「なんだかなァ人生」(柳沢みきお/新潮社)

→うちのブログのファンなんか10人程度だろうが、
興味の矛先は「おまえ大丈夫か? 正気なのか?」にあるというくらいの自覚はある。
もっとやってほしいという期待感と、
そろそろやめておけという無言の老婆心を日々感じていなくもない。
今年のビックイベントはブログに携帯電話番号を公開したこと。
「だれの挑戦でも受ける」っておまえ大丈夫か、正気かっていう話。
しかし、それにうまく乗ってくれた御仁もおられ、
奈良のお医者さんから電話があり、お話させていただき、
ついでに京都も観光できたのは今年いちばんのいい想い出であった。
だれに話してもこれは「え?」という顔をされるが、事実なのだからしようがない。
その山田太一ファンの奈良のお医者さんのおすすめが漫画家の柳沢みきお。
柳沢みきおはコンビニ廉価版の「大市民」が好きで愛読していた。
いま再読してみようとしたら、どうやら引越のときに売り払ったようだ。
ぜひ柳沢みきおを読んでくださいということなので、このたび非常に遅れはしたが、
漫画家初のエッセイ集である(安価では)けっこう入手困難な
「なんだかなァ人生」を読んだしだいである。
奈良のお医者さんからはお小遣いをいただいており、
恩を忘れないというか義理堅い面が、
シナセンの最高指導者であられる小林社長から「あんたは厚顔よ」
と大声で罵倒された当方にもあるのかもしれない。
エッセイは「枕草子」「徒然草」の時代から自分(の好き嫌い)を書くものだから、
本書も漫画家の書いたものながらじつに日本の伝統にそった正しいエッセイであった。

「週刊新潮」連載のエッセイである。
漫画を描くのは苦しいが雑文を書くのはイージーで楽しいとか、
本音っぽいことが最後のほうで書かれていたが、作者は大丈夫か正気か?
そんなみんな思っていることを満天下にさらして、先生は大丈夫ですか正気でっか?
漫画はいちばん難しい執筆芸術だと思う。
絵画オンリーでもだめで、セリフオンリーでも、物語オンリーでもダメなのだから。
まあ、本音のエッセイは楽しいよね。
しかし、著者は妻や子供たちのことはまったく触れていないから、そこは大丈夫で正気。
風俗やキャバクラのようなものが大嫌いとはよく言ってくれたなあ。
対人恐怖症気味のものにとっては、風俗やキャバクラは接待でなく拷問だろう。
バブルのとき10億で買ったマンションが
1億4千万でしか売れなかったという実話は「徒然草」を超えた無常観があるだろう。
わたしは物欲のないのが当面の悩みなのだが、
著者はクラシックカー、クラシックギターの収集に散財してきたらしい。
そういう人間そのままの俗物根性を公開しているのも悪くない。
開き直っているところもいい。
わたしも言葉(書籍)に「大丈夫か? 正気か?」レベルの投資をしているので、
柳沢みきおの言葉には共感するし、それが真実であってほしいと思う。
消費したのではなく浪費したのでもなく、投資したのだ――。

「でも、これだけはただ飲み食いし遊んだだけの浪費ではなく、
自分が美しいと惚れこんだ物への消費なので、後悔は一切ありません。
それどころか、私の血となり肉となっていて、
これからの作家人生で、大いに生かせるような気がしてならないのです。
つまりは無形の大財産になっていると。
ですから、これらの無形財産を作品にどう生かしていくのかが、
今後の人生のテーマですし、
楽しみでもあるのです(単なる負け惜しみか)」(P167)


男って難儀な生きもんやねえ。
タバコとか酒とか博打とか
美食とか風俗とかコレクション(骨董)に依存しないと生きられへん。
そして、その欲望が生きる活力を生みだし文化を活性化させるという。
ぼくは喫煙もパチンコも競馬も女遊びも骨董趣味も否定しない。
そのくらい人生のつまらなさをわかる年齢になったし、
なにがわかったのかと清く正しい人から
胸ぐらをつかまれても薄笑いしながら「なんだかなァ人生」。
まだ自分の人生にはなにかあると
自分をごまかして生きているけれど「なんだかなァ人生」。
吉原の高級風俗で一発やって銀座の鮨屋でお任せを頼んでも「なんだかなァ人生」。
べつに死んじゃってもいいいけれど、それもめんどくさいし、
精神科にかかるのはもっとめんどくさいしという「なんだかなァ人生」。
本書を読んで鮨(すし)を食いたくなった。
柳沢みきおは鮨を好きなようだが、自分の好きなことを書いたところで筆は冴える。
とはいえ、これは読者の関心もあるのか。
不動産とかクラシックカーとかクラシックギターとか西洋骨董品のことを書いたエッセイは、
正直なところあまり関心がないのでおもしろくなかったなあ。
いや、鮨は成金趣味のようなところがないのがいいのかもしれない。
スーパー半額なら250円レベルでだれでも鮨を口にすることができるのだから。
好きなことがあったら人はあのもっとも恐ろしい孤独から逃れられる。
ビールが好きで(彼はビールをロックで飲むらしいベトナム! ラオス!)
ベンツと風俗が嫌いな友人がひとりもいないという柳沢みきおは言う。

「私は人付き合いが極端に苦手で、仕事関係の人以外とは誰とも会いたくない、
という人間です。ですから、あえて友人というものを拒否してきたので、
腹を割って話せる男友達がいない、というツケが悩みを抱えた時に回ってきます。
どうにもならないほど、生きる事への息苦しさを感じた時にも、
一人で悩んで処理するしかなくモンモンとなるのです。
しかし実はコレが、私にとっては物語を作る上で大いに参考になっているので、
有意義なことではと。でも疲れます」(P165)


格のうえでは助言できるレベルの相手ではないか、女友達はいいよお。
柳沢みきおは風俗が嫌いなら、女性と友人関係になれるのではないか?
年上の女友達と話すとき、人生も悪くないなんて、枯れ葉のようにしんみり思う。
だから、出世や大勝利と縁がないのかもしれないけれどさ。
奈良のお医者さんはおもしろかった。
かの医者の影響で早稲田の演劇博物館に行き、山田太一未公刊戯曲を読んだわけだ。
そして異常なほどの「大丈夫か? 正気か?」
という執念をもって感想をブログに記している。
それは広い意味で文化の貢献につながっていることだろう。
わたしもブログに携帯電話番号を公開したとき、
まさかだれもかけてこないだろうという世界への諦念があった。
電話の着信があったとき「大丈夫か? 正気か?」と思ったものである。
奈良へ来ないかというお誘いにはさらに「大丈夫か? 正気か?」。
行ってしまうわたしもわたしだが、誘ったほうもそうとうなものである。
ぶっちゃけ、そんなことに金を使っても意味がないとも言えるわけだから。
奈良のお医者さんや柳沢みきお、
わたしに共通しているのは自分の「好き」へのこだわりであろう。
なにかを好きになったほうが人生は楽しい。それがパチンコでもタバコでも風俗でも。

「私家版 精神医学事典」(春日武彦/河出書房新社)

→著者からいただいた本だからケチをつける気はカケラもないことを最初に断わっておく。
こだわりとプライドに満ちた500ページ近い大著で、
そのうえ近年はめずらしい活字二段組(表現が正しいかはわかりません)である。
売れるのかなあと。売れなかったらまた春日さんのことだから被害者意識を
こじらせてしまいそうで、こんな渾身の大著を書いたにもかかわらずそれでは、
踏んだり蹴ったり、あんまりなのでかわいそうで見ていられなくなる。
帯を見ると荒俣宏、円城塔、斎藤環といった大物(?)たちからの宣伝文があり、
これは根回しをかなりうまくやっていると見てよく、
出版界にはいろいろな賞があるようだが、
もしかしたら長いこと出版業界から無視されていた春日さんは、
本作で初受賞のようなものをするのではないか?
そうしたら賞のパワーで売れるだろうし、
春日先生の本当の価値が世間から認められ、
お勤めの病院でも最近顧問から院長に出世したようだし、
まさに人生一発逆転、春のようなものが訪れるのではないだろうか?
さらにさらに「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」は、
著者が私小説と言っているから私小説で、
これもなにかの文学賞を受賞して、ようやく、
ようやくだが春日先生の時代が到来するのではないか?
もしそうなったらこれは本当に邪心とかなく長年のファンとして嬉しいかぎりである。
小谷野敦さんがなんか文学賞を取ったらケッと心のどこかで思うけれど、ここだけの話。

いったいどうして愛読者に過ぎないこちらに、
春日さんはわざわざこんな大著をプレゼントしてくれたのだろう。
いま身体的にも精神的にも調子が悪く、
これはそろそろ精神科へアクセスしろよということなのかと穿(うが)った見方をしてしまう。
そういう思考回路を取ることからも、いまの当方のメンタル面の不調はわかるだろう。
たぶん実際はそんなお節介めいたものではなく、ただの厚意か、
こいつがどんな感想を書くか知りたいという好奇心からだと思う。
精神科へ行くチャンスはいままでいくらもあったと思うし、いまさら感が否めない。
とはいえ成仁病院へ行くには赤羽に出て、そこからバスで西新井まで1本か。
いきなり院長先生が診てはくれないだろうなあ。
それにもし精神科にかかるとしても春日先生だけはちょっとと思うし、
反面、春日先生に診てもらわないとしたら精神科なんて行く必要はないとも思う。
いやいや、いきなり春日医師のまえに登場して、
「なにがお困りですか?」と聞かれても無言で答えず、
こいつは緘黙症かと思わせておいて、
いきなりカバンからくるくる巻いたカレンダーの裏を取り出し、
おもむろに芝居がかった調子で「人生の迷い」と書かれた紙を見せるのも、
これは氏が占い師にやったことのパロディーなのだが、おもしろいのかもしれない。
しかし、「人生の迷い」なんて自分で考え抜くしかなく、精神科医に聞くものではないし、
もし答えてくれる人がいたとしてもそこでお手軽に得た答えはニセモノだろう。
つくづく医者は患者を選べない因果な商売だと思う。
「物欲がないので困っています」と相談されても答えようがないだろう。
「それはいいじゃないですか」くらいなもんで。
40を過ぎた男が同性の医者に「虚無感でいっぱいです」
とか高校生みたいなことを言えるかよ。こっちだってプライドというものがある。

専門家ではないからわからんが、
統合失調症ではないし気分の波は激しいが病気というほどではなく、
(希死念慮はあるが)たぶん軽いうつ病と診断するのもためらわれるレベルで、
しいて病名をつけるのならパーソナリティー障害(人格障害)のミックスあたりで、
とはいえ医師もさすがに40を過ぎたいいおっさんに病名を伝えることはためらわれ、
軽めの精神安定剤のようなものを出され「様子を見ていきましょう」で終わるだろう。
だが、それでも精神科にかかったほうがいいのかもしれない。
なぜなら孤独はよくないからだ。
じつは土曜日の約束を友人にキャンセルされ、それは仕方がないのだが、
ちょっと落ち込んでいる。孤独はよくない。
本書は著者の連想で編まれた(がために私家版?)精神医学事典らしく、
ならばこちらも連想のようなものに任せて引用や感想を書いていこう。
そもそも文章を書くという行為は連想そのものなのだ。

「自分自身と向き合うためには、孤独な時間が必要だ。
思索や内省のために孤独は必須であり、
孤独があってこそ人は「自分らしさ」を取り戻す。
とはいうものの、孤独な状態は危険を秘めている。
自分を客観視しづらくなるので、考えが暴走しやすい。
自分では論理的に考えているつもりでも、現実にそぐわない理屈に囚われたり、
バイアスの加わった思考に陥りがちとなる」(P452)


このため病的に孤独な人は定期的に、
たとえ3分診療でも精神科とつながっていることが重要なのだろう。
精神科は初診はけっこう時間を取るようである。
(消化器内科は初診でも3分いかなくて忙しいんだなあと驚いた)
わたしは精神科の、この初診がいやなのである。
自分のことをペラペラ話したくないし、聞かれたくないことがたくさんある。
そんなことを言われたら診察ができないじゃないかと言われても、
「そりゃあそうでしょうね」と言うしかない。
春日さんならいいかって、春日さんにはもっとさらに
話したくないし聞かれたくない、自分の弱みなんて。
精神科医の春日さんもおなじ理由で精神科やカウンセリングではなく、
占い師にすがったわけだから。春日さんが変なことを書いている。

「自慰をする際に人はどのような空想をするのだろうか。
あまりにも非現実的な場面を思い描いても、欲望と現実とのバランスが取れまい。
自分に都合が良すぎることを考えても、それではいまひとつ興に乗れない。
すなわち内面と現実との摺(す)り合わせといった意味で、
精神分析では自慰空想の内容が重視されるという。
だがわたしが患者になったとしたら、精神分析医ごときに、
そんな秘密は口が裂けても言いたくないね。
平然と喋るほうが、よほど不健全ではあるまいか」(P103)


おっと春日さんは意外とノーマルなんだなということはどうでもよくて、
わたしも精神科医ごときに自分の秘密は口が裂けても言いたくないね、と思ってしまう。
ここでひとつの問題が生じる。
春日さんは精神科医なんて心のオーソリティでもなんでもないという立ち位置のようだ。
それを言っていいのかということを書いている。
精神科医なんて「心の修理屋」に過ぎないと。

「わたしが精神科医になった理由のひとつは、患者の言動を通して
人の心の根源的な何かを垣間見ることが出来るのではないかと期待したからであった。
狂気が精神の極限状態であると仮定するならば、
そこには心の深淵がさらけ出されているのではないかと予想したわけである。
しかしそんな予想はむしろロマンティックな夢想と称すべきなのだった。
故障したエンジンから生ずる異常音に耳を傾けても、
物理学の根源とでもいうべき秘密が聴き取れるわけではない。
故障の個所はどこなのか、故障の程度はどれほどなのか、
そうした見当がつくだけだろう。
わたしは心の修理屋にはなったけれど、
修理作業を通して深遠なるものと邂逅することはなかった。
せいぜい心には壊れやすい部分があり、
また壊れるにも一定の癖やパターンがあると知っただけであった」(P288)


春日さんが精神分析医なんかに秘密を話したくないように、
自分の患者さんが、
果たして本当に精神科医に胸襟を開いて心の奥底を開陳してくれるか?
それは春日さんの器がどうこうの問題ではなく(それもちょっとはあるかなあ)、
現実的に精神科外来の混雑を考えたら、
そこまでひとりの患者に時間を取れない。
ベルトコンベアーに乗ってきた患者を高速でパターンに分類して仕分けする工員が、
かならずしも患者の心の秘密を知らなくてもよい。
というか、むしろそんなものを知らないほうが
作業効率は高まるので優秀な工員たりえよう。
それにしても壊れた心を故障したエンジンにたとえるあたりうまい。
春日さんはB級精神科医から詩的精神科医に
長年の修業の結果、相成ったのではないか。
わけてもわけてもいくらわけても分類しえないもの――
わけられないもの――わからないもの――無分別知的絶対存在――超自然的なもの
――天才のようながあってほしいという願望が著者にもわたしにもあるのだろう。

とにもかくにも春日医師はパターンに分類するのがお好きなようである。
言葉の機能のひとつは分類ともいえるため、
文学作品を愛する詩的精神科医が分類に偏執を見せるのは必然だろう。
自己実現という主に若い人を迷わせるポエミーな概念がある。
春日さんは本書で古株精神科医の中井久夫には何度も言及しているが、
お仲間だった心理療法家の河合隼雄にはいっさい触れていない。
自己実現は河合が日本に広めた達成目標のようなものだが、
詩的精神科医はそれをおちょくってみせる。こういう芸がうまいのよ春日先生は。

「自己実現においては、自分らしさが重要なポイントとなるだろう。
自分らしさを欠いていれば、それはどこか違和感に彩られたものに成り下がってしまう。
とはいっても、本当の自分らしさ――すなわち唯一無二のものなど存在するのだろうか。
自分らしさなど、所詮はいくつかのパターンに分類されてしまう程度のものではないか。
そのパターンを換言するならキャラということになるだろう。
キャラクターではなく、かなり紋切り型な類似としての「キャラ」である」(P301)


自己実現なんて自分のキャラを見極める程度のお遊びだろう、と言っているに近く、
精神医学の重鎮、中井久夫が激怒する(?)ような不遜なことを
平気で口にする春日さんは生意気と評されただろうことも予測はつくが、
春日医師のそういう神をも恐れぬところがわたしは好きである。
春日さん、中井久夫の絵画療法とか、どう思っているんだろう?
あんなもん効くわけねえとか言ってほしいが、調べたら中井久夫はまだ存命かチクショー。
自己実現した結果、わかったキャラが「永遠のパシリ」だったらいやだなあ。
おそらくわたしのキャラは「負け犬」なのだろう。
やたら犬から吠えられるし(関係あるか?)、
負け犬の遠吠えってわたしのためにあるような言葉だもんね。
ちなみにわたしが正常か異常かは精神科医の春日武彦先生にも分類できないという。

「正常と狂気との間に明瞭な境界線が引けると精神科医は考えていない。
言動や生活態度が正常であるとは到底思えないが、
そのことでトラブルが起きているわけでもないし、
仮に治療をしたとしても効果が期待出来ないケースなんていくらでもある。
そういった人たちはむしろ環境によって運命が左右されてくる。
銀行員や公務員であったら異常そのものであるが、
芸術家であるとか芸能の分野でならば、あるいは水商売や風俗関係ならば
愛すべき人として暮らしていけそうな人物などいくらでもいる。
そのような人たちの人生に精神科医は介入しない。
生きていく世界の選択を誤らないようにと祈るだけである」(P81)


春日さんって職業的な微笑はできても、心の底から笑ったことがない人だと聞く。
笑わないだけではなく、泣かない人でもあるらしい。
泣かない人がいるというのはびっくりしたけれど、
たしかに春日医師のご著書はけっこう読んでいるほうだと思うが、
一度も泣いたことはない。しかし、笑えるのである。
春日さんは人を笑わせるのが天才的にうまいがゆえに笑えないという、
おかしな宿命のようなものをお持ちの人なのかなあ。
それとも笑うわたしがおかしいのかしら。
わたしはテレビのお笑いを見て笑ったことが一度もない。
笑わせようとしているお笑いは嫌いと言ってもよい。
春日さんはそもそも笑わないんだから、
お笑い芸人がよく理解できないという点では同類だろう。
さてさて、以下の文章で笑うのっておかしい? みなさんは笑いますか? 

