しい団体だから例にあげるが(悪意はない)、
創価学会の信心をしてもことさらいいことはないが、
していなかったらいまごろ交通事故で両足切断していたわよって話。
信心していても交通事故に遭うことはあるけれど、
信心していなかったら死んでいたぞの詐欺世界。
医薬品だって本当に効いているのかはわからず、服用しても服用しなくても結果はおなじ
――というインチキまがい、ニセモノめいた世界と言えなくもない。
あまたある健康食品は典型的である。
春日さんの幸運、不運に対する考え方はわたしのそれとまるっきりおなじなので驚く。

「幸運と不運がサイン・カーブを描いて交互に訪れるのが
人生に与えられた普遍的なパターンとするなら、
不運や不幸がよりディープであるほうが
幸運も素晴らしいものが期待出来るのではないか、
ならば半端に苦しみが軽減されると
かえってつまらない人生になってしまわないだろうか、
などとマゾヒスティックな考えに取り憑かれたことがある。
だがサイン・カーブを描くのはその通りだとしても、
どうも幸不幸がプラス・マイナスでゼロになるとは限らないようだ。
いや、ヒトの寿命が千年くらいあったらゼロになるだろうが、
所詮は歪(いびつ)なカーブなので百年程度では
幸か不幸に偏ったままの人生に終わってしまうのだろう」(P42)


わたしが生きているのはわが人生の顛末(てんまつ)を見たいからである。
母親から目のまえで自殺されるなんて3億円宝くじに当たるくらいのレベルだろう?
ふざけんじゃねえよ。おいおい。神さまよお、どういう始末をつけてくれるんだい?
おまえ、うっかり間違ったんだろう? 始末書レベルじゃ済まないからな。
言っとくけど、おれは宝くじで3億円当たってもぜんぜん不思議ではないと思っているし、
20代のとびきりの美女から言い寄られても当然の権利のような顔をするつもりだからな。
しかし、41歳になり来たのはまたまたレアな顔面神経麻痺くらいで、
おやおやこのまま低空飛行で終わってしまうのかなあ、というがっかりした感じもある。
ブログに書いていないけれど、確率の低い不幸はほかにも起こっている。
ハズレ籤(くじ)だったのかなあ、ということを頑なに認めたくなくて、
インチキ、ニセモノとうすうす気づきながら、一銭にもならないのに、
さらに不幸をこじらせる結果に終わるかもしれないのに仏教にハマっているのである。
わたしの関心は演劇、仏教、精神医学(狂気)にあるが、
どれもニセモノという共通項がある。
芝居は現実生活のニセモノでしょう? 小説は言わずもがなである。
仏教はニセモノのかたまりというか。だから、いちばん仏教的なのは創価学会という話で。
精神医学が本物かニセモノかは精神科医の春日先生に聞いてみよう。

「当方の本業である精神医学にしても、
あたかもヒトの心のオーソリティー[権威]であるかのように装っているものの、
所詮は胡散臭さのカタマリである。ニセモノそのものであり、
そのような職業に延々と従事していられる自分の精神の
「いかがわしさ」に驚きすら感じてしまう。
いや、ニセモノに対する親和性は、自己救済の手段として自然に身につけ、
その延長として精神科医を生業にしたと捉えるべきなのかもしれない。
なるほどニセモノという性質には、
卑怯、虚偽、攪乱(かくらん)、奸計(かんけい)といった具合に
マイナス要素が付帯する。だがそのいっぽう、
「そっくりだが本物ではない」という事実がものごとの本質を相対化する。
思い込みや先入観を取り去り、ときには心を軽くする作用をもたらす。
気付かなかった可能性を示唆してくれさえする。卑しくなければ、
ニセモノは往々にして人生に気軽な感情をもたらしてくれる」(P174)