「高校の頃、武智という教師がいた、
我々生徒は姓を音読みにして「ぶち」と読んでいた。
何となく斑犬(ぶちいぬ)とかマダラ模様の豚や馬を連想させる外見であったし、
「ブチ殺す」とか「ブチのめす」などといった物騒な言葉にも
親和性のありそうな教師だったので、
このあだ名に我々は大いに納得していた。
だが当人にとっては、実に不愉快な名称だったのであろう。
誰かが当人の前でうっかり「ぶち」と口にしたら、たちまち張り倒されていた。
無理もないと思った」(P302)


ここで大笑いするのっておかしいのかなあ? うちビョーキかしら。
うちのブログはどうなんだろう? 笑った人もいるでしょう?
わたしは笑わせようとねらって書いているけれども、
そこではないところで笑われているのかもしれない。
当方にとってそれはそれほど不愉快ではないが、春日院長先生はどうだか
おれなんかに本をくださる人を怒らせたくない。
ええい、大サービスでもう一丁。ここも大笑いした。
春日さんの本はこんなにおもしろいんだから、みんな買って読んで褒めてあげて。

「実は少々離れた場所で痴漢行為が行われているのを目撃したことがある
(まだスマホなど普及しておらず、また乗客が協力して犯人を取り押さえる
といったパターンも定着していなかった時代のことである)。
朝の満員電車であった。多くの乗客が気づいていた。
にもかかわらず痴漢(痩せて背が高く、金壺眼で頬骨が飛び出て、
服装は安サラリーマン風)は平然と被害者の身体を撫で回していた。
その平然さが、周囲を怯えさせ「見て見ぬ振り」を強要していた。
被害を受けている女性は嫌悪感よりも恐怖に駆られ、
混雑した車内を必死に移動しようとする。
それを脅しつけるかのように薄笑いを浮かべた痴漢が追い回す。
猥褻(わいせつ)といったものではなく、まさに暴力であった。
乗客たち(わたしも含む)は、もはや痴漢の毒々しさに圧倒されて棒立ちしていた。
あのときの印象に基づくなら、女性を弄んだり竦(すく)ませて屈服させる喜びに加え、
居合わせた乗客たち全員に無力感と自己嫌悪とを生じさせる楽しみを
痴漢は味わっていたように思える」(P269)


日常に立ち現われた異界をじつに巧みに描写している名文である。
おもしろい文章やうまい文章を書く人には素直に負けたと思う。
正統的な模範的な文章の書き手としても春日さんはうまいもの。
たとえば家族とはなにかを定義するにしても、
こうまでうまくは言葉を使いこなせないのではないか。
わたしが引用させていただいているのは、
本を読んでもすぐ忘れてしまうという脳欠陥があるためと、
もうひとつはうまい文章を書き写すことでコツを盗みたいという意地汚さゆえだ。

「家族は、安心感や無条件の愛情、打ち解けた雰囲気とそれなりの規律、
いたわりの心や敬意、自由と分別、みずみずしい感情とその交流、
良い意味でのいい加減さなどを基に家庭を営んでいくのが「健全な」姿だろう」(P334)


まあ現実はそんな健全な家族はどこにもないのだろうが、
言葉のうえではこれほど理想的な家庭はないだろう。
「健全な家族」はどこかしら胡散臭さがある。
では、「健全な精神」とはなにか?
春日武彦医師は森田療法を説明するかたちで「健全な精神」について言及している。
これほどわかりやすい森田療法と「健全な精神」の説明はないだろう。

「早い話が、ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、
質実剛健に黙々と日常を生きてみろ! というわけである」(P414)


でも、それ、おもしろいでっか? という話になってくるわけだが。
この本は娯楽性が高いばかりではなく実際に役に立つことも書いてある。
精神病の発病を防ぐヒントである。
いまわたしが狂っている新興宗教(狂っていればいるほどいい)
に入りたがっているのは無意識に発病のシステムを察知しているのかもしれない。
成仁病院の院長にして臨床経験豊富な精神科医の春日武彦氏は語る。

「自衛隊を除隊してしばらくしてから、精神状態が悪くなって医療を受ける人が
ときおりいると聞いたことがある。
それは自衛隊にいることがストレスフルで、そのためにおかしくなるといった話ではない。
むしろ厳格な規律に縛られて身体をフルに動かしている間は
何とか発病を防げていたのに、
除隊によって生活を律するものがなくなった途端に状態が悪くなってくる、
といったパターンなのである。
そのような観点からすると、自衛隊のような集団生活にも美点のあることが分かる。
枠組みにきっちり嵌め込まれ、生活は規則正しく、しかも身体を酷使する日々は、
妄想など寄せつけない。ニートだとか引きこもりとはまったく正反対の生活に、
発病を防ぐヒントが隠されているということになる。
ただし自衛隊生活がオールマイティではないし、
いまどきの若者には徴兵制復活が必要だ
などという暴論が成り立つ根拠にもならない。
が、あまりに自由かつ取り止めのない状態は、
精神的によほどタフでない限りかえって不幸を招きかねない事実は
きちんと把握しておくべきだろう。真っ白な百号のキャンパスを前にして、
躊躇することなく思いつくままに絵筆を動かせる者はまことに少ないのである」(P51)


ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、質実剛健に黙々と日常を生きてみろ!
春日さんは忙しい臨床のかたわらで(本書を読んだらわかるが)大量の読書をして、
なおかつあまたのおもしろい本を書いてきたのだから、
達成できたかはわからないが少なくとも目標に近づこうと実践はしてきたのである。
もっともっと報われなければならない人であろう。
職種にもよるのだろうが、仕事をしながら読書を続けるのは本当に難しい。
本書は春日精神医学、春日心理学、春日的狂人記録の集大成といってよく、
長年の臨床や読書がこのようなかたちで結実したことに
「おめでとうございます」と心から申し上げたい。
願わくば正しい評価を受け、なにかの賞を取り、
そこでまた「おめでとうございます」と口にできたらと思うばかりである。
大著のご執筆、さぞかしお骨折りだったことでしょう。
この本を書き上げたあとの春日先生の新境地を読むまではまだまだ死ねないぞ。
多少(?)メンタルに問題がある先生の愛読者は新作を楽しみにしております。
アマゾンで心ない評価をされているのを見ましたが、どうかお気落ちなさらぬよう。
この記事をお読みのみなさま。
本書は「はじめての春日武彦」「春日武彦入門」にもたいへんふさわしく
(ベテランさんはネタの重複が気になる方もあるいは)、
ぜひぜひ手に取っていただきたい1冊であります。
精神医学の知識は意外と生活に使えるし、
本書はわかりやすい解説をすることでは
第一級の著者の手による「私家版 精神医学事典」ですから買わない手はありません。



(追記)ごめんなさい。287ページの「9・11」は「3・11」では?
こちらの勘違いかもしれません。ごめんなさい。
それからこの記事における誤字脱字、ごめんなさい。
少しずつ直していきます。ですから、ごめんなさい。
「龍魂継承 天龍源一郎対談集」(ベースボール・マガジン社)

→レスラーもタレントも作家もみんなそうだろうけれど、
売れないころに雲の上のスターや大物編集長にチョー天国体験をさせてもらい、
もう一回あれを体験したいとか、あの美味が忘れられないとか、
ああいう高級車に乗りたいとか、
そういうハングリー精神が人を成功へと向かわせるようなところがあると思う。
ジャイアント馬場は一流のものしか食べなかったというし、
マックなんか冗談じゃないとからきし相手にしなかったという。
しかし、越中がほかに店がないのでフィレオフィッシュを食べてもらったら、
うまいうまいといって、
それからしばらくフィレオフィッシュばかり食べていたというのは、
いまでは悪い噂しか耳にしない馬場さんのちょっといい話。
しかし、一流(=高額)のものしか食べなかったし着なかった馬場さんだから
強かったというのもまた事実なのである。
馬場さんなんか喧嘩をやらせたら絶対強くはないでしょう?
入りたての新人レスラーでも馬場なんかボコボコにできたと思う。
しかし、馬場さんは男としては強かった。一流品を買える金を持っていた。
だから、威厳のようなものがあり、
だれも馬場さんにガチ(真剣勝負)を仕掛けられなかったわけだ。
どんなトンパチだってリングで馬場さんと向き合ったら、
彼に合わせた動きをしたことだろう。
馬場さんの強さはどこか現実世界の強弱とも通じているような気がする。

ミスタープロレス天龍源一郎は13歳で入った相撲の世界を引退したあと、
馬場さんの下で10年以上働いているからいい意味でも悪い意味でも影響が強い。
プロレスラーはコンビニ弁当なんか食っちゃいけない。
一流のものに金を使え。いい車に乗って、いい女と遊べ。
新幹線はグリーン車に乗れ。飛行機はファーストかビジネス。
成金趣味を恥じない。一流の人間というのはそういうことに金を使う男である。
わたしが女に何度もおごってもらったことがあるなんて天龍さんに白状したら、
「男が情けないことをすんな」とグーパンチされ、
倒れたらサッカーボールキックを何発もお見舞いされることだろう。
天龍源一郎は脚本家の内館牧子との対談で、
いまのレスラーがどうして小粒なのかと問われ、
「身銭を切らないからですよ」と答えている。「身銭を切って遊びに行かないから」
天龍はいかにも田舎者めいたところがなくもなく、
金がないときでも銀座で身銭を切って遊んだという。
内館牧子は調子を合わせて若者批判をする。
「たぶん、現代っ子は〝やせガマン”をしないんですよ。
みんな身の丈っていうのが好きだから」
それに応じて超一流レスラーだった天龍源一郎は言い放つ。

「でも、それは、自分で自分の寸法を決めちゃってるという悲しいことですよ。
そうすると見てる人も、そんなもんかって目で見ちゃう。(……)
背伸びしながら、いつか夢をつかもうとしてきたヤツを、
見てる人は共感して応援してくれるんですよ」(P238)


耳が痛いアドバイスである。
コンビニ弁当でもぜいたくなんて思っていたら絶対に一流にはなれない。
持っている服がユニクロしかないなんて、おれ、どーにかしてるんじゃないか?
林真理子はたまに乗る電車でユニクロを着ているおっさんを見ると軽蔑すると
書いていたが、そういう見方もまた「正しい」のだろう。
しかし、銀座は嫌いだし、銀座でおねえちゃんの店で酒飲んだってつまらないじゃん。
おれ、知らない女とおしゃべりしながら酒を飲むなんて時給もらってもいやよ。
銀座の寿司屋に入っても緊張して味がわからないだろう。
たぶんこのまままじめに働いても回転寿司屋でビールを飲むのでさえ高嶺の花だろう。
しかし、言葉には投資している。本には金と時間をめくらめっぽう使っている。
一流と言われている文学作品はけっこう目を通しているほうだし、
戯曲(演劇台本)にいたってはコレクターレベルだろう。
本書で越中が猪木さんや長州さんは実際に練習しているから偉いとほめていた。
結局、勝負というのは最後は自信の強弱と運で決まるのではないか?
どうしたら自信を持てるかというレベルで、練習とともに一流信仰が発生するのだろう。
おれはあたしは一流ブランドを身につけ一流のものを食べているから負けないという。
一流(と言われる)ものを人がほしがるのは、
読者諸賢ご明察でしょうが、おそらく自分に自信が持てないからである。
ひっくりかえせば一流に囲まれていたら自信を持てる。
ぶっちゃけ、ドストエフスキーやトルストイの長い小説をいま読む意味はないでしょう?
15年くらいまえわたしも見栄からほとんど全作品読んだが、
そしていまでは内容をほとんど覚えていないが、
あんな長編小説を読んだということがひとつの自信になっていることはたしかである。
シナリオ・センターの無教養なチンピラ講師と言い争いになったとき、
どうしてわたしが引かなかったかというと彼よりも良質な演劇作品を読んでいたし、
男が読みもしないで権威づけに利用したアリストテレスを実際に読んでいたから。
講師は「ドラマは葛藤だ」とアリストテレスが言っていると一流ぶったが、
実際にアリストテレスの「詩学」を読んでいるこちらは「え?」と思ってしまう。

一流とはおそらく権威のようなものなのだろう。
劣等コンプレックスが強いものほど一流という権威を求めるような気がする。
その一流を求めるこころが人を一流にするになら、
むしろコンプレックスや俗物根性は歓迎すべき精神特性なのかもしれない。
しかし、コンプレックスは人一倍あるのは自覚しているが、
どんなに金があってもグリーン車は乗りたくないという変なこだわりがある。
まずユニクロを脱ぎ捨てることから始めなければならないのはわかるが、
ユニクロは安いし長持ちするしネットで買えるし、いいこと尽くめ。
どうしたらいいんだよ、天龍さん!
おれは少年時代から天龍のようなかっこいいおっさんにあこがれてきたんだぜ。

脚本家の内館牧子は新人のころ、
有名脚本家の代役(ゴーストライター)として連ドラデビューしたという。
そのとき師匠の橋田寿賀子から言われたのは「出し惜しみしちゃダメよ」。
出し惜しみをするとかならず客はすぐ逃げる。
天龍源一郎の名試合はほぼナマで観戦しているが、
天龍も出し惜しみをしないレスラーであった。天龍は言う。

「イヤ、ホントですよ。素晴らしいものを見たら、誰かがまた興味を示してくれる。
これは自分の向上に繋がるんですね。
みんなそこを感じてないから、『今日これを出すべきじゃないな』とか考えちゃう。
その日来た人が面白くなかったって感じたらそれで終わりなんですよ。
やっぱり面白かったら見てくれて、伝聞で広がるんですよね。
物書きもプロレスラーも、生身の人間に見てもらうという部分は共通で、
生身の人間はごまかせないですよね。
10人、20人はごまかせても、100人、200人は絶対ごまかせない」(P247)


天龍はほかの本でもそうだが、
口癖のように「誰かがどこかで見ててくれる」と言っている。
そう思っていたら、ヘコたれないだろうと。

「見てますよ。これは不思議なもので、人と違う行動をしてる人を世の中の人は、
面白いヤツだなと思って、ピックアップしてくれるんですよ。
そのことに希望を持って生きないと、ヘコたれたら10箱1セットですよ。
頑張れば、誰かが引き上げてくれる。(……)
でも引き上げてくれたとき、自分のポリシーがないとダメ。
たとえば平社員のとき、「こんな会社……」って文句ばかり言って、
上役になったら何もできない。それじゃ遅いですよ」(P245)


「誰かがどこかで見ててくれる」なんてウソだろうという境地になっていたが、
今年、精神科医の春日武彦先生がご著書を送ってくださり、
ああ、本当に「誰かがどこかで見ててくれる」と涙が出るほど嬉しかった。
ブログ「本の山」も出し惜しみしていない。
身銭を切って、誰も読まないような古臭いお経の本を買って、
全力で感想を書いている。山田太一の記事で手を抜いたことはない。
そういえば今年は山田太一ファンの奈良のお医者さんからご招待を受けた。
「誰かがどこかで見ててくれる」
どこかの誰かのために、もっとおもしろいものを書きたいが、
いったいおもしろいとはどういうことか、天龍さん、大将?

「今の人は意図的にやるじゃないですか。こうやったら面白いだろうって。
そういうことじゃなくて、お前らが必死にやっているのを見てもらうんだって。
笑おうが、悲しもうが、バカにしようが。
そこをベースにやってほしいって気持ちがありますよ。
たとえば、馬場さんが必死にやってたのを「ノロいなぁ」って、
お客さんが勝手に批評して面白がったり、
猪木さんがいろいろやるのを「またバカなことやってるよ」って思うのがいいんですよ。
自分たちで「こう見てくれよ」なんてやるのは、小ざかしいことですよね」(P250)


これを言ったら自分が老人になったみたいでいやなのだが、
小学生のころから見てきたから言わせてもらいたく、いまのプロレスっておもしろくない。
ぽんぽん飛んだり跳ねたりしているだけじゃないかよ。
ヒールだっていかにも悪役やってますって感じで、
人間誰しも有する本物の悪がちっとも見えてこない。
鈴木みのるなんて悪ぶっているがステロイドの副作用かヨボヨボだろう。
会社をクビになるのを覚悟で、
誰か若いやつが鈴木みのるをボコボコにしてやったらいいのに、
ひとりとしてそういう本当に悪いことをできるレスラーがいない。
いまのプロレスへの不満を天龍はこう言葉にする。

「俺もいろんな人の試合を見るけど、きれいなプロレスじゃなくて、
もっと人生を見せつけるような試合をやってくれよって思うときがあるよ。(……)
泥臭くていいから、人生を見せてくれよって。
サラッとした技もあっていいけど、
その中に自分のドロドロとした部分もある人生を見せてほしい」(P149)


本書に天龍とあの前田日明の対談が掲載されている。
一部では前田がガチ(真剣勝負)を人生で一度もやったことはないという噂もあるが、
在日コリアンの前田がおなじ在日の長州力の顔面を背後から蹴ったのはガチである。
いまガチっぽい演出はできても、
ナマの泥臭い人生を賭けたガチを仕掛けられる前田のようなレスラーがいるか?
下手をしたら業界追放、即失業者、人間失格のレッテルをはられるようなガチキックを。
前田はあの事件を、
長州が自分を信用しないで逃げたから怪我につながったと言い訳している。
いまの新日本プロレスって「助け合いプロレス」「思いやりプロレス」なんだよねえ。
相手が飛んだら全身で怪我しないように受けとめてあげる、みたいなさ。
助け合い、思いやり、絆(きずな)プロレス。
プロレスは最初から勝敗は会社の指示で決められているが、
リングに上がったらそこはふたりだけの世界で、
先輩も後輩も礼儀も格式も社会常識もないことを前田日明は知っていた。
前田と天龍の対談から引用する。

前田「……プロレスに入って、何年か経った頃によく先輩から言われたんですね。
 「なんで俺があんなヤツに負けなきゃいけないんだ」って。
天龍「ワハハ!」
前田「『そう思うんだったら、リング上でやっちゃえばいいじゃないですか!』って言うと、
 『そんなわけにいかないだろ』とか言うんだけど、
 なんか俺とか天龍さんは、そう思ったらやっちゃうんですよね」
天龍「(ニヤリ)」
前田「そういう気概をもった選手がいないんですよね。試合見てても。
 『あ、これはちょっとナマ入ったぞ。よしよし、これから試合が面白くなるな」と思っても、
 『あれ? 全然面白くならないな、なんで?』みたいな。ありません、そういうの?」
天龍「あるねぇ」
前田「昔だったら、一発カーンと入ったら、
 試合がガーッと激しくなるっていうのがあったんですけど、
 そういう火の点き方をする選手がいないんですよね」
天龍「そうだね」
[……中略……]
前田「でも、ホントはプロレスって、天龍さんとか、ハンセンとか、
 そういう連中がいるから面白かったんですよね。なんかうまく手が合って、
 エッチラオッチラやってみせて、面白かったでしょ? っていうだけじゃね。
天龍「そうそう」
前田「それじゃ、ただの演劇。どっかに気持ちを入れないと。なんかねぇ。
天龍「そういうことが起きるのかなと思って、見てるんだから、お客も。
 お互いの力量でそこをまたうまく見せて。
 昔はね、[会社が]売り出そうとしてるアンちゃんが出てきたら、
 先輩だとか外国人がパパッと極めて『動けるもんなら動いてみろよ』
 っていうのが、いっぱいいたのよ。
 そこからしのいでいくと、『コイツ、いろんなこと知ってるじゃない』と思って、
 お互いそこで尊敬し合いながら成立したんだよね。
 馬場さんがよく言った言葉で、『すべてを超えたのがプロレス』って、そういうことですよ」
前田「自分らが若手の頃、猪木さんからも山本さんからも言われたのが、
 『外国人にナメられないようにしろ」と。それは常に言われてましたよね。
 相手にナメられたら、プロレスはできないって。
 山本さんなんか、何があってもケガさせられたほうが悪いって言ってましたから」
天龍「練習をガンガンやってると、自分に自信がつくんですよ。
 試合の中で手応えを覚えると、また自信になってっていう」(P280)


まるで子供の喧嘩だが、男の世界はナメられたら終わりのようなところがある。
だから、米国から帰国した日に、一流スーツを着て、
運転手付きの高級車に乗り、銀座の寿司屋に美女を連れていき、
おつぎは銀座のママ相手に飛行機のなかで読んだ通俗書の通俗処世名言を
さも教養ありげに公開して、「社長さんって立派ね」と言われたがる人もいるのだろう。
一流の人とは身もふたもないことを言えばおそらく俗物のことだが、
わたしが少年時代からあこがれてきたミスター・プロレスは一流であり俗物であった。
しかし、中卒という自覚はしっかりありインテリぶったことは言わない本音の人であった。
前田がいうような「ナマ」の暴力を天龍が相手に入れるのを何度も目撃したものである。
「ナマ」を入れるには自信が必要だが、そのために天龍は一流を必要としたのだろう。
わたしが生まれてからはじめて尊敬するという畏怖に似た感情を抱いた相手は、
ミスター・プロレス天龍源一郎でありました。本書のタイトルは「龍魂継承」――。
龍魂は当方にしっかり継承されている。いまでも思うさ。あんなおっさんになりてえ。
むかしからの友人からは政治ネタでも書いたらブログアクセス数がアップして、
メジャーデビューに近づくんじゃないかとふざけて言われたけれど、
スーパー権力者の自民党の二階俊博幹事長。
創価学会の公明党候補応援、選挙演説中にヤジられてキレたらしい。
どっちもいいじゃん。ヤジるのもいいし、キレるのもいいし、どっちも熱い。
本気だ。いい。もっとやれ。もっと、もっと、モア、モア。
先日、公明党拡声器大正義演説に
わたしが「うるせえ」とヤジったときにはなんの反応もなかった。
特技はヤジと書いたら品性を疑われるだろうが、
こちらは小学生のころからひとりで後楽園ホールのプロレスに通っている。
むかしの後楽園ホールのヤジとか、すげえうまかったんだなあ。
おれはそれを正統的に継承しているヤジの貴公子と言ってもいいくらい(笑)。
さすがにベテランレスラーはヤジれなかったが、
WAR興業の大谷と折原の試合なんかおれのヤジで盛り上げたようなもんだから。
「顔をはれ」とあおるわけ。
一般常識上、胸へのチョップはできても、顔をひっぱたくなんて、
おなじ会社の人でもできないところを、他団体の大谷と折原に「顔をはれ」。
まあ「もっとやれ」ということだ。もっと熱くやれ。
それに大谷も折原もこたえてくれた。
わたしのヤジは30年まえの後楽園ホールじこみだからうまいぞお。
公明党のウグイス嬢なんか震えあがったことだろう。
後楽園ホールはおれの母校だが、金のない立見席客がならぶ階段がある。
その階段の落書きがきたねえの。ホモだのレズだのヤオだの。
あれは2ちゃんねるの原初形態だといまでは思う。
おれは成績の悪い少年時代に後楽園ホールで鍛えられたと思っている。
中学2年生までは劣等生だったから。
どれだけプロレスに救われたか。後楽園ホールが学校だったか。
天龍源一郎が先生でありました。テンリュー、テンリュー♪
「革命終焉」(天龍源一郎・嶋田まき代・嶋田紋奈/辰巳出版)

→プロレスラー天龍源一郎は奥さまのまき代さんの作品だったんだなあ。
天龍を知らなければわけがわからない本だろうけれど、
大ファンだった当方としては涙が出るほど笑える裏話満載の本である。
天龍は本当にバカっていうか、生活能力ゼロというか、
損得計算をできない漢(おとこ)だったようである。
そしてそしてタバコとパチンコがなにより好きだったという、
まき代夫人は京都のでっかい土建屋のお嬢さんだったとは。
まき代夫人のお母さまはラウンジ(豪華クラブ)を経営していて、
まき代さんは天龍と見合い結婚するまえそこで働いていて、
当時で月収百万円以上あったとか、
天龍のギャラを知ってあたしより少ないの? と思ったとか金の話はおもしれえ。
天龍は男を気取るというか、とにかく金使いが荒いのは知っていたが、
あれは自分のギャラでまかなっていたわけではなく、
巡業中に奥さまが実家で稼いだ金をそうと知らせず渡していたとか美談すぎる。
とにかくまき代夫人がおもしろすぎる。
この奥さまがいなかったら天龍源一郎は大成することがなかったのは明白だろう。
嶋田一家で天龍源一郎という夢を創っていたんだなあ。
まき代さんは生活能力のない天龍に金を工面しつづける。

「それもこれも「天龍源一郎を一等賞の男にしたい」という私の願いからです。
私の中では「前後左右を考えないで、お金を使える」
というのが一等賞の男なんですよ。
馬場さんだって、ちゃんと考えてお金は使っていました。
もちろん天龍だって考えて使わなければならないんですが、
そこに私の変なこだわりがあるんです。
昔は「あんた、相撲の世界に入ることになって13歳で福井から出てきたとき、
何を持っていた? カバン一個でしょう?
だったら、何もかも失ったとしても一緒じゃない。稼いだときに全部使っちゃえ」
と夫を焚きつけておりました。今となっては反省しております(笑)」(P119)


天龍源一郎は男のなかのチョーかっこいい男だったが、
あれはまき代さんのアニムス(理想男性像)だったのかあ。
男は女を「女にする」のと同様、男は女に「男にされる」面がたぶんにあるのだろう。
いまの結婚はあいつの年収はいくらでこっちはいくらでとかみみっちすぎるぜ。
いい女と出逢えば、男はいい男になるのか。男を立てる女なんだなあ、まき代さん。
金銭感覚がおかしいとおもしろい人生を送れることを本書で学ぶ。
天龍がSWS(メガネスーパーのプロレス団体)に入ったころ、
ちょうどバブルということもあり大金が舞い込んできたらしい。
天龍はかっこいいバカだからその金をどう使うか。
またまた妻のまき代さんの述懐。

「それにしても、SWSに移ってお金を持った天龍はもう……ダメでしたね。
本当に計画性のない人だなと思いました。
銀座のお店に飲みに行って、1万円札を鷲掴みにしてバラまいたり、
喜んでいるホステスの胸元にお札を入れたり、
面識のないホステスにタクシー代として何万円もあげたりしていたようです。
その頃、ウチの弟がよく同行していたので、
それを一部始終目撃して「おかしいよ」って怒っていましたね。
そんな話を聞いても。
「別にいいじゃん、自分の身体を痛めて稼いだお金なんだし」
と言っている私もいました(笑)。
あの時期、私も株に手を出して、○千万も損してしまったこともあります。
この資産を少しでも増やそうと、下心を出してしまったんですよ(笑)。
もともと株は好きで、天龍がSWSに行く前から金額は少ないながら、
ちょっとやってはいたんです。
その頃は紋奈[娘]も小学校に行き始めて時間がありましたし、
SWSからお金が入ってきちゃったので、つい「注ぎ込んじゃえ!」と(笑)」(P118)


天龍源一郎と嶋田まき代は最高にして最強の夫婦だよ。
だれもあんたらには勝てねえって。
天龍の計画性のなさ、金銭感覚のおかしさは、
大ファンだから変な影響を受けているかもしれない。
わたしは天龍が全日本プロレスで革命を起こしたころからのファンだが、
あのころ天龍のギャラは1試合5万いかないくらいだったのか。
にもかかわらず、試合後はおなじ天龍同盟メンバーやマスコミ記者たちと
酒を求めて夜の町を彷徨(ほうこう)して大いに盛り上がり、
当日のギャラ以上に散財していたとは恐れ入る。
そりゃあ、おごられたらマスコミ記者たちも天龍を記事でほめて、
さらに全日本プロレスに客が入るからものすごい好循環ができていたのだろう。
社長の馬場さんもときに10万単位で天龍にお小遣い(飲み代)をあげていたのも、
経営者のマスコミ対策という以上に、
あるいは天龍の当時のおもしろさを理解していたのかもしれない。
天龍はマスコミに金を渡せば悪口を書かれないということを
計算してやっていたわけではなく、おそらく仲間意識から遊んでいたのだろうが、
当時ライバルだった(酒を飲まない)ジャンボ鶴田はおもしろくなかったことだろう。
マスコミは後輩の(敵対している)天龍の魅力ばかりアピールするのだから。
馬場さんだけではなく、奥さまのまき代さんも、
夫の遠征中は実家のラウンジで稼いで、天龍源一郎を男にすることに貢献していた。
天龍自身はといえば、どうしてこんなにお金を使っているのになくならないか、
さほど不思議に思わず、まあいっか、と計画性もなくやっていたのだから、
バカというか天才芸人というか。

しつこいが、男は女が創るもの。男は女が立てるもの。
プライベートの嶋田源一郎ってどんなお父さんだったのだろう。
お嬢さんである紋奈さんは子どものころの想い出を語る。
あの天龍がお嬢さんの運動会や授業参観に行くこともあったらしい。

「……学校にヤ○ザみたいな柄シャツを着てきちゃうんですけどね(笑)。
どう見ても、あれは普通のシャツじゃない。カタギじゃないですよ。
父は芸能人のようにプライベートで帽子を深く被って変装するといった細工はしません。
もう、そのまま「ザ・天龍源一郎」という感じで立っている。
でも、あれを選んでいるのは本人ではなく母ですから。
「こんなシャツ、よく買うな~。捕まるで!」
というようなシャツをあえて選び抜いて買ってくるんです(笑)。
しかし、あのセンスは独特ですよね。
巷(ちまた)では「天龍ファッション」と言われたりしますが、
私は陰で「まき代チョイス」と呼んでおります。
私が大きくなってから母と一緒に父の服を買いに行くと、よく喧嘩になりますよ。
私が「その柄はうるさいよ」と注意しても、
母は「明るいほうがいいじゃん。派手なほうが気分も晴れるし」
と言って、まったく聞く耳を持ちません(笑)」(P96)


プロレスは泥臭いゲスな噂話が最高におもしろいよねえ。
女子プロレスラーのNを女にしたのは冬木だとか、前田もやったとか、
橋本も食った自慢をしていたとか。
冬木は死ぬまえに橋本とプロレス的にからんだが、
冬木の死後に未亡人が橋本と不倫関係でくっついちゃったとか「ザ・欲望」(笑)。
ああ、本書で知ったが理不尽大王の冬木はむかし吃音だったらしい。
噂話をつづけると、北朝鮮でNとブル中野、飯塚と豊田が一戦を交えたとか本当かどうか。
健介と北斗が北朝鮮でっていうのは本人たちも告白しているからガチでしょう?
猪木さんは周囲に奇縁をつくりまわるというか、神さまみたいな人だよなあ。
むろん単純ないい神さまではなく、どこか邪(よこしま)な神さま。
わたしは猪木や馬場よりも、ふたりに勝った天龍源一郎が好きなのではあるが。
天龍もLLPWの社長と、なんとかかんとかとか、耳にした記憶があるような、ないような。
嶋田家はおもしろすぎて、天龍はお嬢さんに自身の女関係まですべて話しているという。
中学時代は不登校も経験したレボリューションな嶋田紋奈さんいわく――。
紋奈さんは「天龍プロジェクト」の代表でもある。