ドラマは現実のニセモノだけれども、
山田太一ドラマのような良質な作品は味気ない生活の隠れた彩りに気づかさせてくれる。
プロレスはケンカのニセモノだけれども、夫婦喧嘩はプロレスめいたところがある。
プロレスのお約束を見ていると、ライバルともプロレスをしているような気になる。
無気力に生きるよりも日蓮正宗のニセモノである創価学会の信心をしたほうが、
生き生きした日常を送れるという人がいてもよく、それは批判されるべきことではない。
春日医師もわたしも大好きな言葉はニセモノである。
「リンゴ」という言葉はあの赤く甘酸っぱい果物のニセモノと言えなくもない。
子どもは親のニセモノのようなところがある(たとえば長嶋一茂!)。
ホステスや風俗嬢は恋人のニセモノと言えよう。
それぞれの人生がいったいなんのニセモノなのかはまだわからない。
もしかしたら死んだあとにわかったりするのかなあ。

「人生は平均的な水準の高さと最大に突出したときの高さ、
その双方で幸福度は測られるのではないか。
突出した最高点が低い人生なんか、
不細工だがそこそこ金を稼ぐ男に対してホステスが「立派そうな方ね」
などと口にする意味不明な褒め言葉と同じ程度の価値しかない。
ついそう思ってしまい、だから自分で自分を苦しめる」(P206)


ファンクラブに入れてくれなかったので皮肉めいたことを書くと、
作家の宮本輝は銀座のホステスに「立派そうね」と言われるのを
人生の目的にしてきたような人っぽく、
春日先生の言葉をお借りするなら「俗物であり続ける度胸」を持つ、
ある意味で「斜め上の成功」を成し遂げた腰の座った快男児なのかもしれない。
ああいうふうになるには創価学会がいちばんなのだが、これまた入れてくれない。
わが人生の平均水準は低いし、
突出した最高点はまぐれで早稲田に入ったときではないか。
突出した最低点が母の眼前投身自殺だから、ぜんぜん吊り合いが取れていない。
たぶん来世かそのまた来世くらいで大当たりが出るのではないかと思っているので、
不穏なことを承知で書くが早く死にたい。
精神科医の春日武彦氏も本書で自殺をほのめかしている。
いただいた本の感想に失礼なことを書くと、
たしかに春日さんは死んだらニュースで報道されるか微妙なレベルだよなあ。
ファンクラブなんてできないだろうし、もし奇跡的にできても、
心療内科クリニックの待合室みたいになりそうで薄気味悪い。
当方は春日さんに笑っていただきたくてこういうことを書いているのだが(つまり好意)、
こういう文章を読むと精神科医は激怒するのかしら。
土屋は「図々しい奴、卑しい奴、常識知らず、恥知らず」だから早く死ね、とか。
ほしいものをくれる人は良い人で好きだから、
春日先生にはぜひ長生きしていただきたい。自殺なんて言わずに。
まあ、以下の文章を読むと大丈夫だろう。

「世界のすべてに向けて中指を突き立てながら死んでしまいたくなることは、
一週間に三回はある。さっさとこの世から縁を切りたい。
でも、もう少し現世で抵抗し悪足掻(わるあが)きや
意趣返しをしてやりたい気もあるのだ。そうでないと、
全知全能の神だか運命の神に、一方的に弄(もてあそ)ばれただけのようで不愉快だ。
完全な負け犬になってしまうではないか。
ふざけんな、性悪なクソ神どもが」(P226)


けっこうな新刊で春日先生は売れ行きを気にしておられるようなので宣伝をしたいが、
うちの書評は読むと本物を読む気がなくなるとよく言われる。
しかし、本書はわたしが保証しよう。
こんなニセモノのコピー記事よりも、実際の本物はよほどおもしろいということを。
わたしが会長になって春日先生のファンクラブでも作ってみようかな。
春日さんを囲んでのお通夜のようなオフ会とか笑える。
あんがい春日武彦ファンはみんな外面(そとづら)がよくて、
明るく盛り上がっちゃったりして。
このまえユーチューブで春日先生の動画を見たけれど、
にこやかな紳士じゃないですか。
わたしもなにか「マイお祓い」を試みたら、人生一発逆転とか起こらないかなあ。
一発逆転とか、そういう考え方が底辺生活者への第一歩と知りつつも。
こつこつ生きてけよ、おれ。
おれが本気になって性悪なクソ神どもに復讐しようと思ったら、
たぶん父親の目のまえで飛び降り自殺をするだろう。
まあ虫けらのような人生だったから、最後にそのくらいやらせてもらうのが筋かもしれない。