「そんな父によく言われているのが
「俺のほうが確実に先に死ぬんだから言っておくけど、
俺が死んだときに絶対に好き勝手なことを言う奴がいると思う。
だけど、お前が俺の真実を全部、後世へと伝えていく人間になってくれ。
俺が誰と付き合っていたとか、どんなお姉ちゃんがいたとか、
ここに住んでいたとか、全部お前に話しておくから」と。
仕事への行き帰りの車の中などで、そんな話を全部教わっています。
父と息子ではなく、父と娘の関係ではかなり珍しいですよね?
普通の娘さんならば、父親の女性関係、浮気の話は
「お母さんというものがありながら!」と激しく怒るんでしょうが、私は全然平気です。
むしろ何でも話してくれるのが嬉しいぐらいですね。
確かに母は苦労してきたと思いますが、やはり父は人に見られる商売ですし、
実際には家に帰ってきて家族も大事にしてくれていたわけですから。
「男なんて、そんなものだろう」、
「レスラーなんて、みんな悪いことしているんだろう」ぐらいの感覚ですよ」(P209)


人気商売の男は浮気なんて当たり前という常識がいまは非常識になっている。
紋奈ちゃんは大好きだったカシンとやったのかなあ、うふっ。
紋奈代表もおもしろすぎるというか、WAR時代のグッズ販売が濡れ手に粟だったことを、
そこまでばらしていいのかというレベルで白状している。
おいおい、グーパンチうちわや天龍目覚まし時計を買った、こっちの気持にもなれ(笑)。
天龍の盟友・阿修羅原はだらしない天龍を百倍くらいダメにしたいい男だったようだ。
原の借金っていくらだったんだ? 原はどんなふうに金を使ったんだよ。
阿修羅原の引退試合を見て涙したこちらとしては、
その破天荒ぶりが気になって仕方がない。
ヤクザとか大学教授や医者、弁護士なんかよりよっぽどかっこいいよなあ。
銀行員なんかよりチンピラのほうがかっこいいという当方の価値観の乱れは天龍ゆえだ。

ほのぼのとした話も紹介しておこう。
京都の大手土建屋の、パチンコとタバコが好きな商業高校出身の、
しかしとびきり美しいお嬢さんとお見合い結婚した天龍は、
新婚時代の想い出を語る。亭主関白というか、ひどい男なんだが、天龍はいい。
ふむふむ、結婚する幸せはこういうところにあるのか。
天龍源一郎の言葉である。

「結婚は、食事の面でも大きく変化がありました。
一番最初にまき代が料理を作ってくれたときのことは憶えています。
何を作ってくれたかは忘れてしまったんですが、俺がポツリと発した言葉が
「どうしたら、こんなマズい料理が作れるの?」でした。
彼女は「えっ……」という表情をしたまま固まっていましたね。
それから彼女は必死に料理を勉強したみたいで、
いろいろなメニューを覚えては作れるようになってくれました。
最初に俺が味見して、厳しい言葉でカマしてやるんですよ(笑)。
今でもたまに作ってくれますが、
まき代のニンニクの味がする鶏のカラ揚げが大好きでした。
50~60個も作ったカラ揚げをテーブルに置いて、
ビールを飲みながらムシャムシャと食べて、それがなんだか幸せでしたね」(P44)


嫁さんにカラ揚げをがんがん作ってもらいながらビールを飲むというのは、
たしかにそう悪いもんではなさそうだなあ。
自分はふんぞりかえって女から料理を作ってもらうとなんか嬉しいよね。
天龍源一郎からは強い影響を受けているんだけど、
ロレックスの時計をはめたいとか、ベンツに乗りたいとか、
銀座のクラブで札束をバラ撒きたいとか、
そういう一流コンプレックスは引き継いでいない。
パチンコとタバコが好きなきっぷがいいおねえちゃんとは一生縁がなさそうだし。
しかし、計画性のなさと北向き(ひねくれ)加減、浪花節みたいなものは継承している。
この本で知ったが、天龍源一郎は営業をしたことがないという。
全日本を辞めたのも社長の武藤のやりやすさのことを考えたからで、
馬場元子は給料もそのままでという方針で武藤に引き継いだらしい。
全日本もWJもハッスルも、営業はしていないらしく、依頼がまずあったらしい。
大物プロレスラーって馬場、鶴田、藤波以外、みんな山っ気があるというか、
計算しないで金を使っちゃうタイプが多いような気がする。見栄っ張りというか。
だが、奥さんがしっかりとした経済感覚を持っていると、なんとか持ち直すというか。
天龍源一郎もまた金銭感覚が狂っていたが、
まき代夫人が少なくとも天龍よりもましだったからうまくいったのだろう。
しかし、損得や計画性を無視したほうがおもしろい人生を送れる可能性が高い
――天龍源一郎から学んだことである。
本書の最後で天龍は自分が見えていないひでえことを言っているが、
嶋田家の三人はおもしろい。

「俺もよく金銭感覚がぶっ飛んでいるなどと言われますが、
さらにその上を行くのが女房のまき代なんです。
紋奈には、くれぐれも真似しないで欲しいものですね(笑)。
結婚してもう33年が過ぎますが、今でも俺は
「天龍源一郎の嫁は、世界中でまき代にしか務まらない」と思っていますよ」(P242)


WARの経理をやっていたのはまき代さんで、あれは嶋田家の持ち出しだったとのこと。
天龍が新日本で高額のギャラを稼いできて、それをWAR運営にまわすという。
それを考えると、たしかに嶋田まき代さんの金銭感覚もぶっ飛んでいる。
いまはなきプロレス団体WARは大好きで、よく通ったものである。
天龍いわくWARは――。

「ただ、WARが大きな団体と違うのは、「お客さん第一」で、お客さんが喜べば、
もう何でもアリと腹をくくっていた部分です。それはSWSの頃に
「大規模だけど、楽しくないプロレス」
というものをファンに提供してしまった反省と後悔からですよ。
だから、WARでは「とりあえず楽しければそれでいいや」
という点を優先的に考えました」(P134)

「[WARは]こうなったら好きなことをやってやろうという開き直りみたいなものです」(P148)


マイナスにマイナスをかけるとでっかいプラスになるようなことが、
男女関係や人生ではままあるということを実例としておもしろおかしく学んだ。
おれが大好きだった天龍源一郎の陰のプロデューサーはまき代夫人だったのかあ。
パチンコとタバコが好きな商業高校出身の京都のお嬢さまに、
おれは一杯食わされたというか、いい思いをさせていただいたことをいまごろ知る。
生活能力のないだらしない嶋田源一郎を、
「風雲昇り龍」ミスター・プロレス天龍源一郎に仕立て上げた、まき代夫人、お見事でした。

「がんと仲良く暮らす」(ひろさちや・佐藤昂/春秋社)

→佐藤昂というエリートサラリーマンは、ひろさちやの義弟(妻の夫)らしく、
がんになったことをなにか特別なことのように考え、
どんなコネを使ったのか2冊闘病記を書き周囲に配り、
ぜんぜん反響のないのがさみしくなったのか、
有名なひろさちや先生に共著をお願いしたらしい。
佐藤昂はがんになったおかげで安っぽい自己実現のようなものを果たしたと満足げだ。
「がんでもいきいきしてるおれってすごくねえ?」
と周囲に負けたと思われたくないエリートが息巻いている感じが不愉快だった。

数ヶ月まえ原因不明の吐き気があり、胃カメラとCTの検査を受けることになった。
病院の受付で、これ、ひょっとしたらがんもわかっちゃいますか? 
と聞いたら笑顔でイエス。
かといってすぐ検査を受けられるわけではなく2週間後に胃カメラ、
3週間後にCTって感じだったかなあ。不安で狼狽(ろうばい)したものである。
がんかもしれないなんて恐怖で凍りつくじゃないですか?
末期がんだったらラッキーだけれど、初期のがんだったらめんどうくさい。
なまじ近藤誠医師のがん放置理論とか知っているから、がんだったらどうしようと。
知らないほうがいいことってあるよねえ。
自分ががんであることとか、近藤誠医師のあれも知らないほうが幸せ。
結局、逆流性食道炎だったわけだが、いまも吐き気があるけれど、
病名もわかっているし、たぶんもっとも強い薬をのんでいるし、
これ以上できることはないとわかっているから以前のような不安はない。

受賞歴ゼロだが長寿の仏教研究家のひろ氏が、
受賞歴多数でストレスに殺されたような元文化庁長官、河合隼雄の言葉を引用している。
孫引きさせていただく。

「癌(がん)の宣告を受け、手術不能と言われてから、
医者の予想に反して長く生き続ける人があることは、
最近よく知られるようになった。
このような点を研究したあるアメリカの心理学者は、興味深い結果を見出した。
つまり、癌の宣告を受けて、まったく気落ちした人は早死にする。
それと同時に、何とかこれに負けずに頑張り抜こうと努力する人も
早死にすることがわかったのである。
それでは、長命する人はどんな人であろうか。
このような人は癌に勝とうともせず、負けることもなく、それはそれで受けいれて、
ともかく残された人生を、あるがままに生きようとした人たちだった」(P95)


ひろさちや先生の本から河合隼雄の言葉を引用するのは
さすがに失礼余りあるので、ひろ氏の言葉も拾いたいが、
なにか媚びているような気がしていやなので、
ひろさちや氏の知り合いのドイツ人が言ったという言葉でも引っ張っておくか。

「いいか、友人というのは、
そいつのためなら自分の命まで投げ出すことのできる者を言うのだ。
だから、友人は一生に一人か二人しかできない。
場合によると、友人なしで終わることもある」(P6)


いつのまにか40歳を超えてしまったので訳知り顔で言わせてもらうが、
男と男、女と女というのはぞんがい友人になれないのではないか?
仲間や師弟にはなれるけれども、友人にはなれない。
なぜなら同世代の同性だとどうしても競争になってしまうところがあるからである。
どっちが稼いでいるかとか、どちらが美しいかとか、持っているブランド品の数とか。
わたしは幸か不幸かがんではなかったが、
いまがん闘病中の人に激励の言葉を送らせていただく。
がんばれ、がんばれ、がんに負けるな、あきらめるな、がんに勝て!
がんになると仲間が増えそう。仲間は励まし合うのが好きだよねえ。
ちなみに友人の少なそうなひろさちや先生は、
仲間依存症、師弟依存症のようなところがある創価学会を嫌っておられる。
友人もシンパも多かった河合隼雄は創価学会と極めて良好な関係であった。

今回はたまたま公明党だったが、
選挙の「国民の声を聞く」という拡声器の大演説ほどの矛盾はめったにないよね。
「うるさい」という国民の声は、
公明党だけではなく、どこの政党も聞かないわけだから。
なぜなら自分たちは正義だから。
いまは騒音過敏症はかなり軽減したが、
むかしは共産党関係とだいぶ言い争ったなあ。
あいつらの特徴は名乗らないし、責任の所在が明らかではない。
話し合おうとしても、連絡先がないというのが共産党系拡声器軍団。
何度拡声器で正義顔で大演説している共産党関係者と口喧嘩をしたか。
すべて、むかしもむかし、10年近くまえの話である。
「うるさいからやめてください」
「われわれは正義の話をしているんだから、聞いていけ」
この無限ループ。あとは囲まれて、ときには胸ぐらをつかまれる。
だれも名乗らない。連絡先も言わない。写真を撮ろうとしたら携帯を壊そうとしてくる。
わたしは共産党系匿名集団から「正義」の現実的意味をむかし文京区で教わった。
今回の衆議院選挙でだれが大儲けして、だれが没落するのだろう。
少しでもいいから、おこぼれがほしいと書けるほどわたしはあのころから強くなった。
正義なんて信じない。
なにがどうなるかなんてわからないんだなあ。
太田あきひろの選挙カーがうるさかったから、
ケチをつけようと思って氏のブログを読んだ。
ご存じでしょうが、政治にはまったく興味がなく太田あきひろという名前も知らなかった。
ブログを読むと、献身的にがんばっておられる方だなあと。
いまは70歳くらいが政治家にとっての活躍期なのかもしれない。
政治には生まれてから興味を持ったことがない。
冗談半分で功徳でもないかなあ、と創価学会の公明党にここ数年は入れている。
公明党の太田あきひろが問題視している少子高齢化は、
だれが見てもやばいし、にもかかわらずどうしようもない。
政治家は決して言えないだろうが、あれは保育士や最低時給、雇用の問題ではない。
少子高齢化をどうしたら解決できるのかは、
みんなうすうすわかっていると思うが、高齢者に死んでいただくしかないのである。
そうしたら高齢者が所持していた金銭や利権が、若年世代に渡り日本が活性化する。
いまは高齢者利権がなんの因果か強力になりすぎたのだ。
だれだって利権は手放したくない。
だから日本は高齢者の天下だし、
どうせ選挙に行っても少数派の中年、青年の票は死ぬし、
政党も票目当てに高齢者最優遇対策をあげるから、我われは選挙なんかどうでもいい。

高齢者が行なう高齢者のための高齢者が得をする指向性を持った選挙。
もうこの国ダメっしょ、とアラフォーくらいから下はみんな思っている。
だって、高齢者がいよいよ死ななくなって、さらにさらに長寿を目指しているんだから。
新しい芽は高齢者利権にとって不安要素が高いから、すぐさま摘み取られる。
何度書いてもいいが、少子高齢化対策は、高齢者に死んでもらうこと。
しかし、多数派有権者たる高齢者にだれもそんなことを言えない。
そんなことを言おうものなら投票者は老人だらけの選挙に勝てないし、
そもそも高齢者が威張っている政党から推薦されない。
政治も経済も言論も国家も高齢者が仕切っているこの国で、なにをしたって変わらない。
生き残る道は高齢者からちょっとでも目をかけてもらうしかないが、
その競争の道はこころを病みかねないほど厳しい。
政治の世界ではまだ若い太田あきひろさんにはがんばってほしい。
ふたたび公明党へ一票を入れよう。
まあその支持母体の創価学会こそ高齢者ばかりなのだが。
平均寿命を下げよう――これしか少子高齢化社会の答えはないのだろうが、
そんなことはだれも言えないし、
そういう矛盾をかかえたなかでなにかを少しずつ変えていくしかない。
わたしはそういう腹芸のようなことはできないが、
池田名誉会長の薫陶を受けた若手の公明党議員、太田あきひろ氏には期待している。
彼の百分のいちでもいいからいい思いをしたいが、
それほど人生も日本政治も甘くはないのだろう。
創価学会のブログ記事を書いているときに選挙カーが来たのである。
公明党の太田あきひろの宣伝をしている。
まわっているわけではなく、集合住宅のまんまえで金切声を上げている。
きんきん声の女性で、拡声器の音量はたぶんマックスだったのではないか。
当方は耳栓をしているが、いくらファンの公明党といってもうるさいにも程がある。
ベランダに出て息継ぎのあいまに「うるさいです」と2回こちらは地声で指摘する。
なにやら台本を手に持ち、それを棒読みしている女性はわたしを完全無視。
なんだ、このやろう。
拡声器の「太田あきひろは京大を出て」で息継ぎをしたところで、
おまえのほうがうるさいだろうと言われるのを覚悟で「うるせえ」と全身から怒鳴った。
しかし、無視。いったい創価学会員はどういう精神をしているのだろう。
創価学会は対話を重んじているんだろう?
なら、「うるさい」と言われた時点で、
「ボリュームを下げます」とか「もうすぐ終わりますのでごめんなさい」とか、
「お声が入ったので今日は短縮バージョンで」とか
「あたし、つい熱くなっちゃって」とか、「わたし」の言葉、その人の言葉があっていいだろう。
創価学会の戸田城聖さんや池田大作さんは、
当意即妙でそういうことをするのがすごくうまい人だったと思う。
だから、カリスマたりえたと。婦人部かなんか知らんが、あのババアはなんだ?
台本を棒読みするだけじゃないか。
だれも聞いていないのに、「ご静聴ありがとうございました」ってなんだ?
ご静聴なんかなく、おれが3回「うるさい」って言っただろう。
毎回、公明党に入れてやっているのに、なんだよこれは。

どうにかして太田あきひろの事務所を調べようとしたのだが、電話番号が出て来ない。
ネットで検索すると03-5902-5202が出て来るが現在は使わていません。
先日学会員のおばさんふたりが戸別訪問でくれた太田あきひろのチラシを見ると、
励ます会があるようで、
そこの電話番号03-3903-0321に電話してもこの電話は使われていません。
公明党本部に電話しても、いま混雑しているので出られませんとのアナウンス。
公明党板橋区議会03-3579-2704に電話してもだれも出ない。
やっぱり公明党とか創価学会は怪しいんだなあ、と現実を知り、楽しくなる。
もう1回、公明党本部に電話したら、
しばらくお待ちくださいのアナウンスのあとにようやく学会員に電話がつながる。
ようやく本当の太田あきひろ選挙事務所の電話番号を教わる。
そこに電話して出た老年男性に極めて丁寧に事情を説明する。
こちらの本名も住所も名乗ったうえで、あの選挙カーの学会員はだれか教えてください。
なぜならどうしてわたしの声を無視したか問い質したい。
公明党の対話ってなんだ? と質問したい。
公明党本部の電話は録音していると事前通告があったから、
わたしの書いたことにそれほどの嘘はないと思う。
再生して聞き直していただけたらわかる。
しかし、公明党=創価学会はあの学会員がだれだったか教えてくれないんだなあ。
17時半にあそこで拡声器で正義の大演説していた女性はだれか
――そのくらいすぐにわからない政党に国政を任せられるのか、
と言った皮肉は言わない。
しかし、あの正義のババアはふざけていたなあ。
でも、学会婦人部なんて台本を朗読して正義を気取るくらいしかできないのかなあ。

わたしはつぎも公明党に入れるけれど、なんか現実を知ってショック。
だってさあ、政治家の選挙事務所の電話番号が、
いくつも問い合わせを経ないとわからないなんて。
電話番号くらい責任の所在として弱小ブログ「本の山」でさえ公開しているのに
(土屋顕史080-5188-7357)、大御所の政治家先生がねえ。
ちなみにこのブログ記事は(というかほかの記事も)ご連絡があった時点で、
削除してもいいというか、削除にそれほどこだわりはない。
庶民的愚昧正義感はなく、融通は効くほうではないかと思う。
どうせ弱小泡沫ブログでだれにも読まれていないんだから、
言論の自由とかそういうマスコミ正義みたいなものをうたうつもりはない。
でも、わたしもまだまだ元気で、数少ないブログファンはご安心なされたのでは?
公明党の選挙カー街頭演説に対して「うるさい」と怒鳴りつけ、
無視されたことを根に持って公明党本部まで電話をかけるなんて、
むかしのパワーが戻ったみたいではないか?

まだまだやれる!

*何度も繰り返すが、どっかの方面からご連絡がございましたらこの記事は削除します。
わたしは創価学会および公明党のファンをこじらせて自称研究家にまでなりました。
削除できます。削除しないこともできます。
わたしは選挙カーのうるさいウグイスババアにはうるさいが、
ご権力をお持ちでいらっしゃる政治家先生にはペコペコする卑小な人間です。
「医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に長生きする方法」(近藤誠/アスコム)

→いま医学界が真剣に考えなければならないのは老人をいかに殺すかではないか。
これ以上、長寿老人を増やしてどうするんだよ。
平均寿命を下げることを国家目標としてもいいのではないか。
あんがい人間は定年くらいでぽっくり死ぬのがいちばんさいわいかもしれないわけだから。
寝たきり老人とか認知症で完全にボケた人とか、
それから10年、20年生かしてどうするの?
医療費こそいちばん深刻なのではないか?
このまえ大学病院で胃カメラ(内視鏡検査)をやったら8500円取られた。
いま国保で3割負担だから、国が2万円くらい負担しているわけでしょう?
慶應の胃カメラは痛くないからか老人で大賑わいしていたが、
なかには1割負担の人もいるんでしょう? 国家財政大丈夫って話。
偉いのは医者嫌いで病院へ行かないのに国保や社保を払っている人だよね。
病院に行っている分際で言うのは問題かもしれないが、
国保は収入に比して高すぎると思うし、
それが80、90の老人の高額検査代に使われていると思うとげんなりする。

本書を読むまえから知っていたが、むかしの高血圧の基準は160で、
それがだんだんと140、130と大した根拠もなく下がってきて、
自覚なき病人が大量発生し、関係薬品が大量販売され、
病院も医薬品会社も大儲けしているという。
それはそれで医薬品会社は国に税金を払っているからかならずしも悪いとは限らない。
裏では賄賂(裏金)が横行している事実も、なまの声を耳にしたが、
まあ、世の中そんなものだろう。
血圧を下げると欧米人の脳疾患率がわずかに下がるというが、
日本の場合、脳をやって倒れてぽっくり死ねたらいいが、
どうせ人命尊重の名のもとに救急車が来てしまい、
半身麻痺とか生きているのが苦痛な状態になることも少なくない。
わたしは意識不明で倒れたらそのまま死なせてほしいが、
国民の良識がそれを許さないだろう。
血圧の薬はいちおう服用しているが、だったら薬をのむなというご意見もあろう。
しかし、近藤誠医師によると、
血圧を薬で下げていると早死にするリスクが高まるというデータもあるらしい。
早死には望むところだから、
血圧の薬をのんでいるという矛盾したクルクルパー世界である。
コレステロールも薬で下げると早死にするリスクが高まるようだが、
毎回採血をする費用と鬱陶しさ、コレステロール改善薬は
ジェネリックでも高いという話を聞いているのでそっちは放置でいい。

最新機器で検査をするといくらでもがんは見つかるって怖すぎないか?
がんなんて最後まで知らないでいるほうがいいという考えのものもいよう。
しかし、がん保険に入っていたら、こまめに検査をしたくなる気持もわからなくはない。
著者は糖質制限食に否定的のようだが、これも人それぞれだろう。
糖尿病が本当に糖質制限でよくなるのなら、したいものはすればいい。
しかし、健康な若者がダイエットやらを目指して、
好きなパスタもパンも食べないというのは、せっかく生を享けた幸運を無駄遣いしている。
薬を5つ以上のむと危ないと近藤誠医師は書いているが、
うちの父は20近くのんでいるのではないか。プラス怪しげな健康食品である。
当方も5つは超えているが、新たな実験みたいで、
どうなるかわからないから楽しいという考え方もできなくはない。
著者の年代上、しようがないのはわかるが欧米礼賛には閉口する。
欧米人と日本人を、おなじ人間だからと安易にひとくくりにしていいのか。
近藤医師は欧米のデータをよく証拠として出すが、どこか権威主義的で愉快ではない。

実際は本当のことを書いたら医療は半分程度しかわかっていないのだろう。
近藤誠医師の言うことがぜんぶ正しいわけではなく、まあ半分くらい傾聴する価値がある。
従来の医学が完全に間違っているわけではなく半分以上はそうするしかないのだろう。
近藤誠医師は、医療者はなるべく患者に身体的接触を試みたほうがいいと書いている。
そのほうが患者は安心するからだというのが理由。
これは当たっている面もあって、
わたしも昨夏熱中症で倒れて激痛で救急車で病院に運ばれたとき、
死ぬほど痛かったのだがナースさんが激痛箇所を触ってくれるだけで、
わずかではあるが痛みがやわらいだのには驚いた。
はじめての胃カメラで不安だったとき、
ナースさんが「大丈夫」というようにポンと肩を叩いてくれてどれだけ慰められたか。
しかし、わたしは聴診器が嫌いである。
いやがってもする医師はいるが、気づいたら最近あの女医はしなくなった。
これは精神科医の春日武彦先生の私小説に書いてあった話だが、
むかしある病院で自殺予防のための握手推奨というものがあったらしい。
どうでもいい当方の話をすると、人と握手をするのは嫌いである。
で、春日先生が自殺未遂をした女性患者と握手したら、
それもきっかけのひとつとなり、
心を病んだ女性から転移感情(疑似恋愛感情)を持たれて迷惑したという。
医療において絶対的に正しいことはおそらくなく、
基本はあってもそれぞれケースバイケースで、
患者と医師がお互いの相性を探りながらふたりで医療行為を創作していくのが、
ネットで医術や投薬の裏事情がかなりばれた現代における、
医療サービスの新たな指針のようなものになるだろう。



*ちなみに創価学会は組織としては近藤医師のがん放置療法に反対している模様。
学会員だったら病気なんて医者にかからず信心で治せと言いたくなる。
そもそも信心が足らないから、そういう病気にかかるんだよ。
池田名誉会長は信心のおかげで、
いまでも20代の若さと元気をお持ちとある筋から聞いた。
学会員で病気になるやつは信心が足らねえんだ。
池田名誉会長は「現証」を出しているではないか? 「師弟不二」の信心を忘れるな!
楽天ファンになって暇だから宣伝メールを見てみるとけっこう業務用の食材がある。
楽天のみならず、業界にはレンジでチンとはいかないまでも、
揚げるだけとかいうかんたんな冷凍食品がコストも安いぶん広まっていると思う。
まあ、それをできないのが市場から即日直送の刺身なのだろうけれど。
むかし行ったある板橋本町の居酒屋で店主に聞いたら、
料理はほとんどみんな板前さんお手製ということで驚いた。
だから、お客さんが入っているのかなあ、とも。
しかし、豚の角煮を注文したら、
手作りらしいのだがセブンイレブンに味も価格も負けている。
これはわたしの舌が偽物なのかもしれない。
というのも、店は「現証(結果)」として黒字になっているわけだから。
そこはかなりの手作り主義らしく冷凍やインスタントはほとんど使用していないという。
板前さんはたいへんだなあと思う。
安易な考え方をしたら業務用一括インスタントのほうが、
むしろ大衆受けして安くておいしいものもきっとあるわけだから。
本物と偽物ってなんだろう? 
お客さんがおいしいと言ってくれたら、かならずしも本物というわけではないという現実。
しかし、手の込んだ原価率の高い本物ばかり店で出していたら赤字になってしまう。
ブログ「本の山」は商売でもなんでもないが、いちおう本物志向である。
いま売れているだけのインスタントな書物の感想文は出したくないと思っている。
結果、評価は最悪。
コメント欄は気味の悪い罵詈雑言が並び、広告収入は月百円かそこら。
公明党の今回のアピール文「政治は結果。」からしたら、
10年以上も現証(結果)がまったく出ていないうちのブログは偽物でインチキなのだろう。
自分が本物と思っているところの原材料(書籍)を自分で掘り当て(仕入れ)、
自分がおいしいと思うように料理(書評)しても、
お客さん(読者)は喜んでくれないし評判は最悪で売上は毎月赤字。
いくら「持ち出し」をしたのかもわからないほどマイナスは高額になっている。
およそビジネスというものをできない、商売感覚の欠損した無能な人間なのだろう。
当面、辞めるつもりはない。結果という意味の「現証」は最悪である。
派遣が搾取されているのはわかるし、正規雇用のほうがいろいろいいのもわかる。
なんで派遣なんかやってんのか自分でもわかんない。
ちょっとでも安定した仕事に就いて、
ぶっさいくで小生意気な女に、
土下座でもなんでもして嫁はんになってもらったほうがいいのもわからなくはない。
今日派遣先で今日だけの上司だったのは、所長という肩書を持った43歳のNさん。
いかにも好人物で押し出しもよくほがらかで、
まさに優秀な人の見本という感じの人だった。
指示も的確で模範的な社会人といってもよい。
仕事中におそらく奥さまからだろう。
「パパどうする?」というかわいらしい女性からの電話がかかってきていた。
なにか緊急な用事があったのだろう。
優秀なため日本全国を飛び回って仕事をしているらしい。購読しているのは日経新聞。

3人で仕事をしたのだが、もうひとりの派遣はNさん37歳。
この方とは2年ぶりの再会となる。
世間的な価値観からしたらあまり優秀とは言えないのかもしれない。
37歳、高卒でいまのところ6年派遣、実家暮らし、働くのは週4日。
しかし、明るいし、妙な屈折はないし、当方よりもよほど好印象だろう。
わたしのことはさておいて(卑怯なのはわかっている)、
43歳所長と37歳派遣を比較すると明らかに所長さんのほうが優秀なのである。
しかし、どっちが幸福か考えるとわけがわからなくなる。
日本全国を飛び回っている家族持ちの優秀なサラリーマンと、
週4日しか働かない実家寄生の独身派遣。
わたしなんか今日1週間ぶりに働いていて、ああ、いい汗をかいた。
いんちきビールがうまい。
茨木の県庁所在地は水戸だったのかあ、
と小学生でも知っているようなことを高卒の年下に教わり、
いい勉強になったとかふざけている41歳の人間のクズ。
だから、だろう。
43歳所長と37歳派遣のいったいどちらが
生活から幸福感を味わっているのかわからない。
37歳派遣は休日は地元の友人と遊んでいるという。
43歳所長は優秀だが、そのぶん責任ある仕事を任され、ストレスも多いような気がする。

根っからの能力の相違というものがある。
おそらくわたしは43歳の模範的社会人になるのはとうてい無理だが、
少しくらいなら近づくことができるような気がする。
たぶんそのポテンシャルは37歳派遣のNさんよりは高いだろう。
上から目線が失礼なのはわかっているが、年上だから年功序列と許してよ。
41歳でも必死でサービス仕事に励み、上に媚び、愛想を良くし、
人間改造に努めたら契約社員、運がよければ正社員になれるかもしれない。
それでも三流社員だろうが、
それでも四流、五流の訳あり女性は嫁に来てくれるかもしれない。
しかし、そんなくそったれな人生を目指して粉骨砕身すべきなのだろうか?
適当に生きて適当に死ぬのもあんがい幸福なのではないか?
このまえの派遣先、パチンコ会社で話した人は43歳で派遣。
家賃2万7千円のところに住んでいたが、
ひょうひょうと生活を楽しんでいるようだった(読書とテレビゲーム)。
彼はきつい仕事やめんどうごとから逃げるのがうまく、
ほほう、さすが社会ずれしているなあ、と感心したものである。

いったいどうしたらいいんだろう?
社会的可能性のようなものがまだ砂金レベルであるから迷ってしまう。
43歳の好人物の模範みたいな所長さんを目指すのもいいのだろうが、それが幸福か?
日経新聞なんて聖教新聞より読みたくないと思ってしまうほど根性が腐っている。
なんかーさ、仏典とか読んで浄土の存在を信じて早死にしたほうが、えとあのその……。
派遣なんかしていないで、
もっと経済的効率的に「正しい」ことをしろというご意見はもっともだ。
わからないのだ~よ。
いっぱい(さほどではないというご感想もあろう)本を読んでわかったのは、
なにもかも「わからない」こと。
なにが善でなにが悪だか、なにが損でなにが得だか、41歳になってもまるでわからない。
今日だってべつに2年ぶりにNさんと再会してことさら悪い日だったというわけではない。
毎日Nさんと逢いたいかと聞かれたら、それはそうではないけれど。
一期一会でもう逢うことはないと思われる所長さんの、
いかにも優秀(ぶったと書いたら失礼になろう)
といった感じの好印象も忘れることはないだろう。いい想い出ができた。

(追記)所長さんは俳優の佐藤浩市に似ていた。
同僚派遣のNさんはふざけてゴキブリに似ているといったらふざけて怒られた。
明朝は茨城県の取手というところまで行く。片道交通費800円。
それを往復で出してくれる派遣会社はどれだけ太っ腹なんだ。
茨城は行ったことがないんじゃないかなあ。
小旅行気分で来てくださいって、そんなビップ待遇をされる大物ではないのですけれど。
ここの派遣会社とのしょっぱな遺品整理の仕事。
文学的ネタになるんじゃないかなあ、と応募したら採用してくれた。
金銭よりなにより遺品整理をしている人たちをこの目で見たかった。
ほかの派遣先で(遺品整理の仕事を)紹介されなかった人と話したことがあったから、
目をかけてくださったというか、特別枠というか、ご縁がございましたのでしょう。
あれからいろいろ単発仕事を紹介してもらったなあ。
大学生と仕事をしたとき、なんか早合点で学生さんはこちらを新聞的に錯誤して、
「(生活的に)たいへんなんですね」と言われたが、
派遣会社のTさんは「土屋さんはフリーな人なんですよ」とごまかしてくれた。
わたしがのちにブログでスーパーフリーを自称(偽称)するようになったのは、
あのときに派遣会社のTさんがとっさに出した言葉の影響からである。
遅刻はできない。ハサミもカッターも百円ショップで買った。軍手もOK。
明日は茨城の取手でいろいろ勉強させていただく予定である。
そろそろシャワーを浴びて眠る時間。忘恩の徒にはなりませぬぞ。
さんまのシーズンでしょう? 
刺身が好きだからいろいろなところでさんまの刺身を買う(半額多し)。
これはもう確実といっていいほど、うまいまずいの差があるんだなあ。
いちばん「いのちの味」のようなものがわかるのは刺身ではないか?
個人的には日本料理の代表は牛丼でもてんぷらでもなく魚介類の刺身。
いきいきとしたうまい刺身を食うと翌日の元気が違う。
おなじスーパーで買っても、うまいときとまずいときがある。
先日カズンで買った半額だか30パーセント引きだかの、いわしの刺身は迫力があった。
「いのちの味」がした。
いま生意気にも酒肴としているさんまの刺身(半額)は「いのちの味」がまったくしない。
おいしいレトルトや冷凍食品、中食はいろいろあるけれど、
本当に「いのちの味」を味わえるのは魚介類の刺身だと思う。
日本の代表料理は刺身だと思う。まあ、インドカレーも麻婆丼も大好きなのだが。
うまい刺身が食いたいとなったら板橋本町のあそこかなあ。
きっと仕入れ先が目利きなのだろう。
「ポケベルが鳴らなくて」というヒット曲がむかしあったけれど、
もろにポケベル完全ひゃくぱー世代ね。
大学時代はマスやクリとよくポケベルをやったなあ。
ポケベルってほんの一瞬で消えちゃったけれど、短文ゆえ俳句のような妙味があった。
女の子からポケベルに返信があると嬉しかったなあ。
PHSとか携帯電話は味気ないよね。
まあ、公衆電話世代からしたら、いまは異世界なんだろうけれど。
このまえ携帯が壊れてひさびさに公衆電話を使用して昭和のよき香りを満喫した。
男女でも同性でも逢うのはハードルが高いほうがおもしろいよねえ。
最初はハンドルネームで、メールでお互いのことを探り合って、
恐るおそるハンドルネームのままで逢って、
携帯電話番号を知るのは最後だが、知ってもかけられないみたいなロマンス。
もどかしいが、そこが楽しく、生きがいがある。

「本の山」なんて情緒がないでしょう?
携帯番号も本名も最初に公開しているわけだから。
しかし、本名が戸籍上の実名かはわからないわけじゃないですか?
携帯番号だってかけてみるまで本当に通じるかわからない。
そのへんでロマンスは残しているつもりなんだけれどなあ。
いまはみんな個人情報を守ることに汲々としているようだが、
個人情報の最たるものの携帯番号を公開しても意外となんにもないもんだよ。
山田太一氏の名言「他人は自分に関心を持たない」を再確認して、
ふうむ、そうか、なるほどとうなったくらい。
電話をかけられたらふつうに「はい、土屋です」って出るけれどね。
そして、たぶんふつうに話してふつうに「では失礼します」で電話を終える。
途中、少しどもるかもしれないけれど、それほど気になるレベルではないと思う。

つまらないよねえ。なんにもない。味気ない。うるおいのようなものがほしい。
けれど、実社会でちょっとでも本音に近いことを言ったら人権がうるさい。
パワハラとかセクハラとか。知的障害者が神さまのような顔をして威張っている。
むかしからサブカル世界は嫌いではなかった。
わたしなんて旧2ちゃんねる文学板の自称女王美香QNWだし、
サブカル的に見たらチョーおいしいって思うんだけれどガラケーは鳴らない。
いまはサブカルってどこにいっちゃったんだろう?
というか、メインカルチャーがないもんね。
老人がなかなか死なない老人ばかりのかび臭い国で、
相当な老人でさえさらなる長老にはあたまが上がらない。
東京大地震は起きないし、北朝鮮のミサイルは東京まで届かないし、ガラケーも鳴らない。
女のなかにはさ、ぼくみたいにインテリぶった、あたまでっかちのバカ男を、
持って生まれた天然の女子力でめちゃくちゃに振り回して、
食べちゃいたいっていう猛者(もさ)はいないのかなあ。
日本にはこれだけ女性がいるんだし、日本語をできる外国人女性もいようし、ひとりくらい。
ぼく、免疫なんかゼロに近いから、いい餌食(えじき)になると思うけれどなあ。
色仕掛けとかコロッと引っかかる危なさを自覚している。
ぼくで貴女のエゴを好き勝手に解放してマグロ漁船にでも乗せてほしいなあ。
ロマンチストだからヤマギシ会のようなところにも、誘われたらほいほいついていくと思う。
もう禁治産者かみひとえだから、ぼくは貴女のもの。
ああ、餌になって女からもぐもぐ食べられたい。
精神の統合が不適合者ゴーカク、ゴーカクよ。
みんなゴーカクだからゴーカク! 
ぼくは気違いではありません。ゴーカク。だからゴーカク。
みなさん勉強をするっていうと偉い人の話を聞きに行ったり、
新聞を読んだり資格を取ったりすることだって思っていませんか?
そういうのも役に立つのだろうが、
わたしは自分の使える言葉を増やすのが勉強だと思っている。
たとえば創価学会は四字熟語が好きで、
一般の人は聞きなれない日蓮用語がたくさんある。
だから、むかしは「ひょっとしたらこの宗教はすごいんじゃないの?」とだませたし、
いまでも難しい四字熟語を知っている自分は偉いと、
生きていくうえで必要な自信や自己愛、自己肯定感を得られる仕組みになっている。
そこまで悪い宗教団体ではないと思う。
むしろ、さみしい人にはなくてはならない存在になっていることだろう。

勉強するとは、言葉を増やすことだ。なぜなら世界は言葉で分節化されているからだ。
世界は言葉にほかならない。
新しい世界を知るとは、新しい言葉を知ることと言ってもよかろう。
新しい概念(言葉)を知ったら、世界の見方が少し変わり、
「さみしい、つまらない、むなしい」人生を生きているわれわれにとって救いになる。
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経は最強の言葉に近いと思う。
なぜなら言葉の意味は正確にはよくわからないが(そこに意味がある)、
たしかに真理そのものであり、真理とはそういうものだからである。
真理はわからないけれど、それでは人は不安になるので、
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経が効くのである。

神仏の世界や運命、宿命の「わからない」ことは言葉にできないでしょう? 
けれど、それを南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経というふうに可視化(言語化)したら、
言語化できない孤独感、不安感、不全感、絶望感、無力感に
少なくとも言葉のレベルのうえでアクセスすることが可能になるじゃないですか?
わかっていただけるかなあ? ただインテリぶっているだけのように思われるのかなあ?
今朝も変な夢を見たが(寝床でババアに迫られる)、
そのとき有効だったのは南無阿弥陀仏よりも南無妙法蓮華経であった。
だから、どうしたって、わたしの雑記なんて毎回、こんな感じでしょう?
本当の「答え」はわからないのだが、言葉の羅列のなかに、
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を入れて文脈を創ったら、
少しは楽になるのではないかというささやかな提案でございました。
きっとこんなことは女性誌に山ほど書かれているのだろうが、
そういうのを読まない(ほうが好きね)女郎(めろう)のためにもてる技術を教えよう。
もっともおれみたいな底辺からもててもしようがないって話だろうけれど。
男は(と自分を全男性の代表のように書くのは気が引けるが)
女に完全性を求めていない。
完全なお化粧をした女性誌に出て来るモデルのようなファッションをした女は怖い。
わざとか偶然かわからないレベルで隙をつくると、そこに男は参るもの。
細かいことは書けないけれど、むかし真冬のある職場での同年代女性の話。
休憩室で女は真冬なのに半袖の薄着になって(まあ暖房は効いていたが)、
前かがみになって話しかけてくるのである。
ついつい胸の谷間とブラジャーに目が行ってしまう。やべえ、惚れそうって思ったもん。
単なる偶然だったのか、誘惑していたのか、からかっていたのか、わからない。
しかし、そのわからないところがいいんだなあ。
胸チラ女性の旦那は病気で寝たきりとか聞いた。
けっこう色っぽくて、あれは文学的堕落、
文学的下降(上昇?)をするチャンスだったのかもしれない。
たぶん色恋みたいなものは、まず女からアクションする。
ちょっと下世話な話をし過ぎたのでインテリぶったことを書くと、
近松門左衛門の「曽根崎心中」でも、女が男の手を取って自分の胸をさわらせるでしょう?
もてたかったら隙をつくればいいというのはたぶん女はみんな知っていると思うが、
おなじ女性の目が怖くてなかなかできないのだと思う。
たぶんリアルな素っ裸よりも、
自分のあたまのなかで妄想したフィクションの女の裸のほうを男は美しく感じている。
女性は同性の目なんて気にしないで、隙をつくれ! 
間違った。お願いします。隙をつくってくださいませんか?
友人の友人に男はだれでも落とせるという、
すごい手腕(剛腕かな)の持ち主がいるみたいなんだ。
なんか他人の亭主を寝取るのがうまいらしく、かつては裁判沙汰になったこともあるとか。
逢わせてくれって何度かお願いしているんだけれど逢わせてくれないなあ。
落ちて、みたいんだ。
交際するのは相手の合意が必要だけれど、落ちるのはこちらの自由でしょう。
ある女のことを思って悶々とするとか、高校生みたいな感情を久々に味わってみたい。

話は変わるけれど、恋愛って自然の部分もあるけれど、人工的に作れるんだよね。
むかしのお見合いのやり手ババアとかうまかったわけでしょう。
太郎と花子がお見合いをした。お互い家柄も年齢も吊り合っている。
そこでババアは太郎のところに行き、花子があなたを気に入っているという。
同様、花子のところに行き、太郎は花子のことがあたまを離れなくて夜も眠れないという。
こういうふうにさんざん空気を入れて(ふくらませて)ふたりを再会させたらどうなるか?

おれもこれやったことあるよ。だって、おもしろいじゃん。
M下さんがSさんのことを好きでたまらないって言っていましたよ、とか。
むかし友人がしてくれたこともある。
若い声優のたまごの女の子と引き合わせてくれて、
あの子ヨンダくんのこと気にしていたよ、とか。
当時は無職コンプレックスがあったから冒険には出られなかった。
記憶はあやふやだけれど、
シェイクスピアの「空騒ぎ」「じゃじゃ馬慣らし」もたしかこのパターンだった気が。
ちなみにプロレスは反対をするのね。
相手が言ってもいない悪口を言っていたと告げ口して対戦を盛り上げる。
プロレスは喧嘩のニセモノだけれど、
どこかになまの感情が入っていたほうがおもしろいわけだから。

そのどんな男も落とすという女に逢ってみたいんだけれどなあ。
秋は王子の日本語学校イベントに行きましょうって話だったけれど、連絡が来ないし。
でもまあ、忙しいんだろうなあと。もう8年とかそのレベルの長期関係だから。
それでも、その男を落とす天才で、
実際チョー資産家も落としたという女と逢わせてくれない。
それはファミレスでというわけには行かないのはわかるけれど、くうう。
落とされたいの。堕ちていきたいの。
アントニオ猪木のチョークスリーパーですっと落ちた(実は演戯)天龍源一郎のように。
どうでもいい話だけど、天龍と夫人の結婚はお見合いね。
仲人がそうとううまく空気を入れた(ふくらませた)と本で読んだ。
ちょっと人生を活性化させなきゃな。
むかしはメンヘラっぽい女からけっこうメールが来ていたが、
いまは自己紹介欄に「心を患った人は専門機関へお願いします」
とか書いちゃったからか、ご新規さんがぜんぜん来ない。
携帯番号を公開したら、九州の50過ぎだという暗い声の男性から重たい電話が来て、
「さみしいときはいつでも電話していいですか?」って聞かれたけれども、
「こちらの都合もありますので」とお断りした。
しかし、いまメンヘラ率ってそうとう高いのではないか?
精神科や心療内科クリニックに一度でもかかった人をメンヘラと定義したら、
国民の3、4割がメンヘラになってしまう。「うつは心の風邪」が本当ならば。
で、本来行くべきわたしのような人間が未治療で野放しになっているという(笑)。
けれど、わたし、外面(そとづら)はいいし、むかしと違って常識人ポーズは取れるよ。
そういえば一時期無料カウンセラー状態だったなあ。
カウンセラーなんて難しくてわたしには絶対にできないのだが。そんな器じゃない。
カウンセラーは占い師みたいな適当なことを言って励まして終わりじゃないんだから。
カウンセラーは「この信心は本物よ」「きっと現証が出るわ」
と言って励まして自分がいい気分になっても意味がない。
昨日、稚拙な感想文を書いたカウンセラーの親分の本から抜粋する。
河合隼雄いわく――。

「死にたいと言っている人に温かく接したり励ましたり、
「肩をたたいて励ましたら、ハラハラと涙を流して」立ち直るなどという美談の類は、
われわれの世界にはほとんど縁がない。
美談で立ち直れるような簡単な人は、
われわれのところまでわざわざ来られることはない。
別にそれが悪いというのではない。それはそれでありがたいことだが、
そんなことで喜んでいるような暇はない、と言うべきか。
心理療法家が何かクライアントに役立つことをして
喜ばれるという形になることは少ない。
クライエントに対して治療者が何かをするよりは、
クライエントが自分で動きはじめるのを待って、それに従っていくことになる。
そのためには、何といってもクライエントの言うことに耳を傾けて聴くことが大切である。
そして、その言われた内容に対して、外から判断したり評価したりするのではなく、
内側から共に感じながら聴く」(閉ざされた心との対話/講談社)


こんな難しいこと、だれができるっていうんだよ。
カウンセラーは出した占い結果を使えないわけだから。
カウンセラーは精神病薬を出して、とりあえずのしのぎをできないわけだから。
しかし、お金をもらうわけでしょう。
なにも出していないのにお金をもらうのは勇気が入りそうだよなあ。
生まれ変わっても絶対にやりたくないのはカウンセラー。
すっげえ恥ずかしい妄想を実名で書くぞ。
おれは何度も言っているように来世は絶対美少女に生まれるの。
で、わざと露出の多い格好をして男の子の目を集めるんだ。
パンチラだってブラチラだって見せて減るもんじゃないんだからサービスする。
男から告白されても遠回しに断って、しかし気を持たせるようなことを言ってからかう。
告白してきた男の目のまえで、別のボーイフレンドとわざと腕を組んだりする。
家はビンボーは絶対いや。たまにいる、いくら食べても太らない体質。
きょうだいは困ったときは、いつも助けてくれる優秀なお兄さんがひとり。ふたりでも可。
お兄さんと遊ぶ過程で男を翻弄する技術を身につける。
学校の制服はチョーミニにして階段でも隠さない。
死にそうな顔をしたサラリーマンへの無償サービス。
はじめては賞をいくつも取っている中年カメラマンに捧げる。
で、モデルをしつつもカメラマンもやり(技術と仕事のコネは中年からいただき)、
映画も撮って女性芸術家になる。
もちろん映画の処女作は根回しをきちんとしているから大ヒット。
二回目の映画でこけて、挫折を知るのもいいなあ。
でも美人だからお金持の愛人をしながら美食、美容はパーフェクトじゃなきゃいや。
たまたま愛人と旅行に行った先で気に入った雑貨を輸入する。
資本はもちろん男から出してもらい、
知り合いのモデルに使ってもらい(宣伝してもらい)販売は好調。女性実業家。
加齢劣化は美容整形でごまかし40歳になっても20代の美貌。
突如、占い師の才能に目覚め、政治家や社長といった大物がひっきりなしに。
かげで日本の政治を動かしているのは自分。
このあたりで自分より10くらい年下の青年実業家と結婚して健康な子どもをふたり生む。
子どもが成人したころ、末期がんが発見され苦しまずに死ぬ。
最期はみんなから惜しまれ、しかし生き抜くアピールをして国民に勇気を与える。
死後はニュースで波乱万丈の人生を各局で特集される。
よおし、来世は決まったぜ。もう現世はどうでもいい。
コージーコーナーで働いていたときミッキーという女の子がいた。
たぶん30過ぎで、人妻っていう話だったから、女の子っていうわけでもないのだが。
ミッキーはとにかく、こんなおれなんかに優しくしてくれたのである。
ああ、もうミッキーさまさま、すがりたいってくらい。
だって、小さいお菓子を箱に入れるのなんて男は通常苦手でしょう?
働き始めたころはミッキーとの視線合戦だったな。
ああいうところでは変な白衣を強制着用だから、
だれがだれだか最初のころはわからない。
ミッキーの正体はどんな顔なんだろうとハイエナのような目をしていた。
またさあ、あっちゃんというかわいい子がいて、これとも区別がつきにくくて。
アッキーはちょっと生育歴が複雑そうだったけれど、かわいい子だった。
なんの話をしていたんだっけ? そうだ、ミッキーの話。
こちらの妄想だろうが、わたしが職場に入ると場が遊技場に近くなることがある。
たぶん意図的にお若い男性社員さんが、あれはなんというのだっけな。
最後のほうにやる仕事にミッキーとおれをセットで入れてくれた。
おれ、こんなことを書いているけれど、正体は図々しいし、
シナセンのクソババア小林からは厚顔とか言われるふてえ男よ。ず太い。
もう契約終了も見えていて、
明らかにミッキーとのおしゃべりタイムをプレゼントしてくれたって感じ。
いちばんお世話になったのは橋本さんかミッキーかって話。
でも、どうしてもミッキーと話せなかったんだなあ。
ミッキーと社員の好青年はドラえもんの話をしていた。話に入るように誘ってくれていた。
おれってご承知でしょうが、小心者よ。
職場に入ったらまずだれが自分の味方か探す。
ミッキーとは最初からすごく目が合ったし、おねえさまキャラで大好きだった。
最後のほうはほかの派遣さんもKさんをミッキーと呼んでいたが気のせいだろう。
結局、一語も言葉を交わせなかった。
亭主から奪いたいとか独占したいとかそんな気持はぜんぜんなく、
どうしてミッキーはこんなに優しくしてくれるんだろうと。
北戸田には万が一にもクリスマスとか正月とか呼ばれたら行くし、
しかし再会しないほうがいいのかもしれない。
「山頭火と歩く名水」(『サライ』編集部 編/小学館) *再読

→精神科医の春日武彦先生が大っっっ嫌いな「負け犬」の山頭火を、
いま読んだらどう思うかなあ、なんてチャレンジしてみる。
先日、春日先生からは3千円近くする新刊の傑作大著を送ってもらっているからね。
いまその分厚い本をもったいないから少しずつ読んでいるのだが、
げらげら笑えておもしろくて。
山頭火ファンやーめた♪ 「土屋は金で動く男」と思ってくれ。
つっちいは金と女と権力に弱い。正義とか信念みたいなものがない。
わたしは俗っぽいものが好きなのだが、それゆえ春日医師も山頭火も好きなのである。
おそらく春日さんが山頭火を嫌うのは、
同族嫌悪というか自分に似たものを感じるからであろう。
山頭火は大富豪出身の没落貴族みたいなところがあるじゃないですか?
インテリがわざわざ下層世界に降りていって、
しみじみするというニセモノめいたところがある。
たとえば山頭火のこんな句を春日先生は嫌うのだろう。

「しぐるゝや人のなさけに涙ぐむ」

実際、体験してみたらわかると思うが、
低時給労働者は意地悪だけれども、あったかい人情みたいなものがあるのよ。
そういうのを感得かつ言語化できるのは、
受け手がインテリだったり、育ちがいいからなのだと思う。
これを白状するとどの職場仲間からも笑われるけれど、
わたしは3歳のときから10年以上鈴木メソッドでバイオリンを習っていたからね。
高等教育を受けているし、いまでも読書が趣味だし、嫌味といえばそうでしょう?
どっか山頭火にはインテリの目から底辺庶民を観察しているようなところがある。
貧乏だけれども、これはあえて貧困体験をしたいから、みたいな。
本当の低学歴貧困者が読んだら、
ムカムカするようなところが山頭火にはあるのかもしれない。
それは精神科医の春日さんにもあるし、
おそらくいまは落ちぶれたわたしにもそういう下品で悪質なところがあるのだろう。
またまた山頭火の句。

「貧しさは水を飲んだり花を眺めたり」

この俳句なんかもそういう境地にいたりたいから、
わざわざ身を持ち崩したみたいな「いかがわしさ」や「胡散臭さ」がないとはいえまい。
もう10年以上もむかしの話だけれども、死のう(死ねたら)と思って、
山頭火の句集片手に3ヶ月もクソ暑いインドを放浪したことがある。
あるレストランでインド人貧困労働者が、
じつにおいしそうに食べているチキンカレーを真似して注文してみた。
さぞかしおいしいのかと思って食べてみたら、チキンは1個しか入っていないしクソまずい。
見たらインド人労働者はまだその1個のチキンをしゃぶるように舐めている。
どっちが美食を味わっているかといえば、
根性が腐った先進国旅行者ではないのはみなさまにもおわかりになるはず。
それはランチだったのか。
ディナーにホテル(というほどのものでもなく宿泊所か)に戻り、
ランチの10倍する(百ルピー)インドコース料理を頼んでみたら、
注文するものがだれもいないのだろう。
いちから作り始めるのでなかなか出て来ないが、
完成したものは気が狂うかと思うほどうまい。
けっこうな田舎で日本人旅行者なんかめったに来ないから、本気を出したのかなって感じ。
しかし、ランチとディナーのどっちがうまいかはわからないわけよ。
わたしだって暑いインドでリキシャみたいな重労働をしたあとなら、
あのクソまずいチキンカレーをごちそうに思えたかもしれないわけだから。

数ヶ月まえ体調が異常なほど悪かったときは、おかゆがしみじみうまかったけれど、
いまはおかゆもヨーグルトもさして口にしたいとは思わない。
美食や美味、美女はいいものだが、金がかかる。
このたび3千円もする傑作の大著を、
なんのゆかりもないわたしに送ってくださった精神科医の春日武彦先生は本物である。
春日先生が負け犬の山頭火を嫌いなら、わたしも嗜好を変えようではないか。
でも、春日さんって中華料理屋の野菜炒めくらいで感動しちゃう貧乏舌なんでしょう。
春日さんのそういうところが好きだし、だから春日さんは山頭火を嫌いなのだと思う。

わたしは金、女、権力がほしい。すべてを食べちゃいたい、なんちゃって、えへえへ♪
度胸のある腰の座った俗物になりたい。
豪華絢爛なホテルで家柄のいい美女と品のいい会話をして美食を味わいたい。
だから、本当だって、嘘じゃないって、ガツガツしてるんだから、がるがるがるう(虚勢)!

「閉ざされた心との対話 心理療法の現場から」(河合隼雄/講談社)

→いまの悩みは、
がさつでもいいいからエネルギッシュな田舎者めいたパワーがほしいなあと。
小勝(こかつ)したいっていうか、プチプチでもいいから成り上がってやるぜ、という。
どうせ女なんか金と権力さえあれば寄ってくるんだから、それを俗物的に欲したい。
まあ、言葉にしたら「やる気が出ない」「めんどうくさい」っていうか。
精神科にかかって薬でももらったら熱いバリバリ学会員のようになれるかなあ。
自己啓発セミナーは確実にかつ速やかに効きそうなんだけれど金がもったいない。
シナリオ・センターと喧嘩していたときみたいなパワーがねえ、いまあれば。
考えてみれば金や権力で女からもてるのってまったくズルくない。
よっぽど顔でもてるほうがズルいようにも思う。
しかし、女とつきあいたい理由が、あとあと小説めいたものを書きたい――
だからこんな本音をばらしたら寄ってくるものも来ないという。
まあ、河合隼雄の基本姿勢は本人が「やる気」になるまで「待つ」だからなあ。
新興宗教みたいなパワードリンクを飲むと元気が出そうだけれど、
息切れとか副作用が怖い。河合先生の言うよう、
自然発生的に自分から出て来るものを「待つ」しかないのかなあ。

本書は業界のボス猿の河合隼雄と子分たちとの対話集なのだが、
大学で学生相談みたいなことをしている女性カウンセラーの話がおもしろかった。
大学生が評判の悪い新興宗教に引っかかりそうになったらしい。
その宗教の合宿に行こうか迷っている。
カウンセラーはどうすればいいかわからなくてご飯も食べられなくなってしまった。
ふたりの心理学の先生に相談したという。
ひとりは河合隼雄で、氏の答えは「絶対行かせるな」であった。
もうひとりの先生の答えは、「責任は全部自分が持つから行かせてみろ」であった。
カウンセラーは迷いに迷ったが、行かせることにしたらしい。
そうしたら学生は自分で新興宗教の胡散臭さに気づき、
カウンセラーのところへ戻って来たらしい。
それがきっかけとなり以後カウンセリングもスムーズに進んだという。
こういう話を公開できるくらいだから、河合隼雄は教祖タイプではなかったのだと思う。
カウンセラーはたぶん女性のほうが向いている。
男性がカウンセラーになると、よほど柔軟でないと権威的な教祖になってしまう。
精神科医は男性のほうがよく、その程よい権威感が患者に安心を与える気がする。

精神科に行こっかなあ。新興宗教へ入ろっかなあ。占い師にすがろっかなあ。
目標は人格陽性化と人生一発大逆転(笑)。
いま顕正会が熱いらしいじゃん。
顕正会に入るようなそぶりを見せたら、
いままで拒んでいた創価学会が美少女つきで勧誘してくれるかなあ。
よおし、今度のミッションは「新興宗教体験取材」だ。どっからでもかかってこい。
どうせ新興宗教からはすぐに逃げ出すだろうけれど(根性がないため)、
そっから人生が好転するかもしれないわけだから。
ちょっと人生にカツを入れんとあかん。このままじゃ、あかん。あかんねん。

「英語コンプレックス脱出」(中島義道/NTT出版)

→日本はむかし英語コンプレックスがあったけれど、
いまは少しずつだがなくなってきたよねえって本だと思う。
おれもさ、嫌いなのはあれ。
日本人の価値観ではブスとされる女がさ、ほら白人と連れ立って、
ワーオ、アイノウとか
日本人なのにいかにも欧米人ぶって英語を陽気に話しているポーズ。
日本男児が好む女性タイプと白人野郎が好むやまとなでしこは違うみたいだよね。
言っちゃあ悪いけれど、
不細工な女が英語を白人と話しているだけでタカビーなのはムカつく。
というか、それがまさしく英語コンプレックスなのだが(笑)。
陽気なアメリカ人ポーズをしている日本人って卑屈で醜悪だよねって、
これもコンプレックス?

おれはむかしから欧米コンプレックスは比較的に少なかったような気がする。
大学の第二外国語は中国語を選択したし。
10年近くまえ東南アジアをぶらぶらしたときは、白人がムカついてしようがなかった。
だって、あいつらが英語を話せるのは努力の結果とかじゃないでしょう?
欧米世界の言葉は基本的に似ているっていうし、
日本人が英語を習得するのとは違うのである。
ゆっくり話せばわかるのに、
アメ公は自分がスタンダードといわんばかりに早口でまくしたてるじゃん。
日本が世界を征服していたら、
日本語が世界の公用語になっていたのにと悔しい思いをしたものである。
ベトナムから中国に入ったのだが、
それまでいっしょだった欧米バックパッカーたちがパタリといなくなったのは笑えた。
タイ、カンボジア、ベトナムは英語が比較的通じるが、中国ではそうはいかない。
漢字、漢字、漢字の世界だから、欧米人よりも日本人のほうが有利。
こちらはかすかに記憶に残っている中国語を使うことができて、
中国はいいなあと思ったものである。

身もふたもないことをいうと、白人って有色人種を差別しているでしょう?
だから、わたしも差別的なことを書くが、白人女に欲情することがない。
白人女ってワーオ、ワンダフル、ナイスの世界観しかなく情緒ってものがない。
西洋映画とか見ても、ウィットを利かせた会話とか、それなりにおもしろいとは思うが、
けっ、それがなんだよという不快感を同時に感じる。
わたしは差別主義者なのだろうが、中国人、ベトナム人の女の子はかわいいよね。
これはかつて米兵が、
日本人女をオンリーにしたいと思っていたあの差別感とどこか通じている。
でもさ、バイト先やスーパーのレジで見かける若い中国人の女の子とか、
ベトナム人の子はかわいいもの。
あれ、本当は、すごく気が強い地雷らしいけれど、それを差し引いてもさ。
いまの日本女が失った純情のようなものを持っているような気がする。
それがこちらのコンプレックスで、恥ずかしいことを告白しているという自覚はある。
しかし、中国人女性やベトナム人女性は、
あの腐った日本的価値観に毒されていないじゃん。
なにか真剣なものがあるっていうか、わからない部分があるっていうか、そこがいい。
タイ、カンボジア、インドはダメね。
あのへんは偏見を承知で書くが、アメリカに毒されている。

しかし、我輩さまの英語コンプレックスもかなり消えてきた。
いつだったかなあ。ラオスを旅したことがある。
いっとくけど、いま海外旅行は本当につまらなくなった。
だって、どこに行っても現地人も旅行者もスマホを手にしているわけだから。
スマホがあったらガイドブックなど不要なのだろう。
おれはガイドブック派で(ラオスの)ビエンチャンを夜ふらふらしていたら、
スマホ片手に道に迷った若い白人女性バックパッカーから道を聞かれた。
ガイドブックを見て道を教えてあげたが、なにかに勝ったって思ったね、そのとき。
英語なんて単語の羅列でいいわけよ。
英語を話そうなんて思わないで、相手に意味が伝わればいい。
身振り手振りでもコミュニケーションはできる。

東大卒の著名哲学者である中島さんは、
本書で受験英語にも意味があると主張している。
東大受験英語経験者だからはっきりいうけれど、あれは英語を話せるようにはならない。
しかし――。

「語学能力は、きわめて多岐にわたるものであって、
英語の受験問題が解けることはその一つの要素である。
受験英語を目のかたきにする英語屋さん(英語で飯を食っている人)がいるが、
それはまちがいである。
かなり難解な英語を読解できること、その最重要なポイントを指摘できること、
その要約を正確な日本語で書けること、
最も正統的な英語の表現を知っていることなどは、一般に重要な知的能力である。
つまり、こうした能力は英語の語学力というよりも、
もっと普遍的な言語能力や論理的思考能力であって、
受験英語は英語を通じてこういう普遍的能力を検査しているのである」(P162)


東大英語なんてかなり日本語に習熟したアメリカ人でも解けないもん。
去年、クビになったリネン工場の上司、コカ45歳のことを思い出す。
コカはものすごく偏差値の低い高校出身なことをあえて露悪的に話し、
しかし自分は仕事では優秀であるといういかにもな自慢話を何度も当方相手にした。
最後まで当方は職場でコカのいうことがよくわからなかった。
指示が毎日変わるし、屈折したコンプレックスがあるのだろう。
わたしを叱りつけて知的障害者軍団をほめあげて、そう書いたらわかるでしょう?
しかし、日本人的日本語レベルでコカが優秀だったのもまた事実なのである。
中島哲学博士は外国人留学生に本当の日本を教える授業というのをしていたらしい。

「参加者は一〇名前後。「上座・下座」から始まって、
「ホンネ・タテマエ」や「義理・人情」「恩」「甘え」「恥」「根回し」「先輩・後輩」
などの定型的な概念を使って日本社会の伝統的な人間関係を説明する。
そのほか、「コネ」「学閥」「談合」「村八分」……など」(P203)


こういうテクニックは受験予備校では教えてくれず、
実社会で「暗黙の了解(=言葉にできない真実=空気を読め!)」を学ぶしかない。
おまえはいくら早稲田を出ていようが、高卒のおれのほうが何倍も偉い。
一度も海外に出たことがないというコカは、
純粋日本人としてたしかにわたしより勝っていた。
それに最後の最後で口を割ったがコカは日蓮を大聖人とあがめる、
あの巨大宗教団体のメンバーであった。
創価学会は上で抜粋したような日本社会の伝統的な人間関係の結晶でしょう?
コカにはフィリピンパブに連れて行ってもらったから悪口を書いちゃいけないな。
巨体の高齢フィリピーナはおれの手を自分の股間に引き寄せて、
今度コカツさんと3Pをしましょうとか言ってきたが、気持が悪くて吐きそうになった。
まあ、フィリピン人女性も嫌いだな。
コカは英語を学んでいるとかで、フィリピンパブで英語の歌を上機嫌で歌っていた。
いい経験をさせてもらったと思うし、
学会員のコカは好きとか嫌いとか、そんな安易な二項対立で分類できる人ではない。

政治に希望することといったら、安楽死の合法化、施設の迅速な設計だなあ。
わたしは痛そうな自殺よりも安楽死をしたい。
自殺でまずって障害者とか最悪じゃん。安らかに今生を終えたい。
政治に望むことは、税金を払いたくない。払ってもいいが最小限にしてくれ。
人生に希望というものが加齢とともになくなってきた。
若い女の子にちやほやされたいとかもうないなあ。
だって、若い子って基本的にバカだから話してもつまらないじゃん。
メンヘラな女子なら少しはおもしろそうだが、依存されるとめんどうくさい。
いまわたしが望んでいることってあるのかなあ。
とりあえず感想をまだ書いていない本の感想を書く時間がほしい。
それからもう少し本を読みたい。あとは楽に死にたい。
女に夢中になってガツガツできたらどんなにいいことかと思うが、そういうのは運だから。
あれから17年経っても結論は死にたいかあ。師匠の原一男教授に申し訳が立たない。
くじに大当たりしたかったら、主催者にこの人は大当たりと言ってもらえばいいのである。
ある人を売り出したかったとしても、ハクがないと困る。
だから、新人賞やらなんたらを創設して、
この人は多くの自由競争で選ばれたイチバンなのだと言い張る。
バカを見るのは自由競争を信じた愚か者である。
当たりは主催者が決めるのだから、主催者に媚びを売るのがイチバーン。
自由競争だか正義だかを信じて、選挙に立候補する無名の新人とかバカだよなあ。
世の中はそういうものじゃないぜっていう。
たとえばシナリオ・センター三代目というだけで、
新井一樹副社長はどれだけおいしい思いをしているか。
上に媚びろ。世の中の仕組みを知れ。正義なんか忘れろ。
公明党=創価学会には多くの利権がある。なら、どこに投票したらいいのか?
正義なんてどこにもないぞ。あるのは利権だけだ。
世の中にはびっくりするほどおいしい人生と、どれだけがんばっても悲惨な人生がある。
選挙のあなたの一票でなにも変わりはしない。
新聞社のエリートや政治家先生があなた(やわたし)なんかを相手にすると思うか?
しかし、あそこは違うと信じている。
あそこは義理人情に厚いから、ほかの政党よりも恩恵をまわしてくれるだろう。
わたしは政治なんかどうでもいいが自分はたいせつなので選挙は公明党に入れる。
衆議院選挙をするんだって? ニュースを見ないからなにがなんだかわからない。
選挙なんてする必要ないじゃん。どれだけ税金がかかるのよ。
ちなみに選挙の期日前投票のチョー楽勝な仕事の日給は1万2千5百円よ。
ネットに情報が出た時点で、電話やメールの返信も、もどかしく、
直にその派遣会社に電話をかけたらすべて枠は事前に決まっているとのこと。
そのくせこの仕事の登録目的で何回も説明会を行なうのである。
わたしは切羽詰まって電話したのがよかったのか、
電話相手が直接の担当者ではなかったのがよかったのか、
もう枠がいっぱいいっぱい埋まっていることを知り、無駄な時間投資をせずに済んだ。
もう枠は決まっているのに募集だけはするなんて派遣会社ではいくらでもある。
近所のDNPの短期派遣(何度も経験済み)でも電話したら枠が埋まっていると言われ、
しかしネットに広告が出ていることを知り、電話したら即OKで、
久しぶりにあそこで働くのかと思っていたら、翌日にはお断りの電話が来る。
選挙なんかもそういうもんじゃないですか?
もう当選するやつは決まっているのにわざわざアリバイづくりのように選挙をするという。
どうせ当選しておいしい思いをするのは二世議員か芸能人という。
そもそも投票率が5割くらいで過半数の票を集めたからってそれがなんだ?
それが税金を思うがままに使う言い訳になるのか? 冗談じゃねえよ。ふざけんなって。
選挙も茶番なら選挙バイトもなにもかも茶番だろう?
自由競争みたいなふりをすんなって。
おれはこの国がどうなってもいいが、おれがおれがおれさまがいい思いをしたい。
だから毎回、政策も知らない公明党に入れている。
日本がどうなってもいいが、おれだけはおいしい思いをしたい。悪いか? 文句あっか?
笑っちゃおう。何回も電話をくださるSという派遣会社がある。
去年の話、彼はSの大宮支店のお偉いさんなのだが、若くていい人で、
しかしたいへんな迷惑をこうむった。
何度も約束をドタキャンされ、
派遣先企業との顔合わせまで行き着くのにどれだけ難渋したか。
といっても、時給1100円くらいの力仕事である。
で、何回も交通費を使わせておいて、顔合わせの結果、
今回はなかったことに、ってふざけんな。しかし、悪意はなかったと思う。
その後も派遣会社のSからはしばしば電話があり、
わたしは文章のプライドは高いが実務のプライドはないといって等しく、
当方なんかにお仕事をご紹介してくださるというSは
(ネットでは給料遅配とか悪い噂が飛び交っているが)嫌いではなかった。
なにか「今年いっぱい」でいいやと思っていた昨日、またSのお嬢さんから電話が。
わたしはいまだけだろうが、給料もなにもかもどうでもよくおもしろそうだったらやる。
当方の言葉の質を高めてくれる、
いうなれば文学的滋養のある仕事だったら時給いくらだってやってやる。
なぜならば自意識過剰な誇大妄想はわかっているが、
わたしの最終的な仕事は「書く」ことしかないと思い定めているからだ。
さっきまた派遣会社Sのべつのお嬢さんから電話があった。
リハビリ病院での調理の仕事だという。
自炊経験はあるが、職業的調理人経験はありませんと正直に白状したが、
それでも構わないし、最初は皿洗いや配膳から少しずつでいいとおっしゃってくださる。
時給も悪くないし、なんで自分にこんな好条件の仕事を振ってくれるのかわからない。
調理技術は学べばあとあといろいろ使えるが(自炊等)、
仕事をしながら習得できるのなら、これはおいしいだろう。
最初は2ヶ月契約でいいという。
リハビリ病院の料理なんてまずいのが当たり前だから、味にもとやかく言われまい。
去年、父が数ヶ月リハビリ病院に入院したが、
そこで働く人たちのいきいきとした好人物ぶりには降参するほかなかった。
「来年は来ない」とやけくそで今年いっぱい本を読んでやろうかと思っていたが、
臨機応変に方針を変更する。ありがとうございます、おねがいしますと。
そうしたら数分後に電話があり、重複でもう決まりましたと。
またもうSという派遣会社はおんなじことを何度も何度も。
今度は介護の仕事を紹介される。排泄や風呂介助がない介護職だと。
それってほかの介護の人から恨まれるんじゃないかと聞いたら、大丈夫とのこと。
早起きはめんどうくさいなあと思ったのか、瞬間的にお断りしてしまった。
振り回されることほど疲れることはない。
一瞬、本気でその仕事をやる気持になっていたわけだから。
今日はいろいろしたいことがあったが(精神科医の春日先生の本を読む/散歩)、
「運命の別れ道」みたいな微妙な瀬戸際感覚に疲弊して昼からウイスキーをロックで。
そうしたらピンポーン。
今日はあるクレカが来る日だったので、それかと思ったら、
おばさんの声で、とにかくドアを開けてくださいとのこと。
ドアを開けたら、にこにこしたおばさんがふたり。
「宗教ですか?」と聞いたら違うとのこと。
なんか日本の政治制度の演説を始める。
うぜえと思って、どこの政党に入れたらいいんですか? 公明党でしょう?
と聞いたら、イエスで公明党のチラシをくれた。
いいか、おれはいつも公明党に入れているからな、創価学会よ!
創価学会はさあ、もっと横の連携を強くしてくれよ。
公明党のチラシを配りに来るのなら美少女同伴にしろと何度言ったらわかる?
創価学会は縦は強いが横が弱いんじゃないか?
しっかりしろ。カツを入れたくなる。信心が足らねえんだよ。
ちなみに学会員がうちにドアピンポンで来たのはこれが生まれて初めてである。
つぎは美女か美少女で来いよ。
池田大作名誉会長だって女に釣られて、
ほいほい創価学会の会合に行ったことを忘れるな。
1968年~1969年に放送された全26回の
毎回30分の連続ドラマをジェイコムで一括視聴。
やっぱり切羽詰まるのがたいせつなときもあるのだろう。
もうジェイコムの録画機能が限界なのよ。
たくさん山田太一ドラマを録画していて見ないでためている。
もう録画できないって思ったら、
火事場の馬鹿力で13時間連続で朝から晩まで見ちゃうねえ。
録画していないから(再生して確かめられないから)集中力も桁違い。
久しぶりに本気になったような気がする。
まあ、13時間も連続して見(ら)れたのは、
この山田太一最初の連続ドラマがおもしろかったというのがいちばんの理由だろう。

放送されたのは昭和43~44年だからねえ。
家にこれまでなかった電話が引かれて、家族が喜ぶシーンがある。
えっ、昭和43年には電話が普及されていない中流家庭もけっこうあったの? って話。
いまは携帯電話さえ古くて、スマホ全盛の時代。
昭和51年生まれのわたしは携帯が壊れて、
またスマホではなくガラホを買ってしまったよ。
昭和43年には山田太一は34歳。
この初の連続ドラマで大成功したから脚本家として食っていけると算段を立てたらしい。
処女作にすべてが現われるというのは信仰に近いと思うし、
当時の時代風潮や、テレビ視聴者は庶民だからという関係もあるだろうが、
山田太一最初の連続ドラマを一括視聴して氏の人間観の根本に気づく。

「人間=さみしい、つまらない、むなしい」

これは平成になってからの山田太一ドラマにも共通する視点なので、
まさしく氏の基本としてある人間観であり、世界観なのだと思う。
世界ってちょっとでも考えるとむなしいもんだが、
そのむなしさをごまかすために学業や仕事に夢中になろうなろうとしているところがある。
むなしいから子孫の繁栄でむなしさをごまかそうとする。
さみしいが山田太一ドラマの基本音調で、
人はさみしいから恋愛して結婚して家族を作り、人に親切をするのだと思う。
「3人家族」でも「さみしい」「孤独」「ひとりぼっち」というセリフが頻出する。
むなしいやさみしいに比べてもっとも俗っぽいのはつまらないで、
人はつまらないから恋愛したり、人に意地悪(親切)したり、逢いに行ったりする。
人間って本当につまらない、さみしい、むなしい生き物だよねえ。
つまらないから人の噂話をして悪口を言い、どんな小さなグループでも政治が発生する。
つまらないから芸能人のゴシップを喜々として語り、自分も不倫したいなあと思う。
つまらないから恋愛のようなものにあこがれるが、
純粋におもしろい純愛はなかなかできず、
相手の収入、見栄え、職業、家柄などを計算して、
まあ、ちょっとでも脳みそがあればそんな卑しい自分にうすうす気づきむなしくなる。
ときに相手なんかだれでもよくなるくらい、さみしいと感じるときがある。
つまらないから恋愛(もどき)して、さみしいから家族(ごっこ)をして、
あんまりにも人生はむなしいから子どもでも作って、
自分は一生でなにか仕事をなしたと思い込もうとうする。
こういう人間たちの愚かにも美しく、そこにある喜びと悲しみにあふれた風景を、
34歳のころから山田太一はおもしろおかしく哀しく描き続けてきたのである。

むかしは電話やステレオくらいで大喜びできたのである。
いまのわたしはステレオもテレビもいらないし(パソコンでジェイコム視聴している)、
スマホを買える金くらいまださすがにあるけれど、
生活ぜんぶをネット世界に支配されるのがいやで、
わざわざガラホという名のガラケーを購入している。
会社で競争して出世するという夢もないし
(このドラマの竹脇無我のようにアフリカで商社マンとして大きな仕事をする!)、
栗原小巻のような若い美女と
純愛するという夢もないし(自分の卑小な外面的および内面的な現実を知っている!)、
政治にも宗教団体にも日本にも世界情勢にも熱い感情を抱くことができない。
もうすぐ衆議院選挙だが、わたしは政策も知らない公明党に入れるつもりだが、
おそらく創価学会は見返りを送ってくれるような人情をもう失っていることだろう。
人間はさみしい、つまらない、むなしいものだが、
いまは日本全体がさみしく、つまらなく、むなしいものになっている。
こういう自覚を昭和43年放送の山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」から強く感じる。
なんとかこの「さみしい、つまらない、むなしい」にあらがおうと、
カッカしたくていきいきしたくて、いろいろしていないわけではないのである。
携帯電話番号を公開したでしょう。
なんでも来い、なんでもやってやる、なんでも見てやろうの世界である。
年齢的経歴的に難しそうな仕事にも応募しているが、まあ落ちる。
ナンパしろとか言うけれど、いまナンパしたくなる女なんているか?
アイドルなんかみんなおなじ顔じゃないか? つまんねえよ、バカヤロウ!

録画できないのでメモを取りながら視聴した。メモの一部から。昭和43年から。
「世間てえのはそういうもんだ」
「おれは負けるのが大嫌いだ」
「そこは因果をふくめて」
「しおらしいの」
「いまはビジネスマンにとってどこまで伸びるか大事なときだ」
「人を愛したことのない人間は、他人の愛を軽蔑できるか?」
「本当に人を愛したことがあるか?」
「あなたと話をしてみたかった(ナンパ)」
「人間の生きがいってなんだろうな――」
「さみしすぎる。穴が開いたようなさみしさ」
「バカかどうかは、仕事ができるかどうか」
「人間の値打ちとはなにか?」
「仕事の能力」
「一生懸命に努力するかどうか」
「他人の気持にどこまでなれるか(思いやり)」
「(この煙草を吸い終わるまでは)親が死んでも立てない」
「こういうことは顔を合わせては聞けない(だから電話)」
「あの人とつきあっておけば損はないからな」
「ひとりっきりでこの先、なにかいいことがあるのか」
「人を好きになったことがないから、わからないんだ」
「競争が嫌いなんだ」
「そんなことで世界が渡れるか」
「がんばれ、がんばれ。負けてたまるか」
「自分で自分のすることがわからない」
「40間近で妻子を捨て蒸発したのは、人生がはっきりわかってしまったからだ。
 自分の一生が見えた。幸福で平凡な生活だ。そういう一生がいやになった。
 自分のために生きたかった。おかげで世界は広がった。
 しかし、孤独というバツを受けた。さみしかった。
 死んだあとの痕跡がほしい。そう思ったとき、家族の意味がわかった」
「人が心配しているのに、どうしてあんたはそうなの?」
「ひとりぼっちだった(休日の)母を思って申し訳なく思った」
「自分の孤独と正面から向き合うと言うことも重要ではないか?」
「ひとりがいいなんて仙人みたいなことを言っちゃって」
「優秀なビジネスマンは腹芸もできなくてはならない」
「ひとりがめんどくさくなっちゃった」
「親なんてつまらない」
「ひとりで死ぬことの孤独を考えたらぞっとした」
「家庭へ逃げ込めたらと思った」
「人間なんてさみしいもんですから、ひとりがふたりになったことは、おめでたい」
「人生というのはえてしてこういうもの」

19歳で浪人をしている出来の悪い青年が同窓生の薬屋の美少女を好きなのである。
むろんのこと、美少女は相手にしてくれない。
青年がクリスマスプレゼントに贈ったブローチなど、
当日中に返されるくらいひどい仕打ちを受けている。
浪人生はおなじく浪人をしている見栄えはよくないが気のいい少女と出逢う。
人としてどうだかという問題はあるが、
クリスマスプレゼントとして薬屋の美少女から突っ返されたブローチを、
おなじ浪人をしている少女に贈る。たいへん喜んでくれた。
それがきっかけでふたりの浪人男女の交際はスタートする。
出来の悪い19歳は運よく2流大学に合格する。
1流半(明治)くらいのレベルかもしれない。
すると高卒で薬屋の美少女がわざわざ「おめでとう」を言いに来るのである。
それに困っちゃって嬉しくて舞い上がるようなレベルの低い元浪人生である。
交際相手の見かけはさほどの少女は美少女に喧嘩腰に言い放つ。
「(男を)振ったほうにも礼儀があるのではないか?」
とてもいいシーンだった。
女がさ、「あたしのことを好きなんでしょう」
と男をもてあそぶような天然の悪魔性っていいよねえ。
それをガンとはね返す見てくれこそよくないが、
気のよい、そして気高い少女もまた美しい。

わたしは山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」を見た。
「さみしい、つまらない、むなしい」、しかしおもしろい人間たちを見た。
人間は「さみしい、つまらない、むなしい」から「どうしよう」と迷い、それがドラマになる。
「どうしよう」は「どうしようもない」のだが、
その「どうしようもないわたし」たちの喜びと悲しみを描けるのが、
50年近く業界で生き抜いてきた脚本家・山田太一の才能である